アルバニアの新聞記事「アルバニア語を学ぶ日本人学生30人」(2004年12月)

 1995年以来、毎年のようにアルバニアを訪れているのですが、比較的地味に活動してきたせいか、現地メディアで取り上げられることは全くありませんでした(コソヴォでは2001年に掲載記事あり)。
 ところが2004年8〜9月の「国際南東欧学会」参加でついに「面が割れた」らしく、現地での取材こそなかったものの、同11月に入って現地日刊紙「コリエリ(korrieri)」の記者(Ben Andoni)からメールでのインタヴュー依頼が舞い込みました。
 結局、同12月1日付の同紙に、全24面中3面(!)の特集記事「アルバニア語を学ぶ日本人学生30人のはなし」として掲載されたので、以下にその(ほぼ)全訳を掲載します。
 若干「ほめ殺し」的な記述も見られますが、アルバニア人の日本[人]観がよくあらわれているので、敢えてそのまま訳出しています。なお、記者は井浦を「profesor」と呼んでいますが、これは正式な「教授」でなく、単に高等教育機関の「先生」の意味で使っているものと思われます。

21世紀のサムライたち はるかアルバニア語へのまなざし
 日本はアルバニアから地理的には数千キロも離れている。それは心理的にも同様だ。アルバニアに関する日本で最初の本格的な記述は1939年、当時の首相によるものである。彼はトルコで外交官の職にあったが、アルバニアに行ったことは一度もなかった。それ以降は、1970年代に日本のマルクス主義者らによってエンヴェル・ホヂャの著作が翻訳されたことなど、ごくわずかなものしかない。今日のアルバニアの素顔はイスマイル・カダレの作品を通してのみ認知されている。カダレの『死せる軍隊の将軍』やペトロ・マルコの『最後の町』だけは、直接アルバニア語版から翻訳したものが私家版で出ているが、他のアルバニア文学はことごとくフランス語版からの翻訳である。
 そこに、イウラという一人の素晴らしい日本人の教授が貢献している。バルカン半島の諸言語に精通する彼は、一年前から30人いる学生に初級アルバニア語の授業をしており、みずからも翻訳を手がけている。しかし日本では、アルバニアという国がどこにあるのかも知らない人が多く、そのような国でアルバニア語を教えるのは容易なことではない。

 二年前の秋、ブトリントの遺跡保護区をまわっていた警備員が、遺跡内に入ろうとしていた学生を呼び止めた。それは二人の日本人で、何とかして遺跡内に入れないかと頼んできた。クサミルの学校のバスに乗せてもらい、朝になってブトリントにたどりついたというのだ。しかし、大学で歴史を専攻しているという彼らは、自分たちの行動が罰金ものだということを理解していなかった。彼らは、はるばる日本から来ていた・・・

 日本について耳にする時、私たちが思い浮かべることはいつも二つしかない。一つは、驚異的に進歩した電気製品であり、それは日本の代名詞にさえなっている。もう一つは原子爆弾である。よく考えると、私たちが高校の世界地理で学べることは多いが、アルバニアでの日本に関する情報は不足している。共産主義体制はこの遠く離れた先進国を尊敬してはいたが、結局のところ「あれは資本主義国だから」と言って片付けるのだった。それでもアルバニア人がはるか日本への尊敬をやめることはなかった。
 多くのアルバニア人にとって日本はいつも、勤勉、そしてかつての物資不足を克服した努力のシンボルなのだ。伝統的に怠け者であるアルバニア人が日本に驚嘆するのは言うまでもない。
 一方で、日本人がアルバニアに対して向ける目はまったく異なっている。日本人にとってアルバニアは地理上の知識に過ぎない。しかし、アルバニアについての情報不足が一般的な中で、それに抗し、アルバニアへのまなざしを持ちつづける少数派が存在する。
 イウラ・イチロウ(イイウラではない、と彼は言う)はまぎれもなくその代表格だ。若き教授でありながらその業績は多年にわたり、彼はその並外れた知識でアルバニア語に熟達するに至ったのである。

日本におけるアルバニア語
 イウラの努力によって、日本では今や、カダレ(その作品の多くはフランス語版からの翻訳だ)だけでなくドリテロ・アゴリ、ヂェヴァヒル・スパヒウ、ベティム・ムチョの作品をアルバニア語版オリジナルからの翻訳で読むことができる。しかし日本でアルバニア語に触れることのできる機会は、ごくわずかなものだ。
 それは、アルバニア語が日本人にとってなじみのない言語であり、学んでいる人もごくわずかだからだ。加えて、アルバニアやアルバニア人について日本語で書かれた資料が極めて不足していることもある。圧倒的に強いのは英語であり、他の言語と比べても抜きん出ている。日本の場合、残念ながらこれはアルバニア語に限らず、他の南東ヨーロッパの諸言語にも言えることだ。
 このような状況の中で、イウラ教授はアルバニア語に取り組んでいる。
「私は、広島大学文学部で一般言語学専攻の学生たちに『歴史言語学入門』の講義をしているが、その中でアルバニア語を教える授業を一年前から始めている。この実験的な授業には、毎学期30人ほどの学生が参加する」と語る彼はとても豊かな学問的生活を送っているのだ。
 授業ではイサ・ズュンベリの英書『アルバニア語会話』(1991年)と、付属のカセットテープを使用している。辞書はレナード・ニューマークの 『オックスフォード アルバニア語・英語辞典』(1998)。他にも、アルバニアで出版されているジョヴァリン・シュクルタイとエンヴェル・ヒュサ『外国人のためのアルバニア語』(1996)から数章を抜き出して利用している。
 イウラ教授によれば、日本人学生にとってアルバニア語は、難易度では他のバルカン諸語と大して違わないという。
「日本の学生にとって、アルバニア語の動詞や名詞の複雑な語形変化をおぼえるのは難しい。彼らは現代英語の単純な語形変化にすっかり慣れてしまっているからだ」そこでこの愛すべき教授は、授業をわかりやすくするために「印欧語の語源についての説明に多くの時間を割かなければならない」のだが、それはアルバニア人からすればまさに「ミッション・インポッシブル」である。
 イウラ自身はドイツ語に通じており、その研究はオダ・ブフホルツとヴィルフリート・フィードラー『アルバニア語文法』(1987)やシャバン・デミライ『アルバニア語歴史文法』(1993 アルバニア語版オリジナルの独訳)などをよりどころにしている。しかし「日本人の学生でドイツ語を読める者は少ない」。
 教授にとって、30人余りの学生に遠くアルバニアのことを教えるのがどれほど困難なことか、もはや言うまでもあるまい。
 そこで彼は様々な方法を用いて授業を行っている。その一つに、比較教授法がある。他のバルカン諸語を教えることによって、アルバニア語の習得にも良い結果があらわれるのだという。

アルバニアは日本でどれほど知られているか
 この問いに対する答えは簡単だ。全く知られていないか、ごく限られた分野でわずかに知られているに過ぎない。もう少し正確に言えば、個人のレヴェルでしか知られていない。
 単純な比較をしてみよう。日本では年間6万冊から7万冊の新刊書が出ているが、バルカンに関する本はこの半世紀でわずか70冊、うちアルバニアについて書かれた本は14冊に過ぎない。アルバニアでも、世界的に有名な映画監督や作家は別としても、日本についてはわずかなことしか知られていない。実はアルバニアでも日本の有名な作家の作品や詩集が出版されているが、日本で賞賛を受けている現役の作家についてはよく知られていない。それは例えば、遠藤周作、安部公房、大江健三郎、北村[訳注;透谷?]などである。
 日本でのアルバニア関連書に話を戻そう。当然のことながら最近の情勢、特に、旧ユーゴスラヴィアの紛争と関連したものが多い。アルバニアについて多く書かれているものとしては、例えば、チャールズ・ジェラヴィチとバーバラ・ジェラヴィチ『バルカン史』(1965)、ピーター・シュガーとイヴォ・レデラー『東欧のナショナリズム』(1969)、ジョゼフ・ロスチャイルド『大戦間期の東欧』(1974)、ジョルジュ・カステラン『バルカン歴史と現在』(1991)などがある。その他にも、写真集や民話集、新聞記事を集めたものなどがある。
 アルバニアについて最初に書かれた本は1939年、当時の芦田均首相によるものである。彼はトルコで外交官をしており、本業のかたわらでこのアルバニアに関する本を書き上げたが、アルバニアを訪れたことは一度もなかった。彼は同書の最終章の十ページほどを費やして、スカンデルベウの戦いやイスマイル・チェマリ、ゾグ国王、ゲグ地方とトスク地方の違いについて書いている。しかしイウラ教授によれば、この本の結びは悲観的なもので、アルバニアの当時の動向については次のように書いてあるという。
「かくしてイタリア総監の下に新しきアルバニア政府が樹立された。バルカン民族のロマンチックな一齣はこゝにも終焉の幕を下ろすことになったのである」
 神戸学院大法学部の(故)木戸蓊教授の著書『バルカン現代史』(1970)や柴宜弘の著書『バルカン史』は記述が新しく、アルバニアについてもよく書かれているとイウラ教授は指摘する。

1960年代中期以降
 1966年、アルバニアについて非常によく書かれたハリー・ハムのルポルタージュ『アルバニアの反逆』の日本語訳が出版された。1970年代にはマルクス・レーニン主義者のグループによってエンヴェル・ホヂャの著作がさかんに翻訳される。この訳者たちと同一のグループによると思われるが、イブラヒム・ムチャとクリスタチ・ミトロの映画「最後の冬」が日本で上映されたことがある。
 日本で最も有名なアルバニアの作家は、イウラ教授によれば疑う余地もなく、イスマイル・カダレだ。日本ではこれまで、数はわずかだがいくつかの作品が刊行されている。それらは『砕かれた四月』(1978)、『草原の神々の黄昏』(1978)、『誰がドルンチナを連れ戻したか』(1980)、『夢宮殿』(1981)、『災厄を運ぶ男』(1983)であり、これらはいずれも1990年代の中頃、つまり1994年から1997年までの間に出版されている。いずれもフランス語版からの翻訳である。それはイウラ教授に言わせれば決して好ましいことではないが、しかし価値あることには違いないという。訳者の一人は平岡敦という人物だ。イウラ教授は語る。
「残念ながら日本には、中華人民共和国におけるチェン・エンボー[訳注;鄭恩波 中国のアルバニア語研究家・翻訳家]のような優れた翻訳家はいない。しかしカダレの作品に関心がある日本人は、パリのファヤール社から出ているユスフ・ヴリオニの見事なフランス語訳で『死せる軍隊の将軍』(1963)、『偉大なる冬』(1977)、『三本のアーチの橋』(1978)、『H文書』(1980)、『ピラミッド』(1992)などを読むことができる」
 アルバニアから日本語に直接翻訳された作品にはカダレの『死せる軍隊の将軍』やペトロ・マルコの『最後の町』があるが、いずれも私家版しかない。記事の最後に、イウラ教授による翻訳一覧を付す。

日本でアルバニア語を学ぶには
 日本でアルバニア語を学ぼうとすると、ごく簡単な文法書が一冊、それに、収録語数わずか1800の単語集が一冊しかない。他に二冊の入門書があったが、現在は絶版である。これらの本の著者は直野敦という東京大学の教授である。彼はルーマニア留学時代にアルバニア人教師からアルバニア語を教わった。それから30年足らずで彼は、スチュアート・マンの『英語・アルバニア語辞典』をもとに『アルバニア語基礎1500語』と題する辞書を出版することになる。1989年にはもう一つの著作を世に出すが、そこに収められた例文はラドヴィツカ、カラピツィ、ソマのアルバニア語教科書『アルバニア語』から採ったものであり、読みものはカダレの『死せる軍隊の将軍』からの抜粋だ。しかし結局のところ、日本でアルバニア語を学ぶにはイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、或いはアルバニアから取り寄せた教材を利用するしかない。

 学問の世界では若干の日本人研究者によってアルバニア語に関する研究がおこなわれている。イウラ教授自身も、アルバニア語の方言に関する分析を進めている。他にも山本和彦という情熱的な学者がいて、『アルバニアの部族社会』と題する著作を出版している。まさにこれは遠くアジアの島国でバルカンの伝統文化に学ぼうとする、日本のささやかな「アルバニア人」社会なのだ。

 二年前にブトリントに立ち入ろうとした、あの歴史を学んでいるという二人の学生も、おそらく自分たちがアエネーイスの地にどうしても入りたいのだと、頑固な警備員に向かって訴えたのだろう。彼らはそのために「日出ずる地」から旅してきたのだから・・・
*記事中の資料データはイウラ教授が数ヶ月前にアルバニアで発表したものによる。

イウラ教授による翻訳
 イスマイル・カダレ『怪物』(1991)
 イスマイル・カダレ『凶夢』(1991)
 イスマイル・カダレ『アルバニアの雪どけ』(1991)
 ドリテロ・アゴリ『裸の騎士』(1996)
 ベティム・ムチョ『回転木馬』(1997)
 ヂェヴァヒル・スパヒウ『未完』(1996)

以上、Web上でのみ公開

[訳注;この後に井浦の履歴・研究業績があるが、省略]

中国人と間違えないで
 このインタヴューの中でイウラ教授は、自分がどのようにしてアルバニア語を学ぼうとしたか、どうして学生にアルバニア語を教えることになったか、日本人にとってアルバニア語がどう難しいか、アルバニア語学習に何が不足しているか、またその他どのような困難があるかについて語っている。
 日本では、有名なカダレを通じてアルバニアのイメージが作られているが、それはごく断片的なものにとどまっている。
 イウラ教授は、広島大学の学生らを引率してアルバニアを訪れることを夢見ている。
 イウラ教授は、インタヴューでのアルバニア語については編集部での手直しを求めていたが、そのアルバニア語力に多大な敬意を表し、本人が書いた原文のまま掲載する。[訳注;うそっ?! ]
――まず、どうして日本の大学でアルバニア語を学ぼうと考え、そしてどうして現在の学部に入ったのですか?
「まず私は大学でギリシア語を学び、その後、純粋な知的好奇心から他のバルカン諸語をたて続けに学びました。アルバニア語にとりかかったのは15年前です。歴史言語学的観点から見て非常に興味深い言語だと思いました。それで、大学院ではアルバニア語を研究することにしたのです」
――あなた自身、どうやってアルバニア語を勉強したのですか、またその感想は?
「まったくの独学です。最初にアルバニア語の教科書をイギリス、ドイツ、イタリア、アメリカ合衆国から取り寄せて(当時、アルバニアから本を直接手に入れるのは難しかったので)文法と会話を学びました。初めてアルバニアを訪れたのは、1995年です。それ以来、アルバニアとコソヴォを毎年訪れてはアルバニア人の友人らと会っています。アルバニア語学の理論は、1995年から1996年にかけてミュンヒェン大学のアルバニア語学科で、著名なドイツ人学者であるヴィルフリート・フィードラー博士のもとで学びました。研究を続ける中で、音韻・文法面の特徴だけでなく、印欧語としてのアルバニア語の歴史の古さにも感嘆しました」
――日本でのアルバニア語学習の振興のため、アルバニア側でどんなことができるでしょうか?
「日本では(アルバニアだけでなく)バルカンについての情報が絶対的に不足しています。初心者のための新しい教科書にカセットテープ、現在のアルバニアについて紹介できるようなビデオも必要です。インターネットでアルバニアについて調べる時、アルバニア語サイトの原文に外国語(例えば英語、フランス語、ドイツ語)の簡単な解説が添えてあると助かります。また、アルバニアにはみごとな観光名所がたくさんあります。もてなし好きなアルバニアの人たちが、日本から訪れる若い人々と、自分たちの母語であるアルバニア語で積極的にやりとりして欲しいと思います。あと日本人旅行者を中国人と間違えないようにお願いします」
――イスマイル・カダレやドリテロ・アゴリ(ペトロ・マルコは以前に翻訳が出ているので別として)、またその他の作家は知られていますか?
「カダレに関しては、フランス文学者や現代西欧文学に関心を持つ人々の間では比較的よく知られています。というのも、カダレの作品の多くはフランス語版で読めますし、その一部はフランス語版から日本語に翻訳されているからです。それ以外の作家は残念ながら全く知られていません」
――日本人として、アルバニア語はどんな感じですか?
「私にとってアルバニア語はとても難しく感じられますが、しかし他のヨーロッパの言語と比べても独特で、美しい言語だと思います。例えばドイツやオーストリアの町を歩いていると、アルバニア人の話しているのを聴き取れることがよくあるのですが、これはとても楽しいことです。学生たちには、アルバニア語はイタリア語やフランス語など、他の言語のように聞こえるようです」
――授業ではどのような教科書を使い、またどのような教授法を用いていますか?
「現在の授業では、ジョヴァリン・シュクルタイとエンヴェル・ヒュサの教科書『外国人と在外アルバニア人のためのアルバニア語』(トエナ社刊)を使っています。他に、ロンドンで刊行されたイサ・ズュンベリの『アルバニア語会話』も使っています。読解や会話の練習の他にも、(アルバニアやコソヴォで手に入れた)アルバニアの音楽を聞かせたり映画を見せたり、楽しくやっています」
――アルバニア語学の最新の成果は意識していますか?授業でアルバニアの歴史について扱うことはありますか?
「もちろん、アルバニア語学の最新の成果については『文献学研究』や『我らのことば』、その他、アルバニアだけでなく外国(ドイツやブルガリアなど)で刊行される学術雑誌にも目を通し、注意を払っています。その成果は授業にも活かされています。アルバニア語の出版物はティラナやプリシュティナの書店、或いは、私の古くからの友人エストレフ・ベガが経営する『ボティムペクス』に注文して手に入れています」
――アルバニア語の授業を受けることで、学生たちの大学生活やその後の人生にどのような利点がありますか?
「大変残念なことですが、何もありません。日本にはアルバニア語の知識を活かせる職場がないからです。しかしアルバニア語を学ぶことは、大学院で印欧語学を専攻する学生たちや、バルカン半島(例えばコソヴォやマケドニア)でNGOの活動にたずさわりたいと思っている若者たちには、大いに有利にはたらくでしょう。私は、学生たちが大学でアルバニア語と出会ったことによって、西欧や米国だけでなく、南東ヨーロッパへも目を向けるようになってくれることを望んでいます」
――学問に関係ない質問ですが、ワールドカップであなたはアルバニアを応援しますか?
「実は、スポーツには特に興味がないのです。それでも、9月4日のアルバニア×ギリシア戦の時にはティラナの友人宅におりまして、アルバニア代表の勝利をラキで乾杯して祝ったものです」
――学生たちとアルバニアを訪れる見込みはありますか?
「今のところはまだありませんが、将来できればいいと思っています」

ベン・アンドニ

ブッダとヒロシマをめぐる あるヨーロッパ人のメモ

エルミル・ニカ

 ヒロシマを理解しようとする登場人物たちは、記憶、とりわけ永遠に埋もれてしまったと思われていた記憶の部分と向かい合う。ヒロシマをめぐる謎を解くカギは、一人一人の痛みの理不尽さにある。戦争の不条理に直面して、作者[訳注;『ヒロシマ、わが愛』のマルグリット・デュラスをさす]はただ一つの救いの道として「忘却」を提示するが。その時、忘れてしまうことへの不安に直面する。すべてを忘れることで、恐怖まで忘れてしまい、そこから戦争の恐怖が再びくりかえされる。それゆえ作者は、日々のありふれた生活からその身を切り離し、個人や社会の潜在意識を解き放つ。真実は一つ、永遠に忘れ去ることなどできはしないのだ。

「女:誰に向けられるというの、町の怒りは?

 町の怒りは、望むと望まざるとにかかわらず、ある国民から他の国民に対してなされた不公正、ある人種から他の人種に対してなされた不公正、ある党派から他の階級に対してなされた不公正へと向けられる」

 天気のよい日、晴れ渡った青空の下、ヒロシマを訪れると、ここで半世紀前に起こったことがまるで信じられなくなる。空に視線をやると、そこには・・・この町に死をもたらしたあの不吉な爆撃機「エノラ・ゲイ」が飛んでいるような気がするのだ。だが実際は、数えきれない程の鳩が空一面に舞い、平和記念公園の美しく広大な敷地の上を飛び回っている。

 ヒロシマは美しい都市だ。その町は太田川の三角州の上に立ち、そこを何本もの川が横切って海へ注いでいる。川岸から川岸へ、何本もの美しい橋が町じゅうにかかっている。まさに、ここには生命がよみがえっている。だが一人一人の痛みもまた、脈々と流れる時代の中に生きている。平和記念公園には、象徴的な火が燃えている。あの災いの日、紅蓮の炎が町を包んだあの日から、消えることがないと言われる火の・・・
*上の記事は日本各地を旅行した著者による同名書からの引用。

korrieri, 01.12.2004