アルバニア最新データ


アルメニア?  いいえ、アルバニアです

アルバニアをめぐるありがちな発言・・・全部、実際にあったものです

 アルバニア?ああ、旧ソ連の共和国ですね?(どこか他の国と間違えてませんか?)

 バルト3国?(エストニアとラトヴィアとリトアニアの他に何が?)

 旧東欧?てことは…  内戦で大変でしたね。(それは隣!)

 船でいっぱい逃げ出してますね(いつの話なさってるんです?)

 ヨーロッパ唯一のイスラム国だとか(こちらをお読み下さい⇒

 冬は雪なんか積もって物凄く寒いんでしょう?(日本の冬よりはましです)

 ロシアの影響も大きいんですよね?(1960年代から1990年代まで国交を断ってました)

 ソ連軍の基地とかあっちこっちにあるでしょう?(一つもありません)

 英語よりロシア語の方がよく通じるんじゃないですか?(英仏独伊の方がよっぽどOKです)

 日本からアルバニアへ行けるんですか?国交ないんでしょう?(1981年3月からあります、大使館はありませんが)

 郵便とか送れますか?(手紙も電話もFAXもe-mailも可。国番号は355、首都ティラナの市外局番は42)


アルバニア語をめぐるありがちな疑問

 アルバニア語って少数民族のことばですよね?

 アルバニア語ってロシア語とかに似てるんでしょう?

 アルバニア語研究してる人なんか少ないんじゃないですか?

 アルバニア語の文学なんてあるんですか?           等、等、等…

 追補(1999年4月)


 アルバニア語( gjuha shqipe )は、アルバニア共和国とその周辺に生きるアルバニア人( shqiptar )によって現在も話され、書かれ、読まれている言語です。
 そしてアルバニア語は、アルバニア共和国( Republika e Shqipërisë )の公用語です。

 アルバニア語使用者の総数は 500万に及ぶと思われます。

 使用人口の内訳は、1980年代後半の時点で次の通りです(ちょっと古いかもしれませんが、新しくて信頼できる統計値というのはなかなかないものです)。アルバニア共和国内に約270万人。セルビア( Serbia )のコソヴォ(アルバニア語 Kosova セルビア語 Kosovo )に約 120万人。旧ユーゴスラヴィア・マケドニア( Maqedonia )共和国(1997年9月5日に死去したマザー・テレサ Nënë Tereza はマケドニア生まれのアルバニア人)及びモンテネグロ( Mali i Zi )に計約50万人。ギリシア( Greqia )国内に約5万人。イタリア( Italia )南部及びシチリアに計約8万人(イタリア共産党の創立者アントニオ・グラムシはアルバニア系)。この他ブルガリア( Bullgaria )、ルーマニア( Rumania )、トルコ( Turqia )、さらにウクライナに数百人〜数千人。アメリカ合衆国にも数万人のアルバニア系市民(ジョン・ベルーシ&ジェイムズ・ベルーシの父はアルバニア人)が住んでいます。

 アルバニア語は、インド・ヨーロッパ語族(インドからヨーロッパに至る、共通の系統に由来する言語群。ハンガリー語やフィンランド語を除くヨーロッパのほとんどの言語を含む。使用人口約20億)に属します。

 インド・ヨーロッパ語に属する言語は大抵、いくつかの大きな言語群から枝分かれして発展したものです。例えば、英語やドイツ語はゲルマン語派、イタリア語やフランス語はロマンス語派、ロシア語やチェコ語はスラヴ語派、といった具合です。しかし、現在こうした枝分かれの類縁関係にある言語をもたない「一言語一語派」がいくつかあります。ギリシア語、アルメニア語、そしてアルバニア語です。このことは、アルバニア語がヨーロッパの他の諸言語の中でも比較的古くから独立した言語として存在し、独自の発展を遂げてきたことを意味するのです。

インド・ヨーロッパ語族の系統図
 アルバニア語( ALBANIAN 赤ワク内)がアルメニア語( ARMENIAN )やギリシア語( HELLENIC GREEK )と同じ、またはそれ以上に古い時点で「インド・ヨーロッパ語」という樹の根幹から分岐している。

 それでは、アルバニア語の直接の起源は何語なのか?という疑問ですが、実はこれだけは、いまだによくわかっていません。現在のアルバニアが位置する地域に存在したイリュリア語であるとする説が最も有力であるが、異説もある、とだけ申しておきましょう。日本語の起源だっていまだに謎です。

 アルバニア語がインド・ヨーロッパ語と確認されたのは1850年代、これはフランツ・ボップ Franz Bopp など、主にドイツにおける比較言語学者の研究による成果でした。その後ドイツ、フランス、イタリア、北欧、そしてもちろんアルバニア本国でも研究が進められ、エチレム・チャベイ Eqrem Çabej、アレクサンダル・ヂュヴァニ Aleksandër Xhuvani、シャバン・デミライ Shaban Demiraj、マヒル・ドミ Mahir Domi、マルティン・ツァマイ Martin Camaj、ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン Johann Georg von Hahn、グスタフ・マイヤー Gustav Meyer、ノルベルト・ヨクル Norbert Jokl、オダ・ブフホルツ Oda Buchholz、ヴィルフリート・フィードラー Wilfried Fiedler など(以上はほんの一部)、多くの優れた研究者を輩出してきました。

 アルバニア語は歴史的・地理的にギリシア語、ラテン語、トルコ語や、他のバルカン半島の諸言語(ブルガリア語、マケドニア語、ルーマニア語、セルビア語、クロアティア語、等々)の影響を受け、また時には影響を与えてきました。従って、インド・ヨーロッパ語の歴史に関する重要な研究には、必ずといっていい程アルバニア語への言及が見られます。

 またバルカン半島の諸言語には、言語間の相互作用による興味深い特徴が多く見られます。それらに対する研究は「バルカン言語学」として言語学、とりわけ言語類型論(異なる言語間の特徴を比較・対照し、分類する分野)において独自の地位を占めています。もちろん、その中でアルバニア語の存在感には無視できないものがあります。


 アルバニアの方言は、アルバニア共和国中央を東西に横切るシュクムビン川( Shkumbini )を境界線として、北部のゲグ方言( gegërishtja )と南部のトスク方言( toskërishtja )に大きく分けられます。

 また、13〜14世紀にギリシアへ移住したアルバニア人の言葉はアルヴァニティカ( Arvanitika )、15〜16世紀にイタリア南部へ移住したアルバニア人の言葉はアルバレシュ( arbëresh )と呼ばれます(これらギリシアとイタリアのアルバニア人をまとめて『アルバレシュ』ということもあります)。これらはそれぞれの地域で独自の発展を遂げ、今日もなお生活の場で話されています。

 アルバニア人の存在を示す記録は11世紀から既に存在していますが、アルバニア語で書かれた現存最古の文献は、ジョン・ブズク Gjon Buzuku による1555年刊行のアルバニア語訳祈祷書( Meshari )です【右】。19世紀に入るまでは、ローマ、ビザンツ、トルコなど周辺の大国による支配の影響で、地域間の差も甚だしく、ギリシア文字やアラビア文字を用いて書かれていたこともあります。アルバニア人自身によるアルバニア語統一への動きは19世紀初め、アルバニア語の普及とアルバニア語文化の復権を進める「民族復興運動( Rilindja Kombëtare )」から本格化しました。1908年にマケドニアのマナスティル( Manastir )で会議が開かれ、ラテン文字を用いる現在のアルファベットが成立しました。第二次世界大戦後はトスク方言を主体とする標準語制定の動きが進められ、1972年にティラナのアルバニア科学アカデミーで正書法が制定されました。1991年の政治体制変化以降は文学作品で方言の復権も進んでいる模様ですが、基本的にはこの72年正書法が今日なお広く用いられています。

 ところでジョン・ブズクより前にアルバニア語の文書はまったく残っていないのか?というと、ごく断片的なものを挙げることはできます。

 まず、1462年11月8日にドゥラス Durrës の大主教パル・エンジェリ Pal Ëngjelli(ラテン語名パウルス・アンゲルス Paulus Angelus )がラテン語で記した教書中、アルバニア人向けに洗礼の作法( Formula e pagëzimit )を説明した部分で、僅か1箇所だけアルバニア語の文が出て来ます【下】。ごく短いので、ここに引用しておきましょう;

 Vn te paghesont premenit Atit et birit et spertit senit
(現代風の綴りでは Un te pagezonj p'r emnit [t'] Atit e t'Birit e t'Shpertit Shenjt)
 「我、父と子と精霊の名において汝に洗礼を施す」


 次に、1497年パレスティナへ旅行の途中でアルバニアに立ち寄ったドイツ人アルノルト・フォン・ハルフ Arnold von Harff が26個の単語、8つの文をドイツ語との対訳で書き留めた小辞典( Fjalorthi shqip-gjermanisht )を残しています【右】。


 また、15世紀初頭のものと考えられるギリシア文字の文書( Perikopeja e ungjillit të pashkës )2枚が残っており(もとは、14世紀に記されたギリシア語文書の中から発見)、一方には「マタイによる福音書」27章62〜66節、もう一方には聖歌のアルバニア語訳が書かれています【左】。

 アルバニア人はその母語によって数多くの優れた文学を生み出しました。それらの中には、英語やドイツ語やフランス語の訳で読めるものもたくさんあります。

 古いものからあげると、草創期アルバニア文学の代表格として、「予言者達の楔」等のピェタル・ボグダニ Pjetër Bogdani(1630頃−1689)、北部方言による優れた宗教詩「告白の鏡」等を残したピェタル・ブディ Pjetër Budi(1566−1623)、南部方言ではレク・マトランガ Lekë Matrënga(1567−1619)。「スカンデルベウ物語」「牧畜と農耕」等で知られるナイム・フラシャリ Naim Frashëri(1846−1900)。「アルバニアはどこから来てどこへ行く」等のサミ・フラシャリ Sami Frashëri(1850−1904)。特に最後の2人のフラシャリは、政治家アブドュル・フラシャリと共に「民族復興」運動期に貢献した「フラシャリ三兄弟」として知られています。

 数多くの詩を残し夭折したミジェニ Migjeni(本名ミロシュ・ジェルジ・ニコラ Millosh Gjergj Nikolla 1911−1938)。彼の詩は現代アルバニア文学にも多大な影響を与え続けています。

 「メモ人民委員」「同志ズュロ」「遅れてきた巡礼者」「生まれぞこない」「老いたる者達の魂」「少年の棺」等の小説や詩で知られるドリテロ・アゴリ Dritëro Agolli(1931−)。「ハスタ・ラ・ビスタ」のペトロ・マルコ Petro Marko(1913−1991)。「スカンデルベウ」「アリ・パシャ・テペレナ」などアルバニアの歴史的英雄を描いたサブリ・ゴド Sabri Godo(1924−)。詩人ヂェヴァヒル・スパヒウ Xhevahir Spahiu(1945−)。「豚のチュフォ」シリーズで知られる児童作家ガチョ・ブシャカ Gaqo Bushaka(1943−)。労働党体制下で投獄され民主党政権下では人民議会議長を努めたピェタル・アルブノリ Pjetë Arbnori(1935−)。同様に長らく反体制作家で、ここ数年著書の刊行が続いているカセム・トレベシナ Kasem Trebeshina。物理学者でもある知日家ベティム・ムチョ Betim Muço(1947−)。国外在住アルバニア人では、コソヴォのアントン・チェタ Anton Çetta(1920−1995)やアデム・デマチ Adem Demaçi(1936−)。デマチは旧ユーゴスラヴィアで反体制作家として投獄され、現在はコソヴォ・アルバニア人の人権擁護運動を代表していることから「コソヴォのネルソン・マンデラ」と呼ばれています。他にはアメリカのアルシ・ピパ Arshi Pipa(1920−1997)、ドイツのマルティン・ツァマイ Martin Camaj(1925−1992)等。

 そして忘れてならないのは「死せる軍隊の将軍」「石の記録」「偉大なる冬」「ピラミッド」「怪物」「鷲」等のイスマイル・カダレ Ismail Kadare(1936−)です。彼のほぼ全著作はパリの Fayard 社からフランス語に訳され刊行されています。日本語訳も単行本で「草原の神々の黄昏」(筑摩書房)「誰がドルンチナを連れ戻したか」「砕かれた四月」(白水社)「夢宮殿」(東京創元社)の4冊があります(ただしアルバニア語からの直接訳ではありません)。

 この他、学者・政治家稼業の傍ら作家としても知られる人、文芸批評家、1991年以降の優れた新人作家も含めれば、まだまだたくさんいてきりがありません。以下、故人・現役とり混ぜて名前だけ。ラスグシュ・ポラデツィ Lasgush Poradeci(1899−1987)、アンドン・ザコ・チャユピ Andon Zako Çajupi、アスドレニ Asdreni(本名 Aleks Stavre Drenova )、ヨヌス・ディニ Jonuz Dini、ジェルジ・フィシュタ Gjergj Fishta、テオドル・ラチョ Teodor Laço、ステリョ・スパセ Sterjo Spasse、レヂェプ・チョスャ Rexhep Qosja、シェフキ・カラダク Shefki Karadaku、ファトス・アラピ Fatos Arapi、ヅィミタル・ヂュヴァニ Dhimitër Xhuvani、ヅィミタル・シュテリチ Dhimitër Shuteriqi、エルネスト・コリチ Ernest Kolliqi、ナショ・ヨルガチ Nasho Jorgaqi、モイコム・ゼチョ Moikom Zeqo 等々、等々。(まだ重要な人が何人か抜けている様な気も…)

 このページをご覧の方がアルバニアに旅行される時は、街角の本屋でこれら作家の名前を尋ねてみることをお勧めします(ちなみにアルバニアの本屋は一見町角のたばこ屋みたいなので、客と店員の緊密なコミュニケイションがいやでも楽しめます)。それまで外国人相手で何となくよそよそしかった人々の態度が、自民族の文化に興味を持ってくれていると判明するや、一変することでしょう…たぶん。


追補 (アルバニア国営通信ATSh 1999年4月5日付記事より)

 コソヴォにおけるアルバニア語文学は、特にここ十年の間で、民族的特性や愛郷心を備えた文学としての発達を遂げました。その発達ぶりは、小説、短編、演劇、そしてとりわけ詩の分野に及んでいます。
 コソヴォ文学の興隆は、1930年代中頃に出版されたエサト・メクリ Esat Mekuli の詩に始まり、マルク・クラスニチ Mark Krasniqi らがそれに続きました。1960年代後期から特に1970年代に至る時期には、アゼム・シュクレリ Azem Shkreli、ファフレディン・グンガ Fahredin Gunga、ディン・メフメティ Din Mehmeti、ベスィム・ボクシ Besim Bokshi、アリ・ポドリミャ Ali Podrimja らの詩作が発表され、それに続く新しい世代としてはアギム・ヴィンツァ Agim Vinca、ハサン・ハサニ Hasan Hasani、サブリ・ハミティ Sabri Hamiti、ユスヴ・ゲルヴァラ Jusuv Gervalla などがあげられます。より思索的かつ自省的、哲学的かつ比喩的なその手法は、作者らの愛郷心や同胞愛を描き出しており、作品のテーマも民族の歴史、故郷や同胞への想いを扱うようになっています。
 散文においてはヒヴズィ・スレイマン Hivzi Sulejman、ナズミ・ラフマニ Nazmi Rahmani、アゼム・シュクレリ Azem Shkreli、レヂェプ・チョスャ Rexhep Qosja[パリ・ランブイエ会談のアルバニア人側代表の一人でもある]、ムラト・イサク Murat Isaku、アントン・パシュク Anton Pashku、リファト・クカイ Rifat Kukaj、アデム・デマチ Adem Demaçi[コソヴォ解放軍の政治部門代表]らの名をあげることができます。その作品には人生を反映した表現が用いられ、故郷への離れがたい想い、社会的権利のための闘いへの意志がみなぎっています。またその手法には、伝統的なものから同時代的なものまで、様々な彩りが添えられているのです。レヂェプ・チョスャ、アリ・アリウ Ali Aliu、ハサン・メクリ Hasan Mekuli、アギム・ヴィンツァ、その他の文芸批評家達は、アルバニア文化の価値を高め、その民族的特質に注意を払った研究者として賞賛に値するのです。