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イスマイル・カダレ 『大いなる冬』

第2部 城の客人

1
 空港はまだ見えなかったが、近付いている感じはしていた。車の中からザナが覗くと、アンテナの先端が一本と、冷え切った平野のそこかしこで弱々しくまたたく眠たげな灯りが数本と、管制塔と、そして滑走路の一部と、遠くにちらほらと飛行機の翼が見えてきた。それら全てが金属の、また同時に鳥による何ものかを象徴しており、天空と大地との間につながりがあることを、まさしくその場所で示しているのだった。
 ザナはため息をついた。長く伸びる濡れた滑走路や、アンテナや、またたく灯りが、その暗闇の中で何か近寄りがたいものを呈していた。彼女は外を見つめたまま、まるでそこにいることを確かめようとでもするようにベスニクの首筋に手をやった。そして、いつか別れのない空港というものができるのだろうかと思ったが、そんな思いはたちまち意識の中に溶け込んでいった。そしてそんな馬鹿馬鹿しくも心地よい思いが、一日の間に幾百も、彼女の中に溶け込んでいくのだった。
 車が停まり、ベスニクらは空港前のアスファルトの舗道に降りた。運転手が荷物を取り出すと、三人はできるだけ早く税関に入ろうと、雨の中を急ぎ足で歩いていった。彼らの後で、別の車二台がブレーキをかけ停まった。税関にはそれほど人がいなかった。ベスニクはパスポートと航空券を渡した。手続きは簡単なものだった。
 運転手は車に向かった。ベスニクとザナは待合室に入った。ドアからは絶えず人が出入りしていた。
「何にする?」
ベスニクは空いたテーブルの一つにつくと、そう訊ねた。ザナは、ベスニクが何の言葉を喋っているかまるで理解できないといった風で、彼をじっと見つめた。ザナの眼の下に、小さな薄暗い陰が二つ見えた。ベスニクにはそれが、頻繁な愛の営みによって生じたものであるように思われた。すると不意にその二本の帯が、驚くほどはっきりと、二人のつながりを示すいじらしいまでの、そしてたった一つの証明であるように見えてくるのだった。
 ザナは、外で雨に濡れる大型旅客機を見つめていた。誇らしげに伸びる翼と、高く突き出た尾翼のその姿が、何故だか必要以上に物悲しげに見えた。
 待合室には絶えず人が出入りしていた。ベスニクは、閣僚二人と中央委員会の委員一人が入ってきたのに気付いた。彼らは揃ってコーヒーを注文した。
「ひどい天気ですね」
彼らの一人があとの二人に話しかけていた。
 ザナは、巨大な飛行機から視線を外さないままだった。それはまるで十月のように灰色だった。別れに灰色以外の色なんてあり得ない、そんな思いが彼女の中に閃いた。ザナは今、ベスニクという名の人物と二人して椅子に腰掛けている。この地球の一箇所の上で、周囲にはホールもなく、壁もテーブルもなく、ドアもなく、空港の時刻表もなく、ただ終わりのない平面、凍てつく冬の広大な平原があるだけ。そして彼は北東のどこかへと身を移す。この場所に、この裸の大地に再び戻ってくるために。
「何考えてるの?」
 ザナは微笑むだけで、何も答えなかった。ドアはひっきりなしに開閉を繰り返し、そのたびに冷たい空気が流れ込んでいた。空港ホール内には今や人が溢れていた。その中にベスニクは、アルバニア語学者シュナイダーの姿を見つけた。髭面のチェコの地理学者が数人、コニャックを飲んでいる。ベスニクが時計に目をやった時、ひび割れた声が聞こえてきた。
「ティラナ発モスクワ行きは15分後に出発します。乗客の皆様は滑走路へお越しください」
[訳注;リナス空港には旅客機の機体と待合室を直結する通路のようなものはなく、乗客は徒歩で機体タラップの前まで移動していた]
 ホール内に足音や、カバンを床に置く音や、人々の会話やため息が揃って響いた。一同は出口に集まっていたが、どうしたわけか、外へ出ようとはしなかった。乗客らは首を伸ばし、つま先立ちしながら、どうして先頭の乗客たちが外に出ようとしないのか訊ねていたが、何の返事もなかったので、カバンを床に置くと、タバコの入った箱を探すのだった。
 外では雨が降り続いていた。ザナは窓ガラスのすぐそばに立ったまま、ただ遠くをぼんやりと眺めていた。そのうち、「エンヴェル同志だ」「エンヴェル同志だ」とあちこちでささやく声がして、全員の顔が雨に濡れたガラス窓にぐっと近寄ってくる気配がした。それはまさしくその人だった。大きく丈ての長い、黒のコート姿で、これまた大きめのボルサリーノを被り、雨の中を飛行機へ向かっていく。その後から、少人数の集まりが続いていた。
「エンヴェル同志が行くところかな?」ベスニクの耳元で誰かが訊ねた。
「それとも代表団の出迎えだろうか?」
ベスニクは肩をそびやかした。
「さあどうだか」
「今から乗るところのようだよ」
 確かに彼は飛行機に乗るところだった。タラップの両側をつかみ、ゆっくりと飛行機のドアへ歩を進めている。タラップの最上段までたどり着くと、ふいと振り返り、空港の方に手を振って挨拶を送ったが、すぐさま身をかがめて機内へと姿を消した。他の者たちもその後に続いた。
 タラップはしばらく雨に濡れるままに置かれていたが、やがて他の乗客たちも急ぎ足でそこへ向かい出した。空港出口のところで職員二名が手早くパスポートをめくり、乗客たちは知人らと挨拶を交わすと、足早に敷地を歩いていく。
 ベスニクは空いた方の腕でザナを抱き締め、ザナはベスニクにキスをした。
「気をつけてね」
彼女は小声で言った。
 ベスニクは雨に濡れた敷地を歩きながら、たびたび後ろを振り返りたい気持ちに駆られたが、飛行機の金属製タラップが思いのほかすぐ前の前に姿を現したので、そこを上り始めた。タラップは吹きつける風と細かい雨粒を受けて、小刻みに揺れていた。タラップを上りながら、ベスニクは後ろを振り返ってザナに手を振りたいと思ったが、しかしタラップの先まで来ると、そこには飛行機の卵形のドアが、黒く、まるで彼に向かって口を開き、呑み込もうとでもするように待ち構えているのだった。
 機内は中くらいの静けさだった。かすかな物音と、衣ずれと、ささやく声で満ちていた。ベスニクは窓際の座席に腰を下ろしたが、空港の建物が反対側の翼の方にあることに気付いて、また立ち上がった。丸い小窓から覗いてみると、見送りの人々がまだ手を振っていた。まるで無声映画のようだった。
 ベスニクの近くの席にチェコ人の地理学者二人が座ったが、すぐに別の知り合いが二人を見つけて声をかけた。もっと良い座席があったらしい。アルバニア語学者シュナイダーがそば通り、その後をロシア人女性が二、三人、子供の手を引いて通り過ぎた。そのうち、さっきのチェコ人たちがいなくなった後の席に誰かが座った気配がした。ベスニクが振り返ってみると、肩幅が広く、髪を短く刈った男が一人、こちらを親しげに見つめていた。
「こりゃ素敵だ」
男はそうつぶやくと、カバンを両足の下に押し込んだ。そしてベスニクに何か言いかけたが、ちょうどその時エンジンがうなり出した。見送る人たちの手の動きも激しくなった。乗客らの誰もが窓の方に身を寄せた。飛行機は動き始め、そして左右に揺れながら、ゆっくりと滑走路へと向かっていく。空港の建物も、管制塔も、アンテナも、何もかもが命令されたように回転し、そして視界から姿を消した。
 飛行機のエンジンはさらに力を増して、うなり声をあげた。機体がぶるぶると震え出した。エンジンのうなりは悲鳴へと変わったが、それがまさしく頂点に達した時、金属の肺腑の中で、それはさらに激しくかん高い悲鳴と化した。まるでこの大きな空飛ぶ機械は、最後の瞬間にその悲惨な痛みを覚えることなしには、大空へ舞い上がれなどしないかのように思われた。
 そして実際、飛行機が滑走路上にたどり着くとすぐさま悲鳴は激しさを増した。コンクリートから車輪が離れるのを感じると、飛行機の巨大な体躯はふわりと、思いからも解き放たれたように軽くなり、そしてほどなくすると、飛行機と大地のはざまには、深い裂け目が急速に広がっていくのだった。そして飛行機が雲の中に入ると、エンジンの音はずっと聞こえにくくなっていった。やがて雲が下方に退くと、エンジンはまどろみの中に落ち込んだように思われるのだった。
 ベスニクは、雲が置き去られていくのを眺めていた。自分自身の中に、巨大な静けさが広がっていく。それがひとしきり続いた。ベスニクはうとうとしかけたが、その時、隣から話しかけてくる声で我に返った。
「君、代表団の人だね?」
「ああ」ベスニクは答えた。
「どこか中央の部局勤めかい?」
「新聞記者さ」
「ああ、なるほど」
相手は少々驚いた風だった。
「たぶん、通訳を受け持つことになるだろうが」ベスニクは答えた。
 相手はうなずいた。青く、温厚そうな瞳をしていた。
「で、君の方は?」ベスニクは訊ねた。
「僕も代表団に同行していてね。ワルシャワ条約機構の加盟国経済評議会の仕事をしていのさ」
 ベスニクは少々驚いて、相手を見つめた。この人物に、国家間の条約を想い起こさせるようなものが何一つ見当たらなかったからだ。それでこうした疑問点を確かめるべくベスニクは、他の状況であればまず許されそうもないような質問をすることにした。
「ソヴィエトの小麦の件はどうなんだい?」
ベスニクはそう訊ねた。
「ソヴィエトの小麦?」
条約の男は目を見開いた。それほどに出し抜けな質問だった。彼はベスニクを見つめ、一瞬だけ暗い顔になったが、自分たちが地面から遠く離れていることを確かめようとでもするように外を眺め、そして不意に、余りにも不自然な態度で、こう答えた。
「我が国は、フランスから小麦を買ったよ」
「そういう話なら、聞いたことがある」
ベスニクは言った。彼は本当にそういう話を耳にしていた。相手は、ベスニクの言葉を聞いて先ほどよりもずっと安心したらしく、言葉を継いだ。
「金と引き換えにね」
 二人は再び互いを見やった。
「小麦の中にまだ何か隠れていやしないだろうか?」
ベスニクは相手から目を離さず、そう訊ねた。だが手遅れだった。条約の男はすっかり落ち着き払っていた。
「別に不思議なことなんかないさ。不思議なことなんて」相手は言った。
「小麦の中にはいろんなものが紛れ込んでいるものさ。六月に小麦畑を歩いてみたことがあるかい?」
「笑いごとじゃないよ」ベスニクは言った。
「こっちは真面目に聞いてるんだぜ。あの人がネズミについて話したことを知ってるか?」
「ネズミだって?」
相手が訊き返した。つい数分前まではただただ呆気にとられていた瞼や肩先や眉が、今や満身の驚きを表すように動いていた。
「ネズミがどうしたっていうんだね?僕は何も知らないよ。いや失礼、知っていることはあるさ。ペストが流行る時にはネズミが出てくるとか、それぐらいのことはね」
「からかってるのか?」
ベスニクは苛立って相手の言葉をさえぎった。
「いやとんでもない」相手は答えた。
「君がネズミのことをお訊ねになるからこっちも答えたまでのことだよ。どうやら君はとうにご存知のようだが」
「こっちが知っていることを教えてもいいんだぜ」
ベスニクは言った。そして
「僕は口にすることを恐れたりなどしないのだからね」と言い添えた。
 相手はベスニクを見つめたままだった。その凝視する瞳の中には、これっぽっちの好奇心も見られなかった。
「僕が訊きたいのは、我が国が一体どれだけの小麦をフランスから購入することになっているのかということだよ。そこで思い出したのがフルシチョフのネズミ話だ」ベスニクは言った。
「フルシチョフのアルバニア滞在中に、この耳で聞いたんだよ。あの人はこう言っていた。アルバニアが一年間に作る小麦の量は、ソヴィエト連邦の穀物庫のネズミが食べきれる程度のものだとね」
「いやこれは驚いたな」相手が言った。さらに「まったく驚きだ」と繰り返したが、その瞳の中に何の驚きも現れていないことに気付くのは、さして難しいことではなかった。
 しばらく二人は無言のままだった。ベスニクは外を見ていた。
「おや、やっと食事か」
と、ほどなく相手はそう言うと、楽しげに掌を擦り合わせた。
 なるほど確かにスチュワーデスが食事を運んできた。相手の男は食事のことに全く触れていなかったが、ただしきりに「こりゃ素敵」と、ひとり繰り返していた。
「今どの辺りかな?」
しばらくして相手が訊ねてきた。
 ベスニクは肩をすくめた。雲の切れ目から、ぼんやりと輪郭らしきものが見えた。地面らしい、もう一つ
下にある雲の層でなければの話だが。
「ロシアとウクライナの間のどこかだろう」
ベスニクは言った。
「果てしなき大地か」相手が言った。そして長いこと下の方を眺めていたが、やがて深いため息をついた。
 ベスニクは、再び眠気におそわれ始めた。
「君、さっきペストについて話していたが」
と相手が喋り出したので、ベスニクは急に我に返った。
「ペストの話なんかしてないぞ」ベスニクは言った。「僕はネズミのことを言っただけだ」
「ネズミもペストも同じことだよ」相手は話を続けた。
「別に、大したことじゃないだろう。それともこっちが先に言ったんだったかな。いや話が逸れてしまったよ。少し前に読んだ本のことを思い出してね。正直なところ、作者も本の題名も思い出せないんだが。確か、完全な本ではなかったような。いやいや、正確に言うとね、それは破れたページだったんだ。そいつは、農夫から受け取ったさくらんぼの包み紙だったんだよ。それで、さくらんぼを食べ終えたのでその包み紙も捨てようとしたんだが、何となく二行ばかり読んでいるうちに、すっかり釘付けになってしまってね。その本のページには、ペストの流行の話が書いてあったんだよ」
「ペストの本なんて幾らでもあるだろう」
ベスニクは面倒そうに答えた。 「いやそれがね、そうじゃなかったんだよ。それは馬のペストの話でね」
相手はベスニクに肩を近付けて、地面のある方を指差した。
「ほら、この下だよ、この下の、ヨーロッパとアジアの境の辺りで、その馬ペストが蔓延していたというんだよ」
 ベスニクは首を動かさぬまま、下の方に目をやった。
「モンゴル人たちがどこまでも続く軍団を集めてヨーロッパを制圧しようとしていた時のことだ。大陸全体が震撼し、何もかもが荒廃していたその時、最後の瞬間に、突如ペストが流行り出したというんだね。馬はばたばたと倒れ、モンゴル人の指揮官たちはテントの入口に立ったまま、不安げに、遠く、もやに満ちて何も見えない地平線を見つめていた。とそういう風に書いてあったんだよ」
 ベスニクはまだ窓の下を見ていた。雲の表面は均一なものに見えた。スピーカーから女性の声が聞こえた。
「当機は間もなくモスクワ・ヴヌコヴォ空港に到着いたします。皆様、どうぞベルトをお締めください」
[訳注;ヴヌコヴォ国際空港(Международный аэропорт Внуково)はモスクワに現存する最も古い空港]
 着陸には随分と長く時間がかかった。機体は今にも粉々に砕け散りそうに揺れた。翼の上に戻ってきた水滴がきらめき始めた。雲が猛烈な速さで退いていく。まるで巨人が一人、すぐそばで荒れ狂って咆哮しているように思われた。やがて、大きな雲の裂け目から滑走路と、緑や紫の信号灯が急速に近付いてくるのが見え、そして思っていたよりも早く、飛行機の大きな体は大地に触れた。乗客らの足元で、モーターの唸りが消えていくのがわかった。飛行機はおとなしくなって、既に空港の建物に近付きつつあった。
「やっと着いた」条約の男が言った。そしてすぐに
「いやもう何度目かなあ、こういう旅は」
と付け加えた。
 ベスニクは相手に何か言おうとしたが、頭の働きが鈍くなっていた。
 機体に金属製のタラップが接近していた。ベスニクは窓に顔を近づけて、エンヴェル・ホヂャが降りていくのを見ようとした。代表団の団員がもう3人と、数人の随行員が後に続いた。そうこうする内ベスニクは機内から人がいなくなっていることに気付いて、出口へ急いだ。タラップでは風が出迎えた。刺すような冷たさだった。ベスニクは襟を立て、手すりを掴むと、急ぎ足でタラップを下りていった。左右に『エール・フランス』『エア・インディア』『KLM』の大型機が見えた。空が国際社会ごとに分断されているようだ。ベスニクは自分が微笑している気がした。こんなにも早く自分が通訳としての役割に入っているとは。それも、航空会社の名前などという、普通なら誰も翻訳しないようなものを訳しているのだから。
[訳注;『エア・インディア』は原語ではAir of IndiaだがおそらくAir Indiaの誤記であろう]
 ベスニクは足取りを速め、空港の建物へ向かう代表団に追いついた。彼らは皆、襟を立て、手に提げたカバンは尋常ならぬほどに大きく、黒く、また重たそうに見えた。無言の足取りだった。ひどく寒かった。ふとベスニクは思った。
『この大いなる友好国の首都で、この到着の仕方はどうしたことだろう・・・カメラマンもいなければ、映画の撮影班も、花束を手にしたピオニールもいない。ただ、黒いカバンと、押し黙った足音があるだけだ』

 モスクワ方向へ向かう車列は、今まさに市街地へと入るところだった。陽は急速に傾いていた。車道の両側の雪の塊が、陽光の命を少しばかり延ばそうとしていたが、それも時既に遅しであった。全てが灰色に包まれ始めていた。孤独な松の樹にも、列車の駅にも、沼地にも窪地にも、至るところで、今まさに夜が下りてこようとしていた。
 代表団の一部が宿泊する二階建ての屋敷の正面玄関に足を踏み入れると、屋敷の周囲を取り巻く雪は奇妙な沈黙を守っていた。まばらに並んだ樹々は、その雪の中、長らくの孤独を受け入れていた。
 一階と二階の部屋の扉や、木造の階段や、廊下の扉が絶えずギシギシと鳴っていた。代表団の内技官たちはホテル「モスクワ」へ向かった。二重窓のガラスに氷が張っていた。
[訳注;ホテル「モスクワ」(Гостиница Москва)はマネージ広場に実在するホテル。但し作品当時の建物は解体されている]
 代表団が逗留する二階から、団員の一人が降りてきた。彼はしばらく外を眺めていたが、その内部屋の一つに入っていった。
「ちょっと同志諸君、集まって欲しいんだが」
彼は最初に目が合った相手に話しかけた。
 団員らが集まってきた。長テーブルの周りに腰掛ける者たちもいれば、窓際に立ったままの者たちもいた。余りにも深い沈黙が支配していて、それは口を開きかけた一人がはっとして顔を上げるほどだった。
「さてと」
彼は、その沈黙の重みを打破しようとするかのように、やや無造作な口ぶりで言うと、微笑んでみせた。しかし沈黙は先程と変わらず重いままで、それは容赦のないものだった。皆が待ちかねているのは明らかだった。目を向けると、一同の凝縮した視線とぶつかった。彼は深く息をついた。
「ええ、さてと、同志諸君」彼は言った。
「本日、諸君も目にしたように」
とそこで彼は再び口を閉じると、自分が探している言葉が出てくるのを待つように、指先でテーブルを叩いた。
「諸君も目にしたように、我々がソヴィエトから受けているこの対応は・・・」
 テーブルを叩くその指先は、強く、苛立ちを帯びていた。やがて彼は、ようやくうまい言葉を見つけ出して解放されたように、手を上げると早口で言葉を継いだ。
「ええ、諸君も目にした通り、我が国とソヴィエトの関係は冷え切っている」
 そう言って彼は再び一同を見回したが、彼らの目には何の動揺も見られなかった。おそらく皆そんなことはとっくに知っていたし、それは当然なことだし、この雪の中ではその冷たささえも容易に感じ取ることができるものの一つだという思いもあっただろう。
 彼はまだ何か言わなければならないと感じていたが、それは難しい、とても難しいことだった。目の前には新たな敵意が広がっていて、それは余りにもとらえどころがなく、また理解しがたいものであったため、それを言い表すに充分な言葉が何一つ思い浮かばなかったのだ。彼がそれまでに発した言葉はことごとく逆に作用していた。思いもよらぬ事態に言葉が麻痺してしまった彼はその刹那、外国語で喋る方がまだ楽なのではないかとか、また実際そのようにしたとしても不真面目ととられる心配はあるまいと考えていた。
 ようやくのことで、彼は深く息をつき、そしてこう言った。
「同志諸君に一つ、是非とも知っておいて欲しいことがある。今夜、我々に友人を迎える用意はない。だが我々は、歴史を前に冷静な思考を保たなければならない。彼らは既に着手しているのだ」
 そう言って彼は、まるでその『彼ら』がすぐそこにいるかのように窓の外を指差した。
 外は夜になっていた。人気のない敷地内を見ると、樹々がもとあった場所から少しばかり動いて屋敷に近付いているような気がした。そこには大いなる断絶があった。
 ベスニクは、北部のと或る村の小道のどこかに、似たような樹があったのを思い出した。その当時彼は取材班に加わっていたのだが、その中の一人が車の窓から手を出してこう言ったのだ。
『あそこにある植物が見えるかい?あれはヘレボルスと言って、精神錯乱に利く草なんだよ』
[訳注;原語shpendërは学名Helleborusだが、日本では「クリスマスローズ」の名で知られる。根や茎に毒性があり、かつて欧州では強心剤等として用いられていた]
「諸君も疲れたろう。食事をしたら休もうじゃないか」団員はそう言うと、立ち上がった。
「明日から仕事にとりかかろう」
 彼は木の階段を昇っていったが、途中まで昇ったところで
「おやすみ、諸君」と言った。
「おやすみ」一同は挨拶を返した。
 一同は慌しく食事を済ませた。食堂は地階にあり、厨房では年老いた女性二人が賄いをしていた。
 それから一同は各々の寝室へ引き取った。ひとしきり、床板の至るところで足音が響いていた。
 エンヴェル・ホヂャの護衛係の一人が階段を降りていったが、また戻ってきた。その顔色はどんよりとしていた。
 ベスニクが部屋に入ると、壁際のベッドに誰かが潜り込もうとするところだった。あの条約の男だった。ベスニクは服を脱ぎ始めた。
「おやすみ」彼は言った。
「おやすみ、同志」
 相手はすっかりおとなしくなっているようで、シーツを整えるのに余念がなかった。そうして電気を消すと横になった。
 それから随分と時間が経ったが、ベスニクはなかなか寝付けなかった。扉の向こうで、誰かが、ひっきりなしにかすかな足音をさせている。階段が物悲しげな音を立てていた。ふとベスニクは、或る小さな町の郵便局で見かけた、やぶにらみの男のことを思い出した。男が封筒に住所を書いている間、その視線は完全にあらぬ方に向けられていたが、それは大きな悲しみのために更にずれていくのだった。
 隣のベッドからは、条約の男がひっきりなしに寝返りをうつ音がしていた。彼は二、三度、眠りの中でため息をついていた。ベスニクは何か気を落ち着かせるようなことを考えようとしたが、どうしてもできなかった。思い出すのはただ、どこかの公社で目にした、黄ばんだ壁新聞だった。
 隣の男がまたベッドの上で寝返りをうった。彼は苦しそうに息をしていたが
「何だあのフクロウは?」
と不意に、不満げな大声をあげた。
「さっきからずっと鳴いている、あのフクロウは一体何だ?」
「電話だよ」ベスニクは小声で言った。
「地下室か、さもなきゃ食堂だろう」
「何だ、電話か!」
 確かに階下では電話のベルが度々鳴っていた。
 ベスニクは片方の耳に柔らかい枕を押し当て、もう片方の耳をシーツで覆ったが、それでもベルの音は遠くの方から響いてきた。何なんだ、一体これは何なんだ。彼は何度もそう思った。電話フクロウの鳴き響く声は繰り返し、さらにその頻度を増していた。

眠そうに夜陰のベルを鳴り響かせる

[訳注;シェイクスピア『マクベス』3幕2場のマクベスのセリフ“Hath rung nights yawning peal”のもじり]

 ベスニクは首を振った。自分は誰にこんな話をするつもりなんだ?彼は自問した。一体誰に?

2
 赤の広場のパレードは既に一時間も続いていた。異常なまでの寒さだった。そんな中でベスニクには、広場を通り抜ける終わりの見えない大群衆から、その喝采から、横断幕から、ひらひらと振られる旗から、道行く人々が手にした肖像画から、さらには式典の楽しげな音楽から、何かしらの暖かみが広場にもたらされるだろうという気がしていたのだが、実際はそんなことはなかった。むしろ反対に、あらゆるものが凍てつくのだった。
 来賓たちが座を占めるレーニン廟の壇上右側から、ベスニクは、聖ヴァシーリー大聖堂のそばにはためく旗と横断幕に目をやった。他の聖堂の丸屋根も、広場の近く、或いは遠くの方、クレムリンの城壁の内側と、至るところに見受けられた。ベスニクのいる場所からは見えないものもあったが、彼にはそのアジア風の金ピカがかすかに震えながら、うっすらと消え入りそうな微笑みを、その面に浮かべているように思われるのだった。
 喝采と音楽の中、あちらこちらで色とりどりの風船が舞い上がる。それは奇妙なまでにあの丸屋根にそっくりだった。歴史博物館の前に屹立するフルシチョフの巨大な肖像は、人々の流れの上で表情を変えぬまま、演壇へと近付いてくる。行進の響きは、止むことがなかった。
[訳注;クレムリン宮殿の正面にレーニン廟が設置されており、その北側に国立歴史博物館、南側に聖ヴァシーリー大聖堂と断頭台跡(Лобное Место)、大聖堂の正面にミーニンとポジャルスキーの像(後述)、そして赤の広場を隔てて向かい側に国営百貨店(ГУМ)がある]
 社会主義陣営の中枢の、そのまた中枢部で生まれる思想が、ベスニクの意識を取り囲み、うまく根を下ろせる機会を得ようとしているかに思われた。世界の中心か。ベスニクはそんな自分の思いに没頭しようとするかのように、ひとりごちた。また別の無表情な肖像たちが、向こうの歴史博物館の方に姿を現した。政治局員たちだった。第三のローマだ。ベスニクは思った。ソヴィエトの学校はどこでも、生徒たちはロシアの修道士フィロフェイが予言した幾つものローマの呼び名に親しんでいる。二つのローマは滅び、三つ目のローマは足元にある。そして四つ目はまだない。
[訳注;フィロフェイ(Филофей)は16世紀ロシアの聖職者。モスクワを古代ローマ、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに次ぐ「第三のローマ(третий Рим)」であるとし、ロシアをローマ帝国の継承者と見なす理念を主張、当時のイヴァン雷帝らもこれを提唱した。ちなみにそのイヴァン雷帝が建立したのが、本文にも登場している聖ヴァシーリー大聖堂]
 ベスニクは頭痛を覚えた。あの聖堂の丸屋根たちが皆、周りでのろのろと踊るように揺れ動いていた。第三のローマだ。彼は思った。モスカローマ、いやロムモスクワだ。以前に断頭台だった場所は広場の真ん中で、そのためかつてはその位置を占めていたミーニンとポジャルスキーのブロンズ像を少しばかり脇へどかす格好になっていた。
[訳注;ミーニン(К. М. Минин)とポジャルスキー(Д. М. Пожарский)は1612年、ポーランド・リトアニア連合に占領されていたモスクワを解放した、ロシアの国民的英雄。両者の像は実際、かつて広場の中央寄りにあった]
 ベスニクは、両脚が棒のようになっていく気がした。目の前の行進はまだ終わらない。彼は、行列の最後が見えはしないかと、淡い希望を抱いてつま先立ちしてみた。その行列は一時間も、いやもっと続くような気がした。群衆の頭上の、旗や横断幕の更に上には、色とりどりの風船が舞い続けていた。何とはなしにベスニクは、それを目で追い始めていた。その中の黄色い一つは、フルシチョフの肖像の正面で戯れているように見えた。別に空色の風船が一つ、近くでゆるやかに弧を描いて動いている。その多くは寒さで破裂していたが、式典の喧騒の中では、誰一人気にも留めなかった。ああ、オレンジ色もある。流行りの色・・・ザナならそう言うだろうな。
「ああ、そうか」
と彼はすんでのところで声を上げそうになった。自分が彼女のことをすっかり忘れていたことに気付いたのだ。この数日じゅう、彼女のことを考える時間もなかった。こんな人間の海など、君は思ってもみないだろうな。彼は心の中で彼女に向けてつぶやいた。それにこの寒さもだ、ああ、何という寒さだろう。彼は、ザナに語るべきことがらをいま一度見ておこうとでもするように、周囲に目をやった。風船たちの戯れにも、肖像画と横断幕にも、そしてわけてもあの丸屋根の金ピカにも、何かしら、押し黙った、名状し難いものがあるのだった。
 パレードの後で、一同は屋敷に戻った。ここに着いて4日目だった。辺りは例のごとき、雪で真っ白く、のっぺりと、しかし少しだけ波打った光景が広がっている。時刻は午後だった。もうじき日が暮れる。仕事のできるような時間ではない。ベスニクは、たそがれゆく外の景色を眺めていた。いつもならこんな時刻には、町に戻っていくスキー姿が遠くの方に見えるものだ。たぶんこの近くに鉄道の駅があるのだろう。地平線を進むスキー姿の人々は、別の世界からカタパルトで射ち出されたように見えた。
「あの車が見えるかい?」
ベスニクは振り返った。条約の男ことヨルダンだった。彼は外を指差した。
「『チャイカ』に『ジム』さ。そこらじゅうどれもこれも党の迎賓館の車だ」
[訳注;チャイカ(Чайка)もジム(Зим)も共に旧ソ連時代の高級リムジン]
 ベスニクは『ああ』と言う風にうなずいてみせた。
「ああして互いに行ったり来たりして、一服しているんだな。それに相談も」
 ベスニクは、相手が何を言おうとしているのか見当がつかず、ただじっと相手を見つめていた。
「相談だよ」ヨルダンは繰り返した。
「今や、ことは秘密でも何でもないってことさ」
「そりゃあ、一部の連中人たちには当然だろう」
ベスニクは言った。
「一部の人たちにはそうじゃなかったんだな」
ヨルダンが言った。
 ベスニクは微笑した。
「昔、モンゴル人と会った時、そこの大使がチンギス・ハーンの死について話してくれたことだがね」
ヨルダンが言った。
「あれは、どこか中国国境の辺りで死んだらしいんだよ。ハーンの指揮官たちは、せめて遺体を帝国の中心に運んで埋葬するまではと、その死の知らせを伏せておこうとしたんだな。千人の衛兵たちが、昼も夜も歩き通しで、亡骸と共にモンゴルへ向かった。死の知らせを気付かれないようにと衛兵たちは、道すがらたまたまその葬列を見てしまった者を皆殺しにしたんだそうだよ。人間ばかりじゃないさ。鳥でも、獣でも、蛇でも、生きとし生けるもの全てを殺してまわったというんだ。それでも秘密はちっとも隠し通せなかった。その死の知らせが黄金のオルドの帝国の至るところに知れ渡った時、葬列はまだ遠くモンゴル砂漠の彼方にあったんだ」
[訳注;「黄金のオルド(モンゴル語Алтан Орд)」はチンギス・ハーンの孫バトゥにより建国されたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を指す。首都サライの宮殿(オルド)が黄金色であったことから、こう呼ばれる]
 ベスニクは、何と言ったものかわからないでいた。
「疲れてるようだな」ヨルダンが言った。
「随分と働いたように見える」
「ああ」ベスニクは言った。
「山ほど通訳しなければならないことがあってね」
 窓の外を、一台の車のヘッドライトの光が、雪の上を柔らかく滑っていった。続いてもう一台のライトが、眠り込んでいた樹の一本を不意に照らし出した。
「ホテル『モスクワ』に行っていた同志たちだ」ヨルダンが言った。
「どうやら、みんなで揃って行くことになりそうだな」
 9時を少し過ぎた頃、彼らを乗せた車列はモスクワへ出発した。車道の両側に積まれた雪のかたまりを、車のヘッドライトが絶えず照ら出していく。見渡せば遥か彼方に、かすかな灯りがまたたいていた。
 雪に覆われたモスクワは、キラキラきらめいていた。歴史博物館から、ГУМの細長いビルへ、そしてその向こうの聖ヴァシーリー大聖堂のてっぺんへと連なる光の鎖が、まるで王冠の飾りのように見えた。車はアレクサンドロフスキー公園を抜け、クレムリンの中へと入っていった。

 晩餐は続いていた。既に簡単な歓迎の挨拶も行われ、乾杯の音頭も済んでいた。巨大なシャンデリアが、長く伸びたテーブルの上に幾千ものきらめきを投げかけていた。そこに居並ぶのは閣僚、将軍、大使、党書記、元帥、首相、議員、著名な作家、バレリーナ、各国代表団、社会主義労働英雄、様々の部署の代表、海軍大将、海軍少将、中央アジア出身の吟遊詩人、映画人、宗教指導者、学者、誰だかよく分からないか或いは長いこと忘れ去られていて招待された老人たち、各共和国の議長、無任所相、南部の砂漠からやってきた語り部、エスキモー、盲目の英雄、原子科学者、外交官、マルクス主義の理論家たちであった。
 グラスに、女性たちのアクセサリーに、飾り付けに、フォークに、小皿に、軍人たちの階級章やボタン、それらの全てが照明の輝きを照り返して幾千の小さなきらめきを放ちながら、広間の至る所に黄金色の粉末を撒き散らしていた。
「エンヴェル同志よ、我々はあなたのことを気に入っているし、非常に尊敬もしている、あなた個人のことをね」
コスイギンが、メインテーブルからエンヴェル・ホヂャに話しかけた。二人は互いに目を見交わしたが、エンヴェル・ホヂャには相手がお悔やみの言葉を述べているように思われた。
『どうか、お大事に』
 コスイギンは遠慮がちに微笑みながら、相手から微笑が返ってくるのを待っていた。だがその相手の視線は、ぴくりとも動かなかった。あなたの瞳の奥は、何という冬の冷たさだろうか。それは二週間前、フルシチョフがアルバニア人の事務官の一人に向かって言った言葉だった。
 エンヴェル・ホヂャは少しだけ、コスイギンの方に目をやった。政治局員の中でもコスイギンはここ数年ずっと自分と付き合いのある人物だな。そんな思いがぼんやりと、彼の脳裏をよぎった。少し離れたところで、フルシチョフがウルブリヒトとグラスを交わしていた。その向こうにホー・チ・ミンとイバルリの頭が見える。さらにその向こうにブレジネフがいた。中国人たちは、打ち解けない表情のまま、押し黙っていた。
[訳注;コスイギン(А. Н. Косыгин)は当時のソ連首相。ウルブリヒト(Walter Ulbricht)はドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家評議会議長。「情熱の花(La Pasionaria)」ことドロレス・イバルリ(Dolores Ibárruri)はスペイン内戦時の共産党指導者で、当時モスクワに亡命していた。残りのフルシチョフ(Н. С. Хрущёв)とブレジネフ(Л. И. Брежнев)とホー・チ・ミン(Ho Chi Minh)については説明不要でしょう]
「我々はあなたのことを気に入っている」
再びそう言うとコスイギンは、のろのろとした手つきで広間を指した。まるで、そこにある全ての光と黄金色の輝きこそが、愛と希望の輝き以外の何ものでもないのだと言わんばかりに。
 コスイギンの掌はなおも誇らしげに広間の方に向けられていたので、エンヴェル・ホヂャもそちらに目をやった。招待客たちの頭上に青白い蒸気が湧き上っていた。テーブルの数が多過ぎて、自分の連れてきた人たちは、誰一人として見つけることができなかった。

 ベスニクの隣の人物は、再びグラスを満たすと何やらぶつぶつ喋っていた。それから不意にベスニクの方を向いた。ウォトカによってその表情、とりわけその灰色の瞳にはささやかな変化が生じていた。ソヴィエト連邦英雄の小さな赤い星が、ベスニクの目に止まった。
「あなた、飛行士でしょう?」
相手が訊ねてきた。
 ベスニクは笑って「いいえ」と答えようとしたが、相手はなおも盛んに喋り続けた。
「やっぱり、そうだと思いました。飛行士だってすぐにわかりましたよ、たとえあなたが民間人の格好をなさっていてもね。その目をそんな色にするのは空だけですから。私はね、20年ほど空軍士官だったんですよ。2年前に退役しましたが」
彼はため息をついたが、そこできっとこちらを向き、ベスニクを眼光鋭く見据えた。
「どうして我々に盾突こうとするのかね?」
 ベスニクは表情を曇らせた。
「どなたがそんなことを?」
「これは失礼、勘違いでしたか。そんなことを耳にしたものでね。どうか悪くとらないでくださいよ」
 相手はウォトカをベスニクのグラスに注いだ。
「飲んでください、そして私の勘違いであれば、どうかお許しください」
ベスニクはグラスを掲げた。
「ねえ」しばらくして、その飛行士が親しげな口調で話しかけてきた。
「飛行士同士、お互い情報交換といこうじゃありませんか。どうか悪くとらないでくださいよ。よろしいですかな?先ほどは私の勘違いでしたが、しかし私はね、この世の中には役割分担というものがあると思うんですよ。空を飛ぶべき者もいれば、地を行くべき者もいるわけです」
「どういうことでしょう?」
「ええ、いや、そんな目で見ないでくださいよ。不愉快な思いをさせるつもりなど、決してないのです。私は小さな民族に敬意を払っているのですからね。飛行士というものは、いつだって小さな場所を好むものです。飛行機の両翼の下に現れるものを見ているのですよ、子どものように小さな翼のね。でもね、仕事の区分けというものはあるんです。仕事そのものに区分けがあるんですよ。宿命とでも言うべきですかな」
「宿命ですか?」
 飛行士はまた、ため息をついた。
「正確に表現できてないことはわかってますよ、いつもそうなんですがね。ああそうだ、空を飛ぶことの問題ですよ。このテーブルで空を飛べるのは我々二人だけで、あとの連中は地を行く者たちですから。そうでしょう?」
 ベスニクは肩をそびやかした。
「不愉快な思いをさせるつもりじゃなかったんですよ。その逆です。私はあなたの国が好きなんですよ。あなた方の旗には鳥がいるでしょう?あれは雄大だ、詩的だ。鎌とハンマーも優れた象徴ですが、私のような飛行士からすれば、鳥はもっと神聖なものですからね。空を飛ぶことへの欲求であり、夢ですよ。ですがね、しかし空を飛ぶにはたくさんの小麦とたくさんの鉄が必要だ。そりゃまあね、あの鎌もハンマーも、あなたたちにとっちゃ嫌なものかも知れませんが・・・」
「私はそんなこと言ってませんが」
ベスニクは言った。
「そりゃ言ってませんとも。でもね、そう思ってるはずなんだ。飛行士たるもの、そんな風に考えないはずがないんだ。いや失礼、ちょっと混乱してしまいました、信じてくださいよ、そんなことこれっぽっちも思ってやしないんだ。それもこれも、あなたに申し訳ないと思ってるからなんだ」
「別にあなたが申し訳なく思うことなんかありませんよ」ベスニクは言った。
「どうかお気を悪くなさらずに。私はあなたのことを気に入っているのです。ですが、はっきりと言わせていただきたい。あなた方が求める共産主義は、私が望むものと同じですよね?共産主義の到来のためには、闘争しなければならない、そうでしょう?しかし闘争には規律が必要だ。あなただって軍人だから、そのことは私よりよくわかっているでしょう。部隊が飛行する時には、みずからの配置を守らなければならない。そうでなければ、何もかも台無しだ。どこでだってそうでしょう。それは社会主義陣営についても言えますよ。我々は一つの大きな、力強い陣営であり、帝国主義にとっての脅威なのです。だが、この陣営の中では規律を守らなければならない。さもなければ始まるのは崩壊だ。敵だってそれを待ち構えている。空を飛ぶべき者もいれば、地を行くべき者もいると言った時、私はそういうことを考えていたんだ」
「誰かもが地を這わねばならないということではないでしょう?」
「ああ、違いますよ、違いますよ。千度でも言うけど違いますよ」相手が言った。
「私は地を這うなんて御免ですよ。私は飛行士ですからね。いや・・・私がどうして飛行士なものか!もう二年も、私は飛んでいない。飛んでいないのに。私はね、天から追放されたんですよ。今はこうして招待されて宴会の席にいる。だけどあなたは飛行士だ。空を乞い求めるというのがどういうことか、あなたにはわかっているでしょう。このホールや瓶や食い物や官僚たちの間で、私のよみがえる思い出はまるで災いのようだ。私はサタンのように天から追放された。あんたもやっぱり追放されたんだね?あんたの目を見れば分かるさ。あんたは階級と名誉をもらって、そうして天を奪われたんだね?さあ飲みたまえ、我が兄弟、サタンよ。我々の負けだ」
相手はグラスを空けると、首を振りながら、目を半分ほど閉じてしまった。
「さっき地を這うとか話したが」
少しして彼が口を開いた。
「私は地を這うなんてまっぴらさ、しかしだね、陣営には規律が必要なんだ」
彼はチーズをひとかじりして
「だ・ん・け・つ・だ」
と区切りながら言葉をついだ。
 ベスニクは相手をじっと見つめた。
「何だってそんな、暗い目でこっちを見る?」
飛行士が言った。
「私が何か間違ったことを言ったかね?」
「あなたたちは我々を、パンも与えずに放り出した」ベスニクは静かな口調で言った。
「えっ?」相手は驚いて聞き返した。
「パンも与えずに?」
「我々があなたたちに盾突こうとした途端、あなたたちは我々を飢えで脅しにかかった。これのどこが団結です?」
「そんな馬鹿な」飛行士は首を振った。
「そんな馬鹿なこと、あるはずがない」
「我々がブカレストであなたたちに反対した途端、あなたたちは小麦の供給を中断した」
[訳注;1960年6月の共産党・労働者党代表者会議をさす。ソ連共産党が提案した事実上の中国共産党批判に対し、アルバニア労働党の代表団は反対した。この直後、ソ連はアルバニアに対する穀物輸出を停止した。]
「そんなことはあり得ない。うちは小麦をインドに送っている。あなた方のところに送っていないなんて、そんな馬鹿な。そりゃあなた方の勘違いだ」
「ところが実際は、私の言う通りなんですよ」
ベスニクは言った。あの当時、ずっと翻訳にかかりきりだった彼は、既に多くのことを知っていたのだ。
「でもね、問題は小麦じゃないんですよ」
ベスニクは続けた。
「小麦は前兆に過ぎません。その背後に隠されていたのは・・・」
「親愛なる兄弟、あなたには驚かされますな」
と相手はベスニクの言葉を遮って、両手を広げようとしたが、その片手に持っていたフォークが、すぐ隣に座っていた小柄なつるっぱげの男の肩に当たってしまった。つるっぱげは何やらぶつぶつ言いながら、厄介な隣人の方を軽蔑気味に見やった。
 ベスニクは、自分がブカレストの話に言及したのはどこか間違っていたのではないかと考えてみたが、すぐに思い直した。そこで思い出されるのは、チンギス・ハーンの亡骸に随行した千人の衛兵のことだった。
「よろしいか」
飛行士が肘をついたまま言った。
「私は、その小麦の問題とやらについては存じませんよ。もしあなたのおっしゃる通りだったとしたら、勿論それは卑劣なことです。国の機関には心ない官僚や幹部がたくさんいますからね」
彼はそう言って苦笑した。
「平和とは、テクノクラートの時代ですよ。しかしここにいる我々は、そんな連中の話はしないことにしましょう。我々は全体の利益について、共産主義について語りましょう。陣営全体の利益になるのは、あなたたちが反抗しないことですよ。私は何か間違ってますかね?」
「本当に、くだらない話ですね」
ベスニクは言った。
「ひどいことを言うな」相手はそう言って顔を蒼ざめさせた。
「本当に、ひどいことを言う」
彼の掌は麻痺したように、テーブルの上に降ろされていた。
「すみません」ベスニクは言った。
「こういう風にして、人間の堕落が始まるのか」
飛行士は、ぼんやりとした視線をテーブルに向けたまま、そう言った。
「宴席に招かれておいて、こんな風に侮辱されるとは」
「すみません」ベスニクはもう一度言った。
「侮辱するつもりじゃなかったんです」
 相手はグラスを満たすと、それをぐいと飲み干した。
「サタンよ」
飛行士はぶつぶつつぶやいていた。
「兄弟サタンよ、なぜ俺にひどいことを言う?」
 どのテーブルでも、人々は、型通りの会話を交わし、ガラスを鳴らしながら飲み食いを続けていた。音楽が聴こえていた。
「私は、あんたが気に入っているんだ」
長い沈黙の後に、飛行士が口を開いた。
「私があんなことを言ったのも、あなたが不幸に見舞われないようにと思ってのことだ。あなたは帝国主義の野獣どもの中にいて、奴らはあなたを群れから引き離そうとしているんだよ。それに、危険なのは帝国主義だけじゃない・・・何を言おうとしてるか、わかりますな?」
「こちら側にも危険があると?」
ベスニクは、相手から目を逸らしたまま訊ねた。
「ああ、またそんな風に言葉を悪くとるなんて!真面目に話をさせてくれませんか。陣営内の同胞に悲劇が起こるなんて、いいわけがない。激情からは往々にして、壮大なドラマが生まれるものなんですよ。どうしたら上手く説明できるのか・・・ついさっき空を飛ぶことについて話しましたな」
彼はベスニクを指さすと、怯えた風に目を見開いて言葉をついだ。
「私が人を殺したことがある、と言ったらあなた信じますか?」
 ベスニクは肩をそびやかして
「もちろん、信じますとも」と言った。
「あなたは飛行士だったんでしょう。町まるごと一つだって殺したでしょうとも」
「ああ、いや違う違う、戦争のことじゃない」
相手は激しく首を振った。
「私は、平時に人を殺したんだよ。二年前にね。そう、ソヴィエト連邦英雄の飛行士、セルゲイ・ロマンチェフスキ、今夜、十月革命の記念祝賀会に呼ばれている、党と国家の古参幹部であるこの私が、二年前、まさしく10月17日、16時20分に、人を殺す命令を下したんだ」
 彼は、まるで相手に信じてもらえないことを恐れてでもいるように、ベスニクの両肩を摑んだ。
「あれは素晴らしい人間だったんだ」
彼は続けた。
「私がこの地上で出会った中でも、最も素晴らしい人間の一人だった。そして彼の罪はただ一つ、空を飛びたいという高潔な願いを抱いていたことなんだ。そうだ、飛ぶことをだ。私は、あいつが空を求めるが故にあいつを殺した」
 ベスニクは呆気にとられたまま聴き入っていた。
「私を疑いの目で見ているね?残念ながらこれはでっちあげなんかじゃないんだよ。記憶からひとかけらも消すことの出来ない事実なんだ。真実だよ、ずっとずっと真実なんだよ」 彼があちこち手を振り回すので、隣にいた恰幅のよい人物が、不安げな、そしてひとしきり軽蔑の入り混じった目つきで、こちらを隙見していた。
「どこまでも真実なんだ、このテーブルも、この明るいホールも、広場も、交差点も越えてどこまでもね。降りろと言われたって降りやしないぞ。どんなことをしても、地面に降りたりなんかするものか」
 ベスニクはさっぱりわけがわからなくなっていた。どうもこの相手は我を忘れて喋っているようだった。
「私は、酔ってなんかいませんぞ」
飛行士は言った。
「私はそんな弱っちい神経の持ち主じゃない。私はね、大きな町を幾つも爆撃したんですぞ。あの廃墟は今も目に残っている。眼下にたなびく煙が黒いリボンのようだった、まるで『おおセルゲイよ、何てことをしてくれた』とでも言っているようにね。それで私はその上を飛びながら、再び息の根を止めてやったんだ。なあお若いの、あんたは町を爆撃したことなどないだろう。あんたにはあの不吉なしるしがどんなものだか、まだ見当もつかないだろう。だが信じてくれ、私は人殺しに責任を感じたことなどないんだ。私は共産主義のために闘ってきたのだから。ところがあいつは、あいつは違っていた。あいつが空港の上を旋回していた時のことを、忘れることができないんだ。まるで幽霊のようだった」
「それは、エンジンの故障か何かじゃなかったんですか?」
ベスニクは、相手が思い出すのを何とか助けようと問いかけた。
「いいや」飛行士は言った。
「そんなことはなかった」
そして苦笑するような風を見せた。
「あれは極めて優秀な整備士だったんだよ。私は軍事空港の指揮官だったが、あいつは完璧そのものの整備士でね、飛行機のことなら設計士よりもよく知っていた。みんなからもそう言われていたよ。それが急にふさぎ込むようになった。日を追うごとにますますふさぎ込んでいくその理由が、我々にはわからなかった。何か家庭の問題でもあるのだろうと思っていたんだ。あいつは婚約していたからね。彼女とうまくいっていないのだろうと考えていた。後で小さなメモ帳が見つかって、それで何もかも明らかになった。あいつは不意に飛ぶことが苦痛になり出したんだ。整備士としては優れていても、飛行士としてはそうじゃなかった。それでもあいつは空を飛びたいと願った、せめて一度だけでもと。あいつは我々の誰よりも飛行機のことを知っていた、飛ぶことを許されていなかったけれど。それでも、許されないことであっても、そうしたいと願ったんだ。天に舞い上がりたいと。一度だけでも。ただ一度だけでもと。それで10月17日の午後、検査を終えた機体の一つにいきなり、まるで死出の馬にまたがるように跳び乗ると、そのまま飛び立ったのさ。よく憶えているよ、あの日は曇り空だった。雲は空に微動だにせず垂れ込めていた。我々はみな、思いもよらないことに慌てふためいて、機体の飛んでいくのを見つめていたよ。それはおかしな飛び方だった。正確なんだが、しかし・・・何と言ったらいいのか・・・冷たくて・・・何かこう、ラテン語の教科書を読むのに似ていた・・・何と言ったらいいのか・・・私はラジオ受信機を持ち出して、あいつと連絡を取った。叱責などしなかったさ、それどころか、あいつが飛んでいることに驚きも見せなかった。あいつは酔っ払っているようだったよ。歓喜の叫びを上げながら、赦しを乞うていた。すっかり調子も良くなっているようだった。本当に、調子は良くなっていたんだ。それからようやくのことで、着陸すると言ってきた。好きにしろ、と穏やかな口調で言ってやったよ。あいつは空港の上を大きくぐるりと回ったが、それでも降りては来なかった。二度目の旋回で、機体の振動が増しているのに気がついた。私はもう一度、穏やかな、冷静な口調で話しかけた。あいつは再び着陸を試みた。機体が我々の頭上を石ころのように飛び回っていた。そんなことが長いこと続いた。それはまさしく死の舞踏だった。自力で機体を制御できなくなっていることは明らかだった。あいつはわけのわからない言葉を口走っていた。我々の顔はみな、土気色になっていた。悪い夢でも見ているようだった。私の全身は冷や汗でびっしょりとなっていた。近くに他の飛行機や、燃料補給車輌や、レーダー機材があった。機体は今にもその上に墜落しかねない。その飛び方はいよいよ常軌を逸するものとなっていた。徐々にそれは空飛ぶ怪物へと姿を変えていく。何とかしなければならなかった。何か早急に、断固たる、無慈悲なことをしなければ。私は指揮官であり、そういうことをしなければならないのが私なのだ。私だけ、なのだ。私はラジオ受信機で空港の対空防衛部隊に連絡を取り、しかるべき命令を下した。あいつがまた頭上を通過した。これが最後のチャンスだ。他の者たちはうなだれ、目をそむけていた。私だけがそれを見つめていた。機体が空港を飛び去ったところに、対空砲の砲撃を放った。機体は、死人の布のように見える煙に包まれて、そして落ちた。落ちた。それでおしまいだ」
[訳注;「死人の布」は原語qefin。ムスリムの葬儀で遺体を覆う白布]
 ベスニクは、テーブルの一点をじっと見つめたままだった。あちこちから、絶え間ない晩餐の喧騒が波打つように聞こえていた。時に人の声や、また時に笑い声がその表面に姿を表す様子は、まるで揺れる波間に浮かぶ泡のようだった。そして喧騒は再び勢いを増すのだった。
 元飛行士は少しばかり首を振った。
「これがあいつに起こった出来事だ」
と彼はゆっくり言った。そして
「そしてまた、私にも起こった出来事だ」
と付け加えた。
「地上では上手くいっていたのに、急に空に魅せられてしまった。空があいつを殺したんだ。あいつの墓はあそこにあるんだ、空港の出口のところに・・・」
 ベスニクの表情は暗いままだった。その目には冷たい光が宿っていた。
「我々を撃墜してやると脅しているつもりですか?」
そう言って、ベスニクは飛行士の潤んだ瞳をきっと見据えた。
 相手が、酔いで蒼ざめた顔を近付けてきた。
「あんたのことを思ってだよ、なあ兄弟、あんたのことを思ってなんだよ」
そこで急にかすれ声になった。
 ベスニクは怒りに満ちた眼差しを向けた。
「私は嫌だよ」飛行士が言った。
「私はあんなことはもう二度とごめんなんだよ。だが他の連中がもしかしたら・・・」
 彼はすっかり酔っ払っていた。

 メインテーブルでニキタ・フルシチョフがグラスを掲げ、社会主義諸国の各党の第一書記たちに挨拶を述べた。バルコニーの辺りにいた楽団が、マーチの題材を短く奏でた。一同がフルシチョフに合わせてグラスを鳴らし、そして彼は再び着席した。みな彼の周りに集まっており、彼はその中心にいた。そこにはゴムウカに、デジに、ウルブリヒトに、ノヴォトニーもいた。そこから少し離れたところに他の者たちが、例によって共用の食卓を囲んでいた。
[訳注;ゴムウカ(Władysław Gomułka)はポーランド統一労働者党第一書記。デジことゲオルギウ・デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)はルーマニア共産党書記長。ノヴォトニー(Antonín Novotný)はチェコスロヴァキア共産党第一書記で大統領]
 フルシチョフは少ししか飲んでいなかったが、頭の中はいささかどんよりとしていた。心地よい不明瞭さ、高貴な霧が、そのヴェールの下にありとあらゆる着想の集まりをもたらしている。そうだ、これはキリストの秘められし晩餐であり、彼らは自分のもとに集う使徒たちなのだ。明後日の会議では誰が裏切るのだろうな?と彼は思った。フルシチョフの視線は、皿やビンの並ぶ間をすり抜け、コスイギンの両手のところで一旦立ち止まり、そしてエンヴェル・ホヂャの顔の上に斜めに突き立った。そのテーブルでは彼だけが、ずっと暗い眼差しのままだった。銀貨30枚か。フルシチョフはそう思った。(ルーブリだと一体、幾らになるのだろうか?)それさえあれば、美辞麗句だって一丁あがりだろう。そうして彼らは、帝国主義に銀貨30枚で自らを売り渡すのだ。
[訳注;イスカリオテのユダが師イエスを銀貨30枚で売ったくだりにちなむ。『マタイによる福音書』26章14~16参照]
 眼の端の方で、フルシチョフはエンヴェル・ホヂャをずっと捉えたままだった。晩餐の間じゅうずっと、彼はその面に、凝り固まった不愉快さをあらわにしていた。それはテーブルに溢れ返り、晩餐を陰鬱なものに変えながら、フルシチョフの方へと流れてくるのだった。ではどうしたらいいのだ?今夜の彼はほとんど無言ではないか。ほんの少し、トレーズと幾らか言葉を交わしただけだ。それにしたって、単に言葉の理由でそうなったに過ぎない。二人はフランス語で喋っていた。彼だけが社会主義の国々の第一書記たちの中で唯一人、ロシア語を知らないのだ。キリル文字にも全く馴染みがないと言っていた。
[訳注;トレーズ(Maurice Thorez)はフランス共産党書記長。エンヴェル・ホヂャはフランス留学歴があり、フランス語は堪能だった]
『あなたが権力の座に招くことのなかった第一書記たちには気をつけることです』
一年前、セイロンから来た共産主義哲学者がそう言っていた。
『彼らには、別のやり方が必要なのです』
[訳注;この作品が書かれた当時、スリランカはまだセイロンと呼ばれていた]
 ではどうしたらいいのだ。フルシチョフは三度も同じことを考えた。明後日、彼らが叛旗を翻さないようにするには、どうしたらいいのだ。フルシチョフの視線が、グラスを持ったヤーノシュ・カーダールの、爪のない指先の上で止まった。そうして彼らは、帝国主義に銀貨30枚で自らを売り渡す・・・だがしかし、手遅れにならないうちに何とかしなければ。フルシチョフはそう思った。
[訳注;カーダール・ヤーノシュ(Kádár János)はハンガリー社会主義労働者党第一書記。1950年代初頭にスターリン主義者であったラーコシの政権下で逮捕されたが、この時に爪剥がしの拷問を受けたと言われている。スターリン批判に伴うラーコシ失脚で表舞台に復帰した。なお、ハンガリーの人名は日本と同じ姓・名の順なので、本当は「カーダール・ヤーノシュ」が正しい]

 宴は続いていた。晩餐の客たちは既にテーブルから立って、広間の中を行き来していたり、立ったままでコーヒーを飲んでいたり、そこかしこで消えてはまた生まれるような、落ち着きなく大きさの変わる群れを作っていた。絶え間なく音楽が聞こえていた。
 ベスニクはようやくのことで飛行士から離れ、うごめく人群れの中、代表団の仲間たちを探していたのだが、またしても飛行士の前に顔を出してしまった。その飛行士のかたわらには将軍が一人いた。
「どこにいってたんだい兄弟、探したよ」
飛行士が満面の笑みを浮かべて言った。
「君に我が友、誉れ高きジェレズノフ指揮官を紹介しよう」
 将軍が会釈した。ロシア風の面長の顔立ちのその頬には、楽しげな赤みがさしていた。それは少しばかり独特な赤紫色で、怒りや恥ずかしさから来る赤みとは全く別の、公の晩餐の場にのみ現れるような、荘厳な赤紫色であった。
「この人も我々と同じさ、兄弟」
元飛行士が言った。
「この人の栄誉がその背にあったのは、ドイツの平原でのことだよ。ゼーロウ高地について聞いたことがあるかね?そう、この人こそが、あの地獄の中をやり通したのさ。そして今こうして招待されているわけだ」
そして飛行士は低い声で唄い出した。
『ゼーロウ高地はどこにある・・・』
[訳注;ゼーロウ高地(Seelower Höhen)はドイツ東部オーデル川からベルリンに至る丘陵地帯。1945年4月、ここでソ連軍とドイツ軍の戦闘が行われ、ソ連軍が勝利。この戦闘がドイツ東部戦線崩壊のきっかけとなり、同月末にベルリンは陥落、翌5月にドイツは無条件降伏した]
 将軍が微笑んだ。目尻には汗をかいていたが、それは頬の紅潮と同じように荘厳を醸し出していた。幾つもの勲章やメダルが、幅の狭い胸元をほとんど埋め尽くさんばかりになっていた。そしてそれらの上に、英雄の星が付けられていた。
 飛行士は目を閉じたまま唄い続けていた。ベスニクは機会をとらえてジェレズノフと握手を交わすと、招待客たちに紛れて姿をくらました。
 ようやく彼は自分の仲間たちを見つけた。その中にはヨルダンもいた。
「他のみんなはどこに?」
ベスニクは小声で、速記官の一人に訊ねた。
 客たちは何ごとか話し合っていたが、今やみんなして同じことを考えているようだった。
「ほら、その辺をうろうろしてますよ」
速記官が答えた。
「何も気にするなよ」
ヨルダンが言った。彼はタバコを口にくわえるとマッチを取り出した。
 彼らが固まっている場所の右手に、チュイコフ元帥が三、四人の将軍と一緒に立っていた。元帥らはこちらの方をじっと見ていた。チュイコフが何か言うと、他の将軍たちが笑った。そしてまたこちらをじろじろと見るのだった。その時チュイコフは、通りかかった別の将軍に声をかけた。呼ばれた将軍が居合わせた将軍たちと挨拶を交わすと、チュイコフは彼に何ごとかを告げた。そして彼らは、外国人たちの集っている方に再び目を向けた。
[訳注;チュイコフ(В. И. Чуйков)は軍人。作品当時はソ連邦元帥]
「見たかい?新たな大国の出現とはね」
チュイコフは外国人たちの方を指し、別の元帥に大声で呼びかけた。「ヴェリコヂェルジャヴィエ」という語が特にはっきりと聞き取れた。それはその丸い顔からわかったのかも知れないし、或いはその語に「イェ」音が多かったせいかも知れなかった。ベスニクには、その言葉が脂肪でぎとぎとしているような気がした。
[訳注;原文ではロシア語“великодержавие”(大国)]
 元帥と将軍たちは笑っていた。
「気に障ったかい?」ヨルダンが訊ねてきた。
「少しね」
ヨルダンはにやりとした。
「そりゃそうだ。君は初めてだからな」
 二人は招待客たちの間を歩いていった。その両側で、言葉の切れ端が噴水のしぶきのように舞っている・・・朝鮮は春がきれいだ。来たまえ、歓迎するよ・・・この秋はずっと具合が良くなかったんだよ、慢性の潰瘍でね・・・否、否、否・・・千回でも否だ・・・(外国語、たぶんヒンディー語だろう・・・)もちろんさ、夏に来たって構わない、だが春の方がずっときれいだぞ・・・(スペイン語か・・・)ソヴィエト人は君たちの成功を喜んでいる・・・KNERだ、そう、そうだ、KNERの会議だ・・・それならクレムリンの病院に行った方がいい・・・(単音節の言語だな・・・)
[訳注;KNERは経済相互援助会議(Këshilli i Ndihmës Ekonomike Reciproke)のアルバニア語の略称。ロシア語ではСЭВ(Совет Экономической Взаимопомощи)で、西側ではCOMECONと呼ばれていた。ちなみにアルバニアは1962年に脱退。なお、「単音節の言語」とはおそらく中国語のこと]
「ヴォロシーロフだ」ヨルダンが小声で言って、小柄な、ありふれた顔つきの男の方へ顎をしゃくってみせた。それから二人が目にしたのは作家のエレンブルグだった。彼は一人の年老いた女性と話していたが、口にパイプをくわえていたため、口元は半分ほどしか開いていなかった。
[訳注;ヴォロシーロフ(К. Е. Ворошилов)は軍人。作品当時はソ連最高会議幹部会議長。イリヤ・エレンブルグ(И. Г. Эренбург)はソ連の作家。代表作に『嵐』『雪どけ』等]
「政府の晩餐会に初めて呼ばれた連中というのは、すぐにわかる」
ヨルダンが言った。
「どうだい見たまえ、この愉快な連中を」
「私だって初めてさ」ベスニクは言った。
「俺たちは外国人だ」ヨルダンが言った。
「俺たちは別さ」
 ベスニクは、ヨルダン言うところの初めて来た者たちに目をやった。その表情は歓喜に溢れていて、顔面の血流や発話や睫毛の運動をつかさどるその神経は弛緩しきっていた。
「この調子で、今回が最後だという人もわかるんだ」 ヨルダンが話を続けた。
「だが、今回は見当たらないな」
「私だって最後さ」ベスニクは言った。
「さっき言っただろう、我々は外国人だって」
ヨルダンが言った。
「以前、晩餐会でファジェーエフを見たことがあるんだ、彼が自殺するほんの少し前だがね」
[訳注:ファジェーエフ(А. А. Фадеев)はソ連の作家。ゴーリキーと共に、ソヴィエト作家同盟の創設者。代表作に『若き親衛隊』等。スターリンの熱烈な支持者だったが、フルシチョフによる「スターリン批判」後、アルコール依存に陥り、自殺した]
 ベスニクは注意深くそれを聞いていた。招待客たちは元いた場所に戻りつつあった。楽団がどこかに乾杯の音楽を鳴らした。
「ファンファーレで乾杯だ」
ヨルダンが言った。
「お城にはお似合いだな。そうだろ?」
 ベスニクは返す言葉が思いつかなかった。
「城か」ヨルダンがぶつぶつと言った。
「何万人という連中が、この夕食の席に呼ばれることを夢に見ているんだな」
そしてベスニクの耳元に顔を近付けささやいた。
「もっとも、一旦ここに入ったら、もう出たいとは思わないだろうよ」
『ドヴァー・リーマ・パードシャ』
ベスニクは、古ロシア語での修道士の予言の冒頭部分を思い出した。
『ア・トレチイ・ストーイト、ア・チェトヴョルタム・ニェブィチ』
と、ヨルダンの方を向いてそれを言ったので、ヨルダンは驚いたようにベスニクを見つめた。
[訳注;原文ではロシア語“два Рима падоша, а третий стоит, а четвёртому не быти”(第二のローマは滅び、第三のローマはあり、そして第四はまだない)。予言者フィロフェイ(Филофей)と「第三のローマ」思想については、先述の訳注参照]
「君、古代スラヴ語なんてわかるのか?」
 ベスニクは『ああ』とうなづいてみせた。
 周りでは、言葉のしぶきが収まることはなかった。狡猾な雰囲気が、晩餐会のあちこちに行き渡っていた。中央アジアからの吟遊詩人たちが、民族衣装を身にまとった姿で通り過ぎた。
 ベスニクは誰かに腕を摑まれたのを感じた。慌てて振り向くと、あの飛行士だった。その顔は蒼ざめていた。
「探したよ」と彼は言った。
「どこに隠れていたんだい?」
 ベスニクは歯の間で何ごとかつぶやいた。ヨルダンは黙ってそれを眺めていた。
「あいつの墓の話をしていなかったよ」飛行士が言った。
「話してくれましたよ」ベスニクは言った。
「空港の出口のところにあるって、話してくれましたよ」
「じゃ、あいつの婚約者の話はどうだい?婚約者の話は全然してなかったよ。あいつは婚約していたんだ。その娘は年に二度、花を持ってやってくるんだ。年に二度もだ。何て娘だろうな!」
 ベスニクは彼から離れようと数歩進んだ。飛行士はその後についてきながら、ぶつぶつつぶやいていた。
「墓に花か。まるでオペラだな」

 ベスニクたちは、なおも人の波の中をゆっくりとすり抜けて行った。音楽は続いている。年配の招待客たち、中でも女性の多くは、会場の隅のソファに腰掛け、歩き回る人々を眺めていた。
 ようやくのことで、同じ代表団の何人かがいるところにたどりついた。
 そして顔を寄せて話し始めたが、その周りではゆっくりと、まるで溺れているように、頭や、首や、肩章や、女性のアクセサリーや、肩や目尻がぷかぷかと浮かんでいた。
 ベスニクは、誰かが自分たちの方をじっと見つめているような気がした。ゆっくりと目を向けると、ジェレズノフの視線にぶつかった。その目は大きく、そして冷たかった。まるでその中心には空洞、さもなければ不動の核があるように思われた。彼はベスニクを知らなかったが、それでもそのグループから視線を外さなかった。
[訳注;上に挙げたジェレズノフも含め、次に列挙されている人物の詳細については、一部しか確認できていない。心当たりのある読者は私に情報をください]
 それは、予告のようなものだった。ベスニクがもう一度振り返ってみると、ジェレズノフはまだそこにいて、今度は彼のそばにもう4人の軍人が立っていた。その軍人たちもまた、こちらから目を離そうとしなかった。それは、タターロフ上級大将、クラスノポルスキ上級大将、落下傘部隊のスタロロシースキ司令官、ヤクボフスキ元帥であった。
 軍人の集団はさらに数を増していった。彼らはささやき合い、視線を交わし合い、微笑みながら口々に「どうした、どうした?」と言い、それから再びこちらに視線を向けるのだった。そこに居合わせたのは、テレカン元帥、グレチコ元帥、スタロジムニ元帥だった。さらに続いてやってきたのは、カルムコフ少将、砲兵部隊のイヴァノフ司令官、ミサイル部隊のコロレフスキ司令官、クルガノフ大将、それにオルロフ元帥、トロヤノフスキ元帥、スヴャトスラヴォフ元帥、クチュム元帥であった。
 彼らは自分たちの人数が大きくなり過ぎたことに気付いた。一部が集団の脇に移動したが、そこには、黒海艦隊のベネヂクトフ大将と、スラフスキ大将の姿が見えた。そのすぐうしろには、第53戦車兵団のアタマノフ司令官、クレストノステフ上級大将、それに北方艦隊のズナミェンスキ少将が立っていた。その背後では、ポビェドノスツェフ将軍、ピルニー将軍、キョル・シラムン将軍が渦を巻くように動き回っており、さらにその向こうに、ツァルキ元帥、コルシュン元帥、コーニェフ元帥、ポドモギルニ元帥がいた。
「帝国が牙を見せていやあがる」
小さなグループの中の誰かがそう言った。
[訳注;アルバニア代表団のことを指している]
 ベスニクは向こうをよく見ようと、もう一度つま先立ってみた。そちらの方向には、仲間の誰かから聞いた話によればエンヴェル・ホヂャがいるはずだった。彼は居並ぶ頭また頭の間を目で追ったが、何も見えなかった。
 渦の流れは続いていた。彼らは水平線に沿ってすべりつつ、ぐるぐる動き回っていた。その視線は、内なる光によって燃え上がっていた。彼らの動きには調和が取れていて、あたかもそれは宗教的な陶酔の中にあるかのようだった。彼らが場所を移すたび、彼らの居るところでは「~オフ」や「~スキ」といったファーストネームの接尾辞が魚の骨のように沸き上がっていた。
 オーケストラの片隅の場所に、中央アジアから来た吟遊詩人たちが歩いていこうとしていた。
「シャー・ナーメだ、シャー・ナーメだ」
誰かが酔った声で言った。
[訳注;『シャー・ナーメ』はペルシア(現イラン)の叙事詩。フェルドゥースィー著。直訳「王の書」]
 ベスニクは、誰かが自分の肩越しに古代スラヴ語で話しかけてきたような気がした。振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。実を言えばベスニクも、誰かとその言語で話してみたいと思っていたのだった。一度も試してみたことはなかったが。
 ベスニクの右肘に小柄な男が軽くぶつかった。その男は口の中でガムをくちゃくちゃやるようにのろのろと「インターナショナル」のメロディを口ずさんでいた。
 誰かが意味のわからない言語で話していた。
「だがあいつらは、どこへ行くんだろうなあいつらは?」
と別の誰かが、南部の砂漠からやってきた語り部たちの方を指して、不安げに言った。その語り部たちは、飲み過ぎで顔を青白くさせながら人混みの中に割り込んでいた。

 夜明け前になっても、ベスニクはなお穏やかならざる眠りをむさぼっていた。クレムリンの晩餐会は退屈で、彼は同じ夢を二度も三度も、微妙に違う形で見ていた。荒涼とした平原で小麦を食べる鼠たち。荒野はほこりっぽく、あちらこちらにパルケが敷かれていて、どうやら鼠たちはそこにできた割れ目のそこかしこから出入りしているらしかった。
[訳注;パルケとは、フランス語(parquet)で寄木細工の床張りのこと]
 さらにそこには軍人、とりわけ元帥や将軍たちもいて、遥か遠く、荒野の境界線の向こう側からこちらを見つめている。彼らが見つめているのは戦車や黒色のタンクローリーで、それは彼らの前に長大な列を成して並んでいた。するとその戦車やタンクローリーや砲車がペストに感染して変形し始め、軍人たちの目は悲しみに曇っていく。
 朝はその夢の上に、石灰のように青白い、くすんだ光を投げかけるのだった。

3
 その日は寒かった。地平線にはまるで隕石のように、スキー姿が現れては消えていった。屋敷は静まり返っていた。夜遅くソ連から中国に送られた書簡のコピーが届いたところだった。エンヴェル・ホヂャとフルシチョフの会談が予定されていた。代表団の同僚たちは屋敷のそれぞれの部屋に引きこもり、黙々と仕事にかかっていた。
 空は地面の上に傾いだ光を注いでいた。まるで疑いの眼差しを向けているように。
 屋敷の庭に大きな黒い車が入ってきた。ベスニクにはその音が聞こえなかった。彼が頭を上げたのは、速記官の一人が広間に入ってきたからだった。
「車だよ」相手は言った。「ジムだ」
 ベスニクが窓の方に顔を向けると、自動車が目に入った。毛皮のコートを着込んだ人物が一人、そこから降りてくるところだった。同時に、誰かが階段を駆け上がっていった。
 狐の毛皮のコートを首にかけた人物が、重い足取りで広間の床を踏みしめながら入ってきた。
「こんにちは」その人物はロシア語で挨拶した。
「こんにちは」ベスニクも挨拶を返した。彼はその人物をクレムリンの晩餐会で、それもメインテーブルで見たことがあった。
「アンドロポフですが、エンヴェル同志にお目にかかりたい」
相手はそう言った。
 ベスニクはいささか戸惑った。それは彼にとって聞き覚えのある名前だったが、その来客自身が口にしている保安を必要とするような、そんな段階ではなかった。
[訳注;アンドロポフ(Ю. В. Андропов)はКГБ(カー・ゲー・ベー 国家保安委員会)議長(1967-1982)、ソ連共産党書記長(1982-1984)。作品当時は党中央委員]
「知らせてきます」
ベスニクは不明瞭な声で言った。その後で、もう少し元気よく返事をすべきだったなと思った。それから広間の隅のソファに視線をやった。
「どうぞ、おかけください」
そう言って、ベスニクはソファのある方を手で示した。
 相手はなおも立ったままでいた。ベスニクは階段を上がっていった。2階の廊下で、代表団のメンバーの一人と出くわした。
「下の広間にアンドロポフが来てるぞ」
ベスニクが言った。
「わかってるよ」相手は答えた。
「エンヴェル同志はすぐに降りてきますと伝えてくれ。書斎で待ってもらえとさ」
 ベスニクは『わかった』とうなづき、階段を下りていった。背の高い男は、レンブラントの絵の複製品の前に立っていた。「放蕩息子の帰還」だった。
[訳注;この作品のモティーフとなったエピソードは『ルカによる福音書』15:11~32]
「エンヴェル同志はすぐに下りてきます」
そう言いながらベスニクは、自分でも何故だかわからないが声が小さくなっていくのだった。
「こちらの部屋でお待ちください」
「どうも」とアンドロポフは答えたが、
「でも、こちらで待たせてもらいますよ」
と言い、なおも絵に見入っていた。
 木造の階段がギシギシいう音が聞こえてきたので振り返ってみると、エンヴェル・ホヂャが一人で下りてきたところだった。アンドロポフは微笑みを浮かべ、そちらの方へ歩みを進めたが、エンヴェル・ホヂャの表情は石のように硬いままだった。
「連絡もなくうかがって申し訳ない」
とアンドロポフは語り始めたが、エンヴェル・ホヂャはその先を続けさせなかった。
「今朝、知らせがあった。同志フルシチョフが明日11時に私と会いたいという話だったが」
階段を最後まで下りきらないそばから、彼はそう言った。その視線はアンドロポフとベスニクの間に留まっていた。ベスニクが通訳する内、一旦は消えていたその来客の微笑みが再び戻ってきた。だがエンヴェル・ホヂャの表情はますます暗くなっていった。唇の端に怒りがにじんでいた。
「私は喜んで招待を受けるつもりでいた。ところがたった今、君の論文を読んだ。あれはアルバニアに対する誹謗に溢れていて、アルバニアは社会主義国と見なされてすらいない」
彼はそう言葉を続けた。
 アンドロポフはしばらくの間、固まったように立ったままだったが、両手を広げてみせると
「論文って、そりゃ何だね?」
と驚いた風で訊ねた。
「なぜ知らないふりをする?」
とエンヴェル・ホヂャは、軽蔑を隠そうともせず言った。
「ソヴィエト共産党から中国共産党に宛てた書簡だよ」
 アンドロポフは、広げた両手を下ろした。その表情には、驚きの中に幾らかの悲しげな物憂さが見えた。
[訳注;ソ連共産党中央委員会から中国共産党中央委員会に宛てた1960年11月5日付の書簡を指す]
「君の発言は極めて重大だ」
彼は消え入りそうな声で言った。
「そうだ、極めて重大だ」
エンヴェル・ホヂャは答えた。
「同志フルシチョフに、私がこう言っていたと伝えてくれたまえ。アルバニアが社会主義国かどうか、それは君が決めることではないとね」
そこでエンヴェル・ホヂャの視線が動いた。
「それは、アルバニア人民みずからが、その血で決めてきたことなのだ」
そう言うと彼は踵を返し、階段を上がっていこうした。
 アンドロポフは一歩前に進むと、どこか空を摑むようにその手を伸ばした。
「エンヴェル同志」
 エンヴェル・ホヂャは振り返った。その目には、アンドロポフにとって不快に思えるような光が宿っていた。
「明後日、各国党の全体会議がある」
とエンヴェル・ホヂャは、さらに階段を上りながら言った。
[訳注;1960年11月の81カ国共産党・労働者党会議を指す。ここで採択された「モスクワ声明」ではフルシチョフらソ連共産党指導部による資本主義圏との「平和共存」路線が確認されたが、これに批判的な中国共産党との間で確執が続いた。当時、アルバニア労働党は中国共産党の立場を支持した]
「そこで我が党の見解を述べることになるだろう。そういうことだ、ではまた!」
 アンドロポフは、木造の階段を凝視したまま、その場に立ち尽くしていた。
「どうすりゃいいんだ」
彼は小声でつぶやいた。それからベスニクに目をとめたが、そこで彼に自分の独り言を聴かれていたことに気付くと、乱暴に扉の方へ向き直り、そこから出て行った。
 ベスニクはそれを目で追った。彼はまだ茫然としていた。つい今しがた外からやってきた人物が、不規則な足取りで車に向かって歩いていく。運転手が車のドアを開けた。噴き出す排気ガス、動き出す大きな黒いジム、それら全てが二重ガラスで隔てられ(加えて、張り付いた霜が第三のガラスの役割を果たしていた)、音も遮断されているせいか、まるで彼らが物質世界から大急ぎで逃げ去っていくかのようでもあり、また今となっては小さくなっていく、スクリーンに映し出される像でしかないようにも思われるのだった。
 屋敷は静寂に包まれていた。時折、どこかのドアのきしむ音がして、それがむしろ静けさを強く感じさせるように思われた。1階の執務室のある方から、タイプライターを打つ単調な音が聞こえてきた。敷き詰められた赤絨毯からは、眠たげな光が放たれていた。
 それが午前中いっぱい続いた。昼食時になるとその不安げな、絨毯で弱まった物音は、一つまた一つと止んでいった。
 その時、屋敷の敷地内に四台の大きな黒い車が入ってきた。ベスニクは食事をとっていたが、食堂へ速記官がやってきて、急いで来るように促した。広間に行くと、ミコヤン、コズロフ、スースロフ、それにアンドロポフがコートを脱いでいるところだった。
[訳注;(А. И. Микоян)とコズロフ(Ф. Р. Козлов)は第一副首相、スースロフ(М. А. Суслов)は党政治局員でイデオロギー担当の理論家]
 階段を下りて、代表団のメンバー二人が姿をあらわした。
「連絡もなくうかがって申し訳ない」
と言いながらミコヤンが手を差し出した。
「エンヴェル同志はこちらにおいでかね?」
「ええ」
「私たちは、話があって来たのだ」
コズロフが言った。彼は微笑みを浮かべながら、『何か都合の悪いことでもあるのかね、話し合おうじゃないか?』とでも言いたげに手を動かしてみせた。
「こちらへどうぞ」
代表団メンバーの一人が言った。
 一同は執務室に入った。そこでは速記官が大急ぎで書類の束を片付けていた。
 彼らはテーブルについた。代表団のメンバーがもう一人現れた。テーブルは細長く、その形状のせいで、沈黙はさらに強いものに感じられた。そしてまた待たされるのだ。彼らは自分の掌や、或いはその掌の周りを見つめていた。ようやくエンヴェル・ホヂャが入ってくると、彼らは全員立ち上がり挨拶をした。
「連絡もなくうかがって申し訳ない」
ミコヤンが同じ言葉を繰り返した。
 エンヴェル・ホヂャはうなずき、腰をかけた。彼も自分の掌を見つめていた。ふとベスニクの視線が、彼のシャツの袖のピカピカ光るボタンの一つにとまった。その会談用テーブルでそのボタンはどこかしらよそよそしかった。それはまるでザナの顔立ちのようによそよそしく、ただ何の理由もなく、目にもとまらぬ速さで記憶の中から浮かんでは沈んでを繰り返すのだった
 エンヴェル・ホヂャは視線を上げた。
「さて、お話をうかがおうか」
そう言って、彼はベスニクの方を向いた。彼の視線の先には、ミコヤンの凝視するような眼差しと、そしてスースロフの、ぶ厚い眼鏡越しに焦点のずれた眼差しがあった。
 最初に口火を切ったのはミコヤンだった。彼はこう語った。もし一年前に誰かがアルバニアとソヴィエト連邦の不和などと口に出していたら、さぞかし気違いじみた言葉に聞こえていただろうし、自分たちも尋常でなく驚いていただろう、と。そこでミコヤンは息をついだが、エンヴェル・ホヂャはその先を続けさせなかった。
「それはもっとな思い込みだ」彼は言った。
「だが、今はもう、一年前だったら驚いているだろうなどと話し合っている時期ではない。すぐにでも核心に入って構わないだろう」
 エンヴェル・ホヂャは、ベスニクが自分の言葉を通訳し終えるのを待った。それから、そういう思い込みでこれ以上話を引き伸ばさない方がいいだろうと言った。もっとつかみどころのあることを話しても構わないだろう、と。
 それに対する割り込みは激しかった。コズロフは顔を真っ赤にしていた。ミコヤンの年老いた、深い瞳の奥には、ほとんど見えないほどの怒りが渦巻いていた。その怒りは、彼の顔全体に刻み込まれているほどに古いものだった。
「そうだな」ミコヤンは言った。
「核心について話しても構わないだろう」
そして彼は両掌を広げ、エンヴェル・ホヂャをにらみつけると、こう言葉をついだ。
「我々には、なぜ君たちが我々に対してそこまで冷淡なのか理解できないよ」
 エンヴェル・ホヂャも同様のしぐさをしてみせた。
「我々にも、君たちに何があったのか理解できないね」
 ミコヤンは、横目でスースロフとコズロフを見た。
「君たちの国では、アルバニアにいるソヴィエト市民に対してひどい真似をし始めている」
とコズロフが言った。
「今もヴロラの共同軍事基地では、君たちの国の軍人が我が国の軍人にひどい真似をしている」 ミコヤンが言った。
「そこでは双方が武装しているのだ。今に不測の事態が起きるぞ」
[訳注;当時、アルバニア南部の港湾都市ヴロラ(Vlorë)にソ連軍(黒海艦隊)との海軍共同基地があったが、潜水艦の引き渡しをめぐって双方の見解が対立していた。結局、1961年に潜水艦はアルバニアに没収された]
「君たちがヴロラの基地の話しを持ち出したからこちらからも言わせてもらう。ヴロラには君たちの国の少将がいつも居合わせたはずだというが、そんな少将は存在しない」
エンヴェル・ホヂャは言った。彼はそのヴロラの少将がらみの話題が始まるとは期待していなかった。幾度かの経験からすれば、こういう場合、主たる問題は、いつも二番手の問題という外皮にくるまれているものなのだ。
「そちらもご存知の通り、両国間の協定にもとづいて、我が軍に潜水艦が引き渡される時期になったわけだが」
と代表団のメンバーの一人が言った。
「ところがそちらの少将が言うには、もう冬が来ていて、海は波が大きいから潜水艦は引き渡せないというではないか」
 エンヴェル・ホヂャは笑った。
「何の話かね?」スースロフが言った。
「我々はここに、大事な話をするためにやって来たのだぞ」
「そう、大事なことだ」
とエンヴェル・ホヂャは言った。
「それなら、もっと大事なことについて話をしよう。我々はワルシャワ条約脱退の件で君たちから恫喝を受けている」
「誰がそんなことを?」
「グレチコだ」
[訳注;グレチコ(А. А. Гречко)は当時のワルシャワ条約機構軍最高司令官。先の宴席で居並ぶソ連軍人たちの中に顔を見せている]
 四人は互いに顔を見合わせた。そして肩をそびやかした。
「我々は何も知らない」とミコヤンが言った。
「近頃そうやってずっと君たちは肩をそびやかしているが」エンヴェル・ホヂャは言った。
「もちろん、自分たちで納得したいならそれが一番ラクなやり方なのだろう」
「我々は何も知らないのだ」
ミコヤンが繰り返した。
「ブカレストの後から、我々に対する君たちの態度は根本的に変わってしまった」
とエンヴェル・ホヂャは言った。外皮がはがれ出していた。
「ブカレストで君たちの仲間は不意に我が党を攻撃したのだ」コズロフが言った。
 スースロフは、たった今『ブカレストの仲間』と呼ばれたその男の方を、眼鏡越しに見つめた。まるでそこに見えている人物が代表団のメンバーであることが信じられないかのように。
[訳注;この「ブカレストの仲間」は当時アルバニア労働党中央委員会書記だったヒュスニ・カポ(Hysni Kapo)を指す]
「我々は、ブカレストで君たちに抗議しようとしたことがある」エンヴェル・ホヂャは言った。
「我々は、もっと違う口調で話し合うべきだ」
スースロフが言った。
「第一に、我々は誠実に話し合うべきだ」
代表団のメンバーの一人が言った。
「ブカレストの後から、何もかもが急に変わってしまった」エンヴェル・ホヂャは言った。
「君たちの国の大使が・・・」
「大使は更迭しよう」ミコヤンが言葉を遮った。
「君たちの大使は数日前、我々の将軍たちにこう言ったのだ、『軍は誰の側に立つだろうね』と」 と代表団のメンバーの一人が言った。
「あれは馬鹿なんだ」
ミコヤンとコズロフが同時にそう言った。
「大使は馬鹿だし、グレチコは勝手なことを喋っているわけか。君たちの国は一体どうなっているんだ、私には理解できないな」
とエンヴェル・ホヂャは言った。
 ミコヤンは腕組みした。
「我々は良くない人間かも知れないが、しかし能無しではないぞ」彼は言った。
「どうして我々が、君たちと手を切りたがっているというのかね?」
 エンヴェル・ホヂャはゆっくりと首を振った。それは、困難な協議によって鍛えられた人間の言葉だった。誠実さの名目で協議の相手が自発的に防備を解くように見えて、攻撃の機会を窺っている、そんな瞬間だった。10月の予備会談の時も彼らは、誰がアルバニアとソヴィエト連邦の関係破綻など望むものかと幾度か口にしながら、そんな国はたぶんアルバニア側だろう、アルバニアは対立のきっかけをさがしているのだから、と言外に匂わせていたのだ。彼らは幾度も、遠回しに帝国主義と、そして社会主義陣営を分断させようとする策動に言及するのだった。
「君たちに我々と手を切るつもりがないというなら、それは信じよう」
エンヴェル・ホヂャは言った。
「しかしだからといって君たちが正しいということにはならない。他にも、私には理解できないことがあるのだ。両党間の会談でどうしてそういう商人じみた論証の仕方ができるのか」
「我々はありとあらゆる種類の論証を試みてきたのだ」コズロフが言葉を挟んだ。
「私ならそんな商人同士のような話し方は決して認めないだろう」
とエンヴェル・ホヂャは答えた。
 ミコヤンは横目でコズロフを見た。スースロフも同様だった。その面長の顔は、ぶ厚い眼鏡のガラス越しに-そこでは両の瞳が、まるで果てしなく深い楕円の中の罠に落ち込んだようで-氷のような陰鬱をたたえていた。
 ミコヤンは静かに視線を上げ、エンヴェル・ホヂャを見た。
「我々は三度、四度と君たちに会談を呼びかけたが、君たちはそれを受け入れなかった」 彼はそう言った。
 それこそ、予想通りの言葉だった。ミコヤンの目は、まるで風も入ってこない二つの穴に落ち込んででもいるように不動のままだった。4年前、モスクワでの革命記念式典の時、エンヴェル・ホヂャは、彼らの目が語る独特のものが印象に残っていた。そこには半世紀に及ぶ、或る種の疲弊と軽蔑と苦悩が落ち込んでいるように思われた。彼らはゲオルギーの間の片隅のビュッフェで何か飲んでいたが、その時ミコヤンは誰に言うともなくこうつぶやいていた。
『あと何日かしたらオーストリアに行くんだ』
[訳注;ゲオルギーの間(Георгиевский зал)はクレムリン宮殿内の式典用広間]
 モロトフが声を立てて笑いながら
『おい、おい、それならさ』と言った。
『スープはハンガリーみたいにするんだな』
エンヴェル・ホヂャは半ば笑いながらモロトフに訊ねた。
『どうしてスープがハンガリーなのかね?』
『そりゃあ君』モロトフが答えた。
『スープとなれば、誰かがかき混ぜなきゃなるまい』
ミコヤンがそっとこちらを向いたその時、エンヴェル・ホヂャは、その時まで自分が彼の視線に全く気付いていなかったことに驚いた。
[訳注;このやりとりは明らかに1956年のハンガリー事件を示唆している。モロトフ(В. М. Молотов)は事件の直前までソ連外相だったが、フルシチョフと対立し解任された。ちなみにモロトフはハンガリーへの軍事介入に賛成していたが、ミコヤンは批判的だった]
「我々は君たちに呼びかけたのだ」
ミコヤンが繰り返した。
「しかるに君たちは・・・」
「我々にはパンがなかった」
エンヴェル・ホヂャは、まるで途切れていた会話を続けようとでもするように、思案げにそう言った。
「我々には15日分のパンしかなかった。だから君たちに5万トンの小麦を求めた。我々は45日間、君たちからの返事を待ったが、君たちからの返事はなかった。我々はフランスから小麦を買わざるを得なかった。フランスの商人はさっそく脈を診にやってきた。彼は飛行機から降りるなり、なぜソヴィエト連邦が我々に小麦を売ってくれないのかと訊ねてきたのだ。ソヴィエト連邦はどこにでも小麦を売っているのに、と。我々は君たちの権威をおもんばかって、本当のことはひとことも言わなかった。どうだ、これが君たちのしでかしたことだ。君たちは、我々を飢えで脅しつけようとしたのだ」
「貿易省には、政策を理解していないテクノクラートも大勢いる」ミコヤンが答えた。
「それでは私は、同志フルシチョフの言葉を思い出すとしよう」
とエンヴェル・ホヂャが言葉をついだ。
「君たちが小麦を栽培することはない。同志フルシチョフはあの時私にそう言ったのだ。果樹園や葡萄畑を栽培したまえ、小麦は我々が差し上げよう、とね。アルバニアでは年間どのくらい小麦を生産しているのかね?と彼は訊いてきた。私がその数字を答えると、彼は笑ってこう言った。『一年間にそれくらいの小麦なら、ソヴィエト連邦の穀物庫のネズミが食べきれる程度ですよ』とな」
エンヴェル・ホヂャは顔面に怒りをにじませた。憤りがその両目に、その頬に震えていた。
「ネズミが食べてしまうような、そんな程度の小麦を求めるために、我々は苦労しているというのに・・・」
「私が思うに、それは単なるジョークだったのだろう」ミコヤンが言葉を挟んだ。
「あれは、我々が小麦を求めてきたことに対するジョークだった。だが後になってみると、そんなものですらなくなっていた。まさに不愉快なシニシズムだ」
「我々は、もっと違う口調で話し合うべきだ」とスースロフが言った。
「シニシズムなど、ありはしない」ミコヤンが言葉を挟んだ。
「もしも、アルバニアでの小麦の生産量が、我が国の、ソヴィエト連邦のネズミが食ってしまう程のものだと同志フルシチョフが言ったのだとしたら、それは単に言葉通りの意味であって、何の言外の意味もありはしない。我が国は大国だ。良いことも、そして悪いことだって、我が国にはずっとたくさんあるのだ。小麦がたくさんあるように、ネズミだってたくさんいるのだ」
「それに将軍もたくさんか」エンヴェル・ホヂャが言葉を挟んだ。
「式典の晩餐会で見たよ」
「それが何だというのかね?」
コズロフが訊ねた。
「それはつまり、我々が式典の晩餐会でたくさんの将軍を見た、ということさ」
エンヴェル・ホヂャは答えた。
「我々は、もっと違う口調で話し合うべきだ」とスースロフが言った。
 ミコヤンがため息をついて
「そんな些細なことは置いておこうじゃないか」と言った。
「それはちょっとした誤解だが、そういうことから大きな不和が生じてしまうものだよ。小麦のジョークもポプラのジョークも・・・私の間違いでなければ、同志フルシチョフは、ポプラについてもそういう洒落を言ったのだよ」
[訳注;1959年5月にアルバニアを訪問したフルシチョフが、街路樹のポプラをイチジクやスモモなどの果樹に植え替えるべきだと発言したエピソードを指している]
 エンヴェル・ホヂャはぼんやりと思い出した。何かポプラについて話していたような気がするのだが、何をどう語っていたのか、それは思い出せない。ポプラはもう葉も落ちている頃だな。そんな考えが、気だるく彼の脳裏にまたたくのだった。こんなにも、まるで季節が変わるように自然に、気付かぬうちに、何もかもが始まっていたというようなことが、果たしてあり得るのだろうか?この会話には何かしら、木の葉が色褪せ落ちていくようなものがある。全てが落ち、寂れていく。そして寒気の訪れを感じるのだ。
 ミコヤンは両手をテーブルの上に置き、再びため息をついた。
「我々は、君たちを親身になって支援してきた」
彼は言った。
「我々は、アルバニアが中東のアラブ諸国にとって手本となることを望んできた。それは我々にとって、前にも私が君たちに話したように、理論的な面からも重要なことだったのだ」
「その時には君たちの邪魔をしなかった。だが今になって君たちが同じことを言っているかこちらも言わせてもらうが、私にはそういう理由付けはやはり全く理解できない」エンヴェル・ホヂャは言った。
「いやしくも一国家を国際見本市のパヴィリオンのように言うことがどうして可能なのか、私には理解できないのだ」
「どうも君たちは私を誤解しているようだ」
ミコヤンはそう言って、ベスニクの方をじっと見つめた。
「昔から君たちのことは充分よくわかっている」
エンヴェル・ホヂャは言った。
「だが、君なら私よりずっとよく知っているはずだ。小国の人民の運命は、そこに起こる出来事ゆえに苛酷な運命となる。だからあれこれと理論的な証明のために利用してはならないのだということを。とりわけ同志ミコヤン、君ならそのことをよくわかっているはずだ」
 ミコヤンの、悲しげなアルメニア人の瞳は微動だにしなかった。コズロフが苛立ったしぐさで
「哲学談義はやめにしよう」と言った。
[訳注;ミコヤン第一副首相はアルメニア人である(Անաստաս Միկոյան)]
「我々はさっきから理論の話をしている」
エンヴェル・ホヂャはコズロフの方を見もせずに言った。
「アルバニアの小麦やポプラをめぐる同志フルシチョフの冗談など、私には、さしずめ毎年自分の地所を訪れる地主が注文をつけているように思えるのだ」
「同志ニキタ・フルシチョフは地主ではない、ソヴィエト連邦共産党中央委員会第一書記だぞ」
コズロフが言った。
 エンヴェル・ホヂャは嘲笑うような目でコズロフを見た。
「哲学なら、そんなことは私の方が君よりもよく知っている」
コズロフは顔を真っ赤にした。
 そこでエンヴェル・ホヂャとアンドロポフの目が合った。
「大使らとの会見で君は言っていたな、アルバニアをこっぱみじんにするなんて爆弾ひとつで充分だと」
彼はアンドロポフにそう言った。それは全くたまたま思い出したことだった。
「それは、君たちがベルリン問題に満足していなかったからだ」
アンドロポフが答えた。
「その問題に関して不満を表明したことなどない。外国の大使が、ベルリンに関する私の考えを訊いてきたから、私は自分の個人的な見解を述べたまでだ」
「君の国の某将軍が『あんた方はベルリンで怖気づいたんだ』などと、我が軍をおとしめるようなことを言ったからだ」
ミコヤンが言った。
[訳注;1953年6月17日の東ベルリンにおける労働者蜂起に対して駐留ソ連軍が戒厳令を布告し、軍事介入したことをさす。ちなみに、ブランデンブルク門を抜ける大通りの西半分は「6月17日」通りで、1990年のドイツ再統一までドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)で6月17日は祝日だった]
 エンヴェル・ホヂャはタバコに火をつけた。代表団の一人がミコヤンに返答し、しばらくの間、彼らの言葉の応酬が続いた。何かがエンヴェル・ホヂャの目にとまった。窓の方に目をやった彼は少しだけぎょっとした。外では雪が降り出していた。今話し込んでいる連中の誰一人として、それに気付いていなかった。雪は軽やかで、遥か遠い空の雲の中でいましがた眠りから覚めたように、まだ眠たげに、夢見心地な眼差しで、冷たい大地の上に舞い降りていくのだった。
 彼らの話は続いていた。その言葉も、スースロフの眼鏡の鈍いきらめきも、通訳の声も、今の彼には幾らか遠くにあるように感じられた。
『同志フルシチョフは中国に対してこう表明している。我々はアルバニアを失ったが、諸君はアルバニアを手に入れたのだと』
代表団の一人が喋っている。アンドロポフがそれについて何かしら説明につとめている。
『自分は同志フルシチョフがその言葉を口にした場に居合わせたが、あれは悪意があって言ったことではない』
 エンヴェル・ホヂャはなおも雪を見ていた。誰かがアルバニアを失ったとか、誰かがアルバニアを手に入れたとか。そんな声が、どこか遠くの方で聞こえる。彼は一人にやりとした。状況が違えばまるで無意味であったろうことだが、こうして雪を見ている今は、さらに何千倍もそうであるように思われるのだ。冬や雪なら、或いはペストや戦争ならば、一つの国を呑み込んでしまうこともあるだろう。だが、どこか遠くにあって、何一つ縁もゆかりもないような二つの国家が、国を手に入れただの失っただのという、そんなことがあり得るのだろうか?何だろう、この何もないテーブルは、このぼんやりした声は?雪ひらが蝶のような、トランプのクラブのマークのような形をし始めると、エンヴェル・ホヂャはそろそろ会話に加わろうとしたが、まさにその時、代表団の一人が彼の思っていた通りのことを口にした。
『誰が君たちに、我が国についてそんなことを言うことを許したのか?どうしてアルバニアがトランプのカードのように取ったり取られたりしなければならないのか?』
アンドロポフが再び何か説明につとめている。
『自分はその場に居合わせたが、あれは・・・』
 雪は降り続いていた。あの1944年冬のドイツ軍の攻勢の時も、アルバニア中部のチェルメニカの山々には雪が降っていた。
[訳注;チェルメニカ(Çermenikë)はアルバニア中部の高地]
 ドイツ軍は総司令部を見つけ出し、捕えようとしていた。彼らは、犬たちがひっきりなしに吠える中、急斜面をゆっくりと進んでいた。バリ派の鳴らす太鼓が休みなく、熱にうかされたように鳴り響いていた。ああかもそれは幽霊を探し出そうとでもするようだった。村から村へ、戦闘と雪と犬と太鼓のドンドン鳴る音に満ちた土地を移動した。
『アルバニアはどちらにつくのか?』
そんな問いがあのチェルメニカの、どこかの村の小屋の中の、細長い木製のテーブルのあるところで、英語で発されていた。総司令部つきの英国使節は、片足が硬化し壊疽にかかっていたが、痛みをこらえた顔をエンヴェル・ホヂャに向けながらその問いを繰り返した。
[訳注;「バリ派」は民族主義系の解放組織「バリ・コンバタール(Balli Kombëtar国民戦線)」をさす。バリ・コンバタールは共産党系の解放運動に対抗するため、占領ドイツ軍に一部同調した。「総司令部」は共産党系の「反ファシズム民族解放戦線(FANÇ)」の総司令部のこと。第二次世界大戦の終結直前、連合国は戦後アルバニアの新政権樹立を見越して、解放運動の指導部に使節を送り、接触を図っていた]
 同じ問いだな。エンヴェル・ホヂャはそう思った。それがまるで呪いのように、ぐるぐると宙を舞っている。
 数日前、飛行機で高地の上を飛んでいる時に見た景色が、まだ目に焼きついている。もやの向こうに見える山々が
『どこへ行くのだ、こんな寒い中を?』と問いかけているように思えた。
 仮借ない言葉の応酬を終えた今は、或る種の軟化のようなものが感じられた。彼らは幾分か認め合っていたか、ないしは認め合うような素振りを見せていた。侮辱されてずっと黙り込んでいたコズロフまでもが、何やら口を開きつつあった。
『我が国の援助は、求められるだけのものではなかったかも知れない。若干の事柄については再度話し合うべきかも知れない。いいとも、話し合おうではないか。話し合おうではないか』
 それはいわば魔法の言葉だった。今しがた発見されたかのような、皆が救いを求めて口走りたくなる幸運の言葉だった。アンドロポフはあらためて、自分もその場に居合わせたが、そこで言われたことには、第一印象から考えられるようなそんな意味は決してなかったのだと繰り返した。加えてアンドロポフは、通訳にも問題があったに違いないと述べた。
『そうだ、そうだ』周りも繰り返した。
『通訳こそ、これら全ての件で一つの役割を演じているのだ。なるほど当然だ、通訳だ・・・それに、スペインやインドの言い回しもあった、あれも通訳の裏切りの証拠だ』
 それは新たな発見だった。のみならず、彼らが通訳について話しているまさにその時には、会談のテーブルに初めて微笑が現れた。冬の控え目な太陽のように不安げに、その微笑はまず凝り固まった頬の上に、それから目尻に、スースロフの眼鏡の凍りついた表面に現れるのだ。それはまるで長いこと会っていない古くからの顔馴染みが今やこう言っているようだった。
『今どこで、何をしているんだい?』
 何年間にもわたって、その微笑は存在するものであったが、のみならずあらゆる会談のテーブルにおいて、それなくしてはどんな会談も、どんな協定調印も意味を持ち得なかったのだ、どれ一つとして。ところが今回はその微笑が欠けていたために、かくも冷え冷えと凍りついていたわけだ。今も再び姿を現したそれは弱々しく、それゆえ彼らは皆、超人的な努力を払って目元や口元の皺を保っていかなければならないと感じていた。なぜなら彼らにはわかっていたからだ。もしこの微笑が消えてしまったら、もはや火を点ずることはかなわないのだと。それは原初の炎であり、多大な苦労をしてでも彼らが守らねばならないものだった。表情筋のあちこちがすっかり、鉄の型に嵌め込まれたように痛み出している。それでも彼らはどうにか持ちこたえていた。もはや彼らはその問題のために、自分たちの表情を犠牲にすることに誇りさえ感じていたのだ。
 だが希望は儚いものだった。誰かが「ブカレスト」という言葉を途中まで口にするや否や微笑は消えてしまう。先程と同じように再び冷え冷えとして暗くなり、それに続けて想起されるのはユーゴスラヴィアやベリヤやコチ・ヅォヅェなのだ。双方の言葉のやりとりは苛烈なものとなる。奇妙なことに、ミコヤンは会話から引き下がり始めていた。誰かがまたコズロフを中傷したが、ミコヤンはもう口を挟まなかった。スースロフが何か自己抑制めいたことを言った。彼らは疲れきっていた。
[訳注;ベリヤ(Л. П. Берия)はソ連の内務人民委員部(НКВД 後のКГБ、現ФСБ)長官として、スターリン体制下の大粛清に加担した。1953年に失脚、処刑された。コチ・ヅォヅェ(Koçi Xoxe)は戦後初期のアルバニア内相。1948年のアルバニアとユーゴスラヴィアの関係断絶後、「親ユーゴ派」として粛清された]
「まだ何か提起したいことがあるかね?」
ようやくエンヴェル・ホヂャが口を開いた。
「いいや」ミコヤンが答えた。
「今日のところは、ここまでにしよう。すぐまたお目にかかれることを望んでいるよ」
「そう願いたいね」
エンヴェル・ホヂャは答えた。
『そう願いたい、か』
彼は思った。
『教義の問題については、ほとんど何も話していないが』
 一同は立ち上がり、一人また一人と広間へ出ると、オーバー掛けからコートを取った。代表団の一人がベスニクに、ミコヤンのコートを取ってやるように目で合図した。
「どうも」とミコヤンはコートの袖に片方の腕を通しながら言った。そして
「スターリンは、コートを着せてもらうのを嫌がったものだ」と誰に言うともなく言葉を継いだ。
「たぶん、年寄りと見られるのが嫌だったんだろうな」そう言いながら、もう一方の腕をコートの袖に通した。
「だが私はね、自分が年寄りだということを認めるよ」そして軽く微笑んだ。
 ドアに向かう途中、ミコヤンはエンヴェル・ホヂャの腕を軽く摑み、何ごとかをささやいた。エンヴェル・ホヂャはベスニクに目くばせした。
「たぶん、同志フルシチョフと会見もできた方がいいだろう?君に彼の希望を個人的に伝えるように言われているのだが」
 エンヴェル・ホヂャの動きが一瞬だけ止まったが、その目つきは冷静なままだった。ミコヤンの瞳にうっすらと影がさした。エンヴェル・ホヂャは軽くうなずいた。
「明日、会議の休憩中に返事する」
「どうもありがとう」
とミコヤンは言いつつ、去り際に再度、手を挙げてみせた。
「同志諸君、また会おう」
 ドアを開けた時、車のエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。
[訳注;このやりとりは、基本的に事実にもとづいている。実際の会談には、ソ連共産党政治局からポスピエロフ(П. Н. Поспелов)も出席している。またエンヴェル・ホヂャの傍には、先に挙げたヒュスニ・カポ書記の他、後に党内対立で殺害され公の党史から抹殺されたメフメト・シェーフ(Mehmet Shehu)副首相が同席している]

 薄暗くなっていた。ロシア人たちが立ち去った後も、ベスニクたちは広間に残っていた。速記官とベスニクは会談の緊張ですっかりくたびれて座り込んでいたが、そこにはヨルダンや、エンヴェル・ホヂャの護衛係の一人、それにホテル「モスクワ」宿泊組の技官二人も居合わせた。彼らは会談の最中にやってきていたのだ。
 外では雪の勢いが増していた。遠く、地平線の遥か向こうを、弱い汽笛らしき音が何処かへと、不安げな犬の遠吠えのように流れていく。ベスニクは何かに気をとられたように、窓ガラスの向こうのその虚無に見入っていた。彼の記憶の中で、黒く青みがかった雪の中から、一頭の母狼が姿をあらわしつつあった。
 その時、背後に何か動く気配、緊張した気配を感じた彼は、振り向いてそちらの方に目をやった。階段の手すりにつかまりながら、ゆっくりとエンヴェル・ホヂャが降りてくるところだった。その場にいた皆が立ち上がった。エンヴェル・ホヂャは最後の段を降りた。
「掛けたまえ君たち」と彼は言い、ソファを手で示した。
「さあ座りたまえ」
そして自らも椅子の一つに腰掛けた
 灰皿が置かれると、彼は手にしていたタバコの灰を落とした。
「どうかね、同志諸君?」
そう言いながらエンヴェル・ホヂャは順番に、ベスニクたち一人一人へと視線を向けた。
「彼のことは知っている」
ベスニクを指してそう言った。
「彼のことも知っているよ」
速記官は顔を赤らめた。
「他の人たちは、どうも申し訳ない、会ったことがないと思うんだがね」
「ええ、そうです。エンヴェル同志」
技官の一人が答えた。
「そうかね、ではこれからよろしく頼むよ」
とエンヴェル・ホヂャは言った。
「これからしばらく大変な仕事が続くだろう。お互いのことをよく知っておこうじゃないか。それでコーヒーでもどうかね、君たち?」
「エンヴェル同志、喜んで」
「では下にいる人たちに、コーヒーを持ってきてもらうよう頼んでくれたまえ」
エンヴェル・ホヂャは護衛係に向かってそう言った。
 彼は再び、一同を順番に眺めていった。彼の視線は、その中に含まれる微笑の故に、どこかしら遠くへと注がれているようだった。
「疲れているようだね」
と彼はベスニクに言った。
「いいえ、エンヴェル同志」
「そんな『いいえ』なんて言うものじゃないよ。君は、今日は実に大変な仕事をこなしてくれた」
 ベスニクは顔を赤らめた。
「いいえ、エンヴェル同志」
「こういうドラマの会話を訳すのは、大変なことだよ」
エンヴェル・ホヂャは言葉を継いだ。
「古典劇を訳すより大変だ」
彼の、内に秘めた微笑は、その瞳の中ですぐさまかき消えてしまった。ベスニクには彼が内心こう語っているような気がした。
『だからって私がそっちを軽く見ているなどとは思わないでくれよ』
 大きなグラスのような、今にも割れそうな沈黙が訪れた。エンヴェル・ホヂャは、自分がタバコの灰を落とした灰皿の置かれた辺りに、しばらく視線を落としていた。外ではうなるような風の音がしていた。
「明日から会議が始まる」
エンヴェル・ホヂャが、独りごとのようにつぶやいた。周りの誰一人として、口をきくことができないでいた。彼らの心は、何かを待ちかねるような思うにとらわれ、言葉を発することを控えていた。
「私がジロカスタルの学校に通っていた時のことだ、そう、ちょうどこんな具合に冬の風がびゅうびゅう吹いていた。私は仲間の一人と、壁際にもたれて、風をよけながら、共産主義について語っていた」
そこで彼はタバコを吸った。
[訳注;アルバニア南部の都市ジロカスタルはエンヴェル・ホヂャの出身地であり、同時にイスマイル・カダレの出身地でもある]
「その仲間も死んでしまった。私は生きていて、こうして共産主義のドラマに加わっている。思ってもみなかったよ」
「エンヴェル同志よ、我々の指導者であるあなたが・・・」
技師の一人が言いかけた。
「そんな大袈裟な言葉が何になる」
エンヴェル・ホヂャはやんわりと相手を遮った。
「まあゆっくりと、このコーヒーを飲もうじゃないか」
 階下にある厨房から賄いのロシア人の女がコーヒーを運んできた。
[訳注;旧版には、ここでエンヴェル・ホヂャが旧友とアイスキュロスの悲劇について語り合ったことに言及し、「世界は悲劇に満ちているが、共産主義には悲劇がない」と語るくだりがあった]
 エンヴェル・ホヂャはコーヒーを飲み干した。
 周囲の者たちは沈黙したまま、彼が再び語り始めるのを待った。
 エンヴェル・ホヂャはタバコに火をつけた。マッチの火が消えると、再び静寂が訪れた。
「思ってもみなかったよ」
彼はそう繰り返した。外の風の音が、奇妙なほど近くに響いて聞こえた。ベスニクが何気なく窓の方を向くと、その窓の向こう、庭の奥の、絶え間なく渦巻く夜闇と雪の只中に、色の黒い大きな母狼の姿が見えた。その燃えるような両目はしばらくの間、屋敷を囲む壁と数本残っている庭木に向けられていた。
 部屋の入口に護衛係の一人が姿をあらわした。
「ジムです」彼は言った。
 技官の一人が部屋を出て行った。ドアが再び開く音を耳にしたエンヴェル・ホヂャは、振り向きもせず、誰が来たのかと訊ねた。
「トレーズが」技官が答えた。
「一人です」
 やがてモーリス・トレーズが入ってきた。確かに彼一人だった。彼は『こんばんは』と言ってエンヴェル・ホヂャに手を差し出し、しばらくその前に立ち続けていた。トレーズは苛立っているようだった。
「君と話がしたかったんだ」
ようやく彼は口を開いた。
「先に連絡できなくて申し訳ない」
 エンヴェル・ホヂャは、つい一時間前に自分たちが出てきた執務室の、半開きになったままのドアを手で示した。
 トレーズは早足でドアの方へ向かった。エンヴェル・ホヂャがその後に続き、うしろ手にドアを閉めた。

 それはまさに「黒きジムの夜」だった。車のライトが屋敷の庭を照らし回り、木々にへばりついた。木々は目をくらまされ、凍りついた眠りから覚めたようであった。ライトはさらに何かしらを、おそらくは鉄柵を、或いはドアを探し求め、そうして探していたものを見出すや、ふいと消えてしまうのだった。トレーズに続いてホー・チ・ミンがやってきた。それからアフリカ人が1人、さらにその後にスカンディナヴィアからの人物が続いた。夜も遅くなってからコスイギンが、さらに夜中近くになってまた誰かやってきたが、エンヴェル・ホヂャはもう会おうとはしなかった。その最後のジムは、見知らぬ人物を車中に乗せて、木々の間を獣のようにうろうろしていたが、やがて速度を上げ道路を走り去った。

4
 ロングコートをクロークに預けると、代表団のメンバーたちはグループごとに固まって、ゲオルギーの間に入っていった。彼らはほとんど例外なく大きなカバンを手にしていた。カバンの多くは黒く、それが異様に長い会談用テーブルに並んでみると、代表団のメンバーの大部分が白髪頭か、または頭に毛がないことと、寂しげな対照を成していた。彼らの多くは既にカバンを開き始めており、中から何か取り出したり、出したものの内の幾つかをまた戻したりしていた。ありとあらゆる動きを経て、机の上に置かれたカバンの状態はすっかり変わっていた。硬直した身体が、その落ちつき場を待ちあぐねているように見えた。だが彼らの神経質そうな手先が再びその上に伸びると、荒々しく、ほとんどむやみやたらに、その腹部を情け容赦もなく引っかき、何かを、気ぜわしげに、慌てふためいて何かを探し回るのだが、それはまるでどこにも見当たらない様子だった。それというのも、引き裂かれたカバンの腹の中から彼らの手先がようやく出てきた(その手先は血に濡れていたと考えてみればよかろう)というのに、その手先は落ち着かず、早くも新たな殺戮の機会をうかがっている風だったからだ。
 ほとんど全てのものが揃っていた。マイクも、通訳ブースも、いにしえの戦の紋章や勲章がいっぱいに描かれた壁のレリーフも、ビュッフェへと続く扉も、白い窓も、全てが会談のテーブルへとたなびいているように見えた。あとはソヴィエト側の入場を待つばかりだった。
 既にイヤホンの調子を試している者も幾人かいた。また耳につけている者たちもいたが、その姿は早くも不格好な有様になっていた。
 ようやく彼らが入ってきた。フルシチョフが少なめの歩幅で、最初にテーブル中央の空いた席に向かった。代表団の多くが立ち上がり、拍手し始めた。一方で、拍手こそしていたが、起立はしていない者たちもいた。起立しても拍手はしていない者たちもいた。喜色満面で微笑む者たちもいれば、不機嫌でこそないものの、微笑んでいない者たちもいた。座ったまま拍手していた代表団の一部は、戸惑いつつ立ち上がろうとしたが、隣にいた仲間に上着を引っ張られていた。最後に目についたのは少人数の代表団で、これは起立もせず、拍手もしていなかった。
 それは30秒も続かなかった。やがて、立って拍手していた者たちも、座って拍手していた者たちも、拍手せず立っていただけの者たちも、起立も拍手もしていなかった者たちも、不機嫌な者たちも、喜んでいる者たちも、どちらでもない者たちも、イヤホンを外していた者たちも、つけようとしていた者たちも、皆ようやくのことで椅子の背もたれに身を委ねるのだった。彼らの前に取り出されたカバンは、常ならざる、不吉な、いつ終わるとも知れない晩餐のようだった。
 全世界81カ国共産党の会議は、こうして始まった。

 年配のクローク係は小さなスツールに腰掛けたまま、幾つも掛けられているコートを目の前にしていた。彼はクレムリンの中でも年長者の方だった。同じ場所に勤めて40年になる。その指先が何千回と触れてきたそのフックには、かつてレーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、その他の人民委員たちのコートを掛けてきたのだ。そのほとんどは、もうこの世にいない。
[訳注;レーニンとトロツキーは説明不要。スヴェルドロフ(Я. М. Свердлов)はロシア革命初期の全露中央執行委員会(ВЦИК)議長。]
 彼はその人生において、人間よりも多くのコートを目にしてきた。並べて掛けられた、肉体を持たないそのコートたちは、どこかしら不安げな光景を呈していた。脱衣によって人間のぬくもりから抜け出し垂れ下がった肩や固まった袖には、むしろ死の荒涼が感じられた。
 今、コートの持ち主たちが全員揃って入っているゲオルギーの間からは、物音一つしなかった。拍手も、歓声も、何も聞こえてこなかった。そうだ、何かが起こっているに違いない。クローク係は思案げに、冷え切ったコートの袖先を見やった。なぜ広間の中にある腕たちが動かないのか、なぜその掌たちが拍手をしないのか、それを見ればわかるような気がしたのだ。
 何かがあったに違いない。休憩に入って一人また一人と広間からやってくる彼らの表情には、驚愕のようなものが見てとれた。
 他の大会や総会など、およそこういった類の荘厳な、国際的な会議でなら、このような沈黙はあり得なかっただろう。むしろ、代表たちが拍手のし過ぎで手を真っ赤にし、甲高い声を上げながら休憩に出てくるほどの、大きな熱狂がわき起こる機会さえあるのだ。二度までも、人々が手をはらして出てきたことがあった。しかもその二度目の方では(何の会議だったかは思い出せないが)休憩時間中にクロークに塩水を張ったバケツが持ち込まれて、興奮で顔を紅潮させたままの代表たちが、はれ上がった掌をその塩水に突っ込み、身をかがめたまま、幾分か嬉しげに、そして幾分か憎憎しげに、その掌を見つめていたのだ。また中にはすっかり陶酔しきった顔の連中もいて、さしずめこういう連中がまた広間に入った日には、手をつないででもいなければ再び拍手をおっぱじめるものだから、そのうち掌が裂けて血が噴き出すのではないかと、クローク係の彼は思ったものだった。
 だのに今日はこの静けさだ。
 実際のところ、他のクローク係たちが上着を脱がせる際に二言三言聞きつけたという噂は、彼の耳にも入っていた。だが彼は、それ以上のことをつとめて知ろうとはしなかった。彼はクローク部門の責任者であり、友党の政治局員や第一書記たちがクレムリンを訪れた際には、ただその人たちのコートだけを預かってきたのだ。だから、そんな噂にかかずらったり何かを訊ねたりといったことは、彼の関知するところではなかった。勿論、中央委員会のメンバーたちのクローク担当ともなれば、例えば大使館員など、口をつぐんでおくべき他のクローク担当に比べると、容認されていることもずっと多い。彼らは女たちのようにぺちゃくちゃ喋ることもできるし、誰もそのことを不審に思わないだろう。
 たびたび、とりわけこのような国際的な会議では、並んで掛けられたコートを見つめていると、まるで内戦で七つの傷を負った古参の革命家のように、彼は世界革命を夢想するのだった。すっかり大人しくなってコート掛けにぶらさがっていそれらのコートに、いずれ程無く戦場の陣風が吹きつけて、銃弾がうなりを上げるであろう様を思い浮かべるのだ。だがそんなことは起こらず、年月は過ぎ去り、誰も気付かぬ内にコートはゆっくりと古びていくのだ、人間がそうであるように。暗殺者の銃弾で穴が空いたコートはすっかり珍しいものになり(特にここ数年は、暗殺事件などついぞなかったのだ)、世界革命の煙も炎も、今やどこにも見当たらない。時折、彼は悲壮な思いに駆られ、あくのごとくコートも平時にあって古びてゆくものなのかと自問するのだった。そしていつか不意に別の大会だか総会だかが開かれ、政治局のメンバーがまた別のコートを身につけてやってくるのかと。その時クローク係の手は、そのコートを幾らかの不信の念と共に受け取るのだが、そこには彼がよく知っているあの重みや質感やボタンはもうどこにもない。何かが変わってしまったのだ。彼はその新しいコートを他のものの中に入れると、何故だか、心に疲弊感を覚えるのだ。
 だが政治局員たちがコートを変えることは極めて稀だった。流行など、ほとんどないようなものだった。中央委員会のメンバーたちは頻繁に新調していたし、更に大使館員やその他の何かしらの官僚たちについては言うまでもない話で、まるで新しいコートを着たり脱いだりする以外に仕事がないようだった。そんな連中が彼のクロークのところまでやってきた時には、彼はそのコートには一顧だにしないのだった。どれも似たり寄ったりで、半裸の女たちの前を通り過ぎているようなものだった。
 大広間からは、声ひとつしなかった。せめてこの冷え込みさえなければ、と彼は思った。すべすべしたボタンの放つ光が、今日ほど不可解で遠くに感じられたことはなかった。
 彼は、壁に掛けられた古時計を見た。1時10分だった。もうすぐ二度目の休憩に入る。せめてこの冷え込みを目にすることさえなければ、と彼はまた思った。墓場の方がまだましだ。

 ゴーリキー通りの、中央郵便局の建物の裏手の一角にある、暗赤色の絨毯を敷き詰めた天井の低いホール内では、記者たちが立ったまま、或いは自動車の座席に似た小さなソファに腰掛けて、タバコをくゆらせていた。
[訳注;「ゴーリキー通り(Улица Горького)」と呼ばれていたのは1935年から1990年まで。現在は旧名「トヴェルスカヤ通り(Тверская Улица)」に戻っている]
 時刻は1時半になろうとするところだったが、まだ何ごともなかった。もう二度目の休憩に入っている頃に違いない。記者たちの顔は、ネオン灯の明かりで青白く見えた。そこにはAP、AFP、UPI、ロイター、MENA、タンユグ、ANSA、DPAの記者に、日本や中東、ラテンアメリカからの記者もいた。
[訳注;AP(Associated Press)とUPI(United Press International)は米国、AFP(Agence France-Presse)はフランス、ロイター(Reuters)は英国、MENA(Middle East News Agency)はエジプト、タンユグ(Танјуг; Телеграфска Агенција Нове Југославије)はユーゴスラヴィア、ANSA(Agenzia Nazionale Stampa Associata)はイタリア、DPA(Deutsche Presse-Agentur)は西ドイツの通信社(当時)]
 電話ブースはどれも無人で、ドアが半開きになっている。ただ一箇所だけ、アラブ人の記者が、おそらく最後に遅れてであろう、国際共産党会議の開会日であるこの日に、モスクワの雰囲気を伝えていた。
 AFPの記者はホールの隅に近い小さなブースの脇に座っていた。彼は疲れていた。冷え切った空気・・・分裂・・・予想通りの悲劇的な亀裂・・・不信・・・初めての霜・・・そして亀裂・・・巨人たちのいがみ合い・・・破局・・・離別・・・危機・・・冷え込み・・・団結への挽歌・・・そんな言葉の全てがゆっくりと、物憂げに、魂を失った肉体のように意識の中を泳いでいた。
 しかし彼の心を騒がせているのはそのことではなかった。彼は、自分にはただ一つのデータさえあれば充分だとわかっていた。そしてその言葉たちは互いにぶつかり合い、急速に、短く、細断された言葉へと集結しようとする。この冷却に関する新たな何かが付け加われば、それで充分だ。
 彼がティラナ旅行の直後に、まさにこの時期にモスクワに派遣されたのは僥倖であった。今はただ、その夢のような時が訪れて、電話ブースに入り、受話器を握り締め、語ることが出来さえすればよかった。冷え込み・・・亀裂・・・巨人たちの格闘・・・そんな言葉が再び彼の中で、先ほどのように泳ぎ回り出すのだった。
 彼は知っていた。パリでも、そしてまたロンドンでも、ニューヨークでも、ベルリンでも、東京でも、テル・アヴィヴでも、何百という人々が今、テレタイプの前に陣取って、何時間も前からその言葉を待ちかねていることを・・・亀裂・・・冷え込み・・・一方、編集長室や編集部の部屋や、ラジオ局やテレビ局で、これまた待ちあぐねている、その言葉はこれまた例のそれだ・・・冷え込み・・・冷え込み・・・世界中が、まるで火災の危機に見舞われた球体のように熱狂しており、唯一の救いこそ、その早急な冷え込みであった。これほどの叫びが氷河に、北極に、零度の温度に発せられたことはかつてなかったろう。そんな思いが、彼の脳裏をよぎった。
『その冷え込みさえ立証できれば』
フランスの記者は再びそんなことを考えながら、まだ火のついたタバコが灰皿に乗っているにもかかわらず、次の一本に火をつけた。そうなれば自分にとっては実に僥倖なのだが。数週間前、ティラナにいた時のことだ、猛烈な勢いで取材に取りかかった彼には、共産主義陣営の団結における亀裂がクレムリン学者たちの幻想の産物に過ぎないのではないかという気がしていた。
[訳者;「クレムリン学者(kremlinologë)」はソヴィエト・ロシア政治専門の研究者やジャーナリストの通称]
 彼は、アルバニア滞在最終日の夜、ほとんど人けのない通りを、霧雨の降る中ずっとぶらついていた時のことを思い出した。あちこちの店から音楽が聞こえていた。アルバニア-ソヴィエト友好月間をしめくくる、最後の夜のダンスパーティが開かれていたのだ。彼は時折、水蒸気で曇った入口のドアの前で立ち止まった。ドアの向こうでは踊る人々、音楽、二人並んでにっこり微笑むエンヴェル・ホヂャとフルシチョフの肖像画、オーケストラの演奏者たち、照明、その世界の全てがガラス越しに、まるで天の川のように遠くできらめいていた。
[訳注;「天の川」はアルバニア語でKashta e Kumtritで、原義は「名付け親」或いは「証人の藁」]
 亀裂なんかないじゃないか、と彼は思いながらその場を離れた。それは今後もないだろう。あるのはただ、曇ったガラス越しに流れてくる、このいつ終わるとも知れぬ音楽ばかりだ。それは、共産主義の世界を包み込んで永遠に続くカーテンと、憶測と曖昧さの向こうにあるのだ。
 そんな風に、当時のティラナでは思っていた。人々は夜毎のダンスに連れ立って繰り出し、雨の中を駆け回る。あちらこちらで娘たちの笑い声が聞こえる。そして彼は郵便局へ、最新の情報を電話で伝えに向かっていた。
『よく聞こえないな』
一度ならず彼は交換手の女性に文句をつけたものだ。
『さっぱり聞こえないよ』
『お客様、どうしようもございません』
交換手は答えた。
『イタリアの天候が悪いんです。ユーゴスラヴィアとの回線がつながるまでお待ちください』
ところがユーゴスラヴィアとの接続はもっとひどかった。彼は受話器を耳に押し当てて、半ばむやみやたらに声を上げた。
『もしもし、もしもし、その件について新しいことは何もない、最初に言った通りだよ、天候の問題さ、カッコつきのね、言っただろう、カッコつきで天候の問題さ、カッコを忘れるなよ、いいかね、天候の問題だ、ただしカッコつきの、え?何だって?カッコつきだよ』 彼は何度も「カッコ」という言葉を繰り返した。まるで、天候の問題という言葉を連れて行ってくれるはずのその小鳥たちが、この乱雑さの中、路傍でのたれ死んでしまうのではないかと恐れてでもいるように。
 天候の問題か。今やこの言い回しが至る所で用いられるようになっていた。天候の問題[訳注;ここだけ原文はドイツ語“Klimaproblem”]か。もっともそれを言い出したのは、いや正確に言えば広めたのは彼自身なのだが。記憶から去らないのは、ティラナのドイツ大使館での、あの晩餐会だ。そこで初めてこの言葉を耳にしたのだった。あの、望みのない晩餐会だ。それから人気のない真夜中の道路に出ると、あの夜の清掃人だ、あいつと二人して鼻づら突き合わせて、まるでおかしな芝居のいかれた二人みたようにゲラゲラ笑っていたのだ。ところがあの清掃人ときたら不意にへそを曲げてぷいと背を向けてしまった。
[訳注;以上の記述から、この記者が第1部3章で大使館のレセプションに来ていたフランス人、清掃人レマが目撃した外国人、さらに5章でベニとマクスが目撃した外国人と同一人物であることが示唆されている]
 だが今や何もかもが変わってしまった。今では望みがある。それはもはやちゃちな憶測でなく、それ以上のものになっていた。
 彼は入口のところに立って、道路の方に目をやった。彼の視線が注がれたその先、50歩ほど向こうの、中央郵便局の正面階段に面した歩道の、「プラヴダ」や「イズヴェスチヤ」を売る店の前に、人待ち気で、或いはあてもなく立っている人々の中に混じって一人、流行の髪型をした若い女がいる。その女は時計を見ていた。時刻は1時半になっていた。彼はまだ来ていない。このアルバニア人留学生が彼女を待たせるのはこれで二度目だった。その数分間、道路も、自動車も、バスも、通行人も、世界の全てが彼女の眼前から消し飛んでいた。風邪でもひいたんじゃないかしら、と彼女は思った。そんな考えが、彼女の目の前でひっきりなしに行き来する車のボンネットの辺りで弱々しくまたたいた。だがそれは上っ面だけの不安だった。本当のところ彼女には、彼が遅れている理由も、そしてたぶんここに来ない理由も、わかるような気がした。それは、男たちが何か求めるものがある時、よくある圧迫なのだ。いつだって男たちは欲しがって、また欲しがるのだから。でもたぶんそれは当然のことなのだ。彼女は、彼が電話をかけてくる時の特徴的な話し方を思い出していた。
『もしもし、D 1-22-29番ですか?はい?リダをお願いできますか?』
アクセントですぐに外国人だとわかるのだ。
 売店では通行人たちが絶えず新聞を買っている。彼女は売店の方へ二歩ばかり歩み寄ると、何を思うともなく、売り子が表に並べている新聞に目をやった。見出し記事の文字はとびきり大きく、彼女はいやでもそれを読む羽目になった。
『共産党・労働者党の不滅の団結の表現の、輝かしきあらわれ・・・』
その下に、見慣れたクレムリンの尖塔が、中央の時計ともども静かに並んで立っている。
[訳注:時計塔のスパスカヤ塔(Спасская башня)を含む、クレムリンの城壁に並ぶ20の櫓塔のこと]
 人々はひっきりなしに新聞を買い続けている。酔っ払いが一人、うつむき加減に顔を新聞に近付けたまま、目をしばたたかせ、難しい記述の部分をどうにかして拾い上げようとしていた。
「団結があるだと?」
ようやくのことで、酔っ払いは音節を区切りながらつぶやいた。
「あるとも、要するに俺たちは大丈夫さ。じゃ・あ・な!」
 酔っ払いはふらふらと立ち去り、彼女は少しだけ脇に退いた。だからここ数日ずっとラジオも新聞もずっと団結がどうとか言っていたわけね、と彼女は思った。あのクレムリンで、会議が開かれている。それで会議の話題も多かったのだわ。ずっとその話ばかりだったので、彼女は鬱陶しく感じていた。彼女は音楽が聴きたかった。彼女は彼の声が聴きたかった。
『もしもし、D 1-22-29番ですか?はい?リダをお願いできますか?』
今こそ決断の時だということが、彼女にはわかっていた。彼が望むことを、彼女はしてやりたかった。まさしく彼が望むことを。別れたくはなかった。どんなことをしても、別れたくはなかった。
 彼女の視線はバスと、タクシーの四角形に向けられた。ゴーリキー通りの二つの車線のうち、一本は赤の広場の方へ流れ、そしてもう一本はプーシキン広場の方へ流れ、そこからトヴェルスコイ大通りへと続く。そこは彼女のお気に入りの場所だった。目に涙を感じた。道路も、車も、通行人も、何もかもがその涙ごしに、喜ばしげに砕け散るのだ。
[訳注;上記段落の後半は、旧版では「もう一本はプーシキン広場へ流れ、そこから中央映画館の、ゴーリキー通りとトヴェルスコイ大通りが交差するところへと続く」となっていた。「トヴェルスコイ大通り(Тверской Бульвар)」はモスクワ環状道路の一部。前述注の「ゴーリキー通り(現トヴェルスカヤ通りТверская Улица)」を南東に進むと赤の広場に出る。北西に進むと「トヴェルスコイ大通り」と交差し、「プーシキン広場(Пушкинская площадь)」と映画館がある]
 彼女は、自分のきらめくような、なお不安げでふらつくようなその決意が、車の窓を信じるのとほとんど同じであるような気がしていた。その決意は窓の表面におずおずと留まり、そしてショウウインドウやカフェの入口や、交差点で行き違う他の車や、至るところに散乱しているのだった。

 モスクワ会議の初日の、二度目の休憩に入った1時15分頃、ニキタ・フルシチョフとエンヴェル・ホヂャの会談に向けた合意がまとまった。会談はフルシチョフの執務室で行われるという。
 午後になっていた。モスクワは、雲の輪郭も見えず、地平線も見えない不毛な空の下、どこまでも広がっていた。アルバニア代表団の乗った車は「ノギン広場」の、ソ連共産党中央委員会の灰色の建物の前に停まった。
[訳注;ノギン広場(Площадь Ногина)の名はボリシェヴィキの革命家ノギン(В. П. Ногин)に由来する。ちなみに同広場に位置する地下鉄の駅名も「ノギン広場」だったが、現在はキタイゴロト(Китай-город)に改称されている]
 広い執務室には、フルシチョフの他にミコヤンとコズロフとアンドロポフもいた。フルシチョフの顔には、真剣さと不機嫌さの間の表情が浮かんでいた。彼自身、こういう表情が自分に似合わないとわかっていて、それがまた苛立ちを募らせるのだった。
「君たちから話しても構わんよ。我々は聞いているから」
フルシチョフが言った。
 エンヴェル・ホヂャは軽く手を動かすしぐさをした。
「招待したのは君たちだろう」彼は視線を外したまま言った。
「家の主人が最初に話をすべきだ。友が食事を終えてから、家の主人がパンを四十回噛むべきであり、話をするのは主人でなければならないということわざもある」
「君たちの条件を受け入れよう」
フルシチョフが言った。彼はしばらく身動きもせず、テーブルの中央に視線を止めていたが、やがて顔を上げた。
「昨年春のアルバニア訪問以来起こっていることが、私には理解できないのだ。もしあれ以来、君たちが我々に対して不満なところがあるというのなら、それがわからなかった私は愚鈍であるか、さもなくば軽率であったに違いない。私の記憶する限り、我々の間に誤解はなかったと思う、ポプラと小麦のジョークを別とすればだが」
「その手の話を会談の糸口にするとしたら、それは問題が別だ。ポプラについてはここで口にするべき筋合のものではないと思う」
エンヴェル・ホヂャは言った。
「我々がここに来たのは、別の件でだ」
 フルシチョフはパンを四十回噛む話に言及しかけたが、彼にとっても意味のないことのような気がしたので、あれこれ考えを変えようとした。
「ではどうすれば、君たちは態度を変えてくれるのかね?」彼は訊ねた。
「それを訊きたいのはこっちの方だ」
エンヴェル・ホヂャは言った。
「どういう話し方をすればいいというのかね?」
とコズロフが割って入った。
「ずっと同じ話し方でいい」
アルバニア代表団の一人が答えた。
 フルシチョフは二人のやりとりに耳を傾けていなかった。
「もしも君たちが我々との友好を望まないというのなら、はっきりそう言い給え」フルシチョフが言った。
「我々は君たちとの友好を望んでいる。しかし我が人民にも、得るもののない友情を得ることはないということわざがある」
「どの人民にも友情をめぐることわざがいろいろあるものだ」エンヴェル・ホヂャは言った。
「それだけ友情とは手のかかるものらしい。もしも君たちが、友情とは支配のことだと思っているのなら、我々にそんなものは必要ない」
「我々は友情を支配などとは思っていない」フルシチョフが言った。
「それは我々にとって不幸なことだ」
「ブカレストの件以来、冷え込みの原因を作ったのは君たちの方だぞ」エンヴェル・ホヂャは言った。
「我々は一昨日、君の同志たちにその事実を幾つも話しておいた」
「ああ、そのブカレストのことか」フルシチョフが言った。
「君たちは我々のせいだと言うし、我々は君たちのせいだと言う。どちらが正しいか、考えてみようじゃないか」
「考えてみようじゃないか」とエンヴェル・ホヂャも言った。
 二人は互いの目を見つめた。こうやって何度も何度も、会談の最初の時点に戻っているような気がしていた。それはまるでシーシュポスの苦行であった。
[訳注;シーシュポス(Σίσυφος)はギリシア人物の登場人物。神罰として巨大な岩を山頂まで運ばされるが、頂上に近付くたび岩は転がり落ち、再び運び上げるという苦行が果てしなく繰り返される]
「ブカレストで」フルシチョフは考え考え、口を開いた。
「そこでは、確か、最初に・・・」
彼の口調には、或る種の不満が含まれていた。
「プラハの話から始めたほうがよくないかね」
エンヴェル・ホヂャが言った。
「そう、プラハと、それにティラナの話から始めた方がよくはないかね」
「構わんよ」
 フルシチョフは、これまで複数の会談の中で幾度も『ブカレストの男』と呼ばれた男に目をやった。その男は、そういう呼び方をされるたび、その、いにしえの伯爵たちの古びた称号にも似た評価を不意に得たことに対して、さも驚いたような目つきをしてみせるのだった。
[訳注;この「ブカレストの男」とは、当時アルバニア労働党中央委員会書記だったヒュスニ・カポ(Hysni Kapo)のこと]
 フルシチョフは、この男が自分に楯突いてきたあのブカレストの蒸し暑い夜のを思い出した。
『同志フルシチョフよ、中央委員会を代表して私から申し上げるが、我々はあなたたちと意見を異にする・・・』
そんなことがあり得るだろうか?フルシチョフはぜいぜいと息をついた。そんな日がやってくるなど、あり得るのだろうか?
 陰鬱な、ひどい夜だった。彼は夜遅く、全身くたくたで宿舎に戻ってきた。それからどうにか眠ろうとしたが無理だったので、窓際に近付いた。そこから街の灯りが見えた。彼はその街が全く気に入らなかったが、その夜は、息も絶え絶えなその街の灯りが、何かしら不吉なものを思わせた。
「ブカレストで、最初に我々を攻撃してきたのは君たちの方だ」フルシチョフが、ほとんど感極まったような低い声で言った。
「違う」エンヴェル・ホヂャは言った。
「我々は誰も攻撃していない。それどころか我々はまるで異端者のように破門されたのだ。それも兄弟党を打倒せよなどという、君たちの命令に我々が従わなかったという理由でだ。しかもそれは、我々と君たちとの摩擦の、ほんの一つに過ぎない。我々が以前から、一連の問題をめぐって君たちとは意見を異にしていることを、君たちもわかっているはずだ。我々は君たちの家父長的態度が気に入らないし、我々は、我々との協議なしのハンガリー介入にもずっと反対してきたし、我々は、スターリン問題に対して君たちがとってきた態度も気に食わない。加えて、我々は、ユーゴスラヴィアに対する姿勢についても君たちとは意見を異にしているし、君たちの卑屈な態度も気に入らない」
彼はそこで『田舎者の』と付け加えかけたが、ふっと考えが変わった。
「君たちの、西側に対する卑屈な態度がだ。同様に、その他幾つかの原則的な問題についても反対だ。我々は、君たちほど楽観的ではない。我々は議会を通じた共産主義の勝利について、それほど信用してはいないのだ」
「だから君たちは、原理原則に従わないのか」
フルシチョフが言った
「君たちにだ、原理原則にではない。要するに、我々は団結という名の下での屈従を受け入れることなどできないということだ」そう言ってエンヴェル・ホヂャは指を突き出した。
「絶対にだ」
 しばしの沈黙が訪れた。『絶対にだ』という言葉がその沈黙の中を、冬鳥のようにぐるぐる回っていた。と不意に、エンヴェル・ホヂャの視線がフルシチョフのいるテーブルのところから、小さな胸像へと注がれた。ガンディーの像だった。それは、もめごとの場に静かにたたずむ貧者のように見えた。
「それは違う」
とフルシチョフが言った。宙ぶらりんな、特に何かの考えと結び付いてもいない『違う』だった。それはとっさの中継ぎのようなものであり、一時しのぎの自衛策だった。その『違う』が何を言わんとしていたのか、フルシチョフ本人にも説明できない有様だった。だから彼はその件は忘れることにして、深呼吸をすると、ゆっくりと語り始めた。エンヴェル・ホヂャや他の者たちは注意深く聞いていた。フルシチョフは手始めにハンガリーについて話し、続いてティトー、そして中国について話した。それからスターリンについて話し出した。それらは多かれ少なかれよく知られた内容だった。フルシチョフ自身、それがよく知られた話であるとわかっていた。何故なら、彼の発する言葉には何の炎も含まれていなかったからだ。彼の声はずっと低いままで、まるで洞穴の奥深くへと降りていく足音のようだった。そんな風にして彼らが霊廟への階段を降りていった夜もあったのだな、とエンヴェル・ホヂャは思った。そうして彼らは棺桶の蓋を開き、硬直した死者の身体を起き上がらせ(だが一体どうやって起き上がらせたのだろう、腕だろうか、袋でだろうか、棺の中でだろうか?)そしてゆっくりと、盗人の足取りでそこから立ち去ったのだ。
 彼は、生まれて初めてスターリンに会った時のことを思い出していた。彼は軍用機でまる一日かけて飛んできて、モスクワに到着したのだ。ロシアを目にするのも初めてだった。何もかもが雪で覆われていて、小さな村々がそこかしこに点々と彼方まで散らばっていた。スターリンと会ったのは日も落ちた頃だった。会談は短いものだった。
『あなたたちが自分たちのことで手一杯なのは、承知している』エンヴェル・ホヂャは会談の締めくくりにこう言った。
『だが我々はもっとひどい有様だ。我々にはパンもない』
 スターリンは話を聞いていた。そしてエンヴェル・ホヂャを夕食に招いた。彼らだけでだった。木製のテーブルに、覆いのかかった皿が幾つか置かれた。料理が入っていた。スターリンはテーブルにつくと、エンヴェル・ホヂャに言った。
『かけたまえ、食事にしよう』
覆いをかけられた食器が、謎めいて見えた。スターリンはその中の一つの覆いを取った。
『食事にしよう』
彼は繰り返した。
 謎の一つは明かされたが、エンヴェル・ホヂャは食べる気が起きなかった。周りには他の皿も並んでいる。
『我々は全て金を払うつもりだ』エンヴェル・ホヂャは言った。
『だが、今のところは・・・』
相手はこちらを見つめていた。
『金はある時で構わない』
とスターリンは言った。
 一方フルシチョフは、ソヴィエト連邦の経済支援について語っていた。
「もし支援が充分でなかったのなら、我々も考えてみよう」彼は言った。
「そう、例えば、あの小麦の問題だ、私も同志らから聞いているよ」
「問題は小麦ではない」エンヴェル・ホヂャはその言葉を遮った。
「我々が知りたいのは、まず第一に、小麦が提供されなかったことの政治的な理由だ」
「そのことも考えてみよう」フルシチョフは繰り返した。
「なぜこのように冷え切ってしまったのか、考えてみようじゃないか、冷静に、そう神経質にならずにだ。君たちアルバニア人は、よもや共産主義の利益よりも、民族感情という狭い利益を優先させようなどと、思っているのではあるまいね?」
 エンヴェル・ホヂャはフルシチョフに目を向けないまま、ひとしきり首をふってみせた。
「それは違う、同志フルシチョフ」
彼は言った。
「我々がソヴィエト連邦の友人となったのは、国境によって強いられたものでも、ソ連軍によるものでも、その他の外的な要因で強要されたものでもない。君たちに対する我々の友好感情は、かつて幾らかナイーヴなものだった。
[訳注;上の一文は旧版では次の通り;
「君たちに対する我々の友好感情は、レーニンに対する、1920年代に対する、そして真正の共産主義に対するものだった。我々は余りにも夢想的で、非現実的だった。そして幾らかナイーヴなものだった。」]

我々は若く、経験も無く、ただ誠実だった。だが君たちは、どうやらそういう類の信義を重んじてはいないようだ。君たちにとっては、国境や、軍隊や、金で強要された信頼関係の方が意味のあることなのだろう。
[訳注;旧版ではここに次の一文があった;
「我々はそうではない、しかし君たちは革命の精神に対して、まるで墓石のように国の中身を放り出したのだ」]

だから我々には理解できないのだ」
「我々にも理解できない、その通りだ、いや」とフルシチョフが言った。
 エンヴェル・ホヂャの視線は、思わず再びガンディーの方へ注がれた。その表情は、まだ彼がそこにいることに驚いているようだった。
「さっき君たちは、ソヴィエト連邦では若く、大したことのない連中が権力についていると言っていたが」フルシチョフは言った。
「君の同志らの一人が我々に向かって言ったことによれば、このフルシチョフが政治局からマレンコフやモロトフやブルガーニンやカガノヴィチらを追放したことになっているらしい。だが君たちも知っての通り、彼らは私よりずっと年寄りというわけではない。ここに、3日前にブルガーニンが私に宛てた手紙がある。必要なら、読んで聞かせよう」
[訳注;マレンコフ(Г. М. Маленков 1902-1988)はフルシチョフの前任の共産党第一書記・閣僚会議議長(首相)。モロトフ(1890-1986)については前述の註参照。ブルガーニン(Н. А. Булганин 1895-1975)はフルシチョフ政権初期の閣僚会議議長。カガノヴィチ(Л. М. Каганович 1893-1991)はスターリン時代の政治局員。彼らはフルシチョフに対する党内クーデタに関与したとして、1957年以降に失脚した。ちなみにフルシチョフが1894年生まれなので、実際に5人はほぼ同世代である]
「その必要はない。それは君たちの内部問題だ」
アルバニア代表団の二人がほぼ同時に口を開いた。
 エンヴェル・ホヂャは何も言わなかった。彼はマレンコフの、モンゴル人を思わせるその顔を思い浮かべていた。
 それは数年前のことだった。なぜマレンコフが顔を赤くしていたのかは思い出せなかった。憶えているのはただ、その毛の薄い、黄色と褐色の半分ずつ混じったような顔がいつか赤らむような日があるのか、自分がずっと不思議に思っていたということだけだった。
 スターリンの死からほんの数ヶ月しか経っていない頃だった。エンヴェル・ホヂャはクレムリンに居合わせた。マレンコフが首相職を辞任し、党第一書記のみ留任することになったとソ連側から聞かされたばかりだった。
 そうだ、なぜマレンコフが顔を赤くしていたのか、やっと思い出した。彼らは彼の辞任表明をめぐって言い合いになったのだ。首相と党第一書記と、どちらがより重要な役職か、彼らは言い合っていた。フルシチョフは党第一書記の職を誉めそやしていた(それでマレンコフは顔を赤くしていたのだ)。だがヴォロシーロフは逆で、首相の職の方を力強く評価していた。
 顔を真っ赤にしているマレンコフを見たエンヴェル・ホヂャは初めて、彼らの間に何かが起こっていることを感じ取り、憂鬱な気分になった。
 そんな中、アンドロポフがブルガーニンの手紙を読み始めた。
『・・・十月大社会主義革命の祝典に際し・・・貴殿を領袖とするソヴィエト連邦共産党中央委員会の指導のもと・・・偉大なる成功を達成された。貴殿と、ご家族の健康を祈念いたします。モスクワにて、ブルガーニン』
「我々にそんなものは必要ない」エンヴェル・ホヂャが言った。
 フルシチョフの顔は紅潮した。
「わからないな、では君たちには何が必要なのかね?」彼は言った。
「君たちが友好関係をご破算にするためにやって来たというのなら、そう言いたまえ」
「自分がゼウスのように我々にものを言うことができるなどとは、思わない方がいい」
エンヴェル・ホヂャが言った。
「私はゼウスになんか似ていないぞ」フルシチョフは頭に手をやりながら、そう言った。
「少なくとも、外見ではな」
 外見からすれば、彼は確かにゼウスには似ていない。その時エンヴェル・ホヂャの脳裏に閃いたのは、ブトリントの古代遺跡を訪問した時のことだった。あの時、フルシチョフとマリノフスキーはギリシアの神々の彫像を眺めながら、ひそひそと話し合っていた。
『ブトリントに潜水艦の基地を造れれば、ギリシアは我々のものだ』
エンヴェル・ホヂャは身をこわばらせた。
[訳註;マリノフスキー(Р. Я. Малиновский)は当時の国防相。ソ連邦元帥]
 1940年以来、アルバニアとギリシアの関係は完全に凍り付いたままだった。それでも、『ギリシアは我々のものだ』という言葉を耳にした時、彼は身震いしたのだ。太古の神々は、小柄で腹の突き出た二人が自分たちの目の前を愉快げに歩いていくのを、静かに見つめていた。エンヴェル・ホヂャは額に汗がにじむのを感じた。
「君たちは口では第一書記同志と呼びながら、心では『第一臣下同志』だと思っている」 彼は言った。
「そういう夢想は頭の中から追い出すべきだ」
「私が喋っていると、君たちは4人して邪魔するのだな」フルシチョフは言った。
「1957年にも、私は君たちに2時間喋らせたのに、君たちときたら、私が話し出すや5分で遮った。ことわざにも・・・」
 ベスニクはそのことわざを一言も通訳しなかった。彼はくたびれていた。その日は不思議なことに、双方でことわざの応酬だった。公式の会談の場でこれほど頻繁にことわざが使われるなどとは、彼もまるで想像していなかった。『我が人民にこんなことわざがある』と誰かが言うたび、彼は冷や汗を流した。
 そのことわざを二つ、三つの似通った、しかし互いにまるで似ていないものに翻訳している間に、誰かがヴロラでの対立に言及するのだった。
「その基地が争いを招くというのなら、基地は撤去しよう」フルシチョフが言った。
「好きにしたまえ」エンヴェル・ホヂャは言った。
「パシャリマンが存在するということは、戦争になれば、セヴァストーポリより先にヴロラが炎上するということだ」
「何だねそのパシャリマンというのは?」
「あの基地はそうとも言うのですよ」ミコヤンが小声でささやいた。
[訳註:セヴァストーポリ(Севастополь)はウクライナの港湾都市。ソ連時代は黒海艦隊の基地。パシャリマン(Pashaliman)はヴロラの海軍基地の名]
「ふむ」フルシチョフは言った。
「いやな名前だな」そして
「君たちが望むのなら、潜水艦を引き揚げても構わない」と言った。
「あれは、我々のものだからな」
「基地は共同だ」エンヴェル・ホヂャが言った。
「基地の建設を最初に発案したのは、同志フルシチョフだぞ」ミコヤンが言った。
「それは重要ではない」アルバニア代表団の一人が言った。
 フルシチョフはそちらに目をやったが、何も言わなかった。普段から、エンヴェル・ホヂャの同僚たちの口出しに彼みずから答えようとすることはなかった。それはエンヴェル・ホヂャも同じだろうという印象を、フルシチョフは抱いた。
[訳註;「それは重要ではない」以降のくだりは、旧版では次の通り;
「『それは重要ではない』アルバニア代表団の一人が言った。うっすらと冷たい霧を帯びたその視線が、フルシチョフの視線とかち合った。フルシチョフはそちらに目をやったが、何も言わなかった。普段から、エンヴェル・ホヂャの同僚たちの口出しに彼みずから答えようとすることはなかった。それはエンヴェル・ホヂャも同じだろうという印象を、フルシチョフは抱いた。彼は視線を脇へそらしたが、その時ふと、相手がアルバニアの首相でもあり、自分も他にいろいろやりながら、同時にソヴィエト連邦の首相でもあることを思い出した。他にいろいろか、と思いながらフルシチョフは相手に訊ねた。
『では一体、何が君たちにとって重要なのかね』
『重要なのは基地だ』相手はきっぱりとした口調で答えた。
 ふむ、とフルシチョフはひとりごちた。相手が自分に対して首相対首相のつもりで話しているのだと考えると、苛立ってくるのだった。首相は私の半分でしかないことを君は忘れている、と彼は思った。おまけにその半分は、それほど大したものではない。
 フルシチョフは、自分の中の奥深くから笑いがこみ上げてくるのを感じていた。しかしそれは苦々しく、まるで胸焼けのようだった。彼は目の前に居並ぶ相手を順々に眺めていった。会談の前に彼は、エンヴェル・ホヂャが会談に同行させるアルバニア代表団のメンバー3人の、経歴と気性に関する情報をまとめるよう指示していた。それは会談の時間内にできあがることになっている。今しがた言葉を交わしたばかりの人物は、スペインで戦ったことがある。スペインか、彼は思った。そんな相手の人生が詳しくわかったからといって、対話の糸口が生まれるわけでもない。その頃というと、私はモスクワで地下鉄工事をしていたな。フルシチョフは思い出していた。」
以上は1981年版だが、実はさらに前の1973年版は、むしろ全集版に近い記述になっている。ただし「何が君たちにとって重要なのかね」と訊ねたのはアンドロポフになっている]

 彼らは長いこと基地をめぐって喋っていたのに、ことわざには全く言及していなかった。それらしいものさえなかった。基地のこととなると、人民は沈黙するのだな。そんな思いがベスニクの脳裏をよぎった。
 フルシチョフは、くたびれたというしぐさをしてみせた。
「君たちが全部に納得しないというのなら、少なくとも幾つかの問題については合意しようじゃないか」彼は言った。
「会議の場では、対立は表沙汰にしないようにしよう」
「だが表沙汰にしたのは君たちだ」エンヴェル・ホヂャは言った。
「君たちが中国に宛てて書いたあの論文は、とんでもないものだぞ」
「何の話だねそれは?」コズロフが口を挟んだ。
「君たちが我々の間の不和を表沙汰にしようというのなら、君たちは孤立することになるぞ」
とフルシチョフが言った。
 エンヴェル・ホヂャは首を振って否定するしぐさをした。
「それも会議の場のみならずとは」
フルシチョフは言葉を続けた。
「君たちはいつもそうやって孤立していくのだ」
 フルシチョフはそこで初めて、エンヴェル・ホヂャに意味ありげな視線を投げかけた。
 エンヴェル・ホヂャは再び首を振った。自分が相対しているこの俗物づらの人物ときたら、少し前までは自分たちを飢えで脅しつけていたと思ったが、今度は孤立をちらつかせてきた。一体何なのだろう、一国を孤立させてしまおうとする、このおとぎ話の魔法使いの小人は?こんなことがあり得るだろうか?彼はそう思いながら、込み上げてくる怒りをどうにか抑えて、三たび『違う』と首を振った。
「完全なる孤立だ」フルシチョフは視線を向けたまま、そう繰り返した。
「社会主義諸国は次々に君たちから手を引くだろうな。協定も、貸付も、条約も、同盟も、全てが無に帰するだろう」
その目はエンヴェル・ホヂャをしっかりと捕らえたままだった。
「何もかもが、ご破算だ」
その最後の言葉は不思議にはっきりした口調で、一つ一つ区切るように、こすりつけるように響いてきた。
「だが君たちが・・・」
「我々が放蕩息子のように君たちのもとに帰ってくるのだと思っているなら大間違いだぞ。君たちはそう信じて疑わないようだが」
エンヴェル・ホヂャが声を上げた。
「君たちは気が立っている。君たちとは話にならないな」
「ああ、無神経だな君たちは」
「私を侮辱するのか。もう我慢の限界だ」
「神経質なのは君たちの方だ」
「無神経め」
「何だって?」
「魚の・・・」
「誰が神経質だというのだ?」
「君たちは私の言葉を取り違えている」
とフルシチョフが言った。
「その通訳はちゃんとロシア語ができるのか?」
 そこで沈黙がおとずれた。全員がベスニクの方を向いた。ベスニクは表情をこわばらせた。彼はひどく疲れていた。全員の視線が、彼の上に注がれた。実際、彼は少し前、神経云々のやりとりの際にちょっとした間違いをやらかしていた。だがそれは彼が悪いわけではなかった。飛び交う語句が余りにも速過ぎたのだ。だが彼に向けられた視線は離れようとしない。みんなの目つきは、一体どういうつもりなのだ?確かにそれは、決定的な決裂の原因がベスニクにこそあると言わんばかりの目つきだった。周囲の全てがめまぐるしく回り始め、何もかもがおかしくなってしまうように思えた。やがて彼らは辞書を、ラルースを、百科事典を引くだろう。そして歴史文法を、パピルスを調べ上げ、こう叫ぶのだ。『間違いだ、間違いだ』
と。そうしてしまいには自分の訳し間違いが発覚するだろう。それこそが誤解の原因だと。この男が俺たちを混乱させたのだ、この男が芝居を下手くそに訳してしまった、この翻訳者こそが裏切者なのだ、と。
[訳註;「翻訳者は裏切者」はイタリア語の諺(traduttore è traditore)。ちなみに「芝居」は旧版では「アイスキューロス」となっている]
 頼む、待ってくれ。ベスニクが額に掌をやったその時、
「通訳は正確だ」
とエンヴェル・ホヂャがフランス語で言った。
 それを翻訳する者は誰もいなかった。
「それは深刻な問題ではない」
とフルシチョフが言った。彼は、目の前の相手があのよくわからない言語で、何かしら自分に対する反論のようなことを言ったのだろうと考えていた。
 それを翻訳する者もいなかった。ひとしきり、代表団の双方は互いの言語で話し込んでいた。やがてベスニクが通訳の用意を整えても、アンドロポフはフルシチョフの耳元で何か語っていた。フルシチョフは『連中、そんなことまでしていたのか』とでも言うように、うなづいていた。
「先程だが、君たちの通訳は、君たちの発言の一部を昔のロシア語で訳していたのだな」
彼はエンヴェル・ホヂャの方を見つめたまま、そう言った。
「そんなもの、我々にわかるわけがない」
「何がだね?」
「例えばこの箇所だが・・・」
「すみません」ベスニクが言った。
「その通りです。つい、やってしまいました」
 ベスニクはその刹那、自分が尋常ならざる、許されざることをしてしまったのだと気がついたのだ。それは、ただ通訳することを義務付けられた会議の場で、勝手なことを口にするというものだった。
「つい一箇所だけ、古いロシア語で訳してみたくなったんです」
 ところがエンヴェル・ホヂャは何も聞こえない素振りのまま
「あいつらのところは何もかもが古いんだ」
と言った。
「気に病む必要など何もないよ」
 ベスニクはどうしたらよいかわからなかった。今の言葉を翻訳すべきか、せざるべきか。確かにエンヴェル・ホヂャは自分にそう言ったのだが。
「どうだ、話を戻さないかね」
不意にフルシチョフが割って入った。
「もうやめにしたらどうかね、そういう・・・そういう・・・」
「家臣が主人に口をきくように君たちに話せというのなら、断じて受け入れられないぞ」
エンヴェル・ホヂャはそう言うとテーブルを叩いた。ガンディーの像が揺れた。
「それでは」フルシチョフが言った
「それでは、まるでマクミランが私と話そうとするようなものだ」
「エンヴェル同志はマクミランではない」
アルバニア代表団の二人が同時に口を挟んだ。
「その発言は取り消せ」
[訳註;マクミラン(M. Harold Macmillan)は当時の英国首相(保守党)]
 フルシチョフは怯えたような目で彼らを見つめた。彼は或る意味、呆気に取られていた。
「エンヴェル同志がマクミランのように話すなどと、どうして言えるのだ?」
代表団の一人が言った、
「マクミランより酷い、ものの言い方だ」
ミコヤンが言った。
アルバニア代表団の三人は立ち上がった。
「我々は、こんな話し合いを続けるのにはもう耐えられない」彼らは言った。
 ミコヤン、コズロフ、アンドロポフも一緒に立ち上がった。フルシチョフは、『一体全体、我々をどうしようというんだ、この連中は?』とでも言いたげに、エンヴェル・ホヂャの方に目をやった。エンヴェル・ホヂャも立ち上がった。
 一同は黙りこくったまま部屋を出た。互いに挨拶を交わすこともなかった。そのまま階段を下りて、車に乗り込んだ。
 昼になっていた。空は一面曇っていた。車列はゴーリキー通りを走っている。ベスニクは外を見た。右手に立つ、馬に乗った人物の像が、通りを真ん中で切り開いているように見えた。左手の中央郵便局の前では、人々が売店で新聞を買っている。その向こうには、若者の一団が立ったまま、車の往来を眺めていた。ベスニクは、ディブラ通りにいたベニのことを思い出した。車列はプーシキン広場を、そしてマヤコフスキー広場を通り抜けた。
[訳註;マヤコフスキー広場(Площадь Маяковского)の名は詩人マヤコフスキーにちなむ。現在は「勝利広場」(Триумфальная площадь)と呼ばれているが、マヤコフスキーの像は残っている]
 ホテル・ペキンの13階にきらめくヒエログリフが威圧するかのごとく、まるで緑色の蜘蛛のように、荒漠たる空を背景に浮かび上がっていた。
[訳註;ホテル・ペキン(Гостиница Пекин)は上記マヤコフスキー広場に面したソ連時代の高級ホテル。現在も営業中。「ヒエログリフ」とは漢字のこと。アルバニア人は漢字のことをしばしばそう表現する]
 車列は巨大なゴーリキー像の前を走り抜けた。その像はひしめくタクシーの背後にあり、どこかしら珍妙な面持ちで、杖を手にこう言っているように思われた。
『お前たちタクシーはよしなさい、歩いていきなさい。私だってずっと歩いていたのだ。この通りの主である、この私がだ』
 車が進むに連れて建物は徐々にまばらになり、歩道は途切れ、全てが数を減らし、かき消えていく。そして車列は郊外の、トロリーバスの架線も[訳註;旧版ではここに「交差点の表示も」]ない通りへと入った。道端に盛られた雪の山が、ひしゃげたようになっている。長いこと溶けずに残ったその雪は、ふと見ると息をしていなかった。完全に、死んだ雪だった。

 それから二日が過ぎた。
「暗くなってきたな」
ヨルダンが言った。ベスニクは、翻訳にかかっていたエンヴェル・ホヂャの演説から顔を上げた。
「こっちはもうじき終わる」ベスニクは言った。「最後の修正がまだ残ってるんだ。たぶん今日の午後にエンヴェル同志が手を加えたんだろう」
「ゆうべは夜中までかかりきりだったからな」
ヨルダンが言った、
[訳註;旧版ではここに次のやりとりがある;
「今日だってそうだ。会議が終わってすぐにな」
「確か明日も演説だろう?」
「その通りだ」ベスニクは答えた。
「明日か」ヨルダンがつぶやくように言った。
ベスニクは何も言わなかった。]

「エンヴェル同志は言っていたな、何ごともベートーヴェンのようでなければならない、そして何ごとも[訳註;旧版では「党の発言は」]ノクターンのセレナーデのような響きであってはならない、と」
[訳註;旧版ではここに次の発言がある;
「そうだ」ベスニクは顔を上げずにそう言った。「ゆうべ言っていた通りだ」]

 外は暗くなっていた。
「驚いたか?」
「ああ」ベスニクは言った。「勿論だとも」
 ヨルダンはベスニクに、同情に満ちた眼差しを向けた。
 ベスニクの視線は、つい先ほどから手がけていた一節の上に止まったまま動かなかった。
『同志フルシチョフ、君は中国の同志らに対して言ったそうだな。自分たちはアルバニアとかいう国を失ったが、中国はアルバニアとかいう国を手に入れたのだと』
 「アルバニアとかいう国」なる文言を正確にロシア語に直すのは不可能だった。ベスニクは口の中で幾つか翻訳を繰り返してみた。
[訳註;「アルバニアとかいう国」は原文で“një Shqipëri”。Shqipëriは固有名詞「アルバニア」でnjëは不定冠詞。英語で“a Smith”を「スミスとかいう人」と訳すのと同様]
「駄目だ」彼はしまいにそうつぶやくと、ため息をついた。そして疲れを紛らわそうと、掌で眼をこすりながら、再び文章の上に視線を落とした。その部分は、タイプ打ちされた原稿に手書きで付け足されたものだった。その半分は行間にぎっしりと書き込まれ、残り半分は場所が足りなかったのか、いきなり用紙の余白に飛び出していた。まるで河川が突然に岸から溢れ出したように。ほとばしる文字の奔流に、或いはHやSやEといった一つ一つの文字そのものの中に、ベスニクは、それを書いた手の憤りを感じられるような気がした。
 彼はそれらから視線を外せなかった。憤りばかりではない。そこには、古い痛みや苦しみがないまぜになっていた。たった一つの、世界に二つとない、そんなものに彼らは数詞をつけたのだ。アルバニアとかいう国・・・アドナー・アルバーニヤ。カカーヤト・アルバーニヤ。
[訳註;原文はロシア語“Одна Албания. Какая-то Албания.”(アルバニアとかいうもの、アルバニアとか何とか)なおアルバニア語のnjëもロシア語のоднаも1をあらわす数詞であると同時に不定冠詞]
『その通訳はちゃんとロシア語ができるのか?』
そんな言葉が剥き出しのまま、彼の意識の中で、まるで教会の祭壇のように鳴り響いた。
 あれは昔の出来事だ。ベスニクは、夢の中にでもいるようにひとりごちた。不眠で鉛色にくすんだ額がもたれかかれる場所を求めている。部屋の壁、カーテン、更けゆく夜のとばり、それらの全てが蒸気のように自分の周りを滑り流れていくように感じられた。
『その通訳はちゃんとラテン語ができるのか?』
こんな出来事はずっと以前からあったのだ。紀元一世紀のローマの元老院の使節団は、宣戦布告の前にきっとそういう言葉を口にしていたに違いない。その頃からずっと、どの時代の通訳も、途切れることなく異国の言葉を翻訳して、翻訳して、また翻訳してきたのだ。そう、ノルマン人の王ロベール・ギスカルドだってドゥラスに到着するや否やこう言ったのだ。
『その通訳はちゃんとケルト語ができるのか?』
[訳註;ロベール・ギスカルド(Robert Guiscard)は11世紀末、ビザンツ帝政下のアルバニアを二度にわたり攻略した。詳しくは井浦伊知郎『アルバニアインターナショナル』p.157-159]
全く同じ出来事だ、それに続いてすぐさま、戦塵と、そして鳴り響く太鼓。カストリオティ。スルタン・ムラトⅠ世。スルタン・メフメトⅡ世。目と目が合う。
『そのテルヂュマンはちゃんとトルコ語ができるのか?』
[訳註;「カストリオティ」はスカンデルベウことジェルジ・カストリオティのこと。詳しくはこれまた『アルバニアインターナショナル』。ムラトⅠ世はオスマン帝国の第3代スルタン。メフメトⅡ世は同第7代スルタン。なお原文の「テルヂュマン(terxhuman)」は「通訳」を意味するトルコ語tercümanに由来する]
 ベスニクはまた眼をこすった。ヨルダンは窓際に近付いていた。そこからは屋敷の庭の裏側が見えた。ベスニクは、ヨルダンが窓際に近寄るにつれて部屋が薄暗くなっていくような気がした。それで部屋の大きな灯りをつけようとしたのだが、その時ヨルダンがベスニクの方に振り向くと、手で何か合図してみせた。
「何だい?」ベスニクは小声で訊ねた。
「ちょっと来いよ」
ヨルダンがほとんどささやくような声で言った。
 ベスニクは窓の方へ歩いていった。
「見ろよ」ヨルダンが言った。
 窓の外を見ると、屋敷の中庭でエンヴェル・ホヂャがただ一人、雪の中を歩いていた。黒のコートが彼の姿形をより背高に見せている。大きめのボルサリーノ帽もまた黒色で、それを目深に、劇的なまでの無造作ぶりで頭にかぶったまま、もの思いに沈んでいた。その歩みは速くもなく、遅くもなかった。散歩ではない。先ほどからずっと無造作な、むしろ不規則といってもよい重い足取りで、屋敷の地面がきちんと水平でないせいか、幾分ふらついていた。
 足元の雪が、最後の冷たい輝きを放っている。凍てついた樹々は、四方に謎めいた記号や予言や碑文が刻まれた石のオベリスクのようだ。ベスニクは、あの雪の中に立っている人物の頭の中に何が渦巻いているのか、その瞬間にわかったような気がした。あの人は一日中、自分の演説のタイプ原稿の、欄外のメモや行の削除や修正や書き換えで埋め尽くされたものを手にしていたのだ。我々が犯した唯一の罪は、我々が小さく貧しい人民の小さな政党であることだけだ。次から次へと加えられる圧力、武力による恫喝、部隊、艦隊、空から悪夢のように降りてくる落下傘部隊、黙示録的な光景。ロシアを頭に戴くブルガリアに、ハンガリー語を話すチェコスロヴァキア、警戒、飢えによる封鎖、中傷、中傷、まるで大蜘蛛だ、そしてパン屋の行列。
 黒い大きなボルサリーノ帽が、それら全ての上に、重厚なかまどのように覆いかぶさっている。外は夜も更けて、屋敷の周りの黒い鉄柵も見分けがつかなくなっていた。

5
 通訳ブースの窓ガラス越しに、誰かが近付いてくる気配がしたが、ちらと一瞥をくれただけで、すぐにまたタイプ原稿に目を落とした。次の通訳が外で待っているのだ。ベスニクは最後の文章を読んでいた。その末尾には、赤字で「ここまで」と書かれていた。イヤフォンからエンヴェル・ホヂャの声が重々しく、ゆっくりと聞こえてくる。
『我々が犯した唯一の罪は、我々が小さく貧しい人民の小さな政党であることだけだ。そして同志フルシチョフの観点に従えば、我々はただ拍手をし、承認し、意見表明を控えてさえいればよいというのだ』
 ベスニクは立ち上がり、その最後の言葉を言い終えると、すぐに退出すべくドアを開けた。次の通訳が素早く入室し、マイクロフォンへと向かった。ベスニクは外へ出た。額は汗でびっしょりだった。彼は他のブースをちらりと見た。通訳たちがイヤフォンを耳にし、気ぜわしげに頭を揺らしている。それはまるで、ロシア語の通訳が一瞬途切れたことで、自分たちで通訳をやってのけようとしているかのように見えた。
 ベスニクは忍び足で自分の席に向かった。アルバニア代表団のメンバーの一人が、今にも消え入りそうな悲しげな笑顔を顔に浮かべたまま、ベスニクの方を見た。
 議場内には重苦しい沈黙が立ち込めていた。テーブルの上に置かれた黒いカバンが、まるで小さな獣のように見えた。演説を聞いている側の大部分は顔を紅潮させ、瞳は怒りで濁り、指先はカバンの上で苛立たしげに動いていた。頬杖をついている者たちもいる。
 フルシチョフは顔を上げたままだったが、時折テーブルの向こう側に目をやっていた。視線の先には中国の代表団が、石のように固い顔で、演説を聞いている。フルシチョフは額に手をやった。背後から誰かが何かのファイルを差し出した。フルシチョフはそのファイルに視線を落としたが、不自然なしぐさでまた顔を上げた。ブルガリアの代表団がそれをじっと見つめている。ウルブリヒトの円錐状に伸びた顎鬚は怒りに震えていた。  フルシチョフの肩越しに、また別の書類が差し出された。ブカレスト会議の書類だな、とベスニクは思った。ホー・チ・ミンは、薄くまばらに顎鬚を伸ばし、目はぼんやりと、苦痛に満ちた彼方に注がれたままで、その表情は透き通っているように見えた。黒づくめの一人は、壁のレリーフを眺めている。中国の代表団は、全く身じろぎもせず、演説を聞き続けていた。
[訳註;旧版ではこの後に次の文が続く;
「フルシチョフに差し出されたファイルがまた別のファイルと取り替えられた。だがベスニクは、それが何のファイルなのか、もう考えようとはしなかった」]

 一部の参加者の表情は、目に見えて苛立ちを増していた。額にも、頬にも、首筋にも、次々に赤いものが点々と、或いは筋状に散らばっていくのだった。小型のイヤフォンの、両側に垂れ下がる黒い線が、今こうして見ていると、あたかも蟹だか蛸だかといった海棲生物の触手が左右のこめかみにからみついて離れないまま、痛みを及ぼし、苦しみさいなんでいるようだった。そんなことがしばらく続いていた。
 ようやくエンヴェル・ホヂャは結びの言葉を終え、凍りついた議場内にちらりと一瞥をくれると、演壇を離れ、大股で歩いて自分の席に戻った。その途端、演説を聞いていた者たちはこめかみから禍々しい触手を引き剥がした。きっと取り付いた相手に爪を立て、激しい痛みを与えていたのに違いない。
 議場は静まり返っていた。フルシチョフは顔を上げたが、視線はほとんど定まっていなかった。
『私は、世界最強の国家の指導者だ』
彼は自分に言い聞かせた。だがそんな考えは意識の周囲を漂うばかりで、頭の中に落ち着くことが全くできなかった。彼は議場を見渡し、心の中で叫んだ。
『誰か助けてくれ』
けたたましく警報が鳴り響く中、フルシチョフは何か気持ちを落ち着かせるようなことを考えようとしたが、思い浮かぶのはただカザフスタンの平原ばかりだった。議場はなおも固まったままだった。
『私はスターリンを倒した男だ』
フルシチョフは思った。
 議場の沈黙は以上に長く感じられたが、実際はほんの5秒でしかなかった。6秒目に、テーブルの中央の辺りから手が挙がった。
「発言を」
手を上げた人物が言った。
「発言の許可を求めます」
 彼は早足で演壇に向かい、たどりつくや口を開き(言葉を出そうとして必要以上に口をぱくぱくさせていたが)早口で喋り出した。
「只今のエンヴェル・ホヂャ同志の発言に、徹底的に抗議します。母なるソヴィエト共産党に対するこのような中傷に対し、全面的に異議を申し立てます。私は決定的に尊厳を傷付けられ・・・」
発言者はさらに文を作ろうと何にでも「的に」をつけて副詞にしながら、その間ずっと右手を振り回していた。
 聞いている大多数の者たちの目に、復讐の炎がちらちらと宿っていた。彼らは賛同の意を示すようにうなづいていた。ゴムウカが何やら大急ぎでメモしている。ドロレス・イバルリのショールの房飾りの先が、目の前に置かれた書類の上に垂れ下がっていて、黒い爪のように見えた。
 一人目の発言者に続いて、別の人物が発言の許可を求めた。その発言者は副詞こそ使わなかったが、さらにいきり立っていて、たびたび大声を挙げてはありとあらゆる点に異議を申し立てた。何度も「一貫して」とか「この世に生ある限り」といった語を口にし、それ以外の語は全て時間に関わるものだった。彼は自らの憤怒を「断じて」「断じて」という語でしめくくるのだった。
 その次に立ち上がったのはイバルリだった。
「本日、私はトロツキーの時以来、共産主義運動において最も恥ずべき発言を耳にしました」
彼女はそう言った。喋りながら、黒いショールを脱ごうともしなかった。彼女が腕を振り上げるたび、白髪がそのショールの房飾りの間からこぼれ出した。
「アルバニアの同志諸君、あなたたちは一体何が望みなのか?」
イバルリはアルバニア代表団の方に向き直り、二度三度と繰り返した。
「あなたたちは一体、何をしでかそうというつもりなのか・・・」
 彼女の言葉は容赦がなかった。
「エンヴェル・ホヂャ殿よ、あなたは何が望みなのか?エンヴェル・ホヂャ殿よ。戦争ですか?」
その顔の皺も、白髪も、悲しげなショールも、声も、その他のありとあらゆるものが、母であり、同時に未亡人である女から発されたものであった。それはイベリアの、スペインの悲哀であり、またそれはバルカンの不運にも驚くほど似ていた。二つの半島の終わりなき痛苦は、あたかも死のごとく海深く沈み込み、それら全てがこぞって彼女の言葉を後押ししていた。そしてその蓄えの全てを惜しみなく使い果たしてしまうと、喋り終わる頃の彼女からは、もはや皺も白髪も悲しみも消え失せているようだった。
「気の毒な婆さんだ、故郷もなくして」
エンヴェル・ホヂャはそうつぶやいて、イヤフォンを耳から外した。
[訳註;旧版ではこの後に次の文が続く;
「ホヂャの隣に座っていたアルバニア代表団の一人はスペイン滞在歴の持ち主だったが、まるで幽霊にでも出会ったかのようにイバルリを見つめていた。その額には、玉のような汗の粒がびっしりと吹き出していた。抜けるような青空と熱気の下の、灼熱の太陽とスピーカーが、今も彼の記憶から離れなかった。エブロ川のそばの塹壕の中にいた時、そのスピーカーから初めて彼女の声を聞いた。あの頃は幾百回となく彼女のために命を賭したものだ。あの頃、あの太陽の下、あのスピーカーの下で。だが彼が今聞いているその声は、あの頃の声の死骸でしかなかった」
ちなみに、ホヂャの隣に座っていた代表団メンバーでスペイン滞在歴のある人物と言えば、スペイン内戦で人民戦線軍に参加したメフメト・シェーフ副首相以外にあり得ない。しかしシェーフは1981年の死と共に公史から抹殺されたため、カダレの作品でも、改版時にシェーフに関する記述は消されている]

 イバルリが自分の席に戻っていく間に、ゴムウカが手を挙げた。
「発言の許可を!」
彼は重い足取りで演壇へと進み、聴衆に向き直るや、自分のお気に入りの、歯と歯の間に挟まっている言葉、それは「団結」なのだと語った。
『かつて不滅の団結があった』
ベスニクは思った。
「諸君はその団結に手をつけようとしたのだ、諸君は・・・」
ゴムウカは「第五列」「背後からのひと突き」「ユダ」といった言葉を立て続けに発した。
 怨讐に満ち満ちた視線が周囲を彷徨い、ぶつかると、互いに打ち消しあい、そこにもやのようなかたまりを残すのだった。
『この会議は、たった一つの目のようなものだ』
ベスニクは思った。そこでは人々がこう言っているように見えた。
『こんなことになるなんて思ってもみなかった、その・・・団結、この最も神聖なもの、指針であり、希望であり、誇りであり、栄誉であるものに、手をつけるなどとは。それなくして他に何があるというのだ?何に望みをかければいいのだ?ああ、何たる不運!』
 ゴムウカの発言が済むと、休憩に入った。代表団らは騒々しく席を立ち、議場の外へ出た。ビュッフェへ向かう者もあれば、ホールへ向かう者もいた。脇のドアに姿を消すものもいたが、トイレにも行ったのであろう。[訳註;この一文は旧版にない]議場を出る際、彼らは互いに言葉を交わしつつ、頭や肩を揺すったり、両手を広げたりしていた。
 ベスニクは別の通訳と一緒に、アルバニア代表団のメンバーが小さく固まっている、その後について議場を出た。
 至るところで人々の峻烈な視線を感じた。人々は周囲でグループごとに集まっては、互いにやりとりし、意見を述べ、約束を交わし、互いに確認していた。何をなすべきか、いかなる処置を講じるべきか、何を指示するのか、どのように恐怖を与えるか、どうやって己の立場を知らしめるか。あの時のように、あの時のように、あの時のように。レーニンの、トロツキーの、スタ・・・の、ブハーリンの時代のように、いやもっと遠く、マルクスの、カウツキーの、ベルンシュタインの時代のように、いやさらに遠く、第四回勅の、二度目の対立の、教会大分裂の、ローマの、ビザンツの、母権制の・・・
[訳註;「回勅(encyclica)」はローマ教皇によって公布される文書。「二度目の対立」は14~15世紀にイタリアのローマとフランスのアヴィニョンで「ローマ教皇」が並立し、互いに正当性を主張した状態を指す。「教会大分裂(大シスマ)」はそれに先立つ11世紀中期の、東西教会(正教とカトリック)の分裂をさす。ちなみに、日本の世界史教科書では前者が「教会大分裂(大シスマ)」として書かれている場合があるが、本質的にはどちらも「大シスマ」である]
 代表団たちの集まる中をフルシチョフが通り過ぎた。周囲は彼の一挙手一投足に視線を注ぎ、防壁のように彼を取り囲んだ。フルシチョフは何か話しながら、エンヴェル・ホヂャの方へ目をやってみせた。
「何、何だって?」
少し離れた場所にいてよく聞き取れなかった者たちが、互いに訊ね合った。
「同志フルシチョフはね、エンヴェル・ホヂャが我々全員の顔に泥を塗ったと、そう言うのさ」
誰かがぎこちないロシア語で説明した。
「泥だって?彼は泥のことなんて言ってなかったぞ、『ガヴノ』がどうしたとは言っていたが。で、『ガヴノ』とは要するに何のことだい?」
「俺もそんな単語は知らないよ。俗語なんじゃないか」
数人の通訳が慌ててポケット版の辞書をめくりながら、
「グ・グ・グ」とつぶやいていた。それから別の通訳にも話しかけた。
「僕の辞書にそんな単語は載ってない」
言われた相手はさらに探し続ける。
「グ・グ・グ」
「無駄なことはやめておけよ、たぶん下品な単語なんだろう」別の誰かが口を挟んだ。
「ポケット版の辞書に、そんな単語は載ってないと思うぜ」
[訳註;ロシア語говноは罵語「汚物」「糞」]

 それはたぶん、これまでこの世に起こったどんなことよりも、彼には恐ろしい出来事だった。
 20分前のことだ。長く[訳註;旧版では「異様に長く」]続いた会議が終わって、ホールに出てきた一同の、打ちのめされたその表情を目にするや、彼は全てを悟った。
[訳註;旧版ではここに次の文が続く;
「会議場内で彼らの瞳や眉毛に走った怒りが余りにも大きかったのか、議場へ戻る際には、表情を直すのに必死になっている様子だった」]

 今は廊下の人影も、再びまばらになっていた。ドアが閉ざされるや、そこでは彼らの眼前で災難が続くに違いない。彼は決して好奇心の旺盛な人間ではなかった。会議の休憩時間中のちょっとした会話にさえ、つとめて耳を貸さないようにしていた。ところが今日は初めて、何かしら小耳に挟んでも構わないだろうと思ったのだ。何か大きな亀裂が生じている。彼自身の意識の中にも、何か亀裂が生じているのかも知れない。
 しかし休憩時間中には何も聞くことができなかった。今になって後悔してもあとの祭りである。辺りはすっかり人気もなくなっている。コートのボタンがまるで光を失った眼のようだ。
 年配のクローク係は頬杖をついた。そら、向こうでは他のクローク係たちが額を寄せ合っている。彼らは何かを聞いたのに違いない。中央委員会のメンバーたちのクローク担当ともなれば、いささか繊細な、それも極めて繊細な問題を耳にしているが、大使館員などのクローク担当のことには触れない。彼らは間違いなく、あらゆることに精通しているのだ。
 彼は奥の方に固まっているその数人のグループをちらりと見た。これまでなら、そんな風に額を寄せ合わせてひそひそと会話するのを、にやにやしながら眺めているだけだった。何年もの間、自分が孤高を保っていることに誇りさえ感じていたものだ。だが今日の彼はうんざりしていた。今日だけは不思議なことに、妬みのような感覚さえおぼえていた。
 彼はしばらくその誘惑に抗していたが、やがて実行に移した。それは、これまでの彼にとって、体裁が悪い上に、品位に悖るようなことだった:そのグループの方へゆっくりと、大股で近付いていくと、タバコをくれないかと話しかけたのだ。向こうは驚いた風で、慌ててタバコの箱を差し出した。彼はタバコにじゅうぶん火がついていない内から、わざわざここまで来ておいてすぐ引き返すことを恐れでもするように、早速(彼は他人の会話に割って入るということを知らなかった)ずっと気になっていることについて訊ねてみた。
 彼らは目を見開き、驚きながらも、同時に楽しげに、早口で、互いに入り乱れて説明した。
「どうも割れているらしい」
「派手にやり合っている」
「今までにないことだな」
「まあ落ち着けよ」年配のクローク係は言った。
「そこのお前さんは何だって、歯を出して笑ってるんだね?」
「そんなんじゃないよ。やけになって一杯ひっかけてきたとでも?ほら、息を嗅いでみろよ兄弟。このセルゲイ・イグナチェフ、たとえ勤務時間であろうとも、やけになれば一杯ひっかけもするさ。団結が壊れた?ああ壊れたさ。これ以上どうしろっていうんだ?何もかも悪魔にくれてやれ」
[訳註;上のセリフは旧版では少し異なる;
「そんなんじゃないよ。やけになって一杯ひっかけてきたとでも?ほら、息を嗅いでみろよ兄弟」
「別にいいよ」
「ああ飲んだとも。ビュッフェに行ってきたさ。このセルゲイ・イグナチェフ、たとえ勤務時間であろうとも、やけになれば一杯ひっかけもするさ。団結が壊れた?ああ壊れたさ。これ以上どうしろっていうんだ?何もかも悪魔にくれてやれ」]

「言ってることがさっぱりわからん」
年配のクローク係は言った。
「こりゃ戻しそうだな」
「団結あってこその人生だぞ。俺たちはそう教わってきたのに」
酔ったクローク係はそう言うとため息をついて、
「それなのに」と言葉を継いだ。
「わからないよ。団結なき今、どうして人生が愉快なものかね。マルクスも言っていたな、団結は一時のもの、対立は永遠のものだと」
「さっぱりわからない」年配のクローク係は言った。
「気の毒なやつだな、お前さんは」
そう言って大股でその場を離れながら、彼はつぶやいた。
「気の毒なのは、俺の方だ」

 彼らは次から次へと発言を続けていた。憤怒の余り、頭や腕や指先を振り回し、徹底的に、完全に、憤慨し、怒り狂っていた。そして、分裂主義者、日和見主義者、教条主義者、民族主義者、挑発者、恩知らず、面汚し、戦争屋[訳註;旧版では「分裂主義者、分派主義者、日和見主義者、教条主義者、ナショナリスト、ショーヴィニスト、挑発者、侵略者、戦争屋」]を、断罪し、暴露し、殲滅し、墓穴に埋めてやると息巻いていた。我々が犯した唯一の罪は・・・発言はウルブリヒト、アリ・ヤタ、トレーズと続き、そしてジフコフが、「恩知らずのシニシズム」といった言葉で攻撃を開始した。
[訳註;アリ・ヤタ(Ali Yata)はモロッコ共産党(現・進歩社会主義党)の書記長。トドル・ジフコフ(Тодор Живков)はブルガリア共産党第一書記]
 それに続いてデジがこう言った。
「まるでこの演壇から『フリー・ヨーロッパ』が喋っているようだ」
[訳註;「フリー・ヨーロッパ(Radio Free Europe)」は「東側」に向けて発信されていた米国出資のラジオ放送]
さらに他の発言者たちは、特定の修飾語にこだわりつつ、入れ替わり立ち替わり、ますます声を張り上げて、悲劇じみたしぐさで両手を広げ、胸を叩き、「否」や「断じて」と叫んだ。
 ヨーロッパやラテンアメリカ諸国の代表の中には、加えてさらに聖書のシンボルを引き合いに出す者たちもいた。その他、とりわけイスラーム諸国やアジアの代表たちは、古代の格言を読み上げ、さらにアフリカ諸国の代表に至っては、そのようなシンボルや格言を訳す余裕がなかったのか、一般的な文言に終始していた。
 アルバニアの擁護にまわった者もいた。議場は再び凍りついた。
「我々共産主義者はこのような事態を承知していなかった」
その発言者は言った。
「そうでなければ、我が党の持ち分で、アルバニア向けの小麦を購入していただろう」
 さらにもう一人が発言した。フルシチョフの頭がいまいましそうに揺れていた。議場は憤激に包まれ、発言した二人は同時に攻撃を受けた。状況は逆戻りし、中国代表の発言に、議場は騒然となった。ルイジ・ロンゴが発言許可を求めた。イタリア語の長々とした副詞が、鞭をピシリピシリやるように彼の口から流れ出した。
[訳註;ルイジ・ロンゴ(Luigi Longo)はイタリア共産党書記長]
 第一のローマか。ベスニクはふと思った。
 このイタリア代表に続いて演壇に立った人物は、刈り取られたように短い言葉を語った。さらに数人が続いた。マイク越しに、芝居じみた叫び声が響いてくる。ベスニクは、病み衰えた恐竜たちの咆哮についてどこかで読んだ時のことを思い出した。
[訳註;旧版ではここに次の文が入る;
「カレンダーだったか、それとも科学雑誌だったか、それとも学校の、動物学の授業でだったか、彼は恐竜の大群に関する話を聞いたことがあった」]

千頭ばかりの怪物たちの最後の一群が、消えていく前に、オーストラリアの荒野を、いずこへともなく進んで行くのだ。その群れはさらに北へと向かい、安住の地を探し求めるのだ。こわばった身体をひきずりながら、進むほどに重くなる息づかいと共に。かく彷徨った末、気付けばそこは沼地の真ん中で、そこから逃れようともがけばもがくほど、さらに深く泥の中にはまっていくのだ。彼らは沈んでいく。雨が降っている。その悲痛な咆哮が地平線に広がる。この世に、かくも長き時代を制した怪物たちの場所は、もうない。彼らは自らの重みに溺れていくのだ。怪物の悲しげな、恐ろしいまでに痛々しいうめき声が、無関心な空の下に響き渡る。それが何ヶ月も、おそらくは何年も続いたのだ。一つまた一つとうめき声が消え、やがて深い沼地を沈黙が支配した。
「諸君は何故、偉大な母なる党を攻撃しようとするのか?諸君は何故、母なる党に手を上げようとするのか?手遅れにならないうちに立ち上がりたまえ、アルバニアの同志諸君よ、母親の前にひざまづき、親に手を上げた息子として許しを請いたまえ」
 その発言者は声を震わせていた。続いて演壇にチェコスロヴァキア共産党の代表が立った。最初の言葉を口にする前に、その代表は一回、二回と両手を広げ、そしてうなづいた。
「同志諸君。我らが偉大なる兄弟であり、我らが父たる、最も人間的な国家にして、我らを狼どもの牙より護りしソヴィエト連邦が、このような途方もないやり口で、大国排外主義だと、植民地主義だと、干渉だと非難され・・・同志諸君よ、申し訳ない、私はもう耐えられない、耐えられない」
 次に演壇に上がったのは、ラテンアメリカの代表者の一人だった。
「我々の目の前で何が起こっているのか?レーニンの党が攻撃を受けている!それはどこで?党の牙城、悠久のクレムリンでだ。どうなっているのだ、同志諸君、どうなっているのだ。我々の目の前で、栄光ある我らが母に、泥が浴びせられているのだ。それもレーニン廟のすぐそばで」
発言者はすすり泣きを始め、ハンカチを取り出した。代表たちの多くは両手で頭を抱えていた。どうにかしなければ。どうにかしなければ。
 古典劇だな。ベスニクはそう思った。エウメニスたちのコロスだ。胃の腑がかきまわされるような感じがした。ブトリントで彫像の肩にへばりつく蛇を見た、あの時と同じだ。雄弁家たちは、次から次へと発言を求めている・・・同志諸君、神々よ、マルクス主義の古典的思想家たちの彫像よ、諸君は感じているのか、大地が揺れ動き、稲妻が閃くのを・・・第一書記たちのコロスだ。咆哮を上げ、稲妻が閃く。ベスニクは彼らの大半の、その肩に蛇が乗っているような気がした。いつかは毒がすっかりまわってしまうのだろうな。彼はそう思った。
[訳註;エウメニスは復讐と罪の追求の女神であり、エリーニュスとも。多産豊饒と好意の女神の面も持つ。「コロス」はギリシア悲劇における合唱団のこと。コーラスの語源]
「今この時、母なる党に手を上げ、神聖なる団結を引き裂こうとするとなど、これこそすなわち、ああ、その・・・」
 エンヴェル・ホヂャが再びイヤフォンをつけてている。だが本当はひとことも聴いておらず、ただ言葉の響きだけを聴いていた。それどころか、イヤフォンから流れてくるフランス語の通訳を遮断して、順番に他の言語へ移っていた。ほんのすぐそば、2ミリと離れていない距離で、それらの言語が大洋と世紀を分け合っている。今、そのほとんどの言語によってアルバニアが侮辱されているのだ。
 エンヴェル・ホヂャは機械の操作を続けた。しばらくそうしていると、徐々に自分と議場とのつながりが消えていくのだった。その刹那、或る種のまどろみのような、尋常でない疲れを覚えた。目の前の光景が真っ白くなり始め、そして突然、どうしてかはわからないが、奇妙なほどにはっきりとその眼前に、ジロカスタルの黒衣の老女たちが長椅子に並んで腰掛け、しきたりにのっとって右のまぶたに片手をあてたまま、声を揃えて静かに泣いている姿が見えてきたのだ。死んだのは、タレ・シェリフィだ。冬だった。広い窓からはゼルゼビル橋と、切り立った峠道を通る人々の姿が見えた。彼が不意に広間に入ってくると、女や年寄りたちが泣いていて、彼は梁に釘で打ち付けられたように身動き出来なかった。こんなに一つに揃って嘆く姿を見たのは初めてだった。「世もろともに」泣いている、そんな風に呼ばれていた。女たちは泥酔したようになっている。一人が冷水を布切れに浸して、隣の女の額にあてがっていた。相手は礼を言う代わりに、うめきながらこう言った。
『なぜ私を正気に戻すの?』
「さらにこれは、望むと望まざるとに関わらず、帝国主義に奉仕することにつながる。そうだ、同志諸君。帝国はずっと以前から、この不吉な胎動の日を夢想してきたのだ・・・」
 誰かがギリシア語ともトルコ語ともつかない言語で何か言った。第二のローマか。ベスニクはそう思いながらイヤフォンを外した。すると、聴衆の多くが期せずして同じことをしているのが目に入った。彼はその刹那、それらがイヤフォンではなく、いにしえの荊の冠のように見えた。彼らはそれをひっきりなしに、痛む頭から外したり載せたりしているのだ。
 そら、今度の発言者はユダの銀貨30枚の話をしているぞ。フルシチョフはそんなことを考えていた。彼は至福の状態だった。十字架、ユダヤの地、過越祭の日々が、数十年の埃にまみれ、党大会や、反対派弾圧の総会や、メーデーの祝典が奇妙にないまぜにされ、こうして彼の脳裏で波打ち沸き立っているのだ。彼はアルバニア代表団の方を横目で見た。エンヴェル・ホヂャは体を後ろにもたせかけている。
『この土砂降りが終われば、奴はひざまずくだろうさ』
フルシチョフはそう思った。聖書のユダの最後がどうだったか、よく思い出せない。
『何がしかは、あいつに憐憫をかけてやらなくてはな』とも考えていた。
 我々が放蕩息子のように君たちのもとに帰ってくることはない、などとエンヴェル・ホヂャは言っていたな。フルシチョフは内心ほくそ笑んだ。
『帰ってくるさ』彼は思った。
『冬の晩、雪の中、クレムリンの門を夜明けまで叩き続けるのだ。そしてお前の後には他の連中も続いている』彼はそんなことを考えつつ、ホヂャの両脇にいる3人を横目でちらりと眺めた。
 彼の頭の中で、ブカレストの苦々しい記憶と、国連の議場でのことがないまぜになっていた。あの時は・・・あれを引っ張り出したのだ・・・靴を。
『お前は帰ってくるさ』
フルシチョフは疲れを覚えながら、また思った。
『冬の晩だ。それから門を開けるべきか、開けざるべきか、それが問題だ』
 演壇にはスカンディナヴィア人が立っていた。
『やってやれ』フルシチョフは思った。
『あいつに喰らわしてやれ』
ところが相手が話していたのは別の話題だった。フルシチョフはどうにか集中しようとした。
 そんな北欧人の演説にも、ようやく攻撃的な部分があらわれた。フルシチョフはほとんど身じろぎもしなかった。演説がそういうところへ来るたび、彼はいつもそうだった。
「エンヴェル・ホヂャ同志の演説に関しては、あれは不適切なものであったように我々は思う」
北欧の代表はそう言って
「また別の問題で・・・」と演説を続けた。
 それだけか?フルシチョフは思わず叫び声を上げそうになった。
 それだけか?血の通っていないガラス細工の人形じゃあるまいし。『演説が不適切』とは。ふむ、とんだ宦官どもがいたものだ。
 フルシチョフは、あの異様な午前のことを思い出して幾度となく身体が熱くなるのだった。ハンガリー人たちにとっても、それは容易に忘れがたいことだった。ひどく控え目に、彼らは攻撃に己が身をさらしていたのだ。
『私にはわかっているぞ、お前たちが何を望んでいるか』彼はつぶやいた。
『お前たちが欲しいのはミコヤンの首だろう。あいつはお前たちの弱みを知っているのだから』
 さあ次は中国だ、と彼は思った。しかしこの銅鑼がどんな風に鳴り渡るか、彼にはわかっていた。
 中国代表が演壇に向かうまでの間、議場はさらに深い静寂の中に沈んでいた。
 ただ一人、その中国代表のことを意に介していない者がいた。それは別のスカンディナヴィアの代表だった。彼は、地球外生命にこの対立をどうやったら説明できるだろうかという考えに耽っていたのだ。
 どうやって説明したらよいのだろう。そう例えば、この地球を、海を、大陸を、草原を、いきとし生けるもの全てを包み込むこの雰囲気が、数枚の紙の上に、人々の考え出した文字で書かれた、ありふれた言葉の数々と、密接に関わっているのだということを。『物質こそ第一であり、意識は二番目である』とか『私有財産か社会財産か』とか。遠方からの異邦人は爆笑するかも知れない。これを例えば『意識こそ第一であり、物質は二番目である』などという言葉に入れ替えただけで、惑星の上に恐るべき豪雨を降らせたり、大陸を焼き尽くしたり、空気を熱したり、海をかき回したりできるのだと言ったら、その来訪者に信じてもらえるだろうか?一体全体こんな、他に例を見ないような馬鹿げた話があるだろうか?こんなものは言葉だ、何の力もない、ただの言葉に過ぎないのに、それが偽りの、夢想の権力を握り、人々を目覚めさせ、眼の中の塵を払い、自分たちがどこまで馬鹿だったことかと言わしめるものなのか、そしてこの悪夢に終わりはあるのか?
 これほど共産主義に対する信頼が揺らいだのは、彼にとって初めてのことだった。まるで、久しぶりに墓地を訪れて、墓碑の碑文と十字架を目にしたことで、生きていくことを信じられなくなった人物のようだった。彼にとってこの会議は、さながら巨大な墓地だった。
 中国の代表に続いて、褐色の肌をした別の代表が、箒でガサガサやっているような奇妙なスペイン語で発言許可を求めてきた。
[訳註;「その発言者は声を震わせていた。」からここまでは、1973年の初版とその後の版とでは構成が著しく異なる。以下に、初版の記述を掲載する:
 その発言者は声を震わせていた。続いて演壇に別の発言者が立った。声のイントネイションから、ラテンアメリカの代表のように思われた。
「我々の目の前で何が起こっているのか?レーニンの党が攻撃を受けている!それはどこで?党の牙城、悠久のクレムリンでだ。どうなっているのだ、同志諸君、どうなっているのだ。我々の目の前で、栄光ある我らが母に、泥が浴びせられているのだ。それもレーニン廟のすぐそばで」
発言者はすすり泣きを始め、ハンカチを取り出した。代表たちの多くは両手で頭を抱えていた。どうにかしなければ。どうにかしなければ。
 エンヴェル・ホヂャが再びイヤフォンをつけている。だが本当はひとことも聴いておらず、ただ言葉のイントネイションだけを聴いていた。それどころか、イヤフォンから流れてくるフランス語の通訳を遮断して、順番に他の言語へ移っていた。しばらくの間、半ば自動的にそうしていると、徐々に自分と議場とのつながりが消えていくのだった。その刹那、或る種のまどろみのような、尋常でない疲れを覚えた。目の前の現実が真っ白く、非物質化され始め、そして突然、理由もわからず思いも及ばぬまま、奇妙なほどにはっきりとその眼前に、ジロカスタルの黒衣の老女たちが長椅子に並んで腰掛け、しきたりにのっとって右のまぶたに片手をあてたまま、完全に声を揃えて静かに泣いている姿が見えてきたのだ。死んだのは、タレ・シェリフィだ。冬だった。広い窓からはゼルゼビル橋と、切り立った峠道を通る人々の姿が見えた。彼が不意に広間に入ってくると、女や年寄りたちが泣いていて、彼は梁に釘で打ち付けられたように身動き出来なかった。こんなに一つに揃って嘆く姿を見たのは初めてだった。「世もろともに」泣いている、そんな風に呼ばれていた。女たちは泥酔したようになっている。それは単なる儀式を超えて、もはや一つの芸術だった。一人が冷水を布切れに浸して、隣の女の額にあてがっていた。相手は礼を言う代わりに、ぼんやりと目を開け、うめきながらこう言った。
『なぜ私を正気に戻すの?』
「今この時、母なる党に手を上げ、神聖なる団結を引き裂こうとするとなど、これこそすなわち、ああ、その・・・」
 またしてもチェルメニカの山々が。ドイツ軍による冬季攻勢だ。この雪は、私の記憶の中でいつまでも降り続くだろう。揺りかごを抱えた列が、洞窟から洞窟へと渡り歩いていく。そんなうち捨てられた人々の中でも、彼の記憶に残っているのは、山羊を引いて歩く一人の老人だった。その頬はこけ落ちていた。その老人は不意に立ち止まると、振り返り、泣きながら叫んだ。
『おお共産主義よ、我が子よ!』
「さらにこれは、望むと望まざるとに関わらず、帝国主義に奉仕することにつながる。そうだ、同志諸君。帝国主義はずっと以前から、この不吉な胎動の日を夢想してきたのだ・・・」
 まるで黙示録だ。ベスニクはそう思った。
 そら、今度の発言者はユダの銀貨30枚の話をしているぞ。フルシチョフはそんなことを考えていた。彼は至福の状態だった。十字架、ユダヤの地、ゴルゴタが、幼少期からの数十年の埃にまみれ、沸き立ち、今また彼の脳裏で息づき始めているのだ。彼はアルバニア代表団の方を横目で見た。エンヴェル・ホヂャは椅子に背をもたせかけている。
『この土砂降りが終われば、奴はひざまずくだろうさ』
フルシチョフはそう思った。聖書のユダの最後がどうだったか、よく思い出せない。
『何がしかは、あいつに憐憫をかけてやらなくてはな』とも考えていた。他の3人のことはよく知らなかったが、その中の1人とはブカレストで激しい非難の応酬があった。別の1人とはニューヨークでやり合ったことがある。国連の臨時会議で、アルバニア政府の代表団を率いていた男だ。そうだ、あの時は・・・あれを引っ張り出したのだ・・・靴を。あともう1人の若い男は、アルバニア訪問の時に見覚えがある。指導部の若い世代に属していて、モスクワに留学していたそうだ。それなのにその男の眼は、他の2人と同じくらい遠くを見ていた。
 一方その時、スカンディナヴィアの或る国の代表の一人は、通訳の言語を次から次へと切り替えていた。
『地球と共産主義だな』その代表は考えていた。
『地球と共産主義だ。外の人間に、例えば別の惑星から来た人間に、どうやって共産主義の問題を説明したらよいのだろう?』彼はもう何時間もそんな考えに耽っていた。
 どうやって説明したらよいのだろう。我々の惑星を、海を、大陸を、砂漠を、草原を、いきとし生けるものを包み込むこの雰囲気が、数枚の紙の上に、人々の考え出した文字で書かれた、ありふれた言葉の数々と、密接に関わっているのだということを。『物質こそ本質であり、意識は副次的なものである』とか『私有財産か社会財産か』とか。遠方からの来訪者が聞いたら、爆笑するかも知れない。これを例えば『意識こそ本質であり、物質は副次的なものである』などという言葉に置き換えただけで、惑星の上に恐るべき豪雨を降らせたり、大陸を焼き尽くしたり、空気を熱したり、海をかき回したりできるのだと言ったら、その来訪者に信じてもらえるだろうか?一体全体こんな、他に例を見ないような馬鹿げた話があるだろうか?こんなものは言葉だ、何の力もない、ただの言葉に過ぎないのに、それが夢想の中で偽の権力を握り、人々を目覚めさせ、眼の中の塵を払い、『俺たちは何て馬鹿だったんだ!』と言わしめるものなのか?
 これほど共産主義に対する信頼が揺らいだのは、彼にとって初めてのことだった。まるで、久しぶりに墓地を訪れて、墓碑の碑文と十字架を目にしたことで、生きていくことを信じられなくなった人物のようだった。彼にとってこの会議は、さながら巨大な墓地だった。]

「栄光ある母なるソヴィエトの党に対する態度こそ、全世界の共産主義者にとって試金石となるのだ」
『それは俺にとっての試金石だ』
ベスニクは逆のことを考えていた。
 頭が痛かった。考えが次から次へと押し寄せてきて、耐えられなかった。もしも誰かに「ベスニク・ストルガ同志は共産主義と固く結ばれている」と公の場で言われていたら、彼はおそらく、謙遜と恥ずかしさの中間のような、奇妙な感覚に襲われ赤面していただろう。
[訳註;上の段落は旧版では以下の通り:
 頭は痛かったが、彼の頭脳は尋常ならざる勢いで回転していた。考えが次から次へと押し寄せてきて、耐えられなかった。自分がこれほど心から、革命の問題に深入りしていることに、彼は気付いていなかった。まして「ベスニク・ストルガ同志は党と人民権力に固く結ばれている」と、もしも誰かに公の場で言われていたら、彼はおそらく、謙遜と恥ずかしさの中間のような、奇妙な感覚に襲われ赤面していただろう。]

 この俺が闘士なのか?彼は幾度か自問したものだ。だがそんな風には思えなかった。自分がそうでない理由など見当たらなかった。ベスニクの家族全員が戦争に関わっていた。父親は古参の共産主義者だったし、ベスニク自身も党員候補だった。それなのに彼は、自分が何かしら蚊帳の外に置かれたような気持ちでいた。
 どうしてこんな気持ちになるのか、彼は幾度かその理由を見出そうとしてみたが、自分なりの理由は見つからなかった。党に対する何らの疑念も抱いてはいなかった。幾度かは、彼の意識の中で何かしらが明らかになり、真の理由を明るみに出しかけたような気もしたが、その刹那のきらめきはたちまち消え失せて、全ては再び暗闇に沈むのだった。
 それで自分のことを、他の誰とも変わらない共産主義者なのだと考えようとしたが、それも長くは続かなかった。すぐさま、自分の魂の内に燃え上がるものがないことに思い至るのだった。最も確信的な者たちの隊列の中に、自分はいない気がしていた。自分を偽ってみても詮無いことだ。彼らは自分とは違うのだから。彼らは・・・その顕著な特徴が、ベスニクの記憶の中でずっと舞い踊っていた。曲がった鼻のラインと、力強い眉の配置、それがどこかしらZの文字[訳注;ドイツ語版ではなぜか「Nの文字」と訳している。ちなみに第1部でも同じことが]を思わせる。そしてついに姿を現した。取材班長のラチだ。そうだ、まさに彼らの一人だ。ベスニクのくたびれた頭の中で、次から次へと考えがひらめき、交錯し、そして不意に、自分が彼らとは違っている真の理由がわかったような気がしたのだ・・・彼らこそが何年もの間、このベスニクを蚊帳の外[訳註;旧版では「一顧だにされない蚊帳の外」]に置いてきたのだ。彼らは、自分たちが国家[訳註;旧版では「党」]に近い者であり、信頼に足る者であり、それこそ内々の、家族のような存在だと自称してきた。その一方で彼らは、自分たち以外のことはよそもの呼ばわりしてきたのだ。彼らは「我ら」であり、そうでない者たちは「あいつら」だった。ラチは自分のことを「我ら」と言っていた。ベスニクは「あいつら」の部類だった。ベスニクは額に手をやった。
『どこからこのような、薄暗い簒奪者勢力が生まれてきたのだろうか?』彼は考えた。
 彼らは思いもよらない場所に姿を現してくる。住宅に、仕事場に、[訳註;旧版ではここに「青年組織に、党内に、様々な状況の中に、」]会議に、集会に、のみならずありふれた食事や誕生日の席にまで、彼らは不意にやってきて、自ら名乗りを上げ、自ら宣言を行うのだ。ラチも彼らの一人だった。彼はしばしばその視線で、ベスニクの生活に毒を盛ってきた。そこには「我ら」の言葉が隠されていて、それは彼の表情に刻み込まれていた。ベスニクはたびたびそれに反抗した。ラチが「我ら」である権利がどこにある?誰がそれを与えた?どこからそれを持ってきた?何の法律でだ?どの部局でだ?だがベスニクの反抗は、たびたび徒労感と無関心の前にしぼんでいった。
『「我ら」と言わせておけばいいさ、畜生め』
ベスニクはそう思うのだった。彼らがかけてくる圧迫は余りにも頑強で、それを受けた側は疲れ果て、或いは単なる意志の欠如ゆえに、最後には受け入れてしまい、催眠状態に置かれてしまうのだった。 [訳註;旧版ではここに次の文が入る:
 これは恐ろしいことだ。ベスニクはそう思った。こんな風にして、無関心やよそよそしさが作り出されていくのだな。幾百人が、自分ではそれと気付かぬまま、段階的に、革命の隊列から離脱していく。いや彼らは離脱するのではない、沈黙を強いられるのだ。脱階級化だ。間違いなく、彼らの誰にも混乱から立ち直る機会があるのだが、そんな機会は稀だった。彼らは自分たち自身に対する信頼を失ってしまう。そして彼らはゆっくりと、もはや「我ら」でないことを受け入れてしまうのだ。それは彼らにとって恐るべきことだが、しかし現実なのだ。おそらくいつの日か、彼らは自分が何者であったかも忘れてしまうだろう。我に返るには強い揺さぶりが必要だ。ベスニクはそう思った。この会議のような、強烈な揺さぶりだ。誰にも自分にとっての試金石がある。誰にも自分にとっての試金石があるが、共通のものは存在し得ない、とベスニクは考えていた。何故なら、そうした再評価のための試金石とは例えば戦争だが、しかしそれは余りにも高くつくからだ。]

『この会議は俺にとっての試金石だ』
ベスニクは再びそう思った。これが俺の運命だ。俺はもう蚊帳の外なんかじゃない。俺は再び「我ら」になった。俺は切り抜けたのだ。
 ベスニクは眼を潤ませていた。演壇で誰かが、語気鋭く喋っている。
「我らモンゴルの共産主義者は、最大限の過酷さを以て糾弾する・・・我らは・・・」
 ベスニクは時計を見た。1時20分だった。
『我ら、か』彼はぼんやりと考えた。
『そして諸君は、何故・・・』

 どうしたの?どうして来ないの?もうこんな時間なのに。中央郵便局の階段の前で、リダは必死に時計を見まいとしていた。それでも、既に数分が過ぎ、今も急ぎ足で、ゆっくりと過ぎていることはわかっていた。1時20分のはずだった。
『もうこんな時間、こんな時間なのに』
リダは声に出さずに叫んだ。
 彼女は硬直したように立ち尽くしていたが、そうしてもの思いに耽るうちに髪の毛を手につかんでいた。それは歩道に落ち、道行く人々の足元で、さらにその向こうの自動車の車輪の下でくるくる舞っていた。今までの人生で、これほどの絶望にかられたことは一度だってなかったのに。鋭いひっかき傷でもなく、ナイフのひと突きでもない。もっとひどかった。地面に叩き付けられたようなものだ。
 小さな売店では人々が絶えず新聞を買っていた。人々は時間の外にいるようだった。買っている新聞も、また同様だった。
 ほらね、本当にこんなに時間が経ってしまったわ。どんなイライラよりもたちの悪い、或る種の冷血さを感じながら、リダはひとりごちた。今までの待ち合わせでの不安など、この新たな不安に比べれば何ほどのものでもなかった。数日前、二人はようやく仲直りしたのだ。彼はいつも通りに電話をかけてきた。
『もしもし、D 1-22-29番ですか?』
 彼女は待ち合わせに駆けつけた。
『どうして?どうして?どうして?』
リダはそう訊ねたが、それでいて彼女自身、何も聞くつもりはなかった、何も。彼は前回来なかった理由を何ひとつ説明しなかった。彼の言うことは何かはっきりしなかった。どこかくたびれた様子で、額に汗のようなものが浮かんでいた。
『ごめんよ、リダ、こんなことになって、どうしてこんなことになったのか、僕にもわからないんだけど、でも、僕のせいじゃないんだ・・・そうじゃない、僕のせいじゃ・・・』
『もう私と付き合うの嫌になった?』
リダが言うと、彼は
『そんなことない、そんなことないよ』
と答えた。
 それから二人は腕を組み、ゴーリキー通りを、そこからトヴェルスコイ大通りへと歩いていった。鉄製のベンチの前を通り過ぎ、アルバート広場へ出ると、そこから地下鉄に乗り、そして、彼女の空想の中では常に最も恐ろしく、最も美しく、最もおぞましく、最も快い、そんな出来事が起きたところへと行き着くのだ。それは今や彼女の顔に謎めいた苦悩のようなものを、光と影のようなものを投げかけていたが、それは女性の顔の美容にはなりそうもなかった。
 二人はようやくのことで、互いの間の唯一の障壁を取り除いたのだ。それなのに、あの人はまだ来ない。起こることはみんな起こったのに、あの人はまだ来ない。あの人は来ない。どうして?車の窓ガラスは、彼女がそこに自分の決意を打ち明けた数日前には生き物のように輝いていたのに、今は不透明で、見通しが悪かった。カフェのドアの上の営業時間表に書かれた数字は死んでいた。小さな売店では、世界の始まりからずっと新聞が売られ続けている。

 もう会議なんて、やりたいだけやらせておけばいい。中央郵便局の裏手から出て50歩ほど進んだところで、AFPの記者はそんなことを思った。これは俺にとっての試金石だ。俺の運命だ。
 分裂か。この数日というものずっと、建物の正面入口で、壁際で[訳註;旧版では「壁の正面で、彼の車のガラスの上で、扉のところで」]、歩道の上で、地図の上で、道行く人々の顔の上で、彼が目にしたのはただ亀裂以外の何ものでもなかった。何もかもがひび割れていく。始めは静かに、やがて絶え間なく、さらに勢いよく、それはまるで地震のようだった。今や全てが実証された。亀裂は存在した。[訳註;旧版ではここに「巨人たちの間は冷え切っていた。」]陣営は失ってしまった・・・眠りも・・・団結も。陣営はもう眠れない・・・彼は初めて共産主義世界の上空を飛んだときのことを思い出した。あの虚空を彷徨った時のことを、あの薄暗がり、あの見通しのなさを。彼は裂け目を、砂漠をせわしなく動き回る小さなトカゲを探し求めていた。その時彼は何も信じられず、自分を見失っていた。
 だが今、割れ目は大地の上を躍動して走り、半島や大陸の間に分け入り、それは遠くからも見てとれた。極地からも、赤道からも。今や彼のニュースはエーテルの中を飛んでいた。
[訳註;「エーテル」は化学物質の方ではなく、古典物理学において空間を満たす媒質のこと]
 それは至るところだった。無数の執務室[訳註;旧版では「政府の無数の執務室」]の中を、ありとあらゆる分野の専門家たちの間を、枢密顧問官たちの間を、閣僚たちの間を、大使たちの間を、将軍や元帥たちの間を、宰相たちの間を、百万長者たちの間を、数世紀の歴史を有する国々の代表者たちの間を、生まれたばかりの国々の代表者たちの間を、あらゆるものの中を例外なく、まるで天空の予兆、彗星の出現、或いは日蝕のごとく、今や割れ目を探し求めているのだった。
 彼はニュースを送り終えたばかりで、今はどこかカフェへ入ろうと足早に歩いているところだった。
『ともあれ、世界は美しい』
新聞の売店のかたわらを通り過ぎながら、記者はそんなことを考えた。店の前に並ぶ人々は、目に涙を溜めた憂鬱そうな女がいるのを横目で眺めている。彼はとても信じられないものを見でもしたように一人にやりとした。
 彼はゴーリキー通りに沿って歩みを進めた。ホテル「モスクワ」前の交差点を渡り、グム[訳註;国営百貨店(ГУМ)]の方向へ流れる人混みの間を、とりとめもなく歩いていたら、そこは赤の広場だった。祝典期間中は閉じられていたレーニン廟も今は開かれている。記者はクレムリンの赤みがかった城壁をしばらく見つめていたが、そうしていると、尖塔と丸屋根が少しだけ向こう側へと伸びていて、その下では今も戦いが行われているような気がしてきた。違う、あれは尖塔も丸屋根でもない。あれは、トロイアの壁を取り囲む軍勢の、いにしえの幕屋・・・そこで彼らは争っている・・・西洋の壁を取り囲んで。怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの・・・西洋の壁を取り囲んで。怒りを送れ、AFPよ、セルゲイの子フルシチョフの・・・
[訳註;ホメーロス『イーリアス』の冒頭「怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの」(松平千秋訳)のもじり]
 自分は今、共産主義のイーリアスに居合わせている。そんな考えが彼の身体の中を駆け抜けた。
『取り敢えず、コーヒーを飲むことだ』
そう思いながら、一方で彼は、コーヒーなど飲まなくとも自分の頭が並外れた密度で働いているのを感じていた。グムの入口の一つに入る時、彼は一旦振り返って右の方を見た。レーニン廟の前に、果てしない人の列があった。黒い尾の彗星が、凍てついた共産主義の四方世界の上にある。そんな光景が、彼の視線をひとしきり釘付けにした。

 発言者は腕を振り上げ、そしてアルバニア代表団の方に向かって振り下ろした。
「歴史は諸君に、分裂者という名の烙印を与えるだろう」
『分裂を起こしたのはこっちじゃない。それはあんたたちの間にあるだけだ』そう思いながらベスニクは、半ば眠りかけていた。眠り、それは彼がもう長いこと自分自身から遠ざけていたものだ。それが今になって戻ってきて、その柔らかな足の裏でのしかかってくるのだ。もうお前は俺のものだ、と眠りがつぶやいているような気がした。もうこれでおしまいだ。
 マイク越しに聞こえる声は、夜明けの北方からのように遠く、そして冷えきっていた。歴史。歴史。
「会議を終了します」議長が宣言した。
 議場はまばらになり始めた。代表たちの背中が次々と遠ざかっていく。目から始まったこの会議が、背中で終わろうとしている。彼らは並んで中央の扉から去っていく。チェコ人たちの背中。ポーランド人たちの背中。フランス人たちの背中。アクアクたちの背中。セナカニアだな、とベスニクは思った。アルバニア語にそういう語があったはずだ。 [訳註;「セナカニア」の原語“Shqineri”はアルバニア語Shqiperi(アルバニア)とshpine(背中)をかけたもの。「アクアク(aku-aku)」は、コンティキ号航海で知られるノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールがイースター島の巨石文化について著したAku-Aku, the Secret of Easter Island(1958)の中で言及している精霊の名]
 議場の外では車たちがエンジンをふかせて待っていた。車のドアが短く、ピシャリと切りつけるような音を鳴らしながら、一つまた一つと閉まっていく。
『全てが無に帰するだろう』
ベスニクは記憶の中で、会談のひとくさりを繰り返していた。
『協定も、貸付も』
 代表団の黒い車列は、アレクサンドロフスキー公園のそばを通り抜けるところだった。ガラス越しに、歴史博物館の尖塔たちが、狂気じみた渦の中で揺れている。ベスニクの頭の中で、彼の意志とは関係なく、最後の演説の言葉が思い出されたが、それらはもはや何ひとつとりとめのないものになっていた。
『歴史は・・・諸君に・・・で・・・』
 市外に出たところで[訳註;旧版では「レニングラード大通りまで来たところで」]、ベスニクはアルバニア代表団の他の車が消えているのに気付いた。ベスニクたちの乗った車と、あともう一台だけが、速度を上げて疾走している。
「他の車はどこに?」ベスニクは訊ねた。
「大使館へ向かったのさ」ヨルダンが答えた。
「今夜は向こうで夜明かしじゃないかな」
「どうしてだ?」
 ヨルダンはにやりと笑った。ベスニクは積もっている雪を見つめた。
 屋敷の玄関の、鉄製の門は開いていた。相変わらず人気のない場所だ。屋敷の中には荒涼感が立ち込めている。荷造りを終えたカバンが、部屋の外に出されていた。今まで一度しか顔を合わせたことのない屋敷の管理人が、そこに立っていた。
[訳註;旧版ではここに次の会話が続く;
「食事はなさらないんですか?」管理人は訊ねてきた
「ああ」ヨルダンが答えた
「ええ」ベスニクも答えた。]

 賄いの女が一人、厨房からであろう、階下の方から上がってきた。彼女はもの問いたげな目線を管理人に向けた。管理人は言った。
「食事はなさらないそうだ」
 彼女はその場に立ったまま、ベスニクたちが誰とも目を合わせないまま荷物を手に取り、車へ運び入れる様子を眺めていた。その内、屋敷の清掃係の女と、その背後から別の賄いの女も姿をあらわした。
「もう出発なの?」賄いの女が小声で訊ねた。
 それに返事をする者はいなかった。ベスニクたちは最後に残った荷物二つを運び出すところだった。それを車に載せると、戻ってきて別れの挨拶をした。恰幅のいい女二人の瞳の中に、かすかな戸惑いが見えた。
 車は出発した。
 大使館で全員が集合した。会話の声は穏やかなものだった。誰の目も潤んだようになっていた。時に郷愁めいたものを感じることもあった。それらの何もかもが、抑制され、柔らかに立ち現れるのだった。そして彼らの声もそんな風だった。
 ベスニクは「明日」「列車」といった言葉を耳にした。それで自分たちが明日出発するのだとわかった。
 大使館員の一人が立て続けにコーヒーを運んできた。
「昨日、学生にもう一度集まってもらってね」
大使館の高官[訳註;旧版では「大使」]が誰かと話していた。
「挑発には気をつけろと念押ししておいたよ」
 相手も同意するようにうなづいていた。
「わけても女には気をつけろと念を押したんだ」
その高官は話を続けていた。
「付き合うのはやめた方がいいと」
「たぶんもう別れただろう」高官は言った。
[訳註;旧版ではここに次の会話が続く;
「そんなに急に?」相手は微苦笑した。
「たぶんもう別れてしまっているだろう」大使は言った。]

 相手はため息をついた。
 そんな会話があちこちで、押し殺したような声でささやかれていた。幅の広いソファに座っているエンヴェル・ホヂャは、会話したりコーヒーを飲んだりしている人々を眺めていた。彼は自分のコーヒーを飲み終えると、カップを背の低いテーブルの上に置いた。ベスニクはそのカップから目を離せなかった。アルバニアの年老いた女たちは皆、皺くちゃの指先を伸ばしてカップをひっくり返し、アルバニアの行く末の運命を読み解こうとするのだ。
[訳註;トルココーヒーを飲み干したカップにソーサーを載せてひっくり返し、残った粉の模様で占いをすること。バルカンで広く見られる慣習の一つ]
『ああ、俺は何を考えているんだろうな』
ベスニクは思った。
「たぶんもう別れてしまっているだろう」
大使館の高官が繰り返していた。
 まだコーヒーを飲んでいない者たちのために、次から次へとコーヒーが運ばれてきた。彼らはコーヒーを手に取ると、それに口元へと持っていく前に、まるでお悔やみの言葉を前にでもしたように互いの目を見交わすのだった。
[訳註;「そんな会話があちこちで」から上の行までの記述は、1973年の初版にはない]
 翌日、昨日までと同じように代表団のメンバーが一人また一人と入ってきた。そしてゲオルギーの間の重い扉が閉ざされた。年配のクローク係は胃の腑にぽっかりと空洞のようなものを感じていた。何か間違いでもあっただろうか?彼がゆっくりとクロークへ戻ってみると、そこにぽっかりと空いた場所があった。間違いなどではない。黒くて丈の長い、エンヴェル・ホヂャのコートがそこにはなかった。
『一羽目のコウノトリがいなくなった』
年配のクローク係はそんなことを思った。
『あれは飛び去ってしまった』
彼は半ば痺れかけた頭でそんなことを考えた。彼らはこんな風にして、列を作って遠く飛び去ってしまうのだろうか?
 大使館員つきのクローク係二人が、まるでたまたまそうなったような顔で、彼の前を通り過ぎるのが見えた。彼ら二人して話し込んでいるようだったが、その視線はまるで槍のようにこちらに、その空っぽの場所に突き立っていた。年配のクローク係は一旦は立ち上がり、その場所を身体で隠そうとしたが、結局それも意味のないことのように思われた。
『気の毒な、何と気の毒な』
彼はそう思った。そしてしばらくは何も思いつかなかった。やがたまたこう思った。
『一羽の鳥が去った』
それから少しして、こうも思った。
『大いなる冬が近付いているのではないか?』
[訳註;作品名でもある「大いなる冬(dimri i madh)」が、ここで初めて作中に登場する]
 その頃、モスクワ-ワルシャワ間を、雪に覆われた平原を切り裂いて走る列車の車内では、エンヴェル・ホヂャが代表団のメンバーたちに語っていた。
「この仕事も終わった」
[訳註;旧版では「ようやく我々は帰路についた」]
彼はそこでひとしきり、灰色の平野が後景に退いてゆく様を見つめていたが、やがて再び口を開いた。
「我々が招かれた先はどこだったのか、諸君は一度でも考えたことがあるかね?」
 ベスニクは、屋敷に着いた最初の晩の、電話フクロウの鳴き響く声を思い出した。
『城の主だ』彼は思った。
『中世の、闇と恐怖に包まれた城の』
そんな思いを重ねながら、霜の張りついた窓ガラスに額を押し付けるのだった。
[訳註;上記「ベスニクは」以降は、旧版では次の通り;
『マクベスだな』とベスニクは考えながら、屋敷に着いた最初の晩の、電話フクロウの鳴き響く声を思い出した。
『マクベスの客人か』と一人繰り返しながら、霜の張りついた窓ガラスに額を押し付けるのだった。]

6
 雷鳴が聞こえるたび、一同は窓の方へ、まるで何かの知らせを待つように頭を向けた。外はずっと降りしきる雨だった。鳴り響く雷は、ひとしきり脅しつけるように空港の上を回っていた。雷に続く雨は、より勢いを増したように感じられた。
「天候が悪いから、飛行機はたぶん着陸できないんじゃないかな」
テーブルの傍にいた背の低い男が、三度目の同じことを口にした。そのたびにザナも辺りを見回すのだが、見たところ誰も待合室を立ち去ろうとはしていなかった。幾度かは、好機が到来したかにも思われた。雨はまばらになり、ほとんど止みかけていたが、そうすると今度は思いもかけない方角から雷鳴が長く轟くのだった。雷鳴は重々しく空じゅうに響き渡り、死者を載せた手押し車が石畳の上を行くように、やがて遠方へと消え去るのだった。
 午後になると雨足が弱まってきた。
[訳註;旧版では「遠方へと消え去るのだった。」に続いて、以下の文があった。ちなみにミラは第1部に登場したベスニクの妹;
その雷鳴の最後のなごりは、ミラの目元に残されていた。
『本当にベスニクにそっくりだわ』ザナは思った。
『特にこんな風に考え込んでいるところなんて』
「ミラ、まだ何か注文する?」ザナは訊ねた。
「ううん」ミラは答えた。「もう食べたくないわ」
「ココアでも飲みなさいよ」
「いらないわ」
「また雨がまばらになってきたみたいね」ザナは言った。
 ミラは窓ガラスの方を見た。少しだけ張り出した頬が、その目の形をさらに際立たせていた。
 確かに、雨足は弱まってきた。]

待合室の中で、人々の声が唸るように響いた。雷鳴がまた聞こえたが、その頃になると雷はどこか彼方の、己の持ち場へと過ぎ去ったように思われた。
 ザナは一人の男の視線が気になっていた。それは先ほどからずっとザナの方を凝視していた。[訳註;旧版ではここに「それでザナは席を替わった」]その瞳の奥はぎらぎらと光っていて、燃え上がるようでもあり[訳註;旧版では「興奮しているようでもあり」]、また憂鬱なようでもあった。それはまるでこう言っているようだった。
『お前は婚約者を待っている、きっとたまらないのだろう、何日も前から、そいつと一緒に寝たくてたまらないのだ』
 ザナはだんだんいらいらしてきた。
[訳註;旧版では上の文に続いて、以下の文があった;
彼女はまた何度か席を替わったのだが、それでもじわじわと、いつの間にかその男も居場所を変え、そして彼女の目の前に静かに座っていた。そこには何らの攻撃的なそぶりも無かったが、ねばりつくような卑屈さが感じられた。
『俺は何も望んじゃいない』と男の目が語っていた。
『俺が何もかもお見通しだということを、あんたがわかってくれさえすればいいんだ』
『やれやれ』ザナは思った。確かに、この薄気味悪い男は何かを知っているのに違いない。それは男の目つきでわかる。人を素っ裸にする、そういう類の目をしている男だった。ザナは自分が、その男の前で下着一枚にされているような気がした。
『何だってこんな類の連中を、公の場所に野放しにしておくのかしら?』
 ザナはミラに声をかけた。二人は立ち上がり、あてどもなく空港内の店舗をぶらついたが、税関のところまで行くと、また戻ってきた。]

雨足が戻り出した。何人かの目の中に、ザナは激しい憂鬱を見て取った。苦悩にやつれた顔も見える。ザナは不安を覚えた。
『どうしてみんな、こんなに暗くふさぎこんでいるのかしら?』
ザナにしても、今日は飛行機が着かないのではないかと思うと気が気ではなかったのだが、この人たちの表情には何か不吉な影さえ見えるのだった。彼女はその人たちからは視線を外して、どうにかもっと楽しいことを考えようとした。ベスニクの[訳註;旧版では「代表団の」]旅は楽しかったに違いない。しかも代表団は地位の高い人ばかり[訳註;1973年の初版では「しかも代表団を率いているのはエンヴェル・ホヂャその人だった」]。それに代表団がモスクワに行ったのは祝典の最中だし。おまけにその祝典の後に始まったのは、大きな、[訳註;旧版ではここに「荘厳な、」]国際的な会議なのよ。ベスニクがきっといろんなことを話してくれるに違いないわ。本当にこの冬は、楽しい毎日になりそうね。5週間、遅くても6週間後、二人は結婚する。ザナの首は微動だにしなかった。あの偏執狂と目を合わせてしまうのではないかと不安だったのだ。
[訳註;「偏執狂」は原語maniak。ちなみに1973年の初版では「あの気違い(psikopat)」]
 二人は結婚する。いつでも、好きな時に愛し合える。夜中でも、激しい雨の時でも、まどろむ夜明けでも、午後のひと時でも。
 ベスニクがいない間、ザナは彼のために嬉しいプレゼントをいろいろと用意していた。たぶんベスニクの方も、何かプレゼントを考えているだろう。彼のことを思うとたまらなくなった。
 雨はまだ降っている。ミラは窓ガラスに鼻先を近付けて、もの思いげに外を眺めていた。ザナはそんなミラをいとおしげに見つめた。ザナはミラの首筋に顔を近付け、小声で訊ねた。
「彼氏いるの?」
 ミラは顔を赤らめ、唇をそっと噛んだ。視線はあちこちをさまよったが、ザナの方を向くことはなかった。
「ううん」彼女は消え入りそうな声で答えた。
 ザナは背後からミラを抱き、首筋に軽く口づけした。若い娘の芳しい匂いがした。
「何で赤くなってるの?」ザナは問いかけた。
「何でそんなこと訊くのよ」ミラは柔らかな口調で言って、ようやくザナの方を見た。その瞳は、まるでちょっとした嵐の後のように、濡れたままだった。
『女の子ね』ザナは思った。『まるっきり女の子の目だわ』
 その時、二人の頭上でスピーカ越しの声が不意に響いた。
「お知らせします、お知らせします」
 ザナは胸がぎゅっとしめつけられるのを感じた。待合室じゅうが、まるで落雷を受けたように総立ちになった。
「ブダペスト-ティラナ便は、あと十分で空港に到着します。お知らせします、お知らせします・・・ブダペスト-ティラナ便は・・・」
 ザナは呆気に取られた表情で見入っていた。待合室の人々、とりわけ、それまでひどく憂鬱な表情をしていた人々の活気や歓喜は余りにも大きかったものだから、ザナは、何か飛行機に事故でもあったのではないか、あの人たちはその何かを知っていて、それを待ち受けていたのに、自分だけが何も知らされていなかったのではないかと不安な思いに駆られるのだった。
 外にいた人々が、空の方を指差している。「来るぞ、来るぞ」と声を上げている者もいる。ドアのところには、雨の中に出て行こうとする若者たちがひしめき合っていた。
[訳註;上の段落は、旧版では次の通り;
 大勢の人が、雨が降っているにもかかわらず、ぞろぞろと外へ出て行った。他の者たちは、ガラス窓のそばに立って空の方を見つめていた。
「楽しみよ」ミラが手を叩いた。「もうすぐね」
その、ごくありふれた娘らしい仕草が、ザナ自身の中にもたらされていくような気がした。肺腑に空気が吹き通り、身体が軽く、軽くなっていくような喜びを感じていた。
「来るぞ、来るぞ」
「あそこだ」
外に出た人々が、空の方を指差している。ドアのところには、雨の中に出て行こうとする若者たちがひしめき合っていた。]

 ザナの視線が、不意にあの気味の悪い男の視線とかち合った。なのに彼女は目を逸らすこともせず、それどころか喜ばしげな、こう言いたげな目を相手に向けていた。
『そうよ、そうなのよ、私はあの人を待っているのよ、あの人のことを思うとおかしくなりそうなのよ。あの人を抱き締めたい、あの人と一緒に寝たい、だから一番きれいなブラウスだって着てきたのよ。そうよ、何もかもその通りなのよ』
ザナは若者の中に混じって、一直線にドアへ向かおうとしていた。男の視線は静かに彼女に注がれている。ふと彼女は、男が片足をひきずっているのに気付いた。もう一方の足も、木で出来てでもいるように動きが重かった。彼女は気の毒な、ひどく気の毒な気分になって、許しを求めでもするように男の方を振り返ってみた。だが男の目は、静かに彼女に向けられたままだった。まるで
『いいんだ、いいんだ、誤解だ、誤解だったのさ』
とでも言っているように。
 ザナは、雨粒が顔に当たるのを感じた。
[訳註;旧版では、ここに次の一文が入る;
 「あそこよ、あそこ」ミラが言った。]

 巨大な機体が、重々しく硬質な飛び方で滑走路へ向かって降下しつつあった。
[訳註;旧版では、ここに次の一文が入る;
 「市民の皆さん、押さないでください」警官が言った。]

 金属製のタラップが素早く設置された。花束を持ったピオニールと思しき一団と、それとは別の、もう少しだけ大きな一団が、着陸したばかりの飛行機へ向かっていく。両翼がまだ震えていた。
「同志エンヴェルが」誰かの声がした。
 最初にタラップに姿を現したその人は、ボルサリーノを上げて挨拶した。
 風が吹くのが感じられた。傘を手にした誰かがタラップを上がり、彼のもとへ駆け寄った。彼の後から、他の乗客が列になって降りてきた。
「ほら、ベスニクよ」
そう言って、ミラがまた手を叩いた。ザナは、まだずっと距離があるというのに、彼に向かって手を振った。ベスニクには何も見えなかった。人々が近付く。まだ雨は降っている。最初の抱擁が始まった。ザナは再び腕を振り回したが、ベスニクには何も見えなかった。
「ベスニク!」
 彼は、その声を予期していなかったかのように顔を上げた。急にザナは、彼が痩せて細くなっているような気がした。彼が微笑んだ。随分痩せている。彼女は両腕を伸ばして彼の首に飛びつき、キスをした。彼の顔は青白かった。[訳註;旧版ではこの後に「ミラも彼にキスをした」が続く]
「具合でも悪いんじゃないの?」ザナは訊ねた。
「いいや」ベスニクは言った。「違うよ」
 奇妙な困惑のようなものが生じた。ザナはベスニクの額の雨粒を拭って、そして微笑んだ。ベスニクは彼女の微笑みに応じたが、その仕草はぎこちなかった。痩せているというよりも、顔に生彩がなかった。
「旅でくたびれたの?」ザナは訊ねた。
 ベスニクはザナをじっと見つめていたが
「旅?」と驚いたように言った。「うん、まあね」
 彼は声の調子まで変わっていた。
「ひどく疲れてるみたいよ」ミラが言った。ザナとミラは目を見合わせた。どうしてベスニクからは何も訊いてこないのだろう?
 三人は、急速に人混みで溢れ出した待合室の中で、テーブルの一つに腰を下ろした。
「コーヒーでも飲む?」ザナは訊ねた。
「ああ」
ザナとミラは、ベスニクをじっと見つめたままだった。
「元気だった?」ようやくベスニクの方から訊ねてきた。「他のみんなはどうしてる?」
「ええ、元気よ」ザナが答えた。「で、そっちはどうだったの?」
 ベスニクは目を見開いた。本当にひどく疲れきっているようだった。
「ん・・・元気だったさ」彼はつぶやいた。
 ザナとミラは再び目を見合わせた。何かあったのだろうか。
「モスクワは綺麗だった?」ミラが訊ねた。
 するとベスニクは再び目を上げた。まるでミラの問いかけが余りにもあり得ないものだったかのようだった。
「モスクワだって?!」
 スピーカ越しに女性の声が何かを伝えていたが、「税関」という語しか聴き取れなかった。荷物を手に数人が通り過ぎていく。
「荷物を取りに行かないと」そう言うと、ベスニクは立ち上がって税関の方へ歩いていった。
「どうしたのかしら」ミラが言った。
 ザナは彼女を見つめて「え?」と問いかけた。
「さあねえ」ミラは答えた。「何かあったみたいだけど。ザナはどう思う?」
「私もそう思う。たぶん旅の疲れが出たのよ」
 ザナは肩をそびやかした。外には巨大な機体があった。既に冷え切って、雨に濡れている。
 ベスニクが荷物を手に戻ってきた。
「もう行く?」ザナが訊ねた。「外に父さんの車が待ってるわ」
 三人は外へ出た。人々を待つ車が、空港の外にぎっしりとひしめいている。バスに乗っていく者たちもいた。
[訳註;旧版では、ここに次の一文が入る; 「あそこよ」とミラが指差した。彼女は雨の中を急ぎ足で歩いた。それに気付いた運転手はすぐさま車から出てきて、ベスニクの荷物を受け取った。]
「同志ベスニク、向こうはどうでしたか?」車が動き出すと、運転手が訊ねてきた。
「良かったよ」ベスニクは答えた。
「いやあ」と運転手が言った。
「ソヴィエト連邦ですか、さぞ素晴らしい国なんでしょうなあ!そこへ行けたなんて、全くあなたは果報者ですよ」
 ティラナの郊外には、『11月28-29日の祝典万歳!』とか『アルバニア労働党万歳!』と書かれた旗やプラカードがあちこちに立っていた。
[訳註;11月28日はアルバニア独立記念日(1912年)、同29日はアルバニア解放記念日(1944年)]
 ティラナに近付くに連れて、立ち並ぶ旗はそのひしめきを増していく。至る所に、祝祭の雰囲気が感じられた。[訳註;この後に、1973年版では「警官が一人、道の中央に立ち、車列に迂回路を指示していた。」、1981年版では「雨が降っていたが、道には人々が溢れていた。スピーカから音楽が響いていた。」と続く]
 到着すると、ミラは家族に伝えるため、階段を駆け上っていった。運転手が荷物を引っ張り出した。ラボはベスニクの首に腕を回して抱擁した。それから父親、リリ、そして最後にベニと挨拶を交わした。だがベニは明らかに、こうした状況に機嫌を悪くしているらしかった。
[訳註;一応おさらいしておくと、ラボはベスニクの叔母、リリはザナの母親。そしてベニはベスニクの弟]
 ラボはいたわるような目でベスニクを見つめていた。『具合でも悪いんじゃないの』という言葉を考えているのだな、ということは誰にもすぐにわかったが、しかし彼女は何も言わなかった。それからすぐさま彼女の視線は、もの問いたげな風で、ザナの目へと向けられた。ザナは肩をそびやかした。ラボは『何でもない風にしておきなさい』とでも言いたげに頭を動かしてみせた。
「それでねえ婿同志、どうだったのかしら?」
リリがはずんだ声で言った。ザナは唇を噛み締めんばかりになっていた。こういう時に口にすべきでない言葉があるとすれば、この『婿同志』こそまさにそういう言葉であるように思われたのだ。何てくだらない言葉かしら、と彼女は思った。
 隣人が数人、ドアから顔をのぞかせた。
「やあ元気で帰ってきて何より」彼らは言った。
「どうぞお入りになって、リキュールをお出ししますわ」ラボが言った。
「いやいや、あんたたちがひと息ついたらまた来ることにしよう。もう失礼するよ」
「おみやげはなあに?」小さな女の子がミラに問いかけた。
「さあね」ミラは言った。
 テーブルが広げられた。薄暗くなってきたので誰かが電気を灯けた。ベスニクはそこに並んだ皿の上に、まるで料理などなく、何か得体の知れないものが載っているかのような視線を送っていた。
「帰還を祝して!」とストルガ[訳註;ベスニクの父ヂェマル・ストルガ]が言い、スプーンを手に取った。
「再会を祝して!」ベスニクが言葉を返した。
「ベニ、何か音楽をお願い」リリが言った。
 ベニはできることがあって助かったのか、ラジオのそばに腰掛けた。一同は食事を始めた。フォークとナイフが、ザナには鉛のように重い気がした。何も食べたくなかった。皿も、スプーンも、身体にまとった薄手のブラウス、彼のために着てきた彼女の一張羅も、氷のように冷え切っていた。ベスニクの視線は、ずっと皿の上に落とされたままだった。誰かが話しかけた時は顔を上げたが、何も聞いていないようだった。一度だけ、ザナに微笑みかけてくれたが、その微笑みは遠いところにあった。ザナは憂鬱な視線を向けたままだった。次にベスニクがこちらを向いて、もしこの様子に気付いてくれたなら、『ザナ、どうしたの?』と問いかけてくれるように。不意にその思いが、狂おしいほどの願望に姿を変えた。どんな時でも、ベスニクには自分の気詰まりな様子に気付いて欲しいし、どんな時でも、ベスニクにはせめてもの安らぎを感じて欲しい。そして問いかけて欲しい、自分が不機嫌な理由を、その理由を・・・
「ザナ、どうしたの?」それはリリの声だった。またしてもザナは唇を噛んだ。
『何だって今夜は私の邪魔をするのよ』
ザナは思った。リリの声は、ザナの甘い期待感をことごとくぶち壊した。ザナは怒りに燃える目で母親をにらみつけた。よりにもよってベスニクがもう一度彼女に微笑んでくれた、そんな時に。その微笑には生気がなく、顔に表れたそばからたちまち消えてしまった。
[訳註;上記最後の一文は、旧版では「その微笑みはほとんど自動的なもので、まるで食事の間じゅう周期的に繰り返される反射作用のようだった」となっている]
『何かあったのよ、何かあったんだわ』
ザナはひとりごちた。彼女は出来る限りの速さで頭を働かせた。『たぶん何もなかったのよ』と、彼女の中で抗弁するものがあった。
『たぶん旅の疲れなのよ、それだけだわ』
 電話が鳴った。
[訳註;上の一文は旧版では次の通り; 廊下で電話が鳴った。ミラにだった。その後で、また電話が鳴った。]
「知らない人よ」ミラが言った。「ベスニクを呼んでくれって」
「僕は疲れてるんだ」ベスニクは言った。「疲れているから誰とも話したくないと伝えてくれ」
 ミラはしばらくその未知の相手と話し込んでいたが、やがてベスニクのところに戻ってきた。
[訳註;上の一文は旧版では次の通り; ミラは受話器を取り「兄は、外国から戻ったばかりで、とても疲れているんですが」と言った。  相手の話を聴きながらミラは眉をひそめていたが、やがてベスニクに手で合図をした。]
「どうしてもって」小声で話す彼女の掌には受話器が握られていた。「中央委員会からなんだけど」
 ベスニクは立ち上がった。
「もしもし、ベスニク・ストルガです。ええ聴こえてます」彼は言った。そして時計を見ながら、二、三度ほど「はい」「はい」と繰り返していた。
「何だったの?」ラボが訊ねた。
「政府の晩餐会に行かなきゃいけない。今夜、旅団宮殿で開かれているんだ」
「招待されたの?」リリが声を上げた。
「まあすごいじゃない!クリスタチも支度してる頃だわ」[訳註;クリスタチはザナの父親]
 ベスニクは時計を見た。
「すぐに出かけないと」そう言って彼はテーブルを立った。「ミラ、白の上着でも持ってきてくれ」
 ラボはアイロンのコンセントを入れた。ザナは見捨てられたような視線を向けていた。

 ベスニクが旅団宮殿の晩餐会に行くのは、これが初めてだった。
[訳註;旅団宮殿(Pallati i Brigadave)はティラナ郊外にある、早い話が政府の迎賓館]
 バスを降りると、宮殿の外門へ向かって歩を進めた。衛兵が、身にまとったレインコートを濡らしたまま、微動だにせず立っている。ベスニクは足取りを緩めた。庭園の奥から冷たい光[訳註;旧版では「ネオンの光」]が注いでいる。たぶん国家保安部
[訳註;国家保安部(Sigurimi i Shtetit)は労働党時代の内務省管轄の治安維持機関、要するに秘密警察]の人間だろう、入口に立っていた二人が顔を上げた。
[訳註;旧版では、ここに次の会話が入る;
「こんばんは」ベスニクが言った。
「こんばんは、招待状はお持ちですか?」]

「私は、招待状は貰ってないんだが」ベスニクは言った。「電話で呼ばれたんだ」
「ああ、モスクワからお戻りになった代表団の方ですか?」
[訳註;旧版では、ここに次の会話が入る;
「そうだ」
「お名前は?」
 ベスニクは自分の名を告げた]

 二人のうち一人が名簿を取り出して[訳註;旧版では「カバンの中から何通かの招待状を取り出して」]「ベスニク・ストルガ、ベスニク・ストルガ」としばらくつぶやいていた。
「どうぞ、あなたの招待状です」
 ベスニクは手を上げてそれを受け取ると
「晩餐はもう始まっているかね?」と訊ねた。
「ええ」保安部の一人が答えた。それから、ベスニクが先に進むのをためらっているのに気付くと、こう付け加えた。
「どうぞ同志、お通りください。モスクワ帰りの方は、皆さん遅れてのご到着ですから。Dの間になります」
[訳註;上の段落は旧版では次の通り;
「モスクワ帰りの方は、皆さん遅れてのご到着です。連絡が遅くなったようで」
「そうだね」ベスニクは言った。「確かに遅かったよ」
「どうぞお入りください。目につくことはありませんよ。Dの間になります」]

 ベスニクは、広い庭を横切って先へ進んだ。道の両側に車が並んで停まっている。ベスニクは宮殿の場所を探してさらに歩みを進めた。そこにはどこかしらおとぎ話めいたものがあった。道は右側に曲がり、なだらかな上り坂の先に宮殿入口があった。そこには、鉄製の街灯の下、二人の人影が立っていた。扉の分厚いガラス越しに、中から暖かい光と人々の喧騒が漏れている。
 ベスニクは招待状を取り出した。『モスクワ代表団の者ですが』と言うつもりだったが、それには及ばなかった。
「どうぞ、お入りください」
招待状を目にした一人が言った。
 ベスニクは中に入った。最初の扉を開くと、もう一つ別の扉があった。その中から、押し込めたような物音が聞こえてきた。彼は、分厚い赤絨毯の上で立ち止まった。
「クロークは下の階、左を降りたところです」
立っている二人のうち、一人がそう言った。
[訳註;上の段落は、旧版では次の通り;
 ベスニクは階段を降りていった。クローク係たちがタバコを吸っていた。
「モスクワからですか?」クローク係の一人が訊ねた。
「ああ、それで遅くなってね」そう言いながらベスニクはコートを脱いだ。そして番号札を受け取って
「中に入るのはかなり気が引けるよ」と言った。
「どちらの部屋です?」
「Dだよ」
「でしたらご心配なさることはありませんよ」クローク係は言った。「これが主賓の間となると、また事情は変わりますがね」]

 ベスニクは階段を上った。ホールの向こうまで赤絨毯が敷かれていた。誰かが静かに近付いてきた。ベスニクは招待状を見せた。
「Dの間ですね」その相手は言った。「あちらです」そう言ってドアの一つを指差した。
 長いテーブルで、ベスニクは自分の席がすぐにわかった。何もかも、思っていたよりは気楽そうだった。誰も自分に注意を払っていない。晩餐が始まったばかりで、どうやら誰もまだお互いのことを見知ってはいないらしかった。[訳註;旧版ではここに「ベスニクはフォークを手に取り、これというあてもなく突き刺そうとしたが、すぐにそれが前菜であることに気付いた。」が続く]食欲はなかった。彼の前では、誰かが誰かに「閣僚同志」と呼びながら絶えず話しかけていた。やっとのことでベスニクは視線を上げ、その閣僚の方を見た。太った、陰気そうな男だった。相手の方は痩せぎすの男で、追従じみた笑いを浮かべていた。ところが「閣僚同志」と最初の方が言葉を返したので、ベスニクはちょっと驚いた。閣僚は、痩せた男の方だったのだ。
「この魚はいけるよ、召し上がってみたまえ、同志」
ベスニクの隣にいた人物が話しかけてきた。ベスニクは首を振った。隣にいたのは、陽気そうな、つぶらな瞳をした男で、ベスニクと知り合いになりたがっていた。
「Dの間は素晴らしいね」男はそう言いながら、親しげに目配せしてみせた。
「自分が初めてこの宮殿に来た時は、隅の方の広間だったからなあ。HだったかIだったか、よく憶えちゃいないんだが。本当を言うと、いささかカチンときたね。しかも知り合いを見つけたと思ったら、Bの間に入っていくんだよ。あいつがBかよ?って思ったねえ。あんな、五発も撃ってないような奴がかよ?ってさ。どうして帰らずに辛抱できたっけかなあ。どうだったっけかなあ」
男はそのつぶらな瞳をベスニクに向けたが、ベスニクがこちらに無関心なのを見て取ると、訝しげな目つきになった。
「で、あんたは、戦争に行ってたのかい?」彼は訊ねた。
「いや」ベスニクは答えた。
「やっぱりな。あんたはまだ若いようだし、戦争に関わってたわけがない。きっとあれだ、石油かクロムで何か発明でもしたんだろう」
「いや」ベスニクは答えた。
「どこかの工場長かね?」
 ベスニクは『いや』という風に首を振った。
[訳註;旧版では「いや、工場長じゃない」と言葉で答えている]
 相手の目が半ば怒りをおびていた。それはこう言いたげだった。
『だったら、あんたはどうしてこんなところに来ているんだ?』
そしてどうやら、相手はその問いを口にしそうになっていたようなのだが、ちょうどその時、あちこちのテーブルを「静かに」「静かに」という囁きが伝わってきた。マイクから、ベスニクの聞き覚えのない人物の声が流れてきた。演説は、次第にはっきりと聞き取れるようになっていった。
「・・・何故なら、アルバニア人民共和国は荒波の中に生まれ、荒波の中に生きているからだ。歴史は荒れ狂う土砂降りを幾度となく我が人民の上に浴びせかけたが、その土砂降りの中で我が人民は決してうつむくことなどなかった、それどころか顔を高く上げてきたのだ」
 拍手の波がホール中に行き渡った。
 グラスが打ち鳴らされたが、ベスニクが見せた喜びの表情は控え目なものだった。晩餐の場に行き渡っていく別の波があった。
『何かが理解されたということなのだろうか?』と彼は思った。
[訳註;「拍手の波が」以降は旧版では次の通り。ちなみに「首相」とはメフメト・シェーフのこと。1981年の第3版までは登場しているが、直後に粛清されたため、以後の版では「首相」の存在が消え、誰の演説かわからないようになっている;
 拍手の波がマイク越しに幾重にもなって、ホール中に行き渡った。
「首相だ」と誰かの声がした。
「あの声は首相のだ」
 首相の演説は短いものだった。演説の終わりに首相は乾杯の音頭を取った。全員がグラスを持ち、互いに向けて掲げた。晩餐の場に行き渡っていく、電気仕掛けの別の波があった。
『何かが理解されたということなのだろうか?』と彼は思った。]

「ドキドキするねえ、あたしゃ胸がドキドキするねえ!」
ベスニクの右側から、甲高い声が聞こえた。振り向いてみると小柄な老婆がいた。顔は痩せていて全身黒づくめで、唇をせわしなく動かしていた。手に持ったラキのグラスが小刻みに震えている。老婆はどこを見るでもなく、一人ぶつぶつと呟きながら、しきりにうなづいていた。
「あたしゃドキドキするねえ!あの人は、こんな素晴らしいところに来るはずだったんだねえ。でも来れないんだよ。だからあたしが代わりに来たのさ。あたしゃ嬉しいやら悲しいやらだねえ。毎年、毎年だよ。何だって、ここへ来るあたしの足が萎えてしまわないかねえ!」
 ベスニクは彼女に何か言いたくなったが、しかし自分にはふさわしくないような気がした。老婆の黒いショールの房飾りが、テーブルの上に陰影を投げかけているように見えた。ベスニクは、イバルリのショールと、その黒い爪を思い出した。
 乾杯の音頭が上がった。給仕たちがさらに食事や飲物を運んでくる[訳註;この一文は旧版では「給仕たちがさらに皿や瓶を運んでくる。ちょうどそこでソーダ水を頼む人たちもいた。あちらこちらで、既に食事を止めてタバコを吸っている人たちもいた。マイクから音楽が流れている」と長い]。ベスニクは、やはり食欲がなかった。そんな調子でしばらく時間が経った。[訳註;旧版ではここに「テーブルでは誰もがまるで旧知の仲ででもあるかのように語り合っていた」]不意にベスニクは、テーブルの人がまばらなことに気付いた。人々はホールへ出始めていた。ベスニクはナプキンで口を拭うと、テーブルの脇を通ってホールへ出た。ホール内は活況[訳註;旧版では「大活況」]を呈していた。全てのドアから人がひっきりなしに出入りしている。二階に上がる階段もごった返していた。上の階から降りてきた人たちと、下の階で王宮[訳註;旧版では単に「宮殿」]を見て戻ってきた人たちだった。赤絨毯が、招待客たちの何百という足取りに揉まれて喜ばしげに波打っていた。音楽が流れている。ベスニクは気分が良くなってきた。
 確かにこの宮殿は美しい。かつて共産主義者から「黒の宮殿」と呼ばれ、後に「旅団宮殿」と命名されたここは、落葉した森林に辺りを囲まれていることを除けば、とても都会の中にあるようには見えない。ベスニクは、パルティザンの一団がまさしくそのソファに、絨毯に、大理石の階段に、天蓋に描かれた天使や神話の登場人物の下に、シャンデリアやレリーフの下に、帝国の紋章や、古代ローマの象徴や紋章の下に、それぞれ横たわって眠る様子をぼんやりと思い浮かべた。
[訳註;上の段落は、旧版では次の通り;
『旅団宮殿か』ベスニクは思った。
『美しい名前だ』
 ここはかつて王宮だった。だが1944年11月、この王宮の間で数夜を明かしたパルティザンの一部隊が、ティラナを解放したのだ。その時から、何故かはわからないが、誰からともなく「旅団宮殿」と呼ぶようになったのだ。
『美しい名前だ』またベスニクは思った。
 彼は、パルティザンの一団がまさしくその磨き上げられた寄せ木張りの床に、肘掛け椅子に、ソファに、絨毯に、大理石の階段に、天井に描かれた天使や神話の登場人物の下に、シャンデリアやレリーフの下に、帝国の紋章や、古代ローマの象徴や紋章の下に、それぞれ横たわって眠る様子をぼんやりと思い浮かべた。]

 その頃、別のパルティザンが一人、上の階で、皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世の寝台で眠っていた。そのパルティザンには何かと噂が多かった。彼をメケと呼ぶ者もあれば、メテと呼ぶ者もあったが、誰ひとりとして彼の名前を憶えてはいなかった。
[訳注;第2次世界大戦中のイタリアはエチオピアとアルバニアを併合しており、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世が名目上、エチオピア皇帝とアルバニア国王を兼ねていた(1939~1943)]
 彼がその冬の朝の宮殿で一躍有名になったのは、彼が皇帝の寝台で眠ったからではない。もっと別の、とにかく不思議な理由によるものだった。パルティザンのメケは眠れなかったのだ。絨毯や床に寝ていた者だけでなく、大理石の階段に上向き或いは下向きになって寝ている者たちまで、誰もがぐっすりと眠り込んでいたその時に、アルバニアとイタリアとエチオピアで最も荘重な寝台、それら三国を統べる皇帝たるヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世の寝台にいたパルティザンのメケだけが、一睡もできなかった。
 朝になって彼が悪夢から抜け出してきたような青白い顔で起き出してきたので、皆は驚いた。笑う者もいたし、からかってくる者もいた。またメケと同様、眠れなかった者たちもいた。パルティザンのメケについて幾つもの回想記や、のみならず散文や詩が書かれてきたが、この不眠の件については全く説明がついていない。王族の夢だとか、いにしえの亡霊だとか、過去の不安だとか、そういう言い回しが使われてはきたが、それらは何ひとつ決定的なものではない。
[訳註;この「パルティザンのメケ(Partizani Meke)」のエピソードは、ドリテロ・アゴリ(Dritëro Agolli)の詩『皇帝のベッド(Krevati i perandorit)』や、同名の映画でアルバニア人には有名]
 よりとっつきやすい推測として思いつくのは、皇帝の背丈が小柄なことに結び付けるというものだ。パルティザンのメケの背丈では、もし本当に王宮の寝台が小さかったとしたらだが、ベッドの外に足を出して寝るしかなかったということになる。だがこれも確たるものではない。戦いの3年間を洞穴や斜面で寝て過ごしてきたパルティザンのメケが、寝台の大きさぐらいで不平を言うわけがない。そういうわけで、この謎は解けないままだった。
[訳註;上の段落は、旧版では次の通り;
 より具体的な推測として思いつくのは、寝台の丈が小さかったことに結び付けるというものだ(皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世は並外れて背が低かったことで知られている)。パルティザンのメケの背丈では、ベッドの外に足を出して寝るしかなかったということになる。だがこの仮説も確たるものではない。戦いの3年間を墓穴や洞穴や斜面で寝て過ごしてきたパルティザンのメケが、寝台の大きさぐらいで不平を言うわけがない。そういうわけで、この問題は解けないままだった。去年の冬、南部への取材旅行の時にイリル[訳註の訳註;第1部に登場したベスニクの同僚]は、皇帝のベッドに寝たという元パルティザンの足取りを追ったが、徒労に終わった。]

 ベスニクは、二階から下りてくる招待客たちを眺めていた。
『ひょっとして、例の部屋が開放されているのかな?』彼は思った。眠くなってきた。先週は毎晩3時間も眠れなかったのだ。王宮の寝台で横になろう、皇帝の短躯に合わせて、膝を屈めて、身体を縮こまらせて、そうして眠るんだ・・・彼は、夢遊病者のように階段を上りかけていた。その脇に大理石彫りの、ローマの狼がいた。その母狼の遠吠えがかすかに聞こえた。その乳房にはロームルスとレムスがぶら下がっている。
[訳註;ロームルス(Rōmulus)とレムス(Remus)は狼に育てられたと伝承される双子の兄弟で、ローマ建国の祖とされる神話上の人物]
 いや、その乳房に今ぶら下がっているのは、ベスニクとベニの二人だ。
『狼の乳を飲んで』ベスニクは考えた。
『その遠吠えを飲んで・・・』
その時、誰かが背後からベスニクの腕を摑んだ。
「ベスニク」
クリスタチだった。
「ああ」とベスニクは声を上げた。
「やあおかえり!」とクリスタチは、ベスニクの肩に手を置いたまま言った。
「でどうだね?少し疲れてるんじゃないか?」
 ベスニクは首をかしげて微笑んでみせた。
[訳註;旧版ではここに次の会話がある;
「どうだねここは?」
「ええ、いいですね」]

 クリスタチはベスニクを見つめていた。その瞳の中には、ことのほか歓喜があった。ここで[訳註;旧版では「この宮殿で」]ベスニクに会えたことに満足していることが、ありありとうかがえた。
 クリスタチとベスニクは階段を下りると、ひとしきりホール内を二人してぶらついた。クリスタチはベスニクとずっと腕を組んでいた。彼は自分の婿を誇らしく思っているように見えた。こんな若い歳で・・・モスクワに・・・そして旅団宮殿に・・・
[訳註;一応書いておくと、アルバニア人は同性や年配者でもごく普通に腕を組んだり肩を抱いたりする]
「ザナはうちにいますよ」
ベスニクはそう言った。何を話したらいいかわからなかったのだ。
「ああ、そうだね」クリスタチが言った。
 二人が一対一でこれほどに、ほとんど感動的な状況[訳註;旧版では「これほど親密な、ほとんど感動的な状況」]に置かれたことは今までなかった。ベスニクが気付くと、クリスタチは右や左の顔見知りと挨拶を交わしていた。彼はこういう場所でもくつろいでいた。
[訳註;旧版ではこの後に「しまいにクリスタチはどこかの一団に誘われていた。クラスニチはベスニクも連れて行こうとしたが、ベスニクは、自分は宮殿を見て回るつもりだと言った。」と続く]
「晩餐会が済んだら、一緒に帰ろう」
とクラスニチが言った。
「車を外に置いてある」
 ベスニクはまた一人になった。食事をしていた広間はもうほとんど空になっていた。招待客のほとんどはホールに出て、その両側に面した部屋で立ったままコーヒーを頼もうとしていた。主賓の間の隣の大広間では、まだ楽団の演奏が続いていたる。その広間の隅の、大きなソファに腰を下ろして、エンヴェル・ホヂャがコーヒーを飲んでいた。その傍には数名の政治局員が座っている。ベスニクは部屋の入口に立ったまま、招待客が固まって出入りするのを眺めていた。人々はゆっくりと移動しながら、二人ずつ、三人ずつと小さなグループを作っては話に興じていた。ただ歩いているだけのグループもあれば、飲み干したコーヒーカップの置き場所を探し回るグループもあった。彼らはその辺りをうろついているのに、何も知らないのだ。その中には閣僚もいれば、外国大使もいたし、中央委員会のメンバーも、将軍たちも、党書記もいる。仮に彼らがモスクワで起きたことについて知っているとしても、そんなものはベスニクが知っていることに比べれば、ずっと僅かなものだろう。通達は断固たるものだった。
「機密は保持すること、わけても党からの通知があるまでは」
『確かにこの数日だ』ベスニクは思った。
『明日だか、明後日だかには中央委員会が開かれるだろう。[訳註;旧版ではここに「それから党の諸機関に、しかるのちに全ての人民へ通知が行き渡る。」と続く]ただ、他に気付いた連中がいたとしても、この俺に比べれば何もわかっていないようなものだ』
 自分は一介のジャーナリストだが、しかしあらゆることを知っている。そんな考えがベスニクを満足な気分にさせた。自分は他の連中とは違う、自分は内部の人間だ。それは確かに魅力的な・・・ああ、何てさもしい考えだ。[訳註;旧版ではここに「ベスニクはひとりごちた。」が続く]
 ベスニクの頭の中で、あの取材班長の記憶がふっときらめいた。その外見相貌は本人よりもさらに崩れていて[訳註;旧版では「デフォルメされていて」]、さながら児童の手で不注意に書きなぐったようなZの文字[訳注;ドイツ語版ではなぜか「Nの文字」と訳している・・・ってこれで三度目]だった。ベスニクの満足感がけし飛んだ。その時ちょうど編集長に出くわしたのだ。
「ようベスニク、元気かい?」
と言って編集長は手を差し伸べてきた。
「でどうだったね?いや結構、結構、素晴らしい[訳註;旧版では「興味深い」]旅だったろう」
[訳注;旧版ではここに次の会話が入る;
「そちらはどうでしたか?」
「忙しいよ、相変わらず。仕事も、厄介事もな」]

 編集長は、何か知っているに違いない。ベスニクはそう思った。何しろ中央委員会のメンバーだし、おまけに宣伝部門の人間だからな。
「会議はまだ続いていますよ」ベスニクは、自分でも何故だかわからず、そう口にしていた。
「会議?何の会議だね?」
「ああ、その、我々の・・・モスクワのですよ」
「ああ、あれかい。そう、そう、確かにね。」
編集長はうなづくと
「たとえ敵どもが中傷してこようとも、我らの団結を砕くことはできないのさ」そう付け加えて、微笑んだ。
『誰にそんなことを言っているのだろう、この人は』ベスニクは思った。
「じゃ、またな」そう言って編集長はベスニクの手を握った。
 ベスニクはまた一人、その場に残されて立っていた。
『やれやれ』と彼は思った。目の前をフランス大使が、誰かと話しながら通り過ぎた。ついさっきはユーゴスラヴィアの大使も見かけた。
『あいつら、何か嗅ぎまわっていたに違いない』
ベスニクはそんなことを考えた。地方からの招待客の一団が、きっと優秀な協同組合員だろう、目を見張って辺りをきょろきょろしていた。酔っ払いが一人、しゃっくりをしながら通り過ぎた。
 歩き回る人々の中に、ベスニクはソヴィエト大使を見た。そのソヴィエト大使はチェコ大使と、あともう一人、誰か黒人と会話していた。ベスニクは思わずにやりとした。あの大使はまるで、ことわざに包囲されているようなものじゃないか。
(『もし我が国の大使がそんなことを言ったのだとしたら、それは大使が馬鹿だということだ』フルシチョフは言った。
『これは政治的愚行だ』エンヴェル・ホヂャが言葉を挟んだ。
『それは或る種の政治的愚行だ』フルシチョフは言葉を継いだ。
『馬鹿者の愚行はまだ勘弁できるが、それが繰り返されるのであれば、もはや単なる愚行ではなく一つの路線だ』エンヴェル・ホヂャは言った)
 それから二人は、馬鹿さ加減と馬鹿者をめぐることわざについて語ったのだが、当の大使の名はもはや話題には上らなくなっていた。
『あの大使は、自分についてどんな話がされたかいまだに知らないんだな』ベスニクは思った。
『そしてたぶん、これからも気付かないままだろう』
 数人の中国人のグループが通り過ぎた。どこかでヨルダンも見かけたが、すぐに視界から姿を消してしまった。鏡の前でスカンデル・ベルメマが背の高い美女と快活に喋っていた。
[訳註;スカンデル・ベルメマは第1部に登場した作家で、ザナの叔母の夫]
 招待客たちはあらゆる方向へ流れていく。大理石の広々とした階段には人が溢れていた。交わす言葉がひっきりなしに聞こえてくる。
「祝典に乾杯」「ご多幸を」
『楽しそうだな。』
ベスニクは思った。彼らは何も知らない。重大なことが起こっているのに、陣営の基盤に亀裂が入っているというのに、この人々はまだ何も知らない。祝典の花火の遥か下を、彼らはさまよっている。何かが変わってしまったのに。目に見えない戦いの火蓋が切られているというのに。見た目は平穏な日々の間に、[訳註;旧版ではここに「車や通行人で溢れる道路の上に、」]塹壕やバリケードが至るところに展開され、設置されていく。ディブラ通りに、バリケード通りに、そして大通りに。商店の窓ガラスにも、看板にも変化が起きている。たとえ開店時間の数字はそのままでも、日曜日や、婚礼の予定や、不動産や、市内バス、そのどれにも何ごとかが起こっているのだ。至るところで、何もかも、何もかも、何もかも。まるで宣戦布告そのものだ。
『我らアルバニアの共産主義者には平安の時などないと定められているのだ』 エンヴェル・ホヂャがそんなことを言った時、飛行機は国境を越えたところだった。降下して雲を抜けると冬の大地がほんの僅かに、眠れぬ夜に生まれ出たかのような不可思議な輪郭を見せていた。
『楽しそうだな』
ベスニクは痺れたような頭でそう思った。にもかかわらず、多くの人々の瞳の中に更に強烈な、それも単に歓喜を呼び覚ましているだけとも思えないような或る種の輝きを宿していることに、彼は気がついた。それは、何か悪魔祓いでもするような、そしてどこか感極まったような、不自然な熱気だった、
 集まっている招待客たちの大部分を占める老幹部[訳註;旧版では「党と国家の老幹部」]たちの上に、長い別れの前の微笑みが浮かんでいるように見えた。平和との別れか、とベスニクは思った。その 微笑みがバラバラになって、至るところできらめいている。
[訳註;旧版ではここに次の文が続く;
「さよなら母さん、僕はパルティザンになりに行きます」
どこか自分のすぐそばで、誰かがよく知られた戦時中の歌を口ずさんでいるのが聞こえてきた。]

『いや違う』ベスニクは思った。これは、普通の祝典の熱気ではない。彼らは、何かに気付いてしまったに違いない。犠牲に供されることに上気し僅かに紅潮した頬に、それがはっきり見て取れた。『明らかに、何か気付いている』
ベスニクはまたひとりごちた。喉に何かつかえているような気分だった。
 ホールに面した入口の一つで、招待客の一団が押し黙ったまま、エンヴェル・ホヂャの座っている方を見つめていた。[訳註;旧版ではここに「ソファに、黒装束の老婦人が並んで座っていた。きっと殉国者の母親だ、とベスニクは思った。老婦人は何ごとかをずっと喋っていて、エンヴェル・ホヂャはかすかにうなづきながら聴いていた。その向こうには首相が立っていて、指を小刻みに動かしながらルーマニア大使に何かを語っていた。ルーマニア大使は笑いながら、絶え間なく両手を広げてみせていた。」]ベスニクが振り返ってみると、ユーゴスラヴィア大使が胸の前で両腕を組んだまま、身じろぎもせず、そちらの方を[訳註:旧版では「エンヴェル・ホヂャと首相のいる方を」]見つめていた。
 ベスニクはホールの大きな絨毯の上をゆっくりと歩いていった。すると一瞬、自分の両足が身体からひどく遠くに離れていくような気がした。ホールの壁際に大きな旗が掲げられている。双頭の黒い鷲が、血のように赤いその陣地の中で、平静を保っているように見えた。
『どうか悪くとらないでくださいよ』
あの時、あの泥酔した飛行士はクレムリンの晩餐会でそう言った。晩餐の招待客たちでごった返す中で、三度目に出くわした時のことだ。
『あの旗の鳥をとっぱらって、代わりに地を這うものを置けなんて言ってるんじゃない。違いますよ。千度でも言うけど違いますよ。だがね、翼には用心することだ。必要以上に強くなり過ぎない様に』
『それで、何です?』ベスニクは問いかけた。
『鋏で切り落としてしまえなんて言うんじゃないでしょうね?』
 その時ベスニクは、幾つかの地方、とりわけ北部では、何らかの恥ずべきことをした女たちが髪を切られることを思い出した。彼は翼を摘まれた鷲を思い浮かべて、身震いした。
『毛を刈られた烏じゃないか、あたしは!』
[訳註;原語“korba unë”は直訳すると「烏たる私」で、「悲惨、気の毒な自分」を意味する慣用表現]
災難に見舞われた時、その地方の女たちはそう嘆いていた。恥辱にまみれた旗の下で、どうして嘆いていられるというのだ?
『翼を刈られた旗じゃないか、我々は!』
ベスニクは恐ろしげにつぶやいた。
 脇の部屋の空いた肘掛椅子が目に止まったので、彼はそこに腰掛けた。傍らに他の招待客たちがいたが、その大半はかなりの年配者だったた。コーヒーを飲んでいる者たちもいた。再び音楽が流れてきた。ベスニクはまたヨルダンを見かけたが、遠くだったので何も話しかけなかった。
 作家が二人通り過ぎた。その内の一人については、『輝ける幸福』という芝居の作家ということでベスニクも知っていた。二人は快活に会話を交わしている。どうやら何も知らないらしい。ベスニクはそう思った。今ここにいる人たちのどれだけが、ソヴィエトという手本なしにやっていけるのだろうか?しかしことは、たぶんそれほど遠い先ではないのだ。おそらく完全な分断は避けられるだろう。ベスニクはソヴィエトの武官を目にして、クレムリンの晩餐会にいた将軍や元帥たちを思い出した。[訳註;旧版ではここに
「大国の報復だ、とベスニクは思った」]
彼は眠気を覚えた。クリスタチがそばを通ったのだが、まるで遠くにいるような気がした。パルティザンのメケの不眠はどこにでもある、シャンデリアやレリーフの上にも。あの黒づくめの、殉国者の母親の老婦人も、ぶつぶつつぶやきながら通り過ぎた。きっと『あたしゃ胸がドキドキするねえ』とでも言っているに違いない。パルティザンのメケの不眠だな、とベスニクは思った。赤絨毯が足元で生き生きと、不自然な照り返しを放っている。その上を近付いてくる人物が彼の目に止まった。
『黒い骨が、ここで何のつもりだろう?』ベスニクは思った。
[訳註;「黒い骨」は原語“kocka e zezë”で、コチ・ヅォヅェ(Koçi Xoxe)と発音が似ている。ヅォヅェは戦後初期のアルバニア内相で、1948年のアルバニアとユーゴスラヴィアの関係断絶後、「親ユーゴ派」として粛清された]
1947年のニュース映画で見た通りの、小柄で太った人物だった。歩く時は、首を屈め、ピンとつま先立ちで、まるで何かを探してでもいるようだった。二人の視線が静かにかち合った。
『私は何もかも知っているぞ』相手は言った。
ベスニクは初め、何も言いたくなかったが、やがて口を開いた。
『そんな馬鹿な』
 相手は、ずっとつま先立ちのままだった。
『君は、私に敵対するような通訳をしたではないか、あそこで・・・モスクワで』相手は言った。
ベスニクは無言だった。
『君はルーマニア語や英語や、それどころか古典ギリシア語でも通訳をしていた』
『私はそんなに言葉はできませんよ』ベスニクは言った。『そこであなたの話になったのは事実ですが、しかし・・・』
『ほう、そうかね?君は、コチ・ヅォヅェはアルバニアのイェジョフだと言って、この私が1948年に銃殺されたことまで説明していたぞ。イェジョフが銃殺されたのは1938年だというのに。もう一人、ランコヴィチまで引き合いに出していたじゃないか。あれはまだユーゴスラヴィアで生きていて、君臨しているというのに』
[訳註;コチ・ヅォヅェは先述の通り。イェジョフ(Н. И. Ежов)は1930年代後半のソ連内務人民委員部(НКВД)長官。スターリン体制下の大粛清を実行したが、後任のベリヤにより処刑された。ランコヴィチ(А. Ранковић)はユーゴスラヴィアの内務相で、国家保安部(УДБА)および人民保安部(ОЗНА)長官。この作品の舞台となった時期には現役だったが、ユーゴスラヴィアの連邦分権化に反対したため、1966年に「スターリン主義者」として追放されている]
 ベスニクは、相手の上着に弾痕が残っているのに気付いた。それはまるで何かの機械で空けたように、規則的に並んでいた。
『私の席はどれだね?私がいたのは内務省だけじゃないからね。私は政治局員で、党の組織委員会書記で、国のナンバー2だったんだからね』
 彼はつま先立って自分の席を探しながら、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、こう繰り返していた。
『ああここだ、ああ向こうだ、主賓の間だ、Qの間だ、Xの間だ』
それからベスニクの方を向いて言った。
『私が罪を犯したのは、時代がそれを望んだからさ』
 ベスニクは『違う』とでも言うように首を振った。
『どの国の人生にも、罪を犯す年月というのがある』相手は言葉を続けた。
『誰かがそれをしなければならないんだ』
『一九四七年は、歓喜の年になるはずだった』ベスニクは言った。
『それなのに、あなたがそれを恐怖に変えてしまったんだ』
[訳註:アルバニア共産党(当時)でヅォヅェら「親ユーゴ派」とホヂャら「反ユーゴ派」の対立が最も激化したのが1947年。当時、ヅォヅェ派は党内闘争で一時的にせよホヂャ派を追い落とす寸前だった。ちなみに、原文では年号がアラビア数字でなくアルファベット表記されているので、拙訳でも漢字表記にしてみました]
『ああ、違う、違う、違う。君の言っていることは間違いだ。だが、そのことには目をつぶろう。君を閣僚委員会に呼び出したっていいんだがね』
『閣僚委員会など、もう存在しませんよ』
『大したことじゃないさ。復活させればいい。これから新しい時代が始まるのだから。君だって言ってたじゃないか、目に見えない戦争が始まったって。君たちが呼んでくれれば、私は参上するさ』
[訳註;ヅォヅェは閣僚委員会(Komiteti i Dikastereve)を通じて戦犯法廷を開き、反対派を大量粛清した。ちなみに、後のアルバニアで内閣に相当する閣僚評議会(Këshilli i Ministrave)とは一応別モノ]
『あなたを呼ぶですって?さっき言ったばかりじゃないですか・・・』 ベスニクは『あなたは銃殺されたのだ』と言おうとしたが、『あなたは黒い骨と呼ばれていたのだ』と言い変えた。
 だが相手はその傷跡を隠して
『大したことじゃないさ』と言った。
『もし君たちが私を呼んでいないのだとしたら、時代が私を呼んだのさ。だからほら、私はこうしてここにいる。この時代は困難なものだ。君たちが策を講じないなら、大嵐で君たちをみんな吹き飛ばされてしまうだろう。君たちは今こそ、私のテロルを用いることになる。そうだ、一九四七年がやってきたのだ』
『違う』ベスニクは言った。『断じて違う』
『私を求めている者たちがいる。私を待ち望む者たちがいるのだ』相手はそう言いながら、再び、誰かを探すようにつま先立ちになった。
『たぶん、たぶんな。だがそんな奴らは滅多にいない。例えば・・・』
『例えば誰です?誰なんです?』ベスニクは訊ねた。
『教えてやるものか』
『えっ何です?何です?何て言ったんです?』
「この同志、ここで居眠りしてるよ」
外から誰かの声が、雷鳴のように響いた。
 ベスニクは我に返った。
「少し飲み過ぎたんだな」別の人が言った。
「お祝いだからね、愉快な」
「構わないさ同志、構わないよ」誰かが言った。「お祝いなんだからね」
 ベスニクは立ち上がった。頭がずきずきした。ホール内に、先程までの喧騒は既になかった。招待客の中には、コートを手にした人たちもいる。どうやら晩餐会はお開きらしい。ベスニクは時計を見た。確かに、もう遅い。クロークへと続く階段は、混み合っていた。
[訳註;この最後の一文は何故かドイツ語版にない。訳し漏れ?]

*  家に帰ると、みんなが待っていた。
[訳註;旧版ではここに次の会話が続く;
「どうだった?」ラボが訊いてきた。
「良かったよ」]

 ややぎこちない雰囲気だった。ベスニクは、自分のカバンが開けられ、空っぽになっているのに気付いた。洗濯機が静かにうなる音がする。
 リリはもういなかった。ベスニクの視線が、ザナの視線とぶつかった。彼女は退屈しきった風でソファに座っていた。[訳註;旧版ではここに「父はタバコを吸っている。ベニは確かな隠れ場所を求めるように、再びラジオに向かった。のみならずミラの瞳には警戒の色があった。ザナが立ち上がった。」と続く]
「私、もう帰るわ」とザナは、ベスニクの方を向いて言った。
「送っていってくれる?」
[訳註;旧版ではここに次の会話が続く;
「ああ」
「お休みなさい、お義父さん」ザナが言った。「みんなもお休みなさい」
「お休み、我が娘よ」ストルガが言った。]

 二人は階段を降りて、路上へ出た。寒かった。ザナはいつも通りにベスニクの手をとった。
「旅団宮殿で、お義父さんに会ったよ」ベスニクは[訳註;旧版では「話のきっかけを作ろうとしてベスニクは」]言った。
「そうなの?」
しばらく路上で沈黙が続いた。
「ベスニク」ザナは口を開いた。「あなた、何かあったの?だって、何だか様子が変よ」
「いいや」ベスニクは答えた。
「僕は別にどうもしないよ」
「これは、私だけが思ってることじゃないのよ」
「そうかい?」
「そんなに飛行機の旅でくたびれちゃったの?」
[訳註;ここで旧版ではベスニクは「ああ」と答えているが、全集版では無言のまま]
 二人は大通りに出ると、葉の落ちた街路樹の下を歩いていった。
『ザナは何も知らない』ベスニクは思った。
大きな葉が数枚、かさかさと歩道の上を動いた。
『僕は、彼女に何も言うわけにいかないんだ』
彼は思った。まるで拷問だ。
 ベスニクはザナの髪にキスをした。
「モスクワの女の子は、美人だった?」どこか狡猾さを込めたような声で、ザナが訊いてきた。
「モスクワの女の子?」ベスニクは呆気に取られて声を上げた。
「本当のことを言うけど・・・どうも、見てなかったような気がするんだ」
「ああ、何を言ってるんだか」とザナが言った。
 ザナの腕は、ベスニクが彼女の髪にキスした瞬間だけ、ほんのちょっとびくっと震えたが、また元に戻った。二人の足取りは、さっきまでのような我慢できないほどの単調さを再び取り戻した。大通りの人気は途絶えていた。また大きな葉が数枚、不格好に、激しく、まるで木でできているようにあちこちを転がりながら、まるで二人に付き従うようにその前を、後を、傍を動いていた。
「ベスニク」ザナが言った。
「あなたに言いたいことがあるの、お願いだから怒らないで欲しいんだけど」
「言ってごらんよ」ベスニクは言った。
「あのね、私は決して心の狭い女じゃないの、あなただってわかるでしょ。少なくともこんなことは一度も言ったことないし、まして他の人たちだったらやたらに有難がるような些細なことだって、私には大抵どうってことないの、わかるでしょ。でもね、正直言うけど、びっくりしてるのよ、だって・・・あのね、こんなこと言うのはね、大事なことだけど、でも私にはきついの、他のどんなことよりも、ずっときついのよ、だって・・・お願いだから、私の気持ち、ちゃんとわかって欲しいの。だって、あなたのカバンを開けたら、なんにも入ってなかったんですもの。なんにもよ。お土産だって、ちょっとした、ほんのちょっとした、他愛もない、笑っちゃうようなささやかな記念品さえ入っていなかった。あなたが私のことを思っていてくれたしるしを、ほんの形だけ、上っ面だけでもよかったのよ。ねえベスニク、こんなみじめな話をしてて気が重くなるわ。でも、二、三時間前、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまったのよ、何もかも。こんなにも無頓着だなんて・・・前にもそのことは二人で話したのよ、憶えてるでしょ。
 私、言ったわよね、外国に行って、くだらないものを買うことしか頭にない連中のことなんか軽蔑するって。もちろん、私は、あなたに何を買ってきて欲しいなんて頼まなかったわ。でも、だからって・・・せめて私のことを思っていてくれたというしるしだけでもよかったのに。
 お母さん怒ってたわ。だから帰っちゃったのよ。私はそんなことしない、誓ってもいい、そんなことしない。でもね、気が滅入っちゃったのよ。みんなにはじろじろ見られるし、まるで・・・私たち、4週間か5週間したら結婚するのよ。機嫌の悪いそぶりなんか見せたくない。そんなこと気付かせたくない、わかるでしょ、絶対、気付かせたりなんかしないわ。お母さんががっかりしてたって、全然関係ない。でもね、残念なのは、あなたのそのわけのわからない態度よ。本当に変よ、何て言ったらいいのか・・・冷たいわ」
 ザナは黙り込んだ。ちょうど大通りを離れて彼女の家に向かって歩いているところだった。だが家はまだ先だった。葉の落ちたポプラが左右に並んで立っている。
『ポプラか』ベスニクは思った。ザナは、自分の弁解を待っている。弁解らしきものを、せめて上っ面だけでも。
 だがベスニクの方はこう思っていた。まるで拷問だ、と。何か言わなければならないというのはわかっていたのに、できなかった。夢の中にいるようだった。何か申し開きをしようにも、もうほんの数分しか残っていなかった。ザナの家の前に着いてしまったからだ。二人は立ち止まった。
 ベスニクは、ザナが今度こそ本気で怒り出すものと覚悟したが、不思議なことに彼女は、低く、落ち着いた声でこう訊ねてきた。
「ベスニク、あなた、本当にひどく疲れてるだけなのよね?」
「ああ、ザナ、そうだよ」
 それはむしろ呻き声だった。ザナはベスニクの腕をぎゅっと摑んだ。
『信じてよ』
そう思いながら、ベスニクはザナにキスをした。彼女は硬直したまま、身じろぎもせず立ち尽くしていた。微かに香水の匂いがした。クリスタチが外国から買ってきたものだ。すると不意に、まるで目覚めたばかりの怪物が鼻を鳴らしながら、長らくまどろみをむさぼっていた水底から起き上がるように、ザナに対する情欲が湧き起こってきた。ベスニクは彼女を抱き締めると、もう一度キスをした。しかしザナは冷ややかな態度のまま、相手に激しい振る舞いなどさせまいとするように、ベスニクから身を離すと、すすり泣きをこらえながら、足早に階段を上がっていった。
「おやすみ」
 ベスニクはもと来た道を引き返した。眠りが襲ってきた。彼はポプラ並木の間にいて、もう真夜中だった。自分はこのポプラからは離れられないのか、と思いながら、彼は酔ったような足取りで進んだ。
『文句があるのか、俺がちゃんと通訳しなかったことに、お前たちは文句があるのか』 ベスニクはひとりごちた。大通りからディブラ通りに入るところで、一つの人影が現れた。それは槍を手にした騎士のように、道の真ん中に立っている。その影が、ベスニクの方へ向かってきた。騎士が槍を振り上げた。
『かかってこい、かかってこいよ』
ベスニクは思った。建物が道の両側に黒々とそびえている。すると聞き覚えのある声がした。

    ブロンドなんかにゃ手を出すな
    なぜってそいつらは根無し草
『嫁を貰って』ベスニクは思った。
『おまけにそれがブロンドで・・・だが何故だ?何故なんだ?』
 暗い階段を上がった。みんな寝静まっている。ベスニクは着替えもしないまま、まるで砂漠をさまよった果てにくぼ地で夢を見ようとするようにベッドに飛び込むと、たちまち眠りに落ちていった。

(第3部につづく)


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