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ファトス・コンゴリ 『敗北者』

5
 ここで休憩しよう、一息つきたくなった。肺を空気で満たし、忘却の眠りに深く沈みたい。だが無理だ。ラディについて話さないままではいられない。彼に感じた痛みは、ヴィルマに感じた痛みと同じくらい激しいものだ。
 彼の名はヴラディミルで、他の連中同様、私も彼のことを、あらゆるヴラディミルたちの共通した略称でラディと読んでいた。彼はその名前が流行っていた子供の世代に属していて、どの学校でも、どの地区でも一ダースほどのヴラディミルを見ることができた。と言っても彼らが正教会の聖ヴラディミル[訳註:キエフ大公国の大公で、ロシア正教の聖人でもあるヴラジーミルⅠ世のこと]の日に生まれたわけでも、洗礼を受けていたわけでもない。どちらにしても聖人の名ではあるが、この聖人は宗教における正統派でなく、別の種類の正統派に属していたのだ[訳註:要するにレーニンのこと]。ラディは物静かな男で、背がすらりと高く、ジーンズのズボンを履いていた。それは、私の話の中の時代、つまり七十年代の初めにはめったに出回らないものだった。冬は首の周りに大きなスカーフを巻いていたが、これは彼が扁桃腺を痛めやすいからだった。不思議なことだが、頻繁に炎症を起こしたいたにもかかわらず、彼は幼い頃にも、それ以降にも扁桃腺の手術を受けていなかったのだ。
 大学の授業が始まって最初の数日で私が目にしたのは、教授陣が彼に対して示していた、特段に丁重な対応ぶりだった。その点で際立っていたのが学科長だった。背が低く、精悍で、髪の毛の薄い男で、私は彼のことをヂョフと呼んでいた。ヂョダとフルスィウのそれぞれ頭の部分を取ってつけた名だった[訳註:原文ではXhodaとHulusiuのそれぞれ最初の音節を合わせてXhohuとしている]。それというのも、ヂョフがヂョダの身体的特徴の部分と、フルスィウのしぐさの部分を併せ持っていたからだ。ここから先は、もうこの男のことを本名ではなく、単にヂョフと呼びならわすことにしよう。決して彼の知的能力を過小評価するつもりはないが、ラディの存在が、この男が何者だったかを忘れさせるに充分なものであり、要するにおべっか使いの一言で済むような人間だったということだ。ラディの父親は高級幹部だった。それで他のことも説明がつくのだが、ラディが一人でいるのを目にするのは難しく、彼はいつも男女の輪の中にいた。私はと言えば、お察しの通り、何としてもそういうところには近付くまいと苦心するだけの事情にはこと欠かなかった。付き合いが生まれる可能性をも避け、人目につかない人間の部類であり続けることを念頭に置いてきたのだ。そんな、中等学校で過ごした年月の間に作り上げた仮面を付け、達人としての自信を携えて、私は大学時代へと入っていった。自己抑制こそが、その能力である。自分に注目して欲しい、そんな欲求が人間の中で最も強いものとなるこの年頃にこんな仮面を付けるのは果てしない苦痛だった。ところが、自分が選んだこの立ち位置が、他人を眺めその振る舞いを観察する点ではむしろ優位に立つものとなった。そのことに自分が少なからず満足感を得ていたことは認めざるを得ない。その中でも、ヂョフの振る舞いを観察することで私が得ていた満足感は他のどんなものにも代えがたいものだった。それは又とは得られない満足感だった。私がそのことを実感したのは、実のところ、自分とラディが親しくなった時からなのだが、その話題は後回しにしておこう。ここでは、ラディに何やかやとつきまとい、それで彼が喜んでいると信じて疑わない他の連中-ラディにとっては、喜びを感じるのに足りないものなど何一つ無かったのだが-とは違って、私は、このラディという人物が自分と同じような、ただし違った意味での仮面をかぶっていて、その仮面の背後に、役者でもなければ為し得ないほどの頑強さで以て、瞳の中の悲しみを必死に覆い隠そうとしている、という印象を受けたとだけ言っておこう。そういう点で、私から見ればラディは下手くそな役者だった。そして私は間違っていなかったのだ。それでも、理由は想像がつくだろうが、私は自分から努めて彼に近寄ろうとはしなかった。向こうの側からすれば、その年の最初の学年の、八十人もいる学生たちの中で、男子であれ女子であれ多種多彩な仲間たちにこれでもかというほど取り巻かれたラディが、私の存在に気付くはずもないだろうと。だがその点において、私は間違っていたのだ。
 偶然の巡り会わせで、私は彼と一緒のテーブルに座る羽目になった。それは十一月のと或る雨の日の午後、文化宮殿の中にあるカフェの、奥の方のホールでのことだった。今ではそこもみすぼらしいホールと化していて、いつもくたびれた顔をしたウェイターたちと人気のない座席の他、目に入るのはタバコをふかす若者たちの姿ぐらいだ。彼らの前にあるのは代用コーヒーか、運が良ければ、あのむかつくような「イリリア」コニャックのグラスといったところだ。だがそこも昔は選りすぐりのホールで、サーヴィスにかけては首都の中でも他にまず類を見ないものだった。そこには或る種のエリートとでも言うべき上流階級気取りの若者たち、多くは幹部の子弟たちが集まっていたのだ。私はそれまでその店に行ったことがなかった。私の財布では、そこの値段に持ちこたえられなかったからだ。その日は何となく入ってみただけで、雨がやむまでの時間つぶしに、文化宮殿の中がどんな風になっているか、上から下まで見てやろうと思ったに過ぎない。ラディはホールの真ん中のテーブルにいたが、彼が手を上げた時、私はその合図が自分に向けられたものだということに気付かなかった。ラディは十六歳ぐらいの女子と一緒で-後でわかったのだが、それは彼の妹だった-もう一人女性がいたが、ぱっと見ただけでは何歳なのか私には判断がつかなかった。ラディは私のことをこう紹介した。
「クラスメイトのセサル・ルミさ、変わった名前だろ。無口なところが、本当に宝箱を抱えているみたいだし、川の流れにも動じない感じだな」 [訳註:原語のセサル(thesar)は普通名詞なら「財宝、宝箱、宝物庫」で、ルミ(lumi)は「川」の意味]
 明らかにラディは酔っていた。私に対する突然の馴れ馴れしさも、それで説明がついた。その時は、彼と一緒にいようとしたこともなければ何かしら言葉を交わしたこともなかったにもかかわらず彼が私の名前を知っていたことは、それほど私の印象に残らなかった。彼は私が無口な性格だとも言っていたが、そのことについても私は気にならなかった。誰か他の人物と間違えられて、未知の環境に巻き込まれ、分不相応な敬意を以て迎えられた人間特有の状態で、私は気まずい思いをした。それどころか、そこに同席している連中のぎこちなさからは、敬意の言葉など出てくるはずもないことが見てとれた。十六歳の方、つまりラディの妹であるその少女はと言えば、こちらにろくな挨拶も寄こさず、私がそのテーブルにいた間じゅう、いや正確に言えばラディが酔っ払い特有のしつこさで私にここにいろと言い続けていたその間じゅう、まるで自分の兄がそうなった責任はこの私にあるとでも言わんばかりに、私がそこにいることによって生じた不機嫌さを隠そうともしなかった。恐らく彼女は、こういう社会階層に属する女子特有の高慢さで、自分たちのテーブルに同席する価値などこの私には無いと、そう思っていたのだろう。彼女については延々話すのも無意味なことだ、私の話の中で彼女は大した役回りではないのだから。だがもう一人の女性はそうではない。こちらの彼女についてもう少し話すことにしよう。
 さっきも言ったが、初めて彼女を見た時、私は彼女の年齢の判断がつかなかった。誰かが賭けをして、彼女が私より十歳以上は年上だと言っても賭けに負けるのは私の方だったろう。悪い意味でそういう類の賭けに乗ることをためらわなかったであろう私なればこそ、やはり負けていただろうと思う。彼女は本当に私より十歳以上も年上で、子供も一人いて、一年ほど前から未亡人になっていたのだ。彼女の夫だった人物は建築家で、ティラナに向かう途中の道路で交通事故に遭い、命を落としていた。ドゥラスからバイクで、仕事仲間の建築家と戻って来る途中のことで、二人とも即死だった。
 私がそのことを知ったのは後になってからで、その時ソニャ-彼女はそういう名だった-は私の存在を貪りつくすことになる。そしてこのソニャとラディの二人が、私の人生な空疎な天空の中に、新たな痛みの星々をきらめかせるのだった。ソニャは私の記憶の中に、出会ったその時のままで居座っている。青白い顔に、石炭のように黒い瞳、燃えるような唇はいつもかすかに開いていて、そこからきれいに並んだ歯が見えた。切り揃えられた重く密な黒髪が肩までかかっていて、彼女が首をかしげるたび、顔の半分を覆い隠していたが、そこには、他の者たちを支配するほどの魔力をもたらす、抗いようもない魅力を自覚した女の揺るぎない自信があった。まさに息を呑むほどの美人だった。私が彼女の年齢をはっきりと推し量ることができなかった理由は、恐らくそこにあった。だから十六歳の方が首を突っ込み、更には侮辱してくるのをぐっとこらえながら、私は最後までそこに留まり続けた。ソニャという名の女を目の前にして、できるだけ長く見ていられればそれで充分だったのだ。
 ソニャとは、それから三カ月後に再び会うことができた。正直に言うが、その時まで私は彼女のことを忘れていた。理由は単純だ。彼女は別の惑星に住んでいて、手の届かない存在だったのだから。匂いたつほどの女らしさに気圧されて、私は一晩をまんじりともせず過ごし、どんよりした気分で朝を迎えた。こうしたどんよりした気分には憶えがあった。その前の年の夏じゅう、私はそれを味わったのだ。それは私にとって初めての女性との経験だった。あれはジプシーの女だった。あの町の多くの男子がそうであるように、私もジプシーの女から最初の手ほどきを受けたのだ。彼女は名をエルメリンダと言った。短くしてリンダと呼ばれていた。十七歳で、セメント工場の製粉機で、三交代制で働いていた。私は満十八歳になったばかりで、つまり一歳だけ上だった。卒業試験が終わった後の夏の間に、工場から彼女の家に向かう路上の薄暗がりの中、私たちはキスを交わした。彼女の家はシェリフの近所だった。私はキスの仕方さえも知らなかったので、彼女は最初から私に教えてくれた。彼女が軽蔑を込めて「ガヂョ」[訳註:原語gaxhoj]と蔑んで呼ぶ男子たちはキスの仕方も知らず、愛の営みにかけてはジプシーの男子らに比べるべくもなかった。心底プライドを傷つけられた私が、だったらどうして自分と付き合ったのかと問うと、彼女はいかにもジプシーらしい言い回しで答えた。私の鼻が気に入ったから付き合うのだ、と。そうして彼女は私の鼻っ面を掴むと、キスの何たるかを教えてくれた。それから数日してリンダは、私にもう一つ別のこと、つまり愛の何たるかを教えてもいい頃だと判断した。私は両親に、友人の家に泊まるからと言い、彼女は遅番を終えて外へ出た。私とリンダはその晩を屋外で過ごした。満天の星空だった。そして夜が明ける頃には、私は死にそうな気分だった。リンダは私をその場に、生い茂る草むらの中に放り棄てたまま、最後に私の胸に噛み跡だけを残して立ち去った。数えてみたら六つもあった。それほどに幾度も、彼女は一睡もせず愛の営みを求めてきたのだ。立ち去り際に彼女はこうささやいた。
「あんたセックスはまるで役立たずよ」
その途端、私は眠りに落ちた。
 その時と同じようなうんざりした気分を、私はソニャの視線に抑えつけられ犯されるように過ごした眠れぬ夜の後に感じたのだ。彼女は視線で、想像の中で私に噛みついてきたが、それはリンダに六回噛まれた時よりも私をどんよりした気分にさせたように思えた。雨がしとしとといつまでもどこまでも、前日の午後からまるで弱まる気配を見せることなく降り続いていた。町じゅうの通りが雨に沈んで、川の流れる音が私の耳まで届いていた。雨模様の空を眺めて、私は思った。もし今日が終末の日として記されるなら、ノアの方舟の中で、永遠の生命を約束された生存者たちの中にいるのは、きっとソニャに違いないと。大学の重い扉の前の階段のところで傘を手に待っていたラディも同じ考えかどうか、私にはわからない。彼がそこにいたことと、私がそこへ来たことには何の関係も無い。そんなものが有るような、如何なる理由も私には見い出せなかった。ところが彼が待っていたのは、この私だったのだ。私を見るなり彼はそう言った。まるでずっと前から知り合いであるかのように、彼は気さくな口調で私にそう言ったのだ。彼の顔は青ざめていた。首にスカーフを巻いている姿は、親の命じることにいちいち従っている子供のように見えた。遅くなって済まない、とラディは私に詫びた。彼が私に許しを請うようなことなど、私と彼の間には何ひとつ起きていなかった。私がそのことを言うと、ラディは微笑んだ。それは、まるで永遠に続くような悲しみを込めた笑顔だった。それからラディは私の肩に手を置くと、今日は授業をサボって何処かへ行かないかと誘ってきた。もし自分たちがノアの方舟に乗り込んだら、そこでソニャを見つけることになるのだろうな、と私は思った。私たちはその前の晩にも行ったバーへと向かった。ソニャは、当然のことだが、そこにはいなかった。
 こうして私はラディと知り合いになった。いや正確には、こうしてラディは私と知り合った、と言うべきだろう。この点で主導権を握っていたのはラディの方で、私ではない。選択の権利を持っていたのも彼の方で、私ではない。私にあったのはただ、彼の友情に応えるか、応えないかという権利だけだった。そして私はそれに応えた。誤解の余地なきよう説明しておく必要があるだろうが、彼が私に対して示した友情に私が応えたことには何の先入観も無かった。彼の家の社会的地位から何かを得ようというような、如何なる動機も私の考えには無かった。それどころか、我々が共に過ごした長い期間の中で、私を苛んでいたのは罪悪感だった。私はラディに対して、自分の本当の姿を明るみには出さなかったのだ。私は彼に対して秘密を抱えていた。たぶん、その秘密が明るみに出てしまったら、我々の友情は終わっていただろう。更に如何なる誤解の余地もないように言っておくと、私は自分を聖人のように見せたいつもりなどない。私は自分の秘密をラディには明かさないつもりだった。だがそれは、彼の友情を失うのが怖かったからではない。それも起こり得たことではあるが、私は自分自身のアイデンティティを失うのが怖かったのだ。私はたちまち崩れ落ちてしまっただろう。それに、単なる倫理的な問題で自分を犠牲にしようとするほど私はナイーヴではなかった。少なくとも私にはそう思えた。私は、他の誰かに暴露されない限り、自分の秘密を言うのは墓場でだけだと心に決めていた。しかし私は間違っていた。ここで確かなのは、私は自分自身のことがわかっていなかったということだ。一体自分自身のことがわかる者などいるだろうか?間もなく訪れた機会に、いともあっさりと私は自分の秘密を、すなわち履歴に隠された地雷をラディに知られてしまったのだ。そしてソニャにも。

6
 年が明け、一月の終わりに雪が降った。学生たちは狂喜し、理学部と産科医院の間の道路は戦場と化した。講義の開始は一時間も遅れた。女子学生の大半が、喧噪の場と化した「スカンデルベイ」広場を通行できなかったからだ。その日、私はラディから今日が彼の誕生日だと告げられた。大学の校舎の最上階、大講義室の窓の高みから女子学生たちの殺戮を目で追っていたその時に、ラディは自分が誕生日だと言い、今晩自宅に来て欲しいと付け加えた。私は戸惑った。彼が私を自宅に招いてくれたのはその時が初めてだった。
 ラディの顔色はひどく真っ青だった。真っ青な顔のままで誕生日に招待すると言うその声はごくごくありふれたもので、ひどく場違いなものに聞こえた。私は彼に『有難う』の言葉ひとつさえ返せない有様だった。だがそれは、彼の招待が場違いなものに聞こえたからではなかった。また彼の顔色がひどく蒼ざめていたからでもなかった。幸いにもその時、始業ベルの音が各階に鳴り渡った。どうやら大学当局は判断を下したらしい。講義はなお半数の学生が来ないまま、始まることになった。私とラディはその時いた場所から離れてドアの近くに陣取った。割れた窓ガラスから風が吹き込んできて、ラディはスカーフをしっかりと巻きつけた。私は掌で頭を支えていた。そうして講義の間じゅうずっとそのままの姿勢で、何ひとつ聞かないままでいた。ところがラディの方はと言えば、まるでその日の講義がことのほか面白いものであるような態度で耳を傾けていた。外に出る時、私はラディに真実を暴露した。一切とりつくろうことなく、アリバイめいた弁解もしなかった。町の中心へ向かって-歩道を歩いていたら、建物のテラスから飛んでくる雪玉を喰らいそうだったので-大通りの真ん中を歩きながら私はラディに自分の経歴の秘められた部分、逃亡した叔父の話を語って聞かせた。簡潔に、明瞭に、まるでラディが私を自宅へ誘った時のようにありふれた口調で、何かしら偶然の出来事を語るようにそれを語った。そして沈黙した。ラディも黙っていた。実際のところ、二人の間に訪れた沈黙は理にかなったものであったように思う。そのまま二人は無言で中心部まで歩き続けた。そうなることも私は、掌で頭を抱えたまま講義を聴いていた時点から予期していた。そのまま中心部まで歩いてそこで二人は別れることになっていた。それぞれの道へと。二人の進む道は疑う余地なく別々のものだった。ラディが青く澄んだ瞳を私に向けた。その時、今までずっと、二人が出会った時からずっと私を苦しめてきた謎が解けたのだ。
『こんな目を俺は何処かで見ていなかったか?』
それはヴィルマの目だった。私の中に深く封じ込められていた、あの彼女の目だった。
「君が僕のうちに来るのは初めてだから」ラディが口を開いた。
「守衛は君のことを知らないだろうな。七時に、『ダイティ』ホテルの前の橋のところまで迎えに行くからね。時間通りに来てくれよ、あんまり家を長く空けるわけにいかないんだ・・・」
そう言ってラディは私としっかり握手すると、すぐさま歩き去った。私は、積もった雪が黒く汚れた道路の真ん中に立ったままでいたが、ラディの姿は人形劇場の裏手に消えてしまった。
 「ダイティ」ホテルの前の橋のところで、私は約束の時間より十分も早く待っていた。ラディの親切さをどう判断したらいいのか、私にはわからなかった。それまでの人生の中で、こんな風に急いで待ち合わせにやってきたことは滅多になかったし、用心深く神経質になる余り、服を着替えながらも、自分の喜びの中に何かしら疑わしいものがありはしないかと探っているのだった。それは本当のことだ。それまで自分がいつか乗り越えられるとは思ってもみなかった境界線があって、それをひょっとしたら乗り越えられるのではないかという可能性が生まれたと思うや、すぐさま胸が締め付けられるのを感じるのだ。私の印象からすれば、そんな境界線の向こう側に隠されているのは全く別の世界た。それはラディの世界であり、私が生きる世界とは全く別のものだった。私には自分が、幻想的な環境に放り込まれたマーティン・イーデンであるように思われたのだが、違うのは、その世界にいるのがルースではなく、厄介な悪い十六歳の小娘だとわかっていることだ。 [訳註:マーティン・イーデン(Martin Eden)はジャック・ロンドン(Jack London)の小説『マーティン・イーデン』(邦訳は辻井栄滋訳『ジャック・ロンドン選集』4巻または『ジャック・ロンドン自伝的物語』に収録)の主人公。貧しい水夫の青年マーティンは、不良にからまれていた中産階級の青年アーサーを助けた礼として屋敷に招かれ、そこでアーサーの姉ルース(Ruth)に心を奪われる]
 ソニャについては、三か月前にラディから彼の叔父の娘だと紹介してもらっていた。橋のたもとでラディを待ちながら私は、自分がまた彼女に会えるだろうとは思いもしなかった。思い出すのはただ、あの雨の日の午後、ラディやその妹と一緒に、あの霧に包まれたような被造物に出会った時のことばかりだった。私はその晩を眠れぬまま過ごし、そして彼女の記憶は薄れていき、霧は溶けてしまい、手でつかむこともできないのだ。
 ラディは七時きっかりにやってきた。人もまばらな大通りの、雪の残ったその上を、車が数台、まばらに走り抜けていく。午前中と同様、ラディの顔色はひどく蒼ざめていた。ただ、その顔の青白さを際立たせているのは、ネオンの冷たい光が閃いているせいもあっただろう。彼はつとめてユーモラスに振る舞っていた。
「今夜はね」ラディは語った。
「何だかいい感じになりそうな気がするんだ、一番の記念日になるといいな。客たちとは君も知り合いになれると思うよ。一つだけ忠告しておくけどね、おしゃべりは少なめにして、しっかり話を聞くことだよ。そうすれば楽しく過ごせること間違いなしさ。招待客はみんな前向きの気分でお祝いに来てくれるんだから、僕も同じように過ごしたいのさ。君もとにかく楽しくやればいい。さっき僕に話したような馬鹿げた話だが、あれは持ち出さないことだね」
 立ち入り禁止の標識を通り過ぎると、そこには軍用コートの下に自動拳銃を構えた衛兵がまず二人。その先の区画には、歩道に住居、庭園に松の木、ミモザにセイヨウイボタの生垣、それら、アスファルトで舗装された道路を除いた何もかもが、分厚い雪の層に覆われていた。そこは何人の手もつけられていない場所だった。隅の方に、子供向けの雑誌に出てくるような雪だるまが、凍って固まっている。まるで何もかもが静かな眠りに沈んでいて、おとぎ話のような休息の中に閉じ込められているかのようだった。カタログに載っているような建築様式の家々の前を通り過ぎて、一本の道を入ると、そこは二階建ての大きな邸宅で行き止まりになっていた。雪の輝きが窓ガラスに反射しきらめいて、その邸宅は何か非現実的な印象を与えた。ラディはそこに住んでいるのだった。歩道脇に黒の「ベンツ」が停まっていて、そのベンツの傍らに平服の人物が立っていた。私とラディが手すりのついた門を開け庭の中へ入った時、玄関のドアが開いた。最初に中から出て来たのは平服の二人だった。その後に姿を現したのはラディの父親だった。長身に、ロングコートと山高帽を着こなし、背後に控えていた平服の一人に何か話しかけながら、足早に階段を下りてきた。そして我々に気付いた。しかし、彼は我々の前を通った時、息子であるラディに何か話しかけただけだった。私の方には目もくれなかった。その間に先ほどの平服二人が門を開けて外へ出ると、「ベンツ」の前で待っていた。父親と息子の立ち話は一、二分ほど続いた。私は、この親子の間が何かうまくいっていないような印象を受けた。二人は聞き取れないほどの小声で話していたが、しかし立ち去り際には、父親の方が何かしら苛立っているように見えた。彼はひときわ声を上げ、招待されてしかるべき友人というものがあるのだ、とラディに言っていた。
「これは命令だ」父親はそう言った。「くだらないことをするんじゃないぞ」そして父親はその場を離れると、車の方へと向かった。
 私は自分がぼろ屑か何かのようになったような気分だった。ラディの父が私に示した無関心ぶりは相当なものだった。基本的な教養からすれば、せめて「こんばんは」の一言ぐらいありそうなものだ。思うに、どうやら私のような重要でない人間はこういうゲームのルールを受け入れるしかないのだろう。空気の味さえもまるで違うこの区画に、自分がいられることこそ最高の栄誉なのだ。私とラディは「ベンツ」が走り去るまでその場に立っていた。その時、私はラディが取り乱しているのに気付いた。彼の顔色は度を越して真っ青になっていた。自分にはどうしようもないことだと私は自分に言い聞かせた。[訳注:原文“kërkoj qiqra në hell”は「ヒヨコマメの串焼きを欲する」、転じて「できもしないことを求める」の意]家の中に入ると、ラディは私をテレビの置いてある控えの間へ案内してくれた。あの当時、私の町でテレビを持っていたのはフルスィウとヂョダの二人だけだった。私もフルスィウのところで二、三度ほど見たことがある。電話をしなければならないからしばらくこの部屋で待っていて欲しい、とラディは言った。何故かは知らないが、くだらないことをするなとラディの父親が言っていた、その友人たちを呼ぶことと何か関係があるのだろう。ラディの父親ほど有力な人物が、苛立ちを隠そうともせずこだわるとなると、その友人たちとは一体どういう連中なのだろうか?その夜出席していたのは、党や国家の有力者の血を引くエリートたちだった。その誰もが私からすればとてつもない重要人物だった。彼らは次から次へと、二人連れや三人連れで入ってきたので、誰が最後の招待客なのかわからなかった。彼らの表情は晴れやかに輝いていて、それは、先ほどラディが言っていた通りの前向きな表情だった。だが彼らのそんな前向きさ加減が、私には馴染めなかった。ラディが親しく接してくれるにもかかわらず、そこが自分にとってはよそよそしい環境に感じられた。ラディは私が居心地悪そうにしているのに気付いた。それで彼は私がその晩の特に選りすぐりの招待客であることを示そうと、私の腕を取り、全員に紹介して回った。そんな純粋な親愛の気持ちが私の神経にはこたえた。自分が動物園の猿で、来場者たちの前で宣伝されているような気分だった。招待された客たちはみな私に親しく接してくれたし、気分を悪くする理由など私にあろうはずもなかった。だがそれでも私は居心地の悪い気分だった。それでしまいには、あの河原の埃にまみれた場所で育った自分のような存在にとって、底辺ゆえの劣等感を克服するのは並大抵のことではないと思うに至った。それに、劣等感に苛まれる人というのは、そこに何かしら不純なものを感じるのだと聞いたことがある。この場合、私が感じていた不純さは、この若きエリートたちに対する嫉妬だったのだ。そう考えることで私の苛立ちは更に高まった。その晩の私は嫌な気分にしかなりようがなかった。たぶんそれは単に私がそう思い込んでいただけなのだが。招かれた人々の私に対する関心はゼロだった。ラディが私の紹介をし終えた時、もう誰も私のことを思い出しもしなくなっていた。私は、ラディにさえも同様に忘れられ、打ち捨てられたまま、そこにいた。彼は招待客への応対に追われ、私に関わっているどころではなかった。それほど時間は経っていなかったが、そろそろ帰ろうかという考えが私の脳裏をよぎった。だが私は帰らなかった。不意にソニャが姿を現したのだ。そして色彩が一変した。

7
 ソニャがいるのに気付いた時、私の中に生じたのは、見知らぬ土地で暗闇の中たたずむ人の前に不意に光が開けてきた時にも似た何かだった。私がいたのは二間に仕切られた形になっている部屋で、その間には可動式の扉があった。両方の部屋には水晶のシャンデリアがぶら下がっている。部屋の両側の壁の、それぞれから均等に離れた場所には円形のテーブルが置かれていて、それらには菓子や果物や飲み物が山盛りにされている。テーブルの間の空間には椅子が並べてあり、私に光が開けた時にはそのほとんどが空いていた。招待客は男子と女子の人数の釣り合いがとれていて、その男女は今ダンスを踊っていた。部屋の数か所に置かれたマグネトフォンのスピーカーボックスからは同じ曲が部屋中に流れるようになっていて、その時かかっていたのは「ある愛の詩」のテーマだった。あの年はこの曲が小説でも映画でも好評を博していた[訳註:日本では「ある愛の詩」という邦題で有名だが英語の原題は“Love Story”であり、アルバニア語の原文でもそのまま“Love Story”と書かれている]。ラジオでも、この曲を一日に何度も聴かない日はなかった。それは我々世代の曲だった。当時、ラディが私に見せてくれた雑誌の表紙には、主役を演じた俳優の写真が載っていた。今でもその名前を思い出すことができる。オリヴァーを演じていたのはライアン・オニールという感じのいい有名な男性俳優で、ジェニー役はアリー・マクグロウだ。そう、私に光が舞い降りたあの時、スピーカーからは「ある愛の詩」のオーケストラ版のテーマ曲が鳴り響いていたのだ[訳註:ライアン・オニール(Ryan O’Neal)とアリー・マクグロウ(Ali MacGraw)が演じた主演二人は日本版で「オリバー」「ジェニファー」と呼ばれていた。ちなみに同映画はトミー・リー・ジョーンズのデビュー作でもある]。
 今となってはどうしてそうなったのかわからないが、私とソニャは、そのほとんどが抱き合い踊っている男女の只中にいた。私が部屋の一方にいて、ソニャがその反対側にいたのを憶えている。そして、私がソニャを見た時、ジェニーの役を演じた女優よりずっと綺麗だと思ったことも憶えている。それはソニャにも言ったことだ。彼女の耳元で、君はジェニーよりも綺麗だとささやいた。するとソニャは微笑んで、ジェニーなんて誰だか知らないわと答えた。そして、あんまり飲み過ぎるのはよくないわよと付け加えたのだ。その言葉で私は、光が差してきたその時まで自分がずっと飲んでいたことに気付いた。飲んでいた方がよかったんだ、私はそう思った。でなければとっくに帰っていただろう、と。そしてそう思っていたこともソニャに告げたのだ、ずっと耳元でささやきながら。すると彼女はまた微笑んだ。私は勢いづいて「もし帰っていたら」と続けた。
「あの発育のいいお嬢さんたちが君の存在をおのが身の不運と思うしかないんだって、君に教える機会もなかっただろうさ。だからこそ彼女らが、あのナイトたちの首根っこにかじりついて床に倒れ込まんばかりになっているんだってこともね」 ソニャは手を口に当て、吹き出しそうになるのを抑えていた。
 私が余りにも変だったのだろうか、それとも彼女が笑い上戸だったのだろうか。前者だろうが後者だろうが、私にはどうでもいいことだ。ソニャは私が冗談を飛ばすたびに笑ってくれて、それが私にとっては予想もしていなかった幸せだったのだ。その時の私は、自分の幸せが他者の没落の上に成り立っていることなど、知る由もなかった。何者かが、この集まり踊る男女の中、私とソニャに向けて嫉妬をたぎらせた視線を送っていることなど、知りもしなかった。そしてその嫉妬が更に激しくなっていたことにも気付かなかったのだ。ソニャは最後まで私と一緒にいた。彼女は他のナイト連中をことごとく拒絶した。私とだけウイスキーを飲んだ。私と彼女はブルースの時だけ一緒に踊った。そして遂に、ブルースのリズムに合わせた軽い動きの中、ソニャは私との間に広がっていた谷間を平らにならしてしまった。その時、例の何者かは憤怒が頂点に達し、パーティーを去っていたのだが、私はそれも知らなかった。その時はただ完全なる勝利の中で、ソニャはその身を解き放ち、私はと言えば、持てる者たる男子としての責任を感じつつ、彼女の熱い息づかいを自分の頬に感じ、彼女の燃え上がる唇を自分の唇の端に感じていた。だが私は、自分に降りかかってきた幸運の、本当の原因を知らなかったのだ。後日、ソニャが私に幾度か納得させようとしたことだがあの晩、私と、彼女の犠牲者との間には何のつながりもなかった。彼女がどうしてそんなことにこだわるのか、私にはわからなかった。彼女がしつこく言うほどに、私はそれが信じられなくなっていった。私を愛しているのだということを信じさせようと、彼女が私に向ける或る種の愛情表現はいつも私を戸惑わせた。その愛情は不吉とさえ言えるものだった。不吉の予感が彼女を恍惚に駆り立てるのだろうかと、私はしばしば思った。二人の関係は恍惚そのものだった。それは一年ほど続いた。不吉なのはどうやら私の方だったらしい。私と付き合いのあった全員に不吉が訪れた。だが私は、幸運がソニャという女性の姿をして訪れたのだと信じて疑わなかった。

 ソニャのように恐るべき色気を備えた女がその場限りのお世辞の類に重きをおくとは、私には信じられないことだった。しかし実際のところ、彼女はまさにそういう女だった。彼女はジェニーというのがどんな女なのかと興味津々で知りたがった。どうやら私の肯定的な評価がどんなものか知りたかったのだろう。
「ジェニーは充分美人だわ」ソニャは言った。
「私がもっと綺麗だって、あなたが思ってくれてるのは嬉しい。でも私は、死んだ人と自分のことを比べて欲しくなんかないのよ」
 本気でこんなことを知っているのか、それともからかっているのか?私は枕に肘をついた。ソニャは腹這いになって寝ていた。シーツが肩の辺りまでかかっている。カールした豊かな黒髪が自分の傍らで揺れている。私はそこに手を伸ばし、ソニャの顔の部分が自分の側からよく見えるようにした。彼女のあまりの美しさに私の心臓は止まりそうになった。私は身を沈めてソニャの唇を求めた。彼女は身体を動かし、私のうなじに手を伸ばしてきた。私の全身に電流が流れた。ソニャの肉体に触れた私は激しい電流に見舞われ、我を忘れそうになった。彼女は私の腰に両腕を回してきた。私は彼女の呻き声に心をかき乱されずにいられなかった。すぐさまその呻き声は短い悲鳴へと変わった。それを打ち消そうとでもするように、ソニャは肩から首筋にできた窪みに噛みつくしぐさをした。私は身を沈めて、彼女が噛みつくのをやめ、ずっと続いていた呻き声が悲鳴に形を変えるのを待ち、そして彼女の中に自分の顔を深くうずめた。すると彼女の肉体の芳香が私の全身を貫いた。そして私はすっかり尽き果てた。ソニャは身をこわばらせ、指先が私の髪を掻き回した。やがて緊張がほぐれると、ソニャの指先は髪から肩先へと去った。その状態のままソニャはじっと目を閉じていた。
「そんなこと比べる必要ないのよ」そうソニャは私に囁いた。私は狼狽した。彼女は本気なのか、それともからかっているのだろうか?
「私、その本は見つけてもう読んだのよ」ソニャはそう言って「あなたはまだ読んでないんじゃないかしら。英語できる?」と訊ねてきた。中等学校からの名残りの英語を別にすればひとこともわからない、と私は答えた。ソニャは身を起こし、バスローブを身にまとった。テレビの映画で目にしたことのあるような、日本風の絹製のバスローブだった。彼女が部屋を出る時、私はこの幸福が不条理かつ分不相応なものであるように思った。私にそんな考えを起こさせたのは、私の周りのあらゆるものだった。マンションに、寝室に、柔らかな婚礼用のベッド。そこでは、それほど遠くない過去にソニャが別の男、つまり彼女の法律上の夫と共に寝ていたのだ。『ああ神よ』思わずそんなつぶやきが漏れた。『汝の無価値な死と、ソニャを残していかれんことを』だがそこへソニャが戻ってきたので私の思考もそれ以上は進まなかった。ソニャはコーヒーを淹れてくれた。彼女がカップにコーヒーを注ぐ間、私は考えていた。殊にこの人生の悲惨さの中では、ソニャの死んだ夫のことをそれほど気の毒に思う必要もないのだと。そうでなければ、彼女は私にとって到達し得ない惑星のままだったろう。理由はどれほどひどいものであれ、私の幸福は他人の悲劇の上に成り立っているのだ。私はそう思った。それで、一小説中のジェニーと比較されてソニャが不満気だった理由が、何かわかるような気がした。それは迷信にも似たものだった。[訳註:「ある愛の詩」こと“Love Story”には原作となる英語の小説(Erich Segal著)が存在する]私は最大限の真剣さで、ソニャとジェニーとの間にはつながりがあって、それは私と百万長者の息子との間にあるかも知れないものなのだと言った。ソニャが何も言わなかったので私はたたみかけた。
「何となくだけど、君が偉大な一族の一員だってところじゃないかって思うんだ」
 ソニャは無理に微笑んでみせた。その微笑みには皮肉も軽蔑も含まれていた。日本風のバスローブはその乳房を覆いきれていなかった。ソニャが無理に微笑んで、そして何気なくコーヒーをすすった時、私は己を呪った。百万長者に偉大な一族だなどと、自分は何でまたそんな馬鹿げたことを口走ってしまったのだろう?
「どうしてみんなそんな風に考えるのか、私にはわからないわ」彼女はそう言いかけていたが、私はと言えば、彼女の乳房に目が行っていた。コーヒーをすすっている途中で、ソニャは私の視線に気付いた。呆気にとられて目を下にやり、再び私の方に視線を上げた時、彼女は自分の目が信じられないとでもいったような表情をしていた。私は赤面した。だがおそらくそれが私にとっては救いとなったのだろう。ソニャはカップを脇へやり、バスローブを脱ぎ捨てると、私に近付いてきた。私はベッドのへりに座っていた。ソニャは両手で私の頭を抱き、自分の両乳房の間に挟み込んだ。私の唇が、その柔らかな乳房の肉を湿らせた。舌先で乳首をつつくと、ソニャは身を震わせた。それが私をかき立てた。それから、彼女はバスローブを身に着けた。そしてさっきの場所に腰を下ろしていた。私は途切れそうな息遣いのままベッドに横たわり、シーツを身にまとっていた。私の気持ちを鎮めさせるために、ソニャがコニャックのグラスを持ってきた。私はそれをひと息に飲み干した。
「まるで子供ね、お馬鹿さん」ソニャは私に囁いた。「私が偉大な一族の一員だなんて、何だってそんなことを思いつくのかしら?あのね、私は、あなたがそんな風に考える連中にアレルギーがあるのよ。それと、その偉大な一族っていうのがどんな連中だか、あなたわかってるの?みんながみんなラディみたいな人だとでも思ってる?」
 私は呆けたように[訳註:原語si guhakは「モリバトのように」]ソニャを見つめていた。わかったのは、ソニャがどういう種類の人間なのか決めるのは私にとって余りにも難しいということだった。彼女の核心部には到底届き得ない。ソニャは私から見ればずっと軽やかで、ずっと聡明で、ずっと繊細で、ずっと無慈悲だった。そして紛れもなく少しばかりあばずれだった。彼女の前では自分が無能な者であるような気がした。ラディの誕生日で二人して酔っぱらってその場を立ち去った、あのアヴァンチュールから一週間しか経っていないのに私をベッドに引き込むような真似がどうして彼女には出来るのか、私にはとても理解できなかった。
「言っときますけどね」ソニャは言った。「あと、それでこの話はもうおしまいにしますけどね。私があそこへ行くのはラディがいるからよ。うちの父ったら頭が固い人でね。自分の兄弟、つまりラディのお父さんだけど、こっちが向こうへ訪ねていくのは、向こうがこっちに来た時だけ。でもそういうことは滅多にないわ、だってうちの父も滅多に行かないから。わかった?」
 よくわかった。私は二度とその話題を口にしなかった。偉大な一族の世界について何かを知りたいという好奇心は、私とソニャの関係をあっけなく壊してしまいかねない。そしてこのことでわかったのは、ソニャが確実に迷信深い女性だということだった。それも克服しようのないほどの迷信深さだった。運命的なまでの。

8
 私は、ソニャを連れてなら、ティラナの通りやバーを渡り歩くこともためらわなかっただろう。これ以上に男としての自尊心がくすぐられることはなかっただろう。しかしそれは不可能だった。ソニャにとっても、私自身にとっても。ソニャには秘密にしておくべき理由が幾つもあった。私の側の理由はただ一つ、ラディに隠しておきたかったからだ。だがラディに隠していたのはソニャも一緒だ。沈黙し、二人のことについては何ごとも口にしないでいると、もしラディに疑いの影のひとかけらでもつかまれるようなことがあったら、ソニャは私のことを許さないだろうという気がした。加えて、私の立場はさらに深刻なものであるように思えた。ソニャはラディに対して何の負い目もない。私の場合、ラディとの友情がかかっている。ラディと一緒にいると、男らしくない偽善を感じないではいられなかった。その二律背反が私に重くのしかかり、或る日、すんでのことでソニャに向かって恐ろしく馬鹿げたことを言いそうになった。私はソニャと結婚したくなったのだ。今や踊るがままに踊るという状況だった。もし自分がその馬鹿げたことをしてしまったら、つまり自分が彼女に結婚の申し出をしたら、どうなるかはわからないにしても、事態はまるで違う方向に動くだろうと私は思っていた。ソニャはたぶん受け入れてくれるだろうし、私はいささかのためらいもなくソニャと結婚していただろうと。ところが、時が経つとともに私はソニャにもひけをとらないほど救いようのない運命論者に変わっていた。事態を違う方向へ動かすほどの力は自分にないと信じるようになっていたのだ。ソニャは私との結婚を受け入れなかっただろう。私は彼女の愛玩物でしかないのだ。彼女自身、私をペットとして扱っていた。そしてそれ以上ではなかった。
 二人の火遊びは暗雲も訪れぬまま数か月にわたって続いた。あたかもソニャは私を使って、人間の愛の可能性に限界があり得るのかどうかを見極めようとしているかのようだった。二人が別れるや、たちまち時間はその場で立ち止まり、二人の周りの世界は意味を失い、次にまた会える日が、その時がやって来るのを二人は待ち続けた。都心の一角にあるマンションの、三階にあるソニャの部屋へ人目を忍んで上がっていくと、そのドアはもう開いているのだ。二人の狂乱は数時間にわたって続いた。しばしば、ソニャが五歳の息子を寝かせに両親の家へ連れて行くこともあった。そして私はソニャと夜を共にした。それは身も砕け果てるほどの悦楽の夜で、その後いつも体力を取り戻すため二十四時間眠り続けなければならないほどだった。狂おしいほどの絶頂が二人をとりこにした。とりわけソニャの方がそうだった。彼女は急き立てるように、そして何かの悲運を予感しているように見えた。彼女は私を生きたまま喰らっていた。或る時から、彼女は私に毎日来て欲しいとしきりに言うようになった。だから私もつとめて毎日来るようにした。授業が億劫になり、試験のことも考えようとしなくなった。そんな或る日、二人がずっと避けようとしてきた事態が起きてしまった。それも私にとって全く予期せぬ形で。それは少なくとも、私がずっと不安に思っていたようなものではなくて、要するに、流行りの言い方をすれば現行犯だった。我々二人を現行犯で押さえようとする人物が何処にいるだろう?だがいたのだ、そういう人物が。
 私の人生の中でひどく後悔するようなことが一つあるとすれば、それはあの人物に一発お見舞いしてやれなかったことだ。私より掌ひとつ分ほど背が低いその男は、私に対して優位に立つような点がありそうにもなかった。三十歳前後と思われる年齢にしても、二十代の私からすれば問題ではなかった。ところがその男は閣僚の息子で、これは決して小さくない強みだった。ソニャにその話をすると、馬鹿に何べんゼロをかけても同じことよと言われた。そのゼロの何倍かは、ラディの誕生日の被害者でもあった。ソニャはあの晩その男に何があったのか話してくれた。ソニャは相手を怒り狂わせたいがために、あの場に現れたのだ。
「あの間抜け」そうソニャは言った。「私にしつこく付きまとってきたのよ、あの化け物ときたら、私が学生の頃からずっと。夫の葬式から一週間もすると私に近寄ってきた。あのラディの誕生日の時までずっと離れようとしなかった。だからあいつに向かって言ってやったのよ、あんたじゃない他の誰かと寝てやることにしたわってね。あれは化け物・・・」
 私の顔は真っ青になっていたはずだ、そこまで話してソニャが黙り込んでしまったのだから。それからソニャは、私のことが好きだ、いつか二人が離れ離れになって二度と会わなくなるその日まで、私を好きだと言い続けるだろうと言ってくれた。その時の自分の心の狭量さが、私は許せないのだ。人間の精神的な弱さがあらわになる形にはいろいろあるが、その時ソニャが私の悲壮な表情に見てとったものが何であったのか、それは私にはわからない。それに私はもうこの話はしたくない。そして私の目の前には、あのゼロの何倍かの男が姿を現すのだ。

 その男は中肉中背で、髪は薄く、灰色の瞳をしていた。頬の皮膚は赤みがかっている。それが血色の良さなのか、それとも化粧によるものだったのか私にはわからない。私が彼を見たのは、ソニャのマンションへと続く階段の入口を出しなに、いつもの癖で左の方を向いた時だった。その男は壁にもたれて、立ったままタバコを吸っていた。知らない顔だった。それで私はそのまま道を歩いて行った。
「憶えていないとは驚きだな」
私が階段の入口から十歩ほど歩いたところで、男はそう言った。私は神経にさわるものを感じて、その男をじっと見つめた。おそらく疲労のためにそんな風に感じたのだろう。そんな私の記憶を呼び覚まそうとするようにその男は、自分たちが何か月か前、ラディの誕生日の時に出会っているのだと言った。のみならず我々は互いにしっかり握手さえ交わしたのだと。それで思い出した、その男の瞳がじっとりと潤いを帯びていることに私がますます苛立ちを覚えたのだということを。その眼の中には何かしら不吉なものが映っていた。だが十分ほど後、もう十歩ばかり先へ進んだところで違うことを思いついた。あれは蛇の眼だ。あいつにみなぎっているのは毒だ。その毒が血液を通じて全身に流れるような感じがした。その話し方は切りつけるようで、はっきりと、正確なものだった。この男が有力な閣僚の息子で、警察官だとソニャから聞かされた時、私は驚かなかった。そうだ、だからこの男は私に捜査でもするような口調で話してきたのだ、まるで前に捜査にあたったことのある捜査員のように。それでも自分の記憶の曖昧なところを確認しておきたくて、私は彼に言われたことを一語一語思い返すのだった。
「さっそくだが、本題に入ろう。注意してよく聞くんだぞ。ここのところ、お前は或る女のところに足しげく通っていて、そして今ちょうどそこから出て来たところだ。お前は地雷原の中にいるようなもんだぞ。お前がこの際、今すぐ手を引かないということなら、ラディと、それから大学の学長とに宛てて、俺は手紙を二通出すぞ。ラディも気付くだろうな、よりにもよって自分の親友が従姉と寝ていることに。学長はこんな話自体に関心はないだろう。学長が関心を持つのはもっと別のことだ。ことラディに関する話となれば、おそらく無関心ではいられないだろうな。お前が俺の言うことを聞かないのなら、お前に逃亡者の叔父がいるってことが学長とラディに知れ渡るだろうよ。お前が隠し続けて、記録上のどこにも載っていない事実だ。そういうわけさ。だからしっかり目を開いてよく考えろ・・・」
 私は茫然としたまま、しばらくさまよい歩いていた。あの男のじっとりとした瞳が記憶に上がってきて、私を陰鬱な気分にした。私を陰鬱な気分にさせたのは、自分があの男に拳の一発もお見舞いしてやろうとしてできなかった、その事実だった。あの男が喋っている間じゅう、そんな考えが絶えず自分の頭の中に湧いてきて、話し終わった時には、いよいよあの鼻の下に拳の一発を食らわして、あいつを広々とした歩道の上にのしてやろうと待ち構えていたのだ。自分の拳なら何処でもお望みの場所にたやすく当ててやることが出来そうだった。何故なら、あの男は私より掌ひとつ分ほど背が低くて、私と話している間も少しばかりこちらを見上げるように顔を上げていたのだから。だが私は殴らなかった。私に言うべきことを終わりまで言い尽くすと、彼はそのまま立ち去った。きっとあの男は、私が何を考え込んでいるのかを嗅ぎつけただろう。たぶん私に一層強力なプレッシャーをかけてやれたと思っているだろう。実際のところ、私はあの男を殴る気になれなかった。そしてただぼんやりとさまよっていた。ぼんやりとした感覚は、やがて不安と恐れがないまぜになったものにとって変わり、不安を口にすることもできなくなっていた。
 ソニャのところへ人目をしのんで出かけたのはその晩のことだった。いつものように、人目をしのんで会いに行ったのだが、その晩からその言葉は私にとって具体的な意味を持つようになった。あの灰色の、潤んだ二つの眼から身を隠さなければならない。灰色の眼でなくても、おそらく他の様々な色の眼が、何処かから私を見つめているだろう。どちらにしても結果は同じだ。誰かの目につけば、その刺激があいつの灰色の目の網膜へ届けられ、手紙は目的の場所へと送られるだろう。灰色の瞳を避けるように、人目をかいくぐって私はその晩ソニャのところへ行った。そして何もかも、自分の履歴の「地雷」のことも含めて彼女に語ったのだ。ラディもそうだったが、ソニャに対して「地雷」は何の印象も与えなかった。あの灰色の目は危ない男よ、と彼女は言った。これは道徳から外れた状態なのだから、私の将来も危うくなるし、お互い気を付けなければいけないわ、とも言った。私の履歴の「地雷」が発覚したら、私は自動的に大学から追放されるだろう、というのがソニャの考えだった。彼女もそうなることを望んでいなかった。だがソニャは私のことを愛しているのだ。そして私もソニャを愛している。二人とも、このままなかったことにしてしまうことはできなかった。なかったことにしてしまいさえすれば、あの灰色の瞳を逃れることができる。或いは、もう二度と会わなくなればいい。だがソニャには、私と会わないでいることは不可能だった。私もまた、彼女と会わないでいることは不可能だった。一日会わないだけでも一世紀のように感じられた。人生の空虚に満ちた一世紀、そこでは二人は不安に押しつぶされ、他のことなどどうでも構わないようにさえ思えた。二人の関係は不安に満ちた熱狂という形をとっていた。理論的にも実際面でも、言ってみれば、それは避けがたいものだったのだ。

 日々の中の不吉な予兆は、私がヂョフと呼ぶ小男の姿をとって目の前に姿を現した。我々が通う大学の学科長で、ヂョダの身体的特徴をつぎ合わせて、フルスィウのしぐさを混ぜた独特の[訳註:原文ではラテン語sui generis]交配種だ。この人物を見ていると、蛇とハリネズミをかけ合わせると生まれた子は有刺鉄線、という言い回しが頭に浮かんでくる。ヂョフがこの学部における有刺鉄線であることは誰にとっても秘密ではなかった。それでも或る晩、カフェ「フロラ」の隅の方でヂョフが、あのゼロの何乗かの閣僚の息子で党員取調官の男と顔を突き合わせて話し込んでいるのを見た時はかなり驚いた。言葉の専門的意味からすれば最もあり得ない組み合わせだった。一人は学部の長で、相手は一種の警察官なのだ。私は目がさえて一晩中眠れなかった。二人の会話の対象が自分だと思うには、幾つも理由があった。
 その翌日、一時間目の講義が終わると学部の秘書が廊下で声をかけてきて、学部長室へ行くように言われた。私は、とりあえず自分が外見上は平静に見えていると確信できるまで、廊下をうろうろ歩き回った。部屋にはヂョフしかいなかった。彼はクルミ材の背の低いテーブルを挟んで並んだソファの一方に座っていた。テーブルの上に目をやると灰皿が一つあり、その灰皿の端には火のついたタバコが一本あった。ヂョフはこちらへ来いという風に手招きした。私はドアを閉め、彼と向かい合ってもう一つのソファに腰を下ろした。彼が不意に放ったげっぷの、甘酸っぱいアルコールの臭気がテーブル越しに私の方まで漂ってきた。私は吐きそうになった。だが私がそれ以上に吐き気を催したのは、ヂョフのこれ見よがしな仕草の方だった。それで私は、自分の状況が悪くなっていることを理解させられたのだ。しかしヂョフには残念なことだが、彼は、自分が前の晩に灰色の眼の男と顔突き合わせて話し込んでいるのをたまたま私に見られていることを知らなかった。彼が私に威圧的な表情で迫ろうとしたって無駄なことだったのだ。その時点で、爆弾が投じられることを予期していた私は、ヂョフが人形の猿に似ているな、それも子供がネジを巻き上げた時のあれのようだなと、そんなことばかり考えていた。ネジを巻いたのは警察だ、違うのはそこだけだ。しかしヂョフはそのことに気付かず、今度は不意に、学部のおべっか使いのおもちゃ猿の上位の段階を見せつけることで、私に美的満足感を味わわせる機会を与えようとし始めた。しまいには、あのゼロの何乗かが以前にしていたように、タバコをプカプカとふかし、分厚い煙をもうもうとさせ、それからずばりと本題に切り込んだ。
「失礼なことを言うようだが、いいかね君、我々の社会で最も深刻で、最も咎められるべき態度というのは、誠実さの欠落だよ」
そこまで言って彼は一旦沈黙すると、自分の言葉の効果を確かめるように、射るような眼で私を凝視していたが、やがて先程と変わらぬ口調で話をつづけた。
「個人的には、学生としての君に私は悪い印象を持ってはいない。それに君は同志ヴラディミルの友人でもある。そして同志ヴラディミルが如何なる人物か、それは私も君もよく知っている。この点こそが、私に課せられた義務と責任を完徹させる上で、私にとって最も負担を感じる理由なのだよ。要するにだ、意図したことであろうとそうでなかろうとに関わらず、君は重大な虚偽を働いているのだよ。君の町の一住民から、本学の学長宛に手紙が届いてね、それによって、君に国外逃亡した叔父がいることが明らかになった。手紙は匿名だが、住所は君の町のものに他ならない。我々は確認を行い、そして残念なことにこの忠告が事実であると判明した」
そこでヂョフはまた沈黙し、タバコをプカリとふかすと、それでも私の表情に特段の影響が見られなかったので、今度は語気を荒げてこう言った。
「取り敢えずだ、その手紙は私の金庫に入れてある。だが私も、これをいつまでもそのままでおくことはできない。これは党の書記局へ提出しなければならない。その後は党の委員会へ送られる。その結末は、たぶん君にも察しがつくだろう。だが私は、幾らかでも状況がやわらぐよう、君に明日まで時間をやろうと思う。さもないと、君にとって厄介なことになるぞ。よく考えたまえ・・・」
 あらゆる事態を考えていたが、これほどあからさまな恐喝は私も予想していなかった。あの閣僚の息子の臆病さがここまでとは、想像すらしていなかった。あの男は私にいま一度のチャンスを与えて来たのだ、ソニャから手を引けばそれでいいのだと。あの男なら私を破壊することができる。だがあの男は私を破壊したくない。何故なら怖いからだ。私を破壊してしまえば、あの男はソニャにたどりつくための望みを全て失ってしまう。そしてもう一つ、あの男が怖れることがあった。手紙の内容が匿名であることからもわかるが、あの男はできることなら、自分では表舞台に出たくないのだ。あの男が唯一恐れなければならない人物はラディだった。何故ならラディはソニャにとって一番の従弟なのだから。そしてラディは私の友人なのだから。ヂョフもまた同様で、あれやこれや脅しすかしてみたところで、私の虚偽のせいで彼自身が厄介な状況に置かれるのだという事実は到底隠しきれなかった。ヂョフ自身、捏造した匿名の手紙によって虚偽を働いていたわけだが、彼自身が不安を抱えていることもまた同様にあからさまなものになっていた。正義の騎士も二つの炎の間にいれば、両方のいずれにもその身を焼かれたくはないと思うものなのだ。
 私は、自分の思考が機械のような冷酷さで以て機能し得るとは思わなかった。自分が計算づくでいられるとも思わなかった。ソニャは問題の埒外だった。この範疇の問題を解決できるのはラディだけだった。もし彼が問題の只中に入っていくことを認めればの話だが。自分の経歴の「地雷」を彼に打ち明けた時の私の誠実さが、私にとっての事態を緩和させた。そして更なる危機が起こり得ることをも念頭に置いていられた。ソニャとの関係が明るみに出ることも。そのことでラディに助けを求めるであろうことも。でなければ私は敗北者になっていただろう。
 私のしたことは破廉恥なことだった。だがしかし、尋常でない環境下での論理では、私にあれ以外の道はとりようがなかったのだ。私は一握の砂でしかなかった。何人とて足で踏みつける程の価値もない存在だった。だがラディなら、私を泥の中に放ってはおかなかっただろう、私はそう感じていた。そして彼は私を泥の中に放ってはおかなかった。ただ彼が私のことをどう考えていたのかはわからない。彼の相変わらずの青白い顔は、更に青白くなっていた。私が自分の卑劣に満ちた袋の中身をぶちまけた時、ラディは私の話を黙って聞いているだけだった。彼の青白い顔も、沈黙も、それら全ての表象が、彼の不満さを物語っていたのだろうか?だが誰に対してだ?私に対してか?ソニャに対してか?ヂョフや、あの閣僚の息子に対してなのか?それら全てに対してだ。何もかもが彼からすればちっぽけな、問題児の、まるで諍いの種のようなものだった。滅多にないことだったが、たまに呑んだくれて見境がなくなると、彼は私に、このしみったれた世の中に対する悪態をつくのだった。そんな時、彼は自己破壊への期待にとらわれていたから、平静なのは見た目だけで精神は掻き乱されているのだということを見て取るのは、そう困難なことではなかった。彼にはただ、書物への情熱しかなかった。彼ほどの本の虫を私は他に知らない。本以外のものは全てその場限りの、かりそめの、とどまり得ないものばかりだった。おそらく私自身もまた、彼の人生の中では移り行く存在の一部でしかなかった。何となれば彼もまた彼自身をただの通りすがりだと、そう呼んでいたのだから。
 ラディがどうやって私の危機を救ったのか、その方法は、私にとっての解けない謎であり続けるだろう。数日後、彼は私に、もう誰もまとわりついてはこないだろうと言ってくれた。根元まで揺るがされていた私の生活はあっさりと、実にごくあっさりと、通常の流れに戻された。私を救うため、疑う余地なく、ラディは自分の父親の権力を利用したのだ。ヂョフに対しても、またあの灰色の眼の男に対してもだ。私は、ヂョフがどれほど恐れおののいたかを想像してみた。ラディは、例えばこんな風に言ったに違いない。
『先生、匿名の手紙など誰も書いていないことは先生自身がよくご存じでしょう』
ヂョフはこう言っただろう。
『いや誤解だよ、本当に。誰も匿名の手紙など書かなかった、誓ってもいいさ同志ヴラディミル』
だがあの閣僚の息子の灰色の眼には、ラディは一体どんな風に働きかけたのだろう?あの男には、おそらくソニャのカードを切ったのではないか。例えば、もしまた彼女に近付くようなことがあったら、両足で地面に立てなくなるぞ[訳註;原文は直訳するとこういう表現だが、英訳は「残りの人生を後悔するぞ」、ドイツ語訳は「人生笑って過ごせないぞ」]、とでも言ったのだろう。或いはまた別のカードを切ったのかも知れない。彼らは同じ世界に属していて、互いのアキレス腱を知っているのだから。だが私は心穏やかではいられなかった。何年も隠し通してきた経歴の「地雷」は明るみに出てしまった。警察なりヂョフなりがそのことを知ったからには、それが爆発しなかったのは単に私の運が良かっただけだということになる。それにもう一つ、私が平静でいられない理由があった。今や私とソニャの関係は、ラディに対して秘密ではなくなってしまったのだ。私が自分の従姉と付き合っていることを彼は知っている。それを隠すためのアリバイは私にはもうない。そして、子供じみたナイーヴさの故に、私は終わりにしようと決意した。そうだ、もうソニャとはこれきりにしようと決意したのだ。
 我々は試験を控えていた。ラディはもはや授業にも出席しなくなり始めていた。私は十日余りもソニャの前に姿を見せないでいた。もう十世紀もだ。世界はその色を変えてしまった。世界は全ての色を失ってしまった。それに抗するには私は無力だった。逃げ道を求め、どこかの洞窟に身を閉ざし、隠遁の人生を得たいと思った。だがこのままでも私には自分が隠遁者であるように思えた。
 結局は脱走などするに至らなかった。ソニャが大通りの真ん中で私の前に姿を現したのだ。彼女は私の前で二分ばかりじっと立っていた。そしてじっと私を見つめていたが、一緒について来るようにと私に命令した。彼女は私に、一字一句そのままに、こう言ったのだ。
「一緒に来て。今すぐに。階段を上る時は注意して。来なかったらただじゃおかないわよ」それだけ言って彼女はくるりと背を向けた。
 私は呆気にとられて立ち尽くしていた。魂を震わすほどの歓喜に、どうにかなってしまいそうだった。その余りにも都合のいい通りすがりの女が去っていくのを見送る内、私の中には、彼女に追いつき、その腕をがっしりと摑み、頭の中が真っ白になるまで彼女とくるくる回っていたいという思いが、ふつふつと湧き上がるのだった。その思いは、彼女の後を追っていく道すがらでも消え去ることがなかった。どこか遠く、ひょっとしたら遠くの方で、私と彼女のことを多少なりとも知っている誰かの目に、あからさまに、はっきりと見えていたとしてもだ。その時の私は、見たい奴には見せてやればいいという気持ちだったのだから。私は彼女とほぼ同時に、彼女のマンションにたどり着いた。私がドアを閉め、自動式の掛け金を下ろした時、ソニャは顔面蒼白だった。彼女は私に何か言おうとしたが、私はそれを言わせなかった。彼女の口吻は私の口吻に敗北していた。ようやく二人の唇が離れた刹那、彼女はささやくように
「あなたイカれてるわ」とつぶやいた。それからは、ソニャが私を丸呑みにしようとでもしているような感覚だった。彼女の舌先は私に襲いかかり、私は自分の全身を吸われているような感覚だった。それから彼女のブラウスのボタンを外した私は、ブラウスの下に何もないことに思わず息を呑んだ。ソニャは私に挑みかかると、私の服を頭のてっぺんから爪先まで引き剥がした。私は彼女の肩を摑んだ。彼女の髪がシダレヤナギの枝のように垂れ下がっていた。気が遠くなりそうな私の目に、寝室へと続く通路が見えた。好都合なことにそのドアは開いていた。私は彼女をゆっくりと、まるで割れ物を手にしているかのように、そっと丁寧にベッドへ寝かせると、自分の頭を彼女の両の乳房にうずめた。その間も、私は自分の下の方にソニャの手の動きを感じていた。彼女の肉体は休むことを知らず、そして叫び声を抑え込むように、首筋と肩の間のくぼみに陶酔の甘噛みを仕掛けつつ、ひと時の満足を求めて上へ下へと動きを繰り返しては、うめき声をあげた。そうして、ひととき満たされる瞬間が来るたびに彼女はまた噛みつき、悲鳴を上げ、また次の瞬間には身をよじらせ、そのままの姿勢で硬直してしまうのだった。ソニャは私から離れようとしなかった。私にぎゅっとしがみつき、私をキスで覆い尽くし、私もまた彼女が満足するような位置へと、再び彼女の身に顔をうずめた。彼女は枕で呻き声を押し殺し、世界はどろどろに溶けて絶頂の闇へと沈んでいった。そんなことを二人は互いに精根尽き果てるまでずっと続けた。
「あなたなんか、窓から放り出してやるのがお似合いだったのよ」とソニャが言った。私は腹這いになっていたが、彼女の乳房の片方は私の掌のくぼみの中に収まっていた。彼女は指先を私の髪の間に差し入れ、私の頭を撫でた。
「あなたなんかベッドから追い出して箒で叩き出して、階段から落っことしてやればよかったんだわ。それで、もしまたあなたが来ようなんて真似したら、あなたの鼻っ先でドアをピシャって閉めてやるんだから」
 私はずっとソニャの乳房を掌で包んだままで、時折そこに刺激を与えては、彼女に微かな悲鳴を上げさせた。普段ならばそんな刺激も、二人が愛し合った後でさえ神経を高ぶらせるのだったが、ソニャは消耗しきっていて、何の反応も示さなくなっていた。ただ繰り返し、私に相応しい罰を、どれもこれも遥かに峻厳なものを、ただ告げるだけだった。そうして私をぐいと突き放した。肘をついて起き上がり、もう全部知ってるのよ、と私に言った。私は凍りついた。ソニャは私の上に覆いかぶさり、私の喉元を手で絞めつけた。
「あんたなんかぶっ殺してやる」彼女は言った。
「この嘘つき。ラディのところへ行く前に、私のところへ来ればよかったのに。この意気地なし。本性を現したわね、このエゴイスト。私だったらラディなんかよりもっとうまく、かたをつけてあげられたのに。本当に馬鹿なんだから」
そしてソニャはそのままの体勢で私の上に覆いかぶさり、私の首を手で絞めながら、さらなる罵詈雑言を浴びせ続けた。それを私は黙ったまま、これっぽっちの抗弁もせず聞いていた。それというのも、結局のところ彼女の言う通りだったからだが、そうやって私を脅しつけていると思ったら、不意にソニャはついと顔をそむけるや、枕に顔をうずめ、すすり泣きを漏らし出した。私は呆気にとられてしまった。どうしたらいいのか見当もつかなかった。小刻みに震える彼女の肩を、自分の傍に流れる彼女の黒髪を見つめたまま、私は、その感情の起伏が、その痛苦の奔流が何なのか理解する力さえ失っていた。ソニャは好色な生き物だったが、その熱情の炎にヒステリーは含まれていなかった。そんなソニャのすすり泣きは、ヒステリーの爆発などではない。重い罪の意識を感じて、彼女に手を触れる意気地もないまま、私は彼女に許しを求めた。二度、三度、五度と。ソニャは黙ったままだった。それから起き上がり、バスルームへ向かい、戻ってくると日本風の絹製のバスローブを身にまとっていた。だが明らかにそれは胸元を隠しきれていなかった。バスローブからこぼれ出た乳房が私の平常心を失わせることをソニャは知っていた。こぼれ出た乳房の攻撃性が、まるで雄牛が赤色に狂うがごとく私を狂わせるのだ。そんな私の弱点を、彼女は充分に知っていたが、私はそこに何かの媚態が込められているようには思えなかった。そんな場合ではなかったのだから。それでも、私の目は自然の力によって、その胸元へと向けられてしまうのだった。やがてソニャは落ち着きを取り戻すと、二人分のコニャックを注いだ。そうして、自分は思慮の欠けた女だと言い、さらに、自分が泣いていたことは私とは何の関係もないのだと言った。だったら誰と関係があるのかと私が訊ねると、ソニャは話してくれた。前の晩、彼女の父親がほろ酔いの上機嫌で自分の弟、つまりラディの父親のもとを訪ねたのだが、運の悪いことに家にいたのはラディで、それで二人は取っ組み合いの喧嘩になったというのだ。そこでソニャはにっこりと笑ったが、その頬の上をひとつぶの涙がきらりと光って流れ落ちた。それから彼女は、自分の父は叔父と顔を合わせるたびにひどい諍いになるのだと付け加えた。
「父が叔父にどんなことを言ったか、あなたに見当がつくかしら?」そう言ってソニャは私をじっと見つめた。
「自分はベイだって[訳註:原語bejは「支配者」「長」を意味するトルコ語beyに由来するアルバニア語]、それで自分は諸侯を束ねているんだって、そんなこと言ったのよ。いつも叔父さんの方はただ辛抱しているんだけど、その時ばかりはうちの父を追い出したの。叔父さんが鉄格子の中に放り込まれずに済んでよかったわ[訳註:党の高級幹部であるラディの父親によって、実の弟であるソニャの父が逮捕されかねなかったという意味が含まれている]。それから父はうちに帰って来たんだけど、ずっと酔っぱらったままでわめき散らしていたのよ。誰彼かまわずわめき立てるもんだから、私たちは一晩中、一睡もできなかったわ」
 ソニャはグラスに残ったコニャックをあおった。彼女はコニャックを欲していた。バスローブの代わりに今は薄いドレスを身に着けていて、それが不運にも私にとっては十倍以上も魅惑的だった。不運にも、と私が言ったのは、こんな取り込んだ状況では、どんなに彼女を刺激したところで苛立たせるだろうからだ。そうだと言わんばかりにソニャは立ち上がり、私に、一緒にキッチンへ行こうと言ってきた。彼女は向こうで飲み直そうと言ってきかなかった。私に抗う術はなかった。とどのつまりここは彼女の家であって、何の問題も起きようはずがないのだ。
「偉大な一族なんて、最低の一族」不意にソニャが口走った。私の酔いは冷めた。
「偉大な一族なんて、一番薄汚い一族よ」
彼女はまだ喋っていた。その言葉が私にどんな印象を与えるかなど、まるでお構いなしに。
「一人だけ、まともな人間もいるわ。それはラディよ。他はみんな化け物よ。男どもはワニだし、女どもは毒グモだわ。言いたくもないけど、あれは厚化粧の下に醜い顔を隠してるカエルなのよ。父の言う通りだわ・・・コニャックをもう一杯ちょうだい」
 私は従った。ひと目で彼女が酔っぱらっているのは分かったが、そのグラスを満たしてやった。ソニャはひどく鋭敏になっていた。彼女に後れをとるまいと、私も二杯を立て続けにあおった。その時、もう午後の日が暮れていることに気がついた。
「ラディだって」ソニャは小声でつぶやいた。
「お父さんとうまくいってないのよ。これはあなたにだけ言うわ。あの二人って、まるで猫と鼠なのよ。人に言ったらだめよ、わかった?私たち、二人だけの秘密よ」そしてソニャは私の首に手を回してきた。私は彼女に覆いかぶさり、唇を求めた。何故か私はラディの置かれた境遇とハムレットの境遇を比較していた。ソニャの燃えるような唇を感じながら、私はあの誕生日の雪の晩のことを思い出した。屋敷の階段のところで父親と息子が交わしていた会話の切れ切れ、有力者である父親がいまだ招かれざる友人たち、さらに有力者であると思しきその人らを、当然のように招こうとすることにこだわっていたことを。そしてもう一杯飲んだ頃には、ソニャが散歩に出かけようと誘ってきたことも、私には自然なことに思えていた。
「みんなに見られるでしょうね」ソニャは言った。「それでも私はいいの!私が避けたいのは一人だけ、ラディよ。ラディにはあなたが喋ってしまったんだから。一緒に出かけるの、怖い?」
 私は怖くないと答えた。彼女にひざまづき、その脚に口づけするほどの覚悟はできていた。まるで女主人への情愛に狂える従者のように。その時から自覚していたことだが、私は今この二人の関係がもはや単なる昂揚感ではないことを理解しようとしなくなっていた。それは挑戦だった。戦いを挑んできたのはソニャの方だ。その点からすれば私は劣っている方だった。戦いを挑む魂は、私の中で消え失せていた。あの子供の頃の遠い夜、自分に叔父がいることを知った時から、私にとっての世界は白と黒とに、野蛮と高貴とに分かたれてしまったのだ。たぶんあの時から、生存をかけた私の闘争が、挑戦する魂を掃き出してしまったのだろう。ところがソニャが私に実証してみせたのは、彼女には攻撃的な色気ばかりでなくもっと別のもの、すなわち誇りが備わっているということだった。今なら、ソニャが何に挑もうとしていたのかが私には分かる。だがあの時の私はちっとも分かっていなかった。あの時の私は、ソニャがあらゆる局面において隠れたる敵に立ち向かう、そんな環境に挑んでいたことを分かっていなかった。それはすなわちエリート達であった。だがそのことをソニャは一度も私に話してはくれなかった。今の私には分かる、どうしてソニャが私と一緒に散歩に出て、自らを衆目に晒そうとしたのか今ならはっきり分かる。だが或いは別の理由もあったかも知れない、信じがたいまでに透徹したその予感で、ソニャは、早晩終わりが来ることを察していたのだ。

(9へつづく)


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