V

 空から降ってきた雨粒が窓ガラスに当たる音に、ようやくゲント・ルヴィナは気がついた。
 彼は机の上に広げた紙きれから目を上げると、しばらくの間、窓の方を見つめていた。雨は、微笑みの間を抜けてきたように美しく見えた。こんな雨の中、うち捨てられたあのワゴン車はどうなったろう?まだあの空き地にあるのか、それとも市の清掃職員が、どこかへ片づけてしまっただろうか?あの賑やかなピクニック以来、一度もあのワゴン車を見ることはなかった。
 机の上に、レナに宛てた手紙の束が広げられていた。ずっとそうしていたので、その中で書いたものと考えたものとの境目は、すっかりぼやけてしまっていた。時折思い出しては、考えた通りのことを書きつけたが、そうかと思えば正反対のことも考えつくのだった。
 あの日−と思うのはこの雨のせいだろうか−二人してタクシーで逃げ出したあの夜の記憶が、二度三度と蘇ってきた。夜明けの光が、二人が向かった或る小さな町へと伸びる、濡れて人気のない道路を包み込んでいた。
「どこなの、この町?恐いわ」
と彼女が言った。
 痺れる足を引きずって、二人はふらふらと一軒目のホテルにたどり着いた。そこはホテルと言うよりひと昔前の、王政時代の宿場のようなおもむきであった。
 彩色された正門が、二人の心に重苦しくのしかかってきた。
「しっかりノックしなさい」
とタクシーの運転手が教えてくれた。
 ようやく姿をあらわしたホテルの従業員は、目をはらしていた。何てろくでなし共だ、夜の番もしていないとは!
 従業員が弁解するよりも先に、タクシーの運転手が、彼らの仕事ぶりについて説明してくれた。彼らは眠る暇もなく疲れ果てて、ほんの少しでも休みたかったらしい。
「さらってきた女ですって?」
従業員は、信じられないという風に首を振ってみせた。
「そんなこと、今どきそう滅多にあるものじゃないですよ」
 陰気で寒々とした部屋の中、彼女は彼の腕の中で、しばらくすすり泣いていた。薄汚れた窓ガラスの向こうには、見栄えの悪い工場の建物と、そのそばにタール紙を満載したバラックが見えた。
 君がずっと泣いていた時、僕は君の肩越しに、おそろしく旧式の製粉工場とバラックの真っ黒な屋根とが並ぶ、外の景色を見ようとしていた。
 今僕は、あの朝には自分の気持ちが冷めてしまうような気がして言い出せなかったことを、君に伝えようと思う。タクシーに乗っている間も幾度となく、そしてホテルの部屋に落ち着いてからも、君が僕のもとからいなくなってしまうのではないか、船に乗り、ちらちら光る海へと去ってしまうのではないかという思いが頭をよぎった。
 気が狂いそうだ、と僕は思っていた。そして君の方は、どうやってこの困難を切り抜けるかに心を砕くどころか、幻想にひたっていた。
 僕は自分で自分に言いきかせた。忘れ去るためには、どう見ても、そうするしかなかったのだ。しかも、婚約式が行われたあの夜、彼女が「トロイのヘレナ」と呼ばれるのを聞いたあの忘れがたい夜からずっと、そのいにしえの女王の物語は、僕をとらえて放さなかった。
 だから僕は我と我が身を責めながらも、玉葱臭い匂いのする黒いタクシーの中で、ヘレネーが出奔するのに用いた得体の知れない船のことを思い浮かべようとした。そして今に至るもなお、彼女がまずパリスの手に渡った島の名はどこだったかという思い(何という、いかれた空想だろう!)が、僕に襲いかかってくるのだ。
 君は、バスルームがあるかどうかも尋ねなかった。こういうホテルにそんな問いなど発しようもないことを、君は察していたのだ。傷ついた心持ちのまま君に、廊下へ出て共用トイレを探すようにと、僕は目でうながした。
 それからしばらくして、古くなった戸板をばたんと鳴らす音がして、君は寝不足と疲労と、そしておそらく後悔の念とでくたびれきった表情のまま戻ってきた。そして僕と並んで毛布の上に座ったが、こういうホテルの毛布にはよくあることとして、どういうわけだか石油臭かった。
 それから君は僕の方をちらちらと見た。まるで僕の頭の中まで見通そうとするかのように、からみついて離れない視線だった。そして君は、自分が探し求めていたものを見つけたらしく、すぐにそのままの格好で眠りについた。
 僕は身動きひとつもしなかったが、十時間前まではいわば見知らぬ者同士だった二人なのに、今では君を守るため世界中を敵に回すかも知れなくなってしまった自分の境遇について、思いをめぐらせていた。
 後になって君は僕に、あの時のことを話してくれた(君が、ひどい音を立てて廊下から戻ってきて、それから僕を何度も探るように見つめた、あの時だ。他の男ならこういう機会を逃さず実行しようとすること、そのためにお互いの関係をぶち壊しにするようなこと、それを僕が考えてもいなかったことを、君は理解してくれたのだ)。
 そう、君はわかってくれた。そしてこうつぶやいたのだ;
「この人は、私を本当に求めてくれる人だわ」
だから君は、疲れも、悩みも、後悔も消し飛んで、すぐにぐっすりと眠れたんだね。
 ゲント・ルヴィナは、不規則な切れ切れの眠りの中、彼女が目覚めるのを待っていた時のことを思い出していた。何気なく工場の建物とタール紙のバラックへ目をやると、それらは折から降り始めた雨のためにいっそう黒々として見えた。
 どうして、他の角部屋にならなかったのだろうな。ゲントは考えた。おそらく、そこから見える光景はさらに耐え難いものになっただったろう。身もふたもないというか、くだらないとは言わぬまでも馬鹿げたことだが、ヘレネーがトロイアで一夜を明かして最初の朝に目にした光景もこんな風ではなかっただろうか。彼はそう思った。
 きっとそこには神殿の柱が見えただろう。召集された者達の中心に新兵たちがひしめいている。彼らは髪を短く刈り込んでいる。それから、ギリシア式宿営のテントと支柱。戦争は一向に終わる気配がないらしい。そしてしんがりをつとめるのは、あの恐るべき馬だ。
 ことが戦いなだけに、誰もがいきり立っているようだったが、その中であの最後の馬だけは、他のどんなものよりも興奮の極みにあった。語り伝えられるところによれば、その内部にはギリシア兵達が隠れていた。おそらく彼女の夫も・・・その他いろいろなことが語られていた。
[訳注;ウェルギリウス『アエネーイス』によれば、ヘレネーの夫メネラーオスはオデュッセウスらと共に『木馬』の内部に隠れてトロイア市中へ潜入した]
 あのホテルでの忘れがたい朝以来、ゲント・ルヴィナは、しきりにトロイアの話を思い出すようになっていた。とりわけ頭に浮かんでくるのは、あの木馬のことだった。
 レナを連れ去ってから三週間してティラナに戻った時、既にゲントの冒険譚は人の口から口を通じて広まっていた。しかも随分と話が変えられていて、まるで別の人間がやらかしたことのように聞こえた。
「何でそんなことが」
ゲントは「ウィンターズ・カフェ」で友人達に訊ねた。
「本当にそんな話が広がっているのかい?」
 あと残っていることといえば、レナの婚約者とアルバニア中部のどこか荒野で決闘することぐらいだった。
 それで、彼は自問した。
「三日で話がここまで変えられてしまうんじゃ、三千年たった日にはどうなってしまうんだろうか?」
 これまでに自分が読んできた物語を思い起こしていると、それら全てが疑わしく思えてきた。また別な種類の疑念もあったが、それは悪いものというより、むしろ彼には喜ばしいものに思われた。
 とうとう罠に落ちてしまったな。ティラナから両親の家がある故郷の町へ戻ってきた時、ゲントはそう感じた。レナは彼のいない間を悶々として過ごしていた。
 父の表情は普段よりも暗くなっているようだった。レナの元婚約者の家族からは電報が届いていて、その電報を追う形で、彼女の返還を要求する脅迫の手紙も来ていたからだ。
 かくして、プリアモスは逃亡者の引き渡しを要求されたわけだ。
[訳注;プリアモスはヘレネーを庇護したトロイアの王]
「そうじゃないんだ、父さん」
ゲンティは父に手紙を返して言った。
「僕はレナを力づくで奪ったんじゃない。彼女を騙したわけでもないよ」
 一度ならず彼は、古代の年代記をすっかり疑ってみたい気持ちにさせられた。実際のところ、現象の堅牢な外殻の裏側に潜むものを探り出したい衝動にかられたのである。
 そんな衝動が最初に芽生えたのは、モスクワにいる時のことだった。留学生仲間たちと学生にはありがちな風で夜を明かしたいつもの朝、太陽が昇るのを待っていた。バルト海沿岸の或る国から来た男子学生が、はっきりしない言い方で、装飾を施したソヴィエト式微笑の裏のおぞましい真実を語ってくれた。
 疑いを持つということは、とりわけ哲学科の学生であれば自然なことだ。ただ不自然なのは、現代世界から生じたこの疑いが、彼の場合は紀元前の伝説の世界へと飛躍してしまうことだった。
 狂気の沙汰だ。ヘレネーをめぐる醜聞のどこが肝腎なことなのか、何が真実で、何が真実でないのだろうか?彼はしきりとつぶやいたが、次の瞬間にはまた違うようにも感じられた。
 今や彼は略奪者の血族であり、いにしえの一族の流れを受け継ぐ末裔であった。だからこそその一族に関することすべてが、自分にとって身近な問題だったのだ。
 古代の事件は、彼を惹きつけ、かつ怯えさせもした。
 ゲント・ルヴィナが書きものをしていた机の上には、「イリオン」とか「ユリヨン」とか「ユリ・ヨネ」と書きつけられた紙があった。
[訳注;ギリシア語イーリオンIlionはトロイアの別名。ユリ・ヨネYlli jonëはアルバニア語で『我らの星』の意]
 古くから信じられている通り、彼は「トロイア」の名をギリシア語の「イーリア」からではなくアルバニア語の「ユリ・ヨネ」から派生させ、同様にして「イリュリア」の名を「ユリ・イ・リ」に由来させていたのである。
[訳注;イリュリアIliriaは現在のアルバニアにあたる古代バルカンの地名。ユリ・イ・リYlli i riはアルバニア語で『新しい星』の意]
 通常こういう説は微妙なしろもので、どのバルカンの民族の伝説にも似たようなものが見られることは知っていたが、それでも彼はそれを信じることで納得していた。
 こういう説のよりどころとなっているのは例えば「トロイア」という語で、それはアルバニア語で「遠方の地」を意味しているらしい。同様に、トロイアの属領都市の一つであった「ダルダニア」の名は「ダルダニア・イリュリア人」に由来するらしい。
 そんなことを考えていると、ゲント・ルヴィナがさらにトロイアびいきになっていくのも無理からぬことだった。トロイアに対して抱く悲しみの念を、彼は普通の人間ならば持つのが当然のものだと思っていた(この都市の没落を喜ぶのは邪悪な者たちだけだ、とゲントは思っていた)。そうした思いは彼の中で、尋常でない程になっていた。
 だが実は、トロイアそのものよりもさらに彼の心をとらえていたのが、あの木馬の方であった。レナに宛てた手紙の冒頭で、彼が市当局のワゴン車のことを書き始めたのも偶然ではなかった。不思議なことだが、そのワゴン車に一頭の馬の姿が重なったように見えたのだ。
 ふと、彼は或ることに気がついた。古代の出来事に疑念をめぐらしていると、トロイアの悲劇の結末が変わってしまうような気がしてきたのだ。それはほんのいっときのことだったが、それだけの間でも、いたるところに、鏡の面のようにひびが走るのだった。

[A]
 おそらくその時だったと思うが、彼の頭の中に昔からの疑問とされていることがよみがえってきた。本当に木馬が存在し、本当にギリシア人たちはその木馬によってトロイアを手中にしたのだろうか?それともそれは、真のトロイア侵攻策から目をそらすための偽装工作に過ぎなかったのではないのか?
 それは別に驚くようなことではなかった。とうの昔から知られていることだが、戦争の本当の原因も戦闘の開始も、戦力についての推測や推理さえも注意深く包み隠されており、ギリシア・トロイア戦争に関する記録は、一人の美女による空騒ぎの物語(彼女の恋の遍歴は実際にあったのかも知れないが)にすりかえられてしまったのだ。
 だがもし、戦争の真の理由が本当に隠蔽されているとしたら、トロイアの占領に到る方法もまた隠蔽されているのではないか、と疑わないわけにはいかない。トロイア側の文書は消失し、都市もろとも黒焦げの灰と化してしまったからだ。
 思い浮かぶものといったらただ、炎と恐怖の中に立つ、一頭の巨大な馬の姿だけである。しかしそれは、本当に木製の馬であったのかも知れないが、一方で、逃げまどうトロイア人たちの恐怖が生み出した幻覚のようなものであったのかも知れない。
 そうすると不思議なのは、どうやってギリシア人たちはトロイア人たちの頭の中にそのような幻覚をもたらし得たのか、ということだ。

[B]
 何時間もの間ゲント・ルヴィナは、トロイア陥落に関する推理のあれこれを、組み立てては崩していた。自然と彼自身、自分の哲学の博士論文を審査する委員会の部屋の、その向かいの講義室にいるような感じになっていた。そこは会議用の部屋だ。テレビに、丸いテーブルがある。
 木馬の物語は、古くからある疑惑を呼びさました。のちに木馬と呼ばれて有名になるものはかつて何だったのか、ということについて、ゲント・ルヴィナはありとあらゆる推論を重ねた。考えをめぐらせる過程で彼は、ホメーロスの信憑性について、古代から現代まであらゆる歴史家の議論を整理してみた。
 トロイアを陥落させたのは馬型の城壁破壊装置だったと書いている者もいたし、馬の絵を描いた隠し扉があって、そこを通って市中に潜入したと説く者もいた。あるいは、馬は扉でなくギリシア兵の衣服に描かれており、救いようのない暗闇の中で互いを見分けられるようになっていたとも言われる。
 他にもいろいろな説があった。馬は、ギリシア軍の殺戮をまぬがれたトロイア人の家々の玄関に描かれたものだったとか、ギリシア軍はトロイア側を欺くために宿営地を焼き払ってヒッピオス山へ隠れたが、その名が「馬」を意味しているからだろうとか、しまいには、トロイアは騎兵部隊の攻撃によって陥落したのだという説まであった。
[訳注;ギリシア語で『馬』はヒッポスhippos]

[C]
 ゲントは、それらの説のいずれにも納得できなかった。どれをとっても木馬の存在そのものを疑っていることは評価に値するが、トロイア陥落の夜に徘徊した馬の幻影というのが、扉や兵士の胸元に描かれていたのか、それとも人々の心の中にあらわれたものに過ぎなかったのか、それはわからなかった。わかっているのは、まさにその混乱の只中に、馬の影らしきものが存在したということだけだった。
 木馬などなかったと考えてよいのかも知れない。それに対する反論はあるが、木馬が存在したと言っているのは、逃げ去ったトロイア人だけなのだから。
 また別の説だが、木馬は存在しなかったにしても、何かしら基本的に似たようなものがあったということも考えられる。その場合は、その象徴的な存在が何ものだったのかを解き明かさねばならない。
 さらにまた別の説もある。木馬は実在するが、それは真実を隠蔽するためのものに過ぎなかったのではないか、という推理だ。要するに、木馬は存在し、かつ同時に存在しなかった。この第三の説が、一番ありそうなように思われた。

[D]
 考えをめぐらせるほどに、めくるめく推理の渦に呑まれていった。自分の判断によって疑念の雲がかき消えていくように思われる瞬間もあったが、すぐさまひっかかるところがあって、またしてもこんがらがっていくのだった。
「すべて一からやり直しだ」
彼は幾度となくそうつぶやいた。声に出して考えてみれば、混乱に陥らずに済むと考えたのだ。
 さて、木馬は存在したとする第一の説から取りかかろう。だが本当にそうだったのだろうか?いやあり得ないな、と言いそうになったが、すぐに打ち消した。慌てるべからずだ、と彼は思った。落ち着いて考えてみよう。正確に言えば、問題はこういうことになる;幾多の戦闘を得て齢を重ねてきたトロイアが一頭の木馬ごときにうかうかと騙される、などという話があるだろうか?確かに単純過ぎる話に聞こえる。しかし、この説を棄却するには少々理性を働かせる必要がある。
 しばらくメモとメモの間で答えを探し求め、ようやく彼はそれを見つけ出した。
「そんな馬鹿な!」
メモを手にした彼の口から、そんな言葉が飛び出した。それを幾度か繰り返した。そこに書きつけたことがらを目にしている限り、自分が同じ言葉を際限なく言い続けるように感じられた。確かに、ホメーロスが「オデュッセイアー」の第四章で次のように書いているのには、驚くほかなかった:  このようにして、メネラーオスは彼自身の生涯で最も波乱にとんだ出来事をはるか過去に見やり、追想するのを楽しみにしていたというわけだ。
 そしてこのあとに、疑う余地なく、世界史の中でも際立って非合理的な出来事が続けて書かれている。ヘレネーはトロイアに連れ去られた身であったが、木馬の周りを三度まわって、その中に潜んでいるギリシア兵たちに、その妻たちの声色を使って呼びかけたのだ。
 というのもトロイア勢は、木馬の腹の中にギリシア兵が隠れているのではないかと大いに疑っていたのである。また、確かな筋の情報もあったので、ヘレネーを利用して、中に隠れている兵どもの妻の声を正確に真似するようにさせたのだ。
 郷愁に突き動かされたギリシア兵は返事をしそうになったが、オデュッセウスはそれを許さなかった。おまけに彼は、愛しい妻の声を耳にして辛抱できなくなったメネラーオスの口を手で押さえなければならなかった。
 こうした疑念、というより、正確には猫と鼠のだまし合いのようなものを受けてトロイア勢は、まず木馬に穴をあけて中に隠れている鳩を見ようとした。ところが急に、自分たちが子どもじみた鬼ごっこをやっているような気分になり、またギリシア兵たちがヘレネーの誘惑に乗って返事をしなかったものだから、トロイア勢は木馬の中にギリシア勢がいないものと信じ込み、その不吉な品を市中へと引き入れたのである。
 だがそんな話を信じるなど、実に声をあげたくなるような勘違いではないか。ゆえに、内部にギリシア兵が隠れる木馬として語り伝えられるようなものは、存在しなかったのだ。
 ゲントは、興奮して震える手で、タバコに火をつけようとマッチを探すのだった。

[E]
 紫煙を吸い込む間も、彼は机の上に広げられた紙の束から目を離さなかった。トロイアが一頭の木馬によって陥落したのではない、そのことは明らかだった。しかしここで疑問が生じてくる。
「いかなる方法によってトロイアは陥ちたか?」
 十年にわたる激烈な戦闘の中で、都市を陥落させるためのありとあらゆる手段を使い尽くし、それらすべてが失敗に終わった後となれば、それがまったく新しい方法であったことは疑う余地がない。つまり、トロイア陥落に向けた最後の試みとなるような行動がとられたわけだ。驚くべきは、トロイア制圧の後でさえも、その策略を知らしめないような努力が払われていたことである。勝者というのは普通ならば、警戒を失ってしまうところなのに。
 もう一つ驚かされるのは、木製の馬という贈り物こそトロイアの悲劇の根底にあるものなのだという話が、あらゆる人々に受け入れられていることだ。そうした策略が、実際には決してそうでなかったにしても、馬の贈り物に似たような何かは存在した。それが木製の馬という贈り物でなかったとしても、作戦に際しては、何かそれに類似したものがあったのだ。

[F]
「だが何故だ?」
彼はさらに自問自答して、自分の論理を俎上に乗せ、可能な限りの反論を試みた。
 もし自分がトロイア陥落のための手段を秘匿しておこうと決めた場合、真実を覆い隠す目的で作り出した虚構に、その真実と似たようなものを持ち出す必要がどうしてあるだろう?
 虚構というものは、真実の一部にさえも触れられぬように、またどのように考えたとしても真実にたどりつけぬように、できるだけ真実から遠避ける方が論理的ではないだろうか。
 だがここで、ゲント自身の第二の考えに従えば、実際はまったく逆で、虚構は真実とほんの僅かしか似ていなかった。
 ゲント・ルヴィナはずっと以前から、この可能性についても考えていた。彼に言わせれば、トロイア陥落のための悪魔のような方策を立てた時、あるいは「大いなる策略」と呼ぶところのものを見出した時、ギリシア側の指揮官たちは即座に、この「大いなる策略」は極秘裡に、あるいは偽装しておかれるべきとの意見で一致したのだ。
 おそらく、ギリシア勢は悪意から、この「木馬」という象徴的存在に行き着いたのだろう。もっと別の偽装手段もあって、そちらの方が虚構を完璧なものにすることができるし、象徴を解き明かされる危険を避けることもできたのだが、「大いなる策略」を隠蔽する上で策略が求められていたこともあったため、他ならぬ「木馬」を使わざるを得ない状況になっていたのだ。
 念入りなことにギリシアの指揮官たちは、完璧なる虚構の異本をも用意した。それは異本A版と呼べるようなもので、徹頭徹尾いつわりを重ねてトロイア陥落を語るものだった。例えばこうだ;
「トロイアはいかなる策略をも用いることなく、輝かしい正面突破の攻勢によって陥落したのである」
 だがしかし、そのようないつわりは早々に断念することになった。理由はただ一つ、多くの目撃者がいて、そんな話とは異なる事実を認めるに決まっているからだ。
 トロイア側の目撃者だけが問題なわけではない。既にギリシア軍の司令部は、地上からトロイア人もろともトロイアを一掃するつもりだった。だがそう決意しながらもギリシア側は、これまでの戦闘の経験から、完璧な殲滅というものが本来不可能であることをよくわかっていたのである。
 そして実際その通りになった。トロイアは焼かれ、その所蔵文書も含めて完膚なきまでに破壊された。しかし一部のトロイア人は、あの恐怖の夜の闇をぬって逃げおおせたのである。
 仮に、命令通りにトロイア人が全滅させられたとしても、異本A版を使うのは別の理由で困難だった。しかも問題はギリシア軍の側に関することだった。というのも、隠蔽工作はまず第一に、無数のギリシア兵に対して為されるべき問題なのだが、その彼らはトロイアの地から帰還した後でさえ、そこで起こった事実をまったく知らず、本当に「木製の馬」によってトロイアを陥落させたと思い込んでいたのだ。彼らはそのようなうそいつわりを、それがうそいつわりだという自覚すらないままに、ギリシアやバルカン半島じゅうに広めたのである。
 結局、指揮官による「大いなる策略」はまず何よりもギリシア人たち自身の目から隠しおおさなければならないということで、粗野な偽装は断念してもっと別の、より穏健なものにとってかわられた。なぜなら、いくらかでも真実に見えるような嘘の方が、あからさまな嘘よりも長持ちするという原則があるからだ。
 要するに、トロイアは策略に陥れられたのだが、「大いなる策略」については語られず、「木馬」の贈り物などという、戦争にはごくありがちな策略によって偽装されたわけだ。
 かくして、思いもよらず、嘘の只中にわずかな真実の光が見えてきた。そのことで偽装工作は実際危うくされたのだが、それは必然的な犠牲でもあったろう。

[G]

 では、最初にぼんやりと姿をあらわした「木馬」という策略、その背後に隠されていると思しき「大いなる策略」とは何だったのか?
 潜入。それはトロイアへの巧妙な侵入だ。だがどうやって?どんな方法で?
 地下にほら穴か何かがあって、おそらく当初は城塞都市攻略のために用いられたのだろう。そしてその侵入手段が無効化されることのないよう、「木馬」によるものということにされたのではないか?そういう可能性はある(地下への隠し扉か何かがあって、その表面に馬が描かれていれば、そのことを証明できるのではないか?)。
 トンネルを馬に見せかけるのは、突拍子もないやり方の侵攻計画に他ならない。その中に隠れた兵士たちの一団についても同様だ。一団の部隊が「木馬」の中に隠れようが、トンネルの中に潜もうが、夜がふけるのを待って城門を内部から開くには大なり小なり同じことである。
 だがそうなると、贈り物に偽装するというそもそもの根本的動機は消え失せてしまう。そのことによって、「木馬」に「賛成」か「反対」かという論争も、ヘレネーを見つけ出し、かつラーオコオーンに死をもたらすという目的を持った潜入も、すべて帳消しになってしまう。
[訳注;ラーオコオーンはトロイアの神官。木馬を市中に引き入れることに反対したため、女神アテーナーの怒りを買って大蛇に巻かれた、と言われる]
 それに、トンネル構想を破綻させるのは他でもない、潜入部隊の編成そのものである。この重要な任務のために編成された人員は、地下の穴を通ってトロイアへ入り、歩哨を殺害して門を開けるわけだが、そんなことができるのは、この作戦のために特に訓練を受けた、選び抜かれた将兵の一団だったはずである。
 だがそれは、司令官たちではあり得ない。ましてや、オデュッセウスやメネラーオスといったギリシアの要人たちでもない。彼らは、戦争や和平について決定を下し得る重要な権限を持っており、早い話、トンネルの中で生命の危険にさらされるには余りにも高名に過ぎるのである。
 だめだ、木馬が地下に掘られた穴だったなどということは、どう考えてもあり得ないのだ。
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