アルバニア&コソヴォの夏休み  1999年8月3日〜9月2日

[これは井浦伊知郎の視点による記録です。日本側の人物については、姓または名の頭文字のみ示します。正確を期しましたが、記憶違いや誤解があるかも知れません。その場合、全ての文責は私個人にあります。

 アルバニアに詳しくない方にも読んでいただける様に配慮しましたが、御不明の点はお問い合わせ下さい。なお、日本で慣用となっている「コソヴォ」(アルバニア語名『コソヴァ』)を除いて、特に断らない限りコソヴォの地名はアルバニア語名です]

大阪ヴィーンアルバニアティラナ・グラムシ) 〜コソヴォプリズレンジャコヴァクルシャサマドラチ プリシュティナ1プリシュティナ2) +マケドニアアルバニアふたたびヴィーン大阪

アルバニア編のはじめ
コソヴォ(+マケドニア)編のはじめ

*まず「コソボ問題〜ユーゴ空爆」について知りたい方はこちら


8月3日(火)

 広島から高速バスで午前6時の大阪入り、天王寺駅から約50分で関西国際空港に到着。そこから11時発のオーストリア航空機に搭乗。機内では「アステリクスAsterix(ガリア人AsterixとオベリクスObelixがカエサルのローマやらクレオパトラのエジプトやらを相手に痛快無比の活躍を繰り広げるフランスのコミック。アニメ版もある。知名度だけで言えば『ヨーロッパのドラえもん』)」の実写版を観たりして過ごす。オベリクス役はジェラール・ドパルデューGérard Depardieuだ。

 約半日でヴィーンのシュヴェヒャート空港に到着。現地は同日の午後4時過ぎ。S-Bahn(都市間近距離鉄道。『エス・バーン』と読む)に乗って約40分で市中心部に入る。U-Bahn(地下鉄。『ウー・バーン』と読む)に乗り換えて移動し、広島から連絡しておいたホテル「Pension Dr.Geissler」(Postgasse 14, A1010 Wien, tel 43 1 533 28 03)で記帳。ここは、1997年アルバニアからの帰路に泊まって以来、ヴィーンでの常宿となっている。国際観光都市の中心部(地下鉄U1またはU4でSchwedenplatz下車・徒歩5分以内)でシングル1泊(朝食付)900シリングは良心的だと思う。


8月4日(水)

 ヴィーンでコソヴォの新聞雑誌を買ってから、午前10時25分のオーストリア航空機で出発。

 コソヴォ民主連盟機関紙で代表的日刊紙「リリンデャRilindja(『復興』または『再生』)」の西欧版に、アルバニア語版「スーパーマン」の話題が載っている。スーパーマンがコソヴォの子供達に地雷の怖さを教える内容のパンフレットで、UNICEF(UN Childeren's Fund)とWFP(World Food Programme)の支援でアメリカ政府から現地へ50万部が配布されたという。同じ記事がオーストリア紙(Neue Kronen Zeitung)にも載っている。

 正午過ぎにティラナTiranëのリナスRinas国際空港に着陸。滑走路に降り立つと、周囲の山々が迫って来る感じだ。そしてやはり暑い。体感温度は40度近いだろう。空軍施設も兼ねているので軍用機が多いのはいつものことだが、明らかにアルバニア軍所有とは思えない巨大な輸送機が幾つも翼を休めている。NATOを主力とするAFOR[=Albania+Forceの通称。コソヴォKosovëなら『KFOR』]の部隊だ。かの戦闘ヘリ「アパッチApache」もどこかにあるだろう。

 出迎えは特に頼まなかったので、タクシーに乗っていく。毎度の「お客争奪合戦」の後に決まった今回の運転手の名はセラミSelamiだった。

 1年振りのスカンデルベウ広場Sheshi Skënderbejは何か違う。よく見ると、広場の中心(かつてエンヴェル・ホヂャEnver Hoxhaの巨大像が立っていた場所)にひしめいていたキオスクやミニ遊園地が、跡形もない。広場の象徴、スカンデルベウGjergj Kastriot Skënderbeu[トルコ語でスカンデルベグSkanderbeg。オスマントルコの支配に抗したアルバニアの民族的英雄]の像の周囲も、以前よりすっきりしている(その数日後には、違法カフェが取り壊される瞬間も目撃した)。国立劇場やアルバニア銀行[『日本銀行』に相当する国営の中央銀行]の上には巨大な電光掲示板が載っている。

 「カヴァヤKavajë通り」へ入ると、真新しい映画館が出来ている。その名は「ミレニアムMillenium」(ランス・ヘンリクセンLance Henriksen思い出すのは僕だけか?)。アルバニアで初めて、国際基準に則って造られた映画館だ。昔この場所には労働党時代の「共和国映画館Kinema Republika」があったが、90年代に入ってから開店休業状態で、ここ数年は廃虚同然であった。ちなみにその時この「ミレニアム」で上映されていたのは「ミイラMumja」(The Mummy, Universal Pictures)[何の映画だろうと思ったら日本では『ハムナプトラ』だった。意訳するにも程がある。まるで『愛と青春の旅立ち』だ]。

 今回の滞在先も「ボティムペクス(Botimpeks, P.O.Box 140, Tirana, Albania)」社長エストレフ・ベガEstref Bega氏の家。エストレフは、「『ナイム・フラシャリNaim Frashëri』通り」のアパートにあるこの自宅を事務所として、アルバニア書籍の輸出販売・外国書籍の輸入販売を営んでいる。彼が労働党時代に出版物の海外向け販売公社で働いていた頃、労働党機関紙「ゼリ・イ・ポプリトZëri i Popullit(人民の声)」を購読していた私の存在に関心を抱き、90年代の経営独立後にカタログを送ってきたのがそもそもの始まり。1995年にフランクフルトの書籍市で直接会って以来、アルバニアに行く度「常宿」にさせて貰っている(というより、させられている)。

 その自宅に着いてベルを鳴らすと、出てきたのはエドリラ・アゴリEdlira Agolli。アルバニアの一流文芸出版社「チャベイMCM Cabej」にいた筈だが、今は専らエストレフの事務所で秘書役を勤めているらしい。ちなみに彼女の父は作家ドリテロ・アゴリDritëro Agolliである。エストレフは外回り中で留守らしい。

 「電話してくれれば、運転手が迎えに行ったのに」と言う。どうやらエストレフは外回り用に運転手を雇った様だ。してみると、取り敢えず仕事はうまく行っているのだろう。間もなく、エストレフが運転手のアギムAgimを連れて戻って来た。

 更にしばらくすると、見たこともない青年が入って来て、我が家の様に振舞い出した。誰?と思ったらコソヴォから避難して来たペトリトPetritだという。16歳で、遠い親戚であるエストレフの所で3ヶ月ばかり世話になっているという。1998年の夏にも、エストレフを頼ってコソヴォの青年がやって来たことがあった。兄がUÇK(コソヴォ解放軍=Ushtria Çlirimtare e Kosovës 『ウーチェーカー』と発音する)に参加している、どうしているだろうと涙ながらに話し込まれたものだ。一方このペトリトはティラナの暮らしにも慣れた様で、至極元気であるが、ちょうど明日にはコソヴォへ帰るという。ペトリトが使っていた部屋に、私が泊まることになる。この部屋にはエストレフの息子エドヴィンEdvin(通称エディEdi)がいたのだが、目下ドイツ留学中である。

 そのペトリトも交えて昼食。主菜の前後に、胡瓜にトマトに葡萄や桃などがどっさり出る。夏は特に地元産のみずみずしい青野菜が多い。葡萄や桃や林檎は皮ごと食う(桃の皮もですよ、あの『うぶ毛』の生えたごわごわした奴を!)のだが、エストレフ・ベガ一家の場合、なぜか胡瓜はきれいに皮をむいてしまうのが不思議だ。食前にラキraki(蒸留酒)を飲んで食欲を増す。

 主菜は例によって、アルバニア独特の堅くてきめの粗いパンに、野菜(トマトやオクラ等)のスープ。圧力鍋を使ったエストレフの手作りだ。以前はよく羊や豚を焼いてもりもり食っていたが、近頃は糖尿病の気味があるので肉類は控えているという(実際、その後も肉料理は余り食卓に上らなかった)。しかしエストレフの喰いっぷりを見ていると、肉があろうがなかろうがそもそも喰い過ぎ(調理中からちょこちょこつまみ食いしている)で、カロリー過多なのがいけないのではないかと思われる。かく言う私も、日本ではそろそろそういうことを気にしなければいけない年齢なのだが、エストレフは意に介していないらしく「イウラは私より若いんだからもっと食べなさい」と盛んに勧める。腹一杯食べるのが最高の幸せ、と信じて疑わないところは、私の父の年代と変わらない。しかも食後に粉薬やら錠剤やらをがばがば飲み、更に民間療法か、正体不明の豆を少量の水で煮て、煮汁ごと飲んでいる(しかも時々うっかり焦げつかせて捨てている)。

 ところで、今年のエストレフ宅は何かが違う。何と言っても、居間にクーラーが取り付けられている[アルバニアではair-conditioningというが、普及率は日本で考えられる程ではない]。しかも水道と電気は使い放題[1998年夏は水力発電所の火災事故で、1〜2日にわたる断水、1日最低1時間の停電が滞在中ずっと続いた]。ついでに、12日にはエストレフの故郷グラムシGramshiで親戚の結婚式が行われるという。私はアルバニア人の結婚式に出たことがないので、これは良い機会である。離婚したエストレフの妻と娘が来る予定もあるらしい。

 ペトリトのアルバニア語は標準語とさほど違わない。ただ「ありがとう」を意味する「ファレミンデリトFaleminderit」が「ファレミネリ」、「どうぞ」にあたる「ウルヅロニUrdhëroni」が「ウーノーニ」に聞こえる。今回の滞在でコソヴォへ行く予定はない、と思うのだが…

 エストレフに、たまっていた本代のツケをドル小切手で(但し、若干の注文分が未払いだった)、それに広島平和記念資料館の公式図録「ヒロシマを世界に」("The Spirit of Hiroshima" 日本語/英語 同資料館内で販売)をお土産として手渡す。


8月5日(木)

 ティラナでの私の生活はとても規則正しい。午前8時までに起床。9時前後に朝食を摂ってから外出。午前中は市内を歩いて本や新聞を探す。人と会う等、特に予定がなければ午後2時までに帰宅。昼食、約2時間の昼寝。午後6時頃からエストレフと買い物がてら散歩に出かけ、8時頃に帰宅して夕食。午後11時には部屋に入り、午前零時までには就寝。大体こんな調子である[よって、これらの事項は以後必ずしも詳しく書きません]。また午後8時と午後11時のニュース、ついでに午後6時半から放送されるコソヴォ関連専門のニュースは、欠かさず見ることにしている[よって、これらの事項も以後いちいち書くとは限りません]。

 ペトリトは早朝6時にコソヴォへ向けて出発した。バスに乗っていくというから、陸路の交通は一応確保されているらしい。

 今回の滞在は月末までだから、地元の学者に会ったりするには充分な時間がある。差し当たりこれから数日間は新聞・雑誌や本を探して過ごす。アルバニア銀行の近くの書店は品揃えも多く、店主はエストレフや私とも顔馴染みで、何かとやり易い。

 ホテル・ティラナHotel Tirana Internationalの前で絵葉書を眺めていたら声をかけられた。九州大学の工学部に留学しているアルバニア人ファトス・ケルチクFatos Kërçikuの兄で、医師のアルベン・ケルチクArben Kërçikuである。優秀な医師で、奨学金を得て日本へ研修に来たこともある。今度「コーヒーでも飲もう(pi kafe;と言っても本当にコーヒーを飲むとは限らず『ちょっと会って話す』意味全般を含む)」と約束する。

 ところで昨日から今日にかけて、アルバニアのメディアは騒然としてい る。アルバニア北部、トロポヤTropojë県の主要都市バイラム・ツリBajram Curri[アルバニアは36の県rrethに行政区分され、各県には県庁所在地にあたる主要都市が一つずつある]で4日朝、出勤しようとした地元警察官の車が遠隔操作の爆弾によって爆破され、家族を含む4人が死亡、5人が負傷した(その後『20人』との報道も)。5日未明にはバイラム・ツリ市中心部が武装勢力に一時占拠され、発砲もあったと報じられている。内務省はトロポヤを含む北部一帯に非常事態令を出し、特殊部隊(RENEA)を派遣して事態を収拾しようとしている。北部ではここ3カ月来、地元有力者や警察(!)の一部が武装勢力を組織して事実上の権力機関と化しており、中央政府関係者を狙ったテロ事件が頻発していたが、今回はその中でもかなり深刻な事件である。最大野党である民主党との関係も取り沙汰されている(元大統領のサリ・ベリシャSali Berisha党首は北部出身)が、党派によって言い分が随分違うから何とも言えない。

 なお「北部」といってもトロポヤはモンテネグロに近いアルバニア最北端の地域で、コソヴォへ通じるクカスKukës等、北東部には特に問題がない様だ。


8月6日(金)

 独立系紙「シェクリShekulli(『世紀』)」「コハ・ヨネKoha Jonë(『我らの時代』)」によればトロポヤでは内務省特殊部隊による「懲罰作戦」が始まっている様だが、一方この日の民主党機関紙「リリンデャ・デモクラティケRilindja Demokratike(『民主復興』とか『民主再生』)」では「特殊部隊市内に入れず」「トロポヤの一味は国のテロリスト集団だ」とまるで違う解釈をしている。

 午前中、エストレフの友人で言語学・文学研究所Instituti i Gjuhësisë dhe e Letërsisëに勤めるヂェラリXhelaliが来る。彼がエストレフらと共にマケドニアの首都スコピエСкопије (アルバニア語でシュクプShkup)で過ごした時の写真を見せて貰う。

 封筒を買おうと思い、アルバニア銀行近くの本屋(アルバニアでは、本屋が文房具店を兼ねている場合が多い)に行くと、昨日は気付かなかったが「セーラームーン」の絵本が売られていた。アルバニアでもイタリアのTV放映で知られてはいるが、店主に「これが日本の作品だってこと、知ってる?」と訊くと「もちろん」と言う。日本人はいないのに、日本製品はあふれている。

 午後、エストレフと外出。市中心部まではアギムの車に乗せて貰えるので有難い。「カヴァヤ通り」に出たところで、エストレフは血糖値検査の結果を取りに第9診療所(Poliklinika nr.9)へ入る。数分後に暗い表情で出て来て「食前は良いが食後は悪い」と言うが、あの喰いっぷりならそりゃ当然だ。「『ミュスリュム・シュリMyslym Shyri』通り」を隔てて国防省向かいのカフェでエストレフの知人達と会う。ティラナ大図書館長のトニン・シュティエフニTonin Shtjefni、フリーの新聞記者というバイラムBajram、そして(後で聞いて驚いたが)人民議会副報道官のスカンデリSkënderi。労働党時代から書籍関連の仕事に従事してきたエストレフ・ベガは、教育・出版・報道方面の人脈が実に豊富だ。トニンが図書館の連絡先を教えてくれたので、今回の滞在中に一度見学させて貰おう。

 夕方のTVでドキュメンタリー番組が放送されていた。アルバニア山岳地帯の農村で起きた殺人事件と、それに対する伝統的「復讐」を行おうとする者達、それを回避しようとする村人達の姿を描いている(『バルカン半島には復讐の習慣が残っている』と言われてしばしば誤解されがちだが、実際には村の実力者達が復讐の対象となった人物を保護し、地元警察の了解を得て仲裁に動き、和解へ持って行く場合が多い)。アルバニア語で喋っているのにアルバニア語の吹き替えが入っている。妙だと思っていたら、番組名が「Auge um Auge (Wird Jak seinen Vater töten) 」とドイツ語名だった。「目には目を(ヤクは自分の父を殺すのか)」という意味だ。こういう番組はドイツで見たことがある。元々ドイツ語に吹き替えられてドイツ語圏で放送されたものに、もう一度アルバニア語をかぶせたのだろう。

 TVSH(アルバニア国営TV)の夜8時のニュースの後、いつもなら映画の時間だが、今夜はスパルタク・ポチSpartak Poçi内務相が出演している。トロポヤで発生している一連の事件について、内務省が事態を把握していることを強調し、市民に協力を呼びかけている。エストレフによると、このポチ内相は彼と共に活動家時代を送ったという。つまり労働党時代の「同志shok」ということだ。昨年滞在した時、労働青年同盟(Bashkim i Rinisë së Punës të Shqipërisë=BRPSH;アルバニア労働党傘下の青年組織。今はない、たぶん)に属していた頃のエストレフ青年がエンヴェル・ホヂャEnver Hoxhaと一緒に写っている写真を見せて貰ったことがある。赤いマフラーを首に巻き、誇らし気に立っている。エストレフの世代にとってこの時代は、結構古き善き「青春時代」でもあるのだ。

 ところで今日は広島の原爆祈念日だが、午後のTVニュースでは取り上げられていなかった。CNNかユーロニュースEuronews(ヨーロッパ全域で24時間ニュースを見ることができる、英語による衛星チャンネル)で伝えられたのかも知れない。エストレフにそのことを話すとおもむろに笑顔で握手を求められた。労働党時代のアルバニアでは「野蛮なアメリカ帝国主義の残虐行為」に反対する運動として「ヒロシマとの連帯」が盛んに呼び掛けられていたから、その名残りだろう。

 「TVアルベリア(TVA)」で古いボスニア映画を見てから寝る。


8月7日(土)

 エストレフ宅から最も近い新聞売り場は、「カヴァヤ通り」の教科書会社前にある。そこで新聞を買ったら、店番の男性が「日本か?」と話しかけてきた。どうやら身なりで見当がついたらしい。

 「シェクリ」では、海外面の約半分を費やして「ヒロシマ」の記事が書かれている。広島ドームに舞う鳩、手を合わせて祈る半袖姿の親子連れの写真が割合大きく掲載され、「14万人が焼死、21万人が負傷し、また後に死亡した。昨日の祈念式典では新たに5071人の死没者リストが加えられ、総数は212116人になった」と被害の実数や式典の模様が詳しく解説されている他、ニューメキシコ州アルバカーキAlbuquerqueのアメリカ原子力博物館で「ファットマン」と「リトルボーイ」のペンダントが販売されていることへの抗議運動についても伝えている。

 同じ日の独立系紙「アルバニアAlbania」(どちらかというと民主党寄り)には、1997年の「ネズミ講」事件に関わった「シルヴァSilva」社社長が逃亡(?)先のドイツからインタヴューに答えている。「15年後にはオーストリアの口座から金が入る」なんぞと好き勝手なことを言っているが、「私はアルディアン・クロスィArdian Klosiとドイツの獄中にいた」という見出しにはギクリとする。アルディアン・クロスィは文芸批評家で、私がミュンヘン大学にいた時には講師としてアルバニア語方言の演習をやっていた。1991年の政治的変化の時期にもエディ・ラマ[現文化相。なおエストレフ&アギムのどうでもいい情報によると、昔フィギュアスケート選手だったらしい…本当にどうでもいい話だ]若手文化人らと共に活躍し、昨年までTVSHの局長も務めていた人物だ。それが何で…?と思ってよく読んでみたら、ドイツ在住資格を取るための書類が不足していたので確認の為に署内に一日留め置かれた、というだけの話だった。これじゃまるでスポーツ新聞である。

 午前11時頃に国際電話がかかってきた。日本・アルバニア協会の事務局長をされているK氏からだ。コソヴォへ行く予定はないか?と言う。というのも実は今、K氏の自宅にコソヴォから来たアルバニア人が滞在しているのだ。

 コソヴォ南西部のプリズレンPrizren市に住んでいたネズィル・シニクNezir Shinik少年(3歳)は、今年初め、網膜芽腫(つまり眼の癌)の為にベオグラードで右眼を摘出した。しかし左眼にも腫瘍が転移している可能性があり、父アブデュラハマンAbryrrahman Shinikと母ヒュルメテHyrmete Shinikは、セルビア軍・警察の嫌がらせじみた検問をくぐり抜け、ベオグラードやプリシュティナまで治療に通っていた。が、間もなくNATOの空爆が開始されて通院も出来なくなった。6月に空爆は終結したが、ますますコソヴォから出られなくなってしまった。
(アルバニア人を救う為に空爆に踏み切った、とNATO陣営は常々主張するが、その空爆によって生活の流れを断ち切られ困窮に陥ったアルバニア人が多かったのも事実である。それでも、アルバニア人のほぼ全員が空爆を支持するのだが…)

 空爆終結直後、岡山に本部を置くNGO「AMDA(アジア医師連絡協議会)」の日本人医師団がコソヴォ入りした。同行していた英語通訳アギム・グリAgim Guri氏(エストレフの運転手のアギムとは別人)がたまたまシニク一家の近所で顔見知りだったことから話が進み、6月19日にAMDAのU医師がネズィルを診察。早急に日本で治療すべきだという結論になった。更に5月からアルバニア国内でAMDAやアギム通訳(この時は彼も難民の一人として生活していた)と共に医療活動に加わっていたK氏らが受け入れ人となって、7月7日、一家3人を日本へ迎え入れたのである。

 空爆開始以後、コソヴォへの国際電話及び郵便は途絶状態。せっかくコソヴォの近くまで来ているのだから、ネズィル親子の様子を伝えに、一度プリズレンへ行ってみてはどうか?というわけだ。

 現地にはAMDAの事務所があるし、3月の空爆開始直前に書いた拙文「コソボ問題って何?」がきっかけで、向こうも私のことをよく知っているらしい。K氏によると「スコピエからバスが出ている」そうだが、旅行会社で確認してみないと何とも言えない(第一、スコピエから先はどうするんだ?)。ペトリトに、帰り道のことを詳しく聞いておくんだった。

 或いは友人に訊く方が良いかも知れない。大蔵省予算課長のジェルジ・テネチェヂウGjergj Teneqexhiuか、昔ティラナのDHLに勤めていて今は個人実業家のニコ・フラシャリNiko Frashëriか、詩人で地震学者のベティム・ムチョBetim Muçoに相談してみよう(ちなみに以上3名とも訪日経験あり、しかも最初の2名は日本語可)。K氏に続き、アブデュラハマンも電話口にやって来て「イウラ、コソヴォへはいつ行くんだい?」ともう決まったことの様に訊いてくるから参った。今年の夏休みも、平穏無事には済みそうにない。

 今日はエストレフの娘が空港に到着するというので、アギムとエストレフは昼前から出かけているし、エドリラは何時もの様に仕事部屋にこもっているしで、私は午前中ちょっとだけ外出して帰宅すると、自分でパスタを茹でて昼食を済ませる。アルバニアの台所はガスコンロでなく電熱盤だからやりにくい。

 昼食は済ませたが、空港から一同がなかなか戻って来ない。イタリアのTVで日本のアニメを観て3時頃まで時間を潰す。今回の滞在中に見かけた限りで挙げると「魔法使いサリー("Sally la Maga" 原作が"Mitsuteru Yokohama"って『横山光輝』のことか?)」「紅三四郎(ふ、古い、古過ぎる!いくら何でも)」「みつばちマーヤ」「ルパン三世」「銀河鉄道999」「超人戦隊バラタック」等々…

 アルバニアの民放TV局の一「TVクラン TV Klan」(同名雑誌の系列局)では「アルバニアでの居住を求めるコソヴォの皆様へ…身分証明書の発行は無料です…お問い合わせは政府かUNHCR(国連難民高等弁務官事務局)まで」との告知が定期的に流れている。「UNHCR」は、アルバニア語読みだと「ウナツァラ」と聞こえる。ここの定時ニュースのキャスター[アルバニア語では英語"speaker"に由来する『スピケリャspikerja』と呼ぶ]ゲンタ・ポパGenta Popaはとても美人だ。

 時刻は午後4時近く。それでも戻って来そうにないので、昼寝しようと部屋に入りかけたところへエストレフが戻って来た。娘のエリダ・ベガErida Bega、妻ナタシャNatasha Bega(通称タシャTasha)もいる。エリダは1976年生まれ、スイス在住で心理学を学んでいる。4年前に「願い…Dëshirë...」という詩集を出しているが、その本の写真よりもずっと美人である。娘と共にやって来たナタシャは今回、国民歴史博物館Muzeu Historik Kombëtar近くのギャラリーで絵の展覧会を開き、しかも間もなく詩集を出版する予定だという。出版元は他でもない「ボティムペクス」社だが、エストレフはあんまり関心なさそうだ。どうも[私の見るところ]この元夫はかなりのインテリなのだが、妻の芸術活動にはいまいち理解がないらしい。(そのくせ後日、この元妻の詩集を1000部余り印刷してしまい、在庫処理にヒーヒー言っていた)

 遅い昼食をする家族3人と共に、TVでアルバニア映画「白い道Rrugë të bardha」(1974年)を観る。自らの命を賭けて雪山に電話線を通そうとした通信労働者ピェタル・デダPjetër Llesh Dedaの実話が元になっている。デダは吹雪の中で遭難状態となり、繋いだばかりの電話線で麓の婚約者と話して気力を保とうとするが、意識は徐々に遠のいていく。婚礼の幻を見るデダ。救助隊が現場に到着した時、デダは電柱に登ったままの姿勢で息耐えていた…という結末が印象的であった。今のアルバニアに、こういう映画はもう作れない。

 コソヴォ北部のミトロヴィツァMitrovicëで、KFORのフランス軍が地元のアルバニア人と衝突したらしい。明日の新聞で詳細を確かめねば。


8月8日(日)

 土曜日午後から日曜日にかけてのニュースで、ミトロヴィツァの出来事が報じられている。今日の「シェクリ」がロイター電として伝えているところによれば、7日午前10時頃、ミトロヴィツァを南北に分かつイベルIbër川の橋をセルビア人住民が封鎖。これを突破しようとしたアルバニア人1000人余りとフランス兵が衝突、多数の負傷者、逮捕者を出した。イベル川の北側では住居の約3割をセルビア人住民が占めているのだが、これは附近のトレプチャTrepçë鉱山で働くセルビア人労働者の為にアルバニア人入居者を追い出して得たものだという。つまりアルバニア人に言わせれば、自分達の家へ帰ろうとしたのに邪魔をされた、ということだ。フランス兵がアルバニア人の通過を徹底的に阻止した為、現地アルバニア人達の対仏感情は悪化している。

 朝「クランTV」でアルバニアのアニメーションを見る。労働党時代のもので、作風は素朴だがユニークだ。ビデオは売られていないのだろうか。

 エリダとナタシャはどこかへ出かけている。エストレフが「10日に海へ行こう」と言う。ティラナで「海へ行く」(ところでアルバニア語では『海detへ行く』でなく『浜辺plazhへ行く』と言うのが正しい)と言えばドゥラスDurrësのことだ。今日は日曜日だから、今日でもいいのに…と思うが、まぁいろいろあるのだろう。体感温度は優に摂氏40度を越え、自然発火による山火事が頻発している。皆が泳ぎたくなる気持ちも当然だ。そう言えば同じ「シェクリ」に、ティラナからドゥラスへ出かけて一日遊ぶ場合の相場が紹介してある。

    往復のマイクロバス運賃 100レク×2

  パラソル 200レク

  飲み物(2本) 160レク

  昼食 1200レク

  西瓜 100レク

  アイスクリーム 150レク

  ボート 250レク

  合計 2260レク(パラソルとボートはたぶん貸出)

   1991年以降のアルバニアの物価について、私は10倍すれば日本のそれに近似すると考えてきたが、近頃はむしろ5倍すれば充分ではないかと感じている。

 午後、エストレフとスカンデルベウ広場へ散歩。広場北側の国民歴史博物館の前に立って眺めると、左(東)から右(西)へホテル・ティラナHotel Tirana〜国立劇場〜「エトヘム・ベイEt'hem Bejのモスク」〜スカンデルベウの銅像〜アルバニア銀行、とティラナの主要建造物が一望に見渡せる…はずだったのだが、その「エトヘム・ベイのモスク」の背後に巨大なビルが建築されている為、景観が台無しである。「市当局はああいうものを許可しちゃいけない」とエストレフは批判する。

 帰宅後、夜のニュースによれば、台湾のヴィンセント・シウVincent Shiu首相(Siewとも。蕭万長のことか?)がコソヴォを訪問し、アルバニア人暫定政府の指導者らと会談し、経済協力協定に調印したという。
「コソヴォは台湾と国交を結ぶつもりだろうか?」
「それはあり得ない。そんなことをしたら中国との関係を断つことになる」 アルバニア人にとって中華人民共和国は無視できない経済・軍事大国なのだ(ヨーロッパで台湾と国交があるのはマケドニアだけ)。

 夕食後TVで映画を観ていると、画面下に「11時のニュースで、数分前にティラナで発生した極めて重大な事件をお伝えします」との字幕が繰り返し流れ始めた。エストレフは「殺人か…事故か…何だろう?」とつぶやきながら誰かに電話して「TV見たかい?何が起きたかそっちで分からないか?」と尋ねているが、結構落ち着いている。さすがに、1990年〜1991年の反政府暴動、1997年前半の「ネズミ講」騒動、1998年の「9月14日事件」[民主党のアゼム・ハイダリAzem Hajdari議員が暗殺され、その葬儀をきっかけにサリ・ベリシャを含む民主党強行派が政府機関を襲撃した事件。社会党政府では騒動の責任を取ってファトス・ナノ首相が辞任、当時30歳のパンデリ・マイコが後任に就いた]等、幾多の混乱を切り抜け生き抜いてきただけのことはある。私も肚を括って待つことにした。

 11時少し前に映画が終わり、その日最後のニュースが始まった。「ドゥラス通り」のユーゴスラヴィア大使館前で銃の乱射事件が起こり、死者が出たという。当然、政治的なテロかと思ったのだが、よく聞いてみると、発砲されたのは大使館ではなく、通りを隔てて向かいの歩道にあるカフェで、死傷者の顔ぶれも大使館とはまるで無関係な一般客や通行人らしい。毎日の様に通っている場所だし、それはそれで穏やかでないのだが、「9月14日事件」の様な事態には発展しそうもないと判断し、取り敢えず安心して寝る。


8月9日(月)

 月曜日は新聞休刊日。唯一発行している「シェクリ」が昨晩の事件を詳報している。正確な現場は大使館向かいにあるアイスクリーム屋の前だという。通りすがりにいつも見かける店だ。22歳の男性が射殺され、通行人3名が重傷を負ったという。同紙1面の大見出しはミトロヴィツァの件である。昨日も150人のアルバニア人が橋を通過しようとしてフランス兵に阻止され、1名が逮捕された。また、現地フランス軍を統括するベルトラン・ボノBertrand Bonoによれば、未明にはアルバニア人居住区からセルビア人居住区へ向けて爆弾が投げ込まれたが、被害はなかった。国連からコソヴォへ派遣されているベルナール・クシュネルBernard Kouchner特使(名前で一目瞭然だがフランス人)が調停に乗り出したが、和解の目処は立っていない。

 さて新聞休刊日の今日は、ボティムペクスで海外向けの新聞・雑誌の発送日になっている。私が使っている部屋も、この日だけは新聞の梱包・発送作業に利用される。

 新聞は新聞配達人korierが運んで来る。日本の様な新聞宅配システムはアルバニアにないが、それでも配達人がいることはいるのだ。私が玄関へ受け取りに出ることも多いのだが、ひとの顔を見る度に合掌されるのには閉口する。この様に、日本の生活習慣とタイやカンボヂヤのそれとの区別がついていない人はまだ多い。

 さてこの日もいつもの部屋を追い出され、そこへエリダの友達がやって来たりして、居場所がなくなりかける。居間に逃げ込んで朝のCNNニュースにチャンネルを合わせると「Special Report... Yeltzin fired Stepashin...」とテロップが出ている。ステパシン…セルゲイ・ステパシンってロシアの首相じゃないか。大統領が解任って…また?この間プリマコフ解任したばかりだろう。アギムと「イェリツィンはどうかしている」と語る。

 ボティムペクスのパソコンを通じて、K氏からE-mailが届く。そのK氏の依頼で、日本から持って来た自動車のカタログを中央郵便局からドゥラスのメト・デルヴィシMet Dervishi氏[1997年の滞在記を参照のこと]宛へ発送。「25レクです」というので30レク出し、「そうだ昨年の5レク紙幣がある」と気付いて出そうとしたら「それはもう使えません」と言われ、お釣りの代わりに封筒を1枚貰う。そう言えば、5レクで買えるものなんて既にないのだ。ただし5レク硬貨はある。

 市中心部への行き来には、「『スカンデルベウ』通り」の北端にある中国大使館の裏手を通って行くのが近道だが、そこを歩いていると、自転車に乗った少年に「日本人!」と呼びかけられた。そう言えば前日の8日に「中国人!」と言われたので例によって「いや日本人」と答えた相手だ。こういう積み重ねが実を結んで、初対面でも「日本人ですね」と話しかけられる様に…は、なかなかならないだろうな。ついでにエストレフの「おつかい」でミネラルウォータを買う。アルバニアでミネラルウォータと言えばこれまでは「グリナGlina」だったが、今年は「テペレナTepelenë」というライヴァル商品が出廻っている。どちらも1本50レクだ。

 午後、エリダやナタシャらと「TVクラン」でアルバニア映画「正面玄関の裏でPas fasadës」を観る。ナタシャは夜になると自分の家に帰るが、食事は用意していってくれる。エストレフよりちょっと手が込んでいる。何と言っても、エストレフにケーキは焼けない。


8月10日(火)

 ステパシンの後任はKGB出身のヴラヂミル・プーチンになる模様だ。

 日曜夜の事件は、どうやら麻薬の売人同士の抗争らしい。巻き添えで重傷を負った人の中に7歳のアンヂェロAnxhelo少年がいる。ギリシア生まれの彼は、親戚を頼りに生まれて初めて訪ねたアルバニアでとんだ災難に遭ってしまった。

 明日はヨーロッパから中央アジアにかけて日蝕eklipsが観測できるそうだ。時間は午前11時半から午後2時半までの間。巷では、カメラのフィルムを普通の眼鏡に張り付けただけの安上がりな準備をする人達が目立ち、露店でも「日蝕を見るメガネ」が売られているが、一方TVでは「普通のサングラスで見るのはやめて下さい」「インチキ商品に御注意を」等々、告知に余念がない。おそらく日本と違うのは、日蝕が何やら不吉な出来事の前兆であると強く信じられていることで、TVのリポーター達は街角で「日蝕は怖くないですか?」と訊いて廻っている(訊いて廻ること自体が既に変である)。勿論、そう訊かれても「全然!」と答える人が多いのだが、年齢を問わず時たま「何だか嫌ね」とか「明日は早めに店じまいするよ」などと言う人がいるのは興味深い。ほんの10年前まで宗教を禁止し「迷信とは無縁」と胸を張っていた国の住民の言葉とは思えない。

 一昨日「海へ行こう」と行っていたのに、結局仕事が忙しいということで予定は延期。私は午前中外出。帰ってきたところでアパートの入口にある雑貨店の主人に会い、その知人2人も交えて「『ナイム・フラシャリ』通り」のカフェで2時間ばかり過ごす。日本語のこと(特に日本語で用いられる漢字の数を言うと、大いにウケる)、日本の文化、結婚式、給料(アルバニア人は必ずこの額を尋ねてきますが、悪意は全くないので嫌な顔をせず答えてあげましょう。なるべくドルで)、「日本人は蛇を食うのか」問題[この偏見はなぜか世界各地に伝わっている。たまたまそういう場面を含んだ記録映画があったという説もあるが、定かでない]、天皇の位置付けと「日本の国家元首は誰か」という憲法解釈の問題、等々。

 エストレフが何やら大忙しらしく、昼食まで時間があるので、居間でエリダと話す。お互いの住んでいる町の話になったので、到着初日に出した「ヒロシマを世界に」を見せて説明する。ちょうど広島の全景が載っているので話し易い。しかしエリダが興味を示したのは、やはり原爆被害の写真であった。「アメリカはどうして日本の被爆者に補償をしなかったの?日本はそのアメリカとどうして仲良くできるの?」と訊かれた。さてあなたならどう答える?

 昼食、昼寝の後でエリダは外出。そう言えば彼女は毎晩どこかへ行っている。帰りはいつも「午前様」だ。エストレフも本の発送でアギムと共に出かけてしまい、仕事部屋で本を眺めていたら机の上に息子エドヴィンの詩の原稿がある。どうやら出版用のものらしい。版元は「ボティムペクス」‥ってここかい?!娘、元妻に続いて息子の本まで出してやるとは物凄い親バカだ(ちなみに後日、家族ではないエドリラの詩集原稿も見つけた)。

 夕方のCNNニュースではまたも「Special Report」(いや『Special Issue』だったかも)で「India downs Pakistani plane」、つまりインドがパキスタン海軍機を撃墜したニュースを断続的に伝えている。続いて「Wiretap-law Japan」のテロップ、画面では日本人が狭い部屋で入り乱れ、保坂展人氏と福島瑞穂氏が怒っている。「通信傍受法」が特別委員会で可決したのだ。しかしこの伝えられ方ではまるで所謂「台湾立法院の乱闘」だ。こういう特定の国の内政問題は、時系列に沿って前後関係を説明しなければ、正確に理解され得ない。海外で日本関連のニュースを見せられていると、そういう不備がよく見える。

  プリズレン行きの件を訊いてみようと、ニコ・フラシャリに電話する。
「さぁ…スコピエからバスが出ているのは知ってるけど、そこから先はバスか飛行機が出てるんじゃないかな?僕もよく知らないよ」とK氏の情報と大した違いもなく、いまいち役に立たない。続いてベティムの家に電話すると、明日午後に休暇先から戻って来るとのこと。

 間もなくエストレフ帰宅。夕食を済ませてからTVを観る。TVSHの最終ニュースで東京湾に浮かぶ「海上空港」の試作品が登場したが「何で海の上に造るの?」と訊かれて困った。「土地が高いからでしょ」と答えておいたが、正解だかどうだか。


8月11日(水)

 アギムにプリズレン行きの件を相談すると、「[郊外にある]体育館の近くからクカスまでのバスが出ている」「クカスからは、NATOの車輌に乗ることになるんじゃないかな」と言う。しかし戦闘が既に終わり、避難民も毎日の様に帰郷しているのに、バスがクカス止まりというのはちょっとおかしい。どうも情報が古い様なので、やっぱり旅行会社に行って訊いてみよう。

 ジェルジのところへ行こうと電話をかけたが話し中。別の番号にかけたら「アルバニア・テレコムです。あなたがおかけになった電話番号は現在使われておりません」ときた。直接大蔵省へ行ってみることにして、途中までエストレフと共に外出。ヂェラリとカフェで会い(朝っぱらから水で薄めた牛乳みたいなものを飲まされ…いやご馳走になり少々『ウッ』となる)、すぐ近所にある言語学・文学研究所にちょっと立ち寄ってから「『殉国者』大通りBulevardi Dëshmorët e Kombit」へ出る。

 大通りを南へ進むとすぐ大蔵省だが、先ずはそこを通り過ぎて、ホテル・エウロパパルクHotel Europapark(『ログネルRogner』とも)にあるオーストリア航空の支店(スイス航空と合同)で航空券の再確認をする。実はここでジェルジの妻イロナ・タバクIlona Tabakuが働いているのだ。入ってみると順番待ちの客も数名おり、ちょうど彼女も接客中だったが、こちらに気付くと愛想良くその客の次に応対してくれた(良くも悪くもアルバニアではこういう融通が効く)。

 再確認はすぐに終わったので、同じホテル内にある「スカンデルベグ・トラヴェルSkanderbeg Travel」でコソヴォ行きの件を相談してみることにする。行ってみると、前の客(アルバニア人)が何か困っている。横でやりとりを聞いてみると、彼の持参した100ドル札が受け取れないという。理由は店員自身もいまいち分からない様だが、とにかくティラナ市内の銀行で100ドル札を受け付けなくなっているそうだ[アメリカ系の銀行では問題ないらしい]。贋札防止だろうか?

 でその客が他のドル札を取りに行っている間に、プリズレン行きのバスについて店員に尋ねてみる。スコピエ経由は乗り換えに手間がかかりそうだし、クカス経由がいいのだが、と言うと、電話で問い合わせて「アルベス・トゥリストAlbes Tourist」という旅行代理店を紹介してくれた。ホテル・ティラナ前からの出発で、料金は50マルク。つまり往復で100マルクである。ドルでないところが、コソヴォの通貨事情を伺わせる。今からならアルベス社は夕方5時から8時まで開いている、ということだったが、まだ日数が充分あるので今週中にでも行ってみることにする。

 ホテルを出て、さて大蔵省へ行こうかと思ったが、まだ午前10時台。恐らく一番忙しい時間帯だろう(大抵、会議中)と考え、スカンデルベウ広場を北へ抜けて「ゼリ・イ・ポプリト」編集部へ向かう。記者のアルフレド・ダリピAlfred Dalipiとは1997年からの知り合いなので、顔を出しておこう。

 「ゼリ・イ・ポプリト」は社会党の機関紙だが、編集部は社会党本部と別の場所にある[社会党本部はアルバニア銀行の裏]。労働党中央機関紙だった時代から使われている3階建てビルだが、現在は他の左派系紙も同居している様だ[対する民主党や右派系紙、独立系紙の編集部は『復興労働者Punëtorët e Rilindjes』通りや『サミ・フラシャリSami Frashëri』通り等、むしろ南側に集まっている…様な気がする]。アルバニア民主戦線[Fronti Demokratik i Shqipërisë=FDSh;労働党傘下の大衆組織。もうない]機関紙だった「団結Bashkimi」も少なくとも1997年までは独立系紙としてここいら辺で発行されていた筈だが、近頃は店頭でもさっぱり見かけない。ちなみにすぐ隣には、アルバニア労組連盟(Konfederata e Sindikatave të Shqipërisë=KSSh)機関紙「鏡Pasqyra」の編集部がある。

 1階の新聞集配窓口を通り、新華社記者の様な顔で(実際、そう間違えられたことがある)2階に上がるとそこが編集部である。入口で用件を言うとすぐに編集長室に通され、そこに居合わせた若い男性に「フレディFredi[アルフレドの愛称]は?」と訊くと「フレディは転職しましたよ」と言う。「どこに?」と訊くと「TVSHの副局長です」

 TVSHって…国営放送局…の副局長?!フレディが?!私と大して年齢違わないのに副局長?!

 そこでTVSHに電話して貰い、本人と話す。「じゃ今からおいでよ」と言われたので、若い男性にその旨告げると「車で送らせましょう」と有難い申し出。

 ところで1991年から購読している「ゼリ・イ・ポプリト」だが、昨年暮れから発送が遅れ気味で、年末年始に数回国際電話で催促していた[アルバニアの国番号は355、ティラナの市街局番は42]。その時応対に出てくれた編集長のエリオン・ブラチェErion Braçe氏にもついでに挨拶しておこう。で、
「元気かい、エリオン・ブラチェは?」とその男性に訊くと
「元気ですよ」と言うので、
「今どこに?」と訊くと
「僕です」

 君が編集長?!どう見たって私よりずっと年下だろう!学生かと思ったら…与党機関紙の編集長?!びっくりしつつも、やあその節はどうもどうもと今更ながら握手する。

 新聞社付きの運転手の車で大通りを進み、僅か数分でイタリア大使館の向かいにあるTVSHの前に着く。ついでに運転手氏に守衛と話して貰い、程無く局内に通される。

 アルフレドは2階の副局長室で接客中だったが、さっそく時間を取ってくれた。ユーゴスラヴィア空爆時にティラナを訪問した日本政府代表団、日本・アルバニア協会のK氏等から貰った名刺を見せて貰う。「11月に日本のNHKを訪問する予定だから、広島に寄るかも知れないよ」と言う。彼との会話で判明したのだが、エリオン・ブラチェは26歳、人民議会の議員(勿論、社会党)でもあるという。またアルフレドは30歳で、パンデリ・マイコと同い歳[『同い歳』はアルバニア語で『モシャタルmoshatar』]。余談だが、フレディは年齢だけでなく顔の造作もマイコに似ている。

 国民の平均年齢が約20歳で若い世代の比率が高く[平均寿命が短いからではないと思う]、また1991年以降の政治的変動の余波が収まっていないせいか、人事の新陳代謝が活発で、日本では考えられない程の若さで公共機関のトップに就くことが珍しくないのだ[そりゃこの人達が与党・社会党の人間だからだろう?と考えられないこともないが、民主党時代にも行政部門に若い人は多かった。ただ、民主党が政権を執っていた90年代前半には労働党時代の実務経験者がかなり残っていたから、今ほど若者の比率が高くなかった、という可能性はある。]。国のあらゆるシステムの規模が小さくて、キャリアを昇っていくのにそれ程の年月を要しない、ということもあるだろう。

 プリズレン行きの話をアルフレドにすると、そりゃいいと肯定的な反応が返ってきた。ふと思いついて「ヴィザは必要ないのだろうか?」と訊いてみると、「必要ないよ」と即答される。「コソヴォから帰ってきたら一緒に食事をしよう。テレビ局の副局長と食事するのも悪くないだろ?」と提案され、こちらもふたつ返事でOKする。

 TVSHを出たのが11時半頃。今度こそ大蔵省へ行く。昨年までは建物の手前で必ず停められて「用件は?」等と訊かれていたが、今回は何の制止もなく建物内に入る。

 3階の予算課ではジェルジの部下であるレディナLedina(女)、エヴァEva(女)、ヂャフェルXhaferr(男)が仕事をしていた。課長のジェルジは隣の個室。今年初めの訪日研修時に私がお土産として渡した長渕剛のCDを、仕事用のコンピュータで聴いていた。

 ジェルジの仕事がひと段落するまで、かたわらで新聞を読んで時間を潰す。「シェクリ」の1面見出しが「日蝕 あるいは世界の終わり?」。8日の銃乱射に巻き込まれたアンヂェロ少年は、市民の献血申し出もあってどうにか恢復に向かっているらしい。マケドニアからアルバニアを訪問しているアルバニア人民主党(Partia Demokratike e Shqiptarëve=PDSh)[ベリシャのアルバニア民主党もPDShだが、こちらはPartia Demokratike e Shqipërisëで全然別の組織]のアルベル・ヂャフェリArber Xhaferri党首が「シェクリ」と「コハ・ヨネ」のインタヴューに答えているのだが「アルバニアの市民は政治家よりもずっと文化的だ」とは、耳が痛い人も多いだろう。

 「コハ・ヨネ」は「躊躇するアルバニアの政治家『金は欲しいが中国は無視できない』」の小見出しで、台湾がアルバニアに8億ドルの支援を申し出ているという記事を載せ、各党首脳の発言を紹介している。社会党の長老議員でもあるドリテロ・アゴリやバシュキム・フィノBashkim Fino元首相、人民議会外交委員長で共和党の前党首サブリ・ゴドSabri Godo等は「中国との関係を危機に晒してまで台湾に接近する必要はない」という点でほぼ一致しているが、右翼政党である合法運動党(PLL)のスパルタク・ンジェラSpartak Ngjelaだけが「アルバニアは台湾の経済発展を手本とすべきだ」と対中政策見直しを主張している。民主党のコメントはなぜかない。

 ジェルジが「そろそろ日蝕を見よう」と言い出した。机の上に、カメラのフィルムを貼り付けた眼鏡が置いてある。(それは眼にあんまり良くないんじゃないかなぁ)と思っていたら、「これが一番よく見える」とCDを取り出し、廊下に出た。既に他の職員が数名、窓から顔を突き出している。

 CDで日蝕観測なんて…と思ったのだが、実際CD越しに空を見上げると、欠け始めた太陽が見事にくっきりと透けて見える。11時50分に右上端がほんのちょっぴり欠けていただけの太陽は、徐々に右上から欠けてゆき、12時20分にはほぼ右半分が消失。午後1時には既に9割方が欠け、CDなしでも、空全体が薄暗くなっていることがよく分かる。気温も下がり、涼しい風が吹いてきた。

 大蔵省内の日蝕観測は約1時間でひと段落したが、ジェルジの仕事は終わりそうにない。別の日に食事しようと約束して1時過ぎに辞去。外に出ると、やはり全体的に薄暗い。見上げると、太陽がまるく欠けているのが肉眼でも分かる。これはもう殆ど皆既日蝕である。人通りも少ない。車も余り走っていない。昼休みが近いといっても、明らかに何時もより動きが少ない。

 「『ミュスリュム・シュリ』通り」から「『2月4日の殉国者Dëshmorët e 4 Shkurtit』通り」に抜けたところで書店に立ち寄ると、何と「日蝕Eklipsi i hënës」という本が売られている。日本なら帯に「緊急出版!」とでも書かれるところだろう。値段も120レクとお手頃だ[最近の書籍の相場は500レク前後]。

 エストレフ宅に戻ると、何とTVが「日蝕」特番を組んでいた。しかも家族一同その特番に見入っている。

 夕方、エストレフのお使いで中国大使館近くの食料品店でパンを買う。1キロぐらいのひとかたまりが60レクである。夜ベティムに電話。明日は私がグラムシへ行くし、ベティムの方もアメリカ留学中の娘が帰って来るし、明後日からはギリシアへも行くしで、来週18日か19日に会おうということになる。

 夜のニュースはやはり日蝕騒動。店が閉まり(単に昼休みというには多過ぎる)、往来の減った街並みを映し、客が全然来なくて手持ち無沙汰の露店商や、仕事そっちのけで空を見上げる人々、一応「不測の事態」に備える警官らにインタヴューしている。また政界の反応も報じているが、パンデリ・マイコが「他の閣僚と一緒に仕事を中断して見ましたよ」と屈託なく語る一方、サリ・ベリシャは「党務でそれどころじゃありませんよ、ハッハッハ」と変な余裕を見せている。


8月12日(木)

 常日頃アジアに疎いアルバニアのメディアで、ここ数日「台湾」が目立つ。本日の「コハ・ヨネ」は「中国 台湾武装占領を画策」と題する独占記事で、台湾の武力併合をも想定して海峡に軍を展開する中国、それを巡って緊迫する米中関係を詳細に解説している。ただし、日本人にとってはそれ程目新しい話でもない。

 昨日の日蝕については、黒いガラス板をかざして空を見上げるヨハネ・パウロ二世の写真が各紙に掲載され[ムスリムが多数を占める、と言われるアルバニアだが、ローマ・カトリックの頂点に立つ法王に敬意や親近感を持つ人は少なくない]、コルチャやフィエルFierで露店商が姿を消し、住民が家に引きこもり、北のドゥラスと並ぶ南の港湾都市ヴロラVlorëの浜辺から海水浴客がいなくなったこと等を伝えている。面白いのは、コソヴォのアルバニア人が今回の日蝕に全く冷静・無関心なことで、例えばプリズレンでは日蝕のこと自体が特に報道されず、市場も通常通り。市内ではミトロヴィツァのフランス軍に抗議するデモが行われ、参加者は「コソヴォの土地はひとかけらも手放さない。ミトロヴィツァのないコソヴォに意味はない」と気勢を上げていたという。太陽が月の陰に隠れただけの自然現象に対し、かつて党の力で迷信を否定したアルバニアのアルバニア人が大騒ぎで、宗教や民間信仰を特に制限しなかった[完全に自由、でもなかったが]ユーゴスラヴィアのアルバニア人が至極落ち着いている。

 さて今日はグラムシでエストレフの親戚の結婚式が行われる。「明日の朝一番にイタリア大使館でヴィザを取得しなければならないから、グラムシに泊まる時間は短い(事実、申請書類一式をグラムシまで持参していた)。かなりの強行軍だからティラナに残ってもいいよ」と言われたが、折角の機会だから一緒に行くことにする。

 朝食にピラフを食べて、エストレフ、エリダと共にアギムの運転でグラムシへ出発したのが10時頃。ちなみにもっと早く出るつもりだった様なのだが、エリダの仕度が手間取って、私が新聞を買いに行けた程。アルバニアでも若い女性の外出仕度には時間がかかるらしい。更にエストレフがティラナ銀行Banka e Tiranësに寄ったりして、市中心を出るまでに陽は高く昇り、窓から吹き込む空気もすっかり暑くなっていた。

 ティラナからグラムシまでは山を越え谷を抜け、エルバサンElbasanを経由して約5時間の予定。私にとっては1997年のコルチャKorçë〜セサロニキ行で既に(途中まで)経験した道だが、エリダは久し振りに見る郷土の絶景にカメラのシャッターを切りまくっている。エルバサンの手前の山道で桃や無花果や葡萄など果物を買い、それを近くのレストランの店先の湧き水で洗い、一同車中でつまむ。

 エルバサンから東へ進むとオフリド湖Liqeni i Ohritで有名なポグラデツPogradec〜マケドニアだが、今回は南へ向かう。うねった砂利道をしばらく走って午後1時頃に道路脇のレストランで昼食。ここでステーキbiftek(mish viçi)を注文し、食前酒にラキを流し込んだ私は突然目の前が真っ暗になり(エリダに『アルバニアで彼女を作ったら?』と呑気なことを言われた辺りまでは元気だったのだが)昏倒。幸いホテルも兼ねた建物だったので、ベッドのある部屋で横になったところ、数分後に回復。アルバニアでは何かとハードな状態になるものだが、ぶっ倒れる程の事態はこれが初めてである。恐らく、車の揺れと空腹とラキの相乗効果による脳貧血だろう。そう言えばベティムが最近の詩集で「あの悪魔のラキ」なんて表現をしていたなぁ、と横になりながら考えていた。エストレフとアギムは心配しながらも「お宅のベッドで寝た日本人は、彼が初めてだろう」と店の主人に変な自慢をしている。「やっぱり着いて来たのは間違いじゃなかったかい?」とエストレフが言うのを「とんでもない」と否定し、ステーキも全部平らげて午後2時過ぎに再出発。

 南北に細長く伸びるバニャ湖Liqeni i Banjës、それを塞き止めるダムに人造池が見えてくると、グラムシは近い。「昔はあそこに住んでいた」とエストレフが指差すが、ただの山にしか見えない。まだ舗装道路も通っていなかった頃のことだろう[ところで、アルバニアで年配の人と車に乗っていると『ここは、我々が若い頃に奉仕労働で造った道だ』と言われることが時々ある]。どうやって町へ出ていたのか、今も不思議で仕方がない。

 午後4時過ぎ、グラムシ市内に到着。予想通り小さな町で、人通りも少ない。市中央広場で車を降りると、エストレフの兄セルヴェトServetの出迎えを受け、一緒に近くのカフェで一服。店内が洞窟風にアレンジされていて、こんな小さな町には些か似つかわしくないが、夜を過ごす若者達には殆ど唯一の西欧風娯楽の場だろう。エストレフは、この郷里グラムシには2カ月おきに帰省しているらしい。

 中央広場の隣にある、市内でたぶん唯一のホテル「IFA」(何の略だか未だに分からない)に記帳。3階建てで、1階はレストランになっている。フロントで鍵とタオルを貰い、我々4人は2階の5号室と6号室に逗留。私はアギムと一緒の部屋になった。古い板張りの部屋で、ベッド2つに木机が1つ。分厚くてゆがんだガラス製の水差し(水が入っているが、いつ汲んだ水だろう?)とコップが置かれている。洗面台はあるが、風呂やトイレはない。廊下の突き当たりに共用のトイレ&シャワー室があった。フロント係によると、トイレ&シャワー付の部屋は上の階にあるらしい…が、水が出ないので同じことだそうだ。もう慣れているので、別にショックは受けない。しかし、少々たわんだ床の具合を靴で踏んで確かめていたところエストレフに「こんな部屋に泊まったことないだろう?」と訊かれ、つい「ない!」と普通に答えてしまった(不意を突かれた)。この素敵なお部屋(1号室から14号室まである)が今なら素泊まりで一泊500レク。

 ホテルに荷物を置くと、エストレフが実母へ挨拶に行くというので同行する。中央広場の四方には、ホテル、集会所、市役所、市議会の建物など、市の中枢機能がこじんまりと収まっている。全てが徒歩で片付く距離だ。中央通り(但し幅は7メートルあるかないか)の西側には先刻車窓から眺めたバニャ湖の支流が流れ、東側には山の斜面に建てられた集合住宅地が見える。その斜面側へ5分ばかり歩いて、と或るアパートの前に着く。階段を上がると案の定、子供達がむき出しの好奇心で私を見つめ、数歩後からくっついて来るのだが、いつものことなので余り気にしないことにして、エストレフの母宅のドアを開ける。室内にはすでに多くの親戚知人が集まっており、少々足の踏み場も見当たらない程だったが、ティラナから帰ってきたこの息子と孫と運転手(と謎の東洋人)を放っておくはずはなく、エストレフの母が待つ奥の居間に通される。

  エストレフの母は、私の肩を抱いて握手までしてくれたところを見ると一応歓迎してくれてはいるらしい。ただソファに腰掛けてからは、これといって話しかけるわけでもなく、こちらの顔をただじーっと見ている。まあ話しかけられてもたぶん理解できないだろう。地方の老人の話し言葉が最も難しいのだ。エストレフの叔母にあたるらしい女性(アルバニア語では『小さいお母さんnënë e vogël』と呼んでいた…いや『チーママ』じゃないよ)が、甘い砂糖菓子にラキを振る舞ってくれる。いつもなら有難くいただくところだが、先程「悪魔のラキ」で酷い目に遭ったので、今回は口を湿す程度にする。

  今夜の一方の主役、新郎のソコルSokolがやって来た。「今夜この男が花嫁をベッドへ連れて行くんだ、ふふふ」と早くもきわどいネタをとばすエストレフは、新郎側の親戚ということになる。更に「この人は誰々の父の兄弟」「この人は誰某の妻の姉妹」「この人はさっきの某々の…」と次から次に様々な親類縁者が私に握手を求めてきたが、とても正確に憶えきれなかった。日本に近い所では中国語の家族名称もなかなか複雑だが、アルバニア語のそれもかなりややこしい。未だ勉強が進まない分野である。エストレフの父は既にこの世にいない。「父が戦死したので、母は私や兄弟を抱えて40年近く苦労した」とエストレフは語る。

 訪問者があふれてきたので我々4人は一時退出、ホテルで1時間ばかり休憩する。窓を開けてベッドに横たわると、戸外の音が入って来る。階下のレストランから流れてくるラジオの音楽、話し声、時々通過するトラックか乗用車…まあそれ程うるさくもない。ティラナの騒々しさが遠い昔の話の様だ。明日ティラナに戻ったらコソヴォ行きの件を調べよう、コソヴォに行くのにもこれくらい疲れるのだろうか?等と、何の装飾もない白茶けた壁と天井を眺めながら身体を休めている内に午後6時半。顔を上げて窓の外を見ると、お馴染みの散歩の風景が始まっていた。

 エストレフと共に散歩がてら他の知人宅を廻る。このグラムシにも巨大なモスクが新造され、夕刻のアザーン(礼拝を呼びかける唄)が響いている。ところがそのモスクから道路を隔てて数メートル先、アパートの前の空地に、何と豚が放し飼いされていた。残飯で養って、ソーセージproshuteにでもするつもりだろうか。あらためて、アルバニア人の宗教におけるいい加減さを目の当たりにする。アパートの壁面に葡萄の蔦が生い茂っている。グラムシではよく見られる風景だそうだ。

 アパートの入口附近に真新しい墓石が立っている。1997年の「ネズミ講」騒動ではここも武装勢力に一時制圧され、その際の戦闘により約半年間で600人が死亡したと言われる。そのアパートの一室を訪ねると、点滴用チューブを腕に刺したままの男性が出迎えたのには驚いたが、首都ティラナでの治療から静かなグラムシでの療養生活に切り替えたのだという。どちらがましなのか少々迷うところだ。ここでもコーラとラキと果物を頂戴する。

 アパート密集地を通り抜けて野原へ出ると、子供達が草ぼうぼうのグラウンドでサッカーをしている。すぐ近くに体育館らしき建物があるが、使われている気配はない。エストレフによると、春のユーゴスラヴィア空爆以降ここにもコソヴォからの避難民が到着し、体育館も宿泊施設とされた。しかし本来のスポーツ施設としては、行政からの維持管理費も捻出できず、閉鎖状態にある。エストレフは「労働党の頃は、予算が中央によって強力に管理されていて、スポーツや教育にも重点的に配分されていた。このグラムシにもアルバニアを代表するバスケットやバレーのチームがあったんだよ」と強調する。他のことはともかく、労働党時代の文化政策は今よりずっとしっかりしていた…これはエストレフ・ベガの持論だ。また、散歩している男性の殆どは失業状態で、ギリシアに住む親戚からの送金で暮らしている家庭も多いという(地図で見ればグラムシはむしろ南寄り)。

 そうこうする内に夜8時を過ぎ、婚礼会場を探していると、別行動していたセルヴェトやアギムと合流。まだ準備ができていないらしい、ということでエストレフ&セルヴェトの兄にあたる男性(この人に限らず、アルバニアの男性年金生活者は夜の外出時も背広にネクタイ姿を欠かさない)も加わって、カフェの前で机と椅子を借り(何も注文しなくて済んだのは、皆顔見知りだから?)、日本や家族の話などしながら時間を潰す。

 9時頃、会場のレストランに入る。1階のホールにはテーブルが並び、楽団が演奏の準備をしている。予想通り、外国人は私だけ。会場に入れない野次馬の子供達は早くも私に接触しようと「中国人(kinez)」「中国人」と窓の向こうから大騒ぎ(中国、と言えば夕刻の散歩中にも再度話題に上ったのだが、エストレフ・ベガは台湾とアルバニアの国交には断固反対だそうだ『いいかイウラ、アルバニアは中華人民共和国から莫大な経済支援を受けている。中国は、もしアルバニアが台湾を国家として認めたら国交を断絶する、と明言しているんだよ』はぁそりゃ大変だ)。しかし途中から、大人に注意されたのか「日本人(japonez)」「日本人」と呼び名が変わったので、手を振るとまた大騒ぎ。空手のポーズをとっている(やっぱり何か勘違いしている)ので、写真を撮ってあげるとこれまた大騒ぎ…誰だ俺の背中に触ったのは!一方、私のすぐ隣にはエストレフの母が座っている。時々話しかけてくれるのだが、正直な話、殆ど判らなかった。こちらの返事もさぞかしトンチンカンなものだったことだろう。余談だが、彼女も含めてアルバニアの老未亡人達は皆黒装束である。

 親戚宅から戻って来たエリダが到着し、客席も概ね埋まった9時半頃、車に乗って新郎新婦が入場(アルバニアの結婚式の通例として、きっと先程までクラクションを鳴らして町中を走り回っていたのだろう)。数時間前まで普段着だったソコルはタキシード姿で、白いドレスの新婦の手を取り、先導役(?)の子供に取り巻かれ、にやけながらも神妙な面持ちで奥の席に着く。ひとしきり音楽。

 新郎の親は既に私とも挨拶を済ませていたが、新婦の両親が到着したのは午後10時。どうもそういう習慣になっているらしい。両家関係者が揃ったところで新郎の父から挨拶があり、一同乾杯。順次食事が運ばれてくる。串焼きやステーキなど、牛・羊・鶏の肉料理が大皿に盛られている。食っている内に音楽が鳴り響き、早くも数名が立ち上がって踊り出す。手をつなぎ、白いハンカチを振りながら一人また一人と人数が増え、最後には行列が波打ち、テーブルの間をすり抜け、ホールの中央で輪になって軽快に踊る風景は、バルカン半島ならではである。驚くべきは、子供達の踊りっぷりの見事なことだ。腰つきが全然違う。こう小さい頃から生活の中で仕込んでいるのだから、外国人の私など勝ち目はない。
[アルバニア語では、集団で踊る場合『ヘヅ・ヴァルhedh vallë』、独りで踊る場合『クルツェイkërcej』という風に、表現がそれぞれ異なる。vallëはアルバニア独特の『輪舞』を意味するが、踊りと同時に唄われる民謡も含まれていて『(輪舞の)民謡を唄和するmarr një vallë』という表現もある。また『踊りに入るhyj në vallë』という言い回しには、より一般的に『仲間に入る』『当事者である』という意味もある。]

 「長老」風のメンバーが新郎新婦の父親らと共に民謡を吟じ、また楽団の演奏が再開されると、今度は私も踊りの輪に引き込まれた。やってみると分かるのだが、ステップのリズムが独特で、油断すると足がもつれてしまう。手だけ振ってごまかしていると、新郎の父と手をつないでしまい、嫌が応にも目立つことになった。緊張して汗がだらだらだったがどうにか踊り終えると、新郎の父にひしと抱擁されて拍手喝采。取り敢えず歓迎はされている様だ。

 この後もう一回輪になって踊り、更にエリダと二人で華麗(?)な西欧風ダンスを踊ったりしている内に時刻は午前零時近く。

 ホール内が猛烈に暑くなったので外に出ると、8月だというのに結構涼しい。外で涼んでいた子供達と会話(子供がこんな時刻まで起きていることにはもう驚かない)。父が高校の英語教師だという14歳の少年は、学校で日本に関する英語の本を読んだことがあるとかで、空手に並々ならぬ関心を示し、いつか日本で空手を学びたいと夢を語ってくれた。沖縄の空手と「本土」のそれはどう違うか?なんて私にも尋ねられても困るのだが、「カラテは日本古来の技術だと聞いている」というから、いやいや由来は中国だと思うよと指摘しておいた。

 で本当のところはどうなのか?沖縄で郷土史の副読本として出版されている「高等学校 琉球・沖縄史」(沖縄歴史教育研究会 1997)によると;

  空手は琉球古来の武術であった手(ティー)に、中国から伝わった拳法をとりいれて生みだされたといわれている[中略]現在のように空手の流派が成立する以前は、首里手・那覇手・泊手の三つの流れに分類されていた[中略]首里手・那覇手は、中国拳法を母体として発展し、のちにしょうりん流(小林流・少林流・松林流・少林寺流)に、泊手は前二者より新しく、中国拳法の技術を踏襲しながら沖縄の独自性をとりいれて剛柔流となった[中略]大正から昭和にかけて、船越義珍らによって本土に紹介され、名称も唐手から空手と称されるようになった[後略](以上、前掲書p.123〜124)

そうなので、また彼に会える機会があれば説明してあげよう(沖縄にこだわっていたのは、何処かで『ベストキッド』のビデオでも観たせいだろうか?)。日本へ行きたいという彼だが、そのためにはアルバニアで良い教育を受けておかねばならない。だが良い教育を受けるにはまだまだカネとコネがものをいう。良くも悪くも「人治主義」が幅を利かせているのだ。

彼は1997年の「ネズミ講」騒動では「グラムシでも、武器を持たない一般市民が無差別に射たれた」と憤懣やるかたない。自分も素手で武装勢力に立ち向かったという話を文字通り「口角泡を飛ばす勢い」で喋ってくれた。

そうしている間もホール内では歌と踊りが続き、やがて新郎新婦が踊り始めると、客が紙幣を折って花嫁のドレスのあちらこちらに差していく。勿論全て「御祝儀」となるわけだ。やがて、ラキに浸したハンカチに火をつけて振り回しながら踊る人あり、花嫁の母がパニック状態になって泣き叫ぶハプニングあり、既に日付も変わったというのに婚礼はこれからが本番、という雰囲気さえある。

この調子で朝4時〜5時まで続くというので、「つきあってられん」とアギムと私は午前1時に退出。びっくりする程、星がきれいだ。「強盗が出るかも知れないから」と地元の青年2人の警護付きでホテルに戻り(といってもホテルまで歩いて5分弱だし、最初から辺りには誰もいない)就寝。開け放った窓から、婚礼の音楽がかすかに聞こえてくる。


8月13日(金)

午前5時半起床。いつ帰ってきたのか知らないが、エストレフとエリダは隣の部屋にいた。エストレフの第一声が「ファシストに死を(Vdekje fashizmit!)」だったので「人民に自由を(Liri popullit!)」と返す[対独伊解放戦争時のパルティザン同士の挨拶。ここでは勿論冗談]。半分寝ているエリダを引っぱり出し、6時出発。夜更かし親娘は案の定、車中で眠り込んでいるが、早く寝た私とアギムはまだ元気だ(アギムは運転手だから、元気でないと困るのだが)。

エルバサンを過ぎた辺りのレストラン(前日果物を洗わせて貰った場所)でピラフと水だけの朝食を済ませる。出発した時は窓を閉じる程涼しかったのだが、ティラナに近付くに連れて陽が高くなり、気温も上昇する。ついでに「眠っていた」カーラジオも鳴り始めた。山脈を右手に見ながら走る道は、半世紀前に解放軍がティラナへ向かって進軍した道でもある。そうかと思うとあちこちの壁面に「AZEM TI JE I GJELLE(アゼムよ君は生きている)」と大きく落書きされている。1990〜1991年の学生運動の主役の一人だったアゼム・ハイダリを今も熱烈に信奉し、その死に抗議し続けている民主党系のスローガンである。実際、首都ティラナでは「9月14日事件」の1周年にあたる来月に「また何か起こるのでは」という噂が、結構真面目に取り沙汰されているのだ。

9時過ぎティラナ市内に到着。エストレフはイタリア大使館近くで下車、私もホテル・ティラナの前で降ろして貰う。ちょうど午前の仕事が始まった時間帯なので、例のアルベス・トゥリスト社へ行くことに決めたのだ。

その前に、国民歴史博物館の裏手にあるインターナショナル・コマーシャル・バンクInternational Commercial Bankでドルをドイツ・マルクに両替する。勿論きっちりマルクにできるわけではなく(ドイツマルクの硬貨はアルバニアでも見かけない)、端数はレクで戻ってくるのだが、行員が私にレクを渡すのを忘れ、私もレクの受け取りを忘れ、マルクだけ受け取ると満足して一旦外へ出てしまった。数分後「ついでに50マルク紙幣を10マルク紙幣にして貰おうかな」と舞い戻ったところで「あぁあなた!レクお渡しするの忘れてました」(ちなみにその後で『朝鮮の方ですか?』と訊かれた)と言われて「!」と気付いた次第。ちなみにこの日は150ドルを出して、260マルクと175レクに両替して貰った。100マルクは交通費だから現地で使えるのは160マルクだが、充分かどうかよく分からない。

 ホテル・ティラナ裏にあるビルの1階がアルベス社の事務所である。女性が応対に出たので事情を話すと、「うちは小さい会社で、コソヴォ行きならもっと大きな会社で予約された方がいいですよ」と言われたが「せっかく紹介されたので、ここで決めさせて貰います」と話を進める。

 ティラナでの予備滞在期間も考えに入れて、取り敢えず20日(金)に出発して29日(日)までにはティラナへ戻りたいのだが、と希望を伝えると、20日の朝7時のバスがあるという。「どれくらいで?」と訊くと、エヴァEvaという名の彼女は「さぁ、8時間ってところね」と言う。つまり午後3時頃の到着ということだ。

 帰りの予約も頼んだのだが「それはここでするよりプリズレンの方が…」といまいち乗り気ではない。乗車券はあるにはあるが、乗車時払いも可能というか、まあ日本の様にきっちり予約優先という風にはなっていないのだろう。

 エヴァは予約表らしきものに名前を書き込み、私の連絡先を受け取ってから「何か問題があれば連絡します。私がいなければ社長のアギム(また『アギム』だ!)か、レディLediという別の女性が応対しますから」と説明してくれた。

乗車券は後日買ってもいいだろうと考え、名刺(裏面に『営業時間 8−15時 15−20時』とあるが、たぶん間違いだ)を貰ってそのまま帰宅。居間ではエリダが熟睡している(そう言えば、彼女は私達の中でも起床が一番遅い)。私もシャワーを浴びて一休みし、日本・アルバニア協会のK氏にE-mailでプリズレン行き日程を知らせる。一方エストレフはイタリア行きヴィザ申請が受理されなかったそうで、「イタリア大使館は我々に嫌がらせをしている」と困惑している。

 夜のTVで「ゴジラGoxilla」放映。ロゥランド・エメリヒのアメリカ版「Godzilla」であるが、雑誌「クラン」の解説文に付されていた写真は「ゴジラvsモスラ」(1992)だった。そんな資料、どこで手に入れたんだ?アルバニアの場合、少し前のハリウッド映画はイタリアで放送されたもの(勿論イタリア語吹き替え)にアルバニア語字幕を付けたものを放送するが、「ゴジラ」や「インディペンデンス・デイ」等まだ新しいものは英語版オリジナルを直接買い取って(借りて?)使用している。

  本日買った新聞・雑誌の中に「ホステニhosteni」がある(nr.4/1999)。労働党時代から続く老舗の諷刺雑誌である。幾つか訳出するので、どこがどう面白いのか、いろいろ考えてみて下さい。解説…を付けるのは野暮というものでしょう[どうしてもわからない方はお問い合わせ下さい];

   アルバニア上空でNATOのパイロット2名の会話;
「爆撃地点はここか?」
「ちがう、ちがう、とっくに誰かがやってるじゃないか。ほら、穴ぼこに、ガレキの山だろ?」

* * *

 昨夜NATOによってうっかり中国大使館が爆撃されてしまった。NATOのいまいち信頼できない情報によれば、一両日中にはロシア大使館も誤爆されるだろうという。

 NATOのスポークスマン「戦争とはこういうもので、あやまちは避けられません」

* * *

 昨日アルバニア政府は緊急に閣議を開き、ティラナのNATO代表団を呼び出して、道路の舗装、救援物資の配給、避難民用テントの設営、北部国境の防衛、ティラナのゴミ清掃の代金支払いを要請した。NATOはこれらの作業の遅滞を認め、将来におけるすべての要請事項の達成を約束した。

* * *

 電器店で;
「NATOをくれ」
「NATOって、何を?気は確かかい?」
「何をってあんた、国営テレビのNATOのCM、見てないのかい?今夜見てごらんよ。『グリナ』と『フォーユー』の後にやってるよ。NATOは安全・保証付きさ」
[『グリナ』はおなじみミネラルウォータ、『フォーユーFor You』はコンドームの商標]

* * *

 記者会見の暴れん坊で有名なジャーナリスト、ベスニク・シャチリBesnik Shaqiriが首相の記者会見にやって来た。すると入口で守衛に止められた。
「私はジャーナリストだ」ベスニクは身分証を見せて言った。
「何の御用で?」
「記者会見だよ」
「どちらの新聞社で?」
「フリーだが」
「お通しできません」

 ベスニクが大声を張り上げてしゃべり出したところに、ムサ・ウルチニMusa Ulqini情報相が通りかかった。
「何ごとだね?」
「あの老いぼれですよ」一人の記者がベスニクを指して言った。
「年寄りってのはああいうもんだね」情報相が言った。
「歳の問題じゃなくて、いつもああなんです」別の記者が言った。
「医者に見てもらったのかい?」また別の記者が訊いた。
「いいや、医者も見放してますよ」

 ベスニクがやって来てこのやりとりを聞くと、
「あんた方はとんでもない連中だな。この政府の連中がどんなに阿呆か、私があんた方に言うまでもなかろう。何なら私の診断書を見てみなさるかい?私はいたってまともだよ。閣僚のみなさんこそ私に医師の診断書を見せてくれませんかね?」とこう言って会見上に陣取った。

 彼の問いがあまりに辛辣で痛烈だったため、政府関係者たちはぐうの音も出ず、返事が見つからないでいた。

 かくしてベスニクはおのれの問いにみずから答え、唖然とする一同を放ったらかして会見場をあとにしたのであった。

* * *

医者と患者の会話;
「さあ、だいぶよくなったでしょう?退院前に、一つテストをしましょう」
「はい先生、治してくれてありがとうございます。それで、もう我が党で闘争できるんでしょうか?」
「もちろんですとも!あなたがどこかの党集会のあとで、商店のウィンドウをたたき割った時のようにね」
「や、や、やあ先生。どうも本当に、治してくださって」
「さて、退院したらまずどうします?」
「まず、仕事を見つけます」
「結構。で、それから?」
「嫁さんを見つけます。美人で、気立てのいい娘をね」
「すばらしい。で、それから?」
「それから式を挙げます」
「実にすばらしい。で、それから?」
「式のあとで、嫁さんを連れて家に行きます」
「いいですね。それから?」
「花嫁のベールをはぎ取ります、先生」
「結構。それから?」
「服をひっぺがします」
「結構。それから?」
「ブラジャーをひんむきます」
「いや素晴らしい!で、それから?」
「パンティを脱がせます」
「素晴らしい、実に結構。もうだいじょうぶですよ、すっかり治ってます。退院証明書を書きますから、話の続きをして下さい。ただしもうちょっと小さい声でね…」
「パンティを脱がせてからですか?」
「ええ、ええ、構わないから言ってごらんなさい」
「言わなきゃいけないんですか?恥ずかしいなあ、先生。

 パンティを脱がせて、ゴムひもを引っぱり出して、木の枝を見つけてきて、それでパチンコを作って、手当り次第にショウウィンドウをぶっこわしてやるんですよ。党集会の前とあとに…」

* * *

 ベリシャが指導部の会議を招集した。少しすると、彼は英語で話し始めた。民主党の古参党員の一人がかたわらの同志に言った「党首は機嫌が良くないようだが、まぁじきに治まるだろう」

 元大統領の発言を一番よく聞いている二名は英語ができなかったが、それでもいつものようにメモをとっていた。

 そこへゲンツ・ポロBenc Polloが遅れて入って来た。彼は席に着くと、党首が英語でしゃべっているのに気づいて笑い出した。
「党首、ここには外国の代表団なんかいませんよ、党指導部のメンバーだけじゃないですか」
「わかってるよ」ベリシャは言った「だがね、私が十ヶ月間アルバニア語でしゃべっていたのに、この連中ときたらてんで理解できないから、アメリカ大使館やら、その他、民主党の議会参加を求める国の大使館まで出かけて、[私が何て言ったか]聞いてまわってるんだよ」


8月14日(土)

 昨日からパンデリ・マイコがコソヴォを公式訪問している。アルバニアの現役首相がコソヴォに入るのは、今回が初めてだ。既にプリシュティナでレヂェプ・チョスャRexhep Qosja[作家、歴史家、批評家。統一民主運動(LBD)党首。コソヴォ・アルバニア人の代表的知識人]、ハシム・サチHashim Thaçi[コソヴォ暫定政府首相。コソヴォ解放軍(UÇK)司令官]、イブラヒム・ルゴヴァIbrahim Rugova[コソヴォ民主連盟(LDK)代表。『コソヴォ共和国』大統領]ら暫定政府要人と会見している。それはそれでニュースなのだが、各紙はもう一つの「私的」訪問についても伝えている。実は昨日、マイコの兄弟[兄か弟かは不明。アルバニア語『vëllai』には他のヨーロッパの言語の場合と同様、年齢による区別がないので]アルティン・マイコAltin Majkoがプリシュティナ在住の法学生ラウラ・ニラLaura Nilaと結婚式を挙げており、マイコもそれに立ち会っていたのである。

 さて、朝起きるとエストレフがいきなり「海へ行こう」と言う。10日じゃなかったのか?しかも本日はどうも体調が良くない。余り水には入りたくない気分だ。しかしエストレフとアギムはいつも通りのワイシャツに革靴なので、別に私も着替えてていく必要はないだろう[昨年の夏は、家を出発する時点で、即座に水に飛び込めそうな格好だった]。で取り敢えず、エストレフ、エリダとその友人、そして運転手のアギムと5人でドゥラスへ向かう。

 ティラナからドゥラスまではその名の通り「ドゥラス通り」をひたすら西へ走って約1時間、もう何回も往復したことのある行程だ。海水浴場の前で車を停めると、エストレフらはレストランでバニツァbanica[薄い生地にアルバニアの白チーズを包み込んで重ね焼きしたもの、早い話がチーズパイ]を買っている。昼食のつもりかと思ったら「イウラ食べなさい」ときた。午前のおやつのつもりらしい。おいおいじきに昼食だろうと思っていたら、今度は露天で海水パンツとビーチキャップを物色し始めた。えっ!この人達、現地調達するつもりで普段着だったのか!さすがお金持ち[海水浴場で海水浴関連商品が高いのは、日本もアルバニアも同じ]だ…と感心している場合ではない。「イウラも選びなさい」としつこく言ってくるのを「今日は泳ぎたくない」と断るのに、ひとしきり苦労する。エリダに至っては「お金ないの?」ときたもんだ。

 「何しに海に来たんだい?!」と呆れる一同に、今日は泳がないと言い渡し、ビーチチェア(たぶん貸し出し)に深々と身を横たえ、サングラスをかけて[私がサングラスをかけるのは海外滞在の時のみ]アギムに貰った「シェクリ」を読む。他の4人は数回休みに来るが、すぐまた海に行ってしまうので、終始私が荷物番も兼ねることになる。やはりパンデリ・マイコのコソヴォ訪問が大きく扱われているが、文化欄を開くと、例の映画館「ミレニアム」で最新のアルバニア映画が試写された、とある。ジェルジ・ヂュヴァニGjergj Xhuvaniの作品で、1997年のアルバニアの風景をフィルムに収めた「葬儀ビジネスBiznes funeral」である。毎日上映される訳ではないらしいのがちと残念だ。

 太鼓の音がするほうを見ると、小熊を連れた男が子供に取り巻かれながら浜辺を練り歩いている。この熊芸人(?)この時期はTVのニュースに出る程有名で、夏の海辺の風物詩とも言える。どこかのラジオからアルバニア語のDJが聞こえてくる。「トップ・アルバニア」がヒットチャートを紹介しているのだろう。「トップ・アルバニア」はアルバニアの若者に最も人気のある民放局だ。アルバニアの最新音楽シーンに精通したいなら、ここの番組は要チェックである。夜は「電リク」もやっている。対象はアルバニアの曲に限らず、ギリシアやトルコのヒット曲もどんどん取り上げるし、ここの製作によるカセットはTVのCMでも宣伝されている。特にトルコの歌手はなかなかの評判だ。例えばタルカンTarkanの「スィキディムSikidim」などである[これ結構きわどい意味じゃないか???]。
[しかしどの局も相変わらず午前零時前後には終了してしまうところが悲しい。あとは周辺国の放送でも聴くしかない。]

 ドゥラスの浜辺で過ごすのはこれが3度目だが、日本人も含めて東洋人の姿を見たことはない。しかし昨年はアメリカ人が来ていたし、今日は今日で目の前を黒人(国籍までは分からない)とアルバニア人の2人連れが通り過ぎる。やりとりしている言葉はアルバニア語の様だ。ここで、夏目漱石の「こころ」で主人公の「私」が「先生」と出会う鎌倉の場面を思い出した。それに倣って…というかパクって…この日の私の状況を「浜辺の傍のカフェにいたアルバニア人」の視点で書いてみるとさしずめこんな具合;

「私がそのカフェでエストレフ・ベガを見た時は、ベガが丁度洋服を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった[中略]私がすぐベガを見付出したのは、ベガが一人の東洋人を伴れていたからである。

 その東洋人の優れて黄色い皮膚の色が、カフェへ入るや否や、すぐ私の注意を惹いた。純粋の欧米の洋服を着ていた彼は、それを折りたたみチェアの上にすぽりと放り出したまま、腕組みをして海の方を向いて座っていた。彼は我々の穿くブリーフどころか何でも肌に着けていた[中略]彼はやがて自分の傍を顧りみて、其所にここんでいるアルバニア人に、一言二言何か言った[後略]」
[どこがどう変わっているのか、お暇な方は御確認を]

   アドリア海の灼熱の太陽の下、こうしてパラソルの陰で新聞を読んだり辺りの人の動きを見ているだけ、というのも悪くないなぁ…と思って数時間後、ようやく気が済んだらしい4人が戻って来た。昼食はパンとチーズとサラダの盛り合わせにスープとチョフテqofte(挽肉を丸めて焼いたもの。名前は微妙に違うが、バルカン全域の共通料理の一。トルコ語でいうウズガラキョフテızgara köfte)。どうも食欲がないのだがエストレフは「イウラが食べれば私も嬉しい」とまるで屈託というものがないので、どうにか量をこなす。

 4時頃帰宅。ふと思いついてアルベン・ケルチクに電話。月曜日の夕方5時か6時頃に会うことにする。

 夜、エストレフとエリダは夕食に招待されているとかで外出(『本当は行きたくないんだが、仕事関係だからね』だそうだ)。私は夕食を自分で済ませ、11時過ぎても2人が戻らないので、先に寝た。

 本日午後の速報。パンデリ・マイコと入れ替わりにハシム・サチがアルバニア入りし、ドゥラスでレジェプ・メイダニRexhep Mejdani大統領と会見。ミトロヴィツァへの対応等について意見を交わした模様。ついでに、背広にネクタイのルゴヴァを初めてTV画面で見る[ノーネクタイでスカーフを首に巻いた姿はルゴヴァのトレードマークにもなっており、『スーツにネクタイ』姿の方が珍しい]。


8月15日(日)

 日曜日のせいか、昨日の疲れのせいか、エストレフ&エリダ親娘は何時もより遅くまで寝ている。新聞を買いに外へ出て、ついでに週刊誌「クラン」も最新号が出ているので購入する。戻って来ても二人はまだ寝ているので居間でニュースに目を通す。

 表紙は初代ミス・アルバニア(1990年)のヴァルボナ・セリムラリValbona Selimllariだ。現在の彼女は実業家として生活しているらしい。

 この号には台湾問題[正確には『台湾から8億ドル貰って「中華民国」を承認する代わりに、中華人民共和国と縁を切るかどうか』問題]が特集されている。アルバニア・台湾友好協会(Shoqata e Miqësisë Shqipëri-Taivan)なる団体が結成されたが、この協会を立ち上げたのが何と「コハ・ヨネ」の社主ニコル・レスィNikollë Lesi。しかも現役議員の協会員リストが掲載されていて、そこに合法運動党のスパルタク・ンジェラ(対台湾接近を主張する右翼。前述)がいるのは当然としても、やや驚くのは協会代表が民主同盟党(PAD)のネリタン・ツェカNeritan Cekaであること。

 民主同盟党は、民主党から離党した中道系グループが結成した政党で、社会党を主体とする現在の左派連立政権に加わっている。同記事では同党を「民主党にとってのタイワン」と皮肉っているが、緊密な対中経済関係を維持しようとしている(らしい)メイダニ+マイコ政権の中にいる人物がこんなことしていて良いのだろうか?

 日曜日なのにアギムが来た。しかも妻子(娘2人)を連れて。ここの家族はこの[アルバニア語を喋る]日本人を見ても動じない。もう一人娘がいるが、アメリカに留学しているという。

 エストレフとエリダも9時頃起床。これからアギムの家族を連れて「海へ行く」という。今日もお?!と思ったらさすがに今日は「イウラはうちにいていいよ」とおっしゃる。「いや今日は体調も悪くないし…」と言おうかと思ったが、独りで留守番するのもそれはそれで面白い(子供の頃、家族がみんな出かけて家の中で独りになったら何だかウキウキしたという人、いるでしょう?いはば『ホーム・アローン』の主人公状態)ので、OKあとは任せとけ、と承知する。

 6人が出かけてしばらく後で、買い物に出る。エストレフに200レク紙幣を1枚貰ったので、近所で卵(12レク)を5個、パンをひとかたまり(60レク)、それに「イヴィIvi」[ギリシアの炭酸飲料]のレモン味を1缶(70レク)[但し他の食品の相場と比べるとやや高いので、これは自分払いにした]買う。ついでにスカンデルベウ広場の方へ出て、書店で「反ファシズム解放戦争までのアルバニア文学の歴史」という、科学アカデミーから1983年に出版された600ページ余りの本を購入した。前から店頭に出ていたので目はつけていたのだが、値段を訊くと2000レク!定価を見ると「30レク」だが、どちらかというと稀書の部類に入るし、20年近く前のレクの相場[当時パン1kgが2レクだったという記述を、ドイツ人の書いた本で見た憶えがある]を考えると妥当な額だろう。

 ところで今日はスイスからDJボボ[DJ Bobo ヨーロッパ大陸での知名度はかなり高いが、日本では知られているのだろうか?]が来訪、スカンデルベウ広場でライヴコンサートを行う。アルバニアでは初の、海外アーティストによる大規模な野外コンサートで、既に数日前から主要メディアが取り上げている。本を買ったついでに広場の方へ出てみると、国立劇場の正面をフルに利用してステージが設置され、広場中央の噴水の周辺には照明・音響機器やTVカメラが並んでいる。この場所で演奏したら、たぶん「『ナイム・フラシャリ』通り」のアパートに居ても聞こえるのではないだろうか。

 アパートに戻ると、白無垢の花嫁が家族に付き添われて階段を降りてきた。日曜日の婚礼である。いやめでたい。

 茹でたパスタに白チーズと卵を混ぜてオリーブ油で軽く焼く。タシャが作っていたものを真似したものだが、味は悪くない。昼食後、「クラン」の続きを読んだりTVを見たりして過ごす。

 夕方、一同帰宅。一方、私は午後6時台のコソヴォ関連ニュースをぼんやり眺めていたら「赤十字…日本の医師が…カナザワの大学病院に…」というくだりが聞こえて飛び上がる。断片的だが、ネズィルの話題であることは間違いない。

 エストレフ宅に逗留している私は必ずしも「お客様」ではない。多少アルバニア語ができるものだから、近くで電話が鳴ったりすると「イウラ、つかまえろ!(Kape!)」と言われることが多い[つまり『受話器取って!』という意味だが、最初は何だか分からなかった]。でこの時も電話を取るとオマリOmariとかいう人物が「エストレフ・ベガに頼む」とアルバニア語で言うので「エストレーフ!オマーリから!」と仕事場のエストレフに繋いだ(ベガ家には電話が少なくとも2台ある)。しばらく仕事部屋で「そう、日本から来た友達のイウラが…」とか話していたが、電話が済むと「イウラ、オマリから君によろしく言ってたよ(Ke të fala)」という。

 「オマリって誰?」と訊くと「スウェーデン・アルバニア友好協会の代表だよ」とエストレフ。

 「じゃスウェーデン人?」と訊くと「そうさ、アルバニア人よりアルバニア語うまいだろ」とエストレフ。

 確かに、外国人が喋っているとはまったく気付かなかった。似た様な例 だが、エストレフの留守中にアルバニア語の電話を受けた時「どうもアルバニア人ぽくない名前だな」と思いながら、帰宅したエストレフに伝えると「ああ、中国大使館の職員だよ」とこともなげに言う。じゃ中国人がアルバニア語喋ってたのか?!私にもまだまだ勉強が必要だ。

 8時のニュースでは、当日リナス空港へ到着したDJボボ一行、機材やスタッフを積み込んだ貸切バスを何台も連ねてティラナ市内へやって来たところ、国立劇場前でのリハーサル風景などが報じられている。そしてアナウンサーが「スカンデルベウ広場の××さ〜ん!」と呼びかける[アルバニアのTVではあんまり見かけない手法]と、何と広場は既に無数の人々で埋め尽くされている。8時半からはTVSHとRTSH(国営ラジオ局)がこのコンサートを終了まで生中継するという。

 「オープン・ハート協会Open Hearts Society」主催、ティラナ市とアルバニア文化省が協賛するこのコンサートには、アルバニアによる一連のコソヴォ避難民受け入れと帰還支援が一応の「成功」裡に終わったことを祝うという意味もある。とは言え、政治集会やデモ[や暴動や内乱]でない理由でこれだけの市民がスカンデルベウ広場に集まったのは、アルバニア史上これが初めてだろう。夕食を早めに済ませ、エストレフと居間でTV鑑賞の準備を整える。エリダは、コンサートを見に行ったのか、家にはいない。

 8時半、司会の挨拶に続いて先ずステージに上がったのはコソヴォの女性歌手アデリナ・イスマイリAdelina Ismajliだった。衣装を取っ替え引っ替え妖艶に踊りながら歌いまくる(たぶん口パク。でもこちらの歌手にはよくある話)。続いて世界各地の難民となったアーティスト達が結成した4人のグループ「Friends United Refugees」[『All Friends Refugees』と書いている新聞もある。年齢層は18〜24歳、出身国はイラン、ソマリア、カメルーン等]がアルバニア市民のコソヴォ支援に感謝と連帯のメッセージを述べ、演奏を披露。

 そして9時近くになっていよいよDJボボが登場。先ずは「Together」で客のごきげんをうかがい[って寄席の言い回しだな、これ]、歌い終わると英語で語りかけた;

Good evening, Albania! (applause) You know, I've learned some Albanian for you tonight. One moment... I hope you understand me... Mirembrema Tirana! (applause) Now it gets me difficult... Sonte dua te falenderoj Shqiperine me kete koncert! (applause) Per te gjithet refugjatet qe keni ndihmuar. (applause) Now it gets unbelievable difficult... Miresevini ne kete mbremje te paharrueshme! (applause)
「こんばんは、アルバニア!(歓声)え〜と、今夜のためにアルバニア語を習ったんだ。ちょっと待って…みんながわかってくれるといいんだけど…『こんばんは、ティラナ』(大歓声)次は難しいよ…『今夜、このコンサートができて、アルバニアに感謝します(歓声)みんなが助けた難民たちのために』(歓声)で、次もすごく難しいんだ…『ようこそ、忘れられないこの夜へ』(歓声)」

   この後聴衆にウェーブを求めてからもう一度「ティラーナー!」と叫んで一層ヒートアップ、立て続けに「Around this world」「It's my life」「Take control」「Like dreams come true」「Respect yourself」を熱唱。

 TVだけではない。家の外からも歌声とどよめきが聞こえてくる。窓から顔を出してみると、スカンデルベウ広場の方が昼間の様な明るさだ。

 DJボボは常に英語で聴衆に呼びかけているが、みんな正確に理解して反応している。エストレフは「アルバニアの若者はみんな英語ができるからね」と自慢気だが、しばらくしてふと
「スイスの歌手なのに何で英語なのかな?」
とつぶやいた。同感。

 この後ティラナの子供3人をステージに上げて更に新曲3曲を唄い、10時半に一旦終了。スタッフロールが流れ始めたが、広場の歓声はおさまらない。

 そこで再びDJボボがもう3曲唄い、結局中継が終わって最後の定時ニュースが始まったのは10時50分だった。


8月16日(月)

 昨晩エリダは結局戻らなかったが、朝になると西瓜を下げてタシャと一緒に帰って来た。

 ティラナ大学外国語学部のアリ・ヅリモAli Dhrimo教授(学部長)に電話を掛けたが、休暇中で当分戻らないという。「いつお戻りで?」と尋ねると「9月1日です」という。これでは話にならない。研究に関連する最大の予定の一つが潰れてしまった。それにしても、この夏のティラナでは[例年なら盛り沢山の]言語学に関する学会もセミナーも何一つない(少なくとも私には情報がなかった)。やはり今年上半期の出来事の影響だろうか?

 そろそろプリズレン行きの準備をしなければならない。今朝はプリズレンにあるAMDAの事務所に電話してみよう。通常回線は使えないが、衛星回線(インマルサット)の番号を日本・アルバニア協会のK氏から聞いてある。

 ところが何度番号を押してみても「アルバニア・テレコムです。あなたがおかけになった電話番号は存在しません」と恐ろしい答えが返ってくるばかり。これでは、プリズレンへの到着日時を知らせることもできない。一応K氏にその旨をE-mailで伝えてから外出。

 ティラナ銀行でドルを両替する。ここはティラナの金融機関の中でもかなり本格的な造りの銀行で、ガラス製扉に「Tërheqje/Pull」「Shtyje/Push」と2言語併記されており、ブザーを鳴らすと警備員が開けてくれる様になっている。客も多い。案内された窓口で、防弾ガラスの上に何か貼ってある。見ると「100ドル紙幣は交換に際し2%の手数料」「1996年発行の100ドル紙幣は交換に際し4%の手数料」と書かれている。11日に「スカンデルベグ・トラヴェル」で100ドル紙幣を受け付けなかった一件が思い出された。1996年発行の紙幣の交換手数料が更に割高なのは何故だろう。確かに1996年はアルバニア国内でも贋札の摘発が多かったが、それと関係があるのだろうか?

 100ドル札を含まない150ドルを出すと、19560レクになった。行員が数えている札束をガラス越しに眺めていると、その傍らに見たことのないレク紙幣がある。見せて貰うと、何と5000レク紙幣ではないか。ちなみに90年代に流通したレク紙幣のデザインは次の通りで、最高は1000レク札である;

[旧札]

   100レク 国民の戦士Luftëtari Kombëtar[コルチャにある石像]

   200レク イスマイル・チェマリIsmail Qemali[1844〜1919 政治家]

   500レク ナイム・フラシャリNaim Frashëri[1846〜1900 文学者]

  1000レク スカンデルベウ(軍装)

   アルバニア人の物価水準から見れば、1000レク札に対する感覚は日本人の一万円札に対するそれに近い。ところが一昨年頃から流通し始めた新札では、こんな顔ぶれになっている;

[新札]

   100レク ファン・ノリFan Noli[1882〜1965 文学者・政治家]

   200レク ナイム・フラシャリ

   500レク [未確認]

  1000レク ピェタル・ボグダニPjetër Bogdani[17世紀中頃〜1689 文学者]

  5000レク スカンデルベウ(平服)

   少額紙幣を用意してくれていた行員に頼み、敢えて5000レク札を1枚加えて貰った。旧1000レク札のスカンデルベウが兜を被り天空を見上げた勇壮な姿であるのに対して、この5000レク札のスカンデルベウは、聖職者の様な衣装を身に着けた穏やかな横顔である。1997年に他の日本人に同行してクルヤKrujë[ティラナ北方の山麓都市]のスカンデルベウ歴史博物館を訪ねた際、或る女性が展示品を見ながら「スカンデルベウって戦争が好きだったんですね」と感想を漏らしたので、そんなことはありませんよとスカンデルベウの文人・政治家としても優れていた面を説明したことがある。それを実証する様なデザインが新紙幣に採用されている。

 スカンデルベウ広場から見て東にある「バリケード通り」には、アルバニア映画のヴィデオを売っている土産店のキオスクがある。そこに立ち寄って、7日にTVで観た「白い道」のヴィデオを買い、ついでに「招かれざる者たち[Të paftuarit 原作はイスマイル・カダレ]」も買って(ヴィデオはどれも1本800レクらしい)からふと思い出し「アルバニアのアニメーションなんてある?」と店番の男(後日聞いたところによるとブヤルBujarという名)に尋ねると、在庫がないので入荷まで1週間かかるというので、それじゃコソヴォに行ってしまっているから無理だ、と立ち去りかけたが、よく考えたら2週間後には[何も問題がなければ、だが]ティラナに戻って来るのだから、その時に受け取ればいいのだ、と思い直して、店に引き返し注文しておく。
[以上、長いけど一文]

 それから科学アカデミー前の書店で「アルバニア語−英語−ドイツ語会話帳」が何冊も安売り(50レク)されていたのでAMDAの日本人スタッフ用に2冊購入した。ついでに、パスカル・ミロPaskal Milo外相が本職の歴史学者だった頃に書いた戦間期ユーゴスラヴィア史の研究書も安かった(50レク)ので買う。イスマイル・カダレIsmail Kadareの「夢宮殿Pallati i Ëndrrave」[仏文訳からの重訳が東京創元社より刊行されている]の新版が出ているので、これも買う。カダレは自著の版が変わる度に原稿に手を入れることが多い(井伏鱒二ほどではないが、中野重治くらいのことはする)ので、テクスト批評の観点から、異なる版も可能な限り手に入れておく必要があるのだ。

 帰宅、昼食、昼寝の後でアルベンに電話。午後6時半、国民歴史博物館前で待ち合わせてアルベンの自宅に招かれる。博物館の東側にある新しいマンションの一室で、2カ月前に引っ越したばかりだという。妻と息子2人、娘2人の新居だが、父や兄やその他大勢が「いつもの様に」来ているのはやはりアルバニア人の家庭である。

 「松前財団」の奨学生として研修のため訪日した時の写真を見せて貰い、アイスクリームとコーヒーを馳走になりながら日本の話などする。アルベンは、大学で非常勤講師をしている私のことを「profesor」と呼ぶが、これはどうも敬意を込めて呼んでいるらしい。帰り際にアルバニア語の正書法辞典を譲って貰う[が、広島の自宅に戻ったら本棚にあった]。

 その夜は「TVクラン」でアルバニア映画「自由か死かLiri a vdekje」(1979年)[1900年代の独立運動期に部隊を率いた文学者ミハル・グラメノMihal Gramenoが主人公]を観る。これもヴィデオがあれば買っておこう[結局買わなかったが]。


8月17日(火)

 朝起きるとまたCNNの様子がおかしい。トルコ北西部で震度6〜7の大きな地震が発生、1000人以上が死亡したとの情報が繰り返し流されている。しかし崩れた街の様子から見ると、死者が1000人程度で済んだとは思えない。1995年の経験から考えれば、行方不明者の詳細が判明しない内はしばらく情報が錯綜するだろう。

 今朝はジェルジに電話してから、大蔵省へ出かける。途中ヂェラリと顔を合わせる。アルバニア銀行近くの本屋の前の露店で新聞を買おうとしたら「おや、日本人だよ」と言われる。ここでは以前の滞在時にも新聞・雑誌を買っていたので、何となく記憶されていたらしい。

 更に、大蔵省へ向かう大通りの露店でも「日本人ですね?」と話しかけられる。こんなことは珍しい。ちなみにこの露店は、地方紙やマイナーな政党機関紙の在庫が豊富で、今日は「アルバニア共産党(Partia Komuniste e Shqipërisë=PKSH)」の機関紙「真実の声Zëri i së Vërtetë」を買う。この紙名、どう見ても「Zëri i Popullit」のもじりである。ここ数年、アルバニア労働党の後継を自称する政党の刊行物をしばしば見かける様になった。

 予算課に行くと案の定ジェルジは忙しそうだったので、エヴァにコーヒーを持って来て貰い(もはや常連客扱い)、いつもより多めに買っておいた新聞を読む。昨日が新聞休刊日(『シェクリ』を除く)だったので、今朝の各紙で日曜夜の「DJボボ」ライヴ特集が組まれている。「ガゼタ・シュチプタレ」によれば、3時間近くに及ぶコンサートに7万人もの市民が集まったという。

 だが、1面見出しを飾っていたのは全く別の事件だった。トロポヤで4日に起きた爆弾テロの負傷者の1人で、地元警察のファトミル・ハクライFatmir Haklaj元警部(komisar)が、1年前の殺人事件の容疑者として、入院先のティラナ軍病院内で逮捕されたのである。一連の事件の背景には、トロポヤ警察内部におけるハクライ元警部の派閥と、その上司であるヨヌズ・ヒュカイJonuz Hykaj署長(drejtor)の派閥との一族郎党をも巻き込んだ抗争があり、しかもアゼム・ハイダリ暗殺事件にこのハクライ派が関与しているのでは?という疑惑にも問題は及んでいる。5日付の「シェクリ」に遡って解説記事を引用しておこう;

   ファトミル・ハクライと言えば北部では、ベリシャによる反対派弾圧への「抵抗者」として知られた人物だ。彼は今回も含めて3度、遠隔操作による爆弾テロに遭いながらその度に生還している。4月初めの事件では奇跡的に一命を取り留めたが、22歳の従兄弟が身代わりに命を落としてしまった。

 その1週間後、ティラナの中心部でガニ・ネザイGani Nezajが「処刑」された[ファトミル・ハクライ暗殺未遂への報復と見られる]。彼はアゼム・ハイダリに近い人物で、ハクライに対する暗殺未遂事件の最重要容疑者とされていた。

 ベリシャ時代、北部の「右派」による「あらゆる左派」への攻撃に抵抗したことで名を知られるハクライ・ファミリーだが、ここ数年はネザイ、ルザイLuzaj、ホルツァイHolucajといった北部の有力ファミリーの陰に隠れて「機能不全」状態だった。

 一方で最近は、ファトミルの上司ヨヌズ・ヒュカイとの抗争があった。ファトミル・ハクライはバイラム・ツリ市の警部だったが、後に解任されている。しかし今回の暗殺未遂事件が起こるまで、市警察署の警察部門の指揮を行っていた。

 昨日の事件で死亡したセリズ・クルナイSeriz Kërnaj[『コハ・ヨネ』ではフェリトFerit・クルナイと書かれている]は、ハクライの取り巻き連中の一人として知られるが、アゼム・ハイダリの盟友イスフ・ハルツィIsuf Haluciを殺害した罪に問われ、25年の禁固刑を受けていた。バンチャBënçëの刑務所でファトス・ナノFatos Nanoと一緒に撮った写真が、マスコミに公開されたこともある。

 [自動車爆発から45分後、市庁舎前で射殺された]ベスリム・ヒュカイBeslim Hykaj[『コハ・ヨネ』ではビスリムBislim]はヨヌズ・ヒュカイの兄弟で、トロポヤの社会党指導部の一員だが、一連の暗殺事件の黒幕が彼の兄弟[つまりヨヌズ]ではないかとの疑惑の中で、報復として殺されたと見られる。

   予備知識がないと人間関係が理解し辛い(私も一回目に読んだ時は『???』だった)ので、整理してみよう。北部の社会党人脈の中にハクライ派とヒュカイ派があって、ハクライ派は労働党時代からの人脈に連なるナノ前首相の側に属している(だから、ナノの『宿敵』ベリシャが率いる右派に抵抗したわけだ)。一方ヒュカイ派は社会党でありながら、むしろ民主党の若手アゼム・ハイダリに近い。この両派間の抗争が首都に波及した結果、ハクライ派による…と思われる…ハイダリ暗殺が起こった、ということなのだろう。

 興味深いのは、そのハクライ派の頭目であるファトミルが、ナノに近い社会党側の有力人物(かどうか少々不明瞭だが、左派であることは確かだ)でありながら、現社会党政権の下で逮捕されてしまったということだ(しかも病院内逮捕という強硬措置)。ということは、現首相であるマイコは先輩であるナノに対して少しも遠慮していない、ということなのだろうか。記事を読みながら「若手」vs「古株」?という図式が私の頭の中に浮かんだ。

 ミトロヴィツァの問題で、国連とKFORが調停に当たった結果「今後1週間以内にアルバニア人の25家族が橋を通過して市北側地域に入り、各自の住居を定めること」「(国連とKFORのスタッフから成る)作業部隊を編成し、橋を通過する住民の身元確認を行なうこと」の2点でアルバニア人側と合意した。ただしセルビア人側が同意していないから、情勢は不透明で紆余曲折が予想される(おっと、マスコミ風の言い回しを使ってしまった)。

 「ガゼタ・シュチプタレGazeta Shqiptare」に国鉄当局が油漕トラックautobotと機関車用燃料の競争入札に関する告知を載せているが、なぜか新幹線のイラスト(しかも新型)が入っている。ジェルジに見せると「センカンシン!」とはしゃいでいる。そのジェルジが「『コハ・ヨネ』に日本人が出ている」と言うので、見せて貰うと野呂田防衛庁長官とロシアのセルゲイエフ国防相が握手していた。軍事面での日露接近の背景について「アジア太平洋地域の安定に対する懸念」以外に具体的な言及は見られないが「中国と朝鮮半島を意識しているんだろう」とジェルジに話しかけると「そうだね」と同意を得る。ただし一般のアルバニア人が極東情勢に通じているとは限らないので、この様な「打てば響く」やりとりは通常余り期待できない。

 経済専門紙「エコノミアekonomia」によればアルバニアの失業率は1998年の14.9%から今年17.7%に増加している。一方で就業者数は110万7000人から108万5000人に減少しているが、内訳を調べると、国営部門と民間非農業部門で人数の微減が見られる。

 結局、仕事場で話はしたものの昼食にありつけず(!)、20日からコソヴォへ行く件を伝えて退出。途中「カヴァヤ通り」で大きめの布製鞄を購入。帰宅してベティムに電話するが、こちらも明日まで不在だという。

 夕方エストレフに同行し、グラムシで撮った写真を取りに行く。大半は良く写っているのだが、グラムシで買ったフィルムの質が少々悪い。現像すると明度が低く、全体として暗い写真になっている。それでいささか不機嫌だったのに加えて、その晩洗濯機が異様な音を立てて故障。「これで3度目だ!」「20万レクも出したのに!」と洗濯機を蹴っ飛ばしてエストレフは憤まんやるかたない[ところがあとでアギムに聞いたら540ドルだという。どちらが正しいのか?]。私もエリダもなだめ様がないので部屋に戻る。


8月18日(水)

 「過去20年間で最大級」というトルコの地震による死者は既に3000人を上回っている。アルバニアにとって他人事でもない。アルバニアの2階建て以上の建築物の多くが、単にブロックを積み重ねて壁を塗り上げただけのもので、今回の様な地震に見舞われたら、恐らくひとたまりもないからだ。これには、1970年代に北部で一度大きな地震を経験して以降アルバニアでは地震らしい地震がなく、耐震構造など差し迫って考える必要がなかった、という地理的条件も関係している。全ての建物がそうだという訳ではないが、「アルバニアでは起こりません様に」というのが人々の正直な感想だろう。
[事実この点については、20日付の『コハ・ヨネ』で特集記事が掲載されていた]

 本日は特に予定もないので、午前中にティラナ大学の図書館を訪ねることにする。6日に会ったトニン・シュティエフニ館長に電話してみると、すぐ来てもいいとの返事。「『殉国者』大通り」の南側突き当たりにある大学まで歩き、守衛室に「図書館は?」と聞くと大通りの東側、「チェマル・スタファQemal Stafa競技場」にある建物だという。

 言われた通りの建物に入り、入口の部屋で館長室を訪ねると留守中だった。少し待つことにして他の部屋を覗いてみるが、午前中なのに閉まっている場所が多い。夏休みだからだろうか?その内トニンが戻って来たので、幾つかの部屋を案内して貰う。

 「ティラナ大学」といっても、研究・教育機関は市内各所に分散している。この「『殉国者』大通り」にあるのは主にポリテクニカpoliteknika(一般教養とか総合科学といったところ)の施設である。私が訪れているこの図書館も人文系が主で、蔵書60万冊、言語毎に英語、ドイツ語、ギリシア語、イタリア語の部門に分けられている。「フランス語は?」と訊くと、これは言語学部門に一括されているという。できればドイツ語関連書籍が見たかったのだが、部屋を管理している教授がいないのか、夏休みだからなのか閉まっていた。たまたま開いていた英語書籍の部屋を見せて貰うと、秘書が案内してくれた。コンピュータの検索システムもあるし、新しい雑誌も入っている。開館時間は土日を除く朝8時から夜7時まで。昼休みはないらしい。インターネットも使用可能だ。ただ、各教官や学生がE-mailのアドレスを持ったりホームページを開いたり…という段階までは進んでいない。その他一般市民の貸し出し条件など、トニンの部屋で幾つか質問するが、日本の図書館とほとんどつながりがないので何とかして欲しいと持ちかけられる。と言われても、アルバニア[語]に対する関心が高くないから、急に相互の貸し出しが活発になるということは期待できないだろう。私が広島大学図書館から借出願を出して、先鞭を着けてみようか?[と考えながら未だやっていない]

 トニンにギリシア大使館関係者と会う約束があるというので、私は書籍受け入れ係の女性から話を聞くことになった。やたら早口でいろいろなことを教えてくれたのだが、最大のポイントはとにかく「予算が足りない」だった。1998年に東京大工学部のと或る研究室から寄贈された紀要を見せて「今年も送って欲しいので、ここと連絡が付く様にしてくれませんか?」というから快く引き受けた。

 図書館見学を1時間くらいで終えると、今度は「大通り」を北へ進み、アルベス社に立ち寄って、エヴァからプリズレン行きのバス乗車券を買う。その後、「カヴァヤ通り」の露店を廻って小型の目覚まし時計(400レク)を買っておく。購入時に「Japan」という文字が見えたが、持ち帰ってよく見ると「made in Japan」ではなく「Japan parts」と書いてある。ということは、どこで組み立てたんだ?

 家に戻ると、K氏からE-mailが届いていた。アブデュラハマンから母親宛の伝言が併記されている。どれどれ…ん?…全文トルコ語!そう言えば、金沢にいるアブデュラハマンとは数回会って話したが、彼はプリズレンの学校ではトルコ語を習っていたという。またネズィルが入院している金沢大学病院でも、この両親が研修中のトルコ人医師とトルコ語で話し合っている風景を目撃したことがある。かつてオスマン・トルコの支配下にあったバルカン半島の国々(ギリシア、アルバニア、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ルーマニア)では、言語や衣食住の随所にトルコ文化の名残りを見ることができる。それはよく承知しているが、日常生活でトルコ語を使うアルバニア人は私も見たことがない。一体プリズレンとはどういう場所なのか。

 夕方ベティムに電話して、明日正午に「カヴァヤ通り」の作家・芸術家同盟Lidhja e shkrimtarëve e të artistëve本部前で待ち合わせることにする。


8月19日(木)

 明日から「ミレニアム」でロバート・デ・ニーロの「ローニンRonin」が上映されるそうだ。

 朝、外出しようとしたらアパートの階段踊り場でスピロSpiroに会う。ホテル・ティラナの近くにあるホテル「ステラStela」の経営者の一人だ[この人は、1997年の滞在記で大活躍しています]。アパート傍の雑貨店主[ああこの人も名前聞いてない!]に会ったので、明日コソヴォへ行くことを話す。

もしかしたらコソヴォでラジオや演説を録音する機会があるかも知れないから、カセットテープを買っておこう。そこでと或る「レコード店」(日本なら今は『CDショップ』だろう。アルバニアではCDの普及率がまだ低く、カセットテープが主流)に入ると、15日のDJボボのライヴの音が流れている[私はRTSHの中継を自分で録音した]。1本200レクのカセットテープを買い、ついでにアルバニア・ポップスのテープを何本か見つくろって貰ったが、こちらも1本200レクというから不思議だ。どうして何も録音されていないテープと曲の入ったテープが同額なのか?まだまだアルバニアには解明できないことが多い。

 もしかしたらコソヴォから戻って来られないかも知れないから、親しい人に手紙を出しておこう。そこで郵便局へ行くと、昨日会ったばかりのトニンとばったり顔を合わせる。

 正午にベティムと会うまで、まだ充分時間がある。今日も露店でアルバニア共産党の機関紙「真実の声」を見つけた[他日、この新聞がエストレフの机の上に置かれていた。自分用か顧客向けか?]ので購入。もしかしたらコソヴォから戻って来られないかも知れないから、他にも党派関連を買っておく[日本のキオスクではピンと来ないが、ヨーロッパでは新聞に党派色があるのは当たり前だし、時々面白い記事もあるので買ってみて損はない]。

 「シュクンディヤShkëndija(火花)」は昨年まで「アルバニア共産党(再建)(Partia Komuniste Shqiptare (e Rindërtuar)=PKSH(R))」の機関紙だったが、今日買ってみると出版元が「アルバニア統一共産主義者党(Partia e Komunistëve të Bashkuar të Shqipërisë=PKBSH)」に変わり(しかも日本に戻って確認すると、当時の紙名は"Shkendia"だった。正書法はどっちだ?)、近頃私が買ったネヂミイェ・ホヂャNexhimije Hoxha[エンヴェル・ホヂャ未亡人]の回想記「私とエンヴェルとの日々Jeta ime me ENVERIN」の書評が載っている。ところで、昨年の滞在時にもう一つ「新・アルバニア労働党(Partia e Re e Punës së Shqipërisë=PRPSH)」の結党が確認されている[『コハ・ヨネ』1998年8月18日付。ちなみにここに示した3党はアルバニア法務省の認可を受けた合法政党]が、これはどうなったのだろう?

 アルベス社で明日の出発時間を確認。このしつこい日本人客にも嫌な顔ひとつせず対応してくれるのが有難い。「20日の朝6時半に、ここの前に赤いマイクロバスが来ますから」との詳しい情報を聞いておく。

 もしかしたらコソヴォから戻って来られないかも知れないから、科学アカデミー前の書店で少々奮発していろいろ本を買う。ここは、すぐ近くに民主党の本部があるのだが、その横の「『ムラト・トプタニMurat Toptani』通り」に15階建てくらいで総ガラス張りの立派なテナントビル「ジェルジ・センターGjergj Center」がある。こいつが「エトヘム・ベイのモスク」の背後にそびえる形になっているもんだから、スカンデルベウ広場の景観がぶち壊しだ。

 もしかしたらコソヴォから戻って来られないかも知れないから…って何度目だこの言い回し!それに敢えて「ら抜き」じゃないし…アルバニア銀行脇の書店でも本を買う。店主[ああ未だに名前が分からない!]と話していたら、外回り中のエストレフが店内に入って来た。背後から「おぉイウラ同志!」と叫ばれたので、驚いた余り、新刊で平積みされていた雑誌「アルバニア・アーカイヴArkivi shqiptar」創刊号を買い忘れそうになった。これはアルバニア中央文書館が初めて発行する雑誌で、文書保管の諸問題に関する[たぶん]興味深い論文が満載だ。図書館関係者必読(?)だ

 そんなこんなで時間を潰している内に12時が近付いたので、そこから歩いて5分程度の作家同盟本部に行く。鉄柵に囲まれた御立派な建物だ。隣が「ランデヴーRendez-vous」という名のカフェになっている。すぐ近くには90年代初頭に建立されたモスクxhamiがあって、しばしばアラビア語の説教を大音響で流している。開いた書物の上にペンが2本交差されたレリーフ[作家同盟の徽章]のある大きな正門の前に立ち、ベティムはどこかなと見回していたら、カフェの方から呼ぶ声がした。

 ベティム・ムチョは英語も完璧だが、私とはアルバニア語でしか話さない。母語であるのをいいことに(?)かなり早口で喋る傾向がある。油断できない。彼の最新作「引き出しSirtarët」にその場でサインしたものを頂戴する。私もお返しに、エストレフに渡したのと同じ「ヒロシマを世界に」を贈る。以前にも「ヒロシマ」と題する詩を書いたことのあるベティムに「これで、新しい詩のインスピレイションがわくだろう?」と指摘する。

 1時間ばかり、彼の専門分野である地震の話、特に、今トルコの地震のデータを集めているという話、アルバニアの文壇における人間関係裏話[詳細は面倒臭い上に解りづらいから略。しかしそれを作家同盟の敷地内で現役作家から聞かされるというのも、何だか凄い話だ]などを聞く。会話の中で、ベティムの月給が30000レクであることが判明。妻も経済学者だから収入は同じくらいだろう。単純に考えると月60000レクで家計をやりくりすることになるが、本も買わなければならないし、アメリカに留学している長女に少しは廻さなければならないだろう(アメリカの大学の学費の高さを考えると、私費留学とは考えにくい。現地で何か奨学金を受け取っている筈だ)し、やっぱり楽ではなさそうだ。「本が高い!」「本を出すのも高い!」とベティムは嘆くが、実はその時私の手元には、先程買いまくった書籍7冊、新聞・雑誌8部、おまけにカセットテープが5本、手提げのビニール袋に詰め込んで椅子の下に置いてあったのだ。恐らく総額3500レクは上回っている。何となく気が引けて、買物品が目立たない様に気を遣う。

 「明日プリズレンに行くよ」と告げると、ベティムは露骨に不安そうな表情になった。「一人でバスに乗っていくのは勧められないな」とか「誰か案内人を見つけた方がいいんじゃないか」とか、やたら事態を悪くとらえている。むしろ初めてコソヴォへ行く私の方が「大丈夫、問題ない(S'ka problem)」となだめる始末。それでもベティムは最後まで「ティラナに戻ったら電話してくれよ」と念を押していた。

 途中までベティムの車に乗せて貰い、ミネラルウォータ「グリナ」を3本買って帰宅。

 昼食後、昼寝しようとしたら国際電話だ。K氏とアブデュラハマンからである。「プリズレンのバスセンターに着いたら、実家に電話するんだよ。タクシーは高いから、車で迎えに来て貰いなさい。それと、プリズレンじゃ車は『マキナmakinë』じゃなくて『アウトモビレautomobile』だからね。『マキナ』じゃ通じないよ!」とアブデュラハマンは御丁寧にも方言差まで注意してくれた[その辺りの事情は、プリズレンに着いて数日後に判明することとなる]。

 夕方は居間で「シェクリ」を読む。DJボボの特集(夕方のTVSHでも15日のドキュメントが放送されていた)、それに、アルバニア映画界の名女優ヴィオレタ・マヌシVioleta Manushiの「その後」を紹介した記事が載っている。私はこの人の代表作「町から来た婦人Zonja nga qyteti」(1976)のヴィデオを昨年買って観た。ヴィオレタ・マヌシ扮する主人公オルガOllgaは、医師である娘の赴任に伴って、と或る農村へ引っ越すことになる。しかしティラナの生活に慣れきったオルガは、田舎の生活リズムに馴染めない。娘が地元の若い男性教師と親しくなって、農村での党活動にも積極的に参加している[当時の芸術作品でも欠かせない描写]のに、ティラナの友人に手紙を書いて憂さを晴らす毎日。そんな彼女がやがて農民・労働者の勤勉さや真面目さに触れ、心を開いていく様子が喜劇として描かれている。当時の中国と同様、農村と都市の格差解消をスローガンとして掲げていた労働党の価値観が色濃く出ている…のは間違いないが、それでも人物描写の細かさ、舞台技術を応用したコミカルな作風(しかもオープニングがアニメーション)は、今見ても充分面白い。そのマヌシも今では脚と眼がすっかり悪くなり、外出もせず新聞もまったく読まない。それでもTVドラマは好んで観るし、毎日の様に訪ねてくる同年輩の女友達と世間話をするのが楽しいという。労働党時代の名俳優達の多くは既に他界、または引退しているが、たまにこういう記事で消息が分かると、少々得した様な気分になる。

 この日の同紙は、見開き2面を費やしてドリテロ・アゴリの独占インタヴューを掲載している。近頃のコソヴォ情勢やマイコ訪問などをめぐって、アルバニアを代表する長老作家としての意見を述べているが、傍らにいたエストレフとアギムが注目し、声を出して読み上げた箇所がある;

「コソヴォ解放軍がいなければ、NATOはコソヴォへ入れなかっただろう。何故なら、ルゴヴァの政策は何の役にも立たなかったからだ。コソヴォ解放軍のみが、コソヴォをセルビアから解放した英雄なのだ。だからコソヴォではハシム・サチが代表であるべきだし、他の人達も彼こそを大統領と呼ぶだろうし、あとは自分たちの好きな様に自称すればいい」

   恐らくこの発言には伏線がある。パンデリ・マイコが14日のコソヴォ訪問時に、イブラヒム・ルゴヴァを「大統領」と呼んだという話があるのだ。従来あくまでも非合法政権だった「コソヴォ共和国」の「大統領」を、アルバニアの首相が公式訪問の席で「大統領」と呼びかけたことには、それなりの重みがある。アルバニアのメディアでもちょっとした話題になった。アゴリもインタヴューの前半でそのこと自体は肯定的に評価している。しかし上に引用した部分(こちらはインタヴューの末尾の方)からも明らかな様に、ルゴヴァの非暴力路線とその結果[とルゴヴァが戦争中ずっと海外で活動していたこと]に対し、彼はどうも高い評価を与えてはいないらしい。10代の頃にパルティザンに加わり、枢軸側の支配勢力と闘った経験を持つ古参の労働党〜社会党員であるアゴリにとって、ともすれば「非暴力」を錦の御旗にするかの様なルゴヴァの「外遊」パフォーマンスは、好ましく感じられないのかも知れない。[>付記]

 しかし更に興味深いのは、そのくだりを声を出して読み上げた程に関心を示したエストレフとアギム(共に戦後生まれ)が、内容自体には大して共感している風にも見えないことだ。実際、ティラナに住むアルバニア人が日常的な場面でコソヴォ解放軍に深く共感する機会は余りないだろうし、個々人のレヴェルではかなり醒めた視点で見ているのかも知れない。だから、コソヴォ解放軍の活動とアルバニアの民族解放の闘いの歴史を安易に同一線上に結び付けたり、やたらと「伝説」を作りたがる様なことも[外国人が予想する程には多く]ないのかも知れない。

 夜になって洗濯機の修理人が2人やって来る。エストレフは2人が「いいですいいです」と言っているのに「いいからいいから」と200レク紙幣を握らせている(保証期間内の修理だから無料なのに)。太っ腹な人だ。

 そのエストレフだが、今日は私のコソヴォ行きに異常な心配ぶりを見せている。「クカスに着くのは夜じゃないか?」とか「警官がバスに着いて来ないのかい?」とか、心配する内容がやや現実からずれているのではないか。このエストレフといいベティムといい、先日のアギムやニコの対応といい、ことコソヴォの問題となると、一般のアルバニア人の知識情報は存外曖昧だ[この印象はコソヴォから戻って更に強化される。後述]。

 いつもより少々早く10時半頃に就寝。


[ここまでのあらすじ;今年もアルバニアで夏のヴァカンスをのんべんだらりと楽しんでいた(ウソ)井浦伊知郎は、日本・アルバニア協会のK事務局長の勧めで、陸路、コソヴォ南西部の都市プリズレンPrizrenを訪ねることになった。プリズレンは、金沢大学病院で『網膜芽腫』の治療を受けているネズィル・シニクNezir Shinik少年、その父アブデュラハマンAbdyrrahman Shinikと母ヒュルメテHyrmete Shinikの故郷である。井浦伊知郎はプリズレンでシニク親子の実家を訪ね、現地で活躍するAMDA(アジア医師連絡協議会)のスタッフや、運転手兼通訳のアギム・グリAgim Guriに、日本からのメッセージを届けるのだった…]


8月20日(金)

 午前5時起床。早めに朝食を済ませて出かけよう…と思ったらこんな日に限ってトマトも胡瓜もバターも冷蔵庫に全然ない!パンも戸棚に一切れだけ。いつもならたっぷり1キロ分位のかたまりが常備してあるのに、何とも間が悪い。そのパンに、辛うじてひとすくい分だけ残っていたジャムをつけて朝食終了。ごそごそやっているとエストレフが起き出し「道中気を付けなさい。欲しい本は買ったかい?え、まだ?じゃ日本から注文してくれ」とひとしきり喋ってまた就寝。寝惚けているのか、どうも私がそのまま日本に帰ってしまうと思っているらしい。

 家を出て、通りで朝いちの新聞を買い、6時少し過ぎにホテル・ティラナ横に到着。6時半頃にアルベス社の用意した赤いマイクロバスが来るはずだが、それらしい車は見当たらない。早く出発したとは考えにくいが、大通りには既に大型のバスが数台、客待ちで停まっている。その中の1台に近付いて運転手に「プリズレン行き?」と尋ねると、「プリズレン経由でプリシュティナ行き」と言う。しかし乗車券を見せると、「会社が違うのでこれでは乗れない」と言う。アルベス社に訊きに行こうにも、店はまだ開いていない。

 そうこうするうち6時半を過ぎ、7時になっても赤いマイクロバスは来ない。鞄を提げてうろうろする日本人が気になったのか、キオスク前でたむろする人達が私を呼び止め、あちらのバスこちらのバスと連れ回って談判してくれるが埒があかない(要するにこの『バスセンター』を管理する人達なのだろうが、外見が只のおっさんなので、誰が何の役割なのやら、どこからどこまで権限があるのやら見当もつかない)。アルベスより大きな「ルディRudi」という会社が近くにあるらしいのだが、何しろアルベスのバスの行方がはっきりしないものだから、全く動きがとれない。

 そうこうするうち8時近くなり、そこへ「アルベスのバスは事故に遭ったらしい」という有力情報(?)が舞い込んで来た。間もなくアルベス社が開店し、直接赴いて事実を確認(エヴァではなく別の女性だった。きっとレディだろう)。それでは別会社に乗り換えるからと断って50マルクを返してもらい、数十メートル先のルディ社で同額の乗車券を購入した(『アルベスより大きな会社』なのにキオスク大の店舗に机と椅子が一組だけで店主1人しかいなかったのは今でも謎だ。コソヴォにでかい本社でもあるのだろうか?)。

 出発は午前8時。もう時間がない。急いで先程の大型バスに乗ろうとすると
「今朝は出ないよ」

 と運転手がまた恐ろしいことを言う。理由は
「客がおたくを含めて2人しかいないから」

 そう言われて見ると、確かに最前列の席に老紳士が1人座っている他は誰もいない。その老紳士も、運転手に何か話しかけられるやさっさと降りて立ち去ってしまった。「ルディ」に戻ると、店主とバスの所有者が居合わせて、運転手と同じことを言う。つまり、客が2人じゃ商売にならんというわけだ。新たな出発時刻は、午後5時半。
「あぁこれがアルバニアか!」と今更ながら慨嘆すると、店主に「そう、そう、これがバルカンさ」と妙な慰めの言葉をかけられた。

 取り敢えずエストレフ宅に戻ることにして、もう少しマルクを準備しておこうと銀行に寄った。ところがその際に財布の中を確認したら、どうも100マルク足りない。さっき「ルディ」で余計に払ったのかと引き返し、店主に尋ねると「誓ってそんなことはない」と主張する。それでは?と「アルベス」に行くと、うまい具合にエヴァがいた。事情を説明すると、既に帰宅しているレディに電話をかけてくれた。しばらく話していたが、間もなく「確かにその通りですわ」と金庫から100マルクを出してくれた。
【問題。レディさんは井浦さんに50マルクを返そうとしましたが、100マルク紙幣しか持っていませんでした。そこで井浦さんがレディさんに50マルク紙幣を渡し、レディさんが井浦さんに100マルク紙幣を渡すことにしました。ところが実際は、井浦さんがレディさんに100マルクを渡し、レディさんが井浦さんに50マルクを渡してしまいました。さて井浦さんはいくら損したでしょう?】

 両替の後、時間があるので本屋に寄り、更に水とフィルムを買い足して帰宅。TVを見て昼食まで時間を潰し、自分のベッドが片付けられていたので居間のソファで昼寝し(と思ったらK氏とアブデュラハマンから国際電話でまた起こされた)、気を取り直して5時少し前に再出発した。

 さてホテルの傍に着くと、既に多くの客が集まっている。今度は出発できそうだ。2台のバスに老若男女ぎっしり乗り込み(私は1号車)、満席になったところで出発した。時刻は17時10分…って予定より早いぞ!プリズレン到着は明朝5時〜6時だという。

 発進と同時にクーラーが動き出すが、全然役に立たない。しかも窓は開かない。座っているだけなのにたちまち汗がだらだら流れ出した。間もなく運転手が天井窓を全開し、風が吹き込んでどうにか楽になる。ただ「車内禁煙」ではないので、今度はタバコの煙が気になってしまう。が、アルバニアでは万事折り込み済みなので腹を決めて景色に目を遣る。市内を出ると、右手にクルヤの街並みが見える。カーステレオからは民謡が流れている。大人はまあまあな気分だが、子供は既にノビている。

 フシャ・クルヤFushë Krujë(先述のクルヤへ登る途上の町)を抜け、ラチLaç、ミロトMilot、そして恐らくルビクRubik等の都市を通過した辺りから、道路がうねり始め、勾配が急になって来た。それまでどちらかと言えば西部の平地を走っていたのが、いよいよクカスへ向かって東西を横切る山道に入ったらしい。道路の舗装状態が徐々に悪化し始める(ただ、所々やけにきちんと舗装されている箇所もあるのだが、これはAFORの仕事だろう)。

 何やら警察の検問で手間取った後、7時半頃にレストランのある所で停車・休憩。皆、食事をしたり水を汲んだりトイレに行ったりタバコを吸ったり思い思いに過ごしている。私の隣の親子は車内でパンとチーズと果物の弁当を広げている。

 運転手を交代して約1時間後に再出発。休憩している間に、日はとっぷりと暮れてしまった。真っ暗な山道(街路灯?車線?ガードレール?ありません、そんなもの)をバスのヘッドライトで照らしながらうねうねと進む。もはや舗装は無いも同然。凸凹が多く、しかも曲がりくねっていて、大型バスでは余りスピードが出せない。それでも運転手は見事なハンドルさばきで走り抜けていく。そう言えば、ドイツで出ているアルバニアのガイドブックに「アルバニアのドライヴァーは自動車修理の達人ですdie albanischen Autoschloßer sind wahre Meister der Improvisation」なんて書いてあったなぁ、等と思い出して気を紛らわせる。

 11時頃、再び水のある場所で休憩。既に街らしき場所を数回走り抜けている。プカPukëもクカスも通り過ぎたのだろうか。水を汲み、野外で用を足して(!)から車内で大人しく待っていると、外で談笑していたアルバニア人達の1人が来て、英語で話しかけてきた。「アルバニア語できますよ」と答えると一瞬びっくりし「もしや日本人ではありませんか?」と言う。こちらもちょっと意外だったが、服装や雰囲気で判った様だ。プリズレンへ行く事情を話すと「2号車の方がもう少し綺麗だから、そちらに移られてはどうか」と言う。こういう旅には慣れているし、アルバニア人と一緒に行動したいから大丈夫だ、と答えると、彼は満足した様子で仲間の所へ報告に戻った。案の定、外から私の方を見てあれこれ話している様子だ。元気があれば話の輪に入るところだが、かなり体力を消耗しているので席に留まる。何しろ、走行中の激しい揺れ(網棚から水のペットボトルが落下してきた程)で上半身が座席からずり下がっていく為、背筋に力を入れっ放しだったので。

 再び走り出してから間もなく、日付が変わった。


8月21日(土)

 ティラナを出発して約9時間後の午前2時30分、国境検問所らしき建物に近付いてスピードが落ちる。前方で数台の自家用車が順番を待っている。真っ暗でよく見えないが、アルバニア側は検査らしい検査もなく通過。

 そこから数十メートル進むと、もうコソヴォの検問所である。乗客の何人かはドイツ語の挨拶を予習している。アルバニアに接するコソヴォの南西部はドイツ連邦軍の管轄なのだ。案の定、「黒・赤・金」の肩章を着けたドイツ兵がバスを停める。運転手の書類を確認し、外から大型のライトで車内を照らす。だが特にパスポートを見せることもなく、ヴィザ購入の必要もなく、バスは走り出した。この間15分足らず。呆気ないが、考えてみればここから先は現在「国家」ではなく、あくまでKFORの暫定統治下にある「地域」である。ヴィザなんぞ誰も必要としていない。要は、差し迫って危険なもの(特に武器)を持ち込んでいないことが確認できれば良いのだ。少し前の旅行案内書に「アルバニア語の書籍・新聞はユーゴスラヴィア国境で没収されます」とあったが、勿論それもなし。

 私はコソヴォに入った。

 気のせいか、少々道路が良くなった様に感じられる(帰路に確認したら、気のせいではなかった)。乗客もひと安心してくつろいでいる様子だ。

 のんびり乗っていたら、小さな街に入って停車した。プリズレンのバス停留所である。時刻は午前3時15分。予定よりずっと早い。

 プリシュティナ行きの乗客らと別れ、他数名と下車したが、さてこれからどうするか?アブデュラハマンの実家はアルバニア語で「ドルヴァルDrvar通り」、セルビア語で「ドルヴァスカDrvarska通り」だが、一緒に降りた人に訊いても誰も分からない。タクシーを停めて休憩している運転手達に尋ねたが、街の中心だろうということ以外は有力な情報がない。電話番号は聞いているが、電話ボックスなんて気の利いたものはない。AMDAの場所も分からない(OSCEの車は通り過ぎたが、こりゃ関係ないだろう)し、電話を貸してくれそうなどこかの店が開くまで、他の人達と夜明けを待つことにした。通りには人影も見当たらない。たまに荷物を積んだトラックがプリシュティナ方面へ走り去る位のものだ。

トルコ軍の装甲車が地響きを立てて通り過ぎる。タクシーの運転手連中が手を振ると、操縦台のトルコ兵も手を振って応えた。プリズレンはトルコと縁が深い、とアブデュラハマンが言っていたが、ここのKFORにはトルコ軍も参加しているのだろうか。

 ちなみに、6月中旬の進駐初期におけるKFOR総兵力40000〜50000人の国籍別展開状況を概観すると次の様になる。ドイツ連邦軍がプリズレンを中心とする南部に8500人、イタリア軍がペヤPejëを中心とする西部に7000人、フランス軍がミトロヴィツァMitrovicëを中心とする北部に7000人、ロシア軍がポドゥイェヴェPodujevëを中心とする北東部に5000〜10000人(なぜこんなに兵力数が揺らいでいるかについては、数日後に判明する)、アメリカ軍がジランGjilanを中心とする東部に9000人、そしてプリシュティナを中心とする地域にはイギリス軍が13000人。(以上、"Der Spiegel" 24/1999による)[>付記]

 5時を過ぎた辺りから、プリシュティナやティラナへのバスに乗る人達がぼちぼち姿を現し始め、タクシーやマイクロバスが次々に移動を開始した(これだけ本数があるのなら、ティラナへ戻る時の交通手段の確保は楽そうだな、と思った)。6時には完全に陽も昇り、パン屋やカフェが開き出したので、タクシー運転手の一人の助けを借りて近所のレストランで電話を借りる。

 電話口に出たのは男性で、自分がアブデュラハマンの友達であること、今バスの停留所にいることをアルバニア語で話すと「停留所って、何処の?」と訊くので「プリズレンの」と答えたら「おやまあ(Obobo!)」と叫んで「すぐ迎えに行く」ということになった。電話の終わりに「ミルパフシムMirupafshim」でなく「ディタネミルDitën e mirë」と言われたのがちょっと気になったが、コソヴォ風「さようなら」だろうか。

 待っている間に時間がありそうだったので、近くのキオスクで新聞を買う。コソヴォと言えば「リリンデャ」…は見当たらないが、「コソヴァ・ソトKosova Sot(『今日のコソヴォ』)」がある。これは、私がドイツにいた頃買っていたものとは違う「現地版」だ。値段は0,25DMとある。マルク紙幣を渡すと、お釣りにマルク硬貨と、何故だかチューインガム5個をくれた。サービス?と思ったら、1プフェニヒ(0,01DM)硬貨がないのでその代わりだという。他の旧ユーゴスラヴィア圏と同様、ドイツマルクが有力通貨として流通している[ボスニア・ヘルツェゴヴィナの兌換マルクkonvertibilna markaは厳密には別]のは確かだが、貨幣そのものは完璧に行き渡っていないのかも知れない。ところで、沖縄では1972年までドルが使用されていたということを思い出す人は、今や少ないだろうか?

 それから30分程すると赤い小型車が目の前に停まり、私と同年齢位の男性が降りて来た。アブデュラハマンの弟でセボSeboだという。セボの車で家へ向かう道すがら、話をしながら街の様子を見る。噂の通り、川沿いにモスクと石畳の道が続く「古都」のたたずまいだ。街を東西に分けて流れるこの川の名はビストリツァBistricë。道路もアルバニアよりはましな舗装だし、[未明から気付いていたことだが]空気もティラナよりずっと澄み切っている。「AMDAは?」と訊くと、今日はプリシュティナにいて、通訳兼運転手のアギム・グリも当然向こうらしい。学校は始まったかと尋ねると、「まだだ」と言った後すぐに「いや、ジャコヴァGjakovëでは始まったよ」と言う。

 10分程でシニク家へ到着。アルバニアの都市同様にアパートの1室かな?と考えていたらさにあらん、2階建ての広くて立派な一戸建て住宅だった。鉄製の門を開けて入ると、別のもう1軒と敷地が共同になっている。玄関で靴を脱ぐ(この習慣はアルバニアにもないことはない)と、母親のヂェミレXhemileが出迎えに出る。ムスリムの一家とは聞いていたが、このヂェミレも髪を頭布で覆っている(ちなみに、家事の際には別の布で髪を軽く巻く。いずれにせよ髪は見せなかった)。居間に通されるともう一人の弟ラマダンRamadanが歓迎に現れる。先刻電話で驚かせた相手だ。シニク家はアブデュラハマンが最年長、次がラマダン(38)、次がセボ(33)。この弟2人は独身で、共に銀細工職人である。もう一人、姉がいるらしいが、結婚して既に実家を出ているらしい。

 「何かしたいことは?」と訊かれたので正直に「取り敢えず食って寝たい」と答えると、早速朝食を用意された。用意ができるまで、ラマダン&セボが作った銀製の壺やら婚礼用の腰帯やらを見せて貰ったり、アブデュラハマンからのメッセージをヂェミレに手渡して(全文トルコ語なのに、ちゃんと読んでる!)金沢での親子の様子を話したりする。

 朝食は、山盛りのトマトに卵3〜4個分のスクランブルエッグ、油で炒めたソーセージ(スヂュクsuxhukか?但し、豚ではないだろう)、そしてアルバニア風チーズにパンと牛乳。パンはアルバニアのものよりずっとキメが細かく、軟らかい。ドイツのトルコ料理店で出てきたもの(エクメクekmek)を思い出した。台所の中を見回すと、充分なパンや野菜や肉の備蓄もある。少なくともこの家の食糧事情は悪くない様だ。食後に水を求めると、普通の水道水を出されたが、これがよく冷えていて美味い。ティラナで買ったミネラルウォーターが残っていたが、ここでは必要なさそうだ。湯の充分出るバスルームでシャワーを浴びた後、2階の大きな一室を充てがわれ、大きなベッドで7時半から10時位までの予定で眠る。

 ところが、目覚めてみると既に12時を過ぎていた。やっぱり半日がかりの国境越えは相当身体にこたえていた様だ。降りていく途中で家の中を確認する。2階は3部屋で、何とこの階にもバスルームがある。トイレの便座からは細い管が出ており、水道につながっていて蛇口をひねればウォシュレットの様に利用できる[この家だけかと思ったら、その後、他の家でも目撃する。アルバニアではまったく未見である]。部屋の棚には少しだけ本が並んでいるが、弱ったことに全部トルコ語だ。体裁から見て、コーランの読み方、家庭用医学書、トルコ語とセルビア語の辞書など、実用的なものばかりらしい。

 屋根裏へ行く階段もある。アブデュラハマンはNATO軍機が上空を通過する度にこの屋根裏へ上がり、空爆の模様を一晩中眺めていたという。1階には先刻通された居間と台所とバスルーム、それにもうひと部屋。玄関の前にはバルコニー風の広い空間があって、暖かい日にはここでくつろげそうだ。壁にはイスタンブルの「ブルーモスクSultanahmet Camii」の写真が掛けてある。

 アブデュラハマンの話では、セルビア兵が来る度に一家で隠れた地下室がある筈だが、差し当たり入口らしきものは見当たらない。居間でトルココーヒーを頂戴する(トルコ語で言うと、ジェズヴェcezveでテュルクカフヴェスィtürk kahvesiを煎れて貰ったわけだ)。

 AMDAには明日会えるだろうということで、午後はセボの案内によってプリズレンから北西の方向にあるジャコヴァへ行くことになる。出かける間際にヂェミレから「ディタネミル」と見送りの声をかけられる。やはり、コソヴォでは「ミルパフシム」とは言わないのだ。ところで、セボの車は旧ユーゴスラヴィア時代のザスタヴァZastava社製「国産車」だ。「ユーゴスラヴィアのベンツだねぇ」と彼はいささか自嘲気味である。出発してすぐ「これがアギムの家」という家の前を過ぎて、大通りに出る。

 市内随一の写真店「フォトスターFotostar」の隣にあるラマダンの店に寄った後、市中心にあたる川沿いをしばらく歩く。ビストリツァ川を挟んで一方には、国連の暫定行政機関であるUNMIK(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo)やOSCEの建物が並んでいる。他方には「シャドルヴァンShadërvan」と呼ばれる店舗街が続いている。トルコ語にも「シャドルヴァンşadırvan」はあるが、これは「噴水池」という意味だ。見ると道理、通りの中央に噴水がある。所々焼けた建物もあるが、殆どの店が通常営業だ。商品は、食料品も含めて、見たところ豊富に出回っている。

 市最大の「スィナン・パシャSinan Pashëのモスク」や公衆浴場跡を眺め、カトリック教会の中を現地の「カリタス」スタッフである青年の案内で見学する。キリスト教の聖人と並んでスカンデルベウの肖像画が飾られていたのは実に興味深い。街の眼前にそびえる山の上には城壁跡が見える。山の中腹にあるアルバニア正教会とセルビア正教会をそれぞれ説明して貰ったが、生憎すぐには見分けがつかない。それにしてもアルバニア同様、見事な「宗教の共存・共生」状態である。旧ユーゴスラヴィアの紛争を「西方=キリスト教 vs.東方=イスラーム」と単純化してはいけない、とあらためて思った。

 橋の上には「KFOR」(地元では『クフォール』と呼ばれる)の軍車輌が数台停まり、ドイツ兵が地元の子供達と談笑している(何語?たぶんドイツ語だろう)。この土地でドイツ兵の受けは悪くないらしい。

 実は、日本に戻ってから読んだドイツの週刊誌「シュピーゲル」の特集記事に、KFORに参加したドイツ軍の模様が詳しく書かれている("Der Spiegel" 36/1999)。最初の部分だけ訳出しておこう。海外派兵に踏み出して好評を得た国の、奇妙なはしゃぎ振りが伺える;

 ミュンヘン最高司令部から来たラルフ・ヘァマンRalf Herrmann(26)は「今はドイツ人であることを誇りだって言えるよ、でも極右ってわけじゃない」と語る。彼はこれまで選挙では、どちらかと言えば保守よりも左翼に投票してきた。バーデン・ヴュルテンベルク州ハルトハイムHartheimの空軍兵ティノ・ケンプフTino Kempf(23)は「今回の我々はうまく行った。我々は良い役だったし、皆そう思っていた」と語り、自分の仕事に満足している。

 ドイツ人の進駐を歓迎するアルバニア人達。こうした映像は、連邦軍に対する世間の印象を一変させた。新しい部隊は秩序維持部隊としての質の高さを証明しただけでなく、メディアという戦線でも大変な成功を収めたのである。多国籍軍のドイツ軍司令官となったフリッツ・フォン・コルフFritz von Korff(56)将軍は、当人の地元ではちょっとしたポップスター並みの扱いで、毎日の様にゴールデンタイムの画面でインタヴューに応じる売れっ子となっている。

 「兵隊は人殺しだ」という[反戦叛軍運動の]スローガンは刑法に抵触しない、との判決を連邦憲法裁判所が下してから数年。今ではコルフ司令官がテレビを通じ、第二次世界大戦以来初めてドイツ兵が海外派兵先で人間(セルビア人パルティザンの兵士)を射殺した事情について、冷静かつ真剣な表情で説明している。テレビの前の人々には誇らしい想いが伝わったが、それは若い人々よりむしろ[派兵]反対派の心をとらえたのである。

 また数週間前の号には、コソヴォで[国際戦犯裁判所へ向けて]虐殺現場の捜査という「Horror-job」に従事する連邦検察官の苦労が取材されている("Der Spiegel" 33/1999)。

 そう言えば、プリズレンのアルバニア人はやけに外国人慣れしている。私が通り過ぎると多くの人達が(子供も!)笑顔で「Hallo!」と声をかけ、こちらがアルバニア語で挨拶するとますますにっこりとして手を振る。しかもその対応はあくまで控え目かつ上品なものだ。これがアルバニアなら、すれ違いざま唐突かつ不躾に「中国人(kinez!)」と呼びつけ、そのくせこちらが振り向いてアルバニア語で「日本人だ(japonez!)」等と言おうものなら、ギョッとした風で「引く」ところだ。

 プリズレンの人々の姿勢が、KFOR進駐後のごく短期間で身に付いたものとは考えにくい。ユーゴスラヴィアは、この半世紀の間「東側」陣営に属しながらも独自の外交路線を歩み続けており、爾来、民間人と外国人との接触もそれ程稀なものではなかった。恐らく、アルバニアのアルバニア人がまだ外国人慣れしていないだけである(無論、アルバニアにおけるアルバニア人の善意を疑うつもりはない)。

 その後、車でセボの姉の家に寄る。彼女の夫はイリルIlirという名で、まだ小さい男の子が2人いる。この一家の家庭も一戸建てだ。しかも菜園付き、450平方メートルで12万マルク。ちなみにその近所にはもう少し立地条件の良い所があって、こちらは230平方メートルで13万5000マルク。またちなみに、そういう高い土地はこれまでならセルビア人が買うことが多かった、という。イリルは暇を見て地下室や屋根裏を自力で改装している。あくまで趣味だというが、見せて貰うとなかなかどうして、見事な仕事ぶりだった。アルバニア人にはこういう多芸多彩な個人が多い。1930年代の貴重な写真を見せて貰った後、この一家4人を乗せて合計6人で出発。

 今朝のバス停留所の傍を通過し、給油してから一直線にジャコヴァへ向かう(『日本よりガソリンは高いか?』と訊かれたが、車持ちじゃないから知るわけない)。広大な耕作地帯の間に時折、焼け落ちた住宅地が見える。NATOによる爆撃の巻き添えか、でなければセルビア軍・警察による「掃討作戦」の結果だ。多くはアルバニア人の農家だが、「あれはセルビア人居住区だった」という場所も容赦なくやられている。畑が焼けてしまった部分も多い。その為に農業生産が落ち込み、ひいては食糧自給率が著しく低下している[自給率の低さでは日本も他人事ではない。小麦の国内自給率は1割に達しないのだ]。線路があるが、列車は走っていない。

 クルシャ・エ・マヅェKrusha e Madhe村を通過する。村名の標識にはアルバニア語で「KRUSHA MADHE」。その下にセルビア語表記(たぶんヴェリカ・クルシャVELIKA KRUŠA)がある筈だが、そこには白ペンキで「UÇK」、すなわち「コソヴォ解放軍」だ。他に「THANK YOU NATO」と殴り書きされたものもある。確かに、セルビアの支配から救ってくれた存在ではあるが…皮肉と取れないこともない、過剰にあからさまな表現だ。それらを過ぎた辺りで「白ドリニ川Lumi i Drinit të Bardhë」と呼ばれる川の上に来る。橋のたもとで一時停車。泳ぎを楽しむ人々が多い。橋の上から十数メートル下へ飛び込む少年を写真に収めて再出発[日本で現像したら、躍動感のある一瞬がバッチリ撮れていた]。

 イタリア軍の検問をあっさり通過。ジャコヴァは、ドイツ軍が担当するプリズレンと、イタリア軍が担当するペヤの中間地点にある。外国人が同乗していると、人道救援活動中に見えるらしく殆どノーチェックで通過できるという。プリズレンから約1時間でジャコヴァ市内に近付いた。正面に何か巨大なビルが見える。「あれをよく見ててごらん」とセボに言われ、接近してみると、徹底的に破壊されたビルの残骸だった。セルビア警察の本部で、真っ先に空爆の標的にされたのだ。アルバニア人にとっては、自らを弾圧する機構の拠点が壊滅したことになるわけだが…「やぁ、よかったね」とも言うのも妙だ。

 ジャコヴァは、今回の空爆による被害が極めて大きかった街の一つだ。市中心部はまだしも、そこから脇に入ると、一区画がまるごと焦土と化している。難を逃れたイリルの知人宅を訪ね、セボと私は徒歩で爆撃の跡を見に出かける。空爆から既に2〜3ヶ月が経過して、大半の瓦礫は道端から取り除けられている。しかしそれが逆に、壁だけ焼け残って内部に何も残っていない家や、方々に散乱する黒焦げの家財道具や、尖塔がへし折れたモスク等を際立たせてしまうのだ。写真を撮るのがためらわれたが、セボはむしろ撮影を勧めてくれた。この光景を世界に知らせてくれ、という意志なのだ。

 誤解してはいけないが、この惨状に誰もが呆然自失ということは決してない。子供はここでも元気だし(アルバニア語で話しかけると目を丸くされるのも同じだが)、時折見かける焼け残った店はたくましく営業を再開している。地元の人々が「OSCE」と記されたブルドーザやリフトを操縦して住居の再建にあたっている箇所もある。比較的無事な商店街と住宅地を抜けて帰路に着く。通りの名前はアルバニア語−セルビア語の2言語併記だが、多くは下のセルビア語名の方だけが削り取られるか塗り潰されている。

 プリズレンでも気付いていたことだが、ジャコヴァでも高い塀に囲まれた一戸建てが多い。「集合住宅」化が急激に進んだアルバニアの都市とは随分印象が違う。塀の造りは何となく日本の「武家屋敷」風だ。石畳の小路、玄関で脱靴する習慣とあいまって、日本の古い村落か城下町にいる様な気分になる。そしてここでも水が美味い。店先のホースから流れている水道水がそのまま飲めるのである。代金は「有難う」の言葉だけ。

 知人宅に戻ると、イリル一家は飲み物を頂いていた。セボと私もトルココーヒーを貰う。子供達が「アステリクス」のビデオを見ているが、よく見ると字幕がセルビア語だ。この知人は医師で、妻は高校教師、娘が2人いて姉は高校生だが、3人ともずっと仕事(授業)がない状態。イリルの血圧を計って、民間療法を指導している。病院は充分に機能していない(イリルが薬+注射浸け医療を嫌うこともあるが)。ここで、AMDAや他の日本人医師団の活躍ぶりを聞く。

 5時頃にプリズレンへ戻る。イリル親子を家まで送ってから帰宅すると、玄関でヂェミレに「ミルセエルヅェトMirëseerdhët」と言われた。おや、これってアルバニアでは「ようこそ」じゃないのか?今朝も言われたのに…と戸惑っていたらセボに「『ミルセジェタMirësegjeta』って言わなきゃ」と注意される。え、それって「お会いできて嬉しいです」じゃないのか?つまり、コソヴォには「おかえり」「ただいま」の遣り取りが存在するわけだ。ちなみに、帰って来た本人から声をかける時は「エルヅァErdha(直訳すると『私は来た』)」です。

 間も無く分かったことだが、こういう遣り取りは食事の際にも定着している。給仕する側が「ボフテミルBëftë mirë(直訳すると『美味しくあります様に』)」と言えば、御馳走になる側は必ず「ファレミンデリトFaleminderit」と返答する。「召し上がれ」「有難う」だ。この表現、アルバニアでも使われないことはないのだが、言ったり言わなかったりである。コソヴォのアルバニア人達からすれば、アルバニアのアルバニア人の応対はさぞかし素気無いものに感じられることだろう。

 夕食までセボと居間で雑談。居間のTVでは、トルコのニュースが地震の模様を伝えている(勿論トルコ語で)。報道の合間にビュレント・エジェヴィトBülent Ecevit首相の演説が入り、随所に募金の為の銀行口座が紹介されている。それを眺めながら、「セボ」がセバイディンSebaidinの通称である(この名で呼ばれるのを聴いたことがない)とかアブデュラハマンにも「アブコAbko」という呼び方があるとか、旧ユーゴスラヴィア時代の兵役とか、トルコの地震とか、日本の宗教について話す。プリズレンを担当するドイツ兵の印象はすこぶる良い。勤勉で規律正しくて仕事が迅速確実[という印象]で、KFORを構成するどの国の軍隊よりも評価が高いのである。

 夕食は肉の薄皮包みのトマトソース煮。美味い。コソヴォの食文化がこうなのか、単にエストレフの調理が大雑把だったのか?…そう言えば、ジャコヴァで昼食をとり損なったから、それもあるのかな?

 7時半にラマダンが帰宅、食後に3人で話す。先刻からトルコ語の件が気になっていたのだが、プリズレンでは、各家庭はトルコ語学校かアルバニア語学校か選んで子供を通わせるという。予想通り、シニク家の子供達はトルコ語学校を出ている。トルコ語教育を受けた家庭ではトルコ語が日常言語として使用されるが、外では本来の母語(『民族語』と言うべきか?)アルバニア語も使用されるという。コソヴォの他の都市には見られない特徴だという。アルバニア語圏全体でも、ここだけではないだろうか。

 セボが「出かけよう」と言う。夜のシャドルヴァンに繰り出そうというわけだ…ってもう8時である。夕べの散歩ならアルバニアでも慣れているが、あちらは大抵夕食前、それも9時にはぼちぼち帰宅するものだ。そういう事情を説明すると、「どうして?」とセボが訊くので「コントラバンダKontrabanda(強盗団、盗賊という程の意味。もっとも、腐敗政治家同士のコネクションも『コントラバンダ』と言う)がでたらどうする!」と言ったところ、「ここにそんなものいるもんか」と笑う。言われてみればそうだ。現在コソヴォの治安状態は、KFORの駐留により極めて良好なのである。「普段はカフェで駄弁ったりして、毎晩午前1〜2時位まで帰らない」ととんでもないことを言う。今夜は疲れているので勘弁して欲しいと頼むと、では近所の家で親戚とラキを飲もう、という。

 その家は門を出てすぐ傍にあった。アブドゥラハマンの従兄弟(?)にあたるベスィム・シニクBesim Shinikと、KFOR相手の商売をしているというユヌス・ラダJunus Rada、それに妻や子供ともう1人のアルバニア人の歓待を受ける。ベスィムは確かにアブデュラハマンに似ている。どちらかというと痩せ形で、恰幅の良いユヌスとは対照的だ。日本のことをあれこれ尋ねられるのはここも同様だ。人口、産業、気候、宗教、学校制度、中国・朝鮮との文化的相違、新幹線(何で?)…コソヴォのラキは美味い。「アルバニアのラキより上等だ」と彼らは言い張る。つまみは羊肉の煮込み、チーズ、茹で卵、生野菜に西瓜、等々。

 ユヌスの娘が来たので、アルバニア語で話しかけた。が、全然反応がない。自分のアルバニア語では通じないのかな?と思ったらセボに「この娘はトルコ語学校に通ってるから、トルコ語しかできないよ」と教えられた。アルバニア人なのに?!と一時呆然。こういう子供の場合、家でもトルコ語しか聞かないのでアルバニア語を覚える機会がないのだ。もう少し年齢が上がると家の外でアルバニアを身に付けていくのだが…実際、父親であるユヌスのアルバニア語も、外国人の私が気付く位に目茶苦茶で、動詞や人称代名詞の語形変化は間違いだらけだし、しょっちゅう「アマama(しかし)!」とか「ナファカnafaka(運良く)」とかトルコ語が混じるのだ。アルバニア語そのものの句法も独特で、金沢でアブデュラハマンが「我々の所では」というのを「テ・ナ te na」と言うのでどうも気になっていた(標準語でこういう表現は聞いたことがない)のだが、この人達も何かというと「テ・ナ…」と切り出していた。

 ベスィムのアルバニア語も似た様なものだが、「どっちのアルバニア語が上手だ?」と尋ねられたのには参った。何しろ「上手」とかいうレヴェルの問題じゃない、一応「ユヌスの方がちょっとまし」と答えたが(『五十歩百歩』ってアルバニア語で何?トルコ語では?)。一方、ユヌスの妻はまだ理解可能なアルバニア語を話せるので、彼女とセボの通訳(?)に助けられて会話を進めた。ただ、下手でも何でも構わず思ったことをどしどし喋ろうとする姿勢は、語学を修める者がすべからく見習うべきだ。上半身をフル稼働させ、ジェスチュア先行…というかジェスチュア暴走で、時々テーブルの上のつまみが吹っ飛んだ。

 プリズレンのアルバニア語についてもいろいろ習うことができた。例えば、「卵」は標準アルバニア語で「ヴェゼveze」だが、こちらでは「ヴェヤveja」で、更にくだけた口語では「ボbo」[大きな辞書には"voe"という方言形が載っているが、それのことか?]。また「高層建築物」を意味する単語が「レチェル」だというが、綴りがreçelだと「果物の砂糖煮」じゃないのか?!また、テーブルに出された西瓜を常に「ボスタンbostan」としか言わないのにも驚いた。[辞書で引けば確かにそうなのだが]実際はティラナで西瓜を見て「ボスタン?」と訊くと「違う、『シャルチshalqi』だ」と直されていたからだ。アルバニアの場合、瓜やメロン全般を指す「ボスタン」の中に、日本の「西瓜」に相当する「シャルチ」の下位分類があるわけだが、少なくともプリズレンでは全てが「ボスタン」と称されるらしい。

 散々飲んで食って喋って、午前零時過ぎにようやく「解放」される。でもこの人達には(特にユヌスには)まだ「宵の口」なんだろうなぁと考えていたら、実は今のプリズレン市には「警察時刻ora policore」というものがあると説明された。午前零時になると、ドイツ兵が「Gehen Sie nach Hause!」と半ば強制的に市民を帰宅させるのである。ユヌスも、午前3時頃に外をうろついていたらドイツ軍に連行されたことがあるそうだ(朝には帰宅を許されたらしいが)。「外では今頃みんな帰り支度だろう」と言う。あくまでも防犯上の観点からのドイツ人式「帰宅のすすめ」なのだが、バルカンの民には嬉しくないことだろう。ともあれ、我々も帰宅して寝る。帰り際、ユヌスの娘にトルコ語で「イイ・ゲジェレルİyi geceler(おやすみ)」と話しかけると初めてにっこりされた。


8月22日(日)

 今朝の新聞を買ったら、今度はディナールでお釣りが来た。つまり、依然ドイツマルクと両立てなわけだ。しかし交換比率がどうもはっきりしない。

 シニク家は、朝のTVもトルコから受信している(初めてトルコのアニメを見た。『セーラームーン』はやってないのだろうか?)。台所にでかい挽肉の塊が置いてある。昼食用だろう。同じ敷地内の一家は日曜大工の最中だ。

 朝起きると「ミルメンジェスMirëmëngjes(おはよう)」。これはアルバニアと同じだが、その後すぐ「ウ・チョヴェU çove(起きたかい)?」「フィェテFjete(眠れたかい)?」「プショヴェPushove(休んだかい)?」と決まり文句の様にたたみかけてくる。驚くべき表現の丁寧さだ。

 セボは居間の絨毯に直接座り込み、胡座をかいて小卓で朝食をとる。まるで日本人である。途中、トルコ語の放送では私が退屈すると気付いたらしく、アンテナをいじってドイツのTV局が映る様にしてくれた。

 朝食後、そのセボの車でAMDAのプリズレン支部へ向かう。シニク家から約20分、閑静な住宅街の3階建ての最上階が支部になっている(Rr.Partizani 12, 38400 Prizren)。下の階にはアルバニア人の一家が住んでいるが、靴を脱ぐ場所が共に建物の入口だというのは面白い。

 9時過ぎだったが、AMDAのスタッフは何やら準備中だった。コーディネイターのMさんや医師のT氏に挨拶し、ティラナで買っておいた「アルバニア語−英語−ドイツ語会話帳」をおみやげとして手渡す。日本人と顔を合わせるのは3週間ぶりだ。

 この日は、AMDAからトルコへ急遽派遣するアルバニア人医師2名を迎えにプリシュティナへ行くという。御一緒しませんか、というので同行することにする。プリズレンに滞在するだけの予定だったが、プリシュティナにも行けるのなら儲けものだ。と考えていると下にアギムの車が到着。ドゥラスで日本アルバニア協会のK氏に協力したアギム・グリ氏だ(無理矢理日本語にすると『巌暁(いわお・あきら)』さんだ)。最初の挨拶に続けてK氏のことを話すと、雰囲気が一気になごむ。

 Mさんから、スタッフの写真入りでAMDAが紹介されている8月21日付「リリンデャ」紙を貰う。記事を訳出しておこう;


日本のアジア医師連絡会  コソヴォを支援  クルシャとロゴヴァに診療所

 アジア医師連絡会(AMDA)は、コソヴォからの住民脱出が始まった直後から、アルバニアに逃れたコソヴォ・アルバニア人の医療援助に乗り出している。

 その誠実で水準の高い医療活動の後、KFOR進駐から4日後にはコソヴォで独自の活動に着手し、戻った難民の人々に医療援助をプリズレンで開始した。

 AMDAはプリズレン、クルシャ、ロゴヴァ、ペヤに診療所を開設した。最近はペヤで薬品供給や診療活動で援助にあたった、とT医師はAMDAを代表して語った。

 スタッフのH医師によればAMDAは、目に癌ができた3歳の子供を日本の金沢市の大学病院へ送って治療を受けさせており、また最近ではコソヴォからアルバニア人医師1名を、化学療法の研修の為に日本へ派遣している。

 第1面に緒方貞子氏の顔写真入り記事が載っているので、これも紹介しておこう;


緒方貞子は語る  冬に対する備えを
(東京 8月20日)緒方貞子・国連難民高等弁務官は20日に東京で、帰郷の目処が立たないコソヴォ・アルバニア人難民の為に、冬を越す準備に着手した、と語った。

 同弁務官によれば、コソヴォ紛争終結以来、難民の90%にあたる80万人が帰還しているが、同時にセルビア人のコソヴォ脱出も続いている。

 さてこの間に何やら状況が変わり、アルバニア人医師達は午後2時にプリズレンに到着するらしい。そこで、彼らが到着次第、経由地となるスコピエまで同行することにして、セボと共に一旦帰宅。そう言えば、ジャコヴァでは2言語併記だった通りの名が、プリズレンでは3言語併記である。上からアルバニア語(rruga)−セルビア語(ulitsa)−トルコ語(cadde)の順だ。

 途中、時間が充分あったのでアギム宅にお邪魔する。ここでも1階入口で靴を脱ぐ。先日から気にはなっていたが、脱靴の習慣がアルバニアより徹底している。実は、日本のメディアが「コソボ」一色になっていた頃、ある放送局から「セルビア人は室内で靴を脱がないが、アルバニア人は室内で靴を脱ぐというのは本当ですか?」という問い合わせを受けたことがある。その時は(こういう民族間の何気ない生活様式の差を『紛争絡み』で強調されるのはイヤだな)という感情もあったので、「あるにはあるでしょうが、みんながみんなそうだとは思いません」と答えておいたのだが、こうして実際に来てみると「みんながみんなそう」らしい。

 アギムの一家は妻と娘、息子の4人家族。娘は小学生だが、彼女の学校もまだ再開されていない。もともと英語教師だったと聞いていたが、居間の棚に並ぶ本が一家の教養の高さを示している。アルバニア人作家による古典の数々に加えて、ブズクGjon Buzuku訳カトリック祈祷書(Meshari)のファクシミリ版まである。現存最古のアルバニア語出版物で、研究者にとっても必須の文献だ。ティラナ版でなくプリシュティナ「リリンデャ」社のリプリントなのが、いかにもコソヴォである(アルバニアで出された本が数年後にコソヴォで再版されることは珍しくない。ちなみに製本技術はコソヴォの方が上)。TVにはドイツの番組が映っている。また驚いたことに、NHKの国際放送も見ることができる。AMDAのスタッフが調整してくれたらしい。しかし肝腎なアルバニア語の放送が受信できないのは、何とも皮肉な話だ。コソヴォにアルバニア語のTV局は無い。

 久しぶりに自民党と民主党の首脳陣を見て、日本の政党の話などしていると、アギムの義弟(アルバニア語では『バヂャナクbaxhanak』で、妻の姉妹と結婚した男を指す)でサミSami(サミルSamirかも知れない)という男性が訪ねて来る。彼はUÇKの元兵士だったそうだ。兵士の頃はどうだったか?と尋ねたら「あの時の方が良かった」とおっしゃる。

 本やTVの選択、親戚同士の会話から判断して、ここはトルコ語を使う家庭ではない様だ。子供達は、非常に日本人に慣れている。もっとも、アルバニア語で話しかける日本人は初めてだった様だが。

 今日はヂェミレがビュレクbyrek(肉またはチーズの入ったパイ)を作っているというので、アギムも連れてシニク家へ。ヂェミレの兄弟でイドリズIdrizという人が来ていた。セボから見ると叔父(アルバニア語で『ダヤdaja』)にあたる。このイドリズにアギムも交えて、ビュレクと牛乳の昼食をとる。デザートは西瓜(ボスタンだ!ボスタン!)と葡萄。

 午後2時、アギムと共に再びAMDAに向かう。3階の準備が整うまでの間、階下の住人とバルコニーで雑談。プリシュティナからの医師2人(プレシェヴァPreshevë出身のユメル・アリウYmer Aliuとプリシュティナ出身のヒセン・ヒセニHisen Hiseni。プレシェヴァはセルビアとコソヴォの東側境界近くにある都市)に日本人のT医師がトルコ行きの要員だ。これにMさんも加え、アギムの車ともう一台、ブヤル・セイダイBujar Sejdajという若いアルバニア人の運転する車に便乗して出発。この2人とも英語の通訳を兼ねている(私と英語で話したことはまるでないが)。AMDAのロゴ入り乗用車と腕章は、KFORによる検問通過の有力な手段となる。

 プリズレンを出て少しすると、幹線道路の東側に、ドイツ軍司令部の広大な敷地が見える。カセットから流れるニコル・ニクプレライNikollë Nikprelajの唄声に乗って、車はスハレカSuharekë、シュティメShtimëと北東に進む。

  時折、幹線道路沿いの草むら等で「MINE MINE MINE」と書かれた黄色い帯が走っている場所がある。これが地雷源である。住民虐殺で国際的に知られたレチャクRecak村もこの近くだ(勿論、破壊された農村はレチャクに限らず、途上でいくつも目にしたのだが)。

 シュティメの通りにネパールのグルカ兵が立っている。イギリス軍から派遣されているのだろう。Mさんが手を振ると微笑し、手を振って応える。アジア系同士で顔見知りらしい。シュティメから北上すればプリシュティナだが、車はコソヴォ平原Rrafshi i Kosovësを西に下り、フェリザイFerizaj、カチャニクKaçanikを抜けて国境検問所に入る。

 さてここで面倒な問題。アギムは出入国可能なパスポートを持っているが、彼の運転免許証はコソヴォの外では使えない。ブヤルは国際免許証を持っているらしいが、彼のパスポートは失効している。という次第で、ブヤルがコソヴォ側で車2台の番をし、残る6名で徒歩国境を越えることにする。既にトラックや軍用車の長い行列ができている。帰りは遅くなりそうだ。

 国境、と言ってもアルバニアからコソヴォ入りした際と同様、コソヴォ側に出「国」検査は存在しない。KFORのアメリカ兵が立っていて、気軽に通行者をさばいている。我々もパスポートを見せただけであっさり通過。雰囲気も明るく、ドイツ兵の仕事ぶりとはちと趣が違う。AMDAの日本人スタッフは顔が知れているらしい。少し歩いてすぐマケドニア側だ。1997年にアルバニア南部から陸路ギリシア入りした時を思い出す。違うのは、検問所のあちこちにアルバニア語で「子供達へ:地雷に注意」と書かれたポスターが貼られていることだ。ここには、車の間をぬって飲み物を売る子供達も多い。

 マケドニア(国連で承認されている正式国名は『旧ユーゴスラヴィア・マケドニア共和国(FYROM)』)への入国は、出入国カードに必要事項を記入して税関窓口に提出、パスポートにスタンプを貰い、カードの半分(出国用)と一緒に受け取って完了。ところでマケドニア語はブルガリア語と大変よく似ている筈なので、試しに「ドバル・デンДобар ден(こんちわ)」と言ってみたらベラベラ話しかけてきたのにはとても困った。出国後すぐにタクシーを拾う。スコピエ市内まで40マルク。運転手もアルバニア人だ。市内に入り次第Mさんの知っている旅行会社でトルコ方面の空路を確保するつもりだったが、タクシー内でそのアルバニア人運転手の意見も聞いた結果、飛行機でなくバスの方が被災地へ辿り着きやすいのではないかということになる。心配なのは、今日が日曜日だということだ。

 午後7時頃、スコピエ市内に入る。ひさしぶりに信号機を見る。予約されていたホテル「ヤドランЈадран」に3名の部屋を確保し(ここでも支払いはドイツマルク)、私にアギムにMさんと3人で旅行会社に出かける。人口40万余りの首都スコピエの夕暮れは、静かで落ち着いている。散歩の風景はあるが、同じバルカンでもティラナとはまた違う。

 「旅行会社」というから何処かのビルの1階でもまるごと使っているのかと思ったら、ヴァルダルВардар川のたもとに並ぶキオスクの店舗だった。こういうところはアルバニアと似ている。Mさんとは充分に気心が知れているらしく、万事「問題ない(S'ka problem)」で割にあっさり交渉成立。

 ここで私はマケドニア語の印刷物が欲しくなり、アルバニア語もマケドニア語もトルコ語も解するというその旅行会社主に同行を頼もうとしたら、アギムが「私が一緒に行こう」という。この男マケドニア語わかるのかな?と思いながらも並んで近くのキオスクへ行くと、確かに何やらスラヴ系の言語で店の奥に話しかけている。私も負けてはいられないと思い、妙に訛ったブルガリア語であれこれ言いながら「新マケドニアНова Македонија」や「今日のマケドニアМакедонија денес」(パンデリ・マイコの記事が写真入りで載っている)等の主要日刊紙、それに「スタルトСтарт」「フォクスФокус」等の雑誌を選び出した。

 マケドニア・デナールденари がないので10マルク紙幣を渡したら、お釣りは170デナールだった[あとで新聞雑誌の値段を確認したら合計140デナールでした。お暇な方は、マルクとデナールの交換比率を計算してみましょう]。「『ありがとう』って何?」とアギムに訊いたら「フヴァーラ」と言われたが、どうも違う様な気がしたのでブルガリア語で「ブラゴダリャБлагодаря」と言うと笑顔が返って来た。店を離れてからアギムに「君がマケドニア語を話せるとはね」と言うと「セルビア語だよ」…そうだ、そう言われてみたら「Hvala」ってセルビア語じゃないか![マケドニア語では『ブラゴダラムБлагодарам』です]

 ホテルに戻って屋外レストランで行程の相談。アギムとT医師が先刻の旅行会社に確認の電話をかけ、Mさんが衛星電話で日本の本部と話している間に、私はアルバニア人医師2人と雑談。一般にアルバニア人は、日本語が日本文字と中国文字(漢字のことですよ)の組み合わせで書かれることに大変な関心を示す。「君が独りでアルバニア語を習った位だから、私も日本語をやってみようかな」とヒセニ医師は私に言う。プレシェヴァのアリウ医師は、マリシェヴァMalishevë(ジャコヴァの北東、ラホヴェツRahovecの北西)でUÇKの日本人兵士を目撃したという。いささか信じ難いが、かの有名な「フランス外人部隊」にも日本人がいる位だから、全くあり得ない話ではない。

 話がまとまって医師3名を部屋へ案内し(ここでもう一度打ち合わせと記念写真撮影。詳細略)、ホテルを出ると既に9時。アギムの交渉でタクシーを拾い、一路、国境へ疾走する。10時に国境を通過。暗闇の中でかなり待ちくたびれていたブヤルと合流し、さあうちに帰ろうと出発。

 11時、フェリザイでチョフテとパンの遅い夕食。アギムが店の主人に「ここに『警察時刻』は?」と訊くと「ないよ、ここのアメリカ軍はdemokratikだからね」と洒落たことを言う。

 午前零時半にプリズレン入り。「警察時刻」を少し過ぎて人通りも殆どないが、それでも所々、閉店間際の店先でたむろして何やら一所懸命喋っている人達や、頬杖を突いて何やら人待ち顔の子供もいる(夏に子供が夜更かしなのは、アルバニアと同じらしい)。帰宅すると、ヂェミレは既に就寝、待ち兼ねていたラマダン&セボとトルココーヒーを飲み、本日の体験談を聞かせてから寝る(以後、おやすみ前にトルココーヒーを一杯、が定着する)。


8月23日(月)

 8時にアギムと共に家を出る。今日はAMDAがクルシャ・エ・マヅェでパンの無料配布をするという。一昨日ジャコヴァへ行く時に通り過ぎた村だ。出発前にMさんが紅茶(チャイçaj)を飲みたいというので、紅茶専門の喫茶店(チャイトレçajtore)へ行く。金属製の2段式やかんで作った紅茶をやや細長いガラス製のカップに注ぐ。底に沈殿する程たっぷりの砂糖を加え、薄切りレモンを入れて飲む。アルバニアでもカフェのメニューに一応「チャイ」はあるが、専門の「茶店」がある程ではない。同じアルバニア語圏でもここまで違うのか、或いはプリズレンの飲食文化が際立ってトルコ的なのか(トルコ語で言うと、チャイダンルクçaydanlıkで作ったチャイçayをチャイ・バルダウçay bardağıに注ぎ、チョク・シェケルリçok şekerliにしてリモンlimonを浮かべて美味しくいただくわけです)。ちなみに、1杯飲み干して黙っているとすぐ「おかわり」を出されるので要注意。

 川の傍で、清掃用具を抱えて歩く赤帽の集団を見る。UNMIKが地元住民で組織した清掃ボランティアだという。

 プリズレンを出て1時間弱、ジャコヴァ方面へ伸びる幹線道路を途中で外れて砂利道を進むと、クルシャ・エ・マヅェ村に入る。誰も彼もが「アムダ!」と叫んで手を振ってくれる。ここにはAMDAの診療所があり、同じ建物内には国際赤十字やMSF(『国境なき医師団』)等の人道援助機関が多数同居している。

 学校の子供達と絵を描く予定もあったらしいが、これは先方の都合により中止。早速、村のパン屋で受付を始める。と、近くの倉庫前に人だかりが出来ているので見に行ってみたら、正面扉に何か貼り紙がある。「抗議」というアルバニア語が見えたので、子供達に混じって読んでみると、ラホヴェツ区で午後5時から、ロシア軍の進駐に反対する集会を開くという。セルビア政府に同調する姿勢を見せてきたロシアについて、アルバニア人達の評価は最低だ[誤解してはいけないが、単純に『ロシア人=スラヴ系。ロシア人=嫌い。よってスラヴ系=嫌い』という図式にはならない。親NATO的なストヤノフСтоян Стоянов政権下のブルガリア、ユーゴスラヴィア連邦を脱退したマケドニア、連邦内にありながらセルビアに反目するジュカノヴィチMilo Đjukanovićのモンテネグロ等について、アルバニア人の感情はもう少し微妙である]。一方、ロシア程ではないが、ミトロヴィツァの件以来、フランス軍の印象も悪くなっている。

 さて、アギムらアルバニア人スタッフが名簿片手に、やって来る住民を入口でチェック、店内でMさんや私がパンを3本ずつ渡す、という段取りで仕事開始。やって来るのは殆ど全員子供[どうして子供だけなのか?読み進む内に分かります]なので、いろいろ話しかけながらパンを手渡していく。120人分用意されたパンの代金は216000ディナール(確か150マルクだとか)だが、勿論AMDAが全額をパン屋に支払った。店の奥には立派な製パン設備がある。充分な小麦粉があれば、美味いパンをたくさん焼けるだろう。

ひとしきり配り続けて人の流れが少なくなった辺りで、「子供の後に着いていってごらんなさい」とMさんに勧められ、自分の胴体と同じ位大きいパンを抱えた子供達の後を「大丈夫?」と尋ねながら歩いてみる。すれ違う人々が皆、「アムダ」の腕章を着けた私に対して丁寧に挨拶し、「お元気?」と声をかけてくる。コソヴォ本来の会話表現の丁寧さに、外国人に対する敬意が込められている。

坂を上る途中で子供達の家に辿り着いた。「ようこそ」と玄関で家族の写真を撮らせて貰い、室内でトルココーヒーを馳走になる。「室内」と書いたが、部屋の中には何もない。窓は吹きさらしだし、壁もあちこち煤けている。今はまだしのげるが、冬が来た時が問題だ。そして、家族は子供と年配の男女しかいない。聴き取り辛い老人達のアルバニア語からも、事情はかなり分かる。働き盛りの男女や若者は皆、殺されたか行方不明なのだ。近所には、主を失った空き家も多く残っている。Mさんが訪ねた或る家では、母親が息子の写真を抱えて一日中泣いていたという。

 坂を下り、他のスタッフと合流してから村外れの「共同墓地」へ行く。80〜100人分近くの墓がずらりと並び、一つ一つに花輪が供えられている。集団埋葬地から掘り出されて弔い直された人物も多く、現在でも毎日の様に何処かで死体が見つかっているという。木製の墓碑の生年を読むと、12歳の子までいる。UÇKの兵士もいるが、大学教授もいる。「身元不明」も多い。性別も判らない程の状態で見つかった遺体も多いだろう。これがセルビア軍・警察・民兵による「テロリスト掃討作戦」の結果である。アギムは私に言う;
「戦争で兵士が死ぬというのならまだ理解できる。しかし、12歳の子供のどこが兵士なのか?」
このクルシャ・エ・マヅェ(直訳すると『大クルシャ』)には生き残った人も多いが、隣村のクルシャ・エ・ヴォグルKrusha e Vogël(『小クルシャ』)は壊滅状態だとMさんが教えてくれた。本当はそちらにも支援したいのだが、とても手が回らないという。

 11時に村を出発、12時頃プリズレンに戻る。日本人スタッフの一人が誕生日なのでケーキを買っていく。菓子店はアルバニア語で「エンベルトレëmbëltore」だが、こちらの表記は「アンベルトレÂmbeltore」になっている。典型的な北部方言だ。さもなければイタリア語風に「パスティチェリPasticeri」である。外で待っていると子供2人が話しかけてきたので、ついでに写真を撮ってあげた。

 「プリズレンの若い皆さんへ:街の美化に協力しましょう」と清掃美化を呼び掛ける貼り紙がある。先日目撃した「赤帽」の働きもあるのか、通りは小綺麗にされている。住宅地でも、まめに水を撒き掃き掃除をしている住人の姿を目にする。それに、ここのキオスクはアルバニアのものよりも大型で、造りもコンテナの様にしっかりしている。皆オレンジ色で、規格が統一されている様だ。アルバニアの様な露店の新聞売り場は殆ど見かけない。

 午後2時、今度はプリシュティナへ出発する。約1時間の行程だ。新聞社を訪ね、その後、在ベオグラード日本大使館から来た外務省の人達とMさんが会うことになっている。前日スコピエへの途上に通ったシュティメから、今回は北へ進む。リピヤンLipjanを過ぎ、プリシュティナに入る手前の道路を走っていると、左右にセルビア語の看板が並び、正教会らしき建物が見える。「ここはセルビア人が住んでいる」という。住宅地には人影も見える。ここの名はフシャ・コソヴァFushë-Kosovë(セルビア語でコソヴォ・ポーリエKosovo-Polje)。コソヴォでセルビア人を見たのは、この時が初めてである[そしてたぶんそれっきりだった]。

 そのセルビア人街に挟まれた上り坂の広い幹線道路をしばらく走り「もうすぐ見えてくるよ」とアギムに言われて前方を凝視していると、いきなり視界が開けて下り坂の彼方に巨大な都市が姿を現した。TVSHニュースの資料映像では何故か古い静止画像しか映らないが、これがコソヴォの主都プリシュティナである。ホテル・ティラナを軽く上回る様な高層建築群が密集している。日本のTVでは破壊された領域が集中的に映し出されるので、全面焦土・廃虚となった町を想像されがちだが、なかなかどうして殆どの建物が健在である。建築の水準もデザインも、ティラナの中心街を完全に凌駕している。3時半、「リリンデャ」編集部も入っている報道センタービルの前に着く。これまた、見上げると首が痛くなる様な高さだ。プリシュティナにいるAMDAスタッフのネヂミエ・クロコチNexhimie Kllokoqiと、「リリンデャ」の記事に登場した日本人スタッフH氏が我々を出迎える。

 エレベータは5年前から動かないので、階段で「5階」へ上がる。しかもコソヴォでは西ヨーロッパ同様「1階」を「地上階」として別に数えるから、実質6階である[同じアルバニア語圏でも、アルバニアではこういう数え方をしない。もっともアルバニアにこんな階数の多い建物は余りないが]。途中の表示に「M」とあるが、「中2階(meskate)」だという。じゃ6階半か?!

 「リリンデャ」編集部でベラト・ルヂャBerat Luzha編集長とMさんの会見。編集長室にもスカンデルベウの肖像がある辺り、やはり「もう一つのアルバニア」だ。トルコへの緊急派遣の件、プリシュティナのガズメンド・カチャニクGazmend Kaçaniku医師を日本研修へ招く計画、等について30分余り説明し、協力を求める。ルヂャ編集長も、日本人の人道援助活動には敬意を払っていると述べ、報道機関としてのAMDA支援を約束した。ところで、UNHCRの最新パンフレットを貰ったので内容を見ると、日本からコソヴォのUNHCRへの援助総額は391万ドルで、アメリカ合衆国の780万ドル、EU(正確には欧州委員会(EC)から)の658万ドルに次ぐ第3位だと書いてある。

 この間、ネヂミエやアギムが英語−アルバニア語で通訳を努めるが、途中、私がアルバニア語を解することがばれてしまった(?)。編集長からコソヴォ作家の新刊著書を6冊も貰う。同じアルバニア語圏でも、アルバニア国内ではコソヴォの出版物が全くと言っていいほど手に入らない。むしろドイツなど西ヨーロッパの輸入書店でないと買えなかったりするので、これは何より有難い。

 メフメト・カイタズィMehmet Kajtaziなどの他に、アゼム・シュクレリAzem Shkreliの詩集があった。「彼も殺された」と周りが言う。名も知らない人々が大量に死ぬのも穏やかではないが、文学や芸術や学問に従事する人達の仕事が「殺される」ことで途絶したと聞かされるのも、随分こたえる話である。

 そうだ。本と言えば、困ったことだが現在のプリズレンには本屋らしい本屋がない。「本屋librari」の看板を出している店はたくさんあるのだが、入ってみると文房具や菓子類しかない。出版活動自体が復調していないこともあるのだろう。キオスクで、新聞に混じってごく稀に新刊本2〜3冊が置かれている位である。1軒だけ、通りを挟んでOSCEの向かい側付近に、まだ本屋の体を成している様な店があるのだが、結局行く機会がなかった。

 さて会見は4時半に終わったが、同席していた記者が「このアルバニア語ができる日本人に取材したい」と言い出したので、私だけ編集長室に残されて一対一でインタヴューを受ける羽目になる。記者の名はミュルテザ・ストゥデニツァMyrteza Studenica(21日付『リリンデャ』の記事の署名が『M.Studenica』だったが、きっとこの人だろう)、現場叩き上げの新聞記者という風采で、えらくせわしなくメモをめくりながら、たっぷり1時間かけて私個人の人となりを聞き出した。日本・アルバニア協会やAMDAをアピールしようと思ったら、全然(!)訊いてこなかった。話の切れ目に「ゾトニzotni!」と呼びかけるのがやけに耳に残っている[本来『〜殿』『御主人』といった意味で、アルバニアではもはや使われない]。

 生年月日、職業、履歴、アルバニア語の学習歴と方法、アルバニア語を研究することに対する家族の評価(何じゃそりゃ)を尋ねた後、

「コソヴォの印象は?」

「もっとひどいことになっているかと思ったが、想像より無事なところがずっと多いので、ひと安心している」

「日本語専門の研究科を設立するとしたら、コソヴォとアルバニアとどちらが見込みがあるだろうか?」

「率直に言って、コソヴォの方が実現の可能性は大きいと思う。ティラナの研究者も優秀だが、日本人を受け入れる研究機関の余地がまだ充分でない。プリシュティナは以前から西ヨーロッパとの接触が日常的に行なわれているし、東洋圏も含めて、要するに外国文化を受け入れる素地が整っている。よってコソヴォの方が望み大だ。勿論、両方にそんな研究機関ができれば最良だが」

「日本・アルバニア協会をコソヴォにも、という考えはあるか?」

「勿論(あくまで私の希望だが)」 [ところで、この記者はプリシュティナのアルバニア・イスラエル協会会員だそうだ]

「今後の予定は?」

「言語学としてのアルバニア語の研究も続けたいが、文学の翻訳もしたい(本も貰ったことだし)」

「アルバニア語のどこが難しいか?」

「全部だが、特に動詞の未完了pakryerとアオリストkryer e thjeshtëの使い分け」

「今後の希望は?」

「来年もここに来ること」

 ネヂミエ宅に寄った後、外務省関係者と会うMさんを「グランドホテル・プリシュティナGrand Hotel Prishtina」へ。豪華な5つ星ホテルだ。旧ユーゴスラヴィア全体から見れば大したことないかも知れないが、中に入ると「ホテル・ティラナ」や「エウロパパーク」がかすんでしまう(あちらは4つ星だが)。ベオグラードナンバーの黒塗り高級車が停まっているが、日本大使館の公用車だろう。日本赤十字の車に、TV局の中継車もある。

 残る3人(アギムとブヤルと私)は9時頃まで自由時間、ということでまずはプリシュティナ郊外のバスセンターStacioni i autobuzaveに向かう。プリズレンではできない国際電話をそこからかけて、スイスにいるアギムの父親と連絡を取ろうというわけだ。

 バスセンターからはドイツやスイス方面の長距離バスが次々と発車している。が、「想像より無事なところ」は発着場だけで、バスセンター本体の建物は爆撃によって片側が倒壊したままだ。周囲のキオスクだけが営業している。その一つでアギムは国際電話をかけている。随分時間がかかったが、どうやらつながったらしい(後で聞くと『父は来週プリズレンに来る予定だ』とか)。その後ブヤルも電話している様なので、退屈しのぎに店の中を覗いてみると、アギムの車で聴いたニコル・ニクプレライのカセットがある。1本5マルクだ。UÇKの行進曲集もあったので買う。週刊誌「声Zeri」を買うと、何と雑誌なのにホチキスでとめてない。新聞の様に二つ折りにして重ねただけだ。これもドイツ語圏で販売されている版とは趣が違う。ちなみに表紙は、コソヴォの墓地に立って思案するパンデリ・マイコである。

 夕刻のプリシュティナは結構涼しい。日陰に行くとむしろ寒い。繁華街のレストランでチョフテにチェバプqebap(トルコ語でいうデネル・ケバプdöner kebap)の夕食。

 9時前にホテルに戻ったが、Mさんはなかなか来ない。いつもこんなものだというし、物事が予定通りに進まないのは隣の国で充分理解しているので、赤十字の運転手だというアルバニア人を交えて、ロビーで気長に待つ。そして11時にMさんが現れ、ようやく4人揃って出発。立ち去り際にガニ・スパヒウGani Spahiuと名乗るアルバニア人に話しかけられる。やけに親し気で、アギムやブヤルにも顔が知れているらしい。日本[人]好きでもあるらしい。悪い人ではなさそうだが、後で聞いたら、外国人の集まるこのロビーにしょっちゅう足を運んでは、コーヒーなど飲み物の御相伴にあずかっているらしい。

 この日もコソヴォのアルバニア語に学ぶところ大だった。新聞記者の「ゾトニ!」は言うに及ばず、他にも;出発する際の「さあ行こう」はアルバニアなら「去る」意味の「イキムIkim」「エツィムEcim」または「出る」意味の「ダリムDalim」を使うのに、コソヴォではもっぱら「行く、進む」意味の「シュコイShkoj」を使っている。アルバニアの「出る」には移動の起点が明確に意識されているが、コソヴォでは関係ないのだろうか?また、「ずるいぞ」とか「こん畜生」といった軽い罵りに「トラプtrap!」と叫んでいる。確か本来の意味は「埋葬」だ。更に「アルバニア語ができる」はアルバニアなら「フラス・シュチプFlas shqip(英speak Albanian)」だが、コソヴォではほぼ例外なく皆「ディ・シュチプDi shqip(英know Albanian)」である。逆でも別に支障はないが、自然な発話状態ではこうなるということだ。

 月夜をひた走って(月曜日e hënëの月hënë、とは語呂が良い)予定通り、プリズレンには午前零時帰還。昨日よりは少し早いが、それでも玄関で待っていたラマダン&セボはお疲れの様子。バルコニーでトルココーヒーを飲みながら、「明日の夜こそは町に出よう」とセボに念を押される。


8月24日(火)

 本日、遂に自力で「リリンデャ」紙を買う。余り期待していなかったが井浦伊知郎の記事はない[そして現在に至るも、記事が載ったという話は聞かない]。プリズレンでは「コハ・ディトレKoha ditore(『日刊時代』)」と「コソヴァ・ソト」はどこにでもあるが、「リリンデャ」は入荷が遅かったり、初めから置いていなかったりと、扱いがいま一つだ。老舗の「リリンデャ」より、後発の前者2紙の方が今は売れ筋なのだろうか。

 まぁ私の記事はともかく、ラホヴェツの件は第1面に載っている。同市へ通じる全ての道路には住民が座り込み、自家用車やトラックやトラクターで封鎖して「ここにおまえ達はいらない」(『コソヴァ・ソト』8月24日付記事の見出し)ロシア軍の進駐を実力で阻止している。住民が持つプラカードには「NATOはいいがロシアはだめだ(Nato Po, Ruset Jo)」、真偽の程は不明だし、かなり挑発的だが「我らコソヴォ解放軍(Ne jemi UÇK)」、或いは英語で「Russians killed us」と書かれている。今のところロシア軍は市内への強行を自制して「人間の壁」の手前で待機しており、衝突には至っていない。

 8時出発。今日はアギムが別行動でマケドニアとの国境へ向かい、私やMさんの一行にはハヂ・ホティHaxhi Hotiという人物が英語−アルバニア語の通訳として同行している。運転手はブヤルだ。ジャコヴァへ行く途中で西に曲がり、ロゴヴァRogovëという村に入る。9時少し前に「ガニ・ホヂャGani Hoxha」小学校に到着。ただし現在は病院として使用されている。それも明日片付け、明後日までには引き払うことになっており、校長に挨拶。Mさんに指摘されて気付いたが、ここの生徒達にはロマ(いはゆる『ジプシー』、アルバニア語では『ツィガンcigan』)と思われる顔立ちの子が目立つ。家庭も貧しいことが多いという。現在、セルビア人に「差別される側」としてのアルバニア人の姿に誰もが目を奪われているが、アルバニア国内と同様、ここでもロマに対してアルバニア人は「差別する側」である。

 10時にプリズレンに戻り、Mさんがシャドルヴァンのカフェでビュレクの軽食をとる。余談だが、「ビュレク」は標準語で、コソヴォでは口語で「ピテpite」と呼ばれる。トルコ語の「ピデpide」と共通だが、料理そのものはちょっと形が違うと思う。ティラナでは「バニツァbanica(ブルガリア語と同じ)」とも言っていた憶えがあるのだが、ここでは「そんなの言わない」そうだ。私は別に空腹でないので辺りを散策する。カトリック教会の傍を通りかかったら、土曜日に案内して貰った「カリタス」の青年と再会した。

 11時に、坂を上ってコソヴォ唯一の製薬工場「ファルマコスFarmakos」へ赴く。ここでも表示はアルバニア語−セルビア語−トルコ語の併記だが、正門の守衛室にはUÇKの標章がしっかり貼ってある。先ず責任者のバシュキム・イェティスニBashkim Jetisni氏らに面会し、AMDAの活動やトルコへの医師派遣の話、ここプリズレンから日本へ行き治療を受けている子供の話(ネズィル・シニクのことだが、聞いている途中で『何処の家族だい?』『あぁ、あそこのお子さんか』と話が通じるところが凄い)、ガズメンド医師日本行きの計画、他の日本人支援組織の動向(主にペヤにいるらしい)。

 1時間後、会見の続きは27日にすることとして、30分ばかり工場内を見学させて貰う。従業員52人、コソヴォ内や外国(主にドイツ)向けに60種類以上の薬品製造をまかなって…いたのだが、紛争以降輸出入が停止、工場の全機能も止まり、目下「開店休業」状態である。1階に顆粒化(造粒)、調合、錠剤化、2階に溶解、被覆加工(コーティング)、それに抗生物質専用の設備がある。装置は旧ユーゴスラヴィア製で、新品とは言い難い。KFOR他の支援で設備の近代化を目指しているという。

 工場見学でこの日の活動は終了。Mさんは「パルティザン通り」のAMDA支部へ戻り、私は、戻って来たアギムの家で昼食を馳走になる。肉入りの大きなビュレクが何枚も出て来た。

 ブヤルに「パンデリ・マイコをどう思う?」と訊かれたので「サリ[・ベリシャ]よりましだろう」と答えたら、向こうはまんざら不満でもない様子だ。アルバニア労働党のスターリン主義を嫌悪する大多数のコソヴォ・アルバニア人は、ベリシャの民主党に同情的である。と私はこれまで考えてきた。だが、大統領時代のベリシャが初期のUÇKに対してどちらかと言えば冷淡だった(野党となった今は一転して『同郷のつながり』をしきりに強調する。ベリシャはコソヴォに近い北部出身)こと、他方で1997年に政権を奪取した社会党がUÇKに肩入れしていったこと、同時に旧労働党を象徴する様なファトス・ナノから「91年世代」のマイコに代わったことで社会党の印象が大きく変わったこと…等から、「民主党=民主主義者=親コソヴォだから好き」「社会党=共産主義者=反コソヴォだから嫌い」という従来のコソヴォ・アルバニア人の主流意識はどうも薄れ始めているらしい。

 食後、アギムの娘の歌を披露して貰ったり(アギムが『音楽学校へ通わせたい』と言う位に上手い)、プリシュティナからネヂミエが来てブヤルらとエレクトーンの競演をしたり、サミがUÇKの軍服姿で(戦闘終結後の彼は、セルビア警察機構の消滅したここコソヴォで、KFORと連携して『detektiv』と呼ばれる私設警備の仕事をしている)妻と共に現れたり、昼寝をしたりして6時頃シニク家へ戻る。ところでアギム宅からシニク家までの石畳の小路が「ドルヴァル通り」なのだが、ここには、いつも酔っ払って腰掛けている男性や(毎回呼び止められるが、言ってることはさっぱり判らない)、ドイツ語で挨拶しながら家の門前まで追ってくる(!)子供達など、大変キャラクターの濃い人達が私の往き帰りを待ち構えていたものだ。

 ラマダンの帰宅を待って、夜8時にセボも含め3人で外出。シャドルヴァンにはカフェやディスコが密集する「リニアRinia(『青年』の意)」と呼ばれる一角があり、セボはやたらとそこへ行きたがる。が今夜はそれはなしで、アギムも合流して、山の傍の「ムリニMullini」というレストランで魚を食べる。

 この日に限らないが、プリズレンでは肉料理にパプリカspecëの炒めたものが付く。色は赤か緑。これならアルバニアでも食べているし、ヨーロッパでもよく口にするが、日本人にはそれ程辛いものではない…と甘く見ていたら、時々「辛いパプリカspecë djegës」または単に「辛い奴djegë」が紛れ込んでいて、これが口中に入るとかなり刺激的。以来、普通のパプリカと色(緑)も大きさも違わないこの「辛い奴」を当てるのが、外食でのちょっとした楽しみとなった。

 店名「ムリニ」は「水車小屋」という意味で、その名の通り広い屋外に小川があって水車が回っている。これが名物なのだそうだ。「ヴェンvenを飲むかい?」と訊くので何のことかと思ったらワインを意味する「ヴェレverë」の方言形だった。ついでに、ミネラルウォータは「ガス入り水uje me gaz」だがジャコヴァ口語では「泡入り水ujë me gungë」と言うそうだ。

 それに関連したわけでもないだろうが、アルバニア語の語彙を巡って会話が展開した。例えば、アルバニアの道路を走っているとあちこちに「ラヴァヂュlavazh」と書かれた小屋がある。明らかにイタリア語lavaggioからの借用で、「洗車場」である。しかしコソヴォの道路を走っても「ラヴァヂュ」は一つもなく、あるのは「アウトラリェautolarje」の表示ばかりだ。「車auto」と「洗うことlarje」の複合語だから、より本来のアルバニア語に基づいた造語であることが分かる。

 アギムは語学の教師らしく、アルバニアにおけるアルバニア語の外来語化や、コソヴォ・アルバニア語との乖離の拡大を憂えている。そういう違いは随所にあって、例えば車というとアルバニアでは「アウトマキナautomakine」、更に短縮して「マキナmakinë」で「自動車」として通じるのだが、コソヴォでこれは使えない。アブドゥラハマンが「プリズレンで車を頼む時は『アウトモビレautomobile』と言わなきゃ通じない」と私に注意してくれた位だ。「マキナ」って「機械」じゃないの?と思われるかも知れないが、「機械」はむしろ「アパラトaparat」である。で例えば、アルバニア語圏で風光明媚な場所へ行くと「アパラトは?」と言われるから「?」と思っていたら「カメラ(aparat fotografik)」だったりするのだ。

 また、金沢のアブデュラハマンが「よろしい」という意味で「ウ・ボ」(綴りはU boかU bëだろう)と発話するのをよく耳にしていた(標準語なら『ミルMirë』)が、ラマダン&セボも確かによく「ウ・ボ」と口にしている。しかしアギムがこの言葉を使っていたという記憶が、私にはない。してみると、この表現はトルコ語を日常語とするコソヴォ・アルバニア人ならではのものなのだろうか。

 それから、プリズレンとジラン[シュティメ、フェリザイの東方約20kmにある都市]にしかない「警察時刻」の存在を引き合いに出して、暫定統治にあたるKFORやUNMIKが多国籍編成であるが故に、地域毎に規制や罰則が異なることの厄介さを3人は訴える。意見を求められたので「主権国家として独立するかどうかは別にして、取り敢えずアルバニア人自身の統一された自治権力が必要だろう」と述べる。そうこうする内にその「警察時刻」となり、他の客も去り始めたのでぼちぼちレストランを出る。近くに立つ樹齢1800年の大木を見てから帰宅。


8月25日(水)

 ティラナの露店で買った目覚まし時計が早くもおかしくなり、30分近くも遅れた為、集合時間にやや遅刻。

 本日はロゴヴァの学校で診療施設の後片付け。と言っても私はどの薬品をどうするかなど分からないので、作業を免除され、校舎の中を子供達と一緒に見て歩く。広い教室を見て廻ると、アルバニアの学校同様、正面にスカンデルベウの肖像が掲げてある。40人程度は収容可能な教室で、後ろにストーヴはあるが、小さいので冬はかなり寒いだろう。ひずんだ窓ガラス越しに雑草が生い茂り壁石の転がった敷地が見える。一瞬、クルシャの集団墓地を連想してギクリとする。天井の電球は殆ど割れているが、授業再開までにちゃんと交換できるだろうか。廊下には、UNICEF等が運び込んだ援助物資の箱が並んでいる。

 図書室は小さいが、アルバニアの古典文学や海外文学の翻訳はひと通り揃っている。壁にナウム・ヴェチルハルヂNaum Veqilharxhi[1844年にアルバニア語のアルファベットを考案した人]、ハサン・プリシュティナHasan Prishtina[1918〜1924年『コソヴォ民族防衛委員会Komiteti Mbrojtja kombëtare e Kosovës』の中心人物]等、アルバニアやコソヴォの「偉人」の写真が4枚掛けてある。貸出帳はドイツ製のノート。司書の女性は一応いるが、手持ち無沙汰の様子だ。すぐ隣の体育館は老朽化が進んでいる。同行してくれた高校生がダンクシュートを決めてみせた。校庭では子供達がサッカーをしている。

 校舎の中にアルバニア語の標語がたくさん書かれてある。学校本来のものや、病院としてのものもある。参考までに3つ紹介する;

「学べ、夜も昼も学べ、光が見えてくるように Mësim, mësim nat'e dit', që të shohim pakës dritë.」

「ごはんの前と後に手を洗いましょう Lani duart para e pas buke」

「清潔は健康 Pastërtija është shëndeti」

 学校の外に出ると、向かいに村の本来の病院(Stacioni shëndetsor, Rogova, Has)がある。学校と同じ2階建てだが、建物の造りはもう少し上だ。ハマズ・ホティHamez Hoti院長と看護婦に案内して貰う。ここは私営医院で、診察室、治療室、患者の入院する部屋に、分娩室まで完備されている。が、ここでも薬品は不足しているし、殆どの部屋が使用されておらず、患者も外来しか見かけない。

 そうこうする内に後片付けが終わった様で、アギム、ブヤル、ハヂ、Mさんと、AMDAスタッフが同居する家族も加えて計10人でジャコヴァへ移動。まだ午前中だったが、洒落た造りのレストランでステーキを食う。周囲が殆ど焼け野原と化した通りの中にこういうレストランがあるのも、甚だ奇妙な感じだ。肉も分厚くて柔らかい。Mさんは時々こうして現地スタッフの労をねぎらうという。

 新聞を買ったら「リリンデャ」でなく「コソヴァ・ソト」にAMDAの取材記事が載っている。今日か明日には翻訳しておこう。「リリンデャ」には、日本からコソヴォへ1億ドルの援助が行われたという記事が、外務省ヨーロッパ太平洋部局のシンヨー・タカヒロの発言として載っている。今日のお釣りにはスイスフラン硬貨が入っていた。

 本日のAMDAの活動はこれでおしまい。Mさん達は「パルティザン通り」へ帰り、私やハヂらはアギムの車でそれぞれの家に戻った。取り敢えず2階の部屋で昼寝する。ティラナでは毎日欠かさなかった午後3時〜6時の昼寝だが、コソヴォではこの日が初めてではなかろうか。

 夕方、居間に降りてみるとセボが戻っていた。私が買ってきた「コソヴァ・ソト」を手に取ると、クロスワードを解いている。私も参加するが、かなりローカルなネタが多くて難関だ(『女性歌手エンヂEnxhiの上の名前』…って、わかるかそんなこと?!)。それにしても、ここの兄弟が本を読むのを見たことがない。新聞も、私が買ってきたものをたまに借りて読む位である。トルコ語の新聞は売ってないの?と訊いたことがあるが、以前は入荷していたそうだ(ドイツと同じで『ヒュリェトHürriyet』とかだろうか)。セルビア語紙も、既に店先に出なくなって久しい。

 ドイツZDF(公営第2テレビ)と地元紙の報道を総合すると、セルビア政府は、KFOR構成国毎に分割管理されている現在のコソヴォをそのまま「郡邦化kantonizimi」する案を出しているが、交渉担当のフィシャーJoschka Fischer独外相らは拒否している。自治、そして独立を志向するアルバニア人にとって問題外なのは言うまでもない。水曜日に一般公開されたベルリンの帝国議会Reichstagの映像に、セボ&ラマダンは「美術館だろこれ?!」と仰天することしきり。ところでTVと言えば、何とセボは「スタートレックStarTrek」も「スパイ大作戦Mission Impossible」も知らない!セルビアやトルコのTVでは吹き替え放送していないのだろうか?

 今夜はユヌスの家に行こう、ということで、先ずは時間潰しにシャドルヴァンへ散歩。UNMIKのすぐ傍の通りに、公園の様な広い場所がある。ここには、近代アルバニアの独立の歴史にとって重要な役割を果たした「プリズレン同盟Lidhja shqiptare e Prizrenit[サン・ステファノ条約とベルリン条約に抗して1878年6月に結成された、史上最初の汎アルバニア政治組織。『サン・ステファノ条約』と『ベルリン条約』が分からない方は世界史の教科書を御覧下さい]」の結成された建物があった。「あった」というのは、戦闘でここも見事に(!)吹き飛んでしまったからで、今では更地の真中に「ここにプリズレン同盟の建物がありました」という立て看板があるだけ。

 こういう惨状を見せられる時いつも気になるのは「これはNATOがやったのか?セルビア人がやったのか?」ということだ。セルビア軍・警察・民兵によって意図的に破壊された場所もあるし、NATOによる軍事拠点攻撃のとばっちりを受けた場所もある(しばしば『誤爆』という)。両者の砲撃合戦に巻き込まれた挙げ句、破壊された例もある。さてここはどれだろう?また、NATOはこの地域に件の劣化ウラン弾を使ってはいないだろうか(現地で活動する医療援助機関からは、癌や白血病等、放射線被爆による疾病が増加しているといった類の報告は出されていない様だが)?

 すれ違う人とセボの遣り取りは、アルバニア語であったりトルコ語であったり様々だ。時々、どちらだかすぐには判らない場合もあるが、音の調子や「ナスルスンNasılsın(元気?)」などと言うのが聞こえると「ああ、今はトルコ語か」と納得するのである。シニク兄弟とアギム他の関係で見る限り、トルコ語話者とアルバニア語話者の間に日常生活の断絶は殆ど感じられない。「家庭内母語」の違いで2つのコミュニティを形成して分離している、という雰囲気ではないのだ。必要ならアルバニア語で話せばいいわけだし、アルバニア民族としての「同胞」意識が堅固だと思われる。

 ところでこの「2言語併用」だが、実は言語学では「ダイグロスィアdiglossia(アルバニア語dygjuhësi)」と「バイリングァリズムbilingualism(アルバニア語bilinguizëm)」という2種類の術語が用いられるので、少し厳密に(いはば社会言語学的に)考察しておきたい。

(1)コソヴォ全体では、先ずセルビア語とアルバニア語の「2言語併用」があり、公の場(官庁、企業、学校、軍隊)においてはセルビア語がアルバニア語に優先する(してきた)。セルビア語を日常言語としないアルバニア人に対する待遇差別があったことからも、それは明らかである。社会的機能に応じてそれぞれの言語が使い分けられているから、「セルビア語>アルバニア語」の関係は「ダイグロスィア」であると言える。少々古いがS.Ervin&C.E.Osgoodの分類で言う「並列型2言語併用co-ordinate bilingualism」であろう。日本語の標準語と各地方言の関係も、実はこれにあたる(だから日本って多言語国家なんですよ)。

(2)一方、プリズレンのアルバニア語とトルコ語の間にそうした「高位−低位」「公−私」のはっきりした使い分けは認められない。言語社会の構成員が殆どアルバニア民族なのでアルバニア語が優位にある様にも見えるが、プリズレンという一地域に限定すれば、トルコ語の言語能力がアルバニア語のそれより社会的に有利に働くことさえある(後述するが、ユヌスはトルコ語圏との経済活動を行うことができる)。といってトルコ語が優位にあるとも言い切れない。話し言葉に限って言うと、(A)トルコ語とアルバニア語をほぼ同程度話せるシニク一家、(B)アルバニア語も使えなくはないがトルコ語の方が楽なユヌス・ラダ一家、(C)トルコ語を殆ど用いないアギム・グリ一家、これらの相互関係は社会的には完全に対等である。だから「アルバニア語−トルコ語」の関係は「ダイグロスィア」と言うよりも、むしろ「バイリングァリズム」と言った方がいいだろう。「複合型2言語併用compound bilingualism」とも言える。カナダにおける英語とフランス語の関係に似ているかも知れない。

(3)さて残る問題は、アルバニア語及びトルコ語とセルビア語との関係、特にプリズレンのトルコ語とセルビア語との関係がどの様なもの[だった]か?という点だが、何しろセルビア語による言語活動の場が(話者も含めて)駆逐されてしまった今では、観察のしようがない。

 話を戻そう。件の「リニア」と呼ばれる区画にあるカフェで一服する。若者が楽しそうに飲んだり食べたりする、賑やかな場所だ。「女の子vajzë」をアルバニア語の口語で「ゴツァgocë」とか「チカçikë」と呼ぶのだが、セボは「君はどんなゴツァが好きだ?」と女性が通り過ぎる度に訊くから困る。

 店を出たところで、すれ違った男性にいきなり「私を憶えてませんか?」と話しかけられてよく見ると、ティラナからのバスで私に話しかけた人だった。あの後そのままプリシュティナへ向かった筈だが、実はプリズレンの住人だったらしい。

 9時近くになってユヌス宅へ行く。アパート形式の建物の3階だが、各階のドアの「外」で靴を脱ぐのが興味深い。アギム宅にしても、AMDA支部のあるアパートにしても、盗まれる心配は想定されていないのだろうか。

 ベランダに出て食事をする。山と城塞跡がよく見える。戦争中はそこから狙撃される危険があったので、ベランダに出るどころか、窓もろくに開けられなかったという。近所の医師など隣人が次々顔を出しては去るが、来客が多いのにはアルバニアで慣れている。ソーセージが出たので「豚?」と思ったら、鶏肉製だった。

 ユヌスの名刺を貰った。名刺にもトルコ語の部分がある。トルコ・プリズレン間の貿易業で要職を引き受けている、と自慢気だ。彼は「ラダ」の姓(むしろ『氏』か?)を指して、自分が生粋のアルバニア人であることを強調した。イェロニム・デ・ラダJeronim de Rada[19世紀イタリアのアルバニア人聖職者・文学者]がいる位だから当然だが、どうもこの人、セルビア人に間違えられてとっちめられそうになったことがあるらしい。身分証明書を見せて、事無きを得たそうだ。日本人が旧ユーゴスラヴィア出身の人々に「民族同士の区別なんてつくのか?」と尋ねると「そりゃできるさ、ヤツらはオレたちとは違うから一目でわかる!」等と偉そうに主張する人が多いが、実際はこんなものだ。

 しかしユヌスのアルバニア語は相変わらず凄まじい。今度会ったら絶対こっそり録音してやろうと思う(結局実現しなかったが)。トルコ語を生活言語とするアルバニア人がトルコ語の干渉を受けながら喋るアルバニア語、の典型だ。娘はやっぱりトルコ語しか喋れないが、我々の遣り取りにそれなりの興味はあるらしく、時々ベランダにやって来る。なお、ここで見ているTVもトルコの番組だ。

 この晩気が付いたのだが、ユヌスは「日本人」とか「日本の」と表現したい時、常に「ヤパンjapan」という。標準アルバニア語で地名「ヤポニアJaponia」の形容詞形は「ヤポネズjaponez」だ。トルコ語で「日本の」も「日本人」もすべて「ジャポンJapon」であることに影響されているのではないかと思われる。でなければコソヴォ方言における別形、ということになる[実はアギムやハヂもどこかで"japan"と言っていた様な気がするので、こうした疑いが残るのだ]。

 その面白いんだか難しいんだか分からない宴も11時過ぎにお開きとなる。帰り際、セボは残ったビール数本を「これ貰ってくよ」とちゃっかり頂戴し、私はユヌスに地下室を見せて貰う。ここはユヌスの経営する被服工場になっていて、ずらりと並んだミシンが自動で働いている。息子がコンピュータでデザインを造っていた。20代前半と思しき好青年だ。長身・痩身で髭もなく、父親とは随分風貌が違う。アルバニア語でいろいろ話しかけたが、ただ笑っているだけで何も答えない。ま、まさかこの人も…と思ったら案の定「せがれはトルコ語と英語しかできないんだ、わっはっは」とユヌスが解説。この一家、民芸品調の製品に混じって、実は何と「UÇK」の制服を大量生産していた。今は、KFORと協同するアルバニア人(サミがいい例だ)の制服の注文を受けているそうだが、戦争中なら非合法活動である。見つかれば逮捕されただろう。

 車に乗って来なかったので、歩いて帰宅。8月だが気温がかなり低い。湿度も低いので、アルバニアよりもむしろドイツなど中央ヨーロッパの気候に近い。石畳の小路をゴロゴロいわせながら装甲車が走り抜ける。「警察時刻」が近付いている。


8月26日(木)

 AMDA支部に行くと、下の階の家族と一緒に掃除&洗濯中だった。ちなみに、ここではアルバニアの様に水が出なくなることもあるらしい。

 8月16日に農村で実施したアンケート結果を見せて貰う[後日別記]。アギムとハヂは、プリシュティナのガズメンド医師の招聘に必要な履歴書類を翻訳している。私は、日本のインスタントコーヒーと日本茶を頂戴しながら、昨日買った「コソヴァ・ソト」の記事を翻訳することにした;

コソヴォにおける海外団体AMDAの活動  より高い生活の質とより良い未来の為に

[小見出し]AMDAはコソヴォ・アルバニア人の為の医療活動をする他にも、独自の資金でガズメンド・カチャニクGazmend Kaçaniku医師(眼科)に日本での研修を実現させた[訳註:これは不正確。この記事が掲載された時点では何も決定されていない]。また他の医師や、研究を進めたい医学部の学生らも派遣し、研修を受けさせる計画を立てている。

 人道団体AMDA(Association of Medical Doctors of Asia アルバニア語Shoqata e Doktorëve të Mjekësisë së Azisë)は1984年に設立された非政府組織で、アルバニアに滞在していたコソヴォ・アルバニア人に対する人道活動を展開していた。AMDAはドゥラスで活動し、現在はコソヴォで独自の活動を続けている。

 コソヴォにおけるAMDAの活動計画はきわめて精力的なもので、医療援助物資の提供や の他にも、独自の資金で目に癌を患った少年を治療の為に日本へ招待している。またガズメンド・カチャニク医師(眼科)を選出して日本で研修を受けさせ、その他の医師や、研究を続けたい医学部の学生にも研修を予定している。

 AMDAは独自の資金で、腹腔外科のユメル・アリウ医師、婦人科麻酔科のヒュセン・ヒュセニ医師[HysenとあるがHisenでは?]をトルコへ派遣し、大地震で多数の命が失われた現地で、怪我人の治療に当たらせている。

「私達が活動している地域では、毎日の様に赤ん坊が産まれています。出生率が高いので、特に注意が必要です。ちょっとした怪我にも油断できません。それに、戦争で心に傷を負った子供達への充分な配慮も求められています」

と、コソヴォの日本人コーディネイターであるH・K氏は語る。同氏に同行し支援にあたる現地コーディネイターはネヂミエ・クロコチ氏である。

 H氏は、居住場所も大きな問題だと主張する。「テント生活は、コソヴォの冬を越すには賢明な解決策ではありません」

  H氏は、ペヤの診療所の場合、1日あたり150人の患者に医療支援を行っていると語った。H氏とクロコチ氏によれば、医薬品と医療技術の不足が問題として潜在している。今後の活動について両氏は、診療所や、専門の医療機器を備えた病院の建設を通して支援を行いたいと約束した。

 最後にH氏は、プリシュティナ大学医学部スタッフのAMDAに対する惜しみない協力に対し、特別に感謝の意を表した。

「エルハミ・ゴランツィElhami Goranci医師、シャバン・ゲツィShaban Geci医師[Genciでは?]、アリ・ザトリチAli Zatriqi医師、ゼフ・ジョニZef Gjoni医師、その他、私達に援助を申し出てくれた多くの方々に感謝します」

 作業は午前中で終了。MさんがUNMIK駐在の日本人と会見するということで市中心部へ出る。「フォトスター」で写真の現像とコピーを頼んでいると、隣の店のラマダンと顔を合わせる。それから近くの店で紅茶を飲みながら、昨日の新聞を出してアギムと共にクロスワードの続きをする。今日の新聞に解答が載っているから楽だ(女性歌手エンヂの上の名前はニニNiniでした)。が、今日の問題がまた難しい(『トルコの作家ニハトNihatの上の名前』だって?!)。「リリンデャ」によれば、プリシュティナの中央病院で郵便業務が再開されている。昨日の記事に登場した外務省のシンヨー・タカヒロは、その後ドレニツァDrenicëとペヤを訪問したらしい。ラホヴェツ封鎖は依然として続いている。

「戦車を通すなら我々の身体の上を通るがいい(Tankët e tyre mund të kalojnë vetëm mbi trupat tanë)」

 この日の移動中だったと思うが、アギム(かハヂ)によればプリズレン市民の5〜6割がトルコ語を解するらしい。正確な統計がないから断言はできないが、滞在中の見聞から推し量る限り、あながち誇大な数字ではないと思う。

 午後からアギムの妻の実家へ行くことになり、アギム宅でひと休み。何故か娘はおらず、息子しかいない。居間でラジオをつけるとアルバニア語が流れてきた。コソヴォに来て初めてのアルバニア語放送だ。地元局「ラジオ・プリズレンRadio Prizren」が、各学校の再会予定について住民向けの情報を流している。たまたま持っていたカセットテープで録音した[が、翌日再生したら何も入っていなかった、残念]。アギム夫妻も9月からは仕事に復帰できることを望んでいる。

 外に出ると表にサミの車が停めてある。赤い車体に「Detektivi F007 Prizren」のロゴが格好良い。ところでアギム宅の住所は「ゼレンゴラZelengora通り」で、日本語で言うと「緑山通り」になるのが面白い。

 スハレカへ向かう道をワイン工場の傍から西へ曲がり、サマドラチSamadraçiという村[後日、地図で見たらサマドレヂャSamadrexheだったが]に入ったのが午後1時頃。この辺りまで来ると、日本人を見るのは初めて、という人も多い。この一帯でも、破壊された家屋が目立つ。幾つかの建物の前でアギムが「あそこが私の働いていた学校だ」と言う。公教育の場からアルバニア語による授業が追放され、多くのアルバニア人教員が解雇された後、一般の住居内で非合法の授業が(小学校から、大学まで!)行われていた。そういう「学校」のことだ。アギムの息子は軍用車輌とすれ違う度に何でもNATOだと思うのか「ナート!ナート!」とうるさい。あんまりしつこいと父親に叱られている。

 目的地の家に着くと、サミの妻(つまりアギムの妻の姉妹にあたる)もアギムの娘も既に到着していた。アギムの妻の実家は商店を営んでいたが、戦争の結果、2階の1室を除いて全焼。隣の敷地に新しい家を造っている最中で、取り敢えず焼け残った部屋に祖父母と子供4〜5人が暮らしている。その部屋も、窓ガラスは全部割れてビニールが張られている。壁にはケリーファミリーKelly Family[ドイツの人気グループ。全員が兄弟姉妹で、いはばドイツの『フィンガー5』。コソヴォとドイツの関係の深さを感じる風景だ]のポスターが貼ってあったりするのに、視線を上に向けると天井が黒焦げだ。しかも隣の部屋に通じる扉を開けると、いきなり青空が広がっている。

 しかし家族は至って元気に暮らしている。「コソヴォは壊された」と言うから「アルバニアは戦争もないのに壊された」と返すと「ありゃ自分で壊れたんだ」と手厳しい。スープにジャガ芋と肉と米の料理を出して貰ったが、素朴な「田舎料理」といった味だ。普通こういう所では目茶苦茶にたくさんの料理をふるまわれるものだが、この家は以前にもAMDAの日本人スタッフをもてなしたことから「日本人はアルバニア人ほど食わない」ことを承知しているらしい。 食後のトルココーヒーをいただいてから、アギム父娘と義祖父の案内で新築中の家を見せて貰う。作業にあたるのは皆、近所の人々だ。無償労働である。夏はまだしも、冬になれば気温は急激に下がり、雪も積もる。10月頃までには完成させねばならない。よって大急ぎである。

 家の外に出る。社会主義政権期、アギムはこの村の学校に8年間赴任していた。自家用車などなかなか手に入らなかった頃で、少々遠方の住まいから1〜2時間歩いて通勤していたという。その学校を訪ねてみると、ここもかなり破壊され、修理が続けられていた。9月になれば学校は再開され、子供達も戻って来る。8月中には完了させねばならない。よって先程の家よりも大急ぎである。修理にあたっている人員だが、壁にペンキを塗っているのは生物の教師、椅子や机を修理しているのは数学の教師、床に板を張り直しているのは物理の教師と校長だ。ここも全員無償の奉仕である。

 作業は、破壊の激しい教室から優先的に進められている。床が黒焦げになっている教室があったが、歩けない程ではないし、机と椅子は全て無傷なので、このまま使用されるだろうという。しかし生徒にとってはたまったものじゃないだろう。ふと9月の開校式の風景を想像してみるが、日本みたいに校長が壇上で「みなさん、夏休みは楽しかったですか?」なんて…間違っても聞けないだろうな。おそらくこのコソヴォの惨状と、アルバニア民族が受けた苦難と、生き残ってここに集うことの有り難さ(『命の大切さ』!)を語り、再び学べることを皆で感謝し合うことだろう。

 帰り際に「プネ・テ・ンバレPunë të mbarë(よい仕事を)!」と言ったら「そういう時は『ルムシェ・ヌ・ドゥアルトLumshë në duart(お仕事がんばって)』だよ」とアギムに教えられる。肉体労働をねぎらうには、特別の言い回しがあるのだ。

 これに限ったことではない。驚くべきことに、コソヴォのアルバニア語には「お疲れ様」という表現が存在する。道で出会った人にも、仕事中と見えれば「ウ・ロヅェU lodhe?」と話しかけるのである。直訳すれば「疲れましたか?」の意味だから標準アルバニア語でも言わないことはない。しかし、使用頻度が比べものにならない。言われた側も、状況に応じて肯定("Po")したり感謝("Faleminderit!")したりする。

 上で「驚くべきことに」と書いたのは、労働に対する言語表現がアルバニアのそれと著しく異なるからだ。私が接したアルバニア人の仕事現場は、もっと口数が少なく、はっきり言って無愛想だ。外国人の私に対して、でなく、アルバニア人同士で、である。アギムは言う;

「コソヴォには、勤労を尊ぶ心が生きている。コソヴォのアルバニア人は近所の為にこうして無償労働をするし、道で会えば『おつかれ』『どうも』と言葉を交わし合う。しかしアルバニアのアルバニア人は何でも『金、金』だ。金が貰えなければこれっぽっちも働こうとはしない」

 この労働観の違いの原因を実証的に解き明かすのは難しいが、推測はできる。かつてアルバニア労働党は毛沢東流「大躍進」に続けとばかりに労働を賛美し、号令一下、「党のもとに」無償の労働奉仕を呼びかけた。ユーゴスラヴィア「自主管理」路線の対極である。しかしそれが余りにも動員優先で上意下達式で教条的だった為、本来育つべき勤労意欲が窒息死してしまった。かくして「党」のタガが外れた途端、手抜きと拝金主義が横行する結果となった。そんな状況では[ティラナのエストレフに言ったら、さぞ気を悪くするだろうが]丁寧なねぎらいの言葉遣いが消滅してもおかしくない。関連付けて言うと、「〜さん」にあたるアルバニア語「ゾトニzotni」や「ゾテリzotëri」が完全に「ショクshok(同志)」に取って代わられたのも、アルバニアならではだ[ただし、『ゾティzoti』という形は近年アルバニアでも復活した。労働党体制下では外国人にしか用いられなかった敬称だ]。

 ここでちょっと思い出したことがある。ミュンヘン大学アルバニア語学科の主任教授であったマルティン・ツァマイMartin Camaj(1925−1992)は優れたアルバニア語学者の一人だが、アルバニアからこの学科に来ていた学生の多くは彼の名前さえ知らなかった。生前ツァマイは自らの「母語」である北部アルバニア方言で文法や詩を書き、アルバニア[社会主義人民共和国]で進められた標準語統一の動きにはむしろ批判的な姿勢をとってきた。この為、アルバニアの外では有名でも、アルバニア国内で暮らす一般の市民には積極的に紹介されて来なかったのである[誤解のない様に付記しておくと、国際的な学会では、アルバニアの学者とツァマイの間にも交流があった。また、90年代に入ってからはアルバニアでもツァマイの著作集が出版されている]。

 家に戻ると、紅茶の用意ができていた。ここでも「もう結構」と言わなければ「おかわり」が出される。本来は調理をする部屋ではないから、どこか別の場所で湯を沸かして持って来る。食事の支度も同様。慣れるまで、否、慣れても大変だ。

 アギムに「学校はどう(Si është shkolla)?」と現在時制(është)で尋ねられたので、「(昔は)きれいだったよ」とひねって答えようと思ったのだが、さてこれはどういう過去の表現にしたものか?アルバニア語では、現在の時点から過去の出来事を表現する方法が差し当たり3種類あって、「現在完了kryer」か「アオリストkryer e thjeshtë」か「未完了pakryer」かでいつも悩むのである。現在完了は、過去の出来事を現在とのつながりで表現する(例えば『私は彼女をずっと愛している』。昔から愛して、今も引き続き愛していることになる)。これに対してアオリストは、現在とのつながりを意識せず、過去のある時点で切り取られた瞬間を表現する(例えば『彼は池に落ちた』。その後ではい出したか、まだ池の中にいるかはどうでもよい)。

[これまた誤解のない様に付記しておくと、アルバニア語はスラヴ語ではないので、動詞の形態に完了体/不完了体の二通りがあるという事ではありません]

 しかし実際には[ドイツ語を習ったことのある方ならご御察しの様に]現在完了が「過去」を叙述することが多い。問題は未完了で、これは一般的に、過去における動作の持続・反復を表す…と言われても容易に実践できるものではない。散々悩んだ末[と書いても実際にはせいぜい0.1秒ぐらいだったが]結局無難なところで現在完了(ka qenë)にして「Ka qenë e bukur」と言ったら、即座に「Ishte e bukur!」と半過去(ishte)に直された。まだまだ修行が足りない。

 現在完了を話題にしたついでにもう一つ言語に関することを指摘しておこう。アルバニア語には「感嘆法」という独特の動詞変化があって、例えば、「është(〜である)」の現在完了形「ka qenë」を前後逆(qenë ka)にし、更に「qenka」とくっつければ「何と〜だ!」という驚きの表現になる。例えばごく普通の文「është e bukur(それは美しい)」を感嘆法で書き換えると「qenka e bukur(それは何と美しいことか!)」になる。

 この感嘆法は、勿論アルバニアでも使用される。しかし注目すべきことに、私の見る限り、コソヴォのアルバニア人はことさら驚いているとは思えない場面でも感嘆法を頻繁に使っているのである。まるで、アルバニアのアルバニア人の様な普通の言い方[文法では『直説法』という]では、味も素っ気もない!と言わんばかりだ。とすると、アルバニアの人達にとってコソヴォの人達の会話は、妙に感激屋風で大袈裟に聞こえるのだろうか?

 さて、帰路ではアギム親子が揃って車に乗る。山の向こうまで続く広い畑を指しながら「秋にはこ〜んな粒の大きい葡萄ができるんだ(と指で円を作る)、イウラが今度来たら葡萄狩りに行こう」とアギムは自慢気に言う。アルバニアでもそうだが、アルバニア人はしばしば果物を振る舞いながら「日本にはこんな大きい実はないだろう!こんなに甘くないだろう!」と自慢するのだが、いや日本には「巨峰」が「ピオーネ」が…余談だが、桃bjeshkëを「毛皮を着たリンゴmolla me lesh」というそうだ。

 スハレカから今度は南へ逸れて、アギムの知人を半時間ばかり訪ねた後、車窓から別の村々を見る。村全部が無人と化した場所もある。誰もいない住居の門前に、遺影が1枚立ててある。放置されて雑草の生い茂るに任された土地もある。ふと、ハンドルを握っていたアギムが少々真剣な顔で私に訊いてきた;

「日本に帰ってから、ここで見たことを話してくれるかね?」

「勿論。インターネットに報告を載せる[今あなたがお読みのこれです]し、授業時間にも話すつもりだ[事実、話しました]」

「是非そうしてくれ!コソヴォのアルバニア人は日本に関心を持っているし、日本人を尊敬している。コソヴォが立ち直るには、日本人の協力が必要なんだ!ここで見聞きしたことを広めてくれ」

 夕方シニク家へ戻る。8時にラマダン&セボと町へ出る。私がいなくても、こうして毎晩出かけるのだろうか。一体、兄弟の稼ぎだけで大丈夫なのか?それはそうと、今日も私の靴はピカピカだ。

 土埃舞うティラナと比べればプリズレンは充分に綺麗だが、兄弟に言わせれば「昔は石畳の石の一個一個も磨く程に清潔だった」。石畳と言えば、後日トルコ語を調べていたら「アルナヴド・カルドゥルムarnavud/arnavut kald&305rımı」…英語で言えばAlbanian pavementだが…これで「玉石を敷き詰めた道」という表現があるらしい。今日も山と城塞が見える。昔は山の側面に「ティトー万歳RROFTË TITO」と電飾がしつらえてあったという。

 今日も川の両岸は大賑わいだ。子供がドイツ兵にじゃれているのは見慣れたが、上等な毛皮を着た女性がドイツ兵のジープに乗って走り去るのを見た時は、おやと思った。どう見ても「兵隊相手」としか思えない不自然な風体だ。対独感情が良好だから表立てて問題にされないことかも知れないが、私は記憶に留めておこう。同じ晩、川沿いのホテルの前で、今回のコソヴォ滞在中始めて両替商を目撃する。しかし2人しかおらず、しかも客もなく手持ち無沙汰な様子だ。これはまたアルバニアと様子が違う。

 シャドルヴァンのレストランで焼肉料理を食べる。羊に牛に鶏の盛り合わせだ。店には外国人の客も多く、初めて東洋系の顔を見かける(たぶん韓国人)。しかしラマダンはこういう騒がしい店が気に入らない様で、明日は自分の友人が経営する店に行こう、繁華街からは外れているが「穴場」だ、としつこく言っている。セボと違って結構神経質な兄である。

 その神経質な兄よりも更に神経質だというアブデュラハマンの金沢生活がその席での主要な話題だった。日本・アルバニア協会のK事務局長と酒を飲んでうまくやっていると語ると「じゃあコソヴォのラキを土産に持って行くといい」と言う。アルバニアでは「ラキ」と言えば充分だがこの兄弟は丁寧に「ラキ・ルシraki rrushi」と呼んでいる。「ルシrrush」は「葡萄」だが、何故わざわざ「葡萄のラキ」と言う必要があるのだろうか?何か他のラキがあるのだろうか?(日本で調べたところ『すもものラキ』raki kumbulleという語があったが、生憎、見たことがない)或いは、これもコソヴォとアルバニアの表現の相違だろうか?

 金沢のアブデュラハマンも、ここのラマダン&セボも「アルバニアのラキは味が荒い。コソヴォの方が芳醇でまろやか[ちょっと意訳]だ」と主張するが、それと関係あるのか?それを真似したわけでもないが、私は日本酒を「ラキ・オリズィraki orizi」と説明している。つまり「米のラキ」だ。そうするとセボは「米を毎日食べると、日本人の様に頭がよくなって経済が発展するかなぁ」と訳のわからない意見を述べている。

 ところで、ユヌス程ではないが、ラマダンのアルバニア語にも時々「?」な部分がある。「何?」という疑問詞が標準語の「チュファレçfarë」でなく「チュシュqysh」だったりする。「それから」という副詞が「パスタイpastaj」でなく「マンデイmandej」だ。ただしこれはトルコ語ではなく、れっきとしたアルバニア語の方言形である。

 ついでに書いておくと、コソヴォの「トイレ」はアルバニアで使われる「バニョbanjë」でなく「ネヴォイトレnevojtore」と呼ばれる。もとは「必要のある場所」の意味で、従って「用がある?A ke nevojë?」と聞けば「御手洗に行く?」という意味になる。私が初めて手に入れたアルバニア語の本はコソヴォ・アルバニア語の会話書で、初めてアルバニアに行った時もそれに倣い「ネヴォイトレは…?」と聞いても誰も「ああ、バニョは…」としか言わないから、不思議で仕様が無かった。一方コソヴォの「バニョ」は「風呂」しか指さない。

 食事の後、またもセボの好きな「リニア」のカフェに行く。前回は屋外だったが、今度は店内なのでBGMが凄まじい。注文を取るのもひと苦労だ。日本にもこういう店はあるが、どうやって会話するのか不思議だ(黙って見つめ合ってれば幸せ、というならともかく)。そんな店内で記念写真を撮って貰ったが、やはり騒音にあてられて私は元気がない。

 キオスクに珍しく本があった。「コソヴォ解放軍と武装解除UÇK-ja dhe çarmatosja e saj」と題したパンフレットで、ティラナの出版物だ。「僕が買ってあげよう」とセボが値段を聞いたら7マルク50プフェニヒだという。途端に「高過ぎる!」と叫び「こんなもの新聞にだって載ってるし、UÇKが武装解除するかどうかなんてどうでもいいことじゃないか」と急に言い出してその場から立ち去ろうとする。7マルク半ぐらい自分で払えるのに…と思ったが、目の前でほいとマルク紙幣を出すのも気が引けたので遠慮する。まぁ、明日の外出中に買えばいいだろう。

 いつもより帰宅が早かったので、ネヂレもまだ起きていた。居間でアブデュラハマン達の話をしていると「ネズィルに髪の毛はあるの?」と訊くので「ありましたよ」と答えると「でもアブデュラハマンの[トルコ語の]手紙によると、髪が抜けたそうよ」。「?」私がネズィルを見舞ったのが7月だから、その後に抗ガン剤を使ったのだろうか[日本に戻ってから金沢へ行くと、その通りだった]。ヂェミレは、ネズィルの為にチョコレート菓子を持っていって欲しいという。

 ラマダンがノートを持ってきて、私の経歴を訊きながらメモしている。私に訊いている時はアルバニア語だが、手元を覗き込むと案の定、トルコ語で書いてある。小学校と中学校の区別を説明するのも厄介なら、大学制度の説明も大変[彼らは、『大学』にあたるアルバニア語"universitet"より、『学部』にあたる"fakultet"を『大学』の意味で使っている。この違いに気がつくまで、意志疎通にかなり無駄な苦労をした]だし、「日本皇帝」の説明や、日本に「軍隊」があって兵役がない背景の説明も複雑だ[日本の『憲法9条』を知るアルバニア人は少ない。手を抜かずに解説する必要がある]。日本についての質問なのに「TVで見たが、シンガポールに世界一高いビルがあるというのは本当か?」とか「中国は共産主義なのに何故シャンハイは発展してるのか?」と訊いてくるのも、何となくいっしょくたにされた彼らの「北東アジア」観を示している。他方、アルバニアで用いられる「首相kryeministër」という単語がコソヴォでは使われず、すべて「議長kryetar」で済むのも面白い発見だった。

 ラマダンには、漢字とカナの使用が不思議で仕方ないらしい。どうして同じ語を漢字でもカナでも書けるのか?何が違うのか?学校ではどんな風に教えているのか?と訊くから、

 「わたしはにほんじんです」

 「私はにほんじんです」

 「私は日本人です」
と日本語を書いて、私みたいな年齢の日本人がこういう文をカナだけで書いたら笑われるだろうと説明すると

「つまり、中国文字が多いと教養が高いということ?」「まぁそうだね」  

 アルバニアでもそうだが、ラマダンは周囲に私のことを「プロフェソルprofesor」と紹介している。そこで、ティラナでのアルベンとの会話以降自分の頭の中にあった一つの「仮説」をぶつけてみた。アルバニア語圏における「profesor」は「(大学内の地位としての)教授」に限らず、「学校の先生」という程度の意味ではないのか?尋ねてみるとその通りで、大学や研究所で研究・教育に従事する人を[敬意、或いは遠慮も込めて]何となく「先生」と呼ぶ傾向があるのだ。[坂本龍一を『教授』と呼ぶ様なものだ…いや、彼には音大教官の資格があったか]してみると「いや僕は大学の教授profesorじゃなく単なる教師mësuesです」と私が説明していたのは「いや私は大学の先生ではなく先生です」と聞こえるわけで、少々変な表現だった。ただし、代議士に「profesor」と呼びかける習慣はない。 かくして質問責めから解放されたのは午前1時であった。


8月27日(金)

 朝、新聞を買うついでに、昨日見かけた「コソヴォ解放軍と武装解除」を買う。7マルク50プフェニヒの冊子に10マルク紙幣と50プフェニヒ硬貨を出したら、2マルクと12ディナールが返ってきた。一方、30プフェニヒの「リリンデャ」と25プフェニヒの「コソヴァ・ソト」と30プフェニヒの「コハ・ディトレ」に1マルク出したらお釣りはなかった。相変わらずよく判らない。

 今日のAMDAは先ずファルマコスで会見。前回の見学の後で、UNMIKからも訪問があったらしい。Mさんが日本へ一時帰国する等で日本人スタッフが入れ代わることを伝える。10時から30分ばかり話して、すぐに辞去。というのも、今日はプリシュティナへ向かうからだ。アギムは今日も別行動で、日本人看護婦を連れて国境方面へ。よってブヤル、ハヂにMさんと私でプリシュティナへ出発。

 スハレカからシュティメへ向かう途上の車内で、一同、私の買った新聞を回し読みする(末頁に英語版ダイジェストがあるので、アルバニア語が読めない人も大丈夫)。私が「リリンデャ」でイェリツィンのマネーロンダリング疑惑に関する記事を読んでいると、ハヂとブヤルが「コソヴァ・ソト」の紙面に何か注目すべきものを発見したらしい。それはこういう記事だった;

クシュネル特使とUNMIKへの公開書簡  レドモンド氏の詐欺行為 黒幕は彼の相談役だ

 周知の様に、我々アルバニア人医療スタッフは、戦争終結後の今年6月21日に職場へ復帰した。最初に直面したのは多大な物資不足だった。そして必要とするものを探し求め、治療も受けられないでいる多数の患者に対応する為、プリシュティナ大学病院は必要なものに優先度をつけて分類していった;

1.注射用具、衛生用品、実験用薬品、レントゲン用フィルム。

2.診察・治療用の施設と器具。

3.癌専門病棟の設立。

 我々は、国連からプリシュティナ大学病院の担当官に任命されたアンソニィ・レドモンドAnthony Redmond氏、及びそのスタッフに対してこれらの要求事項を明らかにした。彼らは、これらの要求が早急に実施されるだろうと我々に約束した。が、何も実現されていない。患者達は治療も受けられず、絶望の中に放置されている。

 レドモンド氏がしたのは、まったく別のことだった。設立されたのは救急センター(Qendër Urgjentë)であり、我々の患者達に役立つ、とされていた。だがそれは今のところ何ら急を要するものではない。外科病棟が既にあって、救急センターとしての役割を果たしているからだ。こんな具合で、患者にとっての優先事項も、我々や院内評議会(Këshilli Drejtues i Spitalit)[訳註;英語で"Bord"と呼ばれているらしい]の要求も無視された。決めるのは、レドモンド氏だけである。

 レドモンド氏は着任当初に院内評議会を設立し、私もその一員となっている。しかしこの評議会は書面の上だけの存在であり、そこには何らの議案もかけられず、そこでの決定事項はまったく実行に移されていない。

 レドモンド氏は、医学部長で院内評議会員のマズルム・ベレグMazllum Belegu医師との間に、個人的なつながりを持っている。ベレグ医師はレドモンド氏の相談役(tutor)を努めており、レドモンド氏の言動一切を指図している。一方、評議会はいつも蚊帳の外だ。それもひとえに、ベレグ医師の党派的な利益を求めんがためである。

 残念ながら、アルバニア人社会には政治的偏向が今日もなお存在する。ベレグ医師は自らの派閥内で特定の政治的潮流を代表しており、レドモンド氏はベレグ医師の道具として利用されている。国連から派遣されたプリシュティナ大学病院担当官という本来の中立な役割を果たすどころか、特定の政治党派のために働いているのだ。

 レドモンド氏は、評議会に一言の相談もなく、ベレグ氏やその妻と名乗る女性と諮って、言語医学センターと生理学研究所の人員を解任してしまった。それらは施設不足を補うために設立されていたのに、言語障害を持つ人達への必要な対応はとられずに、イタリア軍警察の詰め所を設営している。その際の合意事項からは、何のためにそんなことをするのかということは分からない。患者のための薬で埋め合わせをしようということが述べられているだけである。

 皮肉なことだ。我々は患者のための薬を探していながら、その薬がどこにも見当たらないのに。我々はここ数日、麻酔薬不足のために手術を延期している。それをレドモンド氏に訴えると、「あなたたちが仕事をするのは緊急時のみであって、そんな計画を実施する必要はない」などと彼は言うのだ。しかし癌が手術計画の妨げとなりつつあり、患者は死に近付いている。レドモンド氏が考えを改めず、またベレグ医師の政治的意図が達成されるのを待っていたら、患者は確実に死ぬだろう。ベレグ医師の意図とは「コソヴォ暫定政府は患者のための薬も確保できず、よってコソヴォを統治する能力もない」という世論を広めることなのだ。ベレグ医師には自らの目的があり、またそれを達成させる確信がある。だが、国連の代表であるレドモンド氏が彼に忠誠を誓ったり、その道具となる必要はない。我々の中にある一政治勢力が目的を達成するために、患者の命を犠牲にすることなど、あってはならないのだ。

 レドモンド氏は着任直後の数ヶ月間、当座の支援として全職員に臨時の給料を払うと約束していた。発言したのは院内評議会の場である。これも事実上行われていない。前述の3分野に対する支払いも滞り、交通費さえも支給されていない。当然、職員の誰一人として満足していない。しかもその不満を訴えた職員に対してレドモンド氏は給与の支払いを中断してしまった。おかげで一部の職員達は、今日に至るまで無給状態である。

 給料の支払い方法も問題だ。それは野蛮な僭主制を思わせるもので、人間としての尊厳、我々の職業意識をも踏みにじるものだ。

 我々がこれらの件についてレドモンド氏に糾したところ、彼は気分を害したらしく、「今後の援助を中断する」と告げ、「誰がコーディネイターになっても同じことだ。コーディネイターや院内評議会の構成を承認するのは、この私なのだから」と言って我々を脅しにかかるのだ。これでは評議会に何の意味もない。彼は国連代表であることを笠に着ている。

 そこで貴機関[訳註;UNMIK]の権限と調査機構を以て、レドモンド氏に然るべき措置を執り、彼が中立な代表者としての義務と責任を果たす様に、政治勢力の道具となることのない様に計らっていただきたい。このままでは、レドモンド氏や貴殿[訳註;ベルナール・クシュネル特使]を代表として派遣する国連機構に対して、好ましくない印象が生じかねないであろう。

敬具
プリシュティナ大学医学部外科病棟コーディネイター
医師 イサ・ハヂウIsa Haxhiu

 なぜこれが注目に値するのか?実は、ここに登場するレドモンド氏が首を縦に降らない為に、ガズメンド医師の訪日計画が進まないでいるのだ。それだけではない。22日にプリシュティナからトルコへ医師2名を派遣した件についても、レドモンド氏の意向を無視して実行したことで、後々不利な扱いを受けるのでは?とAMDAスタッフに無用な不安を与えていたのだ。それだけに、この暴露記事はMさんに言わせれば「お祝いをしなくちゃ」という位、画期的だったのである。

 プリシュティナに着いたのは午後1時だったが、この記事を発見したことで予定を大幅に変更。グランドホテル・プリシュティナでコーヒー(ここのラウンジにはエスプレッソしかない)を飲んだ後[余談だが、ここでMさん興奮の余り支払いを忘れそうになり、ハヂが気の効いた一言『日本人コーヒー代を踏み倒す、で新聞沙汰だ』]、ネヂミエ・クロコチ宅で新聞記事の内容を知らせ、それから中央病院であるプリシュティナ大学病院へ向かう。ついさっき記事で槍玉に上げられていた「EMERGENCY CENTER」の巨大な看板が、何とも滑稽に見える。正門にはKFORの戦車が止まり、検問が行われているが、AMDAは有名だから即入構OKである。

 午後2時半頃、ガズメンド医師と例の新聞記事について話す。レドモンドの奴は無視して話を進めましょう、とばかりにMさんと日本行きの件を相談する。

 その後、スタッフ一同お勧めのレストラン「ナイアガラNiagara」で昼食。プリシュティナの図書館(モスクの集合体みたいな建築様式)の近くである。おめでたいのでMさんがかなり奮発してくれたが、それでも5人で62マルクだった[コソヴォの平均収入から見れば勿論高い。為念]。5時にプリシュティナの外科医宅を訪れるが留守だったので、そのままプリズレンへ出発。7時45分に帰宅。 [結局、ブヤルとMさんにはこの日以来会っていない。]

 晩はラマダンのたっての希望で、彼の友人ラミズRamizが経営するトルコ料理のレストランへ出かける。客の殆どがトルコ語で喋り、店内のTVでトルコの番組が流されているという環境で、本場トルコ仕込みの焼肉料理(とラマダンは強調するのだが、量をこなすのに必死で、昨日の料理と違いが分からない)を馳走になる。

 何の話から発展したか忘れたが、セボは「UÇKには兵士の数だけ司令官がいる」と痛烈な皮肉を言う。戦争中には絶大な支持を得たコソヴォ解放軍だが、闘い終わっていざ再建期に入ると、地元民には何かと腐敗や「あら」が見えてくるものらしい。

 しばらくするとセボが外へ出て行った。更にしばらくすると、何とユヌスが現れた。周りの客とひとしきり豪快にトルコ語で喋った(ペラペラだ!)後、私の前にどっかと腰を下ろし「近くのカフェで飲んでいたらセボに呼ばれて、イウラがいるというから飛んで来たぞ」とおっしゃる。

 ところで私は明後日にプリズレンを去る。ユヌスが「どうやってティラナへ?」と言うので、クカス経由で戻る旨を告げた。すると「クカスまでは道路が悪いから大変だ」更に「スコピエまで連れてってやるから、そこからバスで帰りなさい」と言い出した。

 大体、アルバニア人にうっかり旅行の希望を話すとさあ大変、「それなら俺が案内を…」「いや私の知り合いに…」と議案百出の挙げ句「船頭多くして船動かず」になるのだ。でこの時も、また話がややこしくなってきたぞ…と思っていたら、言い出したユヌス本人「いや、これはまずい!」と叫んだ。

 何かと思ったら、スコピエからテトヴォТетовоに至る幹線道路をKFORの車輌が頻繁に移動しており、渋滞が多くなっているらしい。ましてやそこから国境を越え、更に何時間もアルバニア国内を南から北へ走り抜ける(おそらくポグラデツPogradecやエルバサンを通らねばならないだろう)のはかなり辛い。よってスコピエ経由案は消え、予定変更は回避された。しかし彼の情報が正しいとしたら、往きをスコピエ経由にしなかったのは実に僥倖だったわけだ。

 食事の後でシャドルヴァンに移動し、川辺のカフェで食後のコーヒー&ビールを飲む。時刻は午後11時半過ぎ。ユヌスは名残り惜しそうに「イウラ、何故もっとプリズレンにいないんだ?1ヶ月でも、1年でも、10年でも50年でもここにいなさい!」と物凄いことを真顔で言う。無論、客人に対するアルバニア人特有の大袈裟な言い回しである。だが、もし私が日本を追われるようなことに(?)なれば、彼らは本当に何十年も面倒を見てくれそう、な気がするから不思議だ。

 ところがそんな話をしている内にシンデレラの帰宅時刻が迫って来た。気が付くと、先程まで陽気にやっていた客達は次々に姿を消し、店員はテーブルと椅子を片付け、カウンターに鍵を掛けてしまった。そして我々に「もうしばらくどうぞ。私達はお先に」と言い残すや、さっさと帰ってしまった。慌てて店を出ると、既に殆どの店が閉まっており、あれ程華やかだったシャドルヴァン一帯の明かりもすっかり消えている。プリズレンとジランにしかない、アメリカ軍はやらないという「警察時刻」の到来である(おや?ジランがあるコソヴォ東部はアメリカ軍の管轄では…あのフェリザイのレストランの主人の勘違い?)。

 帰宅してベッドに入る。深夜、遠方で重い爆発音が響いた[別の日かも知れない]。戦闘でなければ、不発弾か地雷の処理だろう。  


8月28日(土)

 今日はAMDAの活動もなし。朝食の後、セボの案内で歩いて町へ出る。

 土曜日で、街角には露店(パザールpazar)が普段より多く出ている。製品はドイツ製とトルコ製が多い。週末のコンサート、サッカーの試合の告知が店先に出ている。衣料品店の前に王子様みたいな格好の子供服が展示してある。割礼(トルコ語『スュネトsünnet』)式の衣装だ。ムスリムに割礼の習慣があるからだが、これもアルバニアにはない(『今はない』と言うべきか)。「今日はアブデュラハマンへの土産にラキを買おう」と言ったらセボが「もう買ってあるよ」と言う。アルバニアでもこんな感じで、飲食費は言うに及ばず、土産代まで出してくれるのだから有難い。しかし[地元の人にとって]高価なものは頼みにくく、独りの時にこっそり買わなければならないのが難点だ。

 昨夜のカフェで「リリンデャ」と「コソヴァ・ソト」を読む。ロシア軍進駐に抗するラホヴェツの封鎖は今日も続いている。ミトロヴィツァ西方のヴシュトリVushtrriにある亜鉛板金工場「ラムコスLlamkos」で、セルビア人従業員が組織的虐殺に動員されていたのではないかという記事もある。疑惑の従業員92人の実名が全て掲載されている[補記;この『リリンデャ』の記事は、1999年10月18日のNHK『クローズアップ現代』で、ストゥディメStudime村虐殺事件に関連して取り上げられた]。

 プリシュティナでは、アルバニア人政治犯の釈放を求める数千規模のデモが行われ、ハシム・サチにベルナール・クシュネルBernard Kouchner国連特使、OSCEのダン・エヴェルツDaan Everts、そしてアルバニアからも「旧政治犯協会Shoqata Kombëtare e ish-dënuarve dhe të përndjekurve politike」のクルト・コラKurt Kolaが参加した。公式発表によれば、KFORの総兵力は47000人に達したらしい。「NATO司令部にロシアのスパイ?」という、どこまで信じていいのか判らない記事もある。

 この日を含めてここ数日の「リリンデャ」紙面には興味深い動きが見られる。同紙の印刷労組が、「コソヴァ・ソト」は「リリンデャ」の印刷施設を勝手に使用している、と非難したのだ。労組の批判記事は25日付「リリンデャ」に掲載され、これに27日付「コソヴァ・ソト」が「そんなつもりはない」と疑惑を打ち消す社説を載せ、更に本日の「リリンデャ」には、「コソヴァ・ソト」発行に携わる「インテルプレスInterpress R.C.」社が同様の弁明を載せている。23日に「リリンデャ」編集部で取材したAMDAの記事が「リリンデャ」でなく「コソヴァ・ソト」に載っていた(25日付)ことでも明らかだが、両紙は密接な提携関係にある。その関係が少々ギクシャクしているらしい。

 もう一つの有力紙「コハ・ディトレ」は、ヴェトン・スロイVeton Surroi社主とバトン・ハヂウBaton Haxhiu編集長の下、UÇK指導部[その他]に見られる過剰なアルバニア民族主義(例えば、セルビア人に対する報復の煽動)から距離を置き、冷静な論調を維持している。西側の信頼も高い。ハシム・サチを公然と批判したこともあるという("Der Spiegel" 38/1999)。

 ひと休みした後、山へ登る。山といっても大した距離はない。10分位で中腹へ来ると、焼け爛れた住宅群が続いている。セルビア人居住区だ。空爆後、アルバニア人の報復で焼かれた可能性が高い。こういう景色の良い場所がセルビア人に専ら充てられたのだろうか。アルバニア人のいる場所なら、破壊されていても何かしら再建の動きがあるものだが、ここには人の気配がまったくない。逃げ出してそれっきり…という感じで、道端にはやや古いセルビア語の新聞が落ちている。

 更に頂上へ向かって進むと、セルビア正教会がある。何故か鉄条網に囲まれていて入れない。写真を撮ろうとカメラを構えたら、中から若いドイツ兵が「No!No!」と叫びながら飛び出してきた。「Can you speak English?」と尋ねるので「Ich spreche Deutsch」と言うと[以下ドイツ語で]、ここは軍の管理区域です、KFORの発行した許可書証がなければ撮影はできません、その代わり、もう少し先の城塞は撮影しても構いません、と告げて、教会の中へ引っ込んだ。そう言えば、麓のモスクでも敷地の一部がKFORの所有で「立入禁止」になっていたな、と思い出した。しかしこんな山中の小さな教会に神経を使うのは、セルビア人関連の施設だから住民の報復を警戒しているのだろうか?確証はないが。

 結構疲れたので城塞へ登るのは止めにして、ぼちぼち帰宅する。午後2時には、数日前からの約束により、昼食をアギム宅で馳走になる。AMDAに日本人スタッフ2名に、サミも来ている(私服だが、トランシーバは手放さない)。後になると、サマドラチからアギムの妻の一家までやって来た。セボも、当然の様に参加している(ちなみに、AMDAスタッフとアギムやサミらの会話は英語だが、セボは英語が殆どできない。よって会話の内容を私やアギムがアルバニア語で解説しなければならなかった)。パンに焼肉に、そしてここでもパプリカの油炒めだ。日本人2名に言われて気が付いたのだが、この料理、まったく焦げ目をつけずにしっとりと仕上げるのが結構難しいらしい。アギムの妻にコツを訊く。この地域のことだから、てっきりオリーヴ油をふんだんに使用している筈、と思ったらさにあらず。普通のサラダ油らしい。軽く火を通してから、一旦たっぷりの油に浸すそうだ。

 食後は紅茶を飲みながら、アギムの娘の演奏&歌で「UÇK行進曲」またの名を「おぉコソヴォよ おぉ自由の源よOj Kosovë o djep lirie」を聴く。それにしてもこの曲、進軍の歌というには、勇壮でありつつもそれでいてもの哀しく、まるでイスラエル国歌かトルコの軍楽隊である(分かる人は分かりますね?)。たまたま持っていたカセットテープで録音した[これはちゃんと録音できました。御希望の方にはダビング致します]。

 帰り際に私がアルバニア人達と握手をし、次に日本人達におじぎをすると、セボは「挨拶はあれだけ?」と面白そうに真似していた。

 帰宅して昼寝をして、夕方居間に降りると何故かアギムが来ている。K氏に宛てた英語の手紙を私に預けに来たという。郵便や国際電話の再開もいつになるか分からないから、当然だろう。文面は、元英語教師らしく、正確な英文だ。それから、私への土産に本をくれた。コソヴォを代表する知識人レヂェプ・チョスャRexhep Qosjaの小説2冊だ。ティラナでは出版されていないものらしいから、これは有難い。「リリンデャ」の編集長から貰った分と併せて、結局コソヴォで手に入れた本は殆ど「もらいもの」ばっかりである。

 アギムはよその家に「およばれ」している(アルバニア語では『ミュサフィルmysafirになる』という。例えば『私はティラナでエストレフ・ベガのミュサフィルだ』という風に)ので、夕食はまたまたラマダン&セボで昨晩のラミズの店へ行く。この日はユヌスこそ[幸か不幸か]来なかったが、店長であるラミズは手が空いていたらしく、一緒に屋外のテーブルで話をする。これまでの状況から考えて、ラミズも普段はトルコ語話者だと思うが、アルバニア語はセボと同じ位よくできる。明朝ティラナへ戻ると話したら、この人まで「車で国境まで送ろうか?」と言い出したので[有難いが、むしろ行程がややこしくなるから]必死で止める。

 連日連夜肉ばっかり食べていると身体がおかしくなりそうだが、今宵が最後なので頑張って口に運ぶ。それに、広島に帰ると羊の肉は全然売られていないから恋しくなるのだ(食肉業界の皆様、是非御一考を)。というわけで羊肉は特に一所懸命食うことになる。この1週間あちこちで見た限りでは、チーズもアルバニアのものより柔らかくて甘味がある。ラキも美味いから取り敢えず飲む。事前に言われたせいか、確かにアルバニアのものより甘く芳醇な香りで悪酔いしない…様な気がする。最後のトルココーヒーは勿論欠かせない。

 ひと通り肉を片付けたところで、飲み物にヨーグルトkosの飲料アイェランajeranまたはウドルudorrを勧められた。水で割って、細切れの胡瓜と塩が加えてある。トルコ語で「アイランayran」と言う奴だ。ヨーグルトならアルバニアにもたくさんあるが、こういうものは見かけない。「胃腸を整えて、さっぱりするよ」とラマダン&セボは解説するが、酸っぱいやらしょっぱいやら冷たいやらで、酔って満腹状態の胃腸にはかなり効く。土産に「飲み比べて下さい」とラミズからトルコ産ラキ「Yeni Rakı」(新しいラキ、という意味になる)と店のボールペンを貰って帰宅。明日は早いからさっさと寝る。

 思い起こせば、ドイツに暮らした時もトルコ人文化とは隣り合わせだった(ドイツのアルバニア人文化と日常的に接していたから、他の外国文化にも敏感になってしまう)。それにアルバニアで、また特にここプリズレンで言語・衣食住におけるトルコ文化(住民はアルバニア人だから『トルコ人文化』ではない)にどっぷり漬かった。そのせいか、行ってもいないのにトルコが身近に思えてくるから不思議だ。しかもトルコ語なんぞ一言も喋れないのに。もともと、バルカン諸言語の研究でトルコ語の影響を知らないわけにはいかないのだが、この1週間の経験で、私は今更ながらトルコ語学習の必要性を痛感したのであった。それにしても肉とヨーグルトでいっぱい(u ngopa)だ。


8月29日(日)

 午前5時半起床。ヂェミレが朝食を用意してくれたが、前夜の焼肉がまだ腹に残っているせいか、余りたくさん食べられなかった。ラキ3本、プリズレンのレリーフ2枚とネズィルの為の菓子包み、それに家族からアブデュラハマン&ヒュルメテに充てた手紙(トルコ語)も忘れず積み込んで、ラマダンと共にセボの車でバス停留所へ向かう。

 ティラナ行きはたぶん7時頃だと予測して6時半過ぎに到着すると、既に数台が「さぁティラナはこちら」「さぁドゥラスはこちら」と客を集めている。行きは40〜50人乗りの大型バス(autobus)だったが、今度は10人乗れるか乗れないかのマイクロバス(mikrobus)だ。こちらの方が便数も多いし、乗り場で直接交渉できれば予約の必要もない。ところで、1週間前には気付かなかったが、このバス停留所の奥には更に広いバスセンターがあって、各都市向けの大型バスが待機している。日本のバスセンター並みに電光表示盤もある(動いていないが)。ティラナでこういう専用の設備にお目にかかったことがない。最後まで、基盤整備の差を見せつけられることになった。

 ラマダン&セボが良さそうなマイクロバスを選んでくれた。運賃50マルクを払おうとしたら、この兄弟「こっちが持つから」と言ってさっさと運転手に支払いを済ませてしまった。私は恐縮することしきりだった(が、2人と別れた後で『50マルクの交通費はポンと出せるのに、7マルクの本が高くて買えないのだろうか』と妙に気になった)。満席になるのを待って(要するに乗り合いタクシーの感覚。『TAXI』と書かれたマイクロバスもある)7時10分出発。

 約30分で早くも国境に。夜間は気がつかなかったが、右手にフィエルザ湖Liqeni i Fierzësが広がっている。これが白ドリニ川の上流にあたる。今回も、コソヴォ側の通過は運転手の証明書提示だけで終了。一方アルバニア側には警官が一人立っていたが、手をぐるんぐるん振って「行ってよし」で、バスはスピードを落とすこともなく通過。右手の湖や畑地の植生は変わらないが、道路の舗装はにわかにガタガタになり、点々と見える民家の造りも、不均等な石を無造作に積み上げた形式で、コソヴォのそれとはかなり違う。しかし妙に懐かしい気がするのは、私にとってアルバニアでの生活時間の方が長いからだろう。

 途中、故障車を発見。「お客さん方、構わないかね」「いいとも、いいとも」で運転手が修理を手伝う間、乗客一同は車外で小休止。この土地にはJAFみたいな便利なものはない(第一、呼ぼうにも電話が滅多に見つからない)。困った時に助け合うのが唯一の「保障」だ。ちょうどフィエルザ湖の前で、空気も美味しい。一緒に乗っていた子供連れの父親に「ヴェトナム人?」と訊かれたのがきっかけで、コソヴォでのAMDAの活動について説明した。故障車が無事走り去り、乗り込んだ際に隣の男性から「Sprechen Sie Deutsch?」と言われて「できますよ。でも、アルバニア語にして欲しいです」と答えたら後方から「素晴らしい」と誉められる。「何かの活動で?」と訊かれて「プリズレンのAMDA」と答えたら「ああ、アムダだよ、アムダ」と他の客に説明しているが、本当に知っていたのやら。

 出発から約1時間後、クカスで休憩。数ヶ月前にはコソヴォからの避難民や外国人が大勢いた筈だが、今はその名残りも感じられない。日中に来たのは初めてなのでうろうろして写真を撮っていたら、と或るカフェから誰かが近付いてきた。よく見るとマイクロバスの運転手だ。コーヒーでも飲みなさいと連れて行かれてみると、他の乗客数名も同席している。「みんな、この人はprofesorだ!」とまた中途半端に不正確な紹介をされる。どうやらバスセンターでの交渉時にラマダン&セボから、この珍しい外国人客の履歴についてひと通り「予習」したらしい。

 トルコの地震の話から「日本は地震が多いそうだが」という話になる。そう言えば、アルバニアの大蔵省から日本に留学した人物が帰国した時、同僚に「しょっちゅう揺れるので怖かった」と語っていたらしい。それ程でもないと思うのだが「地震には慣れています」と日本人が言うと皆、納得する。

 クカスを出ると景観は一転、断崖絶壁の曲がりくねった山道(谷道)になる。民家はおろか人影も殆どなくなり、ごくたまに、打ち捨てられた様な工場や、放牧の群れが谷間の向こう側に見える位のものだ。ただでさえ悪路なのを、それ程大きくない車体で、それも相当のスピードで走るものだから車の振動はすさまじい。いつラキの瓶が割れるかと冷や冷やする(割れたら車内で飲んでやれ!)。子供は最前列の助手席に座っているが、それでもかなり具合が悪そうだ。そうかと思えば最後列ではタバコをふかす豪傑もいる。

 恐らくフシャ・アレズFushë-Arrezを通過しプカへ向かう途上で正午となり、谷間のレストランにて昼食休憩。余り食欲がないので、断崖に立ち谷底を眺めて時間を潰す。約1時間後に再出発、3時半頃ミロトMilotに到着。町の中心部で何故か渋滞に巻き込まれ一時停車。周りの車からは好奇の視線が殺到する。標的は無論、この日本人だ。「おぅい何だいその客は?」「この人はprofesorだよ!」と、運転席同士で遣り取りしているのが聞こえる。相変わらず外国人慣れしていない接し方だ。アルバニアの地方都市ならではの風景だが、これもまた懐かしい気分がするのは[さっきも同じことを書いたが]私にとってアルバニアでの生活時間の方が長いからだろう。さり気無く手を振ると、向こうも無言で手を振っているから、じろじろ見るのにも悪気はないらしい。

 ラチ、フシャ・クルヤと走り抜け、ようやく道路も広く平坦になってきた。4時過ぎにスカンデルベウ広場を通過。1週間ぶりのティラナだ。国立劇場前に新しい巨大なプラカードが貼り付けられている。双頭の鷲の紅旗と、赤・白・緑の三色旗、それにアルバニア語で「ようこそ首相」とある。「イタリアの首相が来るんだ」と客同士で話している。イタリアの首相って…ダレーマMassimo d'Alemaが?しかし、何だか違う様な気がする。配色は確かにイタリア旗だが、色が横3行になっている。イタリアは、縦3列ではなかったか…

 ホテル・ティラナ横でなく、「バリケード通り」から「『復興労働者』通り」へ分かれる場所、科学アカデミー傍のタクシー乗り場がこのマイクロバスの終着点である。そこからタクシーでエストレフ宅に帰る。途上、「『ミュスリュム・シュリMyslym Shyri』通り」と「『殉国者』大通り」の交差点に横断歩道が引かれているのに気付く。アルバニアは、首都の目抜き通りであっても横断歩道はまだ少ない。コソヴォにいる間に描かれたものだろう。

 「『ナイム・フラシャリ』通り」のアパートに辿り着き、エストレフ宅の扉の前に立ち、さて鍵を差し込もうとするがきちんと入らない。鍵が合わないのか(それはあり得ない)、室内から鍵を差し込んだままなのか。呼び鈴を鳴らすと、扉を開けたのは何とエストレフの母…グラムシにいる筈の人が何故ここに?取り敢えず荷物を部屋に置こう…としたらそこはエストレフの母の寝室になっている。エストレフは本当に、私があのまま日本へ帰ってしまうと思い込んでいたのか。ちなみに、そのエストレフは自室で昼寝中だ。

 シャワーを浴びてさっぱりし、居間に行くとテーブルの上に「クランKlan」の最新号が置いてある。表紙には花嫁姿の女性、見出しは「私のファースト・キス」。ダイェナ・クンバロDajena Kumbaro(父親は映画監督のサイミル・クンバロSaimir Kumbaro)が7年近い交際を経て民主党のゲンツ・ポロGenc Pollo副党首と「電撃挙式」…ってワイドショーでよく言うでしょ?でも今時「電撃」じゃない「婚約」とか「入籍」とか「挙式」ってあるのかな?それだと「段取りバレバレ婚約」とか「事務所で根回し完備の入籍」とか言うのかな?…閑話休題。アルバニアの結婚式はグラムシでも承知の通り、徹頭徹尾「段取り」に則って数週間前、数ヶ月前から進められるもので、この2人もこの29日に式を挙げている。

 もう一つの特集で「トロポヤ陥落」と題して、トロポヤにおける一連の事件の背景が解説されている。事件の年表を出しておこう。復讐に次ぐ復讐がユーゴスラヴィア空爆(とコソヴォ・アルバニア人脱出)の最中でさえ続行されている;


1992年7月7日

  旧トロポヤTropoja e Vjetër・シシュパンShishpanのディン・ブラホDin Brahoの兄弟2名が殺される。ハクライ派に容疑。
1992年7月

  7月7日事件容疑者逮捕の為にハクライ家を包囲していた警官隊が家の中から銃撃を受け、I・ドロジュラニI.Drozhlaniが死亡。
1998年1月5日

  トロポヤ警察のシュクルチム・ハクライShkëlqim Haklaj(30)アルトゥル・デミリArtur Demiri(23)が殺害され、A・ブチュパパイA.Buçpapajが重傷を負う。
1998年1月7日

  1月5日事件で死亡した2名の葬儀から戻って来たブレルBurrel警察のA・マトシA.Matoshi、国家情報局(SHIK)のGj・コルブチャイGj.Kolbuçaj、教師のナイム・ディズダリNaim Dizdariが殺害される。復讐による殺害。ハクライ派に容疑。
1998年1月9日

  トロポヤ警察署長ファトミル・ハクライ、署内で国境警察官シャチル・ホヂャShaqir Hoxhaを殺害。復讐による殺害。
1998年2月

  トロポヤ銀行が襲撃され、6千万レクが奪われる。ハクライ派に容疑。
1998年6月

  トロポヤでアゼム・ハイダリの乗った車が銃撃を受け、新聞記者のバルヅュル・ポロBardhyl Polloが負傷。ハクライ派に容疑。
1998年9月12日

  ティラナでアゼム・ハイダリが暗殺される。ハクライ派に容疑。
[この翌々日、ハイダリの葬儀をきっかけに民主党急進派が武装蜂起、市街戦に。『9月14日事件』]
1998年10月

  トロポヤ銀行が再び襲撃され、6千万レクが奪われる。ハクライ派に容疑。
1999年5月6日

  トロポヤ警察のエドゥアルト・ハクライEduart Haklajが遠隔操作の地雷により殺害される。ハクライ派殲滅の行動か。
1999年6月

  ティラナの中心部でトロポヤ出身のガニ・ネザイGani Nezajが殺害される。エドゥアルト・ハクライ殺害に対する復讐か。
1999年8月4日

  ハリル・ハクライHalil Haklajとフェリズ・クルナヤFeriz Kërnajaが遠隔操作の地雷により殺害される。ファトミル・ハクライとF・ダカイF.Dakajが重傷を負う。
1999年8月16日

  ミルディタMirditë地方裁判所、シャチル・ホヂャ殺害(1998年1月9日)の容疑でファトミル・ハクライ逮捕を命令。
1999年8月

  ヤホ・サリハイ(ムロスマニ)Jaho Salihaj(Mulosmani)逮捕の動き進む。[サリハイ、通称ムロスマニは、アゼム・ハイダリ暗殺の首謀者と目されている人物]

   起きて来たエストレフが私の顔を見て一言

「おぉイウラ、コソヴォの女と結婚したんじゃなかったのか?」

 夕食時に「向こうの食事はどうだった?」と訊くので「美味しかったよ」という意味で「トルコ風だったよ」と言うと、何故か否定的に解したらしく「コソヴォの人達は味が分かってないんだな」と独りで妙に納得している。余程、アルバニア側の食生活に自信があるらしい。こういう何でもないところに相互の認識の「ずれ」を見る。


8月30日(月)

 エストレフの母は1週間滞在するそうで、私はエストレフの部屋、エストレフは居間で過ごすことになる。それにしてもこの御母堂との意志疎通は大仕事だった。 年配の人の、それもグラムシ方言だから恐ろしく聴き取り辛いのは折り込み済みだが、それより何より、見えている世界が完全に違うのだ。コソヴォの話をしても、
「コソヴォのどちらに?」「プリズレンです」「それは村?」ちょうどその時TVに東ティモールの住民投票が映っていたが、
「これはどこ?」「東ティモールです」「それは村?」ニュースで何処かの都市が映る度に国内外問わず「ティラナ?」と訊くし、地名を聞けば必ず「村(fshat)?町(qytet)?」と確認する[アルバニアの場合、行政区分によって同じ地名でも『村』と『町』の区別があるから、それなりに意味のある質問なのだが…]。サッカー中継で「あのアフリカ人は誰?」というので見るとイギリス人だった(この時アフリカ系選手はいませんでした、為念)。
「どこへ帰るの?」と訊かれて「日本へ」と言おうとしたらエストレフが横から「世界の果てだよ、母さん」と口を挟む。けだし名言。おまけにしばらくすると「お名前は…アンドレア?」。どこで話が混線したのか、いつの間にか御母堂の頭の中で私は「ロンドンっ子(!)」にされていた。更には、私が誰かと婚約していると思い込み、何度も「御婚礼はいつ?お嫁さんのお仕事は?」ときた。

 たぶんこの人[そして恐らく同年代のアルバニア人の大多数]にとって、身近な「外国」はギリシアやイタリアぐらいで、多少範囲を広げてもせいぜいトルコやノルウェイまでで、1960年代の記憶をたどっても中国が限界だろう[しかももっぱら映像の世界]。「日本」も「日本人」も、一生涯通して関り合うことのない、普段は思い出すこともない、たまに話題にされて反射的に「ヒロシマ」とつぶやく程度の存在なのだ。日本で「ブルガリア」と聞いてつい「ヨーグルト?」と返す様なものだ[思い当たる人、いるでしょう?]。

 さて本日は、今回の訪問で初めての曇り空。おまけに午前9時15分から30分間、今回の訪問で初めての停電。午前中、大蔵省のジェルジに電話して、明日昼食の予定を決める。RTShのアルフレド・ダリピ副局長にも約束通り電話を掛けるが、つながらず。どうも今回は会えそうにない。

 午前中外出。新聞(コソヴォでアルバニアの新聞はまったく見当たらなかった)と一緒に、最新号の「クラン」を自分用に買う。トロポヤの不穏な情勢報告も気になるが、ティラナの私立小学校特集も興味深い。イタリア系の「ガリレオ・ガリレイGalileo Galilei」校の月謝が500ドル(寮もあり)、トルコ系の「トゥルグゥト・オザルTurgut Ozal」校が150ドル、ギリシア系の「アルサキオArsaqio」校が100ドル+交通費3000レク、イギリス系の「フェニクスFeniks」校が150ドル、最も安い自国製(?)の「ディトゥリアDituria」校でも8000レク。知識人階層で比較的恵まれているベティム・ムチョでさえ、月収30000レクだ。こんな学校に子を通わせる親の顔が見たい。学校と言えば、「文字の道Udha e Shkronjave」という名の私立小学校もあって、これは1978年の同名国産映画[1997年の滞在記の11月7日付記録を参照]の内容にちなんで設立されたらしいのだが、TVのCMで流れる音楽がその映画のテーマ曲(物凄く重々しい。しかもまた重い台詞が編集されずに入っている)というのは凝りすぎだ。

 昨日タクシーから目撃した横断歩道を見に行くと、確かに黄色い線できれいに…という程でもないが、一応それらしい点線が引かれている。また、街中に新しいポスターがたくさん貼られている。「命のために スピードを落としましょう」ティラナの自動車が急増して既に7〜8年。今になってようやく?という訴えだ。高度経済成長期にあった日本の「せまい日本、そんなに急いで…」を思い出す。

 コソヴォへ行く前に注文したアルバニアのアニメのビデオが来ているかどうか、「バリケード通り」の土産店へ行ってみる。しかし前に応対したブヤルがいないので要領を得ない。コソヴォで手に入れた本や新聞を加えると、荷物が想像以上に多くなってしまったので、以前バッグを購入した露店で大きなものをもう1個買う。両替店の交換比率の表の中にある「日本円−レク」の箇所がずっと気になっていたので、両替のついでに思い切って「日本円あるの?」と尋ねてみると、やっぱり「ないよ」という返事。

 夕方、ベティムに電話すると明日から出張ということで「道中気をつけて」と言われる。ニュースでハンガリーのオルバーンViktor Orbán首相来訪が報じられている。やはり、あの三色旗はイタリアのではなかった。ゲンツ・ポロは新婚翌日なのにベリシャの記者会見に同席している。


8月31日(火)

 今日も曇り。昨年の滞在時、ずっと晴天だったのがよりにもよって最終日に大雨となったことを思い出す。

 午前中、大蔵省へ行くついでに科学アカデミー前の書店で、目星をつけていたややお値段高めの文献(それでも500レク以上1000レク未満だが)、それに忘れず「コソヴォ共和国」の地図を購入。更に例のビデオの件を尋ねに行くと、今日は折良くブヤルが店内にいた。もう一度注文の品を確認してから「明日の午前中には入荷するよ」と言う。1週間以上前の注文なのに今更そんなこと言うなんて、大丈夫か?と思いながら立ち去る。

 11時半頃大蔵省に着き、予算課のジェルジの部屋でトルココーヒーを煎れて貰い、買ってきた本と新聞を読みながらジェルジの仕事が一段落するのを待つ。「ガゼタ・シュチプタレGazeta Shqiptare」に、例の横断歩道に関する記事が載っている。「たった1つの大通りに4日間も浪費」して、挙げ句に「インク3トン、作業員15人、準備期間6ヶ月をかけたティラナの恥」と評価は手厳しい。

 午後1時に仕事が一旦終了。普通はこれでおしまいなのだが、予算課長ジェルジの仕事量は年々増えており、今日も昼食後に4時過ぎまでかけて残りを片付けるそうだ。2階に降りると、ジェルジの同僚パンディ・マヅィPandi Madhiとばったり会う。1995年に初めてアルバニアへ来た時に自宅へ招かれ、1996年にドイツから訪ねた時にも会い、しかしその後は顔を合わせる機会がなかった。彼の父は彫刻家グリ・マヅィGuri Madhi[直訳すると『大いなる岩』で実に格好良い]、アルバニアではそれなりに有名だ。息子のパンディも絵をたしなみ、自宅にアトリエを構えている。出口で「ガゼタ・シュチプタレ」の記者と会ったので「今、読んでましたよ」と御機嫌を伺っておく。大蔵省の公用車(韓国『現代』社製)で正面出入口を抜けて通りへ出る。常に兵士が立ち、普通は通れない場所だ。ジェルジが「まるで閣僚だね」と冗談を言う。

 2時までイタリアレストラン「ガリバルディGaribaldi」(店のマークはやはり『赤シャツ隊』のジュゼッペ・ガリバルディ)でジェルジと共にピザを食う。妻イロナも仕事を持つ忙しい身だ。「いつも昼は外食?」と問うと、日本語で「おかねもち、じゃな〜い!」と否定された。ジェルジの月収も30000レクで、今食べているピザが1200レク前後だから確かに安くない。それでもこの日本からの客にしっかりおごってくれるのが、かなり心苦しい。

 「コソヴォはどうだった?」と訊かれて「綺麗だった」「プリシュティナはティラナより整備されていた」とはっきり言うと「その通りだ」と頷いた[ところで、バルカンでは『はい』で首を横に振る、とよく言われるが、年齢差・個人差がある。エストレフはかなり大きく首を横に振るが、ジェルジはそれ程でもない]。興味深いのは、プリズレンでトルコ語が日常的に使用されていることについて、このジェルジ(けっこうインテリ)もまったく知らなかったという点だ。何かと民族の同一性や同胞意識が強調されるコソヴォとアルバニアだが、半世紀以上に及ぶ政治的断絶の結果、実は互いの「ちょっとしたこと」が分からなくなっているらしい。

 店を出ると雨が降っていた。車に乗ると更に雨足が強くなり、傘を持たない人達が大慌てで走り廻っている。そのまま公用車で家まで送って貰い(いいのかな?)、帰宅して日課通り昼寝。

 午後のトップニュースは、ホルブルックRichard Holbrookeアメリカ特使の来訪中止を伝える。「技術的理由」だという。鶏のトマトソース煮で「最後の晩餐」。エストレフは私だけでなく自分の母親にも「しっかり食べなさい」「もっと食べなさい」というが、御母堂はいささか迷惑顔だ。で、時々ちょっとした言い合いになっている。息子エドヴィンとの関係同様、ぶつかり合って互いに理解しようとする、そういう家庭なのかも知れない。


9月1日(水)

 飛行機の出発は午後2時半だ。国際線だからリナスには2時間前到着(もっとも、2時間も余裕を見なければならない様な大空港でもないのだが)、ティラナ市中心からリナスまでは約30分…というわけで、12時までには戻る、とエストレフに言い置いて外出。

 まずはビデオを受け取らねばならない。今度こそアルバニアのアニメーションが届いているだろうか、と案じながら「バリケード通り」の店へ行くと、またしてもブヤルは不在。ビデオも午後入荷のこと。何時頃?と訊くと、2時頃だろうという。とっくに空港へ行っていなければならない時刻だ。じゃまた今度(?)にしよう、ブヤルによろしく言っといてくれと留守番役に頼み、手ぶらも何だからと、アルバニア映画「最後の冬Dimri i fundit」(昔この映画の上映会を日本各地で実施した人達がいる。ありし日の『日本・アルバニア友好協会』も一枚噛んでいた筈だ)と8月7日にTVで見た「白い道Rrugë të bardha」のビデオを買っていく。

 エストレフ宅には12時までに戻ればいいが、まだ時間がある。それで「『殉国者』大通り」へ足を運び、「人民の声」編集部にエリオン・ブラチェ編集長を訪ねる。先客があったので手短に、新聞の発送を滞りなく頼むよ、と念を押し、一緒に写真を撮って去る。

 もう少し時間があるので「ルディ」社へ寄って店主に挨拶する。(ところでこの店主、いつも店内におらず、私が店に近付くと何処からともなく駈けつけて来る。何処で油を売っているのだろう?)。無事に帰ってきたかよかったよかったと握手。「またコソヴォへ行く時はよろしく」と名刺を貰う。そこで初めて、店主自身の姓がルディで、名はヂェヴァトXhevatであることを確認。住所は「『殉国者』大通り ホテル・ティラナ裏」とだけ。しかしこれで充分見つかる。その後「アルベス」社も外から覗いてみるが、エヴァは接客中の様で、特に声をかけずに帰る。

 更に「『ペルメト会議 Kongresi i Përmetit』通り」と「『2月4日の殉国者』通り」の交差点の土産店でスカンデルベウの胸像を購入。これまでこの店ではアルバニアの旗(紅地に双頭の鷲)、スカンデルベウのレリーフ、鷲や蝶の銀細工(これがこの店の本業)などを買っている。毎年来る店なので、一応顔は憶えられている様だ。ついでに店員と少々会話していく。その後「『ペルメト会議』通り」を歩き、ユーゴスラヴィア大使館の向かいにある新しい土産店も覗いてみるが、大した品揃えの違いはないので「見るだけ」にする。

あちこち寄り道してエストレフ宅に戻ったら、時刻は12時をまわっていた。既に荷造りは完了している。スカンデルベウとビデオと新聞(勿論、今朝も買っている)、それにエストレフが用意した民族衣装姿の女性の人形(なのだが服の下はまるでリカちゃん人形)を詰め込み、エストレフの母とエドリラに挨拶してからアギムの車で出発。エストレフが助手席で同行。「ドゥラス通り」を抜けて空港に近付くと、妙に道端の警備兵が目立つ。エストレフの言では、オーストリアの大統領が来るらしい(クレスティルThomas Klestilか?)。12時半過ぎにリナス空港へ到着。二人とは空港正門前でお別れだ。

 さて空港の敷地に入っても、すぐに建物には入れない。チェックインカウンターの態勢が完了してから一度に客をさばくので、それまで建物の入口で待たなければならないのだ。昨年の様に雨が降っていないのがせめてもの幸い。荷物運びの少年(ひと運び200レクはアルバニア人には安くないだろうが、そんな金さえアギムが立て替えてくれた。多謝)に、自分がいつも中国人に間違えられる問題をこぼしながら建物入口まで来ると、割と早めに受付が開始される。一番乗りで、本や新聞やビデオの詰まった例の国籍不明鞄をカウンターに預ける。ラキ3本は無論、機内持ち込みだ。職員は搭乗券を見ると「オーサカまで?」と席を立ち、何やらやっていたが、じきに戻って来て手続き完了。 相変わらず、日本方面の扱いは慣れていないのだろうか。

 パスポートにスタンプを貰い、税関で10ドルを払い、待合室へ。毎年少しずつ改装される空港だが、今回は待合室の一角に見事な「DUTY FREE SHOP」ができている。値札が全部ドイツマルクなのも、この地域ならでは…ん?出国カードが胸ポケットにまだ入っている。さっきのパスポート検査で回収される筈だが、相変わらずこういうことが時々ある。

 時間潰しに朝買った雑誌を読む。「スペクテルSpekter」は「クラン」を意識している様な総合週刊誌だが、内容は「クラン」より軽めだと思う。今週の特集記事は「クラン」同様ダイェナ・クンバロで、ゲンツ・ポロとのなれそめが実に詳しく載っている。ちなみにこの最大野党の副党首がダイェナを初デートに誘った時の台詞は(電話で)「僕はゲンツ、よかったら一緒に何か飲みに行かないか」だって。うぷぷ…

 「リリンデャ・デモクラティケ」が、9月12日のアゼム・ハイダリ暗殺1周年に向けた運動「90年12月」[アルバニアで民主化を求める大規模な学生運動が起こったのは、旧『東欧』諸国の政変より約1年遅れの1990年末だった]の発足を伝えている。ハイダリの子供らが中心メンバーで、目下の活動はバッジやTシャツなどアゼム・ハイダリ関連グッズ(?)の販売ぐらいだが、ゆくゆくは故ハイダリに「国民の英雄」の称号を与える運動を展開するつもりらしい。また同紙他は、コソヴォ共和国議会の開催も報じている。議長は言語学者イドリズ・アイェティIdriz Ajeti。フェヒミ・アガニFehmi Aganiら4人の議員が戦争中に殺害されており、そのまま欠員となっている。議会は4人に対する1分間の黙祷で始まった。

 さて2時を過ぎて搭乗開始のアナウンス(と言っても喋っているのは目と鼻の先、しかもほとんど肉声)が始まったので、他の乗客らと共に徒歩で滑走路を横切り、オーストリア航空機に乗り込む。タラップを上がる前に、一人一人パスポートと搭乗者リストを照合している。妙に厳重だ。特にアルバニア人出国者への対応は念入りだったが、私の番になると一瞬で「OK」。これはこれで複雑な気分だ。

 午後4時過ぎヴィーン・シュヴェヒャート空港に無事到着(毎度のことながら着陸時に拍手するのは悪い冗談だ)。さっさと機外へ出て通路を渡り、ベルトコンベアの前で荷物が流れて来るのを待った。

 …来ない。しかも同乗のアルバニア人等もほとんど現れない(あとで分かったことだが、大多数がスイス方面へ乗り換えていた)。その内、別便(確かリスボン発)の荷物が流れ出し、リナス発の便には絶対乗っていた筈のない日本人旅行者がぞろぞろ並び出すに至って「苦情係」の窓口に移動し事情を訴えた(ドイツ語で。でも最初は英語で返されるところがやっぱりヴィーン)。

 職員曰く「いま厄介な問題を抱えてますので、明朝御出発の前にもう一度…出てこないかも知れませんが…」。そんなこと言われてもあの中にはアルバニアとコソヴォで手に入れた本やビデオがぎっしり詰まっている。弱ったなぁ…とその職員、航空券をあちこち見ている内に突然「あ〜そういうこと!」と独りで納得、と思ったらやおらこちらに向き直り「あなたにはよいお知らせですわよ」という。

 何が?と思ったら、荷物は既に空港内の保管庫へ直接移され、大阪行き便への積み込み態勢にあるとのこと。道理で、リナスでの搭乗手続き時に何度も「オーサカまでですね?」と訊かれたわけだ。
[ここで『この人、毎年海外出かけてるのにそんなことも知らないの?』と思った方へ。私はいつも旅装が軽く、荷物も機内持ち込みで済んでしまうことが多いのです]

 「歯ブラシや髭剃り道具など向こうにありましたら、こちらへ持って来させましょうか?」と言われたが、手許にあるから結構と辞去し、ひと月前と同様S-Bahnで「Dr.Geissler」へ。時刻は既に7時近く。通常、独りの時はパンでも買って来て済ますのだ(それにドイツパンはお持ち帰りでも美味い)が、今回はコソヴォからの無事帰還を独り祝いたい。そこでホテル近くのレストランに赴き、ヴィーン風カツレツWiener Schnitzelとシャルドネワインとコーヒーの夕食をとる。夜のヴィーンは既に気温が一桁台で、半袖しかないものだから少々辛い。


9月2日(木)

 早朝、散歩に出ようかと思ったら未明から雨が降っている。傘は預けた荷物の中だし(もっとも、地元の人はコート姿で傘もささずにスタスタ歩くことが多い)、気温も更に低いので朝食まで部屋に留まる。

 ホテルを引き払った後、近くの書店で本を買えるだけ買う。ヤノシュJanoschやエルヴィン・モーザーErwin Moserの新刊など、主に子どもの本を探す。自分が好きだということもあるが、大学の初級ドイツ語の授業で使用すると、なかなか評判が良いからでもある。店員と「子どもの本」談義をして立ち去りかけたら、ラキ3本を置き忘れそうになった。あぶないあぶない。

 S-Bahnで正午少し前にシュヴェヒャートに着き、搭乗手続き。雑誌売り場に「エマEmma」[ドイツの隔月刊女性誌。フェミニズムの立場で編集されている]の最新号があったので買うと、偶然にも12ページにわたる「コソヴォ訪問記」特集が載っていた。

 瓦礫の前に立ち着飾る少女。表情は明るくない。その写真に付された解説;

  コニツァKonica出身で4歳のギタ・ハヂGita Hadjiは、ロマ[いはゆるジプシー]である彼女の一族の中で、65歳の祖母モナMonaと共にただ2人生き残った。母も、父も、姉妹も、おじもおばも全員戦争で殺された。心理学者ドミニク・セラノ=フィタマンDominique Serrano-Fitamant[UNFPA(国連人口基金)コーディネイターとしてアルバニアとマケドニアで性暴力の実態調査にあたる]らが4月27日から5月8日までアルバニアで聴き取った内容は、酷いものだった;NATO軍の爆撃がある度に、セルビア軍や民兵はコソヴォの民間人に報復した。あらゆる戦争で女性達に起こることが、そこでは敵の妻や娘に対して行われたのである。戦争が終わり、犠牲者を救うべき時期が来ている。

  この特集で、UNHCHR(国連人権高等弁務官事務局)によるHuman Rights Field Operationsの代表としてボスニア・ヘルツェゴヴィナの女性に対する性暴力の実態を調査したマデレーヌ・レースMadeleine Reesは、コソヴォにおける同様の事態を「今日の救援者が昨日の被害者を虐待する」と危惧している。少々長いが訳出する;

勝者の為の買春

 国際平和部隊がプリシュティナ入りしてすぐ、支援活動に携わる男性用に売春宿が開店した。その後に人身売買業者が続くのは、当然の成りゆきである。アルバニアの難民収容所からは女性が誘拐され、同時に、戦争中の難民キャンプでさえ人身売買が行なわれていたのである。ボスニア・ヘルツェゴヴィナで起こったことと同じことが繰り返される、とは考え過ぎだろうか?和平を維持し、軍・警察の再建にあたり、民間支援者を派遣する国々が、人身売買や強制売春を防止する責任をも追わねばならないということは、ボスニアで我々が得た教訓なのだ。

 戦後ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける強制売春の規模は未だに調査されていないが、ほぼ各地に1軒の売春宿があり、合計数百軒、全国の幹線道路沿いに見つけることができる。その大部分が、SFOR(ボスニア和平安定部隊=Stabilization Force)[IFOR(ユーゴスラヴィア国際和平維持軍=Implementation Force)の後進。1998年よりDFOR(=Deterrence Force)。ドイツ連邦軍が域外初参加した多国籍軍]の最大拠点があるブルチコBrčkoとビイェリィナBijeljinaに集中する。そして「安いものは地元民に 高級なものは『外国人』に」が通り文句となる。

 ブルチコ近郊の市場では、女性が2000マルクで公然と売買されており、その多くはウクライナからと思われるが、ルーマニアやハンガリーからボスニア・ヘルツェゴヴィナに売られて来る女性の数も急増している。

 NGOの現地スタッフは、こうした事態が戦争前に存在しなかったのは間違いないという。現状は、外国からの支援者達が来たことで一つの市場が出現し、他の者達がおこぼれにあずかろうとした結果であり、それによって組織犯罪集団からカフェの店主までがちょっとした財を為したのである。

 強制売春と闘うにはNGOとの協力関係が重要だが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナや周辺諸国では女性売買が定着化し、解決は容易でない。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの売買春を調査した或る記者によれば、売春に携わる女性達の話は、強制収容所で強姦された女性達のそれを思い起こさせるものだったという。「強姦は戦争犯罪であり、和平条約が締結されたからといって帳消しになるものではなく、女性の権利は無視され続ける」

 しかし現実には、人権か刑罰かという国際法に反映されるのは男性の生活における法規範であり、女性の経験はなお顧慮されない。ようやく最近になって、女性への暴力は法の侵害であると見なされるようになり、国家もまたその責任を問われる対象となりつつある。1993以降、国連「女性に対する暴力の一掃に関する声明」は加盟諸国の「早急かつ効果的な措置」を求めている。ハーグとルアンダの[国際]戦犯法廷における特別裁判では、強姦の基本定義が「人権に対する犯罪」「戦争犯罪」であり、場合によっては「拷問」「虐殺」に相当するものと改められている。

 [強姦が]法の侵犯であると認めることは第一段階である。第二段階は司法による処罰、第三段階は原因の克服である。第一、第二段階は既に通用しているが、第三段階の実現には我々も遠く及ばない。第一、第二段階においては「男はなぜ戦争で強姦するのか」が問題にならないのである。明らかなのは「やった」ことである。ボスニア内戦で兵士が命令により強姦を行なったことは証明されている。そしてあらゆる証拠は、コソヴォでも同じことが行なわれたことを示している。

 あらゆる戦争は、経済の破壊を通じて市民生活の破壊をもたらし、そして個人と社会の受給体系の破壊をもたらす。しかもそのトラウマは、女性住民に対する組織的強姦によって一層強化される。そうした点を踏まえ、統一した構想に基づいて成功しているNGOプロジェクトの一つが、ゼニツァZenicaの女性医療センターである。ここでは戦争のトラウマを負った女性の社会的・法的な相談に乗り、心理学的・医学的ケアを行っている。こうしたことによってのみ、女性は自らへの人権侵害を明らかにすることができるのである。同様のプロジェクトが、国家レヴェルでも求められている。

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナの状況から明らかなことだが、国際社会の存在があるにも関わらず(むしろそれ故に)女性に対する家庭内暴力は増加し、女性の健康擁護は後回しにされ、指導的地位にある女性の割合は低下し、安定した雇用の場から女性は放逐されるのである。また職場での母性保護措置など、旧体制下の法は新しい司法の下で廃止され、しかもその代替措置は取られていない。

 我々はこうした経験全てから、コソヴォの平和回復と再建の為に学ぶべきことがあるはずだ。そこで、緊急に求められる3つの事項を挙げておこう;
1.平和の確保と再建のあらゆる分野で女性の利益に配慮すること。[支援活動に]参加する全ての集団がコソヴォにおける女性の権利を守る為の措置を取ること。
2.コソヴォにおける国際社会とNGOの協力。
3.コソヴォへ民間・軍事支援部隊を派遣する国々が、女性への暴力に対する感受性を養う様な教育を行うこと。特に強制売春に対する行動規範の徹底、[人権]無視の行為に対する刑事訴追。
[同誌の特集記事には読むべきものが多いが、固有名詞の表記に誤記と思しき箇所が少なくない。訳出に際して疑わしいものは訂正した]

   ところで、前日からどうも気になっていたのだが、ひと月近くアルバニア語圏にどっぷり浸っていた上に、誰も彼も日本人と見るや英語で話しかけるせいか、ドイツ語が瞬時に口から出て来なくなっていて困る。ドイツ語で話しかけられているのに、相槌でつい「Po, po」などと言ってしまうのだ。金属探知機の直前で、日本向けの土産がろくにないことに気付き、取り敢えずモーツァルトクーゲルMozartkugelの詰め合わせを数箱買う。

 午後1時20分離陸。私の席は窓側だ。横に座っていたドイツ人(オーストリア人?)男性は、離陸から間も無く、より広い空間を求めて後部座席へ移動した。更に隣の小学生兄弟は、客室乗務員に英語で飲物を頼み、ヘッドフォンを要領良く接続してTVを見ている。やけに海外旅行慣れしているのが印象的。

 久しぶりに日本の新聞に目を通し、一日遅れのNHKニュースを見ると、キルギスで日本人が誘拐されたらしい。長崎で高校生が母親に保険金を掛けられて殺されたらしい。また、社説等から察するに、7月22日に衆議院を通過していた「国旗・国歌」法も8月中に成立したらしい[8月9日参議院本会議で可決成立]。サッチーは起訴されたんだろうか?

 午後4時頃モスクヴァМоскваとニジニ・ノヴゴロドНижний Новгород の上空を通過。夕食後「You've Got Mail」を見る。結末にはさして意外性がなかった様な気がするが、こういうのはカップルで見れば盛り上がるものなのだろう。
【問題。この映画の中で、アルバニアに言及している箇所が一つだけあります。さてどこでしょう?】

 映画を見終えて窓の外へ視線を移すと、イェカチェリンブルグЕкатеринбург、しばらく後にノヴォシビルスクНовосибирскらしき光の群れが下の方に見える(でなければクラスノヤルスクКрасноярск?)。それと、時折小さな村落と思しき光が点々と現れるほかは真っ暗。更に地平線が白み始める頃、ウラン・バートルУлаанбаатарと北京の上空を通過。

 日本時間9月3日。飛行機が朝鮮半島を横切る頃に朝食。午前7時半に大阪到着。リナスで預けた荷物と約35時間ぶりに再会。本もビデオも、アルバニア風リカちゃん人形も無事だ。スカンデルベウの頭の色がちょっぴり剥げているが、まあ大したことではない。

おしまい  FUND

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付記

  戦争当時、イブラヒム・ルゴヴァ「大統領」の「コソヴォ共和国」、およびハシム・サチ「首相」の「コソヴォ暫定政府」の政府構成は次の通り;

「コソヴォ共和国政府」(ブヤル・ブコシ首班 1999年春発足)
[役職、人名、( )内に所属政党の順]

  首相:ブヤル・ブコシBujar Bukoshi (コソヴォ民主連盟)

 副首相:[なし。前任はニカ・ジェロシNikë Gjeloshi (アルバニア・キリスト教民主党)]

 外相:ブヤル・ブコシ[首相の兼任]

 内相:ヨムズ・テルスタナJomuz Terstëna (無所属)

 法相:ハリト・ムハレミHalit Muharremi (無所属)

 蔵相:イサ・ムスタファIsa Mustafa (無所属)

 教育・科学・文化相:ムハメト・ビツァイMuhamet Bicaj (コソヴォ民主連盟)

 保健相:アデム・リハミAdem Lihami (コソヴォ農民党)

 防衛相:ハリル・ビツァイHalil Bicaj(1998年12月3日より) (無所属)

 情報相:ヂャヴェル・シャトリXhaver Shatri(1998年11月辞任表明 ただし受理されず) (コソヴォ民主連盟)

 経済相:[なし。前任はイスマイル・カストラティIsmail Kastrati (コソヴォ民主連盟)]

「コソヴォ暫定政府」(ハシム・サチ首班 1999年4月2日発足)
[役職、人名、( )内に所属政党、< >内に所属会派の順]

  首相:ハシム・サチHashim Thaçi (コソヴォ人民運動)<コソヴォ解放軍>

 副首相:メフメト・ハイリズィMehmet Hajrizi (アルバニア民主運動)<統一民主運動>

 公共情報相:バイラム・コスミBajram Kosumi (コソヴォ議会党)<統一民主運動>

 蔵相:アデム・グラボフツィAdem Grabofci (コソヴォ人民運動)<コソヴォ解放軍>

 移民相:リファト・ブラカイRifat Blakaj (コソヴォ議会党)<統一民主運動>

 内相:レヂェプ・セリミRexhep Selimi (無所属)<コソヴォ解放軍>

 法相:ヒュダイェト・ヒュセニHydajet Hyseni (アルバニア民主運動)<統一民主運動>

 欧州統合相:ヌマン・バリチNuman Baliç(1999年5月14日より) (民主行動党)

 報道担当相:カドリ・ヴェセリKadri Veseli (コソヴォ人民運動)<コソヴォ解放軍>

 民生再建相:[統一民主運動より任命予定]

 防衛相:アゼム・スュラAzem Syla (コソヴォ人民運動)<コソヴォ解放軍>

 地域経済相:ラマ・ブヤRame Buja (無所属)<コソヴォ解放軍>

 副首相:[コソヴォ民主連盟より任命予定]

 外相:[コソヴォ民主連盟より任命予定]

 保健相:[コソヴォ民主連盟より任命予定]

 教育相:[コソヴォ民主連盟より任命予定]

 政府スポークスパースン:ヤクプ・クラスニチJakup Krasniqi (無所属)<コソヴォ解放軍>

コソヴォの主要政党・政治組織は次の通り

コソヴォ民主連盟系

 コソヴォ民主連盟(LDK) ブルジョア政党

 アルバニア・キリスト教民主党(PShDK) 保守系

 コソヴォ社会民主党(PSDK) 社会民主主義右派

 アルバニア国民民主党(PNDSh) 保守系右派

 コソヴォ農民党(PFK)[1995年解党] 保守系

会派「統一民主運動(LBD)」

 アルバニア民主運動(LDSh) リベラル

 コソヴォ議会党(PPK) リベラル左派

 コソヴォ共和党(PRK) リベラル右派

 コソヴォ自由党(PLK) リベラル

 民族統一党(UniKomb) 民族主義左派

少数民族政党

 民主行動党(SDA) ボスニア・モスレム人政党

 トルコ人民党(PPT) トルコ系

いはゆる地下組織

 コソヴォ人民運動(LPK) 民族主義左派

 コソヴォ解放民族運動(LKÇK) 民族主義

 アルバニア革命党(PRSh) マルクス主義

特例

 コソヴォ解放軍(UÇK) コソヴォ人民運動(LPK)の影響下にある軍事組織

(以上、"Albanische Heft" 2/99 より)


  2000年初頭のKFORの展開状況は次の様になっている。 ドイツ連邦軍がプリズレンを中心とする南部に4800人(43.5%減)、イタリア軍がペヤPejëを中心とする西部に4200人(40%減)、フランス軍がミトロヴィツァMitrovicëを中心とする北部に4200人(40%減)、アメリカ軍がジランGjilanを中心とする東部に6200人(31.1%減)、プリシュティナPrishtinëを中心とする地域にはイギリス軍が13000人(70.8%減)。

  なお、ロシア軍は特定の担当区域を持たないが、総兵力数は3600人。(以上、"Der Spiegel" 3/2000による)