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 驚いたことに、この尾行者二人組は、中国式の笑顔を絶やさぬまま「ペザ」ホテルへ入っていくのだった。とりあえずダネ・ガイタニの件とは何の関係もないように見えた。それで、ダネは子を抱えたまま、もと来た道を戻り出した。特にどこへ行ってどこでひと休みしようかというあてもなかった。
 歩いているうちに意識の中に、初めはペン先ほどのごく小さな何かがまたたき出し、それは彼のワイシャツのボタンほどになり、やがて、麦藁帽をかぶった頭の上にのぼる太陽ほどの大きさになった。今こんな時に、子供を自分のそばに連れて歩くべきではなかった。 ダネはずっとそうだった。学会で発言するという大間違いをおかした。それでみずからの終わりを知り、当局にも目をつけられた。馬鹿みたように養護施設まで出かけていき、気の毒なジョンを引き取ってきた。まったくもって、いかれた話だ!いつもいつも、彼はいかれたことばかりやらかしてきた。
 いつかリタが言っていた、ダネは裸の騎士だと[訳注;ここで、書名でもある“kalorësi lakuriq”(裸の騎士)が初めて登場する]。まったくその通りだった。裸の騎士は、真実を見つけ出すため、みずからが思うところをすべて語ろうとして、一糸まとわぬ姿で世界を旅して廻るのだ。それがどんな結果をもたらすのか、考えもせずに。
 ははん!リタか!もしも彼女のところへ子供を預けに行って、自分がなぜティラナにまだ数日残っているのか、彼女がその理由を知ったらどうだ?いやできるわけがない!リタに、このダネ・ガイタニと会おうという勇気はまるでないだろう。まして孤児まで引き取った今の自分と会おうなどとはすまい。いや、勇気というものとは、少し違うか。ダネは、リタが産まれ育ったあのような世界では、産まれも育ちもしなかったのだからな!
 彼は学会のあとの夜のことを思い出していた。通りで、すぐ目の前にリタがいた。しかし、彼女は彼の方へは来ずに、別の道へ行ってしまった。でもたぶん、それでよかったのだ。会っても何の利益にもならないようなことのために、強いて会おうなどと思うものだろうか?そんなことに付き合って、不幸な人が救えるだろうか?不幸な人が増えるだけのことではないのか。一人から二人に!
 友人は、調査対象にされている同志に会ったという理由で、その後でスィグリミに呼び出されたり、或いは一緒にされて疑われ始めたり、監視されたり尾行されたりもした。それで、そんなことがあってから、友人たちが自分たちに会うのを恐れるようになったのには腹も立ったが、耐えられない思いにさせられた。
 リタは明らかに自由主義的な思想の持ち主だが、それを口にして社会的に危険な立場に置かれるようなことはしていない。リタが抱いているような考えは、閣僚や政治局員の子供たちだって往々にして持っているものだ。彼らは現代的で、進歩主義的理念を持っているが、ヨーロッパに無知な人々の前では尊大な顔をしている!
 おまけに彼らは西側の流行を身にまとい、法外な場所でダンスをし、ウィスキーやらドライジンやらカンパリやら、そういったものを飲んでいる。散歩のたびに高名な詩人や芸術家のたむろするカフェに腰をおろし、俗世間から取り入れたサロン風の物語やらアネクドート[訳注;anekdotëは旧『東欧』の体制下で非公然に語られていた政治諷刺小話]の類を語って聞かせるのである。しかしそれは彼らの問題だ。児童養護施設の子供を連れて歩くダネ・ガイタニは、どうしたらいいのか?この子はどこへ連れていったものか?
 駅に行けば同郷の人間がいるかも知れない、その人に頼めば、母の住む村へこの子を連れていってもらえるのではないか、ダネはそう考えた。もっとも、それはかなりの偶然だろう、自分と同郷の人間がティラナにやってくるというのは滅多にないことだからだ。とりあえず、今、ほんの一時であればダネ自身が村まで出かけてもいいが、子供を連れて乗り込んだ列車の中で逮捕されないという保証はどこにもないというのがまた問題だ!
 ダネは頭がくらくらしてきた。意識の中でまたたいていた小さな点は、既に太陽のように大きくなっていたが、今や蜜に群がる蜂のようにぶんぶんうなりをあげて蠢きながら、その数を増していた。蜜蜂のように蠢く、それらの点のいくつかは、うなりをあげて彼の意識をちくちくと刺してきた。
 ヂェラディン・アポロニア教授のところへ出向いてみようか。この竹馬の友である同志のところで、妻のネタに子供を預けてみたらどうだ?あの教授、どういう風になるんだろうな?
 無駄なことだ!ふん!無駄なことだ!ダネ・ガイタニはつぶやいた。しかし、ヂェラディン・アポロニア教授は何と言うだろうか?学会で起こったあの騒動のあとで、ダネ・ガイタニが教授のところへなど行けば、強烈な冷笑を喰らうのがオチだろう。それこそまさしく、裸の騎士ではないか!それでも、彼は思いつく限りをあげてみた。卑屈さと、恥辱と、冷笑と。ヂェラディン・アポロニア教授の家の方に向かって歩き出したダネは、いっときだけ、連れている子のことを忘れていた。まるで、学会の始まる前に出発しようとしていた時のようだった。
「水が飲みたいよ!どこなのホテル?」
とジョンが言い出したので、ダネ・ガイタニは、思考と疑念と決断が錯綜していた状態から我にかえった。
「ああ、パパの友だちのうちで水を飲もうな」
ダネはジョンに、もっと年長の子に話すように答えた。
 ヂェラディン・アポロニアの家に着くまでの間に、セルフ式のカフェに立ち寄って息子にオレンジジュースを買ってやっていた。その息子はオレンジジュースを飲んだのに水が欲しいと言うので、ダネ・ガイタニはおかしかった。
「お前、ラキを出してもらうようになっても、水をもらうんだろうね」
ダネは息子の手を引いていたが、頭を上げてヂェラディン・アポロニア教授のアパートのある場所を示した。そして
「おばあちゃんがお前を村へ連れていくまでの間、お前は何日か、何週間か、あそこにいるんだよ。パパはちょっと旅行に行かなければいけないが、少し長くかかりそうだからね」
と言った。
 彼はまたしても年長の子に話すように語ったので、ジョンは無言で、ダネ・ガイタニの言うことを理解しようとしていた。
 ヂェラディン・アポロニア教授の住むアパートの部屋へ続く階段は、日陰になっていて涼しかった。その階段の手前で父親と息子は立ち止まり、しばらくの間そこにいた。ダネ・ガイタニは躊躇していた。登るべきか、登らざるべきか?そうして深く息をつくと、誰かあとをつけていないかと辺りを見回してから、ジョンを膝の上に載せて、階段の一段目に腰を下ろした。ひんやりしたコンクリートのくぼんだところに座っていると、聞こえてくるのは自分と息子の息遣いだけだった。
 俺は子連れの狼だな、とダネは思った。猟師に追われる狼だ。自分の髭を息子の柔らかい髪にすり寄せると、ミルクと乾草の入り混じったような匂いがした。
「俺は子連れの狼だ!」
ダネが急に声を上げたので、息子は上を向いた。ダネ・ガイタニは歯を鳴らし、言葉を呑み込もうとした。
「歯まで狼みたいに鳴ってやがる!」
ダネは続けて言った。
「パパ、狼がいるの?」
息子が訊ねた。
「お父さんが狼だよ!」
ダネ・ガイタニはそう言うと口を開いて、歯を見せた。
 息子は笑った。
「パパ嘘ついてら、狼じゃないよ!狼は毛が生えてるもん!」
ダネ・ガイタニも笑って、自分の鼻に手をやった。
「パパにも毛が生えてるぞ。ほらどうだい?」
と言って鼻をさした。
 息子はダネの鼻に手をやって、豆粒のような、或いは河原の小石が陽に照らされたような真っ白で小さいダネ・ガイタニの歯を探し出して
「パパはあんまり毛がないや。狼は毛がいっぱい生えてるよ。僕も大きくなったら、鼻に毛が生えるかな?」
と言った。
「鼻に毛が生えてどうするんだ?鼻の毛なんて、大したものじゃないぞ!」
そう言いながらダネ・ガイタニは、人間の鼻の毛には何かしら特別な重要性があるのではないだろうか、と考えていた。

 階段のところからダネ・ガイタニは、マルクス主義政治文献の専門書店『フロラ』へと目をやった。書店は、ヂェラディン・アポロニア教授宅のそばにあった。党の委員会から来た指導員や、驚嘆すべきアルバニア人のマルクス主義とはいかなるものかと物珍しさでやって来るような旅行客を除けば、出入りする人はまばらだった。
 ダネ・ガイタニがあれこれ考えながら眺めていると、まるで霧の中から現れたように、ソティル・クツカ教授が姿をあらわした。暗いもやの中に包まれたように、足元は地についておらず、さながら遅回しの映画の登場人物のようであった。
「我が喜劇の登場人物が!」
ダネ・ガイタニはつぶやいた。
「トチョチプツって何?」
と息子が訊いてきたのでダネ・ガイタニは我にかえった。
[訳注;原文でジョンは、ダネが『ペルソナジュpersonazh(登場人物)』と発音したのを『ペチョナチュpeçonaç』と聞き間違えている]
「あそこにいるおじさんが見えるかい?あれが『トチョチプツ』だよ。パパはあいつの耳を引っつかんでやったんだ」
ダネは、葦のようなひょろひょろのソティル・クツカを指さして言った。
 ソティル・クツカ教授は書店に入っていったが、少しすると、アルバムのような大判の書籍を抱えて出てきた。彼はすぐに階段の方を見て、そこに長い影が伸びているのに目をとめた。そして掌を日よけ帽のように額にかざして、猟師のように腰をかがめてダネ・ガイタニの方を凝視した。
 それから何秒かたつと、背を伸ばしてヂェラディン・アポロニア宅の窓の方を見上げた。そんなことを二度、三度と繰り返し、ハハァとかん高い声をあげ、そのアルバムみたいな本を、教授宅の窓に向かって振り回した。
 おしまいだ、ヂェラディン・アポロニアよ、お前もおしまいだ!そうだ、この本で、ネタの絹のハンカチで隠したお前の鼻をあかしてやる。ヘッヘッ!ソティルはほとんど意味のないことを叫んでから、再びダネ・ガイタニの方を見ると、拳から中指を突き出してみせた。そうして大きな笑い声をあげ、帽子を取りダネ・ガイタニに向かって敬意を込めて会釈すると、小走りに立ち去った。
 おかしな奴だ!と言ってダネ・ガイタニはふと思い出した。ソティル・クツカ教授は仲間との会話の中で、自分の本が出版社から出る予定だと話していたことがある。学界のエリートたちが度肝を抜かれるような、規模の大きな諸問題を打開するような本だと言っていた。どうやら、あいつが手にしていて、おまけにヂェラディン・アポロニアの幻影に向かって振り回していた、先程のあの本がそうらしい。随分待ち兼ねていたようだが。
 おかしな奴だ!と繰り返して、ダネ・ガイタニはにやりとした。ヂェラディン・アポロニア教授やズュラプ・カンダリ教授やリタや学者の妻たちの前で、ソティル・クツカ教授の耳を引っつかんでやった時のことを思い出したからだ。あの日々も、今のダネ・ガイタニにとっては、途方もなく遠い昔のことのように思えた。
 だが、同じことはもうない!自分の運命の行く末を決めることになった、あのいまいましい学会での発言がなければ、また同じことが繰り返されたのかも知れないが。もしあの学会に出ていなければ、ヂェラディン・アポロニアの家に時々通っては学者たちを、特にあのソティル・クツカをからかって楽しんでやれただろうに。あの苗字のおかしなことといったら!クツカ、クツカ、クツカ!−と言いながら彼は、あの苗字を発音するたびに舌をしょっちゅう噛んでいたことを急に思い出した。
 ああそうだ!リタの苗字も同じだった。しかしリタという名前と一緒に発音すると、クツカというのも柔らかくなるものだな。
 もし自分がリタと結婚するようなことにでもなれば、彼女の苗字はクツカからガイタニに変わるのだろう。はっはっ!彼女の名前に、長い縁飾りがつくというわけだな。
[訳注;ガイタニGajtani < gajtanは『制服などの縁飾り、組紐、モール』の意味]
 いや駄目だ!この縁飾りはどんな女性にも似合わないだろう。ダネ・ガイタニはそう思った。遠く離れていても、彼の思いはリタを離れなかった。それでダネは階段の日陰になったところで、即興の歌詞をつむぎながら、それに節をつけて唄い始めた。


「いやこれは、リタ・クツカのための歌じゃないな!」
ダネ・ガイタニは、まるでさっきから誰かと話し合っていたかのように声をあげた。
「誰が?」
ジョンは、ダネ・ガイタニが自分と話しているのだと思って訊ねた。
 ダネはジョンにキスをして、髪をなでたりつついたりしてやった。
「これは、抽象的な女性のための歌だよ。アパートにも階段の下にも道ばたにも暮らしてはいないで、雲の上を走っている。そこは大きな敷物のようだが、どこへ行くのか、どこに枕を置いて眠るのかわからない。目には見えるが、手で触れることのできない女性なんだ。手を出して触ろうとすると、彼女は逃げてしまうだろう。水が指の間をすり抜けて流れ落ちるように!・・・」 ダネ・ガイタニは、自分の話を聴いているのが子供であることも忘れて話し続けた。
 まったく驚いたことに、この五十歳の男は深刻にして乾いた論理を持ち、皮肉を飛ばし、からかい、嘲笑し、偉大にして比類なき皮肉家となったのだが、時には、繊細な子供や或いは阿呆と化して、万事を遊戯に注ぎ込むのである。また時として、彼の運に見放された詩人の血が騒ぎ出すと、誰も彼の狂喜の暴走を止めることはできないのだ。その暴走によって、彼はリタに歌を披露して恐れおののかせたことがある。
 そんな真似は実に、頭のおかしい奴でもなければやるはずのないことだった。
「もうやめて!私を変にする気なの!何ておかしなことを!」 リタは叫んで掌で耳を押さえた。
 それでダネ・ガイタニは、リタ・クツカの進歩派ぶった自由主義をからかうと、鼻の毛に手をやって彼女のもとを去った。その際にも詩を披露していったのだが、それをここに書くのは憚られる、我々アルバニア人にとっては・・・

 ダネは、ヂェラディン・アポロニア教授宅へ上がろうかどうか決めかねたまま、ずっと階段のところにいた。しかしジョンがおしっこに行きたそうな顔をしていたので、立ち上がると、ジョンに階段を上らせた。その時、背後に重くゆっくりとした足音が聞こえたので、見るとヂェラディン・アポロニアが家に帰ってきたところだった。
 教授は、咳払いをした。ダネ・ガイタニには、その咳がわざと作ったものであることがわかった。俺と顔を合わせたくないのなら、咳なんかするべきじゃないだろう、とダネは思った。こっそり階段を上がって、俺のことなんか放っておいてくれればいいんだ。それで、目に見えないいばらのような、何か嫌なものが彼の身体をちくちくとやるのだった。ダネは振り向いて、ヂェラディン・アポロニアと向かい合った。
 二人は黙ったまま、にらみ合った。ジョンはダネ・ガイタニのズボンの背後に隠れて、教授の方に少しだけ顔をのぞかせた。そして、ほとんど泣きそうな声をあげた。
「おじさん、パパをいじめちゃいやだよ」
 ヂェラディン・アポロニア教授は口元に笑みを浮かべた。
「とんでもないよ、坊や!一体どうしてこのパパがいじめられるんだい?パパが私のことをいじめたんだよ!」
彼はジョンに近付いて、その顎をゆっくりとつかみ、頭を持ち上げて眼を見つめた。
 それはまるで、ダネ・ガイタニには何の関係もなくて、少し前に知り合ったこの子供に関わる問題であるかのように見えた。
『これは、我々の間に生まれた新たな関係の敷居をまたぐための入口なのだ、この階段のように。最初の段はこの子で、次の段はこの俺で』
と、官僚にして隠喩にたけた詩人のようにその驚きについて考えながら、ダネ・ガイタニは思った。しかし彼は、ヂェラディン・アポロニアに恐怖を感じていた。こいつ、どう豹変するかわかったものじゃないぞ!
 ヂェラディン・アポロニアがダネ・ガイタニの肩をつかんだ。ダネ・ガイタニは肺いっぱいに息を吸い込み、力を抜いた。するとヂェラディン・アポロニアはダネ・ガイタニの肩に置いた手をゆっくりと下ろし、背広のうしろの切れ目のところでそっと掌を止めて、人差し指で背中を突いた。ダネ・ガイタニは本当に痛くて飛び上がったが、腹は立たなかった。そんなことを彼は、教授を見たまま思った・・・
「上へ行こうか。おい、腹が減っているだろう。その子もだし、私もな」
ヂェラディン・アポロニアはそう言うと、コンクリートの階段を上がり始めた。
 アパートの部屋にはネタしかいなかった。少なくともダネから見ると滅多にあり得ないことだが、驚くべきことに髪も整えず、化粧もしないままであった。まるで、昔からの仇敵に出くわして忌まわしい記憶が蘇ったように、陰欝な視線をダネ・ガイタニに投げかけていた。
 ダネ・ガイタニはそれに気付いて、ヂェラディン・アポロニアが来るより先に階段を上がっていなかった己の幸運を祝福した。この魔女は間違いなく、ひと目見るなり自分を外へ放り出していただろう。ヂェラディン・アポロニアの目があるから、彼女は何もできないでいるのだ。
「下で会ったんだ!」
ヂェラディン・アポロニアは、ダネ・ガイタニの方を振り返りながら妻に言った。
 ネタは何やら鼻の下でわけのわからない、しかし忌まわしげなことをぶつぶつ言っていた。そして三人を放ったらかしたまま、自分の部屋へ引っ込んでしまった。
「髪の毛もきちんとしてない女房とは、ひどいもんだ!」
とヂェラディン・アポロニアは言うとソファに座り、ダネ・ガイタニと子供にも、楽にするようにとすすめた。
「俺は、その・・・」
ダネ・ガイタニが何か言おうとするのを、ヂェラディン・アポロニアがさえぎった。
「よせよせ!くだらない真似をしやがって!お前が言ったことを、俺が知らないとでも思うのか?」
ヂェラディン・アポロニアは立ち上がり、チョッキを着た腋の下に指を挟む、レーニンのようなしぐさをした。
「ん、知らないだと?お前がやったことぐらい知ってるさ。お前が我々の仕事を台無しにしたことも、知ってるさ!お前が言った通りには、そうそうならなかったがな・・・だがお前だって割りを喰った・・・お前がどんなことになったか、わかってるか?俺も割りを喰わされた・・・お前が俺にこんな・・・お前が言・・・」
「誰かが、言わなきゃならなかったんだ」
ダネ・ガイタニはそう言って麦藁帽を取ると、ジョンをソファに座らせた。
「へっ!お前はいつもそうして、そいつを膝の上に置いて・・・」
ヂェラディン・アポロニアは麦藁帽を見て言った。
 台所の方から、ガラスが割れるような激しい音が聞こえた。ジョンがその場から飛び上がって、大きなそのソファに落ちたボールのように身を丸くした。
「皿でも落ちたかな。女ってのはどうも神経質だから」
ヂェラディン・アポロニアはチョッキから手を出して軽く振った。
 教授がみなまで言い終わらないうちに、ネタが入ってきた。腕が痛いらしく、ひどく顔をしかめていた。
「ねえ、何だってこの人を連れてきたのよ?このへぼ詩人が学会でしたことのせいで、どういうことになったか?もうたくさん、たくさんだわ!
 みんながここであなたにやったことといったら!みんなここで昼と夜と招かれておきながら、あなたに唾を吐きかけたり、あなたの肩をひっつかんでいるのよ!もうたくさんだわ、こんな奴ら!」
ネタは教授に詰め寄った。
「わかった、わかったから!その髪を何とかしなさい!」
ヂェラディン・アポロニアは冷静に答えた。
「この鼻毛の悪党にも櫛をかけてやればいいのよ、ヴェランダに置いてあるサボテンの刺みたいな、その鼻毛に!」 ネタは、ちりちりと燃える獣脂ロウソクのように、弱々しい声を上げた。
 ダネは、鼻毛のことを思い出した時はいつもそうするのだが、生い茂った毛を隠そうとするかのように、鼻に手をやった。
「隠すな、ダネ、隠すなよ!」
ヂェラディン・アポロニアが鼻の毛のことを当然のことであるように言ってのけたので、ダネ・ガイタニは即座に笑いが込み上げてきた。彼は窮地を脱したので、顔を真っ赤にして笑い出した。恐るべき笑いの爆弾が破裂したのである。
 どうやら、不安と絶望に満ちて過ごしたこのひとときが、今や新たな様相、笑いの様相を呈し始めたらしい。ヂェラディン・アポロニアも、ソファの上で立て膝をしているジョンと一緒に、大声で笑い出した。
 ネタはわけがわからなくなって、喉元に掌をあてて台所に駆け込んだ。男二人はどうしてだか理解できなかったが、彼女は泣いていた。

 妻は昼食の支度をととのえたが、自分はテーブルに着こうとしなかった。彼女はジョンを連れていって台所で食事を与えたが、男たちは書斎に放っておいた。二人の好きなようにさせておいたのである。彼女は視線を移した。この子供にだけは、悪いような気がした。
 ヂェラディン・アポロニアは二つのグラスにラキを注いだ。大きなクリスタルのグラスで、ネックレスの玉のような模様がびっしりついていた。その玉は雫か雨粒のようで、下から見ると電話のコードがからまっているようにも見えた。
「さあ召し上がれ!我々の出て来たところに、帰ろうじゃないか」
教授は、自分たちが農村の出身である意味を含めて、そう言った。
「乾杯!」
ダネは、ヂェラディン・アポロニアとグラスを合わせた。
 それは、それまでに起こったことの結果から考えると論理的にあり得ない、まったく予期せぬことであった。あの忌まわしき学会での精神的緊張から、如何にして二人は再び共に過ごすようになることができたのだろうか?
 おそらくそれは、生まれを同じくすることによって生じる、心の奥底からの声というか、或いはそういうことを背景にして、同じ思いを共有したいと思う気持ちがあったのではないだろうか。つまり、この世間では通用しないようなことを考えていたわけだ。世間では、仮に自分たちだけで他に誰も聞いていないような特別な場面でさえ、人々は和解できず、対立するものなのだ。
 別な理由もあるのかも知れない。ヂェラディン・アポロニアは、ダネ・ガイタニの行く末が良くないものであろうと知っていた。良くないとはつまり、ダネは壁に囲まれて眠るようになるということだ。だからヂェラディン・アポロニアは、ダネ・ガイタニが取り調べを受ける際に、その幼少時代からの友のことを何も語らぬよう、事前に釘を刺しておこうという魂胆であるようにも見えた。とにかく、何も言わないようにと・・・
「実は俺・・・」
グラスを二、三杯あけたところで、ダネ・ガイタニが語り始めた。
「わかっているさ、何も言わなくていい!」
するとダネ・ガイタニは、叩き付けるようにグラスを置いた。そうだ、こいつはいつだって俺の言うことを途中までしか聞かないで、わかっているなどと言うんだ!この馬鹿者めが!
「やめろ、何にもわかっちゃいないくせに!」
ダネ・ガイタニはいらいらして叫んだ。
「お前、孤児院から引き取った子供を、私のところに置いていこうというんだろう。そうして私はその子をお前の母親が住む田舎まで送り届けるということなんだろう!そういうことだよな!・・・それも知ってるんだよ私は」
言われた友人の方は、目を見開き、口をぽかんと開けていた。そして自分でグラスに注ぎ、一気に飲みほした。ヂェラディン・アポロニアは空のグラスをそのままにはしておかなかった。それでダネはもう一杯飲みほした。
「ヂェラディン、どうして知ってるんだ?」
ダネは少々しどろもどろになりながら訊ねた。
「ふん!お前のことなんかお見通しだ。それで・・・いやいや、もうよしてくれ!あの子は路頭に迷うか、孤児院に逆戻りだ。だから友達のところに置いておくのだな。お前がヂェラディン・アポロニアと何の関係があるのか訊かれるかな?生まれが同じ、それだけだ。何の話だったかな?何もないさ。子供の時分の冗談か!木靴を履いた子供だった頃の!他には何もないのに・・・」
ヂェラディン・アポロニアは指でグラスを回しながら喋っていた。
「ふん!あのキツツキのソティル・クツカの言うことを聞いただろう。学会の場で私のことを、私がお前の発表を原稿の段階から読んでいて、内容も知っていたように言ったんだ。それで私がお前の発言を認めたって?え?私をお前の共同研究者にしやがった!・・・当局に呼び出されるだろうな、畜生!嘘つきどもめ!・・・」
 ダネ・ガイタニのラキはなくなっていた。飲みほしたグラスに水を入れて飲んでいた。酔い潰れたくて三杯も飲んだのだ。
「おい、ヂェラディン、ひどい奴だな!」
ダネはテーブルに目を落としながら言った。
 ヂェラディン・アポロニア教授はやっとのことで口元に笑いを浮かべた。
「え、何で私がひどい奴なんだ?」
 と、ダネ・ガイタニは皿をどけてテーブルに額を押しつけた。そうして額をテーブルに押しつけたまま、しくしくと泣き始めた。心の底から響いてくる、まさに男泣きだった。ああ、彼はヂェラディン・アポロニアが同じ村の幼少の頃からの友人として、自分のためになることをしてくれるだろうと思っていたのだ。それなのにヂェラディンは・・・ダネは胸が締めつけられる思いだった。あの子をどこへ連れていって、誰に預ければいい?ダネは、ジョンを連れて日陰のところに行こうと思い、テーブルから立ち上がりかけた。
「どうした、ダネ?」
ヂェラディン・アポロニアは気分を害したらしく、手を伸ばしてダネの頭をつかんだ。
「お前は最低だ、ヂェラディン!」
ダネはうなりながら顔を上げ、ナプキンで涙を拭いた。
 とその時、ドアのベルが鳴った。ヂェラディン・アポロニアは立ち上がったが、ネタがそれをとどめた。そうして先に行き、ドアを開けようとした。外からリタの声が響いてきた。ネタがヂェラディン・アポロニアの方を向くと、リタを帰らせろというしぐさをしていた。しかしダネ・ガイタニは即座に立ち上がると、ドアの方に向かって呼びかけた。
「ここだよ、リタ!ヂェラディン・アポロニア先生と楽しく飲んだり食ったりしてたところさ」
 ダネは、船のデッキにいる船員のように床に立ったまま、少々迷っていたが、ネタの先に立ってドアを開けた。そしてリタの肩を抱き、家の中へ招き入れた。
「どうだい?学会の成功を祝って一杯やっていたところだ」
それからジョンに声をかけた。
「ジョン、リタおばちゃんのところへおいで!こんなきれいなおばちゃんは、お前、見たことないだろ!」
 ジョンは台所から出て来ると、リタの方へ近寄った。
「あら、可愛い!」
リタは、思いもよらない驚くべき場面転換に声を上げた。
 ヂェラディン・アポロニア夫妻はすっかり困惑し、まるでよそのアパートの部屋に住むあかの他人同士であるかのように、お互いの顔を見合ったままだった。
 ダネ・ガイタニがリタのところへ行こうと立ち上がると、麦藁帽が床に落ちた。彼は帽子を取り上げると、それを小さなジョンの手に持たせた。そしてヂェラディン・アポロニアの方を見ると、首を振った。
「お前はひどい奴だ、ヂェラディン!」
そして外へ出ようとした。
「どこへ?子供は置いていかないのか?」
ヂェラディン・アポロニアは前に出て訊ねた。
 ダネは手を広げて、教授から離れた。
「この子はもう一度、孤児院へ連れていく。たぶん、おふくろが迎えに来てくれるだろう。ねえリタ、君なら俺に良くしてくれるだろうね。おふくろに連絡を取って、一緒に孤児院まで行って、ジョンを連れていくようにしてくれ。書類は、君に渡しておくよ!・・・」 リタは呆気に取られて、ヂェラディン・アポロニアとダネ・ガイタニの顔を交互に見比べた。一体この二人に何があったのか、彼女はわかっていなかった。ただ、ダネ・ガイタニがヂェラディン・アポロニアに侮辱されたのだなという感じはしていた。
 しかし別なものも感じられた。この二人は一緒に杯を傾けておいて、その後で喧嘩をしているのだ。ダネ・ガイタニも酔っ払っているようだったので、リタは彼の好きなようにさせて、言う通りにしようと考えた。
 このような状況で、彼にまた会えるとは思ってもいなかった。リタはソティル・クツカから、ダネが小さい子を連れてヂェラディン・アポロニアのアパートの下の入口のところまで来ていると聞いて、彼に会いに駆けつけたのだ。
「あなた、酔ってるのよ!」
リタが言った。
「こんなこと、この家では初めてじゃないの!」
そう言ってヂェラディン・アポロニアとその妻の方を向いた。
 ネタは唇を噛みしめ、教授の方を向いて、あんたのせいよというしぐさをした。ダネ・ガイタニはネタが唇を噛んでいるのを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「そうやって唇を噛んで、二月の猫のように鳴くのかね?」[訳注;どうも発情期の猫のことをさしているらしい]
 ネタはむっとして下を向き、ヂェラディン・アポロニアは、この場にそぐわない寛容の笑みを浮かべて見つめていた。そうやって見つめていると、自分たちがダネにできることはないのだと言おうかと思った。そう、ダネは、ダネは・・・
 ラキと怒りの両方に酔ったからだ、ダネ・ガイタニにもそれはわかっていた。しかし同時にひどい疲れと苦痛を感じたので、黙り込んだ。
 ダネはリタを引き寄せ、連れだってヂェラディン・アポロニアのアパートから外へ出た。そしてジョンの手も取ったが、泣いたりはしなかった。
「何を急いでるの?」
階段を降りながらリタが訊いた。
「ああ、何を急ぐって!・・・」
「あなたのお母さんがこの子を引き取りに来るまで、私のところで預かるってのはどうかしら?」
そう言ってリタは、さらに付け加えた。
「あなたに何もなければ・・・」
 ダネは、リタに向かって大声を上げて、階段のところで彼女を抱きしめたい気分になった。近付いてリタの肩に手を伸ばし、胸を引き寄せて、その唇に、頬に、首筋に、瞳に、そして額にキスをした。それは女性に対してというより、むしろ何か偉大な、神聖なものに対する行為のようであった。リタはダネと抱き合って、身を離そうとはしなかった。
「これでお別れだ。ここからは独りで行くよ・・・」
ダネが言った。
 彼はもう一度リタを抱きしめた。それからジョンの手を取ってキスをしてから
「パパが帰ってくるまで、このおばちゃんが、優しくてきれいなお母さんだよ。パパは、お仕事でしばらく留守にするからね」
 三人は、階段の途中で別れた。
 ダネは途中でうしろを振り返りもせず、いつものようにリタの知らない歌を、思い出し思い出し唄い始めた。


 リタにはその歌の意味がわからなかった。ダネ・ガイタニは、何という目茶苦茶なことばを並べているのかしら、それに、どうして掲げたり手放したりしなきゃならないの?本人だけしかわからないのだわ!でも、ひょっとしたらあれは、あの裸の騎士に対する、追悼の歌なのかも知れない・・・
 ダネ・ガイタニは、拳を壁に打ちつけた。そうして、頭では痛くて駄目だ、とつぶやいて、何か重いものが転がるような大きな靴音を響かせながら、駆け足で下まで降りていった。
 彼は『ペザ』ホテルへ戻らなければならなかった。そこではきっと、あの不吉な中国式の微笑が待ちかまえている。
 階段の中ほどから、リタの声が聞こえてきた。
「さようなら、裸の騎士!」
1979−1995年

読者への覚え書き
 小説「裸の騎士」は主に1979年から執筆された。80年代初めに第1章のみが「ホステニ」に掲載された。当時の編集長であり、常に私を支えてくれたニコ・ニコラNiko Nikollaの勧めによるものであった。
[訳注;Hosteni(とげ)はアルバニアの代表的諷刺雑誌。1945年創刊。現在も発行されている]
 1990年末には「ドリタ」に、若干分量を削ったものが「呪われし者I nëmuri」という題名で掲載され、これは1991年に入っても数ヶ月にわたり続いた。
[訳注;Drita(光)はアルバニア作家芸術家同盟の機関紙。1961年創刊。現在も発行されている]
 今回の完全版を出すにあたっては、ごく僅かではあるが、内容に影響のない範囲で手直しをおこなっている。この作品には、停滞し硬直化した社会が流動化したことによって、精神や理念が危機に陥った時代を生きる人々の、不安や様々な思いが描かれている。またこうした社会全体の危機を背景とした中での人々のつながり、錯綜する愛情と願望をも反映させている。
 「ドリタ」に掲載された第4章は紙面の都合で短縮されていたが、新しい版ではこの章も完全なものになっている。小説を新聞に載せる時は、いつもそうだが、内容自体が分割さればらばらになっていて、全部がそのままというわけにはいかない。本の形で出版されて初めて、それは本来の姿となり、読者も、作者がその作品で言わんとするところを理解できるのである。

ドリテロ・アゴリ




訳者による覚え書き
 ダネ・ガイタニが秘密警察の待つホテルへと向かうところで、小説は唐突に終わっています。国家叛逆罪にも等しい発言を敢行した彼がその後どのような処遇を受けたのか、彼の養子をあずかったリタ・クツカ女史の身にその後どのような運命が降りかかったのか、大教授ヂェラディン・アポロニアの権威はその後いよいよ失墜したのか、追従屋ソティル・クツカの暴露本(?)は特権階級にその後いかなる打撃を与えることができたのか、一切は語られません。
 作家自身の記述にもある通り、この小説はアルバニアにとってかなり微妙な期間に執筆されています。アルバニア労働党のスターリン主義体制が不動のものであった時代のさなかと、その体制が市民自身の手で倒された時代の入口にまたがっているからです。作品世界と重ねて考えると、ダネ・ガイタニは投獄されて間もなく「名誉回復」されたかも知れないし、ひょっとしたら彼が投獄されるより先に「指導者同志ら」の方が投獄されてしまったかも知れません。
 この小説を連載に選んだのには、上述の刺激的な内容に加えて、分量がそれほど多くないこと(原書は100ページ程度)、また作家の文体が私の気に入っており、翻訳し易かったことがあります。原文の持つ諧謔味を活かすように心がけましたが、一方でアルバニア語の構造を尊重する余り、かえって日本語がわかりにくくなった部分もあると思います。いずれ全面的に手を加えなければならないでしょう。文化的・歴史的背景を知らないと理解できないような箇所を、何の注釈も加えず素通りしているかも知れません。「わかりづらい」とか「何の話か理解できない」という点は、ご指摘いただければ幸甚です。(井浦伊知郎 2003年3月16日)