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イスマイル・カダレ 『大いなる孤独の冬』

第3部 冬に入る国

1
 冬が訪れていた。全ての国という国を風と雪で覆い尽くした後、いにしえの氷河の境界線へ辿り着かんと、常に下へと舞い降りる、それはまるで新たな支配者の誰もが、古い支配者たちの帝国の境界線へ辿り着かんと苦闘するかのようだった。いつもそうなのだが、大いなる冬を目の当たりにして、ほぼ全ての国々で、地軸がずれたと語る者たちが現れる。それは、尋常ならざる気候が襲い来る度に、或いは世紀毎の、半世紀毎の、更には千年紀毎の終わりと始まりに、諸国民の間に蔓延すると言われる、古くから伝わる噂だった。何百回と欺かれてきたにもかかわらず、あらゆる太古からの言い伝えと同様、これもまた、自分たちの中で何かが揺れ動く度に世界の均衡も揺れ動くのだと信じがちな人々には納得し得る類の噂だった。実際のところ、人々の間に動揺があっても、それを嵐と呼ぶことはないだろう。
 それは全て、大洋の広がりから死に別れて流れ込み、際限のない荒涼とした何ものかを、雷鳴の息遣いの一つさえないまま、周囲数千マイルにわたって絶えず引き起こし、終わりなく咆哮を上げる、そんな12月の空の下での出来事だった。

 12月の後半、商店のショウウィンドウに店員たちが新年の雪を模した綿を飾り始める頃、ディブラ通りには普段とは異なる活気が生まれる。毎年、ショウウィンドウの綿を目にする度に、見知らぬ通行人が歩道や交差点の何処かで挙げる第一声は「新年はどちらでお過ごしに?」という問いかけだ。そして、それがたまたま出会った友人に対するありふれた問いかけではなく、勝ちどきの声のように繰り返され始めると、霜の噴き出した路上に昼となく夜となく溢れ出す何百、何千という人々によって、幾度も繰り返されていくのだ。
 一方、通行人の足によって、残り少なくなり泥にまみれた木の葉は秋の終わりの残りかすとして引きずり回されながらも、多くの若き文学者たちによって韻文の中で思い起こされ、次に批評家たちによって、出版される文芸論議によって、激しい論争の中で、繰り返し呼びさまされ、更に呼びさまされ、社会主義リアリズムの詩論の分野における若干の問題と関連付けられつつ、理論的一般化の中で押し広げられ、更に遠く、対立の不在という理論へと(例えば『我らのもとに秋は無し』という讃歌をめぐって生じた議論のように)、のみならずイデオロギー全般の問題へと及んでいくのだった。
 時刻は間もなく三時になるところだった。ベニはサラと何時もの場所にいて、通行人たちを目で追っていた。人混みの中に「資本主義の全般的危機」[訳註;第1部にそういうあだ名の女性が登場している]の姿が見えた。
「あらベニじゃないの、新年はどちらでお過ごしに?」彼女は立ち止まらずにそう言った。そびやかした彼女の肩が人混みの中に消えた。
「全くだよな、俺たちゃ新年はどこで過ごすんだ?」サラは言った。「それとも、お前・・・」
 ベニは何も言わなかった。彼は一人の背の高い男を見ていた。その男は肩を奇妙に揺らし、自分の連れに何かを示していたが、連れの方は路上の風景を写真に収めていた。
「馬鹿な連中だ」サラが言った。「何でもかんでもおかしなことを、こんな道端で見つける奴がいるんだな」
 トーリもそこにいた。こちらへ歩いてくると、その細長い足が折れてしまいそうに見える。彼は一人で口笛を吹いていた。
 トーリはベニに会っても至って素っ気なかったが、サラには耳元で何かを囁きかけた。トーリとサラは二人して笑ったが、それだけでは物足りなかったと見えて、その後もずっと小声で喋り続けていた。
 ベニは口の中に苦いものがこみ上げるのを感じていた。あらゆる人間の不作法の中でも、こういう耳から耳へのコソコソばなしを、それも男同士でされるというのが、彼には最も耐え難かった。しばらくの間、ベニは何も気付いていないふりをしていた。もう長いこと、誰とも喧嘩をしていなかったが、それでも己の拳をぐっと握り締めていた。
 ベニは相手を見つめたまま、嘲るような笑みを浮かべ、歯噛みしながら言った。
「おい、お前ら何を隠してる?」
「何をって?」トーリは如何にも驚いたという風でそう言った。そうして、まるでベニがそこにいないかのように、隣の相手にまた何かしら囁き始めた。
 ベニは唾が渇いて口の中がからからだった。
「おい、いいか」とうとう彼はトーリに向かって言った。「もしお前が俺をイラつかせるつもりでそんなことをしているのなら、思い知らせてやる・・・」
 その時、骨董品店の店先に、そこの主人が顔を出した。
 ベニは立ち去ろうとして歩きかけたが、しかし数歩進んだところでまた立ち止まり、振り向いた。
「おい」ベニはトーリに言った。「いいか、もしお前が・・・」

 ロク・スィモニャクは、相次ぐ国有化の波に飲まれることなく残っている、今どき珍しい個人商店となった骨董品屋の主人だったが、平穏を求める商人には当然のこととして、たとえ外で盛大な馬鹿騒ぎが起きていても、店先に顔を出すような習慣はこれまで全くなかった。そこにいた若い男たちの顔に以前から見覚えがあったからといって、彼が外へ出てくることは殆どありそうもなかった。それでもその時の彼が顔を出したのは、今にも入ってきて店内を物色するように思われる客の姿が見えたからだ。痩せてすべすべの肌の、その身体にぴったり合った黒いスーツをこざっぱりと着込み、これまた黒のカバンを持っているその姿が省庁の職員を思わせるようなその男は、ショウウィンドウの内側に置かれてある品々に目をやり、それから、何かしらそこにないものを求めようとするかのように二度口を開きかけたが、二度とも何も言わぬまま口を閉じてしまった。どうも何かに邪魔されたようだ。外から怒声が聞こえてきた。いいかもう一度言ってやる、もしお前が俺をイラつかせるつもりでそんなことをしてるだったなら、思い知らせてやる、お前の頭をかち割ってやるぞ、と。ロクは思い出した、あの苛立った調子の声はまさしくあのたむろする連中(彼はその連中のことをそう呼んでいた)[訳註;ここで「たむろする連中」と訳したparadyqanësはpara「~の前」+dyqan「店」から成る造語]で、そのせいであの客は何も言えなくなってしまったのだ。ロクは店先に出ると、連中を、決して咎める風ではなく、むしろ半ば哀れむような目で見つめた。それからまた店内に入って、いつも自分の居場所である椅子に腰を下ろすと、どういうわけだか、彼自身でも驚くべきほどに意気消沈したようになって、その未知の人物へと目をやった。ロク・スィモニャクの貧相にぬらぬらと光る、まるでピンセットで両端を引っ張られたような、細い裂け目のようになった両眼から放たれるその視線は、荒んだ印象で人々の誤解を与え、のみならず嫌悪感さえ催すようなものだったが、その視線の止まった先では、未知の人物がすっかり決意を固めていた。
「何をお求めで?」と声に出してこそ言わなかったが、ロクの全身がそう問いかけていた。見知らぬ客は、ロクのちらちらと注がれる苛烈な視線に身を縮め、立ち尽くしていたが、唇をほんの少しだけ開き、消え入りそうな、まるで地を這って伝わってくるような声で、こう言った。
「司祭用のパリウムはありますか?」
[訳註;原語petrahilはカトリックの大司教が身に着ける祭服の一部で、十字をあしらった帯状の肩被い。ラテン語pallium。仏語訳ではchasuble]
 ロク・スィモニャクは、口の内側[訳註;原語qiellzëは「口蓋」]で唾が急速に乾いていくのを感じた。誰一人として、彼の視線を逃れる者はいない、それは銃口のようなものだった。遂にロク・スィモニャクは、今にも口笛を吹きそうになりながら、こう訊ねた。
「お探しのものは・・・」
「司祭用のパリウムを」見知らぬ客はそう繰り返した。
 確かにそう聞こえた。ロクは椅子の上で視線を落とし、掌を広げたままの両手を見つめ、そして、もはや客の方を見ようともせず、独り言のようにこう言った。
「そういうものならあるはずなんですがね、届くのはまた後日ですよ、明後日か、さもなきゃ来週にでも」
「それはどうも!」そう言って、見知らぬ客は激しく首を振り挨拶した。「ではまた!」
「またどうぞ!」ロク・スィモニャクも挨拶を返した。
 しばらくの間、彼はその客の幅細な背中が人混みの中を素早くかき分けていくのを目で追っていた。
 またどうぞ・・・お客様、か。ロク・スィモニャクは一人つぶやいた。さあまたこれだ、とうとうこうなったな、と彼はしばらく考え込んだ。司祭用のパリウムか。言ってみれば、義理の兄弟の見立てが本当になったのだ。俺は何も知らないんだ、そう彼はロクに念押ししていた。正確なことは何も知らないんだ、ただ小耳に挟んだだけなんだ、通りすがりで、そう通りすがりで聞いただけさ、たぶんこれっぽっちの真実もないんだろうさ、と。ロクは黙ってそれを聞きながら、内心こう思っていた:これっぽっちの真実があるかないか、それもここで、俺の店でなら確かめられるだろうさ。
 1944年10月、大きな混乱を目前にしていた忘れようもないあの月、その頃までは王制下の中等学校で幾何学の教科書を書く仕事に携わっていたロク・スィモニャク自身にとってもまた宮仕えを捨て、骨董屋を開くにぴったりな頃合いだと思えたあの月から、もう15年以上だ;そうだ、あの1944年からこっち、彼の店はこの国で起きたあらゆる政治的変化に対する、狂いのない地震計であり続けた。この俺の店でなら確かめられる、彼はそう言っていたし、それが誤っていたこともなかった。三日待って、四日待って、ほうら、ようやくだ、あの黒のスーツに省庁勤めのようなカバンを手にした男が、とうとう店先に姿を現したのだ。司祭用のパリウムはありますか?とな。
 店にはそのパリウムがあった。仕切り壁の三番目の区分けされたところに、他の聖職者用のガウン[訳註;原語zhgunは修道士が身に着ける厚手のガウン]やダルウィーシュ[訳註;原語dervishはスーフィーの修道僧]のターバンや、テッケのババたち[訳註;原語babaの原義は「父」だが、ここではベクタシ派の指導者を指す。テッケ(teqe)はベクタシ派の修道院]がベルトに付けていた緑色石、フランシスコ派修道士のベルト、高価な装丁の福音書やコーラン、寺院の蠟燭立てと一緒にされていた;そしてそれら全ての上には、指二本分ほどの埃が積もっていた。その下の仕切りにある大きな箱の中には、正装用、或いは準正装用の衣類が無造作に突っ込まれていて、その中には外交官用の衣装や、王国時代の、或いはパシャの紋章の付いた外套や、摂政の身に着けた衣類があり、また上着類には旧議会の紋章や、或いはドイツ人君主による、短命に終わった第一王制の宮殿の紋章や、二番目の王国のものや、そして最後にして第三の、しばしば皇帝と呼ばれた王の紋章があしらわれていた。[訳註;近代アルバニアには三つの王制時代が存在した。ドイツ出身のヴィート公による「アルバニア公国」の時代(1914~1925)、アハメド・ゾグ元大統領による「アルバニア王国」の時代(1928~1939)、そしてイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレによるイタリアとの同君連合の時代(1939~1943)である]
 それら全てを人々は、崩壊の瀬戸際で不安に満ちたあの10月になって売り払い始めた。大量に、急速に、迫り来る時代にあってこれらはもはや必要とはされまいという、何かしら熱にうかされたような思いに駆られ、それこそ舞踏会用の衣装から、名家の頭文字が彫り込まれた高価な装飾品に至るまで、人々はそれらを売り払っていったのだ。
 それを自分たちでまた買い戻そう、そう彼らの目は語っているようだった。何時の日か買い戻す日が来るだろう、と。その後は、自分たちの持ち物と離れ離れになったことによる耐え難いひと時が訪れ、白目は恐怖の余り眼球の中で張り付いたままになり、両手は震え、声も出なくなった。古物商め、ああ、古物商め・・・彼らの目はまるで、怒りに満ち呪いを口走っているようだった。
 混乱の後、革命による圧迫の下で、商売は大っぴらにできず、半ば秘密裡に行われていたのだが、目に映るのは、連中の狂気じみた悔恨の念ばかりだった:また買い戻すんだ。いつか我々に必要になる時が来る・・・
 そして確かに、権力に舞い戻れるという希望が生まれる度、彼らはかつて売り払ったものを買い戻しにやってきていた。それは1947年、ユーゴスラヴィアとの断絶の時期に始まり、そして1953年、スターリンの死の直後にもあった。だがその両方とも、偽りは長く続かなかった。ふた月と経たない内に、彼らは自分たちが買い取ったものを再び売りにやってきては、半値にまで下がった新しい価格に納得していた。しかも彼らは衣服や小物や舞台じみた調度品まで売り払い始めたが、その様子はまるで、出来たばかりの映画スタジオ「新アルバニア」のようだった[訳註;原語kinostudioja “Shqipëria e Re”はソヴィエト連邦の支援も受けて1952年に建築された国営の映画製作施設。現在は文化省の庁舎として使用されている]。1956年10月、ハンガリーで反革命が起きた直後には、店先に再び昔ながらの顔馴染みが何人も姿を現した。しかしそれが最後だった。あれ以外、平穏が続いてきた。
 ロク・スィモニャクは賑わうショウウィンドウ越しに、模造品の雪の上に軽くかがみ込んでいる路上の人々の肩を見ていた。
 司祭用のパリウムを買い求めているのか、と彼はつぶやいた。だが彼らはわかっていない。これは1947年、1953年、1956年の時と同じようなことではない、そんな予感が彼に語りかけていた。これは大ごとになるに違いないと。その兆候は既にある。明日か明後日、彼らはかつてないほど続々と、列を成して、自身の古着を求めにやって来ることだろう。俺の名前入りのガウンを寄こせ・・・私の儀式用の杖を出せ・・・そしてその後は恫喝じみたつぶやきだ:こんなのは俺の服じゃない、サイズがまるで合わないじゃないか、さてはお前がすり替えたんだな、と。いやよくお考えくださいよ、と当時ロク・スィモニャクは言ったものだ。それはあなた方の服だ、しかしあなた方がすっかりすり減ってしまわれたんですよ、革命であなた方は骨と皮だけになってしまった、そんな人達の・・・その面影の、昔着ていたような服がどうしてぴったり合うものですか、と。
 ロク・スィモニャクはずっと通りの方を見つめていた。あの若造どもはまだそこにいて、もめている最中だった、どうやら、原因は女のことらしい。ロクは一人、どうでもいいことを思い出しでもしたようにふんと笑ったが、そこであの奇妙な客が去ってから後もずっと立ったまま、人待ち顔でいる自分に気付くのだった。[訳註;ちなみに、この濡れた瞳の骨董店主は第1部にも登場している]

 いいかよく聞けお前の脳天をかち割ってやる、ベニは二度もそう呟いたが、もしもトーリがもうひとこと何か口にしようものなら自分がもはや我慢できなくなりそうな不安に駆られて、気が動転し、慌てふためいたようにその場を立ち去った。
 国立図書館の前を歩いていた時、誰かに名前を呼ばれた。振り返ってみると、マクスの姉妹のディアナ・ベルメマだった[訳註;第1部に登場した、主人公ベスニク・ストルガの婚約者ザナの親友。夫は神経科医で、本人は妊娠中。党エリートの家系に属しており、親戚に高名な作家スカンデル・ベルメマがいる]。彼女はいつも何かものおじしているように見えた、といっても普通の意味ではない。歩き方がゆっくりで、まるで何かにとり憑かれているようで、その表情には幸福感と、ほんの少し前まですぐ近くの交差点で微笑んでいた、その笑顔の切れ端とがないまぜになり、粉をまぶしたように散りばめられていた。
「ベニ、元気にしてる?」ディアナが言った。「マクスは何処かしら?」
 だが彼女が心ここにあらずで、自身の発した問いに対するこちらの返事を注意して聞く気などまるでないことはすぐに見てとれた。ベニは彼女が妊娠しているような気がしたが、彼女が結婚していたかどうかについては思い出せなかった。
 何かあったのかしら、そうディアナは思ったが、ベニが通り過ぎるとそれもすぐに忘れてしまった。十分前、ショウウィンドウを眺めていたその時、彼女は、初めて腹の中の子が動くのを感じたのだった。それはごく弱々しく、そっとノックをするようなものだったが、それでも通行人が行きかう真っ只中で彼女を立ち止まらせたのだ。ディアナは息が詰まるような感じだった。それからしばらく待ったが、ノックが繰り返されることは無かった。ショウウィンドウにはちぎった綿が貼り付けられていて、雪だらけの空が謎めいて広がっていたが、彼女にはその一刹那、自分の身体の中心とその世界の中心が一つになり、そこから放たれた信号が、その混沌[訳註;綿でできた雪空を指す]の中を悪戦苦闘しつつ通り抜けていくような気がした。このニュースを世界中に伝えたい、そんな願望はすぐさま正反対のものに変わり、彼女はそれを世界中から隠し通すことにした。町の大時計が四度鳴った。驚きですっかり我を忘れたまま、ディアナは何処へ向かうともなく歩き出した。国立図書館の前を歩いていたベニと別れてから、彼女はそこに自分の友人が勤めていることを思い出し、引き返して少しだけ休ませてもらうことにした。何も言わないでおこう、階段を上りながら、ディアナはそう思った。友人の女性は、研究員用の予約閲覧室で働いていた。
 外から、一日の終わりを迎えようとしている最後の陽の光、冬の日にしては不思議と暖かな陽の光が射し込んでいた。午前中ずっと町をびしょびしょに濡らしていた雨とみぞれが止み、雲は天高くに退いていた。
 ディアナは外の路上の流れを見つめていた。そこかしこに光る文字がまたたいていたが、まだ陽の光が残るこの時間では、何かしら白い血の流れる身体の如く、それもはっきりしたものではなかった。何をするというでもなく、彼女は胡桃の木でできた、本がぎっしりと詰まっている大きな書棚へと近付いた。重厚な、大判の、茶褐色の革表紙で綴じられた本が大半を占めていた。彼女の視線はその古風な、多くがゴシック風の字体で書かれた題字の上を滑っていったが、それらは本の題名というよりはむしろ中世の盾に刻まれた紋章か、古代の城壁の装飾物にも似ていた。彼女はそこへ近付くにつれ、不安めいたものを感じた。書名の多くは昔のアルバニア語だった。彼女はそれらを読んでいった:マリン・バルレティ[訳註;15世紀後半~16世紀前半の北部アルバニア出身の歴史家。オスマン帝国に抗したアルバニア民族の英雄を描き、当時の西欧で広く読まれた『スカンデルベウの生涯と功績』は、ラテン語で書かれたものながら、アルバニア文学の嚆矢とされる]。シュコダル包囲。それからまだある。1701-1705年における疫病の記録。外交年鑑:北部国境線。ローマ執政官ガイウス・フルウィウスによる懲罰遠征。戦における女たちの哀歌。死の種類による哀歌の分類:戦端、攻撃中、撤兵中、戦後。これって一体何なのかしら、ディアナはそう思った。彼女は読むのを止めたくなり、背後を振り返ろうとしかけたが、それは出来なかった。書棚はまるで彼女の視線を捉えてしまった罠のようだった。彼女は読み続けた。外交年報。我らの紀年法での第一世紀におけるローマとの関係断絶。外交年報。最後通告。マナスティルの虐殺:処刑者らと犠牲者らより収集されたる証言並びに事実。戦傷に対する民間療法。第一部:冷えた武器による負傷。第二部:火器による負傷。1304年の疫病を引き起こしたる者たち。仮説。アルブレナの戦い[訳註;アルブレナの戦い(Lufta e Albulenës)は1457年にアルバニア北部でアルバニア人勢力とオスマン帝国軍との間で行われた戦闘。スカンデルベウ率いるアルバニア人の軍隊の勝利に終わった]。飢餓の四十年。1831-1871年の飢餓による死亡、精神錯乱、カニバリズムの事例に関する証言並びに事実。第五巻。もうたくさんだわ、ディアナはひとりごちた。書棚から死臭が漂ってきて、彼女は思わず両手を腹にやった、そこを守ろうとするように。目の前に、威圧するように聳え立つそれは書棚ではなく、並び立つ盾、龍の体表の鱗だった。彼女はもう一度だけ向こうを振り返ろうとしたが、出来なかった。それどころか、手を伸ばし、ゆっくりと、不安に満ちたまま、鱗の一枚を取り出したのだった。外交年鑑。最後通告。彼女は最初のページを開き、そして読み始めた。イリュリア・アルバニア人の国家に対して為された最後通告、注釈付き集成、最初期より現代まで。ローマ元老院による第一の最後通告、ローマによる第二の最後通告。ノルマン人の王ロベール・ギスカルドによる(最後通告の形式による)上陸要請[訳註;ロベール・ギスカルド(Robert Guiscard)は11 世紀末、ビザンツ帝政下のアルバニアを二度にわたり攻略した。ちなみに第2部で主人公ベスニクの独白にも登場している]。トルコによる第一の最後通告。スルタン・ムラト一世による最後通告。スルタン・メフメト二世による最後通告[訳註;それぞれ第3代と第7代のオスマン帝国皇帝]。宮廷[訳註;原語Porta e lartëは直訳すると「高い門」で、オスマン帝国を指す]よりアリ・テペレナ[訳註;アリ・パシャ・テペレナ(Ali Pasha Tepelenë)は18世紀末から19世紀前半にかけてオスマン帝政下のギリシア北部からアルバニア南部を統治。オスマン帝政末期にはアルバニア人地域の自治獲得に尽力し、現在もアルバニア独立の英雄の一人と見做されている]に送られた最後通告。1913年、モンテネグロによる最後通告。1913年、ギリシアによる最後通告。オーストリア軍による、アドリア海へ抜けるための(最後通告の形式による)通過要請。コルチャにおけるフランス軍の(最後通告の形式による)駐留要請[訳註;コルチャ(Korçë)はアルバニア南東、ギリシア国境付近の古都。20世紀初頭にギリシア軍、次いでフランス軍の支配を受けた。なお、前述のアリ・パシャ・テペレナがかつて統治した地域にはコルチャも含まれる]。1915年、セルビアの王による最後通告。ギリシアによる第二の最後通告。
 ディアナは本を棚に戻した。書棚に背を向けようとしたが、それはまたしても無理なようだった。彼女の眼はまだ読み続けていた。セルト・アクシャム・ドゥルグート・パシャによる懲罰遠征[訳註;原文ではSert Aksham Durgut Pashaとあるが、1911年のアルバニア人による反乱を鎮圧したトルグート・パシャ(Şevket Turgut Paşa)のことを指していると思われる]。戦時における情報伝搬の速度について。外交年鑑:パシャリマン海軍基地とサザン島の問題、最初期から現代まで[訳註;パシャリマン(Pashaliman)はアルバニア南西部ヴロラの港湾部。海軍基地があり、作中の時代には潜水艦の帰属を巡ってソ連と対立状態にあった。第2部のフルシチョフとエンヴェル・ホヂャの会見でも名前が出ており、第4部では物語の主要な舞台の一つとなる。サザン島(Ishulli i Sazanit)はヴロラ湾の入口に浮かぶ、アルバニア領内最大の島]。1944年、ドイツ軍による冬季作戦。戦時における諸儀式。戦争期間中における諸儀式の簡素化を巡る考察:誕生時、婚姻時、死亡時の儀式、国家儀式に関する補遺。第五版。1943年、ボロヴァにおける殺戮。証言と事実[訳註;Borovaはアルバニア南東部の村。1943年7月9日、パルティザンに対する報復として、住民数百人がドイツ軍に殺害された]。外交文書[訳註;ここだけ“actae diplomatica”とラテン語で書かれている]。パシャリマン(古代オリクム[訳註;Orikumはヴロラ近郊の地名。古代都市の遺跡で知られる])。二十世紀間に及ぶ誤解。
 ディアナは頭がぼんやりしてきた。書棚は霧に包まれ、生き物のように蠢いた。ディアナは再び両手を腹にやっていた。彼[訳註;ディアナの胎内の子を指す]もまたこの民族の一員になるのだという思いが、彼女の奥底で霧のようにぼんやりと、その輪郭を作りつつあった。 その時、友人が入ってきた。
「ディアナ、どうしたの?」彼女はディアナの姿を見るとそう言った。「気分でも悪いの?」
「ううん」ディアナは言った。「ちょっとぼんやりしてただけ」
 友人が椅子を持ってきてくれたので、ディアナはそこに腰を下ろした。初めての動きを見せたきり、彼女の子の気配はもはや感じられなくなっていた。あの壁という壁が、この子にのしかかっているんだわ、彼女は書棚から目をそらさないまま、そう思った。
 外に出た時には、既に日が暮れ始めていた。家へ向かって歩きながら彼女は、ザナに電話して新年はどうするか訊かなければと考えていた。べスニクとは、モスクワから戻って以来一度も会っていなかった。たぶん新年は一緒に過ごすのだろう、そう考えてみると、彼女はその考え自体に嬉しくなってくるのだった。

 ドゥラス通りを1時間ばかり廻って、ベニは再び中心部へと戻って来た。遠目に、サラが薬局の辺りにいるのが見えた。ベニは通りを横切り、サラの肩を叩いた。
「ちょっと顔貸せよ」
「まあ慌てるなよ、ビビってるんだろお前」サラが言った。
 路地裏に入るとベニはサラの上着を摑んだ。
「トーリと何をコソコソやってやがった?」
「その手を離せって」サラが言った。「俺が仲間を裏切るかよ」
「だったら俺を、何で俺を裏切った?」ベニは言った。
 サラは定まらない目線でベニを見つめた。
「俺はお前を裏切りやしないよ」サラはそう答えた。
「お前は俺を裏切った、あんな奴と一緒になってだ」ベニは言った。
 二人は煙草に火をつけると、古びた玄関の前へと場所を移した。
「ああして二人して何をコソコソ話してた?」ベニが訊ねた。
「何でもない。誓って何でもないんだ。くだらないことさ、お前にちょっかいを出してやるふりをしただけさ」
 ベニは地面に唾を吐いた。
 「糞野郎め!」[訳註;原語ndryrësiは「不潔」]
 それから同じ言葉を二、三度繰り返すと、それ以上は何も言わずにベニは立ち去ろうとした。サラがその後を追った。ディブラ通りはひしめく通行人たちでたわむように見えた。ベニはその群衆の中にリリとザナの姿をみとめた[訳註;第1部にも登場しているが、リリはザナの母]。二人は一軒の店から出て来たところだった。
 リリは大きなバッグを手にしていたが、ザナは何やら不機嫌そうだった。ろくでもない道路だなここは、とベニはひとりごちた。一度歩くだけでティラナの半分と顔を合わせるのだ。ショウウィンドウのきらめきの下で、人々の顔は青白く、まるで謎めいた粉末のせいでそうなっているように見えた。ベニは何度もそれを目にしていた。新年が近付く度、その謎は増していくように思われた。人々が繰り返し繰り返し、それこそひっきりなしに「新年はどちらでお過ごしに?」と問いかけているのは偶然ではない。人々は互いに歓喜の謎を明るみに出そうとしている。誰もがこう問うているのだ:どちらで、どちらで、何故って誰もが自分の秘密を初めに明かしたくはないのだから。

 ショウウィンドウの綿切れを見ながら、ザナはほんのしばらくぼんやりしていた。リリがその後ろに立った。
「あらまあ、すごい人ねえ」リリは言った。
 大通りでは、人の流れがやや弱まっていた。「スカンデルベイ」広場に並ぶモミの木の枝にはカラフルな照明が取り付けられていた。
「結婚式の話はしてくれないの?」リリが訊ねた。[訳註;上の文の主語は3人称単数なので、恐らく娘の婚約者べスニクのことを指している]
「ないわ」ザナが言った。
「あなたも何も言ってないんじゃないの」
「ねえママ、ママだって私の性格少しは分かるでしょ。私から先にそんなことを言うなんて、何でそういうことが思いつくのかしら?」ザナはそう言った。
「そんなにイライラしないでちょうだいよザナ、こんな話をしてあなたに嫌な思いをさせたいわけじゃないのよ」
 ザナは何も言わなかった。
「青い方の電球だ」モミの木のてっぺんから、電気技師の声がした。「緑じゃないぞ、青だ」
「それにしたって、私は母親なんだから心配する権利があるわよ。何なのかしらね、この急な冷えこみは?」[訳註;原語ftohtësiは「冬の寒さ」とも「人(婚約者ベスニク)の冷たさ」ともとれる]
「青はもうないよ。黄色ならどうだ?」
「何なのかしらね、この冷えこみ、って?冷え込みは」ザナは言った。
「あなたはそれが普通だと思ってるの?」
「全然」
「だったら?」
「ママ、私にもわからないのよ。ママったら、そんなこと言うなんて、まるで私が・・・」
「わかってるのよ、あなたのせいじゃないってことは。それにしたって、あなたが冷静なのは理解できないわ」
「だったら、ママは私にどうしたらいいって言うのよ?泣きわめけばいいの?」
「もういっぺん見ろよ、青がないかどうか」電気技師が声を上げた。
「何とかして理由を見つけないと」
「それはもうやったわよ」ザナは言った。
「だから言っただろ、青はもうないんだって」
「あなたとは話にならないわ」リリは言った。「だから言ったでしょ、あの人がお土産を持って来なかったのは普通じゃないって、あの人がモスクワから帰ってきた、あの晩のことよ、憶えてるでしょう、あの人があなたのことを気にしていなかったのには何か深い意味があるんだって、私が行ったでしょ、なのにあの時あなたは私に口ごたえして、何も聞こうとしないで、そんな態度であの人をかばって、あなたの母親のこの私が、まるであなたたちの仲を悪くしようとしてるみたいな言い方で。でも今になってみたら、私が疑っていた通りじゃないの。あなたたちは一週間したら結婚しなければならないのに、あの人はそのことさえ忘れてしまったみたいだわ。昨日あの人はお土産を忘れ、今日は結婚式の日取りを忘れ、明日はあなたと婚約したことを忘れるでしょうよ。これをけちと言わないでどうするの?あなたは『けち』と『小ブルジョア』って二つの言葉は憶えたけれど、それをまずどう使うかは分かってないわね」[訳註;ここで「けち」と訳した原語meskinitetはフランス語の形容詞mesquin「狭量な、しみったれの」に由来する]
「もうやめてよママ、お願いだから」
 リリは奇妙にも黙り込んでしまった。二人はそうして歩き出した。足元で、乾いた落ち葉がカサカサと音を立てた。
「ちょっと貯蓄銀行に寄りましょう」リリが言った。「少しお金を下ろしたいわ」
 リリはザナと幾つか買い物の相談を始めた。クリスタチ[訳註;ザナの父で、リリの夫]はこういうことになるとまるで頭を悩ませることがないので、リリが一人で何もかも決めなければならなかった。今考えているのは二つ:新しい絨毯を応接間用に買って色褪せた古い方は売りに出すか、それとも今のところはキッチン周りの模様替えで満足しておくか。この頃は出費がかさんでいて、それに加えて新年も間近だった。お金はなくなる、気付かない内に、リリはそう言った。ザナはそれを興味なさげに聞いていた。
 家に帰るとザナは来客用の大きなソファに座り、タバコに火をつけた。リリはキッチンを往復していた。
「ザナ」リリがキッチンから呼びかけた。「したいならシャワーを使ってもいいわよ、お湯は温かいから」
「わかった、ママ」
 ザナは、よじれた糸のように上がる煙を見つめていたが、その影は電灯で増幅され、まるで焼け落ちた廃墟のように壁に映し出されていた。よその人か、ザナはベスニクのことを考えていた。よそよそしい人。
 電話が鳴った。ディアナ・ベルメマからだった。新年はどちらでお過ごし?そう彼女は訊いてきた。自分が破局を避けるためのことを何もせず、腕組みしたまま何もかも見過ごしていたら、どうなるのだろう?もしもしザナ。あらごめんなさい、それで新年は?何と言ったらいいだろう。こっちはまだ何も決めていないのだが。本当はそのことで彼に腹を立てていたのではないのに。自分にあるのは単なる無感覚だけで、それがここ数週間で彼にも伝わってしまった。一緒に家でお祝いしましょうよ、アンドレアが病院の夜勤でなければだけど、と電話の声はまだ喋り続けていた。マクスが新しい録音をしたのよ。そう、それはよかった。そうして何もかもが、大騒ぎされることもなく起こっている、まるで目に見えない地滑りのように。外から見れば何も今までと変わらないのに。一緒に出かけて、友達と会って、翌々日には芝居を見に行って、それでも自分は地面が秘かにずれ落ちていくのを感じるのだろう。じゃあね、おやすみなさいザナ、電話の声が告げた。それじゃまた!
[訳註;上の段落ではディアナの発話とザナ(主語は「彼女」)の独言が引用符を付さず続けて書かれており、敢えて混線したやりとりを表現していると思われるが、日本語訳では分かり易さのため、それぞれの文体を変えている]
 ザナはまたソファに戻った。遠くから消防車のサイレンが聴こえた。彼女はそのけたたましい音が好きだったが、彼はそうではなかった。彼女は消防車の狂気じみたスピードが、赤く反射する光全体が好きだった、それは消防士のヘルメットにくっついたような、彼らのこわばった表情とはまるで正反対だった。その彼らが震えている誰かを救いに向かうところを思い浮かべる。誰だか知らないが急いで欲しい、この困難な瞬間に、空をつんざくような大きな悲鳴を上げている彼方へと。
 部屋のドアが不安気なきしみをたて、その傍にリリが姿を見せた。
「ねえ」リリは言った。「こんなこと言いたくなかったんだけど、でも私はね、こうじゃないかって思ってることがあるのよ」
 ザナの頭は、ソファの背もたれに寄りかかったま動かなかった。
「あの人のおかしな態度も、注意散漫なところも、みんな理由はこれしかないと思うのよ」リリは続けた。「私はね、誰かロシアの女との間に何かあったんじゃないかって思うの」
リリはしばらく、ザナがこう言ってくるのを待っていた:ママ、くだらないこと言わないで。ところがザナは何も言わなかった。
「モスクワの女の子たちはとても美人で、親しみやすくて、それに今は外国人と結婚するのが流行ってるそうよ。どう思う?」
 ザナはタバコを灰皿に押し付けた。
「さあ」彼女は言った。「そうは思わないけど」
 リリはまだ何か言いたげだったが、どうやらぐっとこらえたらしい。リリは本棚の方へ向かい、引き出しを開けると、また閉めた。
「あなたたち・・・あんなに仲良くしてたのに・・・あなた何も気付かなかったの?・・・」最後に彼女は言った。
「ママ、お願いだから、私そのことは何も話せないのよ」
 ザナはすっと立ち上がった。部屋を出て、何処へ行くとも考えず歩いていったが、目の前にまるで救いのように浴室のドアがあった。水道の蛇口が光り輝いていた。そこへ手を伸ばした時、不意に嗚咽がこぼれ出た。

 これじゃ落ち葉じゃなくて木靴だな、真夜中2時半にそうひとりごちたのは清掃人のレマだった[訳註;第1部にも登場した清掃人レマ・フタと同一人物]。いまいましくて重たい木の葉が、彼の箒の前に塊となって運ばれていく。そうそう、この葉っぱのことで、うちの孫がしょっちゅう詩を学校の方で習っているんだ。もしそれが彼の、つまり清掃人レマの気に入れば、その詩を彼はゴミ収集車の上で楽しげに口ずさむのだった。秋の木の葉は清掃人全体にとっての敵だった。10月と11月、落ち葉の時期には、それらはまだ我慢できるものだったが、しかし今や、年末ともなると、そうではなかった。10月と11月の落ち葉は作業上の困難と呼ばれ、それを理由として日当も上がっていく。この、秋レマは旧レクで4320も余計に稼いだ。しかし今やそこまで払ってくれる者はなかった、というのも落ち葉の時期は過ぎていたからだ。行き遅れどもが[訳註;原語lëneshëは「結婚を意識しなくなった女」だが、ここでは時期外れの落葉を指す]、そうレマは声に出して愚痴を吐きながら、落ち葉の中の二、三枚を掃き出した。彼は追加手当まるでなしで雪を掃く覚悟はできていたが、この行き遅れどもにはおよそ我慢がならなかった。雪のことを考えると、レマの苛立ちも少しはやわらぐ。彼は雪が好きだったが、どうしたわけだか、雪が降ることは稀だった。雪は路上を化粧し、そして雪は、己の部分が消え去り始めるその前の、ほんのしばらくの間だけ、その不思議な輝きのままに、目を惑わせてくれるのだ。ところがこの後家ども[訳註;原文でもvejushëは「未亡人」]と来たら・・・
 その時、レマは物音を耳にして振り向いた。二十歩ほど先の、バス停の表示板の下に人がいた。その人物は硬直したように動かなかった。空耳だったか、そうレマはつぶやいて、再び箒を動かし出した。また物音がした。その人物は表示板を動かそうとしていたが、それはもっとよく見ようとしてのことのように思えた。
「おいおい」レマは声を上げた。「こんな時間にバスなんかないよ。待ってても無駄だよ」
 するとその人物は両腕を下ろし、そのまま立ち尽くした。レマは夜中のおかしな連中にはすっかり慣れっこになっていたので、特に何とも思わなかった。彼は箒を動かし続けていた。それでも、好奇心に押される形で、もう一度振り向いてみた。すると今度は、驚きで固まってしまった。その見知らぬ人物は、表示板に全身でのしかかっていて、とにかくそれを引き剥がそうとしていたのだ。レマは初め早足に、そして駆け足でその人物のところへ駆け寄った。見知らぬ人物は表示板を剥がしかけていた。彼はかすかな呻き声を上げていた。レマは背後からその両肩を摑んだ。見知らぬ人物は激しく両肩を揺らしたが、それでも表示板から両腕を放さなかった。彼はレマに肘打ちをかけようとしてきた。両者の間に奇妙な、影同士のような格闘が始まった。それはずっと、ずっと長く続いた。全てが沈黙の中で行われていた。レマは自分が眠りの中にいるような気がした。
「おい、そこで何してる?」自転車で通りかかった誰かが声をかけてきた。「喧嘩するにはいい頃合だな」
「ちょっと聞いてくれ」レマはぜいぜい息をしながら、それでも相手から手を放さないままで言った。「サボタージュ犯[訳註;原語sabotatorはフランス語saboteurと同義で、「サボタージュ(破壊活動、怠業)を行う者」]を捕まえたんだ。二つ向こうの角に警官がいる。呼んできてくれ!」
 自転車の男は急いで姿を消した。それからすぐに戻って来た。光景はそのままだった。レマと見知らぬ人物は、今やぜいぜい息をしたまま一つの物体と化していた。
「警官はもう来るよ」自転車の男は言った。
 警官が駆け足でやって来た。足音がアスファルトの上に鳴り響いた。表示板剥がしの男は身を引き離そうと絶望的な努力をしていたが、レマはしっかりと摑まえたままだった。警官は、息を荒げてもつれ合う二つの頭と四本の腕をした物体に飛びかかった。
「違う俺じゃない、捕まえるのは俺じゃない」レマが叫んだ。
「わかるかそんなこと」警官が言った。
 やっとのことで警官は見知らぬ人物をレマから引き離し、肘を摑んで前へと歩かせた。表示板剥がしの男はしっかりした足取りで数歩進んだが、不意にその場に立ち止まると、痛々しい叫び声を上げた:
「表示板だ。表示板を外せ。奴らが来る」
 その声は異常なもので、これまでずっと発されたことがないようなものだった。
「表示板が何だっていうんだ[原語e sat ëmeは「お前のおふくろの」]」レマは嘲った。
 自転車の男を筆頭に、三人連れは、どうやら彼の家へ行くわけではないらしく、警察署へと向かっていた。路上の灯りの下で、レマはびりびりに破れた自分のシャツを見渡し、首を振った:お前だってこうなっちゃ危険手当が欲しいよな、レマはそう思った。今度からは婆さんの言うことを聞くとしよう。
「ようレマ、一体何事だい?」と、「パリ・コミューン」通りにいた清掃人仲間が訊いてきた。
[訳註;第1部でレマ・フタが作業に従事していたのはディブラ通りだが、「パリ・コミューン」通りからは数キロ離れている。ちなみに1973年版では「『フリードリヒ・エンゲルス』通りとなっている」]
「この友人を警察へ連れて行くところさ」レマが言った。
「ショウウィンドウでも割ったかい?」
「いいや」レマは言った。「もっと深刻だ」
「何だよ?」相手は声を落として訊ねた。
「表示板だ」レマも声を落として言った。「表示板を外そうとしたのさ」
 相手の清掃人は口笛を吹いた。
「そりゃまた政治的だな」
「何だと思ってたのさ?」レマは言った。
 警官は見知らぬ男の腕をしっかり摑んだままだった。男は首うなだれて歩いていた。その肩は弱々しく、短く刈った髪が、病んだ顔色を際立たせていた。
 警察署で、勤務に当たっていた警官はその見知らぬ男に二、三質問をすると、すぐさま精神科医院に電話をかけた。
「もしもし、夜勤の先生ですか?こちらは第三分署警察です。もしもし、誰か患者が抜け出してはいませんか?はい?ええ待ちますよ」
 受話器を当て、頭を傾けたまま、警官はレマのびりびりに破れたシャツを見つめた。隣接する部屋から、酔っぱらいのよく知った声が聞こえてきた:

 赤毛娘なんかにゃ手を出すな
 なぜってそいつらは面倒だ
[訳註;「面倒だ」の原語huqは「妙だ」「変な癖がある」]

「もしもし」警官は電話口で声を上げた。「ええ聴こえますよ。はい、はい」警官は見知らぬ男の方を見た。「全くその通り。まさしくその人ですよ。そちらの車を回していただけますか?ええ構いませんよ。はい?危険はないって?」警官は再び、レマの破れたシャツに目をやった。「了解。了解しました」
 警官は電話を切った。レマはその病院のうつろな瞳を見て、相手のことを気の毒に思った。
 精神科医院の救急車は20分後にやってきた。病人は看護士を見るとすぐ、きちんとその後に着いて車に乗り込んだ。赤十字の輝く救急車は速度を上げ、人気のない道路を走り去った。時刻は4時25分。
 精神科医院の夜勤の医師はアンドレア・ヤヌラといい、体格は太め、大学を出たのは1958年、叙事的演劇の素人団員をやっており、1959年にディアナ・ベルメマと結婚、住居課にアパートの申請を出していたが、その彼は時計に目をやった。そろそろ着く頃だな、彼はそうひとりごちた。それから一分後には、救急車のライトが病院の玄関でくるくる光り、木々と、鉄製のベンチと、湿ったコンクリート面を照らし出した。医師は軽くため息をついた。彼の肘の下には、院内日誌の374ページが開いたままになっていた。そこには看護婦の注意深い書体で書き込みがされていた:ファン・コロニャ。反応性幻覚症。危害の恐れなし。その下に、彼の症例に関するメモがあった。1943年、ドイツ軍進駐の初日、国境の村ボロヴァで・・・医師は、細かい字でびっしり書き込まれたそのメモを二度読んだ。それから電灯を消し、少しだけ横になって休んだ。窓を通して、冬の光のくすんだ四角形が張り付いていた。夜が明けようとしていた。彼は目を閉じ、1943年の夏の終わりに、南の国境を越え、アルバニアへと入ってきた最初のドイツ軍の車列を思い浮かべようとしてみた。車列はボロヴァ村に近付きつつあった。その列は長く、そして埃まみれだった。村へと入ったところで、車列はパルティザンの攻撃を受けた。ドイツ兵たちはトラックや武装車輌から地面に飛び降りたが、短時間の戦闘の後、アルバニアの更に内陸部へと向かう旅程を続行すべく、再び車に乗り込み始めた。最後に、ドイツ兵の一人が手早く、黒字で一枚の板切れにドイツ語の単語を幾つか書いていった:『ここで我々は攻撃を受けた。皆殺しにしろ!』それから板を棒にくくりつけると、その棒を道の脇に立てた。一人の農夫がそれを見ていたが、銃撃が収まった後でその板切れに気付き、近寄って、見知らぬ言葉にしばらく見入っていたが、どうも気分を害したらしい、というのも彼はいきなりその板切れを引き剥がすや草むらへ放り投げ、走り去ってしまったからだ。ところが、十分もするとそこへファン・コロニャが通りかかった。彼はその木板が草むらに落ちているのを目にすると、近寄って、見知らぬ黒い文字にじっと見入ったまま、そこに架かれた書体の達筆なことに驚いていた。ファン。コロニャはごく普通の農夫だった。彼は書かれたもの、ポスターや、時刻表や、公示書の類に敬意を払っていた。彼は板切れを草むらから引っ張り出すと、元の場所に、いやむしろ前よりもずっと見え易い場所に立てておいた。それから別のドイツ軍の車列の一団が、半時間後に姿を現した。先頭の車が、板の立っている場所の前で停まった。ドイツ兵たちはその板を読み、それから素早く村を包囲した。殺戮は恐るべきものだった。女も、年寄りも、子供も殺されて、道や広場や戸口の至るところに転がっていた。大半は火を放たれ焼かれていた。懲罰を終え、ドイツ軍は旅程を続行した。それがドイツ軍進駐の初日だった。武装車輌は休むことなくコルチャへ向かっていた。ファン・コロニャはガラス玉のような瞳で、切り刻まれた人々と、死を招いた板切れとを交互に見つめていたが、彼の唇はずっと、声のない声で「俺が」「俺が」「俺が」とつぶやき続けていた。その二年後の或る夏の夜、ファン・コロニャが最初に剥がしたのはエルセカの市場の看板だった。彼は初めヴロラの精神科院に連れて行かれたが、その後ティラナへ移された。治癒の見込みはなかったが、危害を及ぼすおそれはなかった。
 医師は毛布に一層しっかりと身をくるんだ。もしまた電話がなければ、もう少しだけ眠れるのにな、そう思った。ぼんやりと光る四角形がずっと遠ざかっていた。一本の道路と、そしてドイツ語で:『ここで我々は攻撃を受けた。皆殺しにしろ!』[訳註;原文ではドイツ語Hier hat man uns überfallen! Massakriert!]と書かれた表示板が、医師の意識の中でゆっくりと揺れていた。新しい表示板だ、新しい運命だ。大国の報復だ。何かが聞こえていた・・・何かが、ぼんやりと。外は夜が明けようとしていた。外は大きな、灰色の町で、そこは標識と表示板だらけだった。無数の表示板、バスターミナル、鉄道の駅、タクシー乗り場、矢印、時刻表、空港の、海水浴場の、軍事基地の案内板。要請、予告、指示。左を通れ。右だ。前進。後退。停まれ。世界中が、背後から表示板で串刺しにされている。理解不能だ。まさしくスフィンクスの嘲笑だ。医師は一睡もできないまま、ベッドの上で寝返りをうった。明日、義母であるディアナの母親を訪ねなければならなかった。ベルメマ家で、あらかじめ聞かされていないような政治的事件は何も起こっていなかった。『ここで我々は攻撃を受けた』[訳註;ここも原文はドイツ語]彼はもう一度つぶやいた。当然、訪ねなければならなかった。

2
 編集部の長い廊下を歩くベドリは、両手にフルシチョフの肖像画を抱えていた。事務室のドアの前にいたイリルが、それに目をとめた。
「ベドリ、そんな肖像画、何処から持ってきたんだい?」彼は訊ねた。
「会議室からよ」ベドリは振り返りもせず言った。[訳註;ベドリは主人公ベスニクが勤務する党機関紙編集部の清掃係。イリルはベスニクの同僚]
 イリルは駆け足で、会議室がある四階へ上がっていった。並んだ椅子、赤いクロスの掛かった長いテーブル、窓のカーテン、全てが茶褐色の沈黙の中に溶け込んでいた。イリルが向かいの壁に目をやると、エンヴェル・ホヂャの肖像画の隣の、たった今肖像画を剥がしたばかりの場所に色褪せた四角形があった。慎ましやかな光が、窓からその上に注がれていた。イリルの小さくてよく動く眼は好奇心に満ち溢れていた。彼は三階、四階と下りていき、北風のように一つの部屋に入っていった。
「ベドリが会議室からフルシチョフの肖像画を外していったぞ」イリルはひと息でそう言った。「俺はこの目で見たんだ」
皆が顔を上げた。
「そりゃ本気で言ってるのかい?」記者の一人が訊ねた。
 静寂の中で、イリルの荒い息遣いだけが聞こえた。
「俺はこの目で見たんだ」彼は言った。
「そりゃ妙だな」相手の記者が言った。
 ちょっとした沈黙の後で、記者たちは一斉に喋り出した。
「外務課へ行くべきだな」誰かが言った。
「あそこなら黄表紙も読んでるだろう[訳註;「黄表紙」は原語buletini i verdhë(黄色い本)で、仏語版全集の註によれば「ATSH(国営通信社)の報告書で、外国に関する重要事項が全て区別なく収められている」]
「そうだな、あそこなら黄表紙百冊分よりいろいろ知ってるだろうしな」と記者の一人が話している間に、ベスニクは部屋を出て行った。
「何も教えてくれやしないさ」別の記者が言った。「俺も何度かそれとなく探りを入れてみたんだが、無理だったぜ」
「外国から戻って以来、どうもすっかり変わってしまったみたいだ」[訳註;外務課の担当者を指している。最新版では削除されているが、他の版ではNikollëという名前もある]
「それは俺も気付いてたよ。顔色も悪くなってるしな」
「何だか家庭の事情があるらしいぜ」
「モスクワ行きのこともちっとも話してくれない。ひとことも、印象さえもだ。まるで行ってもいなかったみたいに」
「もし本当に向こうで何かあったのなら、すぐにわかりそうなもんだがな」
「俺もそう思うよ」
そこへ編集会議の秘書が入ってきたので、彼らの会話は中断した。
 秘書は週間予定表を探していた。ドアのところに、赤毛の事務官が姿を見せた。
「国家監査局で、編集長を探しているんだが」
事務官は編集会議の秘書に向かって言った。
「編集長なら中央委員会ですよ」
 秘書は週間予定表を一部受け取ると、部屋を出ていった。
 ドアがひっきりなしに開いたり閉まったりしていた。そろそろコーヒーを飲む時間だった。コピー室のドアの前では、記者たちが互いにぶつからんばかりに出入りしていた。タイピストの女性たちの指先が驚くべき速さで動いていた。それは彼女たちにとって最も骨の折れる時間だった、というのもコーヒーを飲みに行く前に、誰もがタイプして欲しいものを持ってくるか、或いは事前に預けておいた原稿を取りに来るからだ。
 編集会議秘書の部屋のドアの前で、コピー室の女性が泣いていた。部屋の中から、秘書が電話で話す声が聞こえてきた:編集長なら中央委員会ですよ、それはもう言ったでしょう?いつ戻るかですって?知りませんよ同志、こっちは何も知りません。
 赤毛の事務官が北風のように廊下を駆け抜けていった。誰かが訊いていた:新年はどちらでお過ごしに?

 モスクワの81か国共産党会議で起こったことについて報告するための中央委員会臨時会議は、まだ続いていた。それは前の晩遅くから始まり、ほぼ夜を徹して続けられ、今朝にまで至っていた。
 曇り空の日だった。僅かな陽の光が、辛うじて会議室の一方の柱までは届いていたが、その向こう側はシャンデリアの光に照らされていた。
 柱は白い色で塗られていた。今頃になってエンヴェル・ホヂャは、自分たちがいない間に会議室がすっかり塗り直されていることに気付いた。
「同志諸君、我々は来る日も来る時も、諸君と共にあった、何となれば諸君はシベリアの氷に難儀したことを知っているからだ。そして我々は知っている、それにもかかわらず諸君が我々に語ったことは、我々の考え得る印象を遥かに超えていたことを」
 報告を聞いた後に今喋っているのは、中央委員会の11番目の委員だった。これまで全員が一切の疑義を差し挟むことなく、代表団の姿勢を承認していた。発言を求める委員の名簿は長々と続いていた。
 ここモスクワでの君たちの言動を知ったら、君たちの党の中央委員会は失望するだろうな。そう自分に言ったのが誰だったのか、エンヴェル・ホヂャはよく思い出せなくなっていた。彼がそれらを不意に思い出したのは、自分の乗った飛行機がアルバニアの国境を越え、雪に覆われた山々が見えてきた時のことだった。ところどころ粉雪で白く染まった黒い絶壁と斜面と台地とが、並んで広がっていた。凍りついた村々が、山のくぼ地の中に造り込まれたもののように見えた。その斜面の、それらの大半を彼は戦時中に見知っていた。そして飛行機が速度を落とし、更に高度を下げ、更に山のすぐ上へと近付いていく中で、エンヴェル・ホヂャはほんの僅かながら、その下に、中央委員会のメンバーの多くの姿が見えるような気がしたのだった、ここに一人、そこにまた一人、まるであの頃のように、雪の中で散り散りになり、風で引き裂かれたパルティザンの丈長なコートをまとい、傷を負って青ざめ、飢えであちこちへこんだ顔をして。
 会議室では発言が続いていた。 三列目で、反対する番を待っていた政治局の女性局員がうなずいてみせた。その隣には、統制委員会から来た総会メンバーの一人が座っていた。昼には総会の会議の合間をぬって政治局会議が開かれ、そこでその女性局員には態度を改めるようにと要求が為されることになっている。それから夜には中央委員会の会議が続けられ、そこで全てが決定されることだろう。

 朝の活気が過ぎて、新聞社の建物には幾分かの静寂が訪れていた。取材班長のラチが、部屋のドアから顔をのぞかせた。廊下は人もまばらになっていた。コピー室からは、タイプライターを叩く、流れるような音が聞こえている。ベドリは雑巾で応接室の扉を拭いているところだった。
「ベドリ」ラチは言った。「ちょっと来てくれないか?」
ベドリは雑巾を手に入ってきた。ラチはドアを閉めた。
「ベドリ」ラチは柔らかな口調で訊ねた。「誰か君に、会議室からフルシチョフの肖像を外すように言ったのかい?」
「おやまあ、何だってそんな、私が自分のおつむで外したとでも?」ベドリは言った。「編集長に言われたんですよ」
「ああ、そうか、そうか・・・」ラチはぶつぶつとつぶやいた。「それじゃあね、誰かが何か言ってきたかい?例えば職員でだ、君が肖像画を抱えて社内を歩いている時にだよ」
「何も聞きませんでしたが」ベドリは言った。
「いやもう一度、思い出してみてくれ」
「そんなこと言って、私を困らせないでくださいな」ベドリは言った。「そんなもの私には関係ありませんよ。うちには子供たちだっているんですからね」
「まあまあベドリ、ちょっと待ってくれよ」
「待つも待たないも私の知ったことじゃありませんよ。ねえ班長さん、そりゃあんたの問題でしょうが。私をクルチョフなんかに巻き込まないでくださいな。うちには子供たちだっているんですからね」[訳註;原文でベドリはフルシチョフ(Hrushov)をクルチョフ(Kruçof)と発音している]
「ああもういいよ、わかったよ」ラチ班長は言った。「冗談なんだよ」
「偉い人達のことで冗談なんかおやめなさいな、ねえ班長さん。偉い人達には偉い人達の問題が、庶民には庶民の問題があるんですよ。このベドリにね、写真を外せと言われりゃあ、ベドリは外しますよ。掛けろと言われりゃあ、また掛けますよ。雑巾をかけろと言われりゃあ、かけるのがこのベドリですよ。だのにあんたが考えることなんて、このベドリが知るもんですかい、おわかりで?」
 やれやれ、とベドリが部屋を出て行ってからラチ班長は思った。どうなってるんだ?彼は窓際に歩み寄り、外を眺めた。大通りでは、長いコートに身を包み、十二月の酷寒から耳を守るため襟を立てた通行人たちが足早に行き来していた。何か耳に残るものがあった。何かの匂いがした。だが何なのかははっきりしない。苦々しい感覚が、彼の全身にわき上がっていた。何だ?何なんだ?ああ、そうだ。自分よりもベスニクの方がよくわかっている、そう考えることはラチにとって耐え難いものだった。ベスニクはちっとも大した存在ではなかった。それなのに、彼は旅団宮殿の政府の晩餐会にまで呼ばれているのに、そこにはラチ自身はいなかった、何年も、もう何年も、あれはいつからだ・・・ラチはベスニクに訊いてみたことがある:向こうでは、モスクワではどうだった?と。ところがベスニクの返事は至って冷淡なものだった:いつも通りさ、いつもの代表団さ、と。冷たいものだ。きっとあいつは今頃、自身を信任厚い男だと思っていることだろう。あいつにしてやられたな。ラチは溜め息をついた。鉄道の駅から中心部まで、人がひしめき合っていた。昼の汽車だな、とラチは思った。
 アラニトも何か聞いていた[訳註;アラニトとは、第1部でラチの回想に登場している、内務省職員だったが酒の席での不規則発言がもとで解雇され、党からも除名されたアラニト・チョライのこと]。彼とは前の晩に会ったばかりだ。表情は暗かった。あのモスクワで・・・何かがあったんだ、そう彼は言っていた。ベリヤは健在だったが、彼の頭を悩ませる作家たちもいると言われていた。もしベリヤが健在であれば、とラチは思ったものだ。その時は・・・だがそのことを考える気にはなれなかった。彼はアラニトのことが心配だった。一度だけ、コチ・ヅォヅェの話題になった、1956年の、その時はまだ名誉回復の見込みもあったティラナ会議の話だったが、アラニトの瞳は不安でどんよりとしたままだったので、ラチも早々に会話を切り替えてしまったのだ。それはあの忘れもしない1947年を思い起こさせるものだった、あれはまだ閣僚委員会が機能していた頃のことだ[訳註;コチ・ヅォヅェについては第1部の訳註でも述べた通り。戦後アルバニアで内相を務め、閣僚委員会(Komiteti i Dikastereve)で反対派を大量粛清したが、ホヂャらとの権力闘争に敗れ失脚した]。それは恐らく、彼の人生の中で最も素晴らしい数か月だったことだろう。決して終わることのないように思える音楽の如く、いつまでも燃え続けているような状態だった。気候は冷え込んでいった。ティラナじゅうの公園やバーで、楽団の演奏は深夜まで止むことがなかった。ラチは仲間たちと共にテーブルにつき、ビールのグラスを手に、その夜遅くには逮捕されることになるであろう人物を横目で眺めていた。自分たちが、顔見知りでもなければ会ったこともない赤の他人の人生にのしかかっているのだ、という思いを起こさせるような、この激しい歓喜の感情は何だ?相手は彼らと同じようにビールを飲み、妻や婚約者に微笑みかけ、ご機嫌になっている、それなのに既に彼は打倒されているのだ。自分たちは彼の頭上においては天空からの一閃であり、彼の足元においては地震のようなものだった。夜の歓喜の中で逮捕されることになろうとは、何と惨めで愚か者[訳註;原語はnaiv]だろう、畢竟、自分たちも万能感を覚えるわけだ。権力が他人の運命に及ぼす陶酔感というやつだ。それは何がしかの形でラチたちの人生の隙間を、その外側で絶えず鳴らされるその音楽を、そして遠く、他人の人生の中でちかちかとまたたく灯りとを埋め合わせる。それは、妻たちや娘たちの髪や声や膝から流れ出た、疲弊したような感情とないまぜになっていて、その彼女らと共にテーブルについているのは、逮捕されることになっている者たちだ。深夜に彼らの家の玄関がノックされる:開けなさい、国家保安部の者だ[訳註;国家保安部(Sigurimi i Shtetit)は労働党時代の内務省管轄の治安維持機関、要するに秘密警察。第2部にも登場している]、そしてあの女たち、今は屋外のバーで、我関せずとばかりに高嶺の花気取りでいるあの女たちは、乱れた髪で、まだ愛の営みの温もりが残る寝着のまま、怯えて叫ぶのだ:違うわ、違うわ、これは酔いがまわってるだけなのよ。学校で習ったことがある、いにしえの神々はこんな風にして、雨や雷鳴の姿になって人間のもとへ降りてくるのだと。しかしラチとその同僚たちは、深夜のノックの姿で不意に現れたのだ。ドン、ドン、ドン。
 そんな時期もたちまち過ぎ去った。破局は不意にやって来た。最初の揺さぶりは閣僚委員会の解散だった、それから地震のような揺さぶりが続き、それらのすぐ後に転落がやってきた。それはまさにめくるめく恐怖[訳註;「めくるめく」の原語maramendthは英語deliriumにほぼ相当]、何処までも際限なく続く落下だった、内務相が政治局からも中央委員会からも排除され、長々と続く会議の日々、批判と自己批判の連続、党の委員会の廊下には不安と期待の日々、党員が党員候補に格下げされ、そして新たな破局だ、元内務相が逮捕され、何もかもが逆戻りし、そして遂にラチは或る種の倒錯した感情と共に、深夜の自宅の玄関がノックされるのを待ち望む側に廻った(彼に対して暴行を加えているような感覚をおぼえる者もいるだろう)、そこから再び深淵に嵌まり、自己批判、自己批判、自己批判の後に爪と歯とでがっちりと捕らえられ、最後の最後の或る時、渦が静まった頃になって、彼にとってはまるで馴染みのない仕事である新聞社へと放り込まれたのだ。
[訳註;要するに、ラチはかつてコチ・ズォズェ派に属し閣僚委員会で反対派を摘発する側にいたのだが、ヅォヅェの失脚に伴って権力の中枢を追われ、除名こそ免れたものの、党紙編集部の閑職に追いやられたのである]
 どうなってるんだ?ラチ班長は再びつぶやいた。彼は、記者たちの一団が「リヴィエラ」かその近所のバーでコーヒーを飲み、ラチにとってみればまるで無意味としか思えないような会話を交わし、冗談を言い合っている様を思い浮かべた。きっと彼らは互いに会話を交わし、黄表紙で読んだ内容について語り、見込みを立てているのだ。だが彼には、誰も何ひとつ教えてくれない。彼は自分が孤立していると感じていた。きっと、もし本当に何かあれば、党の諸組織からすぐさま情報を得られただろう。そしてあの頃の彼なら、他の連中と一緒にいれば、何だって聞くことができただろう・・・他の連中と一緒に・・・それは辛いことだった。もしベスニクがその中にいなかったとしたら、これほど辛くはなかっただろう。だがベスニクは何でも知っているのに、ラチは何も知らないのだ。取材班長の彼ならば、他の連中から情報を得られただろうに。彼はもう内部の人間ではなかった。彼のことをベドリさえも気にかけてはくれないのだ。
 ラチは、人が何処に責めを負わせたらいいのかわからなくなる時のような、或る種の悲しさを感じた。こうした感情は何か月も前から続いていた、それは或る九月の晩、ティラナ郊外の屋外バーからのことだった。あの頃と同じように音楽が聞こえ、至る所にカップルがいて、それに加えて月の黄色い光が煌々と、広がる平野に絶え間なく注がれていて、まるでそのせいで何処までも流れる沼地が作られるのではないかと思いたくなるほどだった。彼は、ティラナの丘陵地の何処かで元内務相が銃殺され、埋葬されているに違いないという思いにかられ、そして突然、溢れる月の光を見ている内に、激しく狂おしい感情にとらわれた・・・私の内務相、私の内務相が・・・それは耐え難い月であり、終わりのない喪失感であり、尖った頭を天に向け遠吠えする野犬の群れへと身を投じたくなるような欲求であった(きっとこの犬どもの壮大なドラマは古代の何処かしらで、或る月夜の晩に生じたものに違いない)。
 外が騒がしくなった。記者たちが帰ってきたところだった。彼らのユーモアのみならず、その喋り方や、笑い方や、それどころか服の着こなしまでもが、彼には馴染みのないものだった。アラニトの言った通りだ。
「編集長会議だよ」誰かがドアの向こうで叫んでいた。「どの部署の部長も、経済編集部も、みんな会議だよ」
 彼らは列を成して編集長の広い部屋へ入ると、T字に並んだテーブルを囲んで座った。三台ある電話の一つがずっと鳴っていた。編集長はようやく立ち上がった。今会議中だ、そう言って編集長はまた腰を下ろした。
「同志諸君、みんな来たかね?それじゃあ始めよう」彼は言った。その前にはメモ帳が置かれていた。「たった今、中央委員会から戻って来たところなんだが、向こうでは他でもない、ちょっとした記者会見も開かれていてね」彼はメモ帳をぱらぱらとめくった。深い沈黙が下りていた。「この日だ、つまり明後日だが、我が国全土で大規模な節約運動の呼びかけが行われることになっている」
 始まったな、とベスニクは思った。三、四人の視線が彼の目とがっちり交差しそうになったが、彼はその交差を回避した。
「私が諸君に呼びかけていたように、この運動を我々の紙面にどう反映させるべきか、一丸となって検討していこうと思う」
 始めないわけにはいかない、ベスニクはそう考えた。当然だ、いつか始まることになっていたのだ。この三週間、彼には、もしかしたら何も起こらないかのような、まるで何もかもが悪い夢だったかのような気が何度かしていた。一週目が過ぎた、とベスニクは思った。そして二週目も過ぎた。平日が去り、土曜日が、それどころか日曜日までがやって来た(彼は自問せずにはいられなかった:まだ日曜日があるのか?と。それはあたかも秋の終わり、仲間たちが枯れてしまったのに[訳註;まだ咲いている]一輪の花を目にして驚く人のようだった)。確かにそれは日曜日だった、ピクニック、ダイティ山、高校の最終学年の生徒らは銀行-映画館の路線バスの車掌と幾度ももめていた、理由はスキー道具だ、車掌にバスへの持ち込みを認められなかったから、そしてその他、週末の何もかもだ、それも新年を間近に控えての。
 モスクワからひと月、この日々の間にベスニクは、悪い事態は回避されたのだと半ば信じかけていた。何かが、恐らく共産主義世界の上層部に起こったのだ。やっと耳を傾けて貰えたのだ、恐らく・・・それがどうだ、いきなりこの会議だ。それも身震いするような言葉だな:節約運動とは!嵐の後のこの長い静寂が、このありふれた時間の流れが、欺瞞以外の何ものでもなかったように思えた。それは病が発症するまでの数日間でしかなかったのだ。
 編集長は時折メモ帳に視線を落としながらまだ喋り続けていたが、ベスニクはもはや聞いていなかった。何とか彼と目を合わせようと虚しい努力を続ける鬱陶しい視線の数々も、彼にはもはや苦ではなかった。
 戦争が始まったのだ。経済封鎖だ。すぐさま最初の兆候として悪天候の予報が流れ、壁面にバス停にタクシー乗り場に、至る所、至る所に最初のポスターが貼られるだろう、こんな言葉だ:『節約運動』。最初のうちは、これらのありふれた言葉の背後に何が隠されているのか、誰にも理解できないだろう:『石油の一滴でも節約しよう!』、『パンを節約しよう!』
 編集長はまだ喋っていた。皆は紙切れやノートにメモを取っていた。異様な静けさの中、ペンを走らせる音がする・・・小麦を齧るネズミ・・・奴らの報復だ、とベスニクは思った。それ以外にあり得ない。それ以外に考えようがない。辛いことだ、兄弟よ、辛いことだ・・・俺たちを打倒するつもりなのか?辛いことだ、兄弟よ、だが・・・俺たちを打倒・・・辛いことだ・・・ベスニクの頭の中で、港の大型昇降クレーン[訳註;原語vinçは恐らく英語winch]が無慈悲な動きで鉄製のフックを上げ下げしている、そこは機関車のうなり声と水に濡れたポスターがある、さびれた港だった。

 家に戻るまでの間、できるだけ回り道をしようとあちこち足を伸ばしながら、ベニは、ティラナの何処にも、大通りとラジオ・テレビ局の建物とを結ぶこの道以上に人通りのない場所は見つからないなと考えていた。その人けの無さを、毎年冬には閉鎖される児童遊具広場の存在がいや増していた。切符売り場の前や、柵の内側や、金属製のブランコの上や、至る所に枯れ葉が落ちていた。
 向かい側の歩道の、一軒の建物の壁に、誰かが演劇オリンピックのポスターを貼っているところだった。ベニは上演される芝居の題目を読もうとしたが、それは無理だった。
 不意にイリスが目に入った。何語を習っているんだろう一体全体、あんなカバンで?とベニはつぶやいた。外国語学校に通っているとイリスから聞いたことがある。まさか中国語を習ってるわけじゃあるまい、そう思った。イリスは向こうで微笑んでいる。あの娘は九月から何も変わっていない、ただ前より色が白くなった。
「こんにちは」互いに顔を合わせた時、そう言ったイリスの呼吸は少しだけ乱れていた。
「アルベン、お元気?」
 ベニは手を差し出しながら、よくわからないことをぶつぶつつぶやいた。えっ何?とイリスが訊いてきた。ベニはすっかり舞い上がっていた。イリスは、悪いけれど急いでいたので、もしベニさえよければ少しだけ一緒に歩かないかと言ってきた。
 勿論さ、とベニは返事をした。勿論さ、そう思ったのだ。ただしあの忌まわしい人混みの方へ行かない限りはな。あの頃なら、あの九月なら、もっと自然に話せていたような気がした。
 道すがらベニは、彼女との会話に何ひとつ惹きつけられるものがないことに、苦痛を覚えていた。学校で習った文学さまさまだな、そう彼は思った。ホメーロスが書いたものだの、アンナ・カレーニナだの、三十年代のリアリズムだの、何ひとつ憶えていなかった。
 公園の前を通りかかった時、彼の頭がひねり出した唯一つのことは、彼女にしばらくここにいようと誘うことだった。彼女も承知してくれた。二人は池のそばの木製のベンチに座った。寒かった。ダンス場の近くに瓶ビールの箱が幾つか、恐らく夏からずっとなのだろうが、上下に積み重ねられていた。
「ほら、時間が経つって早いものねえ」そう彼女が、ほんの少し親しげな口調で言った。「九月のあの日、ここに来た時のこと憶えてる?」
 ベニはタバコの箱を取り出した。やっと単数形で呼んでもらえたな。[訳註;先程イリスが口にした「アルベン、お元気?(Si jeni, Arben?)」ではベニに対する呼びかけが2人称複数形だったが、その後の「憶えてる?(Të kujtohet…)」では2人称単数形になっている。他の印欧語同様、アルバニア語でも動詞・代名詞の2人称複数は敬称、2人称単数は親称を表し、例えば初対面で親しくない相手には複数形で呼びかけ、心理的距離が近付くと単数形に切り替える。なお、ベニとイリスは第1部の回想でも顔を合わせているが、直接の会話は書かれていない]
 冷たい風が吹いていた。彼女はコートの襟を立てた。二人の背後の、何処かずっと奥の方から、「薪はいかが」という単調な叫びが聞こえていた。市内の大時計が二回鳴った。
「そろそろ行きましょう」彼女が言った。
 ベニは表情を曇らせた。
「前に道で会ったのも、偶然じゃなかったんじゃないかしら」彼女は言った。「あなたの友達のあの人が・・・」
ベニはみぞおちに一発喰らったような気分になった。
 その時、大きな黒塗りの乗用車が道に停まると、中から女性が一人降りてきた。女性は公園の中に入り、二人の前を横切ったが、二人には見向きもせず、ベンチの一つに腰を下ろした。
「何だか見覚えのある顔だ」ベニが言った。何処かでこの顔は見たことがある、新聞か、肖像画か。
「あれは指導者よ」イリスが言った。「政治局のメンバーだわ、名前は確か・・・」
「しっ、こっちを見てるぞ」
 イリスは唇をぐっと噛みしめると、彼の肩に頭を近付け、小声でささやいた。
「去年のメーデーのパレードで、私あの人の肖像画を持ってたのよ。雨が降り出したの憶えてる?もう、あの日はびしょ濡れだったわよ!」
 ベニは何と言っていいか分からなかった、というのも何も憶えていなかったからだ、だから笑ってみせた。
「私もう帰るわね」彼女はそう言うと手を差し伸べてきた。
「もう少し、一緒に歩いてもいいかな」とベニは言った。ベニは黙ったまま、彼女と並んで歩いた。公園の向こう側、遠くの方から薪売りの「薪はいかが」という声が聞こえていた。
 何だって俺はこうちゃんとしたことが言えなかったんだろうな、ベニはそう思った。ずっとそんな思いにふけっていた時、大理石の板が目に止まった。
「ほら、アルバニア・ソヴィエト友好の木だよ、フルシチョフが植えたんだ」ようやく話題に出来そうなものを見つけて、彼は嬉しそうに言った。「これ聞いたことあるかい?」
「それについて書いた詩を、新聞で読んだことがあるわ。これがそうなの?」
「そうさ」ベニは言った。
 イリスは幾らかの言葉が刻まれた大理石の板を読もうと、ほんの少し屈んだ。
「友好の木」彼女は言った。「不思議ねえ!でももしも・・・」そして彼女は微笑んだ。
「もしもって何?」ベニは言った。
「もしも二人の人間の友情のために植えられた木があるとしたら」そして彼女はまた笑った。「私の考えることって変だと思う?」
 俺なら君のために森ごと植えてやるさ、そうベニは思った。そんな言葉を声に出して言うのは似合わないな、とも彼は感じた。
 その少し先の、公園を出たところでイリスはベニに別れを告げ、手を差し出した。
 公園を出て帰る途中、ベニは、黒塗りの車から出て来た女性が落ち着かない視線で自分の方を見つめているのに気付いた。

 彼女が一人で公園のベンチに座るのは、これが初めてだった。政治局の会議が二時半に終わり、運転手が速度を出して車を家へと走らせていた時、彼女は、運転手に向かって喋った自分自身の声に、殆ど驚かんばかりだった:家じゃなくて、公園にやってちょうだい。
 自分が政治局から排除されるであろうことは明らかだった。それは極めて早急に、恐らく今日、今夜の中央委員会の会議で行われるだろう:或いは遅くとも数日後、党が例の亀裂について長々と発表を行うに先立って為されることだろう。彼女はひとしきり、数万人の共産主義者が他でもない彼女自身の態度について聞き耳を立てるであろう様を思い浮かべた。彼女がモスクワでの党代表団の行動の全てを必死で断罪しようとしていたのだと聞かされた時の、その数万の惚けたような顔を想像する時、彼女は或る種の陶酔したような誇らしさを感じた。たとえ自分が全てを語ったとしても、自分に土砂降りの大雨が降りかかるであろうことは分かっていた。
 公園の木々は丸裸だった。池のふちに苔が層状にこびりついていた。何処か遠くで「薪はいかが」と叫ぶ声が聞こえていた。自分と彼らとどちらが正しかったかはもう間もなく明らかになるだろう、そう彼女は思った。もう間もなくだ・・・信用貸付が抑えられ、経済封鎖が始まる。封鎖という言葉が脳裏をよぎる時、彼女は冷たい喜びを感じた。それこそ彼女が期待を寄せることのできる言葉だった。ブロック・アーダ。それはコンクリートか、戦車で出来ている何かだった。彼らはソヴィエトに対して赦しを請わざるを得なくなるだろう。そして、つまりそれは、彼女に対しても同じことになるだろう。
[訳註:「封鎖」の原語bllokadëは「ブロック」に由来するが、原文では“bllok-adë”と分けて発音されている]
 「薪はいかが」の単調な叫びがさっきより近くに聞こえた。これから次々と何もかも失っていくであろうことが、彼女には分かっていた:守衛に、運転手に、自動車に。国じゅうで彼女の肖像画が取り払われるだろう。彼女の夫もまた、閣僚の座から追放されるだろう。これから数か月で、彼女の人生は坂道を転げ落ち破滅に向かう他ない。それから・・・それから・・・それからいつまで?と彼女は不安に駆られ自問した。
 ベンチの背もたれは氷のように冷たかった。彼女は立ち上がり、足早に車へと向かった。
「取り敢えず町を回ってちょうだい」彼女は運転手にそう言った。
 車の窓越しに彼女は、交差点を渡ろうとする人々を、歩道を通る人々を、新年の飾り付けが施されたショウウィンドウを眺めていた。何もかもが、まるで別世界の様に遠くにあった。文化宮殿の前の庭を囲んでいる木製の塀に、誰かが際限なくポスターを貼り続けていた。演劇オリンピック。演劇オリンピック。演劇オリンピック。彼女はどうにか芝居の題名を読むことができた。それが「クレムリンの時計塔」だったので、ほんの一瞬だけだが、彼女は深い悲しみに沈んだ。
 誰かがさかさまに提げた七面鳥の頭部が、交差点で停まっている車の窓ガラスにコツンと当たった。こんなにもたくさんの人が、ここから何処へ急いでいるのだろう、と彼女は思った。新年のための金を引き出そうと並ぶ貯蓄銀行の前でも、商店街でも、診断の結果を受け取る為に待つ病院でも、きっと誰もそのことは知らないのだ。
 路上は霧でじっとりと湿っていた。その傍らに化粧品店の細長いショウウインドウが見えた。
「ここで停めて」彼女が不意に言った。
 二、三人が、車から彼女が降りてくるのを好奇心に満ちた目で見つめた。彼らは顔を見合わせたが、彼女が化粧品店に入っていくと、その目には更に一層の驚きが浮かんだ。
 彼女が化粧品の店に入るのは初めてか、もう何年も何年も前以来のことだった。店内には芳香と、人々が殊更に必要としないものを売っている場所特有の静けさがあった。女性店員は、恐らく彼女のことを知っているのか、動揺していた。客の一人が連れの女性に何かしら耳打ちしていた。
「いらっしゃいませ」と女性店員が小声で言った。
 彼女は、香水の小瓶やクリームのチューブや頭髪用シャンプーやマニキュアや口紅がずらりと並んだショウウインドウの内側を眺めていった;それは彼女が殆ど知らない、ずっと刺激的で、それ以上に何処かしら煽情的な、ガラスのせつなさのようなものをまとった、こだわりに満ちた世界だった。役職を失ったら、きらびやかなこのガラスを手に入れることが出来るかも知れないという、そんな考えが彼女を冷たく貫いた。
 誰とも目を合わせないまま化粧品店を出ると、彼女は車に乗り込んだ。
 家では、車の音らしきものを耳にして夫がドアの向こうで彼女を出迎えていた。
「で?」彼は問いかけた。
 彼女は、全て終わったと言いたげなしぐさをしてみせた。彼の顔は色が抜けたように真っ青になった。
「俺は、もう少し先のことになるかと思っていたんだが」
「それならいいけどね」
 彼は彼女とドアとの間をうろうろしていた。
「いつ?」彼は訊いた。
「たぶん今夜。居間に誰かいるの?」
 彼は『そうだ』とうなづいてみせた。
 彼女はどうでもいいといった表情で、部屋へ入った。統制委員会の委員がソファからさっと立ち上がり、頬のこけたその顔はほとんど彼女の顔とくっつかんばかりになった。その目には先程の問いがあった。どうだった?と。しかし彼女はそれを理解できないかのように振る舞った。彼女は他の者たちに手を伸ばした。一人はずっと落ち着かない様子の軍人で、もう一人は夫の友人、そしていとこ夫婦だった。もうじきあなた達も私を疫病のようにして離れていくのよ、彼女はいとこ達にそうつぶやいた。皆おし黙ったままで、どうやら既に何か聞かされているらしかった。
 統制委員会から来た男の視線は、彼女の視線を捉えて離さなかった。数日前、ソ連側は彼に対して、何もかも元のさやに納まるだろうというお墨付きを与えていた。結局のところ、アルバニアはワルシャワ条約機構に加盟する。そしてアルバニアには、他の全ての加盟国と同様、任務が与えられる。私は公然とフルシチョフ支持に回る、そう彼は彼女に言っていた。君たちも好きにしろ、と。それが今日になって、彼の視線はこう訴えていた;どうなってしまうんだ、どうしてこんな厄介な事になってしまうんだ?と。そんなおいぼれじみた目で見るのをやめなさいよ、と彼女は思った。どうなってしまうかなんて私にどうしてわかるもんですか?私が貧乏くじを引かされてしまったのかしら?
 暖房管が耐え難いほどの熱気を放っていた。
「本当にごめんなさい、今忙しくて」彼女は来客たちにそう言った。
 統制委員会の男は彼女から目を離さないままだった。
「今夜の支度はもう済むよ」夫が男に小声で言った。
「わかった」
 外は暗くなりかけていた。
 それからしばらくして、閣僚[訳註;である夫]は立ち上がり、手で音を立てないようにしながら、彼女がどうしているか見に行った。書斎のドアは指二本分ほど開いていて、彼はそこから顔をのぞかせた。彼が見たものは些か驚くべきものだった。今まで何十回となく見たように仕事机に向かい、背中を丸めてメモや書類や次の会議の演説原稿に向かっているのではなく、彼女は鏡の前に立っていたのだ。
 夫は自分の目が信じられなかった。鏡の面に顔を近付け、ぎこちない手つきで、彼女は口紅を塗ろうとしていたのだ。

 イリスと別れてから、ベニはしばらく通りをぶらついていた。葉の落ちた木々の背後に立つ七階建ての灰色のアパート群は、いつもよりも大きく見えた。そこへとうとうあいつだ、「薪はいかが」屋が、斧を肩に担いでやって来た。あいつは日がな一日「薪はいかが」と叫び続けているが、本当は薪を切っているのではなく、人々の神経をずたずたにしたくて来ているのだ、ベニは殆どそう思いかけていた。
 ベニは、連中がいつもの場所で自分を待っていることを知っていたので、ずっとそうだったのだが、その足取りは更に遅くなった。しかしそれだけ歩みを遅めても、ディブラ通りに出てしまうのだった。頭が軽くずきずきと痛んだ。あの想像の中のボクシングの決闘で彼、すなわちアルベン・ストルガは、外国のリングの上でテレビカメラに囲まれて、黒人の男と絶え間なく殴りに殴り合っていた;もっともその決闘は度々中断され、その翌日、とりわけ一人で路上を歩いている時に、彼自身の想像の中で再開され、継続されるのだった。それは第四、或いは第五ラウンドだった。ベニの片目は腫れ上がり、相手は唇を切っていた。轟音が響くホールの暗闇の中で、二人は激しく殴り合った。ベニは膝から崩れ落ち、ロープにもたれかかった。ノックダウンだ。ワン、トゥー、スリー、フォー・・・腫れ上がった彼の目が、観衆の中にイリスの視線をとらえた。彼女は指を噛みしめていた。再びボクシングが始まった。黒人は狂ったように襲いかかってきた。しかしどうだ、ベニも殴りつける・・・立ったまま死んでいたとはこのことだ、後になって新聞やラジオやテレビが報じていた通りだ。黒人の男(その顔は今やほとんどトーリのそれになっていた)は意識を失くし伸びていた。リングに医師たちが駆け上がってきた。
 道路をけたたましい音を上げて救急車が走り過ぎていった。ディブラ通りだな、とベニは思った。思ったよりも早く着いていた。ああ、あそこにいる、みんな揃って、ショウウインドウに背中を預け寄りかかっている。
 彼らの方へ行く前に、ベニは演劇オリンピックのポスターの前で立ち止まり、殊更何を思うでもないまま、芝居の題目を読んでいた。上演場面の写真の中の一枚に彼はトーリの姿をみとめたが、どうやらエキストラで出演しているようだった。「輝ける幸福」、彼は眠気を覚えながらそれを読んだ。芝居は、四・・・ラウンドか。[訳註;原語raundは芝居を数える「幕」というより、英語のroundと同様、ボクシングの「ラウンド」を意味している]
 彼らは素っ気ない挨拶を交わした。トーリはベニが来たことなどすぐさま忘れてしまったようだった。サラはあっちを見たり、こっちを見たりで、まるで鳩のようだった。[訳註;旧版ではこの段落でベニとトーリのギスギスしたやりとりが細かく描写されているのだが、決定版では何故か殆ど削除され、簡略化されている]
 ベニはそれをそっと盗み見ながら、人間同士の怒りはこうも急速に生まれるものなのかと思った。疑うべくもない、あの晩、彼らは死ぬほどの怒りを覚えたのだ。その翌日だか翌々日だったか、ベニがいない時に、トーリは更にベニに怒りを覚えたことだろう。それはベニとても同様だった。自分がいなかったことこそがトーリの怒りを駆り立てたことに、ベニは気付いていた。それは洗っていないシャツのようなものだ、身体から脱いで何処かの隅に数日放置しておけば、すえた臭いが漂ってくるものだ。
 ショウウインドウの照明がつき始めた。「全般的危機」が女子二人と共に通り過ぎた。微笑みながら互いに耳打ちしていた。
「知ってるか?」サラが小声でベニの耳元にささやいた。
「我々はまた資本主義国に戻るらしいぞ」
「馬鹿な」ベニは言った。「何処でそんな馬鹿馬鹿しいことを聞いた?」
「うちのおやじ[訳註;原語plakは「老人」だが口語で父親を示すこともある]に知り合いがそう言っていたよ」
「おおかた反動屋だろう、決まってるさ」
「お前、俺が喜んでるとか思ってないよな?」サラは言った。
「もうよしてくれ」ベニは言った。「お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった」
 それから半時間後、家へ帰る道すがら、ベニはサラの言ったことを思い出していた。彼は自分の人生で初めて、国が資本主義に戻るようなことが果たしてあり得るのだろうかと、考えることを試みようとしていたが、それは彼にとって想像の限界に触れかねない、神経にも障りかねないほどのことだった。考えにふける中でベニは、今しがたサラが立ち去ったはずの道へ舞い戻り、サラに追いつくと、その首根っこを摑み、相手の顔を拳で一回、二回、三回と殴りつけ、ひっきりなしに「馬鹿野郎、馬鹿野郎、馬鹿野郎」と叫び続ける、とそんなことを想像していたら幾らか気分が楽になった。だがそれなのに、家に近付くにつれて、自分には今はまだ中に入る気がしないのだという感覚が増してきた。ベニはマクスのところへ行くことを思いついた。
 マクスはベニの姿を見て喜んでくれた。彼はベニを、陶製の暖炉が熱気の残りを放つ居間へ案内すると、マグネトフォンを取りに行った。ベニはソファの上に置いてあった二冊のアルバムのうち、一冊を手に取った。それは家族の写真を収めた、革表紙のアルバムだった。それをパラパラとめくっているうち、ベニは、マクスと知り合った時の印象として感じた、磨き上げられた銅が放つような、はじけるようなその輝きが、まるで手ずから蒔かれたようにその辺一面に、彼ら偉大なる血族全員の頭上に散りばめられていることに気付いたのだ。[訳註;要するにブロンドの髪色を指している]
 マクスは自分の家族について、とりわけその父親についてベニに話してくれたことがあるが、今になってもベニには、何と偉大な共産主義者の家系だろうかということしか目に入っていなかった。獄中死した古参の反ファシスト活動家に、新生国家の政府高官に、副大臣二人に、外交官に、そしてマクスにそっくりな若き飛行機乗りだ、しかし彼は半年前に自分のジェット機の墜落で命を落としていた。
 写真の中の一枚に、ベニは作家スカンデル・ベルメマの顔も見つけた。グループで撮った写真を見ていると、ベニは、あちこちに黒く塗りつぶされた小さな丸があるのに気付いた。よく注意して見ると、それは写真に写っている人の頭だけが消されているのだということが分かった。
「何だいこれは?」マクスが戻ってくると、ベニはそう訊いた。
「ああ」マクスは言った。「それは・・・過ちを犯した人たちさ」マクスはもっとよく見えるように顔を伸ばしてきた。「ほら、例えばここにいるこの人は、うちの二番目のいとこだよ。中央委員候補だったんだけどね、ハンガリー事件の後で党から除名されたんだ」
「もう会ってないのかい?」
「もちろんさ」とマクスは言った。「中央委員会から除名されてるんだぜ、わかるだろう?話すことなんかあるもんか・・・」
「そう、そうだね・・・」
 彼はまだアルバムのページをめくっていた。
「それと、ここにいるもう一人は」とマクスは言った。「第十一回総会で失脚している。再婚して、今はくだらない芝居なんか書いてるよ、時たま地方の小劇場でやってるね」
 今マクスが説明したばかりの身体は、その手に吸いさしのタバコを持っている。頭を消されても、火のついた吸いさしは、塗りつぶされずにそのままだった。ベニは笑いとも恐怖ともつかない感情を覚えた。
「マクス」ベニはアルバムから顔を上げて言った。「知ってるかな、今夜あの半端者が言ってたんだけどね、君知ってるかな、あのサラだよ?およそ耳にしたこともないようなくだらない話なんだけどね。あいつ何処で聞いたのやら、ここが資本主義国に戻るだろうなんていうのさ」
 ベニはマクスが笑い出すだろうと期待していたのだが、マクスの顔は落ち着いているどころか、むしろ暗く沈んでいた。
「もちろん、そいつが言ったことはくだらない話だ」マクスは答えた。「だが、そうとばかりも言い切れない点はある。俺は何も知らないが、うちの一族の中でも最近、気になることがあるんだ」
「そうなのかい?」ベニは言った。
「君、誰にも話さないでくれよ」マクスは言った。「まだ誰にも喋るようなことじゃないんだ」
「わかってるさ」ベニはそう言って、アルバムをソファに戻した。
 マクスはしばらくの間、口をぽかんと開けて立ったまま、絨毯の一点を凝視していた。
「だが、そんなことは起こらない」とマクスは言った。
「そんなことって何さ?」
「そんなことって、まあその、資本主義に戻るってことさ」
 ドアの外の呼び鈴が鳴った。
 一族だな、とベニは思った。磨き上げた銅のように輝く髪の、力強い一族だ。
 それは確かにその一族だった。大きなコートに、濡れて湿ったボルサリーノをかぶった男が数名。その額と頬に、ベニは陰鬱なものを見たような気がしたが、しかしベニに見えたように思えたそれは、普通の人々の陰鬱ではなく、そこには激しい輝きがあった。
 やって来たばかりの客人たちがコートを脱いでいる間に、マクスはベニを連れ、脇をすり抜けるように居間から出た。ベニは帰ろうとしたが、マクスはそれを引き留めてキッチンへ向かった。
 そこは暖かかった。ソファにはマクスの姉妹のディアナが、パジャマ姿で何か編み物をしていた。
「あら今晩は!」ディアナは編み物から目を離さぬまま、そう言った。「ベニ、元気だったかしら?」
 キッチンをマクスの母親が出たり入ったりしては、そのたび飲み物のグラスを持って行ったり、コーヒーを運んだりしていた。いつも通りの活発さで、グラスのなる音の中で、暇を見てはディアナとひとことふたこと言葉を交わしていた。彼女はベニとマクスの二人にもコーヒーを作ってくれたが、二人は邪魔にならないようにと、カップを手に窓際へ移った。
 それから半時間が経ち、いとまを告げようとしたベニは、玄関のところでまたもやってきた客たちとぶつかりそうになった。
「なあ知ってるかい?」見送りに出たマクスが階段のところでベニに言った。「あれはうちの従兄弟のスカンデル・ベルメマとその奥さん、つまりザナの叔母さ。君だって会ってるはずじゃないかな?」
「会ってるよ」ベニは言った。「だけど向こうはきっとこっちのことなんか憶えてないさ」
 家へと向かう道すがら、ベニの頭にぼんやりと行き来していたのは、あのアルバムのページのあちこちにあった、小さな丸のことだった。かつて読んだことのある幾冊かの本や、かつて西側についての映画を見た時、ベニの中には、ああいう大家族を呼ぶ時のような、ブルジョア的秩序の支柱ともいうべきあれを何と言えばいいのだろう、という思いのようなものが生まれていた。そして今や初めて、まさしくそのような家族、ただしその立ち位置においてはまるで正反対の家族が、共産主義世界にもあるということを見出したのだ。彼が見たブルジョア家庭をめぐる映画の中では常に、資産の分配や、相続をめぐる終わりの見えない裁判沙汰や、押し寄せる破局に絡んだドラマが展開されていた。一方、マクスの一家では万事にわたって党大会や、中央委員会総会や、大きな政治的転換が絡んでいた。1948年、あの「暗黒」の第八回中央委員会総会、その直前の政治局員の自殺、ユーゴスラヴィアの背信に関する情報局の発表、スターリンの死、ティラナ会議・・・そして、それら全ての末に芽を出したのが、アルバムの写真の中の小さな丸だったわけだ。
[訳註;この政治局員とは、「親ユーゴ派」とされたコチ・ヅォヅェに批判され、その翌日に拳銃自殺したナコ・スピル(Nako Spiru)のこと。後にエンヴェル・ホヂャとの権力闘争によりヅォヅェが失脚したことを受け、ナコ・スピルは「名誉回復」される]
 そして今、吹雪は一体どちらの方向からやってくるのだろう?
 どういうわけか、ベニは、自分の父に死刑を宣告した王室の布告が載っていた新聞を思い出した。それは古い新聞で、布告の文面も昔のアルバニア語で書かれていたが、たぶんそれが理由だろう、ベニはずっと、もし父が政治亡命の咎で処刑されていたとしたら、それは博物館を廻って集めてきたような、昔の武器によって行われていたに他ならないだろうという気がしていた。
 商店のショウウインドウの、白い綿で出来た雪が、無関心の海の中で白々と光っていた。古物商の前を通った時、再び彼の脳裏に、機銃掃射のような速さでサラの言葉が繰り返された:我々はまた資本主義国に戻るらしいぞ。
 馬鹿馬鹿しい、ベニはそう思った。そんなことが起きようはずもない。ベニはその件を思考の中からすっかり振り払ってしまおうとしたが、それでも、家に戻った時にはまだ憂鬱そうにしていたに違いない、というのも玄関のドアを開けたミラが彼にこう言ったからだ:あらおかえりなさい、憂い顔のナイトさん!
[訳註;旧版ではこの後、中央委員会でのエンヴェル・ホヂャを含むやりとりが詳しく描写されているが、決定版では完全に削除されている]

2
 冬の日。ヌリハン婆さんは窓際の長椅子に腰掛け、数珠[訳註;原語tespiheはイスラーム圏で見られる、礼拝時に用いる道具。タスビーフ]をいじっていた。外には霧が垂れ込めていた。空は低く沈んでいた。雨が降り出すか、もしかしたら雪になるかも知れなかった。地面はさっきよりもじっとりと湿っていて、関心なさげに人を、また別の誰かを待ち受けているかのように見えた。数日前から交差点に貼られているポスターは、その一部が家の中からも見えていたが、風で二、三箇所がぼろぼろになっていた。
 ドアをノックする音がした。はいはい行きますよ、行きますよ、とつぶやきながらヌリハンはのろのろと立ち上がった。それは昔馴染みのハヴァだった。まあハヴァどうしてたの、よく来てくれたわねえ。一人で退屈してたのよ。
[訳註;このハヴァは、第1章に登場したヌリハンの旧友ハヴァ・フォルトゥズィとは別人]
 以前からヌリハン婆さんは、思っていることと口に出した言葉のはっきりした区別がつかなくなっていた。他人はそのことを知っていたので、彼女の会話で抜けたところは各自でどうにか埋め合わせようと努力するのだった。
 二人はひとしきり互いの健康を訊ね合った。
「エミリアとマルクは何処に?」
「みんな出かけたわよ」ヌリハンは言った。「ちょっとワインを買いに行ってるわ」
「今年も終わりだわねえ」ハヴァが言った。
「終わりだわねえ」
 ハヴァは辺りをきょろきょろ見回して、それからヌリハンの肩に顔を近付けた。両眼が細まり、注意深げになった。
「あなた何か聞いてる?」彼女は小声で訊ねてきた。
「おやまあ、それってつまり本当ってことね」ヌリハンは言った。
 「それってつまり、あの遠い遠い、荒野の彼方で本当に何か起きてるってことなのね」
「かの偉大な占い師、ハンチェ・ハイディエ・ペザがね、政府の車に乗ってるのを見た人たちがいるらしいのよ」ハヴァは更に声を低めた。
[訳註:ハンチェ・ハイディエ・ペザ(falltare Hançe Hajdije Pezë e Madhe)は、カダレの他作品にも登場するムスリムの占い師で、政府幹部との繋がりが示唆されている]
「そんなの信じられないわねえ」ヌリハンは言った。
「私だってそう言ったわよ、ヌリハン、だけどねえ、その奇妙なことが今起こってるのよ」
 ここ数日ヌリハンは、旧友にして、信頼できる情報を持ってきてくれる唯一の人物であるムサベリウが来るのを待っていた。ヌリハンは女達にありがちな噂話が気に喰わなかった。だがムサベリウは、一週間も前から鼻風邪で家に閉じこもっているのだ。
[訳註;ムサベリウは第1章にも登場している]
「今年も無事に来そうだわねえ」ハヴァは言った。「向こうは、何だかどうも、対立してるらしいわね。収まりようのない取っ組み合いが、あの連中の間で起こってしまったのよ」
「早いところかたがついてくれればねえ」とヌリハンは声に出して言った。
「何てことかしらねえ、こんな日が来るなんてねえ。祝福された対決ね、こうなっては希望も何もありゃしないわ」
「もうあたしたちはくたくたよ」ヌリハンは言った。「そして死んでいくんだわ」
 外で車のブレーキ音がした。ハヴァがもの問いたげな目をした。
「これはあっちの方よ」とヌリハンは言った。「最近、あの人の娘のことでいろいろあってね、うんざりしてるのよ」
「ほう、ほう、そりゃあうんざりもするわねえ」ハヴァが言った。
「その娘の婚約者がね、向こうに・・・モスクワに行ってたのよ」
「そうなの?」
「向こうでその対立の中に行ったわけよ。それで彼女ったら今じゃ苦虫噛み潰したみたいな顔で[訳註;原文は「滴と毒」]階段を上がったり下りたりよ」
「おやまあヌリハンったら、連中があたしたちの人生に毒を盛ったようなものねえ、あたしたちに毒を盛ったみたいにさ!」
[訳註;「~に毒を盛る」は「~を台無しにする」の比喩]
「毒ね」ヌリハンは言った。「夜と毒だわ」
「あの気の毒なハムディも言ってたわ、安らかに眠って欲しいけど、あの人が初めて臨時税を取られた時のことよ」
「ああ、税金ね」とヌリハンは口にした・・・二人の皺が、白髪が、目の下のたるみが、何もかもがあの長い数字、埋葬の行列のように長い長い数字の列と結び付いていた。臨時税200,000フラン。税55,000フラン。税120,000フラン。臨時税90,000フラン。次々と。次々と。後から、また後から。いつになったらこの悪夢は終わるのだろう?まるで数字の最後に並ぶゼロのような、丸い、とろんとした瞳で彼らは互いに見つめ合った。金よりまだしも命だ。だから彼らは自殺に向かった、みんなして、次々と。鋭く吹き抜ける風の中(あれは本当に風だったのか、それとも耳元を流れる時のざわめきだったのか?)、或る者はトランクの紐で縊れ、或る者は石炭の煙やガスで息が詰まり、また或る者は川に、別の者は自らが備蓄していた油に[訳註;身を投げ]、更に別の者は猫いらずや薬をあおったり、屋根から身を投げたり、血管を切ったりした。とそこで不意にヌリハンは自問した:何だって誰も銃じゃなかったのかしら?何だってみんなして、まるで影のように静かに[訳註;自殺した]だったのかしら?
「はあ」ハヴァが放心したように溜め息をついた。
 ドアをノックする音がした。
「はいはい行きますよ、行きますよ」ヌリハンが言った。「おやおや、まあまあ」とドアのところで彼女は声を上げた。「どなたが来たのかと思ったら!いらっしゃいなエクレムさん、いらっしゃいなハヴァ!」
「ボンジュール、シェリー!」と言いながらハヴァ・フォルトゥズィはヌリハンと抱擁を交わした。[訳註;このハヴァは、第1章に登場したヌリハンの旧友ハヴァ・フォルトゥズィ。エクレムはその夫。ちなみに上の挨拶は原文でもフランス語“Bonjour, chéri!”だが、相手は女性なので正しくは“chérie”]
「中にもう一人ハヴァがいるわよ」ヌリハンは言った。「でもまあよく来てくれたわねえ!さあさあ、入って入って!」
 ハヴァ・フォルトゥズィにはまるで隙がなかった。彼女はしっかり着飾っていて、更に髪を染め、大きなイヤリングをぶら下げていた。足は長く、四十年にわたって海辺で日焼けしていたが、そのことを彼女はむしろ自慢していた。あなたが来るとあたしたちみんなの精神状態が上向くわね、とヌリハンは常々言っていた。そして実際、ハヴァ・フォルトゥズィの瞳には取り乱すようなところが一度たりともなかったのだが、対してその夫のヌリハンはと言うと、恐るべき数字の並ぶ税金を一つまた一つ片付けているのだった。ハヴァ・フォルトゥズィの瞳はずっと長い間、艶めかしい二つの楕円形のままで、その内側にあるのはいつまでも続く日没で、それはまるで彼女の四十回分の海辺[訳註;海水浴のこと]の日没のようだった。
 彼女らはひとしきりこの冬と新年について、ただし、あちこちから流れ込んでくる一連の昔の思い出については避けながら語り合っていた。すると不意にハヴァ・フォルトゥズィがこう言った。
「あなたたち何か聞いてる?」
 ヌリハンとハヴァは互いに顔を見合わせた。エクレム氏はそこにいない風で座っていた。
「耳が悪くてねえ」ヌリハンは言った。「ラジオもちっとも聴いてないのよ」
「対立よ」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。「ロンドンでも、パリでも、もう幾晩もその件でもちきりだわ。AFPの記者がそこにいたの。その・・・モスクワで起きている対立のことで、長いルポルタージュを書いているわ。大通りのことも書いてあってね、名前は忘れたけど、中央通りよ、要するに、向こうにとってのシャンゼリゼみたいなものね。まあ見事な書きっぷりだったわねえ!新聞も売っているけれど、新聞には何も書いてないし、誰も何も知らないってのに、百歩ほど行った先のクレムリンの、中世からあるお城の壁の向こう側じゃ、陰謀と宴会と人殺しが行われていたわけよ。まあ何て素晴らしいことかしらねえ!」
「人殺しまであったの?」ハヴァが訊ねた。
「ないわけないでしょう?」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。「それだけ大きな衝突なのよ」
「で、これからどうなるのかしら?」ハヴァが言った。「私たちはどうなるのかしら?」
「何かしらの事は起こるだろうね」エクレムが言った。
「私たち、西側に戻るのかしら?」
 ヌリハンは額に皺を寄せた。
「たぶん、そうなるだろう」とエクレム・フォルトゥズィが言った。
「まあそんなことを言って、あなたったら!」
 妻ハヴァ・フォルトゥズィは言った。それから「ああ」と声を出した。「余りに素晴らし過ぎて信じられないわ」
 長きにわたる酷使と、視線のやりとりと、内面の輝きと、消失と、溢れ出す悲しみと、不意に燃え上がる思いと、そして閉じる、閉じる、閉じる、そのために病み果てた彼女の両眼は、天井の何処かしら一点を見つめたまま、じっと動かなかった。四十年分の海辺だわ、と彼女は思った。一度の空きもなく続いた四十回分の夏。それから、1945年の夏。海辺の国有化された別荘の、閉まったままの両開きの扉と、扉に貼りつけられた、傷口のように真っ赤な封蠟。
「本当に、何事かが起こり得るのかしら?」もう一人のハヴァが言った。
 ヌリハンは窓に顔を近付け、何かしら外を眺めていた。ハヴァも同じように顔を上げた。玄関口に誰かが、コートの襟を立てて入ってくるところだった。
「その婚約者って、あそこにいるあの人?」ハヴァが訊ねた。
 ヌリハンは『そうよ』とうなづいてみせた。
「何?」ハヴァ・フォルトゥズィが訊ねた。
「あそこにいるその婚約者が向こうの、モスクワに行ってたのよ」ハヴァが言った。「ご覧なさいな、体じゅう陰気そうで」
 彼女らは近付いて見ようとしたが、相手はその間に通り過ぎてしまっていた。
「あの人が向こうで通訳だったのよ」ヌリハンが言った。
「本当なの?すごいわねえ」ハヴァ・フォルトゥズィが言った。
「すごいってのは、他の言語からの通訳を頼まなきゃならなくなった時になってわかるだろうさ、ハハハ」とエクレム・フォルトゥズィが言った。
「西側との対談とか?」
「じゃなきゃ何だっていうのさ?政府だって人間と同じさ、口をつぐんだままじゃいられないからね。誰かと会話することになるのさ」
「まあ、そんな日が来るといいんだけど!」ハヴァ・フォルトゥズィが溜め息をついた。
 彼女らは皆、活気を取り戻した。
「フランス語は知ってるよね、ボンジュールなんて、君から私に言ったことないけど」と言ってエクレム・フォルトゥズィは笑った
 外でドアを叩く音がして、彼女らは振り返った。
「マルクだわ」ヌリハンが言った。
 マルクは彼女らと顔を合わせなかった。彼はそのままキッチンへ向かった。
「疲れてるのよ」ヌリハンが言った。「殆ど毎晩コンサートだし」
「あら、それじゃ誰がコンサートに行ってるか見ておかないとね」とハヴァ・フォルトゥズィが言った。「誰も彼も俗物[訳註;原語はzorzopët]ばかりで、泣きたくもなるわね」
 マルクは彼女たちの声を聞いていた。そんな風にして何年も前から聞いてきたのだ:ささやきや、半分だけ声に出した呪いの言葉や、フランス語やイタリア語の単語や、物価に対する不平や、奉仕活動のことや、住居会議のことや、他の男や女を「同志」と呼びつつ嘲笑することや、侮蔑や、それから不安、不安、不安だ。勘弁してくれ、もう何も言わないでくれ。ブレルの監獄が忘れられない。第73条[訳註;「人民権力に対する煽動及びプロパガンダ」に対する罰則を定めた「アルバニア人民共和国刑法」73条を指す。平時で3~10年の自由刑、戦時には10年以下の自由刑または死刑。なお1976年に国名を「アルバニア社会主義人民共和国」に改めて以降の刑法では55条に当たる]。わかってる、わかってるさ、俺はかつてその監獄にいた、それからジロカスタルの監獄に送られたんだ。お前も憶えているだろう、ルシュニャのことだ、俺たちは数珠つなぎに並ばされた、とかの哀れなチェラムディンは語ったものだ。勘弁してくれ、もう何も言わないでくれ。神よどうかお慈悲を、俺たちをここから救い出してくれ。もう何も言わないでくれ、こんな悲惨な目に耐えられるものか?お前の言う通りだ[訳註;原文ke hakは直訳すると「お前が報復する」だが、ここでは「見返りを求める」「言い分が正しい」という意味の慣用表現]、耐えられやしない。ラジオで何か聞いてるのか?ああ。だが声が大きい。まだ大きいぞ。それから後は何もかも元の黙阿弥になって[訳註;原語thërrmohejは「砕け散る」、転じて「ダメになる」]、ほこりくずのように散って、溜め息に姿を変えてしまい、やがてまた何かしら別のことを会話し始めるのだ。思い出すのは隠し絨毯に、宝石に、羊毛製品に、燭台に、水晶に、銀のスプーンに、指輪に、シャンデリア。誰かが泣いている:自分は隠し絨毯を誰それに託したのに、今になって返してくれない、という。あの嘘つきの恥知らずめ、にやにや笑いながら、こうも言ったのだ:もう何年も経ちましたし、私だって危ない思いをしてきたんですからね、こいつはもう私のですよ、だと。何処に訴えればいい、どうやって訴えれば、どうやって証明すればいい?おお、おお、おお!我々はこれでおしまいだ。するとまた別の誰かがこう言った:アルバニアがアルバニア人に仇なすことになるだろう、と。シッ!声が大きいぞ。いやもう無理だ、もう黙っていられない、もうおしまいだ、死にそうだ、気が狂いそうだ。なら喚いてろよ、負け犬め、喚いてろよ、73条を忘れたか:人民権力に対する煽動及びプロパガンダだぞ。畜生め!そして会話は元に戻るのだ、絨毯、仲買商、ロク・スィモニャクの骨董屋、ハンチェ・ハイディエ・ペザの御託宣、スペードのクイーンにクラブのエース[訳註;原文では「黒のエース」だが、ここでは独訳に拠った]、待ち受けるのは二つの凶報と、そして一つの吉事、パーセンテージ、金の暴落。時には互いの妬み嫉みが溢れ出すこともあった:誰それは娘を共産主義者と婚約させた、とか誰それはいい職にありついた、とか。嫉妬の後には根も葉もない中傷や、噂話、そしてまた溜め息、仄かな希望、それも弱まり、消え去る、暗闇と、真っ黒な絶望。
 落ちぶれた階級か、とマルクは思った。彼もそこに属していた。突如として落ちぶれた、宴会用の長いテーブルだ。料理の皿も、燭台も、ワイングラスもひっくり返されて[訳註;この段落の冒頭で「落ちぶれた」と訳している原語përmbysetは本来「転覆する、引っくり返される」の意]、足元の絨毯には血と灰が流れ、頭に傷を負い倒れたその両手は、分厚い紫のヴェルヴェットカヴァーを摑もうとしていた。
 今日、隣の部屋から聞こえる声は、いつにも増して活気に溢れていた。あれはきっと何か聞いたに違いない。ゆうべ遅くまで、ヌリハンはラジオの前を離れなかった。向こうで・・・モスクワで、何事かが起こっている。マルクは彼女たちの会話に加わりたくなかった。随分前から、あの際限ないおしゃべりには愛想が尽きていた[訳註;原語qe zvjerdhurは「乳離れしていた」]。飽き飽きだった。うんざりしていた。それでも、起こった事は余りにも特別なことに違いなかった。
 マルクは立ち上がった。いつも頭の中から危ういものを追い払おうとするたび、彼はチェロを手に取り、家の中の奥まったところへと引きこもる。チェロは、マルクとその人生とをしっかりと繋ぎ留める拠りどころ[訳註;原語grremçは「かぎ、フック」]のようなものだった。それはオペラ[訳註;1960年にティラナ市中心部に出来た国立オペラ・バレエ劇場(Teatri Kombëtar i Operas dhe Baletit)のこと]における彼の安定した仕事であり、収入であり、社会保障であり、将来の年金であり、一言で言えば全てだった。チェロは或る程度までマルクと、マルクの周囲にいる、ありとあらゆる勤め先[訳註;原語zyrëは「事務所、勤務先」だが、独訳や仏訳では「中古品店」]をうろつき回って顔馴染みになった挙げ句、今となっては翻訳事務所やタイプ室で臨時の仕事を見つけるか、或いは外国語の家庭教師を求める客を見つけようと右往左往するような人々とを隔てていた。マルクは運がいい、国の仕事にあるつけるなんてねえ、と訊ねて来てはそう語る人々の誰もが自分達の嫉妬を隠そうともしなかった。あんたたちは運がいい、あんたたちはずっとうまくやり抜けてきた、と。そして誰もが、クリュエクルト家[訳註;本文中では明示されていないが、ヌリハンやマルクの姓がクリュエクルト(Kryekurt)]に幸運をもたらした、かの遠方からの客人が、あの11月の夜に自分たちの家のドアをノックしなかったことを残念に思うのだった[訳註;アルバニア共産党系の反ファシズム民族解放軍がドイツ軍を駆逐し首都ティラナ市内に入ったのは1944年11月28日。ちなみにエンヴェル・ホヂャと対立していたコチ・ヅォヅェ内相(当時)が「親ユーゴ派」として逮捕されたのは1948年11月28日]。だが確かに、あの客人はノックしなかった。マルクはよく憶えていた。確かに、あの見知らぬ男はドアの前で倒れて、それから必死で足を引きずって数歩進み、地下室の窓のところまで辿り着いたのだ。外では戦闘が続いていた。パルティザンはゆっくりと、ティラナ中心部へ前進していた。もうおしまいだ。一家は皆、数日前から地下室の中で、全財産を詰め込んだ袋と、祈りと、ため息と、そしてエミリアの夫のように国外へ出なかったことへの悔恨の中、息をひそめていた。午後になっていた。と不意に、地下室に一つしかない窓がぱっと薄暗くなった。彼らは頭を上げ、恐怖した。そこには人の背中があった。あれはきっと戻って来たのだ、鉄格子の間から銃筒を突っ込んできて、自分たちの上に銃弾を浴びせるのだ。恐怖は長く続いた。それから彼らの目、恐怖で見開かれた彼らの目が気付いたのは、その人影が全く動かないことだった。きっと死んでいるのだ。でも何だって、うちの窓までやって来て死んでいるの?エミリアがそう言った。自分たちが殺したと言われるだろう。しかし彼らにはまだ、この人物が誰なのかが分からなかった:ドイツ兵か、パルティザンか、バリ派[訳註;第1部でも書いた通り、「バリ」は反ファシズム民族解放戦線と対立していた民族主義系の解放組織「バリ・コンバタール(Balli Kombëtar国民戦線)」をさす]か、それとも何処かのいかれた[訳註;原語kokëkrisurは直訳すると「頭が割れた」、転じて「愚かな、無謀な」の意]通りすがりなのか。すると突然、その人影がうめき声を上げた。彼らが耳にしたのは、彼が水を求める声だった。彼は「同志、水を」と言っていた。パルティザンだ、と誰かが言った。彼らはしばらく考えていた、彼にどうしてやったらいいのかと。もしこの人を中に入れてやらなければ、後で後悔することになるわ、とエミリアが言った。もしあの人達が戦争に勝ったら、この人はいつかの朝にここへ来て、うちを指さしてこう言うわ:ここの連中は俺が死にかけていたのに水もくれなかった、って。そして水の代わりに血を求めてくるわ[訳註;つまり戦後に復讐されるだろう、ということ]。でも、私たちがちょっとだけでも助けてあげれば・・・その夜、エミリアはマルクと一緒に、その怪我人を中へ引っ張ってきた。それは若いパルティザン兵で、顔は血の気が失せ、髪の毛は血と砂埃でごわごわに固まっていた。四日間、怪我人は地下室に留め置かれた。そのパルティザン兵はずっと意識を取り戻さないままだった。五日目の11月17日、ティラナは静寂に包まれていた。戦闘は終わっていた。エミリアとマルクは町じゅうを駆け回り、パルティザンの本部は何処かと訊いて回った。至る所に死体が転がっていた。マルクはひっきりなしに吐き気に襲われた。そのパルティザン兵は仲間たちによって担架で運ばれていった。マルクとエミリアと、隣人の一人がその一団と一緒に病院まで付き添った。道すがら、彼らはことの次第を何度も語って聞かせた。それは病院でも同様だった。そして本部でもまた同じであった。彼らが戻ってきた時、ヌリハンは胸の張り裂けそうな思いで帰りを待ちわびていた。エミリアの目は輝いていた。お前、何かもらってきたのかい?うん、うん、うん、ほらここにあるわ。それは小さな紙切れで、そこにペン書きで、間違いだらけのひどい字体で、こう書かれていた:『ファシズムに死を、人民に自由を[訳註;反ファシズム民族解放戦線における兵士間の挨拶。戦後も一般人の間で用いられていた]。証明書。ブルジョア家庭であるクリュエクルト家はティラナにおける戦闘中、負傷した我が兵士、第三大隊、第一中隊のルルズィム・シェロを介抱したことをここに証明する。留意されたい。国際ブルジョアジー打倒!第一旅団、第三大隊、第一中隊司令部』ヌリハンは、自分が今までこれほど重要な証明書を手にしたことはないことを理解した。それから数日間ずっと彼らは連れ立って、食べ物や花を持って病院を訪れていた。そのパルティザン兵はずっと、まだずっと意識を取り戻していなかった。何だか私たちあの人につきっきりねえ、とエミリアは病院の入口で言った。あの人がまるで家族の一員か、息子みたいだわ。どれぐらいでよくなるかしら、ああ、あとどれぐらいでよくなるかしら。いつになったら意識が戻るのかしら。またあの人の声が聞けるのかしら。私たちが聞いたのはあの夜の、うわごとのように言ったことだけだったし。とそんなことをエミリアは喋っていた。だがそのパルティザン兵は死んでしまった。エミリアは泣いた。彼らは本気で彼が回復するのを、そして自分たちの家に来て、皆に会って欲しいと望んでいたのだ、彼が来てくれれば、それこそが暗黒の夜空に輝くただ一つの星、彼らにとって最後の希望になったことだろうから。ところが死んでしまったことで、彼は生きていた時よりも強力な存在となった。今やそのパルティザン兵の生の終わりと、ペン書きの証明書によってその死は独特の重みを持つようになっていた。それは計り知れない価値を持つ書類であり、委任状であり、遺言状であり、小切手であり、為替手形だったのだ。それのおかげで彼らは家の一階[訳註;第1部で描写されている通り、ヌリハンらが住んでいるのはベスニクの家族が住む集合住宅の1階]に住み続けることができ、税金の支払いも三分の一になり、マルクを音楽学校に通わせ、そしてオペラという良い職に就かせられたのだ。まさしくそれのおかげで、履歴書や申請用紙や経歴に関する陳述の末尾にこう書き添えることができたのだ: 『我が家は大ブルジョア階級に属し、人民大衆を搾取していたにもかかわらず、民族解放戦争を支援しており・・・』
 マルクは窓際に立ち、チェロの糸倉のところに顎を載せていた。血と砂埃でごわごわに固まった髪の毛を、彼ははっきりと思い起こしていた。しばしば疲れた時には、コンサートホールがゆっくりとうねるように、少しずつ形を変えていき、そして彼の眼前の、ボックス席のヴェルヴェットの赤色が彼に、あの見知らぬ男の血まみれの髪の毛を思い起こさせるのだ、言ってみれば彼がボックス席の何処かに額をもたせかけて、彼の髪が下まで垂れ下がっているかのように。あれが彼の運命であり、彼の音楽だったのだ。彼についての記憶は、絶えず続く苦痛だった。まるでいつか、いつの時か彼がその顔を上げ、こう言ってくるような気がしたからだ:なあ、役に立っただろう、おい?
 マルクはチェロを壁際に立て掛けた。外は薄暗くなっていた。雪模様だった。家の外の階段を、ザナが婚約者の男と降りていくところだった。しばらくの間、マルクは薄暗い二人の背中を目で追っていた。きっと劇場か、さもなければカフェへ行くところだろう。そんな風にしてマルクはいつも、年末に彼らが階段を降りていくのを眺めていた。彼の広い背中と、その彼に寄り添うように、特別なしぐさで傾けられた彼女の背中との間には、二人の覆い隠された秘密と情欲とが一つに編み込まれて[訳註;旧版では「誠実さと性が額縁で切り取られて」と絵画の比喩になっており、仏訳や独訳もそれに倣っているが、決定版では刺繍を思わせる表現に書き改められている]いて、それは彼を苦しめる四角形となり、絶えず遠ざかっていく。それこそが、マルクにとって最も重苦しい孤独の瞬間だった。彼は28歳だったが、その女性関係は今に至るまで貧弱そのものだった。彼は内気で臆病な男だった。パルティザン兵の血まみれの毛髪は彼のよりどころとなり、仕事へと向かわせるには充分なものだったが、それ以上のこととなると力尽きてしまうのだ。彼は自分が世間に対する臆病さを乗り越えることなどこれっぽっちもできそうにないと感じていた。それはゆっくりと形づくられてきたものだ、何年にもわたって隣の部屋でついてきた溜め息と、小声でつぶやいた愚痴と、時として呪詛の言葉と、それら全ての帰結なのだ、そして呪いの言葉の後には不安が、曲がり角でブレーキをかける車の全てと、ありとあらゆるものに対する不安がやってくるのだ。
 いつもうやうやしく、彼はザナに会釈して挨拶していたが、それは正面玄関で偶然出会った時であったり、或いは彼女が時々、いやたまに、ごくたまに、年に二、三度、春になると階下へ降りて来てエミリアに海水浴シーズン用の水着を頼みに来る時であったりした。彼女は上品な女性だった。それだけで彼が彼女を恐れるには充分だった。夏になって、彼女が夏物の薄手のスカート姿でヴェランダに座り、何を気にする風でもなく、陽に肌を焼いている時、彼は罪悪感に苛まれていた。まるで自分が彼女のことなど決して、決して思っていないかのように振る舞わなければならないという気持ちになっていた。それでも内心ではザナに惹かれていた。最近ではそれが憂鬱になっていた。その憂鬱さは彼女へと向けられた。憂鬱だと感じながら、彼は彼女に一層惹かれていた。その憂鬱さの中で彼は、彼女が婚約する少し前、両眼の下に青黒い輪が出来ているのを初めて見た時のことを思い出した。まさにあの時、彼は彼女に対して初めて強く惹かれるものを感じたのだ。それは春のことだった。ザナは何度か階下に降りて来ては、エミリアのところで水着を試着していた。その試着に来ることが、まさに彼の想像力に対する刺激となった。或る時、二人が出かけたのを見すまして、マルクはミシンの置いてある部屋へ入った。水着はその場所に、無造作に置いてあって、殆ど出来上がっており、最後の試着を終えた直後だった。近寄って、その水着を手に取ると、まだ彼女の温もりが残っているような気がして、思わず、何も考えぬまま、それを自身に強く押し当てた。自分のしていることが低劣な行為だと分かっていたが、マルクはもうずっと以前からそんな自分の低劣ぶりに慣れ切っていて、そればかりか、いつの間にかその低劣さにこそ満足を感じるようになっていたのだ。
 あの婚約者がモスクワから帰ってきてもう数週間になるが、彼女は憂鬱そうに見える。恐らく、彼は彼女に向こうでの出来事を話したのだろう。恐らくそれは、二人にとって重大なことだったのだろう、とマルクは思った。
 隣の部屋では客たちの会話が続いてまだずっと続いていた。あの連中の考えることはいつも同じだ。彼はこの種の会話におけるありがちな段階を心得ていた。きっと今頃、彼らは拳で胸を叩き、没落の到来を夢見ている段階だろう。