7

 まるで待構えていたかのように、直ちに反撃が開始された。スィグリミは、ことの成り行きを妨害しようと活発に立ち回った。保守派の牙城であるラディオとテレヴィは、アメリカ合衆国を攻撃せぬ隙を許さなかった。「人民の声」紙も同様だった。コソヴォのアルバニア人弾圧をアメリカ上院が非難したことを報じたその同じ号で、アメリカ合衆国に敵対的な記事が5つも掲載された。
 私は「ダイティ」ホテルのカフェで、中央委員会宣伝部長に任命されたばかりのメフメト・エレズィに、こういうことは破廉恥で非人間的で、国民に背を向けた、しかもセルビアを利するものだと言った。彼は私の話を思案気に聞いていたし、辛そうな感じだった。だが私には何の返事もしなかった。  あらゆることが手の届かないところで決定されているように思われた。大多数の意見は、悪の根源は議長の外交問題相談役の頭目にある、というものだったが、逆の意見を支持する声もあった(実際このような体制にあっては、どこが悪の根源なのやら誰も知り得ないのであるが)。
 いたるところで或る種の痳痺症状が起こっていた。西側からやって来た代表団の多くは、得るところなく憤慨して帰国した。あちこちで御用学者の連中によって、アルバニアは民主主義の伝統と無縁の国である、それゆえ警戒に次ぐ警戒、度外れた警戒こそ必要であるかのような「定説」がふりまかれていた。
 民主主義の伝統に関していえば、事実は逆である。アルバニアは、オスマン帝制下にあって唯一その古来の慣習法による統治を受け入れたバルカンの国だった。その法の基本原則の中のいくつかは、法の前の平などや個人(男性)の権利の尊重として崇拝の域にまで高められ、この人民に、原始的かつ悲惨なものではありながらも或る種の民主主義の中で生きることを教えたのである。
 また一方1924年、いわゆるアルバニア共和国の時代、それはバルカンで最も民主的な国家であり、その大統領、正教会の主教にして文士ファン・スティリアン・ノリは、疑いもなく彼の時代のあらゆる国家元首の中で最も開明的な人物だった。  かくのごとき伝統が、ドイツやポーランド、更にはハンガリーやソヴィエト連邦にあるだろうか?
 民主主義的伝統欠乏説は、汚らわしい抑圧の正当化である。体制側の知識人がみずからの国民に泥を浴びせたのはこれが初めてではないし、それは大いにプロレタリアート独裁に手を貸してきた。
 そんな中で喜ばしいニュースと嫌なニュースが入り乱れた。パンフレットを作成していた人達が急襲され、逮捕された人達がいた。越境者が射殺されたと報じられた。スィグリミは、内乱指導の本拠を発見したと毎日のように発表したが、後になるとそうではないことがわかった。地方から戻ってきた記者達は、方々に支給された家畜の数の多さに仰天したと語った。一体これほどの数の家畜がどこにいたのだろう?その疑問は実にあっけなく解けた。何千という羊や雌牛は、廃棄されたトーチカや軍用トンネルの中に、農民達の手で隠されていたのである。新しい法律が公布されて、家畜達も非合法状態から抜け出した(少なくとも、このいまいましいトーチカも一応は活用されていたという訳だ)。
 或る記者は私に、家畜達の目がよく見えなくなっているのを知り驚いた、と語った。余りにも長期間暗闇の中に閉じ込められて、目が駄目になってしまったのだ、と…
 こうした視力悪化の件が、単に記者の考え過ぎなのか、それとも人間と同じく、暗闇で雌牛達は本当に目をやられてしまったのか、私にはついにわからなかった。
 事態の不安定さと全ての上に漂い続ける不確定さが主なきっかけとなって、私は青年紙にインタヴューを載せることにした。
 私は、議長と対話したあらゆる問題に新たな局面を与えることが必要だと感じていた。それは、密室で語られたことの一部を執筆し、出版すること、つまり公表することであり、要するに歴史の面前で証言し、記録するという一つの局面である。それはそのこと自体の中に、或る脅威を隠し持っている。つまり、私達の前で話し合われたことは、私事でもないし、足で踏みにじることもできないということなのだ。
 以前から「青年の声」紙のR・ラニ編集長が私にインタヴューを申し入れていた。或る朝、私は電話をかけ、2日後にインタヴューに応じる旨を告げて彼を喜ばせた。彼が私に出していた質問にも答えるし、私の方からもいろいろ付け加えて話すということにした。
 そして2日後、実に愉快なインタヴューが行われたのだが、彼をとりわけ陽気にさせていたのは、2通の短い手紙と、1つの「珍妙な」掌編であった。
 手紙の1通目には「親愛なるR、インタヴューの件御理解いただき感謝します」、2通目には「R同志、あなたの御指摘は読ませてもらいましたが、全く納得が行きません。インタヴューはそのまま掲載するか、さもなければすみやかに私宛に返送して下さい」とあった。
 午後に私達はカフェで待ち合わせたが、彼は全く楽しそうだった。インタヴューは充分満足できるものだったが、とりわけ2通の手紙と1つの掌編がそれを面白いものにした。
「2通目の手紙はよく憶えていますが、そのことを悪用するつもりはありませんよ」
 出版に携わる人なら誰でも知っていることだが、何か「よろしくないこと」が掲載された際、編集長が真っ先に尋ねられるのは、作家の側から出版に対して圧力があったのかどうかということである。その作家が著名な人物であれば尚更のことだ。そういう場合責任の半分は出版側にもあるのだが、非難を浴びるのは作家の方である。
「あなたは笑っているね。前もって言っておくが、インタヴューでは不愉快な思いをするかも知れないよ。今から話すことは真剣なことだ。私でなければ、あなたが高い代価を支払うことになるかも知れない、つまり…」と私が言うと、
「いやそんなことはない」と彼は答えた。「このインタヴューを掲載することに私は充分自信を持っています。2通目の手紙は、あなたの目の前で破っておきましょう、私が憶えておかないようにね…それはそうと裁判に関する作品は、傑作ですな」彼は今一度それを読み返そうと、ポケットから取り出した。
 それは、私が半ば夢見心地の状態で書いた短い一幕で、次のようなものだ。
「 ティトヴァ・ミトロヴィツァ法廷の一場面

ゼムフィロヴィチ裁判長   R・ラニ被告、イスマイル・カダレがあなたとのインタヴューの掲載に関し、それが不穏当であるとの理由で圧力をかけたというのは事実でありますか?

R・ラニ   全て事実であります。私に対する彼の激しい脅迫と圧力たるや、1732年来人類が経験したことのないようなもので、中でも例えば彼は、自分が死んでも私に対する報復を続けるための方策を手中にしている、などと私に言った上、私が死んでも誰かが3年おきに私の墓を掘り返すだろう、とまで言うのであります。

ゼムフィロヴィチ裁判長   イスマイル・カダレ被告、以上の件は事実でありますか?

イスマイル・カダレ   それらの件は真実でないばかりか、全く事実に反しております。このインタヴューを行うことをやる気満々で私に頼み込んできたのは、R・ラニその人 なのであります。彼は私にそういうことを申し入れたのみならず、どうしたものか私が迷っていると見るや、聞き入れてくれなければ自分のアパートの9階から飛び降りてやるだの、それも近所の病院の反対側だから助けが来たって手遅れだろうだのと予告したのであります。」

 私達はひとしきり笑った。作品は、グロテスクな中にもその核心に真実を含んでいた。題名(その頃ユーゴスラヴィアでは、ティトフスカ・ミトロヴィツァで、或る長期にわたる裁判が行われていた)やセルビア人裁判長の名前など、これら全てには意味がなかったが、作家の頭脳の産物として考えれば、意味のあるものでもあった。そこでは真実が、別の、時に全く明確でない報告において位置付けられることもあるのだ。
 インタヴューの充実振りは期待通りであった。でなければそれ以上だった。それは、インタヴューが時宜を得たものだということを証明していた。その内容は私と国家元首との間で扱われた問題の一部に過ぎず、それも最も穏健、かつ細心の注意を払って発言されたものだった。しかし全ての人々に、とりわけこの氷山の別の面、氷の下の深いところ、闇の中に隠されている見えない部分を想起させるには充分だった。
 インタヴューは全般的な興奮をまき起こした。新聞数万部はたちまち売り切れ、コピーが出回り、ジプシーによって闇市場で売られていた。誰もがそれによって目覚めさせられたことは間違いなかった。
 反対意見は徐々に出始めた。最初はおそるおそる、(上層部からの合図を待って)そして公然と。反対派は、まず先頭にスィグリミの職員の一部(意外にも全員ではなかったのだ)、公務員の大多数、主に中央委員会に所属する者達、多くの地方幹部、そしてしんがりは、何が何でも私に反対する一種のたわけ者共であった。
 上層部からの合図がないことは、(そういうものがあることにずっと慣れていたので)彼らを困惑させた。だから彼らの批判にも、往時の狂喜は見られなかった(ああ、もう『彼』はいない、イスマイル・カダレに目にもの見せてくれたであろうものを、という声が中央委員会の廊下でささやかれていた。『彼』とはエンヴェル・ホヂャであり、論争が行われた成り行き上、きわめて様々な意味で思い出されていた人物である。或る時は私を擁護し、また或る時は私を倒し得る者として)。
 私に向けられた2種類の非難の内、一方は恐れるに足りなかった(いわく、ああいうことをするのは、ノーベル賞目当てなんだ)。それに比べてもう一方は危険だった。
「あいつはハヴェルみたいに大統領になりたいんだ」 この非難は、言われるほどに一層耐えがたいものとなり、絶えず私を苦しめた。私の一挙一動はすぐさま嫉妬に満ちた評判に転じた。
「やれやれ、ハヴェルみたいになりたいから、あいつはあんなことを言うのさ」「へえ、あんなことをするのも、ハヴェルみたいに反対派を作ろうとして…」
 彼らにとって見れば、ハヴェルはこの上ない素材だった。しかし私にはほとんど拷問であった。彼らはそれを、私が望もうが望むまいが好きな時に私の足元へ放り投げ、私はそれにつまずいた。
 悪いことに、外国記者達がこの手の憶測をあと押しした。私は、アルバニア関連記事の翻訳が載った「特別報告」を読む国家元首の姿を、或る種の不安を感じながら思い浮かべた。だが更に不安だったのは、閣僚達の発言する場面を考えた時だ。「またこんなハヴェルみたいなことを。まあ、どういうことになるか眺めるとしよう」
 どんな金鉱をスィグリミが探り出して私への反撃とするのか、私は想像した。それは全く簡単なことだ。彼らは種々様々な調査を行い、私の言動に勢いを得た「敵性分子及び一部の単純な人々」が私に大統領になってもらうこと、つまり私が体制に対する最大級の潜在敵と呼ばれるべしと言うも同然のことをはたらきかけている事実を証明する。
 私に対するキャンペーンで、スィグリミには思いがけなくも新たな援軍が現れた。アルシ・ピパなるアルバニア人作家は、1960年来アメリカ合衆国へ亡命していたが、「ヴォイス・オヴ・アメリカ」のアルバニア語放送でインタヴューを行い、その中で私のインタヴューに反論した。彼の主張はこういうことだ。イスマイル・カダレのように、共産主義体制に寄り添って名をあげた作家達には、民主主義を語る資格などない、と。
 彼が私や他の知識人達に反対する発言をしてきたのは、これが初めてではない。彼は以前にもネヂャト・トザイの小説「ナイフ」を攻撃し、のみならずその小説に関する私の論説に対してもこう主張した。著者ネヂャト・トザイとその擁護者イスマイル・カダレは、アルバニアのスィグリミを批判しているが、真実を述べていない。責めを負うべきはスィグリミではなく党なのに、彼らときたら党を公然と批判する意気地もない。彼らにものを言う資格はない、と。
 アルシ・ピパは、1989年夏の時点ではアルバニアばかりか東側諸国の多くで党が批判できるものでないことを熟知していたはずだ。ネヂャト・トザイは自分の小説を執筆、出版するに際して危険に首を突っ込んでいたのに、アルシ・ピパは口先だけの偏狭なやり方で、この小説がスィグリミの要請を受けたものに過ぎないとまで書き立てた!
 このような論法に対し、アルバニアにおけるスィグリミとの協力に関する非難はアルシ・ピパその人にこそ向けられるべきだという主張もかなりあった。共産主義体制下で発言してきたアルバニア人インテリゲンツィアには国の民主化過程に加わる権利などないとする持論を用いて、彼はインテリゲンツィアの排除を要求した。だがそれこそ、スィグリミやアルバニアのあらゆる教条主義勢力が夢見ても得がたい結末ではないか。
 「ヴォイス・オヴ・アメリカ」のインタヴューで、私はアルシ・ピパに関する或る非常に苦い出来事に言及せざるをえなかった。彼が私に関する「研究」をものしていた1980年代の初め頃、私は危機に瀕していた。彼の研究を、私はインタヴューの中で「密告、中傷、警察のためのスパイ活動」だと呼んだ。そうして、私が「書斎への招待」という本【註4】について説明しているように、まさに彼はその通りだった。
 当然のことながら、アルシ・ピパに対する私の返答は、議長をも含むアルバニアの公人にとって満足のできるものではなかった。それは、議長自身が5月21日付書簡で述べている通りである。
 国民の頭脳である知識人を排除したら、誰が民主化に関わっていくのかと問うのは、アルシ・ピパやその他のぺてん師連中にとっては難題だ。こういう無能な作家はみずからの混乱によって、凡庸な創作者の嫉妬や憎悪がこの世の悪の種子の一部であること、ゆえにそうでない場合とは違って、何千年という時の流れも、慣習やイデオロギーや時代の変化も、ましてや人類の総体的な対立緩和も、それを取り除ける状況にないのだということを、いま一度証明するのであった。


8

 4月は、アルバニアで古くから愛の月と考えられてきた(勇気の3月が去り、愛の4月が始まる、と)。しかし1990年はそうならなかった。議長のいらだちと、それによって生じた間隙を利用して、内務省が弾圧を強化してきたのである。
 実際、動揺と矛盾がかつてないほど明らかになっていた。あらゆる働きかけが3、4日で徒労に終わり、何をやっても続く言葉は「けれども」だった。ただ身軽になるなら、先を急ぐなら捨てなければいけないものもあるという考えに、いたるところで人々が浸りきっていた。とはいえ別の意見も姿を現していた。いつまでもじっとしていたって、我慢させられるだけなのだ、と。チャウシェスクの姿が、その首に巻かれたネクタイの悲惨な結び目と共に、皆の記憶の中にあった。
 スターリン像がアカデミーから撤去されることになりましたけれどもあなたがインタヴューで提案したような、ジョン・ブズクの像などはやって来ませんがね。或る日、アカデミーの書記がこう言った。
 これこそ、誰が名付けたかまさに「けれどもの季節」であることを示す典型的な例だった。「両方の陣営」「両方の立場」を満足させるような方策が要求された。喜ぶ者喜ぶべからず、憂える者憂えるべからずという聖書の文句は、まるでこの時代のために作られたようなものだ。人が逮捕され、収監されるけれども2、3日すると釈放される(昔ならおそらくそれほど慌てて収監されることもなかったが、といって釈放されるわけでもなかった)。今では、収監されるけれども釈放される。または釈放されるけれども逮捕される。
 こんなちゃちな均衡で、当局は黄金の中庸を見い出したとでも思い込んでいたのである。
 このようなもやもやした状況を「重大な局面」として利用した内務省は、法律上の逮捕拘留期間を3日間から14日間にするという、前例のない法改訂を画策した。これは疑いなく闇の勢力による攻勢であり、おそらく、せめてこの「期間」の半分でも獲得したいと思っている「けれども」主義者達によって提案されたものなのだ。
 人民議会は10日後に開かれることになっていた。代議員で、著名な医師、学者でもあるユリ・ポパは、保健委員会でどうにかこの法案を否決することができた【註5】。他の2つの委員会でも反対が通った。人民議会で初めて法案が否決されたのである。ところがスィモン・ステファニ内相が自分の加わっている政治局内で頑として譲らず、政治局は恥知らずにも代議員の反対意見を排除してしまった。
 内務省、とりわけその最大の闇の領域であるスィグリミは、ただならぬ期待を抱いていた。議会の開会を目前に控えた或る日、最も憎むべき人物の1人で、スィモン・ステファニの右腕でもあるスィグリミ長官、Z・ラミズィは大通りに車を乗りつけて、私の友人にこう言った。「2、3日して14日法が手に入ったら、…その時の、おまえの友達とかいう作家の姿が目に浮かぶようだな…それから他の連中、そいつの友達も…ユリ・ポパもだ」
 けれどもその頃、そんなこととは知らず、私は議長に手紙を書いていた。
 私が彼に手紙を書こうと決めたのは、反動の危機が日毎に一層顕著になっていると確信したからだ。人民議会は日曜日に召集されることになっていた。私は、土曜日には手紙を書き上げていたが、議長は南部訪問から戻っておらず、帰って来るのは夜になるということだった。
 午後遅く議長秘書に電話で連絡を取った。彼らは先に戻っていたのである。私は自分の懸念を説明した。状況がどうであれ議長に、議会の開会より前に手紙を読んで欲しかったのだ。秘書は一切ためらうことなくその旨を了解してくれた。私が翌日の日曜日に手紙を渡すということで、話はまとまった。
 私達は10時にダイティ・ホテルで落ち合い、コーヒーを飲んで別れたのが10時45分だった。すぐに直接自宅に持って行きますから、と手紙を受け取った秘書は言った。11時には手紙が議長の手元に届くはずだった。
 議会の開会を1時間後に控えた月曜の朝、緊急閣議が開かれた。私の手紙のためだろうと思い、私は気分を良くしたのだが、やたらに早く喜び過ぎないようにはしておいた。
 私達の誰もが待ち受けていた。そして、驚くべきことに(それは実に驚きであっただけではなく、滅多にない瞬間でもあったのだが)、期待は報われた。外国への自由旅行の解禁、アメリカ合衆国及びソヴィエト連邦との国交準備、14日法の否決、そしておぼろげではあったが、宗教と土地私有についても希望の曙光が見えてきた。信用債、憲法における若干の条項の改正。決して、これは足りないどころの話ではない!
 その翌日(議会は審議を継続中だった)、私に手紙をくれていた友人ネヂャト・トザイが、昼に電話をかけてきた。
「よかった、例の7人の1人が落とされたよ。素晴らしい、きっと全員落とされる」
 意外なことに、議事の休憩の合間をぬって、当時最も忌まわしい存在の1人だった最高裁長官が解任された。それは、私が自分の手紙の中で名指し批判していた公人7人 (即ちリタ・マルコ副議長、Z・ラミズィ国家保安庁長官、最高裁長官、検察庁長官、警察庁長官、そして首都におけるスィグリミのサディスト2人)の内の1人だったのである。
 私の喜びはちょっとやそっとのものではなかった。とりわけデクエヤル国連事務総長の訪問を間近に控えて、他の問題を語り、討論し、圧力をかけるだけの時間はあったかも知れないが、14日法の件や最高裁長官の解任について言えば、それらには私の手紙が関与していた。つまり手紙は充分に受け入れられたのである。それは、この国の風通しを悪くしている岩がようやく取り除かれるという希望を、私に与えるものだった。
 3日後には首都圏のスィグリミのサディスト2人が解雇された。彼らへの措置が、イスマイル・カダレの国家元首宛の一書簡によるものだということが明らかにされた。
 これまで経験したことのない状況になった。
 「同志」への仕打ちに憤ったスィグリミの連中は、「きゃつに目にもの見せてくれる」とばかり、私に公然と挑戦してきた。解雇された2人はこれ見よがしに通りを歩き、 「闘う同志達」に囲まれてダイティ・ホテルのカフェへ赴いた。その中には、全権力を握るスィグリミのZ・ラミズィ長官の姿が見えることもあった。
 私は彼らと大いに対決した。初めての勝利の喜びが消えかけていたからだ。しかもその時の私はすっかりいらだっていた。私の手紙が出た後でもZ・ラミズィがその地位に留まっているのは、我慢ならなかった。それは私にとってひどい侮辱としか思えなかった。或る日ダイティ・ホテルで、会話が盗聴されていると知りながら、私は友人2人に、Z・ラミズィが職を退かないのなら、私がアルバニアを出ることを考えるまでだ、と言った。
 こうした中でデクエヤル国連事務総長が、あらゆる人々の様々な期待を担い、アルバニアに到着した。大きな希望でこの訪問を受け止めた人もいれば、既に早くから非難をもってする人もいた。いわく、デクエヤルの目に灰がまかれ、口約束でだまされて、何もかも今まで通りなのさ。これまでの緊張緩和も彼のおかげだという声は確かにある。でも、その彼が帰れば、今まで以上の専制政治だ、と。
 私は前者、後者のどちらでもない。前者は相も変わらぬ楽観主義が私のしゃくにさわった。こうした楽観主義にひとつかみの体制順応主義が入り込むのは、造作もないことだ。しかし更にいまいましいのは、後者の連中である。何を言うにも最初の言葉は「だから言っただろう、何にもならないって」、しかも機を見ては自分自身の先見性を宣伝し、状況がますます悪化するのを見て初めて喜ぶのである。彼らは、悲惨な残骸に向かって大口を叩ければ満足なのだ。だから私は言ったのだ、と…
 私はデクエヤルとパリで顔を合わせたことがある。倫理学・政治学会の会合に、私達2人は出席していたのである。労働者旅団宮殿での公式会談でも私達は再会したが、言葉を交わしたのはごく僅かで、それもアルバニア側の首相、外相の居並ぶ中でだった。デクエヤルは私に、私の本では「恥辱の部屋」が一番のお気に入りで、今は「演奏会」を読んでいるところだと言った。外相は仰天していた。
「そんな本をお読みとは意外ですな」外相は驚きを口にした「国連のことを考えますと…何しろ150カ国が加盟しているのでは…」
 事務総長は答えた。 「外相殿、私には国連加盟150カ国の小説を読む義務があるわけではありませんよ。私は、自分の気に入ったものを読んでいるのです」
 会見の大部分をデクエヤル事務総長はラミズ・アリアにふり向けた。人々は、彼と少しでも一緒に会見したかったはずだが、すすんでそれをあきらめることにした。彼があれだけ長く、アリア議長と話してくれれば充分だった。あれだけ丁寧に、あれだけ親身に2人が話し合ってくれるならば。


9

 国連マークの飛行機が空に舞い上がるや、地上の事態は再び悪化した。「さてこれからどうなる?」という問いが発せられた。
 しばらくの間は何も起こらず、静かに待つだけだった。やがて最初の悪しき徴候が現れた。国家の副議長の地位にあったリタ・マルコ政治局員がコルチャの幹部会議で、立ち去ったばかりの客に対する批判の口火を切った。
「デクエヤルが、我々に何を教えてくれるというのだ?我々には、エンヴェル・ホヂャの教えがあり、他の者に答えを求める必要などない。デクエヤルのごときやからは、もうたくさんだ」
 ならず者の言い分、前例のない国家規模の背徳行為である。客人に対する侮辱はいつの時代においても死罪に値する、というこの国で、こうしたことが起こった。
 リタ・マルコが無知無能な指導者共(政治局員の一部は高等教育を受けていない)の一人である点を除くとしても、「根なし草」、つまり非アルバニア民族の一人であることは偶然でない。こと人種的偏見においては天使たりえないアルバニア人が「根なし草」という言葉で軽蔑混じりに呼ぶのは、アルバニアに住む総数4〜5万人のマケドニア人である。誰であれ他人をさげすむ権利などない。そんなことは、アルバニア人にとっても許すべからざる悪癖の一つなのだが、ことこういうことになると或る種不思議なものがアルバニア人にはたらきかけるのかも知れない。或る時期にはオスマン朝の植民地帝国を統治したこともあるこの「鷲の子孫達」の現代国家で、軽蔑される「根なし草」達が上層部において常に重要な地位を占めている。通例、政治局の4分の1、いやおそらく3分の1が「根なし草」かワラキア人である。思えば、解放後エンヴェル・ホヂャに次ぐナンバー2となった悪名高きコチ・ヅォヅェもまた「根なし草」だった。(彼は死刑になる前、獄中でこう言ったそうだ。『お前達は、私がアルバニアを愛していないと非難している。だがアルバニアを愛するいわれなど私にはない。私は、ブルガリア人だ!』)つまりこうした関係が成り立っているのなら、かの諸事情も決して偶然によるものではなかったということになる。コミンテルンやエンヴェル・ホヂャによって選ばれた「根なし草」やワラキア人が共産主義者の指導部の意向にぴったり合っていたのは、彼らがアルバニア民族とつながりを持たず、それ故アルバニア民族に何らの共感も持っていなかったからなのだ。彼らが「容赦なくやれ!」と言われるのも当然だろう。だから彼らは怖気づくこともなく、民族の基盤も、歴史も、人格も何もかも破壊し、誇り高いアルバニア人に損失を与えようと躍起になろうとする。そしてその躍起さを成すものは、かつて自分達に加えられた受難への報復、意趣返し、下層にある者としての劣等感なのだ。
 人種や国籍の問題を気にするのは政治でなく結婚に関する話の時だけ、というアルバニア人だから、こうしたことにはほとんど思い至らない。だがこれこそ、アルバニア人にとって高くつく無関心の一つなのである。
 もう一人の忌まわしい人物ムホ・アスラニは、昔は協同組合の自動車工、今は政治局員である。彼もまたデクエヤル国連総長を罵倒したが、その罵り方はどんな酔っ払い修理工でもうらやむほどだった。
 外賓に対する非難の合唱へ結集しているのがスィグリミ、そして政治局の保守派、つまりレンカ・チュコやプロコプ・ムラやスィモン・ステファニやヴァンジェル・チェラヴァといった無学で大馬鹿なワラキア人のやからだというのは果して偶然だろうか?
 (後日、7月事件の後の議長・知識人会談で、私は議長に語った。暴動に加わった人々の失望、それが始まったのは、高い地位にある人達がデクエヤルに対して毒づき出したまさにその時からなのだ、と。『それは初耳だ』と議長は答えたが、大抵の人はそんな言葉を信じなかった)
 独裁国家において最も憎むべきものの一つである待機の時期が、しばらく続いた。この空虚さをどうして埋めようか、考えつくのは容易でなかった。再度の引き締めか、それとも緊張緩和か。
 これら両者の側面に論拠を与えるような兆候はあった。夜間、警戒の中で科学アカデミーのスターリン像が撤去された。死刑執行人に失礼のないよう、私が申し入れていた聖職者ジョン・ブズクの像は設置されなかったし、また恐らくは私に失礼とならぬよう(!)、アカデミーが提案していたファン・ノリの像も置かれなかった。シュコダルでもスターリン像は撤去されたが、それは日中、クレーンで、それも注視の中で、であった。一つの小話(何もない土地に花を植え、種をまこうとする庭師に通りすがりの人が声をかけた『水をやるなよ、芽が出ると困るんだ』)が、多くの人を悲運に陥れてきた苦難の歴史に幕を下ろした。
 しかしこの像撤去は、後手に回った他のことがらと同じく、これまた遅きに失したものだった。そのため人々は納得しなかった。停滞がまたも定式化してしまった。けちな連中の感覚だ。ことを遅らせて時間を稼ごうという考えがあちこちを支配していた。アルバニアという国にあっては時計が止まってしまったかのようだった。
 こういう凝り固まった感覚を増長させたのは、均衡への欲求という、もう一つの執着心だった。像撤去との釣り合いをとるべく、また保守派を怒らせないようにということか、経済関係の代表団は全員散々な目に会い、何の得るところもなく帰国した(逆のことも言える。つまり代表団の惨めな帰国のあとに、これに喜んだ保守派を立腹せしめるべく像が撤去されたということだ)。ドイツやノルウェイとの協同による海洋石油の試掘調査、自動車道や国際空港、外国製品の販売店舗網や三百余りのファスト・フード店チェーンの建設など、あらゆる企画が御破算となった。
 相反する情報、発言等がこの図式を完璧なものにした。何らかの緊張緩和が為されたなどと考えてはいけない。むしろスィグリミは更に耳をそばだてていたのである。いわく、保守派はラミズ・アリアを屈服させた。ドイツ連邦共和国との関係は、フォト・チャミが訪問したせいで破綻した。いや関係回復を心から望んでいたのはフォト・チャミの方で、そのつながりを断ち切りに赴いたのは議長の悪しき相談役ソフォ・ラズリだったのだ。万事を指揮していたのはネヂミェ・ホヂャその人だ。いやそれは全然間違いだ、彼女には何の権限もないのであって、彼こそが指導部を真っ二つに引き裂いているのだ。で、彼の犬が毒を盛られたんだって?大したニュースじゃないだろう、犬の毒殺だなんて?犬やら毒やらが一体どうしたというんだ?その内私達はこんなことにも右往左往するのだろう。
 私とネヂミェ・ホヂャとの間に起きたいさかいは、こうした日々の雰囲気には典型的なやりとりだった。
 それはアルバニア民主戦線指導部の会議で、彼女が議長、私が副議長だった。会議は、彼女が年次総会へ向けて書いた報告を追認するところだった。おべんちゃらに満ちた討論2題に続いて、私の発言に移った。私は発言した。自分はこの報告に納得できない。何故ならこれは、国の民主化を支持した最近の中央委員会総会に何ら関心を寄せていないからである、と。
 私が理由を述べていると、彼女が興奮で声を震わせ割り込んできた。 「のちほどまたお話しますが、これだけは申し上げておきたいですね。失礼ながらイスマイル同志は、国内外の敵共と声を合わせてこの私を目のかたきにしていらっしゃる。まるで私が民主化にとって邪魔者であるかのように」
「そんなことは言っていない」私は抗議した。 「あなたは、はっきりそうおっしゃいました」
「そんなことは一つも言っていない。速記録を読まれたらどうですか」
 民主戦線指導部のメンバー25人は、国の中でも特に保守派の組織の一つだったが、その副議長が私だったのはまずかった。彼らは、初めて目のあたりにしたこの激しいやりとりを、あっけにとられた風で眺めていた。それは彼らにとって、さながら耐えがたい、不吉な、この世の終わりのような非難の応酬だった。おまけに彼女と私の2人はテーブルの上座で、それも隣り合っていたものだから、その位置関係はおよそ口論に似つかわしくなかった。
「まあいいでしょう、あなたのお邪魔になったのでしたら御勘弁いただくとして、どうぞお続け下さい」と彼女は言った。
 私は20分間、主に人権をめぐって語った。アルバニアにおける人権は、報道の言うこととは正反対に、またこの報告に書かれていることとも逆に、両足で踏みつけにされている、と私は率直に言った。民主戦線の副議長として私が受け取った告発状のこと、逮捕、暴行、越境者の射殺、警棒で殴られた跡を見せにやって来た人達のことを語った。「この告発状を御覧になりましたか?」私は民主戦線ティラナ地区の委員長に問いを向けた。
 議長は口をもごもごさせ「いいえ」と答えた。 「それはいけない。これに述べられているのは、あなた方のことを人々が信用していないということなのですよ」私は言った。
 最後に私は、これらのことを国家元首に告げた旨を語り、また指導部のメンバーが私の発言をどう思うか知りたいものだと述べた。
 話し終えた私は、指導部が怒り狂い、挑みかかってくるのを待ち受けていた。それも考えに入れていた私は、してみるとかなり冷酷である。指導部が攻撃してきたら辞任を申し出て、長らく私をうんざりさせてきたこの無理解にここで決着をつける心づもりだったのだ。
「それでは、同志諸君にお話しいただきましょうか」ネヂミェ・ホヂャが言った。
 ところが驚いたことに(そして彼女には一層の驚きだったのだが)、思った以上に沈黙が続いたので、とうとう彼女がみずからその沈黙を破ることになったのである。意外なことになった。次々に発言する指導部の面々は議長の報告を追認したが、また一方で「イスマイル同志はこうした問題に理解があり、その指摘は注目に値する」というものもあった。まさに時代の気分だ!妥協と、あいまいさと!
 若干のメンバーは、私と同意見であることを公言した。その中には中央委員会の宣伝部長もいた(この宣伝部長がメフメト・エレズィである。彼はこの勇気がもとで予想通りの高い代価を支払うことになり、数週間後に解任された。ただし処罰は受けなかった)。
 ネヂミェ・ホヂャは、彼らを鋭い眼差しで見つめていた。そして発言したが、誰もが驚いたことに(この会議は驚きの連続以外の何ものでもなかった)、彼女は、自分が書いた報告の誤りについて今や認めざるを得ない、と発言したのである。彼女は指導部に対して謝意を表明し、そしてこの私の指摘にも感謝の言葉を述べた。もっとも、彼女に対する私の言い方はよくないものだった、ということも付け加えられていた。
 かくして会議は終了した。私が加わった二度目にして最後の指導部、外国報道陣がかくも酷評した指導部による会議だった。
 数日後、ネヂミェ・ホヂャは私に、書き直した報告書を添えた手紙をくれた。手紙の中で彼女は誤解の件について詫びていたので、私も報告書を返送する際に「不適切な表現」があったことを謝罪しておいた。
 この論争はティラナでの反響を呼んだが、私は、相も変わらぬ均衡維持とやらのせいで何がしかの代償を支払うことになるのではないかという嫌な予感がしていた。そして、バランスをとらねばならない状況がやって来た。
 カフェに蔓延する噂は、状況を悪化させる以外の何ものでもなかった(大部分はスィグリミがみずから広めたものらしい)。いわく、何もかも手遅れだ。ラミズ・アリアはまた孤立している。いや、ラミズ・アリアは言われているような状態ではない。ネヂミェ・ホヂャが逮捕されたのだから。何だって、何とおめでたいことを!
 こうした矛盾の中の或るものは、夜中に壁に書かれたスローガンにも反映されていた。

 「ラミズ・アリアばんざい」

 体制反対派にも、擁護派にも利用されてきたこの文句が、正反対の言葉に書き換えられていたのだ。

 「ラミズ・アリアふんさい」

 目撃者の話では、「ばんざ…」の文字が書かれてある上に、それと同じ筆跡で斜線が引かれ、「ふんさい」に書き換えられていたというのである。

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