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ファトス・コンゴリ 『敗北者』

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 私の記憶のテープの最後はノイズの中にうずもれている。聞こえてくるノイズは時に叫び声であったり、時に犬の鳴き声であったり、時に死の悲鳴であったりする。私の耳の中は昼も夜もわんわんと鳴り響いていて、まるで蠅の大群が頭蓋骨の内部にいて、頭を破裂させようとでもしているようだ。だが私の頭は、それはどんな人間の頭の中でも同じようなものだが、最も高度に組織化された物質の部分を維持し保護しようとする自然の法則にのっとって徹頭徹尾、堅牢に構築されているのだ:つまり脳のことだが。そしてその脳の何処かの部屋に、記憶のテープが保管されている。その部屋には十五年、十六年、十七年、或いはそれ以上の年数の残滓が、更にそれから先の地を這うような単調な人生の沈殿物が、分厚く、べっとりとこびりついているのだ。
 だがしかし、時に叫び声であったり、時に犬の鳴き声であったり、時に死の悲鳴であったりするそのノイズが、記憶の部屋の奥から噴き出して、積もり積もった歳月の沈殿物をかき分け、表面へと溢れ出るのだ。そんな人生の、ごく最近の部分の出来事が記憶のテープに記録されている。それはこの町の、己の死と隣り合わせの単調さの溜まった中に活気をもたらすような段階に至る数日間のことであった。
 今となっては出来事の内容まではっきり憶えているわけではない。最初に何が起こり、その後に何が起こったのか、互いの間に何らかの繋がりがあるのか、それとも偶然の巡り合わせだったのかもわからない。確実に言えることは一つだけだ:私にはそれを予め食い止めるだけの力が無かった。自分自身の不可解な行動を食い止めることはできたかも知れないが、それに続く出来事には関係のないことだった。
 実際、指定された時刻に私は、あの閣僚の息子にして党員取調官の、灰色の眼の男が待つ作家同盟を訪れた。私の訪問に意味などなかった。私が作家同盟を訪れたことに意味があったとすれば、それは私がナイフを持参していった場合の話だろう、何故なら私は彼を殺すという、ただそれだけの為に彼と会うことを承知したのだから。それなのに私は、ナイフも無しにそこへ行ったのだ、そして作家同盟の鉄製の扉を開けた時、私は灰色の眼の男が来ているのだろうかと好奇心に駆られてホールの中を見回すことさえしなかった。
 私は、謎を解くこともないままくるりと背を向け、もと来た道へと引き返した。その時、私は人生における重要な発見をしたのだ:自分にはナイフを使うような勇気がない。自殺するような勇気もなければ、他人の命を消すような勇気もない。そんな自分の臆病さを私は、恐らく灰色の眼の男が私への親交を求め待っているであろう、作家同盟の鉄製の扉から遠ざかりながら感じていた。そして私は羞恥を覚えた。そこからこうして自分が生と死の狭間で、生においてでもなく、死においてでもなく、生きるでもなく、死ぬでもなくもがきあがくのを感じていた。毒のしたたる過去へと引き戻されつつ、自分にとってはおよそどうでもいい未来へと引き返しつつ、希望を失い名もなき存在に貶められていく[訳註:逐語訳「希望のない匿名性の中に敗北した」]のだった。
 作家同盟の鉄製の扉から遠ざかりながら私は、自分がこの生に留まり続けるのは、そこから逃れることが不可能だからなのだという思いがますます確かなものになっていくのを感じていた。自分自身の未熟さ。恐らくそれは、この町のぬかるみの狭間で、凡庸と卑俗の中で生き延びて、他人の苦痛や悲劇を耐え忍び、断罪されつつやり過ごしながら歳月を重ねていくことなのだと言えるだろう。死は永遠の眠りだ。生きながらの死は永遠の拷問だ。

 最初に起こったのは、ドリの逮捕だった。少なくとも、それだけは憶えている。ドリが逮捕される前に自分がラボをクビになっていたのか、それともドリが逮捕された後で、あの鉄格子の事務所に閉じ込められた男[訳註:13章参照]に呼び出されて解雇を告げられたのか、それははっきりしない。そんなことはどうでもいい、最初に起こったのはドリの逮捕だったということだ。
 それは冬のことで、バーはすっかり満員だった。その頃私はドリが技師たちとバーに来ているのを何度か見かけたものだった。ドリは婚約者とうまくいっておらず、憂鬱そうに飲んでいた。ドリが逮捕されたのは、彼が技術委員会の会議を出た時のことだったが、彼は皆の見ている前で「人民の名において君を逮捕する」と書状を読み上げられつつ、手錠を掛けられたのだった。それは私にも聞こえていた。だが私自身は何一つ見なかった、ドリも、敗北者たるその笑みさえも見ていなかった。運命とは皮肉なもので、私はいつぞやの、酔っ払い、大声で不潔な言葉を叫んで彼に喰らった拳のこと[訳註:15章参照]を思い出していた。ドリは私と一緒に穴蔵[訳註:刑務所の隠喩]へ付き合わされるのが嫌だったから、私をぶん殴ったのだろう。それが今はどうだ。あの慎重なドリが自らを穴蔵送りにした、まるであの眠そうな顔の、白い作業帽をかぶったラボの女性助手[訳註:15章参照]が私に向かって注意しろと予告していた、もしあなたも連中のリストに載せられているなら長くはもたない[訳註:原文は「鶏ほどの寿命もない」]わよという、その言葉が現実になったかのようだ。どうやらドリはそのリストに載っていたらしい。私には理由の見当がつかなかった。彼が閉ざされた扉の向こうの法廷で、いつ裁かれたのか、それから十年が経ってぼろぼろになった彼が出獄してきた時でさえもわからなかったし、我々は金さえあればそのたび一緒に飲んでいたが、彼は過去のことを思い出したくもないようだった。
 それから起こったのは、私があの鉄格子の事務所の男に呼び出されたことだった。彼は咳込み、身体をぼりぼり掻きながら[訳註:原語u skërmitには「歯ぎしりする」の意味もあるが、ここでは英語版に倣った。一方英語版には「舌打ちする(smack lip)」という一節があるが、アルバニア語版に相当する語句は無い]、私を頭のてっぺんからつま先までじろじろと見た。彼は私に、私が三日連続で欠勤したので、就業規則により解雇すると告げた。この場合、恐らくそれは正当なものだったのだろう、私は自分が何日前からラボに姿を現さなくなっていたのかも憶えていなかった。朝は家を出るのだったが、最初に寄るのはあのバーで、そこに張り付いていた、もちろん交通手段が無かったからではない・・・飲んで、飲んで、ただ飲んでいた。飲み飽きることがなかった。朝から晩までだ。だから、鉄格子の部屋に閉じ込められたあの男が言い渡したことについて、私が疑義を差し挟む余地は無かった。たぶん私が欠勤したのは、就業規則を適用するのに必要な三日間どころではなく、もっとずっと長かったのだろう。だから私もあれこれと文句を言わなかった。その場を立ち去ったが、完全な喪失感を抱えたまま、何処へと行くあてもなかった。私の足跡をつけてくるのは死を運ぶあの虎で、私に飛びかかり、押さえつけ、ひと呑みにしようと待ち構えていた。私は歩きながら奇跡が起こるのを待っていた、背中に虎の爪が喰い込み、その牙が私の咽喉元にかじりつき、自分に終わりが訪れるのを。だがそれはやって来なかった。私の終わりはどうしたわけか、やって来ることはなかった。それはきっと何処かに隠れていて、私が洞穴のようなその口の前に、まるで断崖に立つ盲人のごとくやって来て、そうして自らの歩みでそこへ滑り落ちてしまうまで、私の苦痛を盗み見ているのだ。私はそんな自分の終わりを具体的な形で思い浮かべていた、例えば虎に噛みつかれて、人生の断崖絶壁で引き裂かれ、運命の歯車に押し潰される様を。自分がそんな最後をずっと前から思い浮かべていたとは知らなかった。何故と言って、もっと別な、もっと苦痛に満ちた最後が私の運命に用意されているなどということが、果たしてあるだろうか?
 今ならこう言える。あの時、我が身の転落と、灰色の眼の男に会いに行かなかったことの間には何の繋がりもなかったのだ。ドリが逮捕された後、三日だろうと四日だろうと、或いは五日だろうと、ぐでんぐでんに酔い潰れていれば、放り出されても当然だ。それが灰色の眼の男のせいだなどとは考えもしなかった。ヂョダのせいだとも思わなかった。鉄格子の部屋に閉じ込められた男のせいだとも思わなかった。彼らは私の転落における、真の共犯者だった。灰色の眼の男は私からソニャを引き離した。ヂョダは私からヴィルマを隠した。鉄格子の男は、私の手元に勤務記録簿を残すのと引き換えに、その他全てを奪い去った。その記録簿をどうしたらいいか分からなかったので、私は立ち去り際に、鉄格子越しにそれを床へ放り投げていった。
 それから数日後、町にある軍支部から派遣された特別配達員がアパートのドアをノックした。私は家にいたが半分酔い潰れ、半分腑抜けのようになっていた。特別配達員は私に、署名され封緘された公式の文書を手渡した。私も[訳註:受け取りに]サインした。私は祖国からの呼び出しを受けたのだ。祖国は私を必要としていた。それが数日後のことだった、鉄格子の部屋の事務所を追い出されてから、ほんの数日後のことだった。

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 あと少しだ。それで記憶のテープも終わる。そこからは全てトンネルの暗闇で、先に進めば進むほど[訳註:この文と次の文の主語は2人称単数]蝙蝠たちが顔と言わず身体と言わずぶつかってくるのだ。その漆黒のトンネルにどうやって入ったのかも、何処からどうやって抜け出すのかも、まるで分からない。テープの最後の部分はノイズだらけで、何処かしら深いところで鳴り響き、地の奥底には犬の吠える声が、まるで真っ暗なトンネルを抜ける盲目の隊商のように、その場に留まっている、そして死者達の叫びのポリフォニーの中に、ヴィルマの悲鳴が上がる。それは痛み故の悲鳴であり、無垢なる子の上げる悲鳴なのだ。
 その夏、私は世界から取り残されていた。祖国は私を呼び、私はそれに応えたが、銃器の代わりに私に与えられたのはシャベルだった。やがて私のシャベルはつるはしに置き換わり、それから鍬になり、更に様々な農具類へと移り変わっていった。どうやら祖国は私に銃器の必要さえ見出していなかったらしい。私の血を流す必要さえも。私は日々、農村のNBU(軍農業公社)で腐り果てていくのだった。そこでは鶏を飼っていた。羊を飼っていた。豚も飼っていた。そしてその間も私は腐り続けていた。恐らくその為だろう、いわば進みゆく私の腐敗の為に、私の血は祖国にとって無価値なものになっていた。もはや認めざるを得ない、祖国において、私に属するものなど何もないのではないか、石も、砂粒も、母も、父も。それらは誰か他の人のものだ、言ってみればNBUの、痩せ細った首に肉付きのよい顔をして、のみならず尻にピストルを携えていて、その銃身をジャケットから覗かせている、あの人民委員のものなのだ。自分のような、銃を持たない兵士達は誰であれ、彼からすれば、角を生やした悪魔であり[訳註:英語版では何故か「角の無い悪魔」と訳されている]、それはあの砕石場の楽観主義的な悪魔ども[訳註:11章参照]よりもたちの悪い存在だった。自分達からすれば彼は小ゼウス[訳註:11章参照]でこそなかったが神であり、毎日、目を見開いている時も、夜の闇の中でも、自分達が罪人であり、他のアルバニア人の血とは別な血が流れている劣等人種であるこを思い知らされたし、一日に六回ある食事の際には、食べる前と食べた後に彼に向かって感謝を捧げなければならず、こうべを垂れ、口を閉じ、耳をそばだてていなければならなかった。もっとも彼の方では何の関心も持っていなかった。
[訳註:以上、要するに主人公は当局の「懲罰的措置」ないしは「労働矯正」の為に農村送りにされたのである]
 その電報が届いたのは午後のことだった。暑い午後で、豚舎からは息も詰まりそうな匂いが漂っていた。私は一本のポプラの木陰に横たわり、頭の中はまるで呆けた家畜のように空っぽだったが、その時、誰かが小屋の並んでいる方から私を呼んだ。嘲笑を伴ったその呼び声は何度か繰り返されて、それでやっと私は電報のことを言われているのだと気が付いた。私の倦みきった頭脳はどうにかその知らせを理解し、どうにか解きほぐした。誰かが苦難の末に一通の電報を、私がいるこのどん底の地へと送り届けてきたのだ、それでも地球は回っているのだということを知らせでもするかのように。私は[訳註:受け取りに]サインして、薄くかすれた活字のある、不可解な紙切れを手に取った。そこにはヴィルマの悲鳴が封じ込められていた[訳註:原語qe ndrydhurは通常「脱臼した、捻挫した」の意味だが、「押し潰された」の意味でも用いる]。電報を開いた途端、ヴィルマの悲鳴が破裂したように砕け散った。
「ヴィルマ シス ソウギ アス14ジ ルル」
私はその電報をポケットに突っ込んだ。そしてポプラの木陰に戻り、再び横たわった。
「ヴィルマが死んだ」 私はひとりごちた。葬式は、明日十四時に行われる。ルルがそう言っている、そしてルルに嘘をつくような癖は無い。
 私は両掌で顔を覆った。掌が濡れていた。痺れきった私の頭脳でも、ヴィルマが死んだという、その知らせの意味だけは理解できた。だが痺れきった私の頭脳では、分析を行い、問いを展開できる状況にはなかった。どうして死んだ?どんな状況で?私の頭脳に出来るのは、要するに、あの天使のような存在が何処か別の場所に行ってしまった、彼女は彼女本来の場所である天国へ慌ただしく去ってしまった、という結論に辿り着くことだけだった。この町の、悪魔どものいるこの地獄は彼女の世界ではなかったし、町も彼女を引き留められなかったのだ。
「ヴィルマが死んだ」
私は両掌で顔を覆ったまま、つぶやいた。両掌はぐっしょりと濡れていた。
 上の連中に事情を説明して休暇を願い出るのは、私にはやり過ぎであるように思われた。ヴィルマの死という秘め事を、彼らと共有することが意味のあることとは思えなかったからというだけではない。彼らはすぐさま私に、ヴィルマと何があったのか訊いてくるだろうが、私には、彼らを充分に納得させ、休暇を取れるようなしっかりした回答が出来そうもなかった。
 私はこっそり持ち場を離れると、畑を囲む柵沿いの細い道を歩き、そこから、以前は小さな川が流れていたと思しき深く掘られた溝へと身を潜め、そこから更に進んで、農村部とその地区の中心部を結ぶ、砂ぼこりにまみれた穴だらけの、通り過ぎる自動車さえも稀な道路へと出た。太陽は太陽にあらず、それは私の頭上で赤く灼けている鉄だった。もしも自分がとち狂って上の連中に休暇を願い出ていたとしたら、彼らはどんな問いを投げかけ、自分に休暇を与えまいとしただろうか。そいつは何者だ?と訊いてくるだろうな。お前の母親か?姉妹か?叔母か?それとも祖母か?それとも・・・そして私は何ひとつ答えられなかっただろう。自分にとってヴィルマが何なのか、私は自分でも分かっていなかったのだ。私はヴィルマのことを知りたいと思わなかったし、彼女のことを知るだけの時間もなかったし、知ることもできなかった。頭上で真っ赤に灼ける鉄の下を歩きながら私は悪夢じみた感覚をおぼえていた。
「神よ」私はつぶやいた。「彼女は俺の為にあんたが用意してくれた幸運だったのか、俺にそれが見えなかったのか?」
背筋にぞっとするものを感じた。
「神よ」私は狂気に憑かれたように叫んだ。
「彼女は俺にとって死という幸運だったのか、だから今こうして、あんたが俺にそのことを示しているってことなのか?」 私の叫びは消え、辺りに再び荒涼とした静寂が戻ってきた、そして私は道を進んだが、この悪夢は疑いようもなく、頭上で真っ赤に灼ける鉄のせいだと考えていた。
 最初は徒歩で、それから車に乗り、それから列車に乗り、監視兵の目を盗みつつ、私が町に辿り着いたのは深夜だった。
[訳註:恐らく公共交通機関ではないし、自家用車でもない(既述したように、労働党時代のアルバニアでは自動車の私有が認められていなかった)。工場などの運搬用車輌をヒッチハイクしたと読むべし。また当時、一般市民の都市間の移動も完全に自由というわけではなかった]
町は暗闇に包まれ、照明は何処も消えていた。恐らく[訳註:電力不足による]停電だろう。工場の煙突の先で火花がちかちかと閃光を放ち、空へと吸い込まれていた。一軒だけ灯りがついている家があった、ヂョダの家だ。ほの暗い光が揺らめいていたが、それは蝋燭の光だった。私は松の樹の幹に身をもたせかけた。私の足が自ら私を、この場所まで、この子供時代からある、柵のすぐ近くの松の樹まで引っ張ってきたのだ。ちらちらまたたく蝋燭のように、震える、押し殺したような泣き声が聞こえた。急に灯りがつき、自己防衛本能で私は木の幹の背後に身を隠したが、それも無駄な行為で、一人寂しく取り残された私は、忘れ去られた影のようだった。玄関に姿を現した集団の中にルルの姿が見えた、彼らは足早に階段を下り、押し黙ったまま庭を通り抜けると、鉄柵の門のところで散り散りになった。私は額を汗でぐっしょりと濡らしながら、そっと忍び寄った。ルルは一団と別れると、私の知らない誰かと連れ立って、曲がり角へと消えた。私も、これ以上その場にいて何をしたらいいか分からなくなった。私は考え迷っていた。見知らぬ男は、[訳註:ルルの住むアパートの]入口の階段までルルを送って行った。そこでルルとその男は別れた。
 建物の陰に潜んで、私はその見知らぬ男がいなくなるのを待った。一方、ルルはアパートの中へと入って行った。私がドアをノックしても、彼女の返事は無かった。私がしつこくノックし続けると、ドアの向こう側に近付く微かな足音と、「どなた?」と訊ねる、小さく、不安そうな声が聞こえた。私が自分のことを告げるとドアが開き、ルルは声を上げて私の胸元に飛び込んだ。背後のドアを閉めると、ルルは顔を上げ、私も彼女の青ざめた顔を見つめた。
「毒を飲んだの」
ルルは泣きながら言った。
「私は気付かなかった、私には彼女を救うことができなかった。だってそんなこと、私にわかるわけないじゃないの」
 ルルは震えていた。まるで死人のようだった。私はルルの頭を両掌で包み、胸に抱き寄せて髪を撫でた。
「何があったんだ?」彼女の耳元に顔を寄せ、私は訊ねた。ルルは私から身を離した。彼女の身体はずっと震えているままだった、全身が震えていた。彼女は無言でヂェズヴェをストーヴに置き、コーヒーを沸かした。私がコーヒーを飲みたいのか飲みたくないのかも訊かず、私が家を訪ねる度そうしてきたように、ただヂェズヴェを置いただけだった。私はテーブルの傍のソファに腰を下ろした。私がコーヒーを飲み終わるまでルルは黙ったまま、私と向かい合う形で座っていた。私がコーヒーを飲み終わると、ルルは立ち上がった。
「ヴィルマはね」ルルの声は氷のようだった。
「毒を飲んだの、思い出せないけど、気分が悪くなるような名前で、たしかヴィルマのお父さんが葡萄の樹に撒いていたわ。ヴィルマは自分の部屋に鍵をかけて閉じこもって、それで家の人が呻き声がするから何かあったんだって気が付いて、ドアを壊したんだけど、でも手遅れだった。病院で亡くなったわ」
 その時、私は真っ青になっていたに違いない、吐き気を催したが、しかし、ついさっき飲んだコーヒー以外に吐くものも無かった。
「ヴィルマの苦悶は、マクスの苦悶と似ていたのだろうな」と思った。そんな考えを私はもう少しでルルに話しそうだった。マクスの件をルルは知らなかったし、私も話さなかった。ルルがマクスの件を知っているはずがなかった。だがヴィルマのことは何でも知っているルルだから、ひょっとしたらマクスのことも知っているのかも知れない、だから私のことも突き刺すような視線で見つめているのだ、まるで犯罪者を前にしているかのように。私は自分が犯罪者ではないことを、かつてマクスを毒殺したのが私自身ではなく、私が手を下したわけではないことを説明したい気持ちだった。マクスを毒殺したのはシェリフというジプシーで、野犬駆除のため茹でた羊の肝臓の切れ端に毒を混ぜたものを使ったのだ、マクスは野犬ではなかったのに。私はヴィルマに何の抗するところもなかった、ただヴィルマの父親に、我が幼年期の番人に復讐したかっただけなのだ。ヴィルマに対して私は何一つ抗するところがなかった、何も、何一つとして。
 恐るべき疑念に私は喉元を摑まれた。ルルが挑発するような沈黙で私の傍らにいる間、私の痺れ切った頭はやっとのことで一つの問いに辿り着いた。何故ヴィルマは毒を飲んだのだ?彼女のような存在に、責めを負うようなことなどあり得ないし、そそぐべき罪などないはずだ。だったら何故だ、何故だ!私は顔を上げ、窓際で暗闇に視線を投げかけているルルを見た。
「ルル」私の声はかすれていた。
「何があった・・・?ヴィルマにはそんなことをする理由がない。何だって彼女が自分で毒を飲んだりしなきゃならなかった?ルル、俺は一日かけてここまで来たんだ、もうへとへとなんだ、最初に会ったのが君で・・・」
 ルルはこめかみを押さえた。真っ青な顔が更に血の気を失った。激しくしゃくり上げ始めて、しばらく話が出来る状態ではなかった。
「ヴィルマはレイプされたのよ」ようやくルルは口を開いた。それは単なる叫びではなかった。引き裂くような叫びは、彼方から槍のように投げつけられ、その槍は私の胸に突き刺さった。私は息を呑んだ。
「ヴィルマはレイプされたのよ」私の胸をえぐろうとでもするように、ルルは繰り返した。
「四日前に、彼女の家で、彼女が毒を飲んだその部屋でよ。犯人にはチャンスがあった、彼女を見張って、家の人達がいなくなるのを待っていたのよ。みんな結婚式に行ってしまって、ヴィルマだけが行かなかった。何処か遠くの村の、従姉妹の結婚式よ。ヴィルマ以外みんな出かけたの。どうして彼女だけ行かなかったのかは分からないけど、たぶんそれが彼女の不運だったのね。レイプされたのは日曜日よ。あんな優しい、何の罪もない彼女を、誰も助けに行ってあげられなかった、彼女がレイプされた時も、毒を飲んだ時も。狼は羊を手にかけた。ファグが・・・ファグが、ヴィルマをレイプしたのよ」
 私は飛び上がった。私の内側に叫び声が湧き上がった。壁に自分の頭をぶつけなければ、叫びは私の外へと飛び出して、アパートを、街中を叩き起こしていただろう。そして私は壁に向かい、血を流し、目はかすんでいた。叫びは私自身の中を駆け巡った。
「あなたの頭が割れたって、何も変わりゃしないわよ」まるで私が頭を割ってしまえばいいと本気で思ってでもいるように、ルルが言った。
「ヴィルマは生き返らないわ、もういないのよ、あなたは壁に好きなだけ頭をぶつけてればいいんだわ。どうしてあなたに電報を送ってしまったのかしら?ああ神様、どうしてあなたなんかに電報を送ってしまったのかしら?彼女の為に何もしなかったあなたに、彼女を見ようともしなかったあなたに、気持ちをわかってあげようともしなかったあなたに?壁に頭でも何でも何千回でもぶつけてなさいよ、起きたことはもう戻らないわ。呼ばれて一緒にいた彼女の、その彼女の何をあなたは憶えているの?あなたは何も分かってなかった、あばずれ女と連れ立って歩くしか能の無いごろつきの、馬鹿どもの酔っ払いどもみたいな態度で彼女に接していたくせに?ヴィルマはあなたと一緒なら世界の果てまで行くつもりでいたのよ。なのにあなたときたら壁に頭をぶつけてるだけ。ぶつけてなさいよ、ヴィルマはもう生き返らないわ」
 ルルは再び激しくしゃくり上げた。私には、彼女の中に溜まっていた憤怒を発散するままにさせる以外に為す術がなかった。ルルが私にそれをぶつけ、私に爪を立ててきたとしても、私は驚かなかっただろう。泣きながらルルは私の傍に来て
「気にしないで」と言った。
「あなたのせいじゃないの。あなたがヴィルマにもっと違う態度をとっていたって、あなたたちがうまくいくことなんてなかったと思う。あなたのせいでもないし、彼女のせいでもないの。あなたたちがお互い分かり合えたって、ヂョダはあなたたちが一緒にいることなんか許さなかったと思う。ヴィルマもそれは分かっていたのよ。分かっていたのはファグも、あの狼も同じよ。彼女があの男にどれだけ苦しめられていたか、私にだけは分かるの。あいつはヴィルマにひと時の平穏も与えないで、追い回し、見張っていたのよ、昼も夜も。
[訳註:次の文は英語版のみで、アルバニア語版には欠けている;「あのけだものはヴィルマが歩いた地面にキスしてまわって、ヴィルマに想像できる限りのありとあらゆる犯罪をやってのけたわ。あなたがヴィルマに会いにやって来た日に私達をつけ回して、私のことを殴ったのはあの男の手下たちよ。あなたは知らないでしょうけど、あいつらがあなたの部署を変えさせて、軍隊送りにしたのよ。」]
 ヴィルマのことで後先見えなくなった[訳註:原語verbëriの原義は「盲目、めくら」]あの男は、ヴィルマと結婚させて欲しいとヂョダに頼みにいった[訳註:原文は「ヴィルマの手を父親に求めに行った」]の。ヂョダはあの男を、奴隷主が奴隷にするように扱ったわ。娘と結婚したいなら、お前を好きなだけ殴らせろ[訳註:原文は「娘を妻にできるのは、鏡がなくてもお前の耳たぶが見えるようにしてからだ」]、自分に娘が四十人いたってお前には一人もやるもんか、そう言ったのよ。ヂョダはファグのことを分かっていなかった・・・今頃は気が狂ったみたいになって、髪の毛を引きむしって、大声で泣きわめいてるわ。何が起こったか理解したら、あの人は銃を手にして街中へ出て行って、ファグを探して回るでしょうね、バーに、酒場に、工場に、ファグの家まで全て探し回って、そして見つけたら、殺してしまったでしょうね。でも警察の方が先に気付いてたわ。ファグはね、二日前に逮捕されたの、捕まったのはティラナよ、ティラナの何処に隠れていたかは分からないけど。今日、他に警護役の男も二人逮捕されたわ、誰かは私も知らないけど」
 ルルの声が途切れた。私に話すことがもうなかったからかも知れないし、単にその時の私の表情が半ば血走っていた事実に気付いたせいかも知れない。しばらくは身じろぎもしなかったが
「あなたが壁に頭ぶつけることなんかないのよ」とつぶやいた。
「割れるのは壁じゃなくて、あなたの頭よ」
そう言ってルルは隣の部屋へ行くと、アルコールの入った小瓶と、脱脂綿を持って戻って来た。
「私の言うことを聞いてくれるなら」彼女は最後に言った。
「今夜はここに泊まってちょうだい、ソファで寝るといいわ。あなたそのままじゃ、家の人たちがびっくりするわよ」
彼女の言う通りだと私は思った。頭のことも、壁のことも。頭についての話も、壁についての話も。壁に頭なんかぶつけたってしょうがない、みんなそう言うし、納得もするだろう。逆のことをそそのかそうとする者がいたとしても、たちまち強固な壁の論理に説き伏せられてしまうだろう。どうしても納得しない者は、頭を割るだろう。
「君の言う通りだ」私はルルに言った。
「俺が壁に頭をぶつけたって意味がない、俺にだってそのくらいのことは分かるさ。壁はぴくりとも動かない。それどころか割れるのは俺の頭だ。それにしても何時までなんだ、ルル、何時まで俺たちは壁に頭をぶつけてなきゃならないんだ?」
「頭をぶつけたって壁は壊れないってことがわかるまでよ」 ルルにそう返されて、私は立ち上がった。もうここにはいられない。これ以上いたら、たぶん壁に頭をぶつけ続けていそうだった。

 火星人が現れたとしても、両親はここまで驚かなかっただろう。私が帰って来るとは予想もしていなかったし、それに、寝入っているところを私に起こされたのだから。真夜中に叩き起こされてそれは何倍にもひどいものになっていた。
「心配するなよ」私は言った。
「警察から戻って来たんじゃないから」
落ち着きを取り戻した両親は[訳註:英語版では「幾多の試練を乗り越えてきた両親は」]私に何も訊かなかった。何であれ、私が健在であればそれで充分だったのだ、頭の傷や血まみれのシャツなど大したことではなかった。両親はどうやら、私の不意の帰宅の理由に感づいたらしく、翌日の葬儀についてくどくどと説明しようとしてきた。私はその流れをやんわりと止めた。私の神経はひどく昂っていて、自制心を保とうと努力するのもしんどいことのように思われた。父は寝室に戻った。母は私に何か食べたいかと訊いてきた。何も食べたくないと私は答えた、ただ、風呂を使いたいだけだと答えた。母は水の入ったたらい[訳註:原語kazanはトルコ語kazanに由来するバルカンの共通単語で、大型の湯沸かしのようなものも指すようだが、ここではおそらく大きめの鍋か金だらいのようなもの]を石油ストーヴの上に置いた。それから寝室に戻ったが、それは私がそうするように頼んだからだった。母は寝室に戻る前に私の傍まで来て、不思議そうな顔で私を見た。そして手を伸ばし、私の頭を抱きかかえて自分の胸元に押し付けた。意味も分からぬまま、私は母のするままにさせた。それは子供時代以来すっかり忘れていたしぐさだった。
「何日か前に」母は言った。
「お前のズボンを洗おうと思ったんだよ、あのチャックのついたズボンを。隅っこの方にゴミが入っててね。後ろのポケットに封筒があったよ。お前の部屋の、テーブル[訳註:原語komodiはベッド脇に置く小型のナイトテーブル]の上に置いといたからね」
 母はくるりと背を向け、私は廊下に立ったままだった。母が口にしたた封筒の謎にもとらわれていた。封筒というからには、中には手紙があるはずだ。私には、それが誰からの手紙なのか皆目見当もつかなかったし、そんな手紙が入った封筒がズボンの後ろのポケットにあったということにも心当たりがなかった。それは確かに部屋のテーブルの上にあった。封筒は開いていた、たぶん母も手紙を読んだだろう。そして恐らく、父も。何故なら手紙の入った封筒はずっとテーブルの上にあったし、父とてもその手紙を、それも自分よりも先に母が読んでいた手紙を、読むまいとしたところで誘惑には抗しきれなかっただろうからだ。
『あなたは何も分かっていない。これからも何ひとつ分からない。昨日は傷つけるようなことを言ってごめんなさい。あなたを傷つけるつもりじゃなかったのに。あなたがあんなに傷つくなんて、思ってもみなかった。もう二度と会えないような、何だか嫌な予感がする。でもつまらない予感ね、明日になればまたラボで会えるのに、二人の間にはいつも通りルルもいるのに。ああ神様、私たちの人生は何て無意味なの、何てつまらない人生なの。ごめんなさい。V.』
 私は手紙を手に立ち尽くしていた。私の頭脳はこの手紙がどういう経緯で私のもとに辿り着いたかを探ることさえ出来なくなっていた。誰が送ってきた手紙なのか、それは「V」の字からすれば疑いようもなかったのに。疑いようもない。風呂を使っている間も、手紙の中の言葉が私に引っかかったままだった。そうしていると、猛烈に飲みたい欲求に襲われた。つま先は台所へと向かい、私は食器棚を開けた。油の入った何本かの瓶に隠れて、コニャックの瓶が一本、封を切らないままそこにあった。私はそれを手に取った。グラスも手に取った。自分の部屋に戻りながら、もしこの瓶が見つからなかったら、今夜は頭がおかしくなっていただろうなと思った。最初の一杯はひと息に飲み干した。二杯目もだった。アルコールの熱気が血中に浸潤し、大脳皮質に襲いかかった。多少は気分がましになってから、私はもう一度手紙を読んだ。傷つけた、とヴィルマが言うのは何のことで、いつ私が傷つけられたのだろう?私はもう二杯を立て続けにあおった。それに、私には何も分からない、とは何のことで、どうしてこれからも何ひとつ分からないのだろう?
「畜生め」私は自問した。そして更に二杯をあおったが、そうしている内、徐々にではあるが、事の次第がはっきり見えてきた。
「そういうことか」私は思った。
「ヴィルマは俺のことを不完全な存在だと言いたかったんだ、俺には何ひとつ成し遂げることが出来ない、そう言いたかったんだ。俺は全くの未熟者だ、生きることも、愛することも。何故といって恐らく、俺は生きるすべも、死ぬすべさえも知らないのだから」
「だがどうやって私のところまで来たのだろう、この謎めいた手紙は?」私はつぶやいたが、そこで『嫌な予感がする』のところに目がとまった。
「まんざら予感でもなかったな」私は思った。
「俺たちはもう二度と会えないんだ。だが何時からだろう?」
その問いは、まるで重い荷物を担いだように私にのしかかってきた。答えが出ないでいると、荷物の重みは増し、記憶のぬかるみの中にずぶずぶと嵌まり、溺れていくのだった。瓶を最後まで空けた時、ようやく、私の頭の中を覆っていたものが解き放たれ、真っ暗な部屋の中に一条の光が差し込むように輝きを放ち出した。
「エウレーカ」喜びの余り私は不意にそう叫んだ[訳註:原文でも“Eureka!”と書かれている。ちなみに正しい古典ギリシア語の発音はヘウレーカ(εὕρηκα)。]、余りの喜びで私の両眼には涙が溢れていた。私の肩にきつく喰い込んでいた荷物の紐がほどけ、私は息を吸い込んだ。手紙を持ってきたのはあの少年だ、あのバーで、私が飲んでいた時だ。伝令のヘルメスだ[訳註:15章冒頭に登場した少年のこと]
 あの時からヴィルマとは会っていなかったのだ。そして手紙のことも忘れていた。他の何もかもと同じように、すっかり忘れていた。それらは過去に関わることだった、もはやどうでもいい。この私もろとも。

 ヴィルマの葬儀は翌日、十四時に行われた、ルルが連絡してきた通りだった。その日私はずっと家から出なかった。いつもとは違い、ひと晩でコニャックの瓶を空にして、朝になって起こしに来ても布団もかぶらずベッドで眠り込み、酔いも醒めないままでいる私を見た母は、無言のまま店へ出かけ、コニャックをもう一本買ってくると、私に外に出ないでくれと頼んできた。私も外へは出ないと約束した。別にコニャックと引き換えだったわけではない。一晩中アルコールに溺れた[訳註:原語makthは本来「スイートクローバー」を指すが、中毒症状を起こすこともあるせいか口語では「悪夢」「麻痺」「朦朧」「酩酊」「人事不省」等、ろくな意味がない]私は、自分がしでかすかもしれない行動に対して責任が取れなかったのだ。だから外に出ないよう母に頼まれた時も、私ははっきりと約束したばかりか、感激の余り、涙まで流したほどだ。そして最初の数杯で私は深い酩酊の海へと泳ぎ出していた。最初に見えたのは、ルルのアパートで最後にヴィルマと会った時の記憶だった。それから彼女の流れるような髪に飛び込みたいと思ったこと。[訳註:英語版ではここに「それとも彼女の瞳の中だったろうか?」の一文があるが、アルバニア語原文にはない]彼女の肩に手をやり、背中から抱き締め、そこから彼女に平手打ちを喰らわせたい欲望と、唇を奪ってしまいたい欲望の只中にいたこと。だが私とヴィルマの間にはソニャがいて、私はソニャを飛び越えてヴィルマへと向かっていく勇気がなかった。するとヴィルマが悲鳴を上げた。彼女はベッドの上で、下着は引き裂かれ、唇はファグに噛みつかれ血まみれだった。処女の血が流れていた。羊小屋が狼どもに襲われた、夏の暑い夜だった。
 私が言う通りにしなかったことは、母にとって気にすることではなかったらしい。少なくとも、母は気にしていると分かるようなそぶりを見せなかった。それに私は馬鹿げた真似をしていざこざを起こすようなこともなかった。私は葬儀を遠くから目で追っていた。ヂョダは葬列の先頭を歩いていて、若者たちがヴィルマの遺体の入った棺を肩に担ぎ、ヂョダの家から墓場まで運んでいた。その殆どがファグの一味の者たちだった。ファグは警察の手に落ちた自分を幸せだと感じているに違いない。さもなければ一味の者たちがファグを八つ裂きにしていただろう。私はこっそり遠くから見ていた。最後の瞬間、若者たちがヴィルマの遺体の入った棺を紐で吊るして地中へ降ろし、墓堀人たちがそれを埋めてセメント板を置こうとしたまさにその時、ヂョダが髪を振り乱し咆哮を上げ、皆が怯える中、墓の中へと身を投げた。そしてようやくのことで引きずり出された。

1991年3月
「俺の居場所を探そうなんてしないでくれ」ドリはそう言った。
「分かるだろう、ここは別世界なんだ。俺たちはみんな別の世界に行ってしまったんだ」
 私の身体はぶるぶると震えた。ドアがきしむ音がして、母が頭をのぞかせた。
「入れよ」私は言った。
「まだ少しはラキがあるんなら、持ってきてくれないか」
 母は私の言う通りにしてくれた、しかもそれだけではなかった。ラキと一緒にコーヒーまで持ってきたのだ。他にまだ何か欲しいかと母が訊いてきたが、もういらないと私は返事した。母はドアのところに立ったまま、ずっと私から目を離さなかった。私が椅子に座るようにと言ったので、母は腰を下ろし、膝の上で両手を合わせた。
「町は空っぽよ」母がつぶやいた。
「みんな行ってしまった」
 私はコーヒーをすすりながら、ラキを飲んだ後のひどい頭痛がこれで少しは収まればいいのだがと願っていた。母は私が何も聞いていないことに気付いて、また繰り返した。
「みんな行ってしまった、若者も、女たちも、男たちも、子供たちも行ってしまった」
 私は顔を上げた。母の視線は私から離れないままだった
「私には分かってるよ、お前も行きたかったんだろう」母の目がそう言っていた。
「お前が行ってしまわなくて良かったよ。良かった・・・良かったよ!」
 私はもう母の視線に耐えきれなくなった。
「行ってしまった連中が何だよ?」私は問い返した。「知るもんか!」
「知ってるさ、お前は知ってるさ」母は私にそう返した。「みんな行ってしまった」
 それで私は思った、船がみんなを連れ去ってしまったのだと:ドリは二度目の女房と二人の子供と共に、ファグは十四年の獄中生活と共に、そして奴の一味の連中の殆ど全員と共に。
「きっとそうだ、ソニャも行ってしまった」
私は思った。
「大きくなった息子と一緒に。俺だけが残ってしまった、俺だけが。だが何故だ?」
 私は外へ出た。空はどんより垂れこめていた。町はまだまどろみの中をさまよっていた。墓地へ続く道に人影はなかった。その人影のない道を歩きながら、私は思った、きっとそうだ、この俺以外にもいるはずだ、去ってしまおうとしなかった者、或いは去ることのできなかった者たちがまだ他にもいるはずだと。私には放っておくことができなかった、彼女を冷たい墓の中に、忘れられたままに打ち捨てていくことができなかったのだ。ラディのことも、ヴィルマのことも。彼女たちを残して立ち去ることなど、私にはできなかった。
「そうでなければならない」私は思った。
「あの最後の瞬間に、ドリの幼い息子が俺の肩に小便を垂れ流したことなど、俺が出国者たちの船を降りたことと何の関係もない。たとえドリの幼い息子が小便を漏らさなかったとしても、俺は船を降りていただろう」
 墓地には霜が降りていた。私はヴィルマの墓が何処にあるのか知らなかったので、探すのに長い時間がかかった。ヴィルマの視線が、大理石の上から私に向けられていた:肩まで流れる髪をなびかせ、まるで生きているような彼女の写真がそこにあった[訳註:アルバニアの墓石には故人の顔写真が精密に彫り込まれることが多い]
「戻って来たよ」墓の前で屈みながら、私は言った。「やっと戻って来た」
 地面は冷たかった。かじかんだ指先で土を少しすくい取った。ヴィルマの瞳の中に私はラディを見た。かつてラディの瞳の中にヴィルマを見たように。
「奴らは行ってしまったよ」私は言った。
「俺はここに残る。永遠に、君と一緒だ」
 その時、足音がして、誰かが自分の背後に立つのを感じた。私の傍に突き出された鉄棒の先で、私にはそれが誰だか分かった。私は身じろぎもせず、墓の前に屈んだままじっとしていた。
「やれよ馬鹿野郎」私は言った。
「俺のことも別の世界に送ってくれよ。国を出た奴らが行った方じゃないぞ。あれも別世界だが、俺はあっちへは行きたくないんだ。あんたが手に持ってるそれで、俺をあっちの世界に送ってくれよ、あんたの娘がいるあの世界に。さあやれよ、この馬鹿野郎、やれよ・・・」
 鉄棒の先は私の傍に突き出されたままだった。それで私は顔を上げた。きちがいヂョダは真っ赤に血走った眼で私を凝視していた。そして、くるりと背を向けると、のろのろした足取りで、墓地の入口へと歩いて行った。ヂョダの目にたまっていたのが涙だったのか露だったのか、私には分からなかった。
「馬鹿野郎め」私は叫びそうになった。
「あんたが手にしてるそれで、俺を別の世界に連れてってくれよ。だがもう俺たちは、この日々の中に閉じ込められちまったってことなんだな、俺たちは互いに呪いをかけられたんだ、敗北者たるこの俺がいなくなるその時まで、狂ったあんたがいなくなるその時まで。そしてあの灰色の眼の男[訳註:英語版では「悪魔の生まれ変わりの」と補われている]もいなくなる、その時まで」

1991年6月-12月

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