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ファトス・コンゴリ 『敗北者』

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 違う、ドリの手ではない。運命が再びドリの手の形で手を差し伸べてきたとは考えたくもない[訳註:この小説の冒頭でフェリーに乗って国外脱出したドリアン・カンベリのこと]。彼はその当時から工場の主任技師で、そんな栄光ある技師が、この有史以前の老いぼれであるセメント工場を立ち直らせることになったからと言って、それが彼自身の運がよかったからとは言えまい。ドリは私より四つ、或いは五つ年上だった。私は学校時代の彼を憶えていた。年少の頃は、年長たちのことが記憶に残るものだ。逆は滅多にない。だがドリは私のことを憶えていた。酒場で彼の方から私に近付いてきたのだ。その時私は、ホールの狭く細長い隅の方の、ぽつんと離れた足長のテーブルで飲み始めたところだったが、後にそこが自分にとっておあつらえ向きの場所になるのだった。反対側にはファグの一派が陣取っていた。その大半は職無しだった。何度か誘いがかかったにもかかわらず、私は彼らと交わらないようにしていた。ファグは遠くから私に向かって視線らしきものを投じていた。彼には職があった。機械修理工場だった。ファグがいつ働いているのか、私にはわからなかった。彼は大半の時間を酒場の一角で過ごし、それ以外の時間は店の傍らの松の木陰にいて、皆して集まって飲んでいた。そうして通行人を眺めてはくだらない悪態をつき、女子たちに声をかけていたのだ。いや、全員にではない。声をかけるのは無防備な、要するに、ナイフを携えた兄弟なり従兄弟なりがいないような相手に限られていた。
 ドリが私のところに来た時、私はコニャックを飲んでいた。ドリもコニャックを注文していた。彼は背が低く、ずんぐりした体型で、頭髪は薄くなり始めていた。彼は初めての婚約をしたばかりだった。一度見たことがあるが、その時は婚約者と一緒にティラナ行きのバスに乗り込むところだった。ファグ一派の連中の誰かが私の飲んでいる席に来ても驚きはしなかっただろう。全員がそうだとは言わないが、あの連中全員に、私と一緒にいるという危険を冒す度胸があるわけではなかった。しかしドリは主任技師で、幹部であり、幹部にとって、私と一緒にいることなど衛生的ではなかった。だから彼がコニャックのグラスを手にして私の方へ歩いてきた時には、驚きもしたし、困惑もしたのだ。彼が来たことを、私は自分と楽観主義者たちとの一件に結び付けた。実際、彼の話は或る事件に関するものだったが、その件は幸いにも私とは無関係だった。工場のラボの女性助手の一人が連れ去られたという。どうやらここにも運命の手が伸びていたらしい。運命は彼女をして運転士の一人の後を追わせしめ、フィエルだかヴロラだか[訳註:フィエル(Fier)はアルバニア中南部、ヴロラ(Vlorë)は南部の都市]何処かへと飛ばし、それによって、私のためのポストが空いたというのだ[訳註:要するに、女性助手が運転士と駆け落ちしたという話。ちなみに、自動車の個人所有が認められていなかった社会主義時代のアルバニアで、自動車の運転免許を取得したプロの運転士は花形職種であり、待遇も良かった]。私は長く考えるつもりはなかった。そして私は運命に感謝する気もなかった。私は、そのポストに就くようにと私を誘ってくれたドリに感謝した。この私に、そのポストに就くようにと・・・今の職場で肉体的にぼろぼろだった私にとって、ラボの仕事は天国のように思われた。明日の朝、工場長室で会おうとドリが言った。そこから私は天国へと向かうのだ。ドリの助けを借りて。もう小ゼウスの落とす雷を耳にすることも無い。作業場の砕石機が怪物じみたうなりを上げるのに悩まされることもない。私の骨を削るようなあの音にも。それら全てのことを私は思い出していた。あの気の毒な政治犯は、彼自身が粉々になるまで石を砕き続けるのだろう。あの元車掌のことも。楽観主義者たちのことも。だがそんな中、一つだけ私が思い出しもしなかったことがあった:そのラボにヴィルマがいることを。

 ヴィルマがそのラボで働いていることは知っていた。彼女が工場から出て来るのを見たこともある。白いズボンに白い上着を身に着け、頭には白い保護帽をぴったりとかぶっていた。私は彼女を遠くから、いつも遠くから見ていた。あの地獄のような環境の中、彼女がほんの一瞬でも通り過ぎるだけで、私は、自分が毎日のように罪深き悪魔たちと顔を突き合わせているのとはまるで異なる暮らしが、何処かその辺りに隠されているのだと確信していたのだ。その地獄の悲惨の只中で、彼女は天国の存在であるように思われた。おそらくこれが理由なのだろうが、ドリが私に話してくれたところでは、一年とそこらばかり大学の工業化学科の学生だった私こそ、女性助手の失踪で空いたポストを埋めるに相応しい人物と考えたらしい。だから私は地獄を脱し、天国へと移れることになったのだろう。実際のところ、その天国はごくありふれた部屋の一つで、ごくありふれた機材が置かれていて、昼と言わず夜と言わず耳をつんざくような音が鳴り響いていた。一言で言えば、天国でもなんでもなかった。唯一、私の生活に現れた変化と言えば、ラボでの仕事が始まってから、新聞紙に包んだ弁当を持参することがなくなったことだ。それからもう一つ、私はもはや悪魔たちと一緒には働いていなかった。その代わりに、私が一日中一緒に過ごすことになったのは、頭のてっぺんからつま先まで白一色の人間二人だった。その中の一人がヴィルマだった。
 運命が私をヴィルマのいるラボへと導く前に、私はこれっぽっちの騒音も埃も無い事務所へと通された。照明は強くも弱くもなく、窓には鉄格子が付いていた。そこへ入るには、白いエナメルラッカーが塗られた、つやつやと光沢を帯びる扉をノックしなければならなかった。そうして扉を開けば、床から天井に向かって、そして壁の一方から他方へと伸びる鉄格子の並ぶ中に自分が入ったことに驚きを覚えるだろう[訳註:ここの主語は2人称単数]。それはまるで監獄の中にいるような印象を与えるだろう。だがそこは監獄ではない。そこは幹部の部屋なのだ。鉄格子の籠の中、書類棚と金庫に囲まれて、一人の人物がいた。数か月前、この作業場に仕事を得た時、私はこの部屋に通されたことがある。その時と同じ人物がまたそこにいて、その足元に電気の切れた放熱器[訳註:原語reflektorは扇風機型の電気式ヒーター。アルバニアでは一般的な暖房器具]が置いてあった。
『こいつも、この部屋の囚人だ』
二度目の対面で私はそんなことを考えた。
 もしそんな私の考えを読み取ることができたながら、机に座っているその人物は、書類の山の中でくすりと笑うだろう。そして嘲笑するだろう。さらに高笑いを上げるだろう。しまいには、私の顔に向かってこう怒鳴りつけるのだ。
『囚人はお前たちの方だ。私はお前たちを、お前たちの全てをここに持っているのだ。この金庫の中に閉じ込めてな』 そうしてこぶしで金庫を殴りつけるだろう。しかしその男はと言えば、私の考えを読んでいるのかはたまたいないのか、金庫をこぶしで殴りつける必要さえ見出していないようだった。彼は書類の山から顔を上げた。そして私に、会社指導部からの要請により、明日からラボに勤務するようにとだけ告げた。彼は何度も「指導部からの要請」という言葉を強調した。
「本ポストの候補者は十人いた」
私に何か特別なところがないか探し出そうとでもするように、私を頭のてっぺんからつま先までじろじろ見ながら、その男は言葉を続けた。
「そら」そう言って一枚の紙を私に突き付けた。そこにはセメント工場指導部から、私にラボ勤務を任命する旨が書かれていた。私がその紙に手を伸ばそうとすると、相手はすかさずそれを引っ込めて
「言っておくが、君に関しては何の変更もない」
と言った。痰でも吐きそうな口ぶりだった。
「採石場の移転はこれまでなかった」口調を変えずに男はそう言った。「これからもないだろう」
彼は私に紙を手渡し、私は鉄製の装飾の中で、掌に痰を吐きかけられたような気分になった。しかし相手の方は背を向けてしまった。私はどうすることもできず、むかつくような感覚を引きずるしかなかった。
『構うものか』部屋を出て私は思った。俺に関しては何も変わらない。変えるほどのこともない。それでも運命は私を鷲摑みにし、ラボへと連れ去ったのだ。そこにはヴィルマがいる。椅子に座っているが、保護帽はかぶっていない。彼女のような存在がヂョダの娘だなどということが本当にあり得るのだろうか、と私は自問した。鳥肌が立った。彼女の顔に私はラディの瞳を見た。かつてラディの顔に彼女の瞳を見たように。ヴィルマに微笑みかけられると、のどがつかえそうな気分だった。ここにはラディの瞳がある、それもヴィルマの瞳の中に。だがそれはヴィルマだ、ラディはここにいない。それは彼が実在しないという意味ではない。彼は何処かにいる。だが何処に、そしてどうなって?
「そんな風に微笑むのはやめてくれ」
私はヴィルマにそう言いたかった。
「自分はこういう人間だったし、これからもそのままだろう。自分は何も変わらなかったし、変わらないし、これからも何も変わらないだろう」
 私は口元に笑みを浮かべた。ヴィルマはそれを、彼女の態度に対する私の態度だととった。もし彼女がもっと注意深くて、私の眼の中を読み取ることができていたら、私の表情にあらわれたどんな感情も、彼女の微笑みに似てはいても、単なる微笑みとして出た以上のものではないことに気付いただろう。ヴィルマには知る由もなかったが、散漫となった私の頭の中では、当時さんざんな目に遭わされた或る詩人の詩の一節が引用されていた。その詩人の冒涜行為というのは「自分はこういう人間ではなかったし、これからもそのままではないだろう」といったようなものだった。その冒涜行為のゆえに、詩人は裏切り者としてずたずたにされた。私はと言えば逆のことで、地獄の人生に落とされたわけだ。それ以外に、鉄の檻のような部屋にこもっている人間の言葉にどんな意味があるというのだろう。
[訳註:原文“jam ai që s’kam qenë, do të jem ai që s’jam”は、ヂェヴァヒル・スパヒウ(Xhevahir Spahiu 1945~)の詩「人生(Jeta)」の一節。本作の主人公セサルは、この原文から否定語を抜いた文を最初に挙げている。「逆の」とはそういう意味。スパヒウは社会主義時代から現代に至るまでアルバニアを代表する詩人の一人だが、労働党内で「反自由主義」の名の下で粛清が行われていた最中の1973年に発表した「人生」の内容がジャン・ポール・サルトルを想起させるものであるとして、党中央から「実存主義者」のレッテルを貼られて非難された。除名・処罰こそ免れたものの、スパヒウはその後数年間にわたって作品の公表を事実上禁じられる。ちなみに本人は今も存命]
「おい虎よ、どうだ?」私は自分につぶやいた。自分の頭の中に「おい虎よ、どうだ?」という問いかけが出た、まさにその時にこそ、私は笑みを浮かべたのだ。するとヴィルマが私に、自分の座っている椅子に座るよう言ってきた。その時私はドアの向こうの何処かで、虎が聞き耳を立てているような印象を受けた。ヴィルマの青い瞳に溺れそうになりながらも、私は彼女と距離を置こうと決心した。私の足跡を追って、いつも虎がついてきているのだ。ヴィルマをも喰いかねない虎が。かつてラディを喰ったように。ソニャを喰ったように。そいつがヴィルマまで喰ってしまうようなことに、私はなって欲しくなかった。

 だがどれだけヴィルマと距離を置こうとしても、二人はずっと一緒で、最大でも六メートルと離れていないその部屋の中の空気を呼吸しているのだった。最大でも、と言ったが、それは二人が普段は一メートルと離れていない距離で仕事をしなければならず、私は彼女の息の匂いをかぐことさえできたからだ。もしもセメントの製粉機の回転が止まったら、彼女の心臓の鼓動さえも聞くことができただろう。セメントの製粉機は一日たりとも一晩たりとも回転をやめなかったが。心臓の鼓動など全く聞こえなかったものの、ヴィルマがそこかしこで持ち出してくる話題についてのやりとりはひっきりなしに聞こえていた。彼女は虎に気付く気配さえなかった。彼女は虎が存在することも知らなかったのだ。私はと言えば、彼女には黙ってくれと言いたかった。虎はそこにいて、二人の様子をうかがっている。割れたガラス窓の、埃が入ってくるところの、部屋の隅の暗がりの、壁の裂け目のところにいる。私にはその存在がわかっていたし、その存在も感じていたし、その存在の匂いと共に、そいつがもたらす死の匂いまでも嗅ぎ取っていたのだ。私の背筋も凍り付く。足も木のように固くなる。口もひっついてしまう。ヴィルマは子供のままだった。頭に浮かんだその都度に、欲求を満たすことに執着しない子供などいない。彼女の頭に浮かんだのは、食堂へ昼食をとりに行こうと私に誘うことだった。それを私は九十九回まで避けてきた。百回目は避けられなかった。誰であれ、いつだって、子供が欲求を満たすことを否定するだけの力などないのだ。
 実際のところは、二人きりで行ったわけではない。三人だった。ヴィルマはどこへ行くにも、ルルを後ろに連れていた。ルルはラボにいるもう一人の職員で、オールドミス[訳註:原語vaizë-plakëは直訳すると「老婆娘」]だった。その当時、ルルは処女性という点から見ればおそらくは娘の方だったかも知れないが、年齢の点から見れば老婆でもなかった。それでも、二十五歳になったばかりだというのに、その痩せた、少々前屈みの身体と、極端に深刻そうな目つきを刻み込んで暗く沈んだ表情からすれば、彼女は老婆に見えた。彼女は子供の家[訳註:孤児院のこと]の出身だった。最初の数日でわかったことがある。人なき人[訳註:縁故者がいない人の意]の常として、ルルは自分の存在とヴィルマを結び付け、従属と言ってもいいほどに彼女を崇拝していた。ヴィルマに対する彼女の愛情は、犬が主人に向ける愛情に似ていた。同時にわかったことだが、忠犬の常として、ルルはヴィルマを守ろうと、危険をもたらしそうな他のあらゆる生き物[訳註:原語krijuesëは「(神の)被造物」、転じて「生物」の意]に猛々しい嫉妬を燃やしていた。ルルが初めのうち私に向けた敵意は、彼女が私を危険な存在の範疇に含めていることを示していた。だが後に彼女の態度は軟化し、その猛々しい視線は偏りのない視線に変わり、そして或る日からそこには柔らかさが見てとれるようになった。ヴィルマは、もはや徒労ではあったが、ルルの感情の露呈を覆い隠そうと努力した。ヴィルマが裏切られたのは、彼女の子供じみた態度だけではなかった。ヴィルマの心情にとって最大の裏切りは、ルルの視線だった。それは私にとって、ヴィルマに何が起きたかを見るための鏡だった。ヴィルマの混乱も不安も感じ取ることができたし、その中身も知ることができた。ルルの表情に不意に柔らかな輝きがあらわれるのを見て、私が思い出したのはマクスのことだった。マクスの苦しむ様を思い出しながら、私は、一緒に食堂へ昼食をとりに行こうというヴィルマの百回目の誘いを受け入れない理由が、ついに見出せなかった。行く手には虎がいるのに。食堂には虎がいるというのに。何処にでも虎がいる。だが二人にはルルがいた。
 一緒に食堂へ来たのは三度目か四度目だったがまさにその日、ファグが食堂に姿を現した。その瞬間、私と一緒にいた二人の顔に現れた警戒の表情にもし私が気付きさえしなければ、それも私にとっては特に意味のあることではなかっただろう。我々がいたのは食堂の中央だった。ファグはそこから少し離れたテーブルにいた。彼は両手をポケットに突っ込んだまま、陰気な顔つきで、ゆっくりとした足取りで食堂に入ってきた。歩いている途中で、テーブルの端にあった水の入ったガラス製ピッチャーにわざと肘をぶつけたので、そのピッチャーが床に落ち、大きな音を立てて砕け散った。要するにそれで全員の注目を集めたわけだ。食堂は静まり返り、食事をしていた連中が音のした方を振り返った。ファグは、その場に挑みかかろうとでもするように、我々のテーブルから数メートルほど離れた、誰もいないテーブルへと向かい、そこに腰を下ろした。
「この男は」私はひとりごちた。「隠れて寝ていたのだろうか、それとも前の晩にカウボーイの出て来るウエスタン映画でも見ていたのだろうか」 私は自分のコップのワインを飲みほした。そしてコップをテーブルに置いた時、ヴィルマが真っ青になっているのに気付いた。ルルが幾らか不安そうな目で私の方を見ていた。
「やれやれ」と私は思った。「厄介なことになりそうだな」
自分を包み込む不安を覆い隠して私は顔を上げ、ファグをじっと見つめた。彼の目を、まっすぐに。
 避けようがなかった。ファグも私の方を見つめてきた。彼の仲間の一人が、ワインの瓶を持ってやってきたので、どちらが先に降参することになったのか、私の方だったか向こうだったか、それはわからない。しかしその時の私にとって、そんなことはどうでもよかった。向こうの二人はワインを飲み始め、ひっきりなしにこちらの注意を引くような音を立てていた。私は再び食事の皿に向かった。ヴィルマもルルも私の例に倣った。黙って食事をしていたその間に、私は、ファグがあの子供時代の戯れをずっと忘れないままでいるのだなと確信した。あのままごと遊び[訳註:原語lodra e burrit me gruanは「夫妻遊び」]を。冷たい汗が一筋、私のこめかみを流れた。そしてこめかみから下へと垂れた。幸いなことにヴィルマとルルの方は食事の皿の方にすっかり集中していて、向こうのテーブルの二人の方は、私の動きを追ってでもいるようだったが、距離があったので私の汗の粒には気付かなかっただろう。
「お前がイラつく必要などないだろう」
こちらの方に向けるファグの脅しめいた態度を横目に見ながら、私はひとりごちた。
「俺がお前を恐れているなんて思うなよ」そう私が考え続けたのは、ファグが自分の考えを読んでいるのではないかという予感があったからだ。
「お前なんて、逃亡した叔父だっていないくせに俺なんかよりもずっと疥癬まみれのけだものじゃないか。だが俺はずっとひどい目に遭ってきたんだ、このごろつきめ[訳註:原語zagar「猟犬」には「うろつき回る者」「浮浪児」の意味がある]、お前の原始的な思考ではまるで理解できないほど、ずっとひどい目に遭ってきたんだぞ。子供の頃だって、そして今この時だって、俺はままごと遊びなんか信じちゃいないんだ、お前はいまだに忘れられないようだが。そんなお前だって、ヴィルマに、この絹のように柔らかい存在に近付いた時こそは、鏡がなくても洗っていない自分の耳たぶを見ることになる[訳註:要するに「近付いたらボコボコにされる」]とわかる、その程度のアタマはあるはずだ。要するに、お前が俺を恐れることはないし、俺はお前にとってライヴァルなんかじゃない。お前が怖いからじゃないぞ、このごろつきめ。そうじゃなくて、俺には愛情なんかこれっぽっちもないんだ、あるのは氷のような心だけだ。そんなこともお前にはわからないだろうな、このごろつきめ」
 次の日、ヴィルマは出勤してこなかった。その次の日、ルルが私に一通の封書を持ってきたが、中には手紙が一枚入っていた。返事は自分に口で言って欲しい、とルルは言った。そうしてラボの自分の持ち場に行き、試料の並ぶ中に、試料のように姿を消した。封筒を手にしたまま、自分の持ち場へと埋もれていくルルのもろく壊れそうな姿を見ながら、私は危機を予感した。この町での数々のアヴァンチュールの物語はこのように、手紙を手にするところから始まるのだ。そういう話はよく知っていた。埃まみれの私の町で、こういう話には倦むことがなかった。それらは一片の手紙で始まるが、誰一人としてその結末を知ることはない。俗物じみたロマン主義の世紀を生きるこの町の男子にとっては、それこそが最も重要な事件なのだ。こうした手紙を貰った幸運な者たちは、極めて無邪気な手法でそれを世間に公表した。一通の手紙が送られることで、一つの関係が確定し、他の者たちはそれを尊重することが義務付けられていた。この規則が踏みにじられた場合、ことは刃傷沙汰にまで行き着くのだった。
 ルルがヴィルマの手紙が入った封筒を私に差し出してきた時、私の頭をよぎったのは、ひとふりのナイフの予感だった。それと共に、死を運ぶ虎の匂いもした。私はぎょっとした。ヴィルマは町の娘のままだった。彼女も他の娘たちと同じく、俗物じみたロマン主義の世紀に生きていたのだ。私はその手紙をポケットに突っ込んだ。私の魂にはアヴァンチュールを欲する火花など全く残っていなかった。向こうに目をやると、そこにはルルが試験管の並ぶ中で、私に対して試験管のような無関心さで振る舞っていた。
「がらくため」私はそう叫びたかった。「ヴィルマのところへ行って『お前は子供だ、俺には子供の遊びに付き合う体力なんかない』って伝えろよ」
その時ルルが振り向いたので、私は気まずい気分になった。ルルに対しても。そしてヴィルマに対しても。ヴィルマは私をお遊びに誘いたかったのだ。私は理解した。これはお遊びなのだ、半分は真実で、半分は真実でない、そういう内容の。いやおそらくはそれ以上に、夢を生きたいと願う彼女の願望だったのだ。夢の中で人間は、どこで真実が終わり、どこから真実でないものが始まるのかを見分けることができないし、或いは敢えて見分けようとしないものなのだ。その手紙は美しく丸みを帯びた字体で、はっきりと書かれていた。 「マクスのこと憶えてる?一緒にマクスのことを話しましょう。あなたがオーケーしてくれるならそれからあとのことはLが教えてくれます」
手紙はこれだけ、これで全部だった。送り主のイニシャルさえ見当たらなかった。苛立ちが収まった。無駄な困惑だった。ヴィルマがただの子供の一人で、世間知らずの田舎娘だということに、これ以上の論証など必要なかった。だがそんなことを考えていた私は、今までも何度かあったように、ソニャとの間でも何度かあったように、またしても自分の対人評価を誤ることになるとは思っていなかった。
 私が手を挙げて合図すると、ルルが操作されたロボットのようにこちらへ歩いてきた。瞳には何やら、不安の色が見えた。その姿に私は、ほんの一瞬だが、主人に足蹴を喰らっておびえた犬のような印象を受けた。どうしたらいいのかと私が訊ねた時も、彼女は注意深く黙ったままだった。
「ヴィルマに会いたいんだ」私はそう説明した。
「どうしたらいいか教えてくれよ」
ルルの様子が変わり、表情が緩んだ。ルルの表情が緩んだことは私にとって、実に心奪われるような自然現象のようなものだった。まさに奇跡だ。ルルは私の手から手紙と封筒を取り上げると、それをアルコールランプの炎で燃やしてしまった。
「五時に、公園のはずれのところで待ってるわ」とルルは言った。「一緒に着いてきて、そして私が入ったところへ入って・・・大丈夫、そこは私の家、私のアパートだから。二階よ。そこにヴィルマが待っているわ」
それだけ言うと、ルルは自分の持ち場へと去り、再び試料の並ぶ中に、試料のように姿を消した。ちょうどスラグの分析に取りかからなければならない時間だった。叫び出したくもあり、笑い出したくもあった。工場の前時代的な建物がのたうち震え、その内臓は、腹を下した時の胃腸のように跳ねまわっていた。サイロへの階段をのぼりながら私は、煙と粉塵がもうもうと入り混じる中で、世界の終焉が扉を叩いているような感覚に襲われた。その終焉をすぐ傍に感じて、私は叫び声をあげそうになった。だがそれで叫んだとしても、誰一人それを聞く者はいないのだ。工場の内臓は跳ねまわっていた。何だってヴィルマのお遊びに加わることなんかオーケーしてしまったんだろう?
 色のない午後だった。空はぎらぎらとして湿気を帯びていた。空模様は砂漠のようで、鍋の下にいるような熱気で、汗まみれになるのだった。バーに入るのを避けたのは、その時間はごった返しているはずだったからだ。最後の瞬間まで私は、ルルが公園のはずれにいないようにと願っていた。無駄なことだった。彼女は時間通り、注意深く、周囲を気にしながら、そこにいた。
「ルルめ」私はつぶやいた。「お前の息の根を止めてやる」
ルルは私の姿を見ると動き出した。私は彼女の後を、距離を置いて、無気力な足取りで追うことになった。自分があらゆる面で不能者だと感じていた。そのことを、ルルのアパートに入ったらすぐにヴィルマにも言おうと思っていた[訳註:ここで「無気力」「不能」は全て原語impotentで、「インポ」と同一語]。ルルはドアを開けっ放しにしたまま、私よりほんの少しだけ先に部屋へ入っていった。ヴィルマは、ロングドレス姿に流れるようなブロンドの髪をなびかせて、目の前の部屋の中にいた。ヴィルマの周りの装飾品には何かが欠けていたのだが、ようやく気付いたのは、ルルの姿が消えていることだった。
「ルルめ」私は思った。「このやり手ババア[訳註:原語kodoshbasheは「売春斡旋業者」]め、こんな風にお前の女主人は、気が向く度に誰にでも何かしら紙切れを送り付けるというわけか?」
 ヴィルマは顔を紅潮させていた。二人の間にはテーブルが一つあった。私はテーブルの一方、ヴィルマは向かい側の椅子に腰を下ろした。ルルの姿はなかった。そのせいだったろうか、私もヴィルマも、会話のきっかけをつかみきれないでいた。
 ルルが入ってきて、コーヒーの入ったカップを二つと、ジュース[訳註:原語shurupは本来「シロップ」の意だが、ここではむしろ「ジュース」]の入ったコップを二つ置くと、入ってきた時と同じように、影のように姿を消した。ヴィルマはジュースを飲んだ。それからコーヒーをすすった。私も同じ動作を繰り返して、ジュースを飲み、コーヒーをすすった。自分で自分が不能だと感じていることをヴィルマに告白したい、そんな私の心からの欲求は、不意にソニャの記憶に襲われた瞬間から、妄想と化した。ソニャが部屋に入ってきて、ヴィルマの傍らに立っている。その部屋の中で自分が、夢の中のように無垢なブロンドの髪の生き物とたった二人きりで一緒にいる、それがまるで、幻想かキマイラでしかないのだと示そうとでもするかのように[訳註:原語kimerëはギリシア語Χίμαιραに由来する、獅子の頭と山羊の胴体と蛇の尾を持つ怪物の名。転じて「(あり得ない)幻想、妄想」の意味]。私は、この生き物が何処かの男と寝たのか訊きたい欲求に駆られた。もし寝たのだとしたら、ヴィルマはオーガズムの瞬間に一体どんな反応をしたのだろう!例えば、ソニャの場合は吠えるような声で、開けっ放しにした場所があれば、その声は遠くからも聞こえただろう。
 リンダが呻き声を上げる度、私はいつも彼女がオーガズムの瞬間にこの世の終わりの痙攣を起こしているような気がした。私は顔を上げ、ヴィルマに向かって、恥知らずとも言い得るような視線を投げかけた。ヴィルマは何ら不愉快そうなそぶりを見せることもなく、ただ手にしたコーヒーカップがほんの少し震えただけだった。その震えを気付かれまいとして、彼女はカップをテーブルの上に置いた。それからにっこり微笑んだ。そして再び顔を赤らめた。私はと言えば、ヴィルマは今まで一度も男と寝たことがないに違いあるまい、と考えていた。
 その日の会話について、私は何一つ思い出すことができない。それはむしろ熱に浮かされたようなものだった。思い出すのは会話の切れ切れと、煩わしい羽毛のように宙に漂うマクスの名と、時折影のように出たり入ったりしていた天使のようなやり手ババアのルルと、不能であるが故の自分の疲労感と、空っぽの頭と、鉛のようになった瞼と、ひからびた手のひらと、乾ききった脳味噌。憶えていることがあともう一つ。泥棒のようにルルのアパートを出た私は、バーへ行った。そこでファグが五、六人の仲間といるのに出くわした。私はコニャックを頼むと、向かい側の隅のテーブルに腰かけた。自分に張り付いてくる連中の視線を感じていた。だから私は、あの死を運ぶ虎が何処に隠れているのかを、そして私をつけ狙っているのを見つけ出そうとした。犬の匂いの混ざったその匂いを、私は嗅ぎ取った。ぐいっとひと飲みした。たぶん偶然だろうが、同じ動作をその時ファグも行い、コニャックをあおった。そしてたぶんまたしても偶然のいたずらで、互いの視線がぶつかり合った。
「お前が虎なものか、このけだものめ」私は言った。「お前はヴィルマの永遠の拷問人だ。俺は彼女のところにいた、さっき別れたばかりだ。お前の名前など誰の口にも上らなかったのに、お前の恐怖の影は存在していた。ヴィルマは誰とも寝たことがなかった、これからも寝ることはない。お前は訊くだろうな、何で俺がそんなことを知っているのかって。答えは単純だ、ヴィルマが教えてくれのさ。この馬鹿め、誰かと寝たことがありますなんて、女が大っぴらに認めるとでも思っているんじゃあるまいな?[訳註:自分は彼女と深い仲になったから、彼女の男性遍歴も知っているのだという意味]そんな情けない目で俺を見るな。ヴィルマにお前が植え付けたのは恐怖だ。お前は彼女に、男と顔を合わせることをためらってしまう程の恐怖を植え付けてしまったんだ、何故って、そんな男はお前の仲間たちにリンチに遭う羽目になるんだからな。お前は昔と同じだ、頭の固い、血に飢えた、情け容赦のない奴のままなんだ。ヴィルマを見ていると、マクスのことを思い出すよ。誰があれの息の根を止めたか、お前なら知っているだろう、あれの息の根を止めたのはこの俺さ。いつだったかな、ジプシーのシェリフだ、あいつがヴィルマにちょっかいを出したから、お前はあいつと彼女が会おうとする度に脅し続けたんだ。そのことだって、ヴィルマが俺にはっきりと言ったわけじゃない。彼女には、お前の名を口にするのもはばかられたんだ。この薄汚い野郎め。ヴィルマはお前を恐れて、俺をルルの家に呼んだ。女がどこかで会おうと誘ってきて、しかも家に呼ぶってことがどういう意味か、お前にもわかるよな?」
 突然、グラスを手にしたままファグが、座っていたテーブルから立ち上がると、私の方へ近づいてきた。取り巻き連中はめいめいの席に座ったまま、自分たちの親分の頭に一体どういう思いつきが生じたのだろうかと、けだるい視線を向けていた。私は片足に重心をかけた[訳註:原文は「一方の足から他方へ寄りかかった」]。そしてもう一度コニャックをぐいっとあおった。ファグは陰鬱な、どす黒い顔を酒の酔いで赤らめて、私の前に立った。そしてにやりと笑った、いや正確には嘲りの笑みを浮かべていた。その時私は、ファグの上顎右側の歯が一本欠けていることに気が付いた。ファグはにやにやしながら、まるで初めて会ったように私をじろじろと見た。それから
「気の毒な俺たちと楽しくやろうぜ」と言ってきた。「そんなデカいのと一緒にいないでさ」[訳註:主人公が座っている脚の高い椅子を指している] そしてしばらく黙り込み、グラスを軽く振っていたが、こう言葉をついだ。
「知ってるぜ、お前は上の方の連中と馴染みだったんだってな、さぞや俺たちはハエみたいに見えてるんだろうよ。だがな」彼は喋り続けた。
「騾馬よヴァラレを忘れよ、か[訳註:原文“Harro mushkë Valarenë”は「都会に染まって故郷を忘れる」といった意味の慣用表現。ヴァラレValareはアルバニア南部ジロカスタルGjirokastër近郊の農村]。お前も忘れたのかい。俺たちがハエなら、お前はノミだ。何とか言えよ学生さん、ノミかシラミかどっちの方がいい?俺に言わせりゃ、どっちもどっちだがな。だからさ、そんなところに一人でいないで、仲間に入れよ。まず何よりも、目を開けていろ、つまずかないようにな。つまずいたら足を滑らせるぞ。そうして足を滑らせると、足を折っちまう、わかるよな」
 ファグはコニャックを飲み乾した。そしてもう一杯を注ぐと、その多大なる効果の下で両眼を潤ませた[訳註:要するに「酔って涙目になった」]。これ以上にあからさまな警告はあり得なかった、ヴィルマは今なお禁断の領域であり続けていたのだ。そしてファグは自分の仲間たちの方へと立ち去り、私はグラスを正面に持ったまま、テーブルにもたれて立っていた。幸運にも、その時バーに入ってきたのがドリだったのだ。彼は辺りを見回し、私を見ると、こちらへ近付いてきた。カウンターでダブルを注文すると、ドリはファグがしていたようにそれを飲み干した。両眼は潤まなかった。私は言いたかった、彼こそ死を運ぶ虎につけ狙われる不安を全く感じさせない、類稀なる人々の一人なのだと。ただドリには何のことか理解できなかっただろう。彼は煩わしそうな様子だった。ドリがカウンターへ行き、ダブルを二杯持って戻ってきた時にそのことが見てとれた。その煩わしさの原因を、彼はすぐに説明してくれた。婚約者のことで手一杯だったのだ。
 一緒にもう一杯を飲んだ後、私は自分の悩みの原因についても語るのが当然なことだと思った。つまりファグからの脅迫のことだ。ドリは私に、しっかり目を開いている方がいい[訳註:要するに「気をつけろ」の意味]と言ってくれた。
「確かにな」と彼は、彼自身の傲慢さを打ち消すように苦笑いしながら言葉を継いだ。
「まあ悪くはないさ、時期が時期なら、あの娘のパンツを引きずりおろすってのもな」
それで私も苦笑いした。ドリの言い回しが俗なものに思えたせいもあるし、それに実際のところ、ドリはヴィルマのことを言っていたのだが、その娘のパンツをどうやって引きずりおろすかなんてことに私はまるで好奇心がわかなかったのだ。向こうの方、向かいの隅の方で騒ぎが起こった。騒ぎに続いて、グラスの割れる音がした。それらの音でいさかいが始まったらしいことがわかるのだ。ところが、何も起きなかった。グラスを割ったのはファグで、数日前に本人が食堂でやったことと同じだった。注意を引くためにやったのだ。私は顔を上げ、ファグが注意を引こうとしていることに気付いた。
「可哀想な奴だ、お前は」私は言った。
「そのうち店中のグラスを割らなきゃならなくなるだろうさ」
するとファグのことが気の毒に、心底から気の毒に思えてきた。あいつなりにあいつは苦しんでいる。私なりに私も苦しんだ。みんなが苦しんでいるのだ、それぞれなりに。ドリもそうだ、その晩どうして婚約者のことで手一杯だったのかは知らないが、四杯目だか五杯目だかを片付けると、一緒に帰ろうと私に言ってきた。

14
 ヴィルマの目に、私の冷淡さが映っていなかったはずはないし、本人の態度の中で何をあらためるべきか、それをあらためるだけの威厳が彼女には備わっていた。それが起きたのは翌日、ルルと顔を合わせた時のことだ。一緒に昼食に行こうという誘いは二度となかったし、ルルは二度と私にメモのようなものを渡してこなかったし、私を見る時のルルの眼は、敵対的でこそなかったが、およそ無関心なものだった。その時こそ、私が自殺したい思いに駆られた二度目で、昼も夜も、死の単調さに追い立てられた。だがそういう行為に及ぶことはなかった。私には、そういう行為が余りにもありふれたものになっていたのだ。もし父が私を射ち殺し、どこかこの世の果てへ抑留するようなことがあるとしても、私は自殺するような気概の持ち主ではなかったのだ。そう、ラディがしたようには。ラディは自殺した。あの日、ラディは自殺したのだ。しかしそれより先にこの町に流れたのは別のニュースだった。ラディの父親が処刑されたというニュースが。
 真実は、何がしとかいう元同志が何処かに空いた穴の傍らで頭を吹き飛ばされたというニュースが、スポーツのニュースという形で町に流れたことだった。それも一切の論評抜きで。大多数は完璧に無関心だった。永遠の埃と、時に真っ黒に変わる灰色の記録が、我が町民たちを充分なまでに現実的にさせたのだ。死を運ぶ虎は全員をつけ狙っていた。誰一人、安全だと感じられない時代だった。誰もが、幸運の中にも全く幸運を感じず、不幸の中にも不幸を感じられなかった。虐げる側にも、虐げられる側にも。賢者の側にも、愚者の側にも。正しきものの中にも、悪党共の中にも。誰もが虎を恐れ、誰もがお互いを恐れていた。かくして、何がしとかいう元同志の処刑のニュースは、スポーツのニュースという形でなければ伝えることができなかったのだ。それも論評抜きで。私の父は何時いかなる時でも理性的な人物だったが、その父に私は、しばらく公衆の面前から身を隠した方がいいと勧められ、自分にとっての通り道は職場へ向かう道と家へ帰る道だけになり、寄り道も一切しなくなった。時宜にかなった忠告だった、そう私はとらえていた。ラディの自殺という、新たなニュースを知るまでは。
 我が人生の不条理は、ラディの自殺がヴィルマとの壊れた関係が復活する原因となることを望んだ。彼女との関係成立が受け入れられるとすればだが。十月の中頃で、素晴らしい天気が数日続いていた。悲劇など起こるとは信じ難かったが、にもかかわらず、悲劇の数々は空中に漂ったままだった。ラディの悲劇を私に知らせて来たのは私の父だったが、それはこの上なく酷い形でのものだった。私は仕事から戻ってきたばかりで、キッチンのソファに横たわり、聴く気もないのにラジオを聴かされていた。ラジオをつけていたのは母で、大のドラマ好きな母は、連続ラジオドラマの放送を聴こうとラジオをつけていたのだが、私のわかった限りでは、それは叙事的にして抒情的な恋愛ドラマだったようだ。そこへ父が、既に老いの翳りが見て取れるようになった表情でキッチンに入ってきて、私の傍らにあった椅子に腰掛けると、あの友達が首を吊ったぞと言った。父は一言一句この通り言ったのだ、酷いことに。
「あの友達が首を吊ったぞ」
母は叙事的にして抒情的なラジオドラマの方に釘付けで、ずっとラジオを聴くことに集中していた。その母と一緒にずっと聴いていた私は、「あの友達」という、父の言葉の意味するところを理解しかねた。私と母の鈍い様を目の当たりにした父はむっとして、詳細に入り込んでいった。その説明で私は、誰かが部屋に閉じこもり、首を吊り、そこにぶら下がったまま五日間も気付かれず、ようやくその不在に気付いた人によって、通報が行われたのだということを理解した。
「死体は腐っていたそうだ」父はつぶやいて、そしてこう続けた。「気の毒な子だよ」
「あんな気の毒な人生があっていいのかしらね」父の言葉に母が応じた。「お父さんもお墓の中で、お母さんは何処だかわからないけど、あんなひ弱で、あの顔色でしょう、あら嫌だごめんなさい、亡くなった人をつかまえてこんなこと・・・」
 その母の言葉で気が付いて、私はぞくっと身震いした。母は同時に二つラジオを聴いている状態だった。国営放送と、父のとだ。母は同時に二つのドラマの展開を知りたくて興味津々だったのだ。国営ラジオ局の叙事的かつ抒情的な恋愛ドラマと、そして父のラジオからの、死のドラマとを。私は母にこう訊ねたい気持ちだった。
『どっちのドラマがお気に入りなんだよ、国営ラジオかい、それとも父のラジオかい?』
二人は私の方を見ていた。父の顔色は真っ青だった。母の方は、涙が一粒、頬を流れ落ち、そしてとうとう国営放送のラジオを切ってしまった。私は立ち上がり、自分の部屋に閉じこもった。ラディの瞳が、永遠に続く陰鬱さを伴って私の方を見つめていた。私は天井か、或いは窓の鉄柵にロープをかけ首をくくっている彼を、その大きくぶらぶらと揺れる様を思い浮かべた。舌がはみ出し、瞳は濁っている。私は吐きそうになった。部屋が腐臭を放ち出し、このままここに居続けたら息が詰まってしまいそうな気がした。壁も、床も、机も、自分が伏せっているベッドも、何もかもが腐臭を発していた。私は外へ出た。だがそこも死の腐臭だった。何もかもが死んで、腐っていた。
 私の中で何が起きていたのか、それを説明するのは難しいが、私はルルの家へと続く道を歩いていた。その辺りじゅうに私を脅かす危険が転がっていた。午後だった、暖かい午後で、人々は路上にたむろしていたから、私がルルのアパートへ入っていくところを見られる可能性は充分にあった。ルルは私の鼻先でドアをぴしゃりと閉めるかもしれないし、私を路上へ追いやるかも知れない、それは私の様子が尋常でなかったからということもあるし、彼女の方で、私に人道的な対応をする道理がないからでもあった。二人の今までの関係が致死点に達していた今となっては。そうなると、どうして私は、ヴィルマがルル宅に会いに来てくるのを承知してくれるはずだなどと考えたのだろうか?彼女は私の冷淡さに傷ついたのではなかったのか?だがそんなことを私はこれっぽっちも思いつかなかった。私は自分が泥沼に落ちて、その泥沼に呑み込まれ、引きずり込まれそうになり、木の枝でも草の端でも何でもいいから捕まろうとする、そんな人間になっているように感じられていた。ヴィルマの瞳が幻影のように私を駆け巡っていた。もしあの日の午後ヴィルマに会えなかったら、恐らく私は発狂していただろう。そして恐らくルルの眼には私が本当に発狂してしまったように見えていただろう。
 ノックした私にドアを開けた時、ルルは悲鳴をあげた。彼女は慌てた様子で、私の肩越しに左側を、それから右側を見た。幸いなことに、階段に人影はなかった。それでルルの態度は決まった。陰気な、苛立ったしぐさでルルは私の方に手を差し伸べた。最初、私は彼女が自分にひと突きを喰らわしてドアをぴしゃりとやるのかと思っていた。ところがそんな想像に反して彼女は、私を室内へと、その華奢な身体のどこにそんな力を行使するほどのものがあったのかと驚くほどの勢いで、連れ込んだのだ。私は部屋の中にいて、その背後ですばやくドアが閉められた。向かい合ってこちらを見つめるルルには何の深慮遠謀めいたものも見て取れなかったが、ここへ来た理由を言わない限りはこれ以上、一歩も先には行かせないと決めているようだった。私は何も言わなかったが、その時は何を喋ったらいいのかわからなかった。私の様子が、表情が、眼が、私の存在全てが物語っていた。ルルは私をキッチンへ招き入れた。一言も発しないまま私はソファに座り、ルルはコーヒーを淹れるためにヂェズヴェを取り出した。コーヒーを飲みながら、私は自分がヴィルマのために来たのだと語り、ヴィルマに会いたいことを、またそのことをルルがヴィルマに伝えに行ってくれれば、これ以上に有難いことはないのだということを語った。ルルは険しい顔つきになった。こいつは何と虫のいいことを要求しているのか、そうルルの表情が語っていた。しばらくすると彼女は出ていった。戻って来たのは一世紀も後のことだった[訳註:言うまでもないが比喩]。気付いたのは、外でドアの鍵をガチャガチャやる音がしたからだ。私が待っていたキッチンに入ってきたのは、ヴィルマ一人だった。流れるようなブロンドの髪だった。柔らかなその表情に、青い瞳をしていた。その瞳は、私にラディの瞳を思い出させた。
 ヴィルマがソファに、私の隣に座ると、のどがつかえるような気がした。
「ラディが、首を吊った」私は自分でもぞくっとするほどのさりげなさでそう言った。私の言っていることをヴィルマが理解しているのかどうかはわからなかった。ヴィルマは黙って私の言葉を聞いていたが、やがて首を振り、
「知ってる」と言った。[訳註:バルカン半島で首を横に振るのは肯定の意]
「もう聞いてるわ、みんなの耳にも入ってる。あなたのあのお友達が首を吊るなんて、残念だわ。一度だけ、あなた達が一緒にいて、大通りを歩いてるのを見たことがあるの。いい人そうだったから、本当に、本当に残念だわ」
私はヴィルマの瞳がラディの瞳と同じ色をしていることを言いたかったが、たぶんそういう理由なのだろう[訳註:「それがここへ来た理由だろう」の意]、もしここへ会いに来ていなかったなら、自分の痛みをほんの幾らかでも和らげることができたかどうか、私にはわからなかっただろう。ついでに、ラディが首を吊ったなんて自分には信じられないことも言いたかった。何も言わなかった。もし喋ったら、声の震えを、そして恐らくはすすり泣きさえも抑えられなくなっていただろう。
 その日もルルは再びジュースを持ってきた。そして再び私とヴィルマを二人きりにした。そしてまたしても私は、人目を忍んで立ち去ったあの夜更けまで自分たちが何を話していたのか、まるで思い出せないのだ。私の頭は働かず、私の頭は意思疎通もできなかった。それはヴィルマも同様だった。その翌日の逢瀬はもはやかき消されてしまった。まるで壊れたテープのように。憶えているのは、ヴィルマが私に何か隠し事があって、それを私に言おうとしていたということだけだ。その印象は、三日目に彼女がこう言った時、一層強まった。
「あなたに黙ってたことがあるの」
彼女はテーブルを挟んで、窓の傍に座っていた。それまでの二度の逢瀬の間もずっと、二人は互いにそうして座っていた。三日目、ヴィルマはテーブルを挟んで窓の傍に座っていたが、それは別に不安のせいではなかった。傍だろうが離れていようが、私と二人きりでいることに、ヴィルマが不安を感じるなど、お話にもならなかった。テーブルひとつ分の距離は決して深い谷底ではなかった。谷底を乗り越えなかったのは私だった。そうしようとも思わなかった[訳註:英訳では「飛び越えられない、飛び越えたくもない谷底は私の中にこそあった」]。ヴィルマは私から離れたテーブル越しに、窓の傍に座っていたが、それこそ私に何かを語ろうとしているからだという、そんな私の印象はますます確かなものになった。僕に何か隠しているの、と私が言うと、ヴィルマはくるりと背を向けた。私は狼狽しソファに座ったまま、流れるようなブロンドの髪を見つめていた。黄金のナイアガラだ。落ちたら最後、底無しのナイアガラ。
「私の実家はK村にあるの」ヴィルマは窓の方に顔を向けたまま、そう言った。
「私が生まれたのはこの町だけど、父はK村の出身よ。でも私はK村には一度も行ったことがないの。父も村には滅多に行かなかった、親戚もいるし、綺麗な村だと話してくれたのに。私もK村に連れて行って欲しい、そして向こうにいる親戚に会いたい、何度も父にそう頼んだわ。でも父はあれこれ理由をつけては、私を行かせようとしなかった。そうしてとうとうわかったの、父がどうして自分の生まれた村に私を連れていきたがらなかったのか、その本当の理由が。父がそうしたくなかった理由を私が知ったのは、ずっと後になってからよ。何年か前に、そこの親戚の一人が私に教えてくれたの、その村は収容者だらけだって。父の生まれた村は、収容所村だったのよ。それを知っていたのは父だけだった、だから、いつまでたっても私が自分の生まれ故郷を見に行くのを許さなかった・・・」 [訳註:アルバニア北部のクルブネシュKurbneshには実際に政治犯の収容施設があった]
 そこでヴィルマは沈黙した。彼女はずっと私に背を向けて、顔は窓の方を向いたままだった。
「こんなことがあり得るのか」私は思った。
「こんな天使のような存在が、飛び込めば跡形も残さず消え失せてしまう[訳註:原文pa nam e nishanは「叫び声も傷跡も無く」]ような黄金のナイアガラの持ち主が、ヂョダの娘だなんて、こんなことがあり得るのか?」
 当時のヂョダは「きちがいヂョダ」ではなかった。当時はまだ「恐怖のヂョダ」だった。彼は町の救いようのない子供たちにとって番人であり、様々な年代の子供たちにとっての番人であった[訳註:原語gardianには単なる「守護者」とは別に「牢番人、看守」の意味がある]。私と道ですれ違うと、彼は目を合わせず、顔を曇らせた。私に対する彼のよそよそしさは、私が大学を追われ、私の経歴の「地雷」が世界的に知れ渡ってからは病的なものになった。あの恐怖の男ヂョダが、何はなくとも明らかにすべき秘密、さもなければ重い罪に問われるような秘密を、何年にもわたって隠し欺いてきたこの私を許すはずがなかった。私は私のことを許さなかったが、私の父に対しても同様だった。彼は私に挨拶さえしなかったが、父に対しても同様だった。我々と目も合わせようとしなかった。目を合わせようものなら何かの病気にでも感染するかのようだった。挨拶でもしようものなら、まるで狂犬に噛まれでもしたかのようになっただろう。おそらく私や父は狂犬のように思われ、避けられていたのだ。
 ヴィルマはずっと黙ったまま、窓の方に顔を向けていたが、私は、もしかしたら、我らが幼年期の番人は、自分の娘をも守ろうとしていたのではないだろうかと思った。収容所村というのがどんなものか、番人ヂョダはよく知っていたのだ。収容者の所業に満ちた収容所村など、ヴィルマのような生き物の眼にとって衛生的ではない。収容者の顔で溢れた収容所村などを目にするには、ヴィルマは繊細過ぎるのだ。私は思った、ヂョダはそこまで自分の娘を大切に思っていたからこそ、あのような形容しがたい凶行に及んだのだと。噂では、彼は機関銃で町の男たちの半数をバラバラにしたらしい。だから番人ヂョダが自分の娘を、その健康に悪影響を及ぼしそうなありとあらゆるものから守ったというのも、驚くにあたらないことだった。収容者たちの顔など見たら、ヴィルマは具合を悪くしていただろう。
「その、親戚の女の子はね、私と同い年なの」
不意にヴィルマが言った。
「タンツィっていうのよ。今までタンツィなんて名前の女の子に会ったこと、一度だってある?」
と、思いもよらぬ素早さで、ヴィルマは私の方を向いた。流れるような髪がその向きを変えた。黄金のナイアガラが後方へ退いた。ヴィルマは頭に両掌をやり、指先を額へと下ろし、それから両掌で顔の上をするりと撫でた。
「父からタンツィの話を聞かされた時、私は」と彼女は言った。
「ちょこまかとすばしっこい[訳註:原語s’lënë dy gurë bashkë は「二つの石が一緒にならないほどの」で、「目にもとまらぬ速さ」という意味の慣用句]女の子を思い浮かべたわ。とんでもない踊りを、それこそ父の村の上にそびえる山の谷間で、山羊たちと一緒に飛び回るような、そんなとんでもない女の子を想像しようとしていたの。父から受けたK村の印象の中では、そこは奇跡のような観光地に違いないと思っていたのよ。でもタンツィは、そんな私の想像とはまるで違っていたし、K村もそうだった。もしタンツィが私に会いにティラナに来ていなかったら、たぶん彼女とも会うことはなかったでしょうね。ううん、わざわざ私に会いに来たんじゃないんでしょうけどね。私と会った時タンツィは『やっと運命が微笑んでくれたから、ティラナであなたに会えた』って言ってくれた。タンツィは愛らしい女の子だったわ。彼女の手はがさがさだった、あなたが働いていた現場の労働者の手よりも、ずっとがさがさだった。身体はがっしりして、動きが敏捷で、でもどこか肉体的に歪んでいたの、うまく表現できないけど・・・」
[訳註:英語版ではこれに続けて「彼女は賢い女の子で、三日間一緒にいただけで、私は自分がどれほど世間知らずで、はっきり言えば、どれほど甘やかされてきたかを思い知らされたのよ」と語るくだりがあるが、現在のアルバニア語版には何故か該当する原文が無い]
 ヴィルマは窓際から離れると、テーブルのそばの椅子に腰を下ろした。私と彼女との距離は縮まり、二人を隔てるものはテーブルだけになった。私は相変わらずソファに座ったまま、クッションの効いた背もたれに寄りかかっていた。ついさっきまで私は、自分に注がれるヴィルマの視線を感じながら、うつむいていた。だが今ではヴィルマの方がうつむいていて、私の視線に気付いているのかいないのかもわからない。私は彼女の顔の中にラディの瞳を探し求めた、彼女が自分に何か隠しているのではないかと言った、そして、なぜ彼女がよりによって今日という日にタンツィなどという変わった名前の親戚の話をしようとしたのか、それは分からないままだった。
「彼女のことを思い出すと」ヴィルマはまだ喋っていた。
「泣きそうになるわ。何日か前に彼女に会っていなければ、たぶん彼女の話なんかしなかったでしょうね。来週タンツィは結婚するのよ、その買い物でティラナに来ていたの。私も招待されたわ。行かないと思うけどね、わかるでしょ、父が許さないもの。でもそれは別にどうでもいいの。タンツィがね、一つ面白い出来事について教えてくれたのよ・・・或る女の人の話だけど・・・」
 ヴィルマと会うようになって三日目の午後だったが、或る女の話だと彼女が口にした時、私の中に燃えたぎるような悪寒[訳註:原語etheは「熱と寒気」]がわき上がった。
「よしてくれ」私は彼女にそう懇願したかった。
「何処かの女が何処でどうしたなんて話、聞きたくもない」
彼女の話に出てくる女性がブリジット・バルドーなどでないことは想像がついていた・・・タンツィがブリジット・バルドーのことなど話すわけがなかったし、タンツィの村にブリジット・バルドーが足を踏み入れたことなど一度もない。もし足を踏み入れていたとしても、どうして私がブリジット・バルドーの話など聞きたいと望むだろう?
 それを望んでいるのはヴィルマの方だ。ヴィルマにその話をしたのはタンツィだ。タンツィによればその女性は、名前こそブリジット・バルドーではないものの、たぐいまれなる美貌の持ち主らしい。その女性がトラックに乗せられてKに到着した時、彼女を目にした者達は呆けたようになっていたという。
「その女性はKにいるわ」ヴィルマは言った。
「収容者の家族が詰め込まれた建物に住んでいるそうよ」
さらに私が聞いた話では、タンツィにとってのブリジット・バルドーに無礼な態度をとろうとする者は誰もいないらしい。タンツィによれば、収容者が住むその建物が立っている山のふもとには、毎週のように一台の車がやってくるという。最初のうち、その車が何を連れ出し、何を連れ戻し、そして何処へと帰っていくのか、誰一人として知らなかった。それはソヴィエト製の旧式の「ガズ」[訳注:ガズ(ГАЗ)は旧ソ連の自動車会社「ゴーリキー自動車工場(Горьковский автомобильный завод)」の略称、またはそこで造られたソ連の国産車を指す。ちなみにこの会社は現在も存続している]で、よく整備されていて、車体は暗緑色で、窓にはカーテンが下ろされていた。車はいつも決まって火曜日の同じ時刻、午前十時にやっていて、ほんの数分停車し、再び元来た方向へ、粉塵を巻き上げて走り去るのだ。戻ってくるのはその日の夕方近く、しばしば夜遅くなってから、村が山のふもとで忘却の中に沈む頃で、エンジンの音が響いてくると、人々はその「ガズ」が、地鳴りを立てながら収容者たちの住む建物へと滑り込んできたことを知るのだった。最初にわかったのは、送り迎えされる人物だった:それは美しい女だった。最初のうち、村ではそのことを特に不思議には思わなかった。収容者を連れて時折、村から町へ、或いはまた何処かへ行ったり来たりする「ガズ」の往復など、別に誰も不思議がるようなことではなかった。そういう人々が何の用で呼ばれるのかもわかっていた。疑惑が生じたのは、その美しい女が町へ呼ばれるのは単に尋問のためではないことがわかった時だった。誰がその件に鼻を突っ込もうとしたのかはわからない。どうしてその「ガズ」の往復の真の目的が明らかになったのかもわからない。おそらくただ一人の人物によって明らかにされたものではないだろう。最もあり得るパターンは、美しい女の謎めいた行動が、その彼女に首ったけな連中によって明るみに出たというものだ。この首ったけ連中の執念深さが、注意深く設えられた防護措置を無力化してしまったのだ。その美しい女は町が終着点ではなかった。その美しい女は町を横目に通り過ぎ、森の中へと向かったが、その森の傍らには保養地があり、その保養地の傍らには一軒の狩猟小屋があった。そこでその美しい女は或る人物と会っていた。その人物は、灰色の眼をしていた。狩猟小屋の中で、その美しい女は灰色の眼の人物と二人で閉じこもっていた。村では、彼女がその灰色の眼の人物と愛の営みにふけっているのだと噂になっていた。スパイ活動に従事しているのだと話す者たちもいて・・・
 不意に私は解き放たれたバネのように勢いよくソファから飛び上がった。そしてヴィルマの肩を摑むと、ぎゅっと力を込めた。ヴィルマは蒼ざめて、怯えの感情が青い瞳の中に渦巻いた。ヴィルマがタンツィの話したことを繰り返している間、私の耳はガンガン鳴っていた。それはソヴィエト製の旧式の「ガズ」が、村の道を砂埃を巻き上げながら走り回っている轟音だった。その車が乗せているのはブリジッド・バルドーではない。いやたぶんブリジッド・バルドーも、オーガズムに達すれば叫び声を上げるに違いないのだ、ソニャとそっくりな叫び声を。美しい女が森へと向かった話をヴィルマがしている間、私の耳は喘ぎ声じみた悲鳴に掻き乱され、私はさながら、ソニャが灰色の眼の男に抱かれる様を生々しく目の当たりにしているようだった。そうして私は思ったのだ、自分と同じだ、ソニャも自殺などするつもりはなかったのだと。そしてこうも思った、ソニャは生きながらにして死を生きているのだ、灰色の眼の男の息のかかった下で。
「この話、あなたは興味があると思ったから」とヴィルマは言ったが、その時も彼女の青い瞳の中には怯えが渦巻いていたし、私は私で彼女の肩を摑んだまま、彼女を窓から放り出したいと思っていたのか、それとも彼女の青い瞳の中に飛び込んでしまいたいと思っていたのか、自分でもわからないままだった。
 私は彼女から手を放すと、ソファに腰を下ろした。ヴィルマは恐怖に憑かれたままで、まるで咽喉に手をかけられ、もう少しで息絶えそうになっていたところを突然の天啓の介入で命拾いした人のようだった。私はルルのアパートを出た。外は夜が更けつつあった。

15
 その翌日、私の日程はバーから始まった。私にとっては、呪われた時の到来だった。
 バーは空いていた。憶えているのは、十二歳ぐらいの少年が、一直線に私のところへやってきて挨拶をすると、ズボンの尻ポケットから封筒を取り出して私に手渡し、私はと言えば、送り主は誰かと訊ねもせず、自分のズボンの尻ポケットに突っ込んだことだ。私は彼のことを伝令のヘルメスのように美しいと言いたい気持ちになった、そんな素描画を私は何処かで見たことがあって、そこでは足に翼のついた少年の姿が描かれていたのだ[訳註:ヘルメース( Ἑρμῆς)はオリュンポスの神々の一人で、ゼウスの息子にしてゼウスの使者。羽根のついたサンダル(πτηνοπέδιλος)を履いているとされる]。その少年に頭がおかしい奴だと思われるのではないかと不安になった私は、ヘルメスのことを口には出さず、封筒を届けてくれた苦労への報酬として、カダイフを勧める方がいいだろうと考えた。少年はそれを受け入れなかった、たぶんカダイフは食べなかったはずだ。いやたぶん、私におごられることは彼の自尊心にかかわることだったのだろう[訳註:カダイフ(kadaif)はトルコ語kadayıfに相当し、小麦粉を麺状に押し出した生地、またはそれを重ねて焼いた甘い菓子。ちなみに英語版ではbaklava(アルバニア語bakllava)となっている。厳密には異なるが、どちらにしても激甘]。親しげな、そうでもなさそうな視線を送って、川沿いの住人たるヘルメスは立ち去った[訳註:「川沿いの住人」の原語bregalumasはそのまま「川のほとりに住む」意味の形容詞。明言はされていないが、野外生活者の子であることを示唆している]。それから私は、封筒を引っ張り出して中身を見たい魔力のようなもの[訳註:原語yshtjeは「魔法の呪文」]を感じた。その代わりカウンターへ行ってもう一杯注文した。そして、誰から来た封筒なのか、中に何があって、何が書かれているのかと考えていた。
 女給仕は私の学校時代の同級生だったが、バーが空いているのをいいことに、頼みごとをする時のような、また不安そうな口調で、もう飲まない方がいいと忠告してきた。私は彼女に有難うと言った。彼女は私に呪われた時が迫っていることは知らなかった、でなければそんなつまらない忠告を私にしようとはしなかっただろう。それで、どうして飲んではいけないのだ?私のような重要でも何でもない者が飲んだところで、社会のモラルの土台に一口なりとも噛みつけるというのだろうか。言うまでもないことだが、膝上何センチまでが女子の健全なモラルで、アルコールが何グラムなら社会のモラルの土台を揺るがすのか、誰にも決められるはずがないのだ。私は酒を飲むことを禁じられ、女子たちはミニスカートを禁じられる。国は飲むための酒を売るが、ミニスカートは売らない。そうだ、酒を飲むことに責任を負うのは国であり、私ではない。そして、女子がミニスカートを履かないこともまた、責任を負うのは国なのだ。多かれ少なかれそういったような理屈付けを私は子供時代からの女友達につらつらと話して聞かせた。彼女はうんざりしていた[訳註:英語版では「吹き出した」]。うんざりした挙げ句、彼女は私にコニャックのダブルをタダで出してくれた。
「もうこれ以上、私にそんなどうでもいい話を持ち出そうなんて思わないでね」 隅のテーブルへ戻る私に、彼女が声をかけた。
「そのコニャックをあげるのは、あなたがまともな人だからよ、どうせそれを飲んだら、あなたはおとなしい羊みたいにまっすぐ帰るんでしょう」
 私は手を振って応えた。そしてコニャックを少しすすった。ほんの少し。もし私が大騒ぎしていたら、その子供時代の女友達は私に一滴たりとも飲ませるつもりはなかっただろう[訳註:「大騒ぎ」の箇所はアルバニア語原書では「牙が象になる」、仏語版では「牛のように鳴く」。他方英語版では「それは確かだ」、独語版では「教会でアーメンというほど当然だ」と著しく異なる。ここではアルバニア語原書と仏語訳に拠った]
 だが私はあれこれ考えていたかった、そして落ち着きたかった、私に呪われた時が訪れる、まさにその時までに、世界との平衡に達したかった。そして、その平衡に達するために、私は哲学的な冷静さをもって理由付けを行う必要があったのだ。そしてまた、そうした哲学的冷静さに達するために、私は飲み続ける必要があった、少なくとも、グラスが空になり、平衡に達するまでは。そうして、一口を惜しみながら私は理由付けをしていたが、結局のところ出て来たのは、私も、そしてソニャも、必要とあらば自らの命を絶つような、そういうタイプの人間ではないということだった。私も、そしてソニャもまた、どんな環境でも何らかの解決を見出す人間の範疇に属しているのだ。そういう風に考えているのはソニャも同じだったはずだ、そんな理由付けを私は続けた。それ以外のことは重要ではなかった、ひとかけらも重要ではなかった。灰色の眼の男は旧式の、しかし手入れのよいソヴィエト製の「ガズ」で何度か彼女を迎えに来ていて、しまいにはソニャも理屈に訴えた。何にせよ、灰色の眼の男とソニャとの取引は決して容易なものではなかった。言いかえれば、ソニャと灰色の眼の男との取引もまた、決して容易なものではなかった。二人の間の合意は、商談の末に達成したものであったろう。ソニャは自分の品を売ったのだ。では灰色の眼の男はどのような値でそれを買ったのか?だがそれもまた、これっぽっちも重要ではない。ソニャは結局のところ理屈に訴え、商談が為され、「ガズ」はソニャを連れ出し、そして町へと向かった。その点だけが単純な連中の記憶に残ったのだ。実際のところ「ガズ」は通りを走り抜けると町の外へ出て、さらに森の中へ、松の木が茂るその森の中の保養地へ、そこにある、灰色の眼の男が自分の住まいとして使っている狩猟小屋へと向かう、と実際はそういう商談だったのだ。ソニャが何かしら商談を行ったことは確かだった。
 私は残ったコニャックのしずくをあおった。自分が砂浜に打ち上げられた魚のような気分で、じりじりと焼けつくような渇きを感じて飲んだ。そうしながら幼馴染みの視線を横目で盗み見ていた。彼女がこれ以上私に飲ませたくないと思っていることはわかっていた。彼女は小太りで人当たりのよい感じの女だったが、私には頑として[訳註:原文では「象の牙を得るように」]飲ませようとしなかった。それに、彼女の耳は静寂そのものだったが、私の方は耳鳴りがしていた。彼女の耳には、旧式のソヴィエト製の「ガズ」が森を走り抜ける轟音は聞こえていなかった。狩猟小屋の板張り床の上を歩くソニャの足音も聞こえていなかった。だが私の耳には何もかもが聞こえていたし、何もかもが見えていたのだ。
「飲ませてくれよ、おかみさん」そう私は叫びたかった。ソニャの喘ぎ声に頭がおかしくなりそうだった。灰色の眼の男の息遣いに、頭がおかしくなりそうだった。二人の裸身が板張りのベッドの上でリズミカルに跳躍する、その動きに頭がおかしくなりそうだった。もしその時に二人目の客が入って来なかったら、私は小太りの女主人を八つ裂きにしていただろう。だがその客は神の使者たる天使などではなかった。それは我が守護天使のドリであった。
 ドリに言わせると、その日の私のユーモアは攻撃的だったそうだ。私にはわからなかった、どうしてドリまでもが、あの幼馴染みの、カウンターの女給仕と同じことを私に忠告してきたのかと。
『もう飲まない方がいい』
 その日は私に向かって誰も彼もが、もう飲まない方がいいと要求してきた。余りに度が過ぎている[訳註:原文は「両手で頭を抱える」]と。あんたも自分に渡す手紙があるのかとドリに訊ねた私は、肩を摑まれ、殆ど力づくで外へと連れ出された。どうやらドリは、私が侮蔑の言葉を吐こうとしているか、私が支離滅裂なことを口走るまでに酔いどれていると思ったらしい。だが私は侮蔑などするつもりもなかったし、支離滅裂なことを言ってもいなかった。自分をバーから引きずり出そうとするその手段こそ、暴力そのものだと私は喋っていたのだ。
「俺は抗議するぞ」私は言った。
「暴力の行使に抗議するぞ。これは暴力だ」私はなおも続けた。
「こんなことができるのは、灰色の眼の男みたいなプロレタリア独裁機関だけだ。プロレタリア独裁こそ、真に暴力を加えることだ。その真のものが加えられている場所こそ、樫の木のベッドの上だ、松の木の狩猟小屋の中だ、違うのは、暴力が暴行と化したことで・・・」
[訳註:アルバニア語dhunë「暴力、傷」の派生語përdhunëは「暴行、強姦」の意味]
 そこで一発ぶん殴られて私は黙らされた。そこは町の中心の公園の傍だった。自分の周りにイボタが生い茂っている[訳註:原語ligustraはイボタノキ属の低樹木。日本で同種のものはネズミモチ]。私はドリに目をやった。彼は嘲笑を浮かべていた。
「もしお前が牢屋の中で終わりたいんだったら、わめき続けてればいいさ」とドリは言った。
「俺はお前に付き合う気なんかないぞ。あと一言でも口走ってみろ、お前の脳天に一発喰らわせてやるからな」
 そこで今度は私が嘲笑う番だった。
「お前は汚らわしい臆病者だ」
私はそう言い返した、ただし声を落として。
「まるで軟体動物だ。お前もそれぐらい認めたらどうだ。俺は自分がそうだって認めてるぞ、俺は軟体動物だ」
[訳註:原語moluskは「軟体動物」。この文脈では、特に貝類など殻を持つものを指しており、明らかにマイナスのイメージで用いられている]
 私は軟体動物の哲学の特性についてもう少し何か付け加えたかった、軟体動物の国家について、軟体動物の独裁についてだ。だがそれはかなわなかった。喉元にせり上がるものを感じて、私は公園の隅で、セメントの粉にまみれたイボタの上に吐いた。それからドリは私を家へ連れて帰った。家で私は、軟体動物の国家における普遍的な特性について一席ぶった。ドリは母が入れたコーヒーを飲みながら、それを聞いていた。そしてコーヒーを飲んだドリは帰って行った。私は眠りについた。眠ってしまったので、私の頭に残っていたのはただ、明日目が覚めたら必ず会いに来いとドリに言い渡されたことだけだった。そう言って彼は階段を下りて行った、必ず会いに来いと言い残して。しかし私は、どうして会わなければならないのかわけがわからぬまま、階段の手すりにもたれかかり、悪態をつき、手を振りながら、こう叫んでいたのだ。 「また会おうな、軟体動物よ!」

 また会おうな、軟体動物よ!また会おう!だが何処で?そして何故?目が覚めた時、私はそんなことを自問自答していた。一晩中ずっと、ドリが何処で、そして何故、自分に会おうとしているのか、そんなことばかり考えていた。その日は空虚に感じられた、まるで軟体動物の抜けた殻のように。ありとあらゆるものがどす黒い不吉のしるしであるような、不吉な日だった。私が今こんなことを言うのは、別に、階段を下りた時に目の前を黒猫が横切ったからというだけではない。猫の色さえ何だったかはっきりしないのだ、もしかしたら灰色だったかも知れない。何にせよ、それは猫だった、灰色であれ、或いは黒であれ、虎ではなかった。それは単なるネコ科の肉食動物の一族、最も無害なものの代表格であって、むしろそれ故にこそ、不吉をもたらすとされているに過ぎないのだ。
 イボタの茂る公園の脇の、バーの扉へと続く道に面した場所に、大柄な男が一人、憤然として立っていた。腕組みし、瞳には怒りが火花のように散っていた。男が私を見たその時、私は、まさにここで、この日の不吉が私を待ち構えていたのだと思った。それはヂョダだった。彼が外に出てきて、まさしく私のためにここに立っているのだという強烈な感覚に襲われた。最初は道を変えようかと思った、誰もが黒猫に出くわしたら道を変えるのと同じように。もっとも私は猫が黒だろうが灰色だろうが、迷うこともなくそのまま歩いて行くのだが。私は顔を伏せたまま、会釈もせず彼の前を通り過ぎた。何としてでもできるだけ早くバーにたどり着いて、コニャックの大グラスを、瓶まるごと一本をひと息にあおることしか眼中になかったのだ。わめき散らさぬように、この世で知る限りの最も汚らわしい言葉を吐き散らす前に。ところが、どうやらヂョダにはヂョダの算段があったようで、ただ通行人を見張るためだけに、外へ出て道端で公演の囲いの杭のように突っ立っているわけではなかったのだ。私が顔を伏せて前を通り過ぎようとしたその時、ヂョダがフンと鼻を鳴らした。彼が私に何を言おうとしているのか、私にはほとんどピンと来なかった。ともあれ、この子供時代の番人は私に敬意を表して、バーの扉へと続く道のど真ん中に罠を仕掛けたのであり、この場所こそが、私を捕えるには最も確実な場所だったのだ。罠の中では普通なら機関銃が火を吹き、爆弾の一つも投げ込まれるものだ。そしてヂョダの爆弾は「鏡を見ないで耳たぶを気にする時はな」という言葉だった[訳註:「聞き耳を立てる」に相当する慣用表現]、それをまるで歯の隙間から痰を吐くように口走った。私は、鏡を見ようが見まいが耳たぶを見ることなど自分は気にも留めていないと言い返した。
 私が放った返答は無駄に終わったらしく、ヂョダには痛くもかゆくもなかった[訳註:原文では「ヂョダに負債を負わせない程度の答弁を放った」]。私は、それが他人に与える意味、その破壊的な効果にはこれっぽっちも思いが至らなかったのだ。ヂョダの顔はどす黒くなった[訳註:怒り、或いは恥辱で「顔を真っ赤にした」に相当する表現]。紙凧[訳註:なりはデカいが芯のしっかりしていないものに対する比喩]のような、私より頭一つ分だけ大きいその体躯がぶるぶると震えた。
「この馬鹿野郎め」ヂョダは鼻を鳴らした。
「くたばらせてやる」[訳註:既出だが原文は「土を喰わせてやる」] ヂョダはその言葉を何度も、むしろ自分自身に言い聞かせるように繰り返していた。私はヂョダに背を向け、彼をその場に残したまま、イボタの茂る公園の脇の道を歩いて行った。
「くたばらせてやる・・・くたばらせて・・・」
その時、私はヂョダの憤怒の理由に思い至ったのだ。三日間も続けて私はヴィルマとルルと一緒にいた。そしてヴィルマはヂョダの娘だ。そしてヂョダは自分の娘を、狂おしいほどの愛情で以て愛しているのだ。
「見られたんだ」私は思った。
「誰かが俺達を見ていたに違いない、誰かが、俺達がルルのアパートにいたのを見つけて、それをヂョダに知らせたに違いない」
寒気が背筋を駆け抜けた。恐怖からではない。自分の娘の首筋に近寄る連中にヂョダが何をしようとするのか、私にはわからなかったし、私は間違いなく、そういう連中の範疇には含まれていなかった。だが私の返答は悪いものに、十分に悪意にとられてしまった。抗しがたい誘惑にかられた私は振り返らざるを得なかった。ヂョダは歩道の脇の同じ場所に立ったままで、私に対する怒りを火花のように散らしながら、ずっとこちらを見つめていた。もはや疑う余地はなかった。見られたのだ。
 私はバーに戻らなかった。もしバーに入ってしまったら、ずっとその場所に居座り続けることになっていただろう。私は工場へ向かった。その日は煙がまっすぐに、まるで黒い噴水のように立ち昇っていた。ふと、
「犬は吠えるままにさせよ、煙はまっすぐ昇らせよ」
[訳註:原文は“Qentë le të lehin, tymi të shkojë drejt”]
という今風の言い回しが頭に浮かんだ。その後で
「犬は吠えるままにさせよ、隊商は前進させよ」
という正しい表現を思い出した。
[訳註:原文“Qentë le të lehin, karvani shkon përpara”はアルバニアのみならず中東からバルカンに至る広い地域で用いられている格言で、「言いたい奴らには言わせておけ」といった意味。アルバニア語圏では後半を言い換えて使うことが多く、「煙はまっすぐ昇らせよ」もその一例]
「馬鹿馬鹿しいな」私は一人ごちた。
「誰が犬で、誰が隊商なんだ?」
私は工場の前で、しばらく呆けたように立ち尽くしたまま、大空との完全な平衡の中で、溶け込むこともなく、まっすぐに立ち昇る黒い煙を眺めていた。ほんのひと吹きさえあれば、そうだ、空がひと吠えさえすれば、煙は散り散りに拡散し、隊商は崩れてしまう。世界の平衡は崩れてしまうだろう。そして私も土を喰らうことになる。ヂョダは私に土を喰らわせるのだ。ラディがそうであったように。一方ソニャにはそんなものを喰らうつもりはない、彼女は取引したのだから。だが私はどんな取引を、誰とすればいいのだろうか?そこで私は、自分がきっとドリに会わなければならないことを思い出した。だからドリは私に命じたのだ、必ず会いに来いと。
 だが彼は見つからなかった。工場の周囲には人の足跡も見当たらなかった。その日は何もかもが打ち捨てられているように見えた。ラボも無人だった。ヴィルマも、ルルもそこにいなかった。その打ち捨てられた感じが私を恐怖に駆り立てた。ミキサーの轟音が、まるで地の底から発する地響きのように私の耳に届いた。
「誰かいないのか?」
とうとう私は力の限りに大声で叫んでいた。誰の返事もなかった。ただミキサーだけがゴロゴロと回っていた。
「誰かいないのか?」
私がもう一度、絶望感で繰り返した時、ラボの隅の、作業帽をかぶった頭が目に入った。それは午後の番に来る女性助手の頭だった。五十代で、肉付きのよい丸々とした顔で、いつも眠そうな顔をしていた。轟音のせいか、作業帽のせいか、或いは耳に詰めた蠟栓のせいか、彼女は私の叫び声も聞こえていなかった。振り向いて、ラボの中に私がいるのを目にすると、彼女は悲鳴を上げた。
「俺は化け物じゃないぞ、この馬鹿め!」
私は怒鳴りつけた。間違いなく、彼女に聞いてわかることなど何もないと思った。彼女によるとドリは会議中で、ヴィルマとルルは休んでいるらしい。彼女はもう一人の女性の助手と共に、今日はサイロから出てきて欲しいと緊急に呼び出されたらしい。というのも、午前中に誰も姿を見せなかったからだ。ヴィルマについては、誰も欠勤の理由を知らなかった。ルルは入院していた。ルルの入院の理由を訊ねると、その女性助手は恐怖にとらわれたように私を見つめた。
「襲われたのよ」彼女はそう説明した。
「重傷を負ったの。ゆうべ家に帰る途中、暗がりで誰かが飛び出してきて、頭を何かで殴られて、それで・・・」
 彼女の丸い顔は真っ青になっていた。私はその場を立ち去った、もうそれ以上は聞く必要などなかった。身震いするほど悪い想像が頭の中を駆け巡って、ドリに会いに来るよう言われたこと、ヂョダが待ち伏せていたこと、ヴィルマがいないこと、ルルが襲われたこと、それらが互いに結びついた。私は病院へ向かった。
 ルルは、他に四人の手術を受けた女たちと一緒の部屋に入れられていた。幸いにも私は外科部長と顔見知りで、彼は私も住んでいるアパートの中央の、入ってすぐのところに住んでいた。彼は私用に白衣を見つけてきて、ルルが寝ている部屋まで私を案内してくれたが、余り長居しないようにと注文をつけた。中に入った途端、私は悪寒に襲われた。部屋の隅に女性が一人、そしてその枕元に少女が二人座っていた。女性は苦しそうに呻き声を上げ、水を求めていたが、水を与える者はいなかった。私が部屋に入ると、少女二人は振り向いてこちらを見た。それから自然に、二人の視線は私から離れ、右側にあるベッドの方へと向けられたので、私は、そこに寝ているのがルルに違いないと思った。そしてそのことに気付いた私はたちまち固まってしまった。外科部長の気の利いた計らいも、私を手助けしてくれた用意の良さも、隣近所のよしみとはいえ、予想を上回るものだった。そして今、少女たちが底意に満ちた視線を投げかけ、そしてその視線は、私が向かうであろうベッドへと向けられている。もはや一点の疑う余地もない、私がルルのところに出入りしていたことも、今や町じゅう皆の知るところとなっていたのだ。
 私は少女たちに背を向けた。薬の重苦しい匂いが、女たちの重苦しい匂いとないまぜになって、私は臓腑が喉元までせり上がるような気分だった。私はルルの頭に指先を伸ばした。ルルは私に気付くと、ああ何ということだ、口元に微笑みを浮かべたのだ。その微笑みも粉々に打ち砕かれてしまった。だがそれでも、ああ気の毒なルル、彼女は何とか口元に微笑みを浮かべようとしたのだ、まるで私に慈愛を与えようとでもするように。その顔色はどす黒く、片方の目は腫れ上がり閉じていた。私はベッドから垂れた彼女の手を取り、自分の両掌で包み込むと、ひざまづき、冷え切った彼女の手の肌に唇を押し当て、口づけし、そして喉から絞り出すような声でつぶやいた。
「ルル、誰が君にこんなことをしたんだ、教えてくれ!」
 ルルはもう一度、口元に微笑みを浮かべようとした。彼女は滅多に笑わない女だった。それでも彼女が笑う時には、その顔に自然の奇跡が現れるのに気付くことだろう。だがその日は、腫れ上がった顔と片方だけ開いた眼の他に、目を引くものは何もなかった。
「真っ暗だった」ルルは途切れ途切れに語った。
「頭に袋をかぶせられたの。急に襲われて、私は怒りで声も出なかった。歯を食いしばって耐えようとすると、もっとひどく殴られた。そのうち殴り疲れたのか、頭に袋をかぶせたまま私をアパートの入口の階段のところに放り出した。私を殴るのに飽きたのか、それとも誰かに見られたと思って急に怖くなったのかしら。近所の人が二、三人出て来て、ぼろぼろの袋みたいになった私を見つけたけど、暴漢たちは姿を消していたわ。初めのうちは、何が起こったのか、自分に何があったのか、わからなかった、ただの強盗だと思っていたの、それが自分を襲おうとしたんだって。でもそうじゃなかった、少なくとも強盗じゃなかった。ただの連中だけど、間違いなく、あのバーのごますり連中よ。今ならよくわかる、どうして私にこんなことをしたのか。あなたもわかるでしょう、だから気を付けてちょうだい[訳註:原語は「だから両目を開いてちょうだい」]
 私はずっとルルの掌を両手で握っていた。
「君の言う通りだ」私はささやいた。
「あいつらはかさぶただらけの犬どもだ。あいつら、女にも一対一じゃ出て行こうとしないんだ。いつもグループで固まって、群れている、狼と一緒さ」
 ルルは、私の声が大きくならないようにと掌をしっかり握りしめた。
「ルル」私は言った。
「俺のせいで、君をこんな目に遭わせてしまった。今日これから、君に触れようとする奴は俺が相手だ。聞いてるか?君の髪のひとふさにでも触れようとする奴は、俺が相手になってやる」 私は、ルルの掌がしっかり握りしめてくるのを感じた。それから私はたわいもない話をした。だがどんな厄介なことでもする覚悟はできていた、復讐するには充分だった。

 病院を出たのは昼近くだった。私はバーへ通じる道を避け、長く伸びた環状路を通って自分の住む家へと歩き、裏通りを抜け、半ば忍び込むように家へと入った。そんな意味のない行為をしたのはたぶん、ルルと枕元で会話しながらの決意が、自分の責務であると確信したかったからだろう。彼女の陰鬱な表情と、片方だけ見開いた眼が私から離れなかったし、彼女が努めて口許に笑みを浮かべようとしていたことに、私は痛みを覚えた。
「気の毒なルル」私はつぶやいた。
「何だって君がこんなことに」
 鍵を回し、家の中に入った。アパートの部屋には誰もいなかった、母も父も仕事に出ていた。アパートの静けさが私の神経を鎮め、頭がすっきりしてくると、冷静にものを考えられるようになった。まず最初に、私はコーヒーを沸かした。コーヒーを沸かしながら、あの時、あの連中が全員バーにいて飲んでいたなと考えた。実際のところ、私にとってその全員が必要だというわけではなかった。私にとって必要なのは唯一人、ファグだけだった。他は私にとって用無しだった。
 コーヒーがふきこぼれて、ストーヴの上に散り飛び跳ねた。部屋にコーヒーの焦げた匂いが充満した。[訳註:アルバニアで単に「コーヒー」という場合、それは所謂「トルココーヒー」であり、小さい金属製のポット(ヂェズヴェ)にあらかじめ水とコーヒー粉と砂糖を加えて煮る形式のものを指す]
「さてどうしようか、俺たちは」と、ヂェズヴェから液体をカップに注ぎながら私はつぶやいた。
「俺にしたことを、この俺がおとなしく飲み下すとでも本当に思っているのか?お前はずっとそう思ってきたのか、きっとそうだろうな。
『あいつは臆病者だ』と、そうお前は言ったのだろう。『たかが学生風情が、ルルごときのために危ない橋を渡るわけがないさ、一石二鳥じゃないか』と、お前はそう言ったのだろう。[訳註:「一石二鳥」にあたる原語“një rrugë e disa punë”は直訳すると「一本(しかない)道で多くの仕事(ができる)」。転じて、「同時に複数の問題を解決する」の意]
『あのやり手ババアみたいなルルに教えてやるんだ、長生きしたけりゃ忘れるなってことをな』と言ったのだろうな。かくして事件は町を震撼させる、いずれにしてもだ。人々はルルの頭に袋がかぶせられた理由を知るだろう。ヂョダも知るだろう。そしてあいつが最初にすることは、能無しどもの集会だろう。素晴らしいぞ、ここまでの段階で、お前の考えはしくじっていない。ヂョダは怒り狂って、ヴィルマに腹を立て閉じ込めて、家から一歩も外へ出さないだろう。ルルが教えてくれた通りだ、ヴィルマは自分の女友達が入院している病院へ出かけていくことさえできないのだ。ここまでは、お前の計画は、まさにその通り、予定通りに進んだわけだ。だが、お前の本当の計画はこんなものじゃないだろう。お前には、ルルを恐れおののかせる方法が幾らでもあった、ヂョダに自分の娘の所業を知らしめる方法だって幾らでもあった。それなのに何だってお前は焦ってこんなことをしたのだ、俺は言いたいよ、何だってお前のところのならず者を二人も寄こして、暗闇の中で無防備な人間を、誰の髪のひとふさにも触れたことのない哀れな女[訳註:原語gjynahqarは宗教的な意味で「罪深き者」]を、何だって殴ったりした?殴ることがあったのかい、ファグよ、お前だって、彼女の苦痛に苛まれる気の毒な様を見れば、申し訳ないと思うだろうよ。お前にだってけだものなりの本能があるだろう、ファグよ。お前がけだものの本能以外で動くことなんてあり得ないからな。俺は心からお前のことを残念だと思っている。お前の仲間にもだ。俺も俺自身を残念だと思う、俺たち全員をな。だからお前にも訊きたいことがあるんだ、答えてくれないか。何だって俺たちはこんなことになっちまったんだ?お前は笑って、笑いくたびれるほどに、俺をバカ呼ばわりした。こんな問いかけも、お前の怠惰な脳ミソにはほとんどこたえないんだろうな。この俺が苦しめられている時、俺たちがどれだけ悲惨な状態なのかと思うとゾッとするよ。俺のこの問いが、ただお前の神経に障りさえして、お前のパンくずだらけの頭に響きさえすればと考えて、俺はゾッとするよ。
 泣きわめくがいいさ、ファグよ。俺は憶えているぞ、俺たちが子供だった頃、お前の父親は軍人で、将校だった。今はどうだか知らない、まだ仕事を続けているかも知れないし、もう年金暮らしに入っているかも知れない。お前の父親はヂョダとも友人だった、それなのにお前のことをヂョダは杖でぶちのめしたんだ。この俺をぶちのめしたようにな。俺の父は、ヂョダが俺に喰らわす杖を認めていた。だがお前の父親は、それを認めていたのか?そら、また怒り狂うがいいさ、俺の問いをお前は侮辱ととらえるんだな。俺はお前も、お前の父親のことも侮辱したくはない。俺たちは子供時代を鞭と共に過ごしてきたし、今もまだ鞭の下に留まり続けている。それこそが俺たちの不運なんだ、ファグ。何故って、鞭は痕が残るし、墓でも消せやしないからな。だからお前にしても、お前の周りにいるあの番人どもにしても、自分より弱い者達に暴力を振るうことを合法だと言い立てている。薄汚い商売だよなあ、ファグ、それは認めるべきだぜ。ルルのような無防備な、罪もない存在を殴りつける、それは胸糞の悪い連中のすることだし、お前だって胸が悪くなるんじゃないか。胸が悪くならずにいられない者だっている、この俺がそうだ。ところがどうだ、こうしてお前と喋っている中で、俺は努めて冷血になろうとしている。お前と面と向かっていてもこうして冷血でいられるかどうか、俺にはわからない。もし面と向かうことになったらどうなるか、それは議論するまでもないだろう。ちゃんと話し合おうぜファグ、お前はルルを殴っておいて、扉で聞こえるところまで近付いた。扉はこの俺だ、お前のメッセージはよくわかった。だがな、お前は一つ小さなミスをした。お前は忘れている、俺がお前と同じようにこの町で育って、同じものを食って、セメントのほこりを喰らってきたことを。俺たちは二人とも、セメントのほこりを喰らってきたんだぞ、ファグ、つけの清算は俺たちなりのやり方でやるってことも学んでいるんだ。つまりお前は間違ったんだ、ルルを殴って、それで俺を震え上がらせることができる、ヴィルマから手を引かせることができるとお前が信じたその時からな。お前もヴィルマが欲しいんだ、俺は知っているぞ。子供時代からの古い遊びにずっと信頼を置いていると思っているお前自身に、身体が震えてくるだろうよ[訳註:アルバニア語版では「思っている」と「身体が震えてくる」にあたる動詞は2人称にも3人称にも解釈できる形になっているが、英語版では主語が1人称に、またドイツ語版では不特定の「人」に、更にフランス語版では(動作主をぼかした)非人称の構文になっている。ここでは他の言語版も参考にしつつ、概ねアルバニア語原書の表現に従った]。俺はお前のことが気の毒だよ。もし俺のところに来て、面と向かって嘆きわめいてくれれば、こんな単純なことでここまで馬鹿馬鹿しいことにはならないんだ、何故って俺はヴィルマとは何もないんだから。それがお前の行動の悲喜劇たる面でもあるんだ」
 私はカップをテーブルの上に置いた。コーヒーで落ち着いてくると、頭がすっきりする感じがした。ただ胸の中に何かしらくっついているものがあった。蟹が一匹、胸郭にある空間の中に張り付いていて、それが動いただけで胸郭が破裂しそうな感覚だった。それは私の憤怒の蟹だった。身を縮こまらせたままで、噛みついてくることはなかった。じっと待機して、私の動きを見張っていた。私は立ち上がり、服をしまってあるタンスの方へ歩いた。探していたものはタンスの隅の方の引き出しの中の、表面に古着が無造作に突っ込まれた、その下にあった。それはナイフだった。砕石場でほんのしばらく、楽観主義者どもに対抗して使っていたものだ。バヨネット[訳註:12章参照]の鋼刃のついた、綺麗なナイフだった。それは油の浸みたぼろ切れでくるんでビニール袋に入れてあって、その袋は木製の小箱にしまってあった。私はそれをゆっくりと、思いの向くまま、刃がピカピカになるまで磨いた。そのナイフを手にしたまま、私はベッドに横になった。規則正しく呼吸すると、心臓は正常に拍動していた。内面の声が、そのナイフをもう一度そのぼろ切れに包んで、そのぼろ切れをビニール袋に入れて、ビニール袋を小箱に入れて、小箱を古着の中にくるんで、そうして眠ってしまえとささやきかけるのだった。それは私の良心の声だったのだろうか、それともヴィルマの声だったのだろうか。おそらくは私の良心の声であって、それがヴィルマの声で私に話しかけてきたのだろう。ずっと私に聴こえていたのは、ヴィルマの声だった。それは私に小声で、苦痛に満ちた声で話しかけてきたが、その間も私はナイフの刃先をじっと見つめていた。困ったのは、自分が眠れないし、何も感じられないし、いかなる種類の感情も湧き上がってこないことだった。ヴィルマの声は、遠くから聞こえていた。ヴィルマの声はまるで別の惑星から聞こえてくるようだったが、しかし空間的には彼女は私のすぐ近く、道路を隔てた数百メートル向こうの家に閉じ込められているのだった。
「あんたなんか関係ない」私は呆然となりながらつぶやいた。
「あんたなんて、俺と何の関係もないんだ。あんたは汚れを知らな過ぎる、この世界のことになんか巻き込まれるべきじゃないんだ」

 私は外へ出た。ヴィルマのささやく声を引きずりながら。自分がヴィルマに感じているものが何なのかわからなかったし、そんな感情にどんな名前を付けたらいいのかもわからなかった。午後になっていて、うだるような熱気で息も詰まりそうだった。埃っぽい空が町の上に広がっていたが、その時初めて、この空は本当に埃っぽいのだろうか、それとも自分にはそう見えているだけなのだろうか、という疑問が浮かんだ。ヴィルマにも、彼女が幽閉されている部屋の窓から、こんな風に埃っぽい空に見えているのだろうか?
「本当にな」私はひとりごちた。
「何だって、俺とヴィルマが同じ空を見ているなんて思わなければならないんだろう?違う人間が、悪は誰にとっても悪で、黒いものは誰にとっても黒い、そういう意味での同じ世界を見ているなんて、何だってそんなことを認めなければならないんだろうか?目を閉じさえすれば、世界は消え失せてしまうのだ。眠るのと同じように。眠りもまた死だ。二十四時間ごとに人間は、死の眠りに向けた訓練をしているのだ」 そう思った。自然と自分の手が動いて、ナイフを入れた場所に、ズボンの右ポケットの中の辺りに触れていた。
 いつも通り、その時間にファグとその仲間たちは、私が座るホールの反対側の隅にあるテーブルを占領していた。私が入ってきたことは、完璧な無関心で迎えられ、誰一人として私の方を見もしなかった。それで私は、自分の来訪が待ち望まれていたのだと知った。素早く、あの中の誰がルルをリンチした奴なのか、見つけ出そうとした。そして、誰であれリンチをしかねない奴ばかりだなと思いながら、カウンターへと向かった。そこの小太りの幼馴染みのせいで、私が店内に入った時に形作られた印象は更に強まった。彼女もまた、この日あの連中が誰かを待ち構えていることを察していた。
「気を付けなさいよ」そう言いながら彼女は私の前にコニャックのダブルを出した。
「今日は私、あんまりいい感じがしないのよ」
「俺もだよ」と私は言葉を返した。
「気分が悪くて虫酸が走るぜ[訳註:原語は「自分の皮膚を我慢できない」]
向こうの隅にいた連中が、こちらを横目でちらりと見た。
「虫酸が走るぜ」という言葉を、私は大声で、狙い定めてはっきりと言い放った。幼馴染みの女給仕の顔が引きつった。彼女は引っ込んだが、一方私はグラスを手にしたまま、悠々とした足取りで反対側のテーブルへ辿り着いた。そこに座ってテーブルに肘をついた時、すぐさま私は、自分が履いているズボンの重要性に、そこの連中が気付いていることを嗅ぎ取った。灰色の布地の辺りだった。右足で目立っていたのは一本のチャックで、それが膝下までまっすぐ伸びていた。チャックは内ポケットを覆っている。この膝下まで伸びたチャック付きのズボンは流行っていて、町で広く出回っていた。内ポケットに何が隠されているかは気付かれていた。少なくとも、隅に座っているあの連中にとって、私のズボンの右ポケットが偽物でも空っぽでもないことは明らかだった。私は病院から戻ってすぐこのズボンを履いてきたのだ、あの連中ならいつも通り、集まっているところを見つけることができるだろうと確信して。誰一人その場を離れなかった。そこで私は、連中の誰一人として、膝下に伸びたチャック付きのズボンを履いていないことに気が付いた。それはつまり、この連中のポケットは空っぽだということだった。
 空虚な数分間が過ぎて、この日は何も起こらないのではないかという気がし始めた。誰もチャック付きのズボンを履いていないからという、ただその事実からではなかった。連中はその日ひどく大人しくて、言ってみれば、公の場に感謝状でも受け取りに出て来たようだった。ファグが顔を上げ、盗み見でもするように私の方を見たが、その目つきには何かはっきりしない、とらえどころのないものがあった。
「この野郎め」私は心の中でつぶやいた。
「どうしたことだ今日は?お前がそんなに大人しいとは、どうも気に喰わないな」
 外に目をやると、道路脇の、イボタの生い茂る公園の傍にいる人物が目を引いた。背が低く、年齢は判別がつき難い類の男だった。ランブロという名で、内通者[訳註:原語hafijeは本来「スパイ」の意味だが、労働党時代のアルバニアでは、人民を監視・密告する党の諜報員を指していた]だという噂だった。ランブロがその場所にいるのはよくあることで、別に驚くようなことではなかった。そのランブロから少し離れたところに警官が一人来ていたが、それも何ら驚くようなことではなかった。ところがファグがその彼らの様子をずっと見つめているのに気付いた時、私は驚かずにはいられなかった。概して、この町の若い男たちは、チャック付きのズボンを履いていようがいまいが[訳註:労働党時代のアルバニアではジーンズを履くことでさえ当局の目を意識しなければならなかった]内通者たちにも警察官にもアレルギーを示していたからだ。一体どうしたのだろう、今日のファグは?
 私はコニャックのひとしずくを飲んだ。向こうでは連中が黙って自分たちのことにかかっていた。みんな飲んでいたが、ファグは違った。ファグの前のグラスは空になっていた。他の連中は飲んでいたが、彼は飲んでいなかった。彼はランブロと目くばせした。
「糞ったれめ」私は毒づいた。
「一体お前はどういうつもりなんだ?」
グラスをテーブルに置いた時、何となくだが私はファグが何をするつもりなのかということに気が付いた。慌てず、疑いを生じさせることなく、私はテーブルを離れて、カウンターの右側、トイレのある方へ歩いて行った。だがトイレには入らなかった。カウンターの裏側に回り、女給仕の方にヒュッと口を鳴らした。小太りの幼馴染みは私に気付いて、ちらと目をやった。私は口元に指をやった[訳註:日本と同じ「静かに」の意味]。そしてこっちに来いと手招きした。私はチャックを下ろして内ポケットからナイフを取り出すと、気付かれないようにと身振りで示したまま、それを彼女に手渡した。
「頼む、これを隠してくれ」私は小声で言った。
「後で俺に返すんだ。もし俺が取りに戻らなかったら、消すなり捨てるなり好きにしろ。だが他の奴には渡すんじゃないぞ」
 女給仕は私の言った通りにやってくれた。私は自分のテーブルに戻った。向こうの連中はまだ飲んでいる。ファグは外に視線を送っていた。私は時間をかけてコニャックの残りを飲み、それから次を注文した。
「飲んじゃダメよ」
幼馴染みの女給仕は不安そうに囁いた。
「飲まないよ」私は彼女をなだめた。
「その代わり、キャンディを一つくれないか」
[訳註:原語kallam i sheqeritは直訳すると「サトウキビ」だが、ここでは棒状のキャンディを指す]
小太りの幼馴染みはもう一度私を見つめたが、キャンディを紙にくるむと、カウンターの上に置いた。私が自分の場所に戻りながら見ると、ランブロの傍らに今度は警官が二人いた。それからの出来事は何もかもが急だった。ファグが自分の場所から離れて私の方へ向かって来た。片方の手は背後に隠していた。
「この間抜けが」[訳註:原語hajvanは「家畜、獣」]
私は一人ごちた。ファグが私の頭にコニャックを浴びせる前に、私がファグにそれをした。ファグが隠し持っていたグラスが落ちた。グラスの割れる音。ファグは憤激して、テーブルめがけて飛びかかり、そのまま私を壁へ叩きつけようとしたが、私がそれをひょいとよけたので、あわやテーブルがバーのガラス窓にぶつかりそうになった。女給仕の悲鳴が上がった。その場に居合わせた二、三人の客たちが、恐れをなして逃げ出した。ファグの方の連中は、誰一人として間に入って来なかった。予想した通りで、警官が入って来て間に入った。警官の一人がファグを、もう一人が私を押さえ込んだ。警官二人と共に平服の、この町ではよく見知った顔が一人いた。ランブロは姿を消していた。私もファグも儀式めいたこともなく[訳註:英語版では「抗議せず」]連行された。集まってきた人々の好奇心に満ちた視線を浴びながら、それぞれ間に入った警官に連れられて、我々は地区の署へと到着した。

 町の中心部から少し離れた警察署の、その二階建ての入口へと入る時、私は全身をくまなくチェックされた。ポケットも空にしてみせたが、ズボンの右足側のチャックのある部分だけはそのままにしておいた。私が隠し持っている物体を発見する喜びを、私の所持品リストに関わっている人物のために残しておいてやったのだ。それは丸く血色の良い顔をした警官で、恐怖をかき立てるような前脚[訳註:原語panxhëは本来動物の「前肢」だが、ここでは「ごつい手」の意味]をしていた。
「さあて、ここでこんないかさま芝居とはな」 とその警官は、まるでもう何かを発見して私の肩を摑み壁際に追い詰めたかのような、満足げな口調で言った。
「貴様らみたいなチンピラどものいかさまが、俺たちにわからないとでも思ったか?」
 その時点までのその警官の態度は、まさに模範的と呼べるものだった。その時点まで彼は、私が淡々とポケットを空にしてみせる様に対して驚嘆すべき忍耐を示していた。私が特に気にするそぶりもなくテーブルの上にバスの乗車券や硬貨やその他こまごましたどうでもいい品々[訳註:原語は「くだらない、無為な品々」といった表現だが、英語版では「驚天動地の品々」と大胆に意訳されている]を出していくのを、その警官は冷淡なほどにせせら笑っていた。まるでこう言いたげだった。
「ほら出せよ、馬鹿が、ほら出せよ!俺は待ってやるぞ」
その顔は輝いていた。その目の中には、鼠をもてあそぶ時の猫の目のような光がきらめいていた。
「そうら、な」警官はふんぞり返ったまま、私のズボンの右側のチャックのあるところに足の裏[訳註:原語putërはそういう意味だが、上述の「前脚」同様、「ごつい手」に対応する表現]を伸ばしてきた。
「何だってそうビクビクしてるんだ?」
 素早い動きでズボンのチャックを引き下ろし、ポケットに指先を突っ込んだ警官がそこから引っ張り出したのは、紙にくるまれたキャンディだった。彼は自分の目が信じられない様子でそれを足の裏[訳註:しつこいけど「ごつい掌」の隠喩です]の間に挟んでいた。それを一方の足の裏から他方の足の裏へと移し替え、包み紙を剥いてみると、出て来たのはキャンディそのものだった。
「おいこれは」彼は弱々しくむにゃむにゃとつぶやきながら、私の傍らに立っていた警官を見た。
「何だこれは?」
彼が手にしている物体がキャンディ以外の何ものでもないと返答し、よかったらおうちのお嬢さんにどうぞ、と言ったところ、彼はギョッとした風で座っていた椅子から飛び上がった(後になってわかったことだが、彼には高校生の娘がいたそうだ、私は知らなかったが)。私は同時に二発を喰らった。腹に拳を、脛には蹴りを入れられた。痛みに呻き声を上げながら、私は床に崩れ落ちた。すると今度はあばらに蹴りを喰らった。かくして、所持品検査は終了した。力強い腕で引き起こされて、引きずられるように廊下を連れて行かれると、何処かのドアが開いて、その中へ放り込まれ、ドアが閉まると、私は顔から床に倒れ込んでいた。
 しばらくの間、私は思うように身体を伸ばすこともできず、ぴくりとも動けない有様だった。全身が痛かった。それから感覚を取り戻し、どうにか起き上がって、壁際にあった椅子に腰掛けた。私がいたのは窓のない部屋で、天井には電球がぼんやり灯っていた。何度か廊下の方で足音が聞こえた。ナイフの代わりにキャンディを発見してしまった時の、あの赤ら顔の警官の馬鹿面を思い出して私は吹き出した。
「俺にユーモアがある限りは」私は思った。
「全てうまくいく」
そんな自分の言葉を確かめようとでもするように、廊下の方に足音がした。足音はだんだん近付いてくる。
「たぶんファグを連れて来て、面通しでもさせるのだろうな」私は一人ごちた。ファグのことは、この警察署の建物に連れて来られた時から一度も見ていなかった。だがファグではなかった。ドアが音を立て、開いた時そこにいたのは背の高い、見覚えのない顔の若い警官二人だった。その警官二人はこの町では見たことがなく、その後も二度と見ることはなかった。背後でドアを閉めると二人のうちの一方がその近くに立ち、もう一人は私の方へ来た。私は椅子に座ったままだった。喉が痛く、渇きを覚えて、水をくれと頼みたかった。私の近くに来た警官は、私を上から下まで眺め回してから
「ナイフは何処だ?」と訊いてきた。
「何処にやった?お前がナイフを持ってることは知ってるんだ、我々が引き留めなかったらお前は罪を犯していたんだぞ。まったく、このごろつきめ、ナイフはどうした?」
 彼は私に返事する間も与えなかった。私の腹に拳を一発、脛に蹴りの一発を喰らわした。ついさっき赤ら顔の警官が私を相手に実験してみせたのと同じ、標準的な打撃だった。その効果も多かれ少なかれ似たようなものだった。私は痛みに呻き声を上げ、そして警官が私を支えて椅子に座らせなければそのまま床に崩れ落ちていただろう。部屋がぐるぐる回っていた。頭上の電球が、蠢く無数の電球に[訳註:英語版では「回る星々の銀河に」]変わっていた。その光を背にして、胴体の無い警官の顔が、額に垂れた数本の髪の毛が見えた。意識が少しだけはっきりしてくると、疱瘡だらけの貧相な顔が目に入った。同時に、ドアの近くにいる警官がこちらを見つめているのにも気付いた。彼は疱瘡だらけの貧相な顔を横目で見て、それから私へと視線を移した。
「おい」彼はにやにやしながら同僚に訊ねた。
「こいつのツラを何処で見たっけか、俺にはどうもわからなくなってきたんだがね。そりゃ前は憶えていると言ったぜ、こいつはスリで、何日か前にコンビナート行きの路線[訳註:バス路線のこと]で捕まえたんだってな。でも、確かにそうだっていう気もするが、そうじゃない気もするんだ。泥棒のようにも見えるし、そうじゃないようにも見えるし。それより、ただの変わった奴って顔してるんだよな。そりゃ俺だってこいつのことを、二日前に屠場の近くで十四歳の娘を強姦したあの犬畜生だって思ったかも知れないぜ、まあ今日たまたま刑務所の房の中であいつを見てなかったらの話だけどさ。
[訳註:この次の文は、アルバニア語の原文を読む限り、警官が続けて言ったようにも、主人公が思ったことのようにも読めるのですが、他の言語版に倣って、ひとまず警官のセリフとして訳します]
「さてこれは困った、俺はそう思ったね。こいつのツラは、昨日まで我が物顔にティラナの路上を店から店へと、まるで首都を解放するかのようにうろついていた誰かに似ているんだ。だがこの恥知らずときたら自分が誰で、何処から来たのかも一旦忘れてしまったんだからなあ。何でだよ、こん畜生が」その警官は私の胸ぐらを強く摑んだ。「山と山が出会わなくても人は出会うものだ[訳註:原文“mali me mal s’piqen, po njerëzit piqen”はアルバニア南部の諺。この後も何度か出てきます]ってな。わかったか?この糞ったれが・・・」
 私はこれまでにこんな人間と会った憶えがなかった。これといった理由もなく、この警官からこれほどまでに憎悪を買う理由が理解できなかったのだ。
「今死ぬと言われるようなことがあるなら」私は思った。
「死のうかな」
警官の顔に唾を吐いた。警官の顔色が変わった。憶えているのは頭への二発と、腹への一蹴りだった。半死半生と言うよりは、半分夢のような半分うつつの状況の中、「ダイティ」のレストランにいる自分自身が見えた気がした。黄色い照明の下で、けだるいブルースのメロディが耳に響いていて、私に寄り添うソニャの、揺れる髪の匂いがしていて、その向こうの丸テーブルから、灰色の目の男がこちらを見つめていた。灰色の目の男の隣には、面長で顎の尖った、モンゴロイド風の顔つきの男がいて、夢うつつの中でその男は身を隠すように、こちらに気付かれないように、少しばかり身を縮めて[訳註:英語版では「警察の制帽を目深にかぶって」]いた。だが私は知っている、私はその男を知っている、あれは・・・あの男は・・・そこで意識が戻った。
 警官二人は立ち去っていた。おそらく私が意識を取り戻した、ちょうどその時に立ち去ったのだろう、二人の声がしていて、口汚い罵りの言葉が聞こえた。いずれにせよ二人は立ち去っていて、頭上にはぼんやり光る電球が見えた。体中がズキズキと痛み、顔は焼けるようだった。きっと自分の顔は腫れ上がっていて、たぶん青黒くなっているだろう。まるで自分の顔ではなくなったようで、仮面が貼りついているような、それも釘で打ち付けられているようだった。私はどうにか立ち上がり、椅子に腰を下ろした。疑いようもなく、状況は深刻になっているようだった。自分は罠にはめられた、それは確かだった。連中は私を冷たい武器で捕えようと躍起になり、そしてこの数か月間をかけて私を追い込んだのだ、それも明らかなことだった。だがそれにしても、私が喰らったこの打撃は、この町の警察における通常の論理を超えていた。私に関わったあの連中は、この町の警官ではない。どうしてかはわからないが、私に関わったのは、制服であれ私服であれ、この町の警官ではなく、うち幾人かは今まで一度も見たことがない顔だった。その疑問はすぐに氷解することになった。
 初めのうち、私は彼が誰だか気付かなかった。たぶん長いこと顔を合わせていなかったので、その間に彼も変わってしまっていて、それでわからなかったのだろう。それにたぶん、こんな状況で互いに顔を合わせることも、私が置かれたこの状況と彼の来訪との間に関係があることも予想だにしなかったから、私は彼がわからなかったのだろう。それにもまして彼のことがわからなかったのは単に、私の感覚が朦朧としていて、電球の光も弱くて、余りにも弱かったので、彼の顔がもやに包まれているようだったせいかも知れない。そのもやの中から彼は私の前に姿を現した。私は椅子に座って、壁に身をもたせかけていた。頭も壁にもたせかけていた。彼の顔がもやの中から出て来て、そして私は彼に気付いた。
 私に何らかの感情のたかぶりがあったとは思えない、私が思ったことはただ、彼もさっきまでいた連中と同様、自分を射撃の的[訳註:英語版では「サンドバッグ」]にするのだろうな、ということだけだった。
「山と山が出会わなくても人は出会うものだ」
[訳註:英語版では「また会ったな。お前もわかっていただろう、お前は遅かれ早かれ俺たちに捕まるんだとな」]
そう言って彼はふっと笑った。私は何も答えなかった。返事などしても何の意味もなかった。私は彼の足元に投げ出されたのだ。閣僚の息子の党員取調官の足元に。灰色の目の男の足元に。だがそこで、こいつに何か言ってやるぐらいはいいだろう、と思い直した。それで私は、その山と山が出会わなくても人は出会うとかいうのと同じ諺は、ついさっきあの馬面の、モンゴロイド風の、頬骨の尖った奴から聞いたばかりだと言ってやった。
「あんたも憶えてるだろう、あの晩だよ、『ダイティ』のレストランの」私は彼を挑発した。
「あのモンゴロイド風の奴はあんたの隣の椅子に座ってた、あの晩は私服だったけどな、今日みたいな警察の制服じゃなくてさ」
灰色の目の男はまたふっと笑った、いや正確にはふんと鼻で笑って、胸の前で腕を組み、彼の同僚がそうしたように、私を上から下まで眺め回すと首を振った。
「どうやら君は、学ぶべきことを何も学んでいないようだ」そして彼は私を見つめた。
「どうやら君にはまだ教え込む必要があるらしい。だが私がここへ来たのはそんなことのためではないし、私が君に教えることなど何もないよ」
 彼は、何かを言うべきか言うまいか迷うように押し黙った。その何かを頭の中で反芻しているようだった。それで私には彼を観察し、しばらくの間、その薄い、蛭のような唇がソニャの唇に吸い付き、ソニャの体の節々を吸い回し、ソニャの乳首を舐め回す様について、あれこれ思い浮かべる余裕が出来た。私からすればそんな蛭どもの所業を見せつけられること以上にひどい拷問はないのだということが、この男にはわかっているのだろうか?そんな蛭どもを目にするぐらいなら、拳と蹴りを浴びせられ、頭を壁に叩きつけられる方を私は望むだろう。
「君はうまくやった」ようやく彼が口を開き、蛭がうねうねと動いた。
「ナイフを持っていると連れてこられて、ナイフの代わりにキャンディを持っていたような人を罰することなどできない。大したものだ、前から君は賢い男だった。それにしても、本当に何処かへやってしまったのかい?それで私が来たというわけだよ。何しろこの町にはヂョダという奴がいて美人の娘がいる。何でも、奴は娘にちょっかいを出そうという連中には誰であれ墓穴を用意してやるんだそうだ。だが君に関しては話が別だ、君は女にちょっかいを出すような類の男ではない。君は女を貪り喰らう類の男だ、そして喰らう者さえも喰らわれる、それ以外の道は無い。今回、君はうまくやったと思っているだろう。だが私がここへ来たのは、本気で言うが、そんなことの為ではない。私にならまだ、君を救えることがあるかも知れないからだ。こうして互いに憎み合っていても仕方がない、そう思わないかね?私は君を憎んできたし、君も私を憎んできた、いや否定しようとしなくてもいい。問題は、何故そうなったのかということにある。答えはこうだ、そんなものは何もない」
[訳註:「何もない」の箇所は原文ではMustaqet e Çelosで、昔の男性が威厳を見せるために鼻の下に付けた、左右に伸びた異様に長い「付け髭」のこと。転じて「何の意味もないこと、無駄なこと」を指すアルバニア南部の表現]
彼は私の近くまで来ると、その灰色の目で私を凝視した。
「そうだ、無駄なことだ、いいかね。あれは何の価値もない女だ。私も彼女には何かしらがあると思っていた、だが付き合ってみると実に一銭の価値もない[訳註:原文は「弐パラ硬貨(dysh)の価値もない」。「パラ」はオスマン帝国時代の銀貨]ことがわかったのさ。あんな口の臭い女を。よく君は長いこと我慢していられたものだ、丈夫な胃の持ち主だよ君は。私は自分の好奇心を満たしてから手を引いた。だが君はどうだ、人を貪り喰らう君の、その好奇心たるや大したものじゃないか。聞くところによると、あの女は村の阿呆と付き合い始めていて、そいつはよだれを垂らしたぐうたら男なんだそうだよ。いいかね、あれはこれといった女じゃない、ただのヒステリーな女だよ・・・」
 ドアの向こうの廊下からは足音が聞こえていた。行ったり来たり、近付いたり、途中で立ち止まったりしていて、どうも誰かが耳をあてて盗み聞きしているようだった。足音は再び遠ざかり始めたが、また途中で止まった。灰色の目の男がたった一人で入ってきて、何の手はずもなしに私と一対一でいるはずがなかった[訳註:つまり、灰色の男の合図があれば外の警官が加勢に入るようになっていた、という意味]。だが私は疲れ果てていた。こんな男につばを吐きかける気にもならなかった。こいつは頭のてっぺんから足の先まで胆汁まみれ[訳註:原語gëlbezaは「肝蛭症(fascioliasis)」とも訳せるが、ここでは英語版に従った]なのだ、つばを吐かれたぐらいで汚れるものか。私は笑った。初めは微かに、やがて大声で。ドアが開いて誰かの顔がのぞいたが、灰色の目の男が手を振ると、また引っ込んだ。灰色の男は私に、馬鹿みたいに笑うんじゃないと言った。映画じみた真似はやめろとも言った。
「私は真面目な話をしにここへ来たのだ、たぶん君にとって興味のある話だ・・・おそらく他の誰かにとっても・・・村のぐうたらの件は気にしないでくれ、君をからかうために言ったことだ」
 蛭が蠢いた。そして身を伸ばし、動きを止め、へばり付いたが、私からすれば、何千匹もの蛭が全身の皮膚の一平方センチごとに張り付いて、化け物じみた渇きを癒そうとするように私の血を吸っているのだ。
「理解して欲しいのだが」灰色の眼の男は話を続けた。「君の状況は深刻だ。君は自分で持っていたナイフを捨てて隠しきれたつもりでいる。私もそうだ、君はナイフを捨ててしまったと思っているのだが、あちらはそうは思っていない。君が他の連中と絡んでいたその時、君のそのチャックのついたポケットにナイフがあったことを証言できるという者達もいる。彼らは見ていたんだ、君がそれを手で触っていたところを」
 彼の話が何処へ向かおうとしているのか、私には分からなかった。自己防衛の本能に、抗弁せよと急き立てられて、そんなナイフのようなものなど持っていなかったと私は言った。すると灰色の眼の男はにやりと笑った。心のこもったように、それもごく自然に見える風で近寄った彼は、私の肩に手を置いた。ごく親しげにだ!そしてこう続けたのだ。
「心から信じるとも。君はナイフで切りつけ合うような連中とは違う。君がきちんと説明しようとしてくれたことが私は嬉しいよ。君が置かれているような状況では、川を切り抜け、袋小路を抜けるためにも説明することが重要だ。さあ、一緒に考えていこうじゃないか。君には恋人がいたね、町で一番の美人の子だ。人間、美人と付き合う時には危険を受け入れるだけばかりでなく、方策を探ることも必要さ。君には経験がある、とびきりの美人と付き合うと何が起こるか、君なら知っている・・・人々が君をじろじろと見る。そこまではまだ何の危険もない、言ってみれば、危険とは潜在的なものだ。君は二つの方面から手ひどい脅しを受けた。第一はその娘の父親からだ、この町の有力者だ。第二は、バーで絡んできたあのならず者の男からだ。君も聞いているだろう、奴は異常なまでの嫉妬にかられ、彼女をつけ回っていた。この男ときたら彼女の一挙手一投足の、それこそ彼女が一日何回トイレを出入りしたかまで言えそうなぐらい詳しくてね。ところが君はと言えばだ、弁解の余地もないほど不注意なことに、よりにもよってその彼女と、彼女の知り合いの家で何日も続けて会っていたというじゃないか。そこに何かしらの罠があるかも知れないということに、君はどうして思い至らなかったのかね?君は罠に嵌まり、そして捕えられた。あのならず者は、君が自分に襲いかかって、ナイフで攻撃を仕掛けようとしたと証言し、署名までしているんだぞ。好きなだけ否定するがいいさ。だが仮に我々が、今回の件で君に悪いようにしなかったとしても、あの娘の父親からは逃れられないぞ。あの父親は何だって知っている。天地を動かしてでも、君を殺そうとする[訳註:原文は「君に穴を空ける」、転じて「たちまち息の根を止める」といった意味の慣用句]だろう。それができるほど、あの父親には力があるんだ」
 私はずっと思いを巡らせていた。時間の観念はなくなっていた。ここに入れられてからというもの、目にするのは薄暗い電球だけで、自分がもう何時間ここに閉じ込められているのかもはっきりしなくなっていた。頭も働かなくなっていた。自分の身に起きた出来事と、灰色の眼の男がそこにいることの間にどんなつながりがあるのか、見出そうとしたが、何一つとして接点が思い浮かばなかった。彼は何か真面目な話を、何か自分にとって興味のあるような話をしたいと言っていた。だがそれは他の誰かにとっても興味のある話らしい。誰にだろう?
「頼む、やめてくれ」彼の瞳が怪しく光るのを見ながら、私は思った。「お前は、自分がソニャと付き合っていたなんて話をするためにわざわざここまで来たんじゃないだろう。俺の目の前で彼女を侮辱しに来たんじゃないだろう。そんなちっぽけなことのために苦労してこんなところにいるほどお前は暇じゃないだろう」
 そのことについては、灰色の眼の男も同じ考えだった。
「そんなつまらないことはどうでもいいんだ」彼はそう言ったが、不意に
「君は、ソニャについて知りたいと思ったことはないかね?」そう訊ねてきた。私にはこいつの脳天を叩き割るだけの力もなかった。[訳註:英語版ではこの後に「殴り損なって返り討ちに遭うことはわかりきっていた」という文が続くが、アルバニア語版に該当する文はない]
「ソニャは、牛小屋の清掃をしている」と彼は、自らが裁かれることのない立場にある人物特有の安定感ある口調で言った。
「本当のことを言うと、ソニャが牛小屋にいるのを目にした時は、いたたまれない気持ちになったよ。その日はちょうど例の阿呆男が、よだれを垂らしながら彼女の周りをうろついていてね。想像してみたまえ、あのソニャが、炭鉱夫がするようなブーツを履いて、農婦みたいな身なりで、頭に毛糸のスカーフを巻いて、鍬を手にして、牛の尿やら糞やらを掃除しているところを。まさにその日、私は思いついたんだ、ソニャを救える人間は君だってね。そんな思いが生まれたのは恐らく、凍てつく寒さで、大地が凍りついていたからだ、糞尿にまみれ、阿呆男に追い回されるソニャの姿を見たからこそ、普通なら哀れみとでも呼ぶような、そんな底辺からの感情が、私の中に生まれたのだろう。私は本気で、心の底から彼女のことを哀れんだ。そこで私は、その阿呆男の膝が震えて立てないほどにしてやれと命じた[訳註:英語版では「彼女から引き離すよう命じた」とあるが、原語はそんな生易しい表現ではない]。だがそれが何になる[訳註:原文は値段を問う表現「いくらになる」]?あのどん底で過ごす一時間毎にソニャからは何かが奪われ、やがて全てを失うことになる時が来るだろう。それで私は思いついたんだ、ひょっとしたら、ソニャにはまだ救いの道があるかも知れないと。それが数か月前のことで、それから私の頭に浮かんだのが君のことだ。それはまだ結晶化されていない、議論するには時期尚早な、ほんの思いつきに過ぎなかった。だからこれは、私と君との間だけの話なのだ。私はね、ずっと思っていたんだよ、もし君にソニャを救いに行ける可能性ができたならば、君には救いに出向くだけの備えがあるはずだとね。だから私はここへ来たんだ、君がソニャを救いに行ける、その可能性を作るために。今日でないとしても明日には彼女を呑み込んでしまうであろう、あのどん底から彼女を救い出すために」
 その最後の言葉を言い放った彼の声は震えていた。誰であれ、この灰色の眼の男が不安を感じていることを、その語った言葉が、その魂の奥底から出て来たものであることを疑いはしないだろう。だが私は、ひっきりなしに上下する彼の咽喉ぼとけ[訳註:他の欧州語同様、アルバニア語でも「アダムの林檎(molla e Adamit)」]を眺めながら、自分のナイフがあれば今すぐにこいつを片付けられるだろうにな、と考えていた。ズボンの右ポケットに持っておけばよかったのに、と。だがそのナイフは、幼馴染みの元同級生の、小太りの女給仕に渡してしまった、だからこうしてただ耐えるしかない、こんなものまで呑み下すしかないのだ、この部屋に連れて来られて閉じ込められた時からずっと、この男の咽喉から流れ出す汚らわしいものさえ呑み下すしかないのだ。沈黙は語る、という言葉が本当ならば、彼はこの時の私が殺意を抱いていたことを理解していたはずだ。そして私も彼を殺したいと思っていた。さしずめ羊を屠る時の如く、ナイフの刃先を咽喉ぶえに突き立てていたことだろう。しかしながら沈黙は語らなかったのだろうか、或いは私の沈黙の意味を彼は理解しなかったのだろうか、それとも私の望んでいることを彼は理解していたのだろうか。
「君の」と灰色の眼の男は言った。
「君の手に、ソニャの命がかかっている。彼女を救うためなら君は何だってするだろう。返事は今でなくてもいい。これから向こうの連中に命じて、君を釈放させよう。君は家に帰って、風呂に入って、食事をして、睡眠をとりたまえ。そして元気を取り戻したら、私と話したことを思い出してくれ。これはソニャの命に関わる問題だ、そして彼女の命は君が握っている。君が元気を取り戻した時、きっとこの話こそ、君が最初に思い出すものになるはずだ。次に思い出すのが、この私からの提案、つまり君に行って欲しいという提案だ、ただし君の返事は今でなくてもいい。取り敢えず君に憶えておいて欲しいのは別のことだ。君は賢い男だ、自分の置かれた状況を見つめ直すだけの分別もある。起こった出来事は置いておこうじゃないか[訳註:「過去は過去として水に流そう」という意味]。その出来事のせいで君は大学を追われ、学校にいられなくなり、セメントの埃にまみれたこの穴ぐらの中で、危機が君の人生に影を落としている。だが君には、新しい人生を試みる機運があったのだ。それを再び手にできるかも知れないことに、君は一度でも考えが及んだことはないかね?大学に戻って、やり残したことをまた続けられるかも知れないことに、君は一度でも考えが及んだことはないかね?いやそれ以上にだ、ソニャと元通り付き合えるかも知れないことに、君は一度でも考えが及んだことはないかね?私はそれはあったと思うが、それら全てのことに君が考え及んだことがあるとしても、君自身はそれを信じてこなかったのだ。それはただの白昼夢[訳註:原語は「目を開けて見る夢」]だと、君は自分でそう呼んできたのだ。私はね、それら全てのことが現実になり得るのだと君に言うためにここへ来たんだよ。君がソニャを救いに行く気になりさえすればいいんだ。人が蛆虫のように無為に過ごす、この悲惨を逃れられないのか、君にもわかるだろう。君は埃の中から、輪番制の仕事から、あの狂信的なヂョダの暴虐から、ナイフで襲ってくる路上のけだもの連中から逃れられる。君は自由になれる・・・私の話を聞きたまえ。君がこんなぬかるみに嵌まることはない。君のような人がこうして負けをさらすなんて、罪なことだよ」
 私の話し相手は、誠実さの余りに身も砕けんばかりだった[訳註:要するに「自らの誠実さに陶酔していた」]。それが彼の話し方であるらしかった、私にはそんな風に見えた。この時には、全てが本気なのだと私も信じそうになっていた。しかし、彼のような人種のことを私はよく知っていたし、私の疑念は恥ずかしいほど深かった。別にソニャのことで嫉妬していたからではない。彼がソニャのことを頼みに私のところへ来たというのを信じていなかったのだ。私の疑念が恥ずかしいほど深かった理由はとりわけ、ああ神よ、何をこれ以上夢想すればいいのか?という点にあった。何だって実現するのだと、そう私は感じていた、望みさえすればそれでいいのだと。だから私も全身全霊をかけて望んだのだ、初めからやり直したいと、ソニャにもう一度会いたいと、彼女とベッドを共にしたいと、彼女の肉体のそばで永遠の快楽に浸りたいと。何をこれ以上夢想すればいいのか、このどん底の敗北者が?灰色の眼の男は穴が開くほどこちらを見つめていたが、私の方は頭の中が空っぽで、今にも膝から崩れ落ちて、ここから出してくれ、ソニャに会わせてくれと、懇願してしまいそうだった、それで世界が滅んでも構わないからと。俺に何をして欲しいんだ、と私は訊ねたが、その声は震えていて、自分の声ではないような、まるで墓場から蘇った死者が、別世界から語っているかのようだった。
「別に」と灰色の眼の男は答えた。それで私は思った、悪魔が自分の魂を奪いに来る時もこんな言い方をするのだろうなと。
「別に大したことじゃないよ」彼は言葉を付け足した。その言葉に私は押しひしがれそうだった。
「私と君との交友関係、友達付き合いさ。自由な時間を自由に語り合うのさ、いや君のじゃなくて、他の人達のことさ、知り合いでもいいし、そうじゃなくてもいいし。クラブでも仲間でも、名前は君の好きにしたまえ、そういうものを作ろうじゃないか、私と君と、ソニャとでさ。今じゃなくていい、今日じゃなくてもいい、明日でも、君がそれを望んで、私が間に入れば、みんな抜け出せるんだ、あの牛どもの糞尿にまみれた場所から離れることができるんだ。それは君だって、大人として、男として、身に染みて感じているだろう、君だって見ただろう、強者の権力がどんなものか、君だってわかっているだろう、弱者、愚者、生まれぞこないの連中ばかりが、不定形のぬかるみに汚れまみれて無為に生きさらし、人間的な美徳も何もかもゼロの掛け算[訳註:「無意味なもの」の意味]にされ、足蹴にされ、侮辱され、見下され、虐げられるだけの、無に等しい存在だと思い知らされるのだということを。君はそういうことが分かるぐらい賢い男だ。さっき言っただろう、別に大したことを頼みたいんじゃない。私と君とで自由に話すんだ、顔を合わせて話せればいい、公園でもカフェでもいい、散歩をしながらでも、料理を並べたテーブルででもいい、何処でも君の好きな場所でいい、バーがいいならそれでもいい、君の好きな場所で、人生のことを、人間のことを、学生のことを、学生が考えていることを、学生がしていることを、学生の時間の過ごし方を、学生の不満を、学生の噂話を、今日したいこと、明日したいことを・・・返事は今でなくてもいい。今から向こうの連中に命じて、君を釈放させよう。家に帰って落ち着きたまえ。二人で話したことについては誰であれ他言無用だ」彼の眼が怪しく光った。
「よく考えたまえ、万事うまくいけばいいがね。さもないと・・・」
 彼はその言葉を最後まで続けなかった。 「二日後に、作家同盟のクラブで待っているよ」そう言った。「静かで快適なクラブでね、広いホールで私はチェスをして午後を過ごすんだ。清潔なところだし、有名人、著名人、芸術家も集まってくるし、きれいな女たちだって珍しくない。じゃ待っているよ、二日後の、そうだな、夕方六時にしよう。君が来なければ、私の提案は受け入れられなかったということだ。チャンスを与えたよ。チャンスは無駄にしないことだ。さもないと・・・」
 私がようやく自分の中で、咆哮する自分自身の内側で「いやだ」という言葉を形作ろうとした時には、灰色の眼の男は立ち去った後だった。独房の中に「さもないと・・・」の言葉が残っていて、私の「いやだ」の叫びは、のどに絡まったままだった。その言葉は私の中で、檻に入れられた家畜のような獰猛さで吠え猛り、鉄格子に飛びつき破ろうとしていた。だが鉄格子は破れなかった。叫びは私自身の中に閉じ込められ、そこに留まったまま押し黙った。壁は何も聞かなかった。独房も何も聞かなかった。独房の中に「さもないと・・・」の言葉が、真っ黒な鳥のようにその場に留まっていた。ドアが開いて誰かが入ってきた。あの赤ら顔の、前脚のような手をした警官だった。警官は私の顎に前脚を伸ばすと、私の顔を持ち上げた。薄暗い電球が、それでも私にはまぶしかった。警官の歯は異常なまでに真っ白で、規則正しく並んでいて、頑丈そうだった。こんなに真っ白な、並びがよくて頑丈そうな歯は見たことがなかった。その時、警官の前脚には一枚の布きれがあり、彼がそれで私の顔を拭うために顎を持ち上げたのだのだということに気付いた。いや布きれではない、アルコールを浸した大きめの脱脂綿だ。私の顔は燃えるようにヒリヒリとした。それから警官に櫛を手渡され、服についた埃を払うようにと言われた。
「ここでは、お前に手を触れた者は誰もいない」 最後に警官は言った。
「お前の傷と青あざは、路上で見ず知らずのちんぴらに絡まれてできたものだ、喧嘩してちんぴらが殴ったんだ。さあもうここから出て失せろ、いいか、今度また俺の手にかかったら、こんなに簡単にはいかないからな」
 警官は私を連れて外へ出ると「またな」と言った、たぶん習慣でついそう言ったのだろう。
[訳註:アルバニア語で別れの挨拶は通常Mirupafshim.で、原義は「我々がまた会いますように」。ちなみに二度と会わない/会えない別離の挨拶はLamtumirë.だが、訳者も実際に使ったことがない]
「二度と会うかよ」私は内心で返した。道はがらんとしていた。町全体ががらんとしていた。ただ空の片隅に垂れ下がった黄色い太陽が、黒い雲に端の辺りを遮られていた。それでも私にとっては充分まぶしかった。まるであの独房の薄暗い電球のように。

1991年3月
 大粒の雨がアスファルトの路面に落ちて、埃を辺りに巻き上げた。私は顔を上げた。
「何だって晴れてくれないんだ、ふざけた空め」私は悪態をついた。「出て行った者達が濡れるかもとは思わないのか?今頃はもう着いた頃だろうに、いまいましい空め、まるで安い商売女の下着だ」
 みんな行ってしまった、私は残った、残ってアルセン・ミャルティのところで犬の肉のチョフテを食って、アルセン・ミャルテイが小便を垂れ流して度数を上げたラキを飲んでいる。窒素を含んだ硝酸塩に比べれば、アルセンの小便の方がまだましだ。アルセンの小便なら少なくとも何事もないが、硝酸塩では別世界へ送られてしまう。と言っても、国を去った人々が辿り着いた世界のことではない。あれもいわば別世界だが、私が言っているのは全く別の世界、無に囲まれた、夢を見ない眠りの世界なのだ[訳註:要するに硝酸塩は毒性があるので死に至る場合もある、という意味]。私も今は帰って横になって、眠りたかった。夢を見る眠りだ。それとも夢は見ないだろうか?
 深い酔いの狭間を漂いながら、アパートの入り口に辿り着いた。私は階段に座り込んだ、座らなければ、ぶっ倒れていただろう。別の世界へ・・・別の世界へ・・・
「別の世界へ行きたいんだ」通りから入って来て階段の下で私の姿を見つけた母に、私はそう言った。母は悪態をついた。母が誰のことを罵ったのか、私にか、別の世界にか、それとも階段の暗がりを罵ったのかはよくわからなかったが、そこから母の肩にもたれかかってよじ登ることは、厄介な作業だった。ようやくアパートの自宅の玄関前に辿り着くと、ドアが開いて入り口に父が姿を現し、その瞬間から全てがずっと楽になった。父が片方を、母がもう片方を支えて私をキッチンへ運び込み、ソファに横たわらせた。酔いのせいで全てが静かな水面をたゆたうように流れ、水底で踊りつつ、ゆらゆらと、よろよろと揺れていた。そのソファの船に横たわる私と共に、母も父も、テーブルの傍らの椅子に腰かけて、ゆらゆらと揺れていた。私も揺れていた、両親の顔も二重になって揺れていた。父の顔も二つ、母の顔も二つ。見つめている悲しげな四つの顔からは、ほんの僅かな希望も失われていた。それで私は二人に問いただしたい思いに駆られた、一体全体この俺に何を期待していたのだと。我が両親よ、哀れな我が両親よ、あなたたちは老いぼれてしまった。その老いを私は酔った目で眺めていた。私はソファの船から立ち上がると、二人の方へと流れ、哀れな四つの顔に一度ずつキスをした;父に二度、母に二度。私は四組の唇で、四組の眼で、四組の腕で、まるでブッダの腕だ。
「俺はブッダだ」私は父の顔々、母の顔々にそう言った[訳註:原文では「顔」が複数形になっている]。二人は黙ったまま泣いていた。どうして泣いているのか、私にはさっぱり分からなかった。たぶん二人の希望が失われたからだ。たぶん新たな生が生み出されたからだ;ブッダを自称する者が今やこの家に、二人の前に現れたのだ、それも恐らくは些細な事故のせいで;ドリの息子の小便のせいで。もしもドリの息子が自分の首筋に小便をしなければ、たぶん私は国を出る者たちの中にいて、どこかの難民キャンプにいたことだろう。難民ブッダだ。
 両親は私を部屋へ連れていき、私を着替えさせると、ベッドに寝かせて布団をかぶせた。私は夢を見ない眠り、言うなれば死の眠りに落ちた。頭蓋骨の内部がガンガン鳴り響く中、姿を現したのはドリだった。
「ドリは何処にいる?」[訳註:原文では3人称接続法の文だが、英語版は2人称で問いかける文になっている]
窓の向こうに眩しく輝く空を見ながら、私は思った。

16
 私はまるで死人のように、夢を見ることもなく眠った、何時間そうしていたのかもわからない。たぶん十三時間か、たぶん十四時間か、たぶんもっと長く、たぶんもっと短く。だがそれはこれっぽっちも重要なことではなかった。時間がその場に留まって欲しいと私が望んだとしても、時間は過ぎ去っていくのだ。時間は自らの務めを続けるだけだ、無情にも、永劫続くリズムで、私の眠りが夢のないものであったか、死の故の眠り[訳註:英語版では「犬の眠り」]であったか、知ろうともせず。時間は去った、去ってしまった、十三時間、十四時間、たぶんもっと長く、たぶんもっと短く、警察署を出て、人気のない町の中、虚しくも人目を避けることに腐心し、家へと帰りついたその時から。家の中も同じように人気がなかった、両親は何の理由だかわからないが不在だったからだが、その不在が私にはことのほか慰めになるものだった。あれこれ説明する必要もないし、喋る義務もない。全ての沈黙が自分の為だけのものであり、全ての空虚さが自分の為だけのものだった。そして自分の部屋も冷たく、飾り気がなく、まさに自分の為だけのものだった。それは私のベッドの為のものでもあった。古い衣装ダンスの為のものでもあった。だがそれらには口がなく、醜く打ち捨てられ、身じろぎもしなかったから、私が打ち捨てられるような感覚に恐れて身を震わせながら服を着替える時も、ベッドに潜り込んで布団をかぶり、夢を見ながら、或いは夢など見ることもなく眠る中、自分もろとも時が止まってしまえばいいと願っている時も、それらは私にとって何の邪魔にもならなかった。
 時は止まらなかった。空は明るくなっていた。私が最初に感じたのは、世界がまるでそのままだと思ったことだった。そして次に感じたのは、顔や、咽喉や、むこうずねや、あばらの焼けるような痛みと、自分の全身が崩壊してしまったような感覚だった。[訳註:英語版ではここに“I was in terrible shape.”なる一文を挟んでいるが、言わずもがなである]鏡は正直に、一切の隠し立てなく、私の顔の部品を映し出した:顔の左半分は青黒く腫れ上がり、唇の左端が切れている。その他の部分はかすり傷か小さな痣だけで、大したものではなかった。同時に自分の髭が伸び、成長し続けていることもわかったが、それはごく当たり前のことで、大して印象に残らなかった。髭は夜でも、眠っている間でも、一時的に死んだ状態でも伸び続けていた。髭は死人であっても伸び続けるのだ。鏡は、その正直さで以て、私が一時的であれ永久にであれ死人であるのだということを執拗に思い出させようとしているらしかった。私はシャワーを使い、それから鏡の前で、不安に包まれたまま、髭を剃り始めた。時は止まらなかった、時は無情に、永劫続くリズムで、私の髭が伸びようと伸びまいと、流れていくのだった。だがこの私は、返事をしなければならなかった。灰色の眼の男が返事を待っている。
 たとえ髭を剃ろうと、ありとあらゆるもの[訳註:英語版では「化粧品」]を手にし、些かなりとも顔面の虐殺の痕跡を覆い隠そうと努力しようと、それは無理な話だった。それどころか痕跡はむしろ目立っていた。それは痕跡ではなかった。それは廃墟だった。結局のところ、私は出かけることにした。私の殴り書き[訳註:原語shkarravitは「書き殴る」「いたずら書きする」の意]された顔を見ても、たとえそれが殴り書きされた死人の顔であっても、何の驚きも起こらないだろう。殴り書きされた死人の顔を見ても誰も驚かない、このことこそ、警察での私の冒険が今や知れ渡っているという事実を説明付けるのであり、その場所から出て来ることができた、まさしく私も出て来られたのだから、それを幸運だと思うことこそあれ、顔の殴り書きを殊更不安がる必要などない、それもまた、このゲームのルールの一部なのだった。
 バーでは、自分と幼馴染みの小太りの女給仕との間の理解が一瞬で、一言の必要もなく、私にコニャックのグラスを差し出してきた時の素早い目くばせだけで成立した。
「心配しないで」彼女の眼は私にそう言った。
「例のものは安全な場所にあるから」
「そうしておいてくれ」私はひとりつぶやいた。
「安全だろうと安全でなかろうと、好きにしてくれ。俺にはもうナイフは必要ない。あれを使う最後の機会こそ昨日だった。もし捕まっていなかったら、あれをファグの身体に使っていただろう。私は捕まってしまった。かくしてファグも命拾いしたわけだ。ナイフなんて、もう自分には必要ない。あんなもの、原始的で、野蛮な武器じゃないか。もしあれを使うなら、お前は[訳註:ここから段落の終わりまで主語は2人称]相手に面と向かって立ち、狙いを定め、両胸の間、心臓のやや下の辺りを目がけて突き立てるんだ、それで片が付く。その後のもろもろの危険は言うまでもない。何故って、実際、今言った通りに相手の胸のその部分目がけてナイフを向けたとしても、逆のことが起こる可能性は排除できないからだ、要するにお前が先にナイフを喰らって別の世界へ行っちまうってことさ。もっとましな場合でも、お前が勇気を出して相手を別世界送りにしてやったところで、お前を待っているのは刑務所か、銃弾か、紐か[訳註:要するに死刑のこと]、どれも割に合わないことでは似たり寄ったりだ[訳註:原語“del jek e jek”は「五分五分」「公平」といった意味で用いられる慣用表現。ここでは他の言語版を参考とした]。いや、言っておくが、古典的なナイフ、その隠しているナイフが何処にあるのかは知らないが、それは俺のものじゃない、もう俺には用済みだ。危険だし、アシがつくし、命懸けだし・・・」
 私はずっと一人でつぶやいていた。それで不安を覚えた。私が一人つぶやきながら、ちびりちびり飲んでいる間も、小太りの女給仕は私から目を離さなかった。彼女は同意するように首を振っていた、まるで私の内部に入り込んで何もかも聞いているかのように。
「例えばだ」私は説明を続けた。
「何か厄介なことがあって、君が俺と敵対関係になるようなことになるとしよう。まあ数学教師みたいな言い方をすれば、仮説という奴だ。君が俺と敵対関係になった、或いは反対に、俺が君と敵対関係になったと仮定しよう。もう一つ数学の言葉で言うなら、二人の人間が敵対関係に陥るような無限個の理由があり得るということだ。身もふたもないようだけど、一つ挙げてみようか、君の仕事がうまく行っていて、君のことを尊重してくれる男性がいるのに、俺ときたら、まあ俺が女だと仮定してだが、夫に棒でぶたれていて、俺がそのことでいまいましく感じているとしよう。或いは、君が金を手に入れたのに俺には一銭も入らず、君が美人なのに俺は不細工で、君が健康なのに俺はくる病持ち[訳註:原語rakitikは「くる病の」]で、君にはみんなが寄ってくるのに俺には誰も、男一人さえも近寄らない、それどころかこっちから近寄って、ボリボリ掻き始めようものなら逃げられてしまう。要するにだ、俺たちが敵同士になったとして、その敵対関係の始まる原因なんてのは大抵ごくつまらないものだってことさ。お望みならもっと別な原因でもいいぜ、大それた原因、なんて誇大妄想にとらわれてそう呼ぶ連中もいるがね。わかるかね、おかみさん、俺には君を殺すことだってできる。いや、ナイフでじゃないぜ、君を殺して自分も死ぬほど俺はイカレちゃあいない。つまり、君を殺しても俺は無罪[訳註:原文では「洗われた、綺麗な」]ってことさ。無罪ってだけじゃない、俺が勝利者になるんだ。勝利者ってだけじゃない、体制の側になるんだ。快適で、豊かで、幸福で、有力な」
 私は外へ出た。もうちょっとでも店に留まってあの女給仕の視線に晒されていたら、私は怒り狂っていただろう。激昂するはずだったのが、少しも激昂しなかった。私はナイフを差し出された。あの古典的なナイフではない、金属製の、身体に突き刺し、肉を裂き、骨を砕き、胸郭を切り刻み、心臓を貫き、はらわたをえぐり出す、野蛮な武器の方ではない。差し出されたのは見えないナイフで、身体に突き刺し、肉を裂き、骨を砕き、胸郭を切り刻み、心臓を貫き、はらわたをえぐり出すことなく、相手の息の根を止めることができる、全く正反対のナイフだった。その相手はベッドで妻と、或いは婚約者と、或いは恋人と静かに眠っているが、新たな生を得たことで彩られる至福の痛みのその時にこそ、気付かれぬ内にナイフを突き刺し、深く突き刺し、そして翌日にはバーで会い、コニャックを一杯、二杯、五杯と飲み、相手の血に染まったその手で以て、固く握手を交わすのだ。
[訳註:次の段落は独語版と仏語版にはあるが、英語版だけには何故か欠けている]
 私は致死性の物質を浴びせられたような気分になった。まるで毒を持つ蜘蛛のような。石の下に隠れている蛇のような。私の眼の、硝子体液の中をソニャが泳いでいる、頭に農婦のようなスカーフを巻いて、炭鉱夫のブーツを履いて、牛の糞尿をかき分け、よだれを垂らしたぐうたら男に追われながら。そうして彼女は一生そのままでいるのだ。ぐうたら男のよだれにまみれて。私の眼の硝子体液に溺れて。灰色の眼の男の蛭に乳首に吸い付かれて。私は死んだ方がましなのだろうか。それともナイフを受け取るべきなのか?

 工場の煙突から煙がまっすぐ、空へ向かって、まるで黒い噴水のように立ち昇っていた。もしも自分が、そうだ、吠える犬の役に扮して叫んだとしても、煙は再びまっすぐに立ち昇ることだろう(犬は吠えるままにさせよ・・・)。ジプシーたちの住む場所から本当に鳴き声が聞こえてきたが、隊商らしきものが通り過ぎていくのは見えなかった。[訳註:この箇所については15章を参照のこと]隊商とて恐らく、川原にジプシーの居住地が存在するなどとは知らなかいだろうし、彼らが何処へ向かうのか誰も知る者はなく[訳註:原文では「悪魔こそ知る」]、彼らはジプシーの犬どもの鳴き声など気にかけることもなく、もし私が犬の真似をして吠えたとしても、彼らが気にかけることはないだろう。あの肉付きのよい、いつも眠そうな顔で、白い作業帽をかぶった女も、私がラボに入って、誰かいないのかと必死に大声で問いかけた時でさえ、私に気付かなかった。やっとのことで、ドリがまた会議中であること、ルルは病院で、ヴィルマはずっと仕事場に姿を見せていないことがわかったぐらいだった。肉付きのよい顔に言わせれば、理由についてはわからないという[訳註:この箇所についても15章を参照のこと]
「居眠りのアナグマめ」私は思った。
「ヴィルマがいない理由なら、お前にだってよくわかっているだろう」
 思わず知らず手が伸ばして、自分の顔の痛めつけられた部分を隠した。アナグマが私をまじまじと見つめている。
「何でもないんだ」そう言って私は彼女の好奇心を鎮めようとした。
「ゆうべ夕食に誘われたんだ、見ての通り、いろいろ素敵なことがあってね」 すると彼女は笑った。それが突然の笑いだったので、私もむしろ落ち着きを取り戻した[訳註:原文は「私の形を引っ張り出した」だが、英語版でも似たような表現になっている]
「随分手厚くもてなされたものねえ」しばらくして彼女はそう言った。そしてこう続けた。
「ひどいものだわねえ[訳註:原文は「死を喰らえ」で、本来は「こん畜生」「この野郎」ぐらいの意味]。あなたお大事にね、気をつけるのよ。あの連中に目をつけられたら最後、命が持たないわよ[訳註:原文は「連中の名簿に載せられたら、鶏ほどの命もないわよ」]」それだけ言うと、アナグマは私にくるりと背を向けて、ラボの隅へと戻っていき、後には真っ白い埃がもうもうと舞う中に作業帽が見えるだけだった。
「どうも」私は誰に言うともなくつぶやいた、彼女はもう離れて行ってしまったし、私の言うことなど聴いてもいなかったからだ。仮に近くにいたとしても、やっぱり私の言うことなど聞いていなかっただろう、何故なら私は自分で自分につぶやいていたのだから。自分で自分を励まそうとでもするように。そして私は外へ出た。
 ラボを出ると、私はしばらく工場の前の通りに立ち、黒い煙が噴水のように上がるのを眺めていた。そこにじっと立ったまま、空へと立ち昇る煙を見ていると、耳に犬の鳴き声が響いてきた、群がる犬ども、腹を空かせ、凍えて、足蹴にされ、毒入りの肝臓で片付けられる、道端のけだものどもの声だった。
「だが俺は」私は思った。
「俺はいつ自分の肝臓の切れ端を喰らわされるんだろうな?」
 これら全ては後になって自分の中で形にすることができるものだった[訳註:原文は「自分にとって球状になった」]。そしてまさにその瞬間、私は何か重いもので頭をぶん殴られたようなのだ。
[上の二文は、他の言語版では大幅に意訳されている。例えば英語版では次の通り;
「そんな考え〔訳註の訳註:「俺はいつ自分の肝臓の切れ端を喰らわされるんだろうな?」のくだり〕が自分の体の中を稲妻のように突き抜けた瞬間を、私は正確に思い出すことができる。だがそれから後に起きたことは何もかもぼんやりとかすんでいる。まるで何か重いもの、例えばバールのようなもの、取っ手のついた何かで頭をぶん殴られたようだ。しかし誰に殴られたわけでもないし、バールも、取っ手のついたものも何もなかった。それは健忘症というようなものとも違っていた」]

 その日、つまり、私が痛めつけられた顔で朝を迎え、工場へドリを探しにいったその日まで、私の記憶のテープはそれまでの出来事を多かれ少なかれ正常に記録していた。だがそこから先のテープはほとんど空っぽなのだ。記録容量が足りなかったからではない。もう何も記録するようなことがなかったから、テープは空っぽなのだ、我が人生の中のこの章を締めくくる、幾つかの出来事を別として。

(17へつづく)


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