3

 学会が開催されるその日、ダネ・ガイタニは早く起きた。「ダイティ」ホテルの支柱が、家で飼っている鶏の卵のような赤みをおびる頃合であった。国の養鶏場に飼われる鶏たちが、ホテルの部屋の窓から、淡いレモン色をおびた青白い顔を出している。まるで、ヂェラディン・アポロニアの顔色のようだな。ダネはそう思った。そうして、かの友人である学者の顔を思い出そうと試みていたら、会った時には見出せなかった点に気がついた。
 二人は同い歳であったが、ダネ・ガイタニの髪が黒いのに対して、ヂェラディン・アポロニアの髪は白く、ダネよりもずっと年長で威厳ありげに見えた。そうさ、年月を重ねても、俺の考えは変わっていないのだな。ダネ・ガイタニはそう思った。この20年、15年、あるいは10年変わらぬ考えだ。リタ・クツカにはそのことを冗談交じりに語ってみせたが、確かにそれは本気だった。髪の毛も昔のままであったし、手だって、足だって・・・そうして鼻に手をやった。
 ああ、そうだ!この鼻の毛だってな・・・それで彼は「ペザ」ホテルの窓から、家の鶏の卵のような赤みをおびた「ダイティ」ホテルの方を眺めて笑い出したが、その内うんざりしてやめた。彼はヂェラディン・アポロニア教授の書斎での夜のことを思い出していた。
 あいつの原稿を読んだためにあんな騒ぎになるとは、思いもよらなかった。何だって、もっと落ち着いて丁重な言い方ができなかったものだろう?学問には道徳というものがあるだろう。その道徳はどこに行ってしまったんだ?学者ともあろう者が、監獄の守衛みたような大声を張り上げるなんてことがあるかい?しかしそんな道徳があっても、公式的な思想というものは討論によって守られるのではなく、衛兵によって守られるものなのだな。そして反対者の思想は断固たる態度で放り捨てられ、投獄されるものなのだな。
 彼はヂェラディン・アポロニアの書斎と学会の会場を思い比べてみた。ヂェラディンの書斎はワイングラスのようなものだ。そして学会の会場は、そのグラスにワインを注ぐ樽のようなものだ・・・
 それで俺は、あの書斎でもって、そのワインの品質を確かめてみたのだ・・・実に場にふさわしい代物だ、服のポケットから論文を引っぱり出すには及ぶまい。何だって俺が、肉屋の店頭にぶらさがった羊のように立ち去らなければならないのか!ダネは独りつぶやきながら、学会からの招待状に目をやった。その時、ダイティ山から真っ赤な太陽が顔をのぞかせた。それはよく肥えた十月の農民のような赤ら顔であった。
[訳注;ダイティDajtiは首都ティラナの東側に位置し、ホテル名になるほど、アルバニアを代表する名山。標高1612m。アルバニアは日本と同じく山国で、何処にいても山が視界に入る。]
 ダネ・ガイタニは白い上着を羽織り、テーブルの上から招待状と、そして麦藁帽を手に取り、部屋を出た。六月の終わりで、中程度の暑さが続いていた。朝の内であればそれはまだ子供のようなものであったが、そこには、来たるべき耐え難い暑さの予兆が感じられた。それはやがて、首都を硬直させ眠りつかせ、重く焼けつくような熱さの中に人の思考をうずめてしまうのである。もっとも、そんな熱がなくても、思考は既に焼けつく熱さの中にあり、惰眠をむさぼっていたし、人は目を覚まそうとはしなかった。ダネ・ガイタニはそんなことを考えながら歩道へ出た。陽で温められたアスファルトからは乾いた熱気が感じられた。
 発表をすべきか、それともしないでおくべきか、彼の考えはその広い胸板の内で二つに分かれ揺れ動いていた。学会が始まるまでまだ二時間ある。発表の進め方についてあれこれ考えるには充分な時間だ。何よりも今の彼には、濃いコーヒーと、何か言葉を交わせるような良い友が必要だった。夜の沈黙と、自分自身との対話と、退屈な単調さと、胸の内に起こった空虚さとが、コーヒーと言葉を求めるのだった。空虚は満たされなければならない。そしてそれを埋めるのは言葉なのだ。
 カフェ「ティラナ」には年配の三、四人がいるだけだった。常連客で、二時間余りも議論に花を咲かせ、ひと休みして何か飲もうというところだった。ダネの知っている顔は一人もなかったので、隅のテーブルに一人で腰を下ろした。いつものように麦藁帽子を膝の上に置き、最後に目を通しておこうとポケットから原稿を取り出した。その原稿を見ていると、嬉しくなることも興奮することもなく、ただどんよりした不安がわき上がってくるのであった。
 コーヒーが運ばれてきた時、顔を上げてみると、リタが給仕の肩越しに立っているのが目に入った。それは予期せぬ、そして喜ばしいことであった。彼女を目にして原稿の束はさらに真っ白くなったように思えた。彼はそれを、道端で見つけた紙切れのようにくしゃくしゃにしてポケットに突っ込んだ。
 リタは彼のそばに腰かけた。目の下は少し腫れていて、まるで腎臓を病んで一晩中眠れずに過ごしたかのようだった。それでも彼女は活力を失ってはいなかった。矢継ぎ早にコーヒーとタバコを注文し、バッグの中をかき回してマッチ箱とハンカチを取り出すと、ダネ・ガイタニに向かって、昨晩はどう過ごしたか、ヂェラディン・アポロニアの書斎でのいざこざに嫌な思いをしたのではないか、と訊いてきた。
「俺とあいつとは学校の同級生だったんだ。あいつの態度が気に喰わなかったわけではないよ」 そう言って彼はコーヒーカップに唇をつけた。
 リタもコーヒーカップを持ち、タバコに火をつけると、目尻の方でダネを見つめた。
「それで、今日の学会では発表するんですの?」
彼女の問いかけるような口調に、ダネ・ガイタニにこの日の学会でしゃべってもらいたいという雰囲気は感じられなかった。
 ダネ・ガイタニは、病人のような笑いを浮かべながらコーヒーカップを手で回した。
「できるんじゃないかな・・・いつだって、虫が喰った胡桃の実は楽に割れるものだよ・・・」
 リタはタバコの灰を灰皿に振り落とした。
「何だか、あきらめるみたいですわね?」
 ダネはカップを置くと、テーブルの端を押しやった。それからリタの耳に唇を寄せて、ゆっくりと歌ってみせた:


 ダネ・ガイタニは自らが歌と呼ぶそれを歌い終えると、ひとしきり黙った。それはこの際には長い時間であるように思われた。彼は肘を上げて両掌で頭の両側を押さえ、テーブルからはえた丸い小さな標識のような恰好をしてつぶやいた:。
「今朝起きてみると、『ダイティ』の柱が、農家の鶏の卵のように赤かったんだ。国営の養鶏場のじゃない。その時に、発表をせずに村へ帰ろうかと思ったんだ。だが別の考えがそれを遮った。やはり発表をしよう、と・・・」
 彼女はごく自然に、自分の手を彼の手に重ね、しばらく身じろぎもしなかった。それから手を離したが、またすぐに手を重ねてきた。灰皿に置いた彼女のタバコは、ぶつぶつと穴のあいた、細長い灰のかたまりに変わっていた。
「先生がね、ゆうべあなたが帰った後で言っていたわ。あなたの原稿は完全に間違っている、おまけに反党的・・・」
 ダネ・ガイタニは無理に微笑んでみせた。
「でかい声でしゃべったわけかい?」
「笑いごとじゃないわ!あの先生は、この原稿が何を言いたいのか、はっきり見抜いていたわ。これが発表されれば学会の雰囲気はぶち壊しになるだろう、と言うのよ。あの人があなたにひとこともしゃべらせないようにするだろうってことは、私にだってわかるわ。だから、論争をふっかけたり笑いごとにするんじゃなくて、手を引くことの方が、あなたにとっては賢明なことなのよ・・・」 とリタは言った。
 彼はしばらく黙っていた。膝の上から麦藁帽子を取り、それをじっと見つめていた。そして、つばの部分に何か破れたり裂けたりしているところがないか探しているかのように、手で引っ張りまわしていた。その引っ張るしぐさがリタをいらいらさせ、不愉快な気分にした。どうしてこの人はこうも帽子にこだわるのかしら、そう思ったが口には出さなかった。
「あんたも、学会に出るのかい?」
ダネが、帽子から視線を上げずに訊ねた。
「今日の学会は、私の専門の医学とは関係がないけど、でもソティルが私にも招待状を持ってきてくれたから」
リタは答えた。
「じゃあ、発表はすることにしようか・・・」
 リタは、彼の言葉が発表とは全然関係なく、彼が彼女に抱いている好意に関わるものだということを理解していた。もっともその言葉にはいささかの冗気も感じられて、悪い気はしなかった。難しい人だけれど、軟らかくなってはきたわね、と彼女は思った。
 ソティル・クツカが、書類挟みを抱えてカフェに入ってきた。灰色の背広に、赤に黒の水玉模様の入ったネクタイを締めていた。学会の開始時刻が近付いていたが、コーヒーを一杯飲みにやってきたのである。彼は妹を見て、それからダネ・ガイタニの方に顔を向けると、書類挟みを軽く持ち上げ挨拶をした。リタは手を振って、自分たちの席に来るようにとうながした。ソティルはダネ・ガイタニと一緒に座りたくはなかったのだが、妹には逆らえなかった。
「いやどうぞお気になさらないで、発表をなさってくださいよ!学問には勇猛果敢さが必要でしてね。誤りがなければ、学問だってありえませんて。ヂェラディン・アポロニア教授は大変有能な御仁だが、しかし・・・」
とそこまでしゃべったところへ給仕がやってきたので、ソティルの思考は中断された。
「この先生にコーヒーを一つ」
リタは注文を告げた。
「そう、そう、コーヒーを一つだ」
ソティル・クツカが繰り返した。それからダネの方を向いて
「いや、その、しかしですね・・・判断は保留した方がよいのでは・・・」
「放っといてよ、ソティル」
妹が口を挟んだ。
 それでダネ・ガイタニは、アカデミーの特別会員であるソティル・クツカとヂェラディン・アポロニア教授との関係が、見た目ほどうまくはいっていないのだということを察することができた。明らかに、二人の間には何かしら、昔からの確執があるようだった。
 ソティル・クツカは、コーヒーを大きな音を立ててすすった。カップから空気を伝わって屋根裏まで響くような大きな音だった。リタはそのしぐさを目の当りにしてどうにかこらえていたが、口元にはあからさまに不快な気分があらわれていた。
 ソティル・クツカはコーヒーを飲み終わったかと思うと、時計を見て立ち上がった。
「我々は、時間によって出来事から引き離されてゆくのですな!」
とおごそかに言うと、人差し指をぴんと立ててみせた。

 学会会場である人民議会の前の通りには、何かの催しの時のように人々が行き来していた。白髪の、あるいは若々しい学者たち。人民服を身に着けた叩き上げの将校たち。カバンを手にした官僚たち。地質学者。教師。乳の収量を上げた羊飼い。労働者階級の問題を扱う作家。ラフタとチフテル[訳注;ラフタlahutëもチフテルçiftelも共にアルバニアの伝統的な弦楽器]を奏でて経済を歌う民謡家。そして、胸元に星をぶら下げた社会主義労働英雄。
 階段のところでは、指導者同志たちの息子や娘、嫁や婿たちが談笑していた。最新のヨーロッパ風の服装に、顔はすべすべとして清潔で、ネックレスや指輪を身につけ、かぐわしい香りのするガムをかんでいた。こういう人達はいつも、歴史的に重要な出来事や、会議や、民謡の式典や、党や大衆組織の大会の場に加わっては、最前列の席や貴賓席に陣取るのである。そうして名高い識者たちからも、賛美の声と、心酔したようなささやきを耳にすることができるのだ。
「・・・同志の息子だな」
「・・・同志の娘かい」
「・・・同志の婿だよ」
 そしていよいよヂェラディン・アポロニア教授が、妻のネタを伴って姿をあらわした。いつものような灰色ではなく黒の背広で長身を包み、白いワイシャツの襟元には赤いネクタイの色が映えていた。彼は帽子姿でK同志やQ同志の息子や娘、婿や嫁たちのところまで行って挨拶した。握手を交わし、微笑み、喜びの表情を浮かべ、それから学会総会用のサロンでコーヒーを飲んでいる指導者同志らに会うべく、人民議会の入口に続く石造りの階段を早足で上がっていった。
 ダネ・ガイタニとリタは、人民議会の壁のところまで枝を広げる樅の木の陰に立っていた。そしてタバコを吸いながら、学会の始まるのを待っている幸運な連中を眺めていた。彼らはこれを好機とばかりに互いに言葉を交わし、大学への入学や、アパートへの入居や、暖かい職場や、親戚・知人の地方から首都への転居を確かなものにしようとしていた[訳注;労働党時代は、市民の住居の移動が制限されており、首都ティラナに住める者も限られていた]。ダネ・ガイタニは無言のままだった。タバコを吸いながら、ただ眺めているだけだった。そうやって眺めながら学者を見つけ出そうとしたが、まったく無駄なことだった。おまけにあのアカデミーの特別会員も、少し前に目の前から姿を消したきりで、学者たちが見つからないことと併せて、彼をいらいらさせた。
「先生たち、どこに行ったのかしら?」
リタが訊いた。
「あの人たちの中だろうよ」
「で、あの人たちは何なの?」
リタは吹き出した。
「招待客に、学界の活動家に、慈善家に、知識人・・・」
「ふん!学問にも活動家がいるのかね?民俗学というものは・・・」
そう言ってダネ・ガイタニは首をすくめた。
 花壇を横切って、青白い顔をした背の低い男がダネとリタのところへやってきた。手には黒いカバンを抱えていた。それはダネ・ガイタニのよく知っている顔だった。農業省の幹部のセラム・デルヴィシである。あのセラムも学者ってわけか、ダネは独り笑いした。
「ダネ、君も来たのかい!君を養ってくれた母なる職場に戻ってこなくなって、もう随分になるじゃないか」
セラム・デルヴィシは笑いながらダネと抱擁を交わし、それからリタに握手を求めた。
「リタ・クツカです」
彼女は自己紹介した。
「ソティル・クツカの妹だよ」
ダネ・ガイタニが付け加えた。
「いやあ、これは素晴らしい!ソティル・クツカ先生を知らない人がいるものかね!」
セラム・デルヴィシは指を立てて、さらに言った。
「どうも失礼しますよ、大臣が私を探してますのでね」
ダネ・ガイタニは上目がちに何かつぶやいた。
「何こそこそ言ってるの?」
リタが訊ねた。
「あのカバンを抱えた天使は、学会の後で俺を呼びつけるだろうな」
「何の用で?」
とリタが訊ねた。
「発表の内容についてさ」
ダネが言った。
「まあ何ですって?」
リタは叫んだ。
 その頃人々は、ちょっとしたコンサートの時のように、なごやかに談笑しながら会場へ入り始めていた。長らく待ちかねた学会が始まろうとしていたのだ。
 ダネ・ガイタニとリタが会場に入ったのは最後の方だったので、広い総会の会場では来賓らの挨拶が始まっていた。社会の上層部が集うこの宮殿の中には、学者連中を別とすれば、既に見たように、社会的な活動において傑出した人々もいた。総会会場の最前列にはヂェラディン・アポロニア教授が座っていた。彼は二人の指導者同志の間に座っていたが、それというのも学会が始まってみると、アカデミーの議長が病気で欠席していたからであった。
 別の列には学者のやんごとなき妻たち、すなわちネタ、アニフェヤ、アデリナの三人が、国の歴史に関わる壮大な問題をめぐって自分の夫が語るのを聴こうと、座っていた。実際のところ、ここ数年の間に、彼女らは歴史について考えるようになっていた。しかもネタはそれを公言してはばからなかった。ある日、著名な学者・知識人の妻たちの集まりの場で、彼女はこう言ったのである: 「いいですか皆さん、私は今や歴史については心穏やかでいられませんことよ。昔なら、歴史のことなどこれっぽっちも考えやしませんでしたわ。それが今では、歴史のことが私の頭を離れる日はございませんの。うちの夫たちも、まあ私たちがあの人たちと寝た後となっては当然のことに思われますけれど、歴史に立ち入っていくような人々なんですのよ。私たちが夫たちの思想を気にもとめず、録音機で吹き込むことさえしないとすれば、それは間違いですわ。テープが必要なんですわ」
「その通りだわ!学のある者は歴史に関わるべきなのよ。そうよ、歴史なのよ!」
アニフェヤがつぶやいた。
 それで勘の鈍いアデリナも頭をぶんぶん振って、歴史について何かしゃべろうと努めたのだが、彼女の怠惰な気質ではそれは無理だった。
 総会の席では、ヂェラディン・アポロニアが芝居がかったしぐさで黒いカバンの鎖を引っ張ると、開会の辞の原稿を取り出した。聴衆のざわめきがやんだ。教授は左右の指導者同志にうなずいてみせると、聴衆の拍手の雨あられの中を立ち上がった。その中には、彼の名声にとっては厄介な弱みである妻たちも含まれていた。しかもこの妻たちは、演壇に立った夫に向かって思わず「おお」だの「ああ」だのと声を上げてしまうのだった。
「あの人の妻は幸運だわね」
と周りが言うたびに、女性との関係における教授の品行方正ぶりを知るネタは悦に入っていたのであるが、そこには少しのため息も聞かれた。
 教授はまず、この国民学術会議の議論の余地もない重要性について語り、社会主義経済の成果について列挙し、経済学とその理論の任務について時間を割いた。
「理論とは、世界観の形成における中央発電所であり、導きの光をもって人間を育む発電所であります」
と語った彼の比喩的なくだりを聴いて、まずは拍手の嵐が巻き起こり、続いて賞賛の波が押し寄せてきた。
「ほら、こういうのが演説なんだよ!聴けてよかっただろう!」
 しかしダネ・ガイタニはというと、リタと並んで座っていたのだが、手でひげをしごきながらつぶやいていた。
「やれやれ、こんな意味の無い話を聴かなくてすむように、耳がつぶれてくれりゃいいんだ」
リタは腹立たしげに彼の方を見た。
「あなたって人は、何だって悪くとるのね!そういうことばっかり言うんだから!」
「ふん!」
ダネは黙り込んだ。
 ソティル・クツカとズュラプ・カンダリはダネとリタの二、三列前に座っていたが、背中を押された時のように頭を少しだけ上げて、トゲが刺さった時のように落ち着きなさげに演説を聴いていた。ソティル・クツカには、ヂェラディン・アポロニアが自分との約束を破って、あの書斎で寛大にも自分に譲ってくれたはずのアイディアを開会の辞で先に口にしてしまうのではないか、それが不安でならなかったのだ。
「先生は比喩の使い方を心得てらっしゃる!」
ズュラプ・カンダリはヂェラディン・アポロニアの方を見て言った。
「まったくうらやましいよ!」
ソティル・クツカは嘆息した。
 ヂェラディン・アポロニア教授は演説を続けながら、歌を唄う時のように指をぴんと立て、そして唄うように言葉をついだ。
「何よりもまず我々は、生産計画を立て、あらゆる経済分野で獲得したものを調和させたのです。これにより集権化がかたちづくられたのでありますが、中でも発展を見たのは・・・」
「おいおい、裏切りやがったな!」
ソティル・クツカは頭を抱え込んだ。
「まあ待てよソティル、別に何も言ってないだろ」
ズュラプ・カンダリがなだめるように言った。
 ヂェラディン・アポロニアはというと、演説を続けていた。
「さらに自然という、この意志を持たぬものにおいても、計画性があるのです。自然の均衡状態とは何か?それは計画性であります。 自然の均衡を損ない自然を汚すものとは何か?それは純然たる無秩序であります。のみならず自然には、みずからを守るために、中央集権化された計画性が存在するのです。中央集権なくして自然の自己防御はありえず、自然それ自体が中央集権化なのです・・・」
 先程の指導者同志二名は、両手を突き出し、満面の笑みを浮かべてその大きな掌を打ち鳴らした。そして会場全体は、何千本という指から稲妻が走ったかと思われるような、これまでにないほどの拍手の音に包まれた。
「いやあ、何と素晴らしい表現技法!」
「いやあ、さすがは学界の大御所!」
「まさに国民の誇り!」
「ヨーロッパに通用する御仁!」
「彼こそまさに男の中の男と言うべきだ!」
人々はヂェラディン・アポロニア教授のことばに心をわしづかみにされ、口々に言い合っていた。
 アニフェヤとアデリナは身を寄せて、かの学者の幸いなる配偶者であるネタを抱きしめた。さらにネタの膝に顔をうずめ、歓喜にあふれて泣きじゃくる始末で、国民の偉大な頭脳の妻と親しくしている自分たちを誇りに感じているのだった。しばらくするとアデリナは我にかえったが、正気を取り戻すなり叫んだ。
「ねえちょっと!先生がしゃべってるあれは、私のソティルにくれたんじゃないの!ねえネタ、どういうことよ!これってひどいじゃないの!かわいそうなソティル、あのアイディアをもらった時はそりゃ喜んで、ひと晩かけて練り直していたのに!」
 ネタが口を挟んだ。
「まあ、あなたったら!考えたのはヂェラディンでしょうが!あの人が自分のアイディアを他人にあげたことなんて、ないんですからね!誰にアイディアをくれてやったかなんて、あの人は忘れてるんでしょうよ!だって大変な仕事なんですのよこれは!」
「ああ、そんな!」
アニフェヤは深く息をつき、目をふせてしまった。
 アデリナは一目見て、長く連れ添ってきた夫であるソティルの不機嫌ぶりを察することができた。ソティルはうんざりしたように首うなだれて、自分がもらったはずのアイディアのことを思い出して泣いているようであった。ズュラプ・カンダリも、ソティルに同情して、拳で椅子を叩いた。
「裏切りもの!あんな原稿、燃えてしまえばいいのさ!」
「私がもらったアイディアだぞ、それを私がもう一度もらうなんて、そんな恥知らずなことは!」
ソティル・クツカは悲痛と苦渋に満ちた声で言った。
「こうなったら、発表の時はヂェラディン・アポロニアからの引用だとことわって言うしかないだろうな」
と言ってズュラプ・カンダリは歯ぎしりした。
 リタも、兄のことが気の毒に思えてきて
「ヂェラディンたら、ダネにひどいことを!」
と腹立たしげに言った。
「何を?」
ダネ・ガイタニは、よく話がのみこめなかったので訊ねた。
「経済の計画性と自然の計画性を比較するという考えは、ヂェラディン・アポロニアがソティルにあげたのよ。ソティルが自分の発表に使えるようにね!」
リタが説明した。
 ダネ・ガイタニは、その場が学会の会場であることも忘れて高笑いした。
「はっはっは、これはまた、傑作だ!」
そう言って頭を抱え込んだ。
 ダネの声は周囲の席にも聞こえたので、人々は彼の方をにらみつけた。
「やれやれ、誰がこんな無学な奴を招待したんだか」
誰かがつぶやいた。
 ダネ・ガイタニは笑いをこらえきれなかった。
「何がおかしいのよ?」
リタが訊いた。
「そんな比較、もともと意味の無い話にしっぽが生えただけじゃないか!このいかれた連中、あの総会の大馬鹿どもが拍手なんかしていることに、俺は驚いちまうね」
そう言って、自分の大きな両掌に顔をうずめた。

 ダネ・ガイタニは、すべての発表がおこなわれた翌日、自分の発言の機会を待っていた。ところが翌日になっても、発表参加者簿に名を連ねていたにもかかわらず、彼は発言させてもらえなかった。どうやら、この反逆者による発表内容の不穏当ぶりを既に知っていたヂェラディン・アポロニアが、名簿からダネの名を外してしまったらしいのだ。そこでダネ・ガイタニは席から立ち上がり、大きな声で発言の許可を求めた。選び抜かれた誉れ高き人々の中で彼が立ち上がると、それが調和のとれたこの学会の構成をぶち壊すものであるかのように見えて、そこらじゅうにささやき声が広がった。
 この一週間というもの、この学会は、それこそ規則正しく動く機械のように調和を保って開会され、また閉会されるように整えられてきたのである。そこへダネ・ガイタニが立ち上がったために、どうやらこの機械の均整のとれた動きもぶち壊されてしまった。
 ヂェラディン・アポロニア教授は、ダネ・ガイタニが立ち上がるのを見ると、指導者同志の内の一人をつかまえて、耳元で何かささやいた。その指導者同志は顔を曇らせた。
「そりゃいかん!」
彼は手で、拒否のしぐさをしてみせた。
 別の指導者同志が、好奇心にかられて教授に問いかけた。
「何か問題でもあるのかね?」
ヂェラディン・アポロニアはその指導者同志にも近付いて、耳元でささやいた。
 するとその指導者同志も暗い目つきになり、先程の指導者同志にうなづいてみせた。それでヂェラディン・アポロニア教授の頭は、彫像のようにうつむいて話し合っている二人の指導者同志の上半身の間から突き出す形になった。その学者の頭部はまるで、白く身じろぎもしない石膏像のようであった。
「へっへ、見ろよ!教授の頭が固まっているぞ」
ソティル・クツカが両手を擦り合わせながら、同僚であるズュラプ・カンダリに話しかけた。
 会場をひとしきりの沈黙が支配したが、やがて二人の指導者同志の胸像が起き上がり、ヂェラディン・アポロニア教授の赤いネクタイを締めた胸元が誇らしげに反り返った。彼はマイクに口を近づけると、会場の方は見ないままで話し出した。
「発表者はダネ・ガイタニ、経験豊かな獣医の方です」
 ダネ・ガイタニが立ち上がった。
「確かに豊かだよな、経験は!」
一人の若い学者がつぶやいた。
 呼ばれた経験豊かな男は、赤じゅうたんの敷きつめられた会場内を進み、演壇に上がった。頭を上げ、毛だらけで半分真っ黒な鼻先を突き出して、聴衆の注目を集めると、ポケットから原稿の束を取り出した。
「私が読んだあのままの内容をあいつが発表するとしたら、そりゃあいつがイカレた奴だというだけのことさ」
ヂェラディン・アポロニアは二人の指導者同志に挟まれながら、独りつぶやいた。
 ダネ・ガイタニは冒頭で、学会の目的や経済の成果については何ひとつ触れなかった。彼は、経済が大きな困難の中に置かれている、と述べた。
「この学会の中でだけなら、経済は華やかに彩られているが、そこには乳製品も、芋も、果物もない。肉もバターもチーズもテレビもコンピュータも、経済の基本法則にもとづいてとめどもなく手に入るのは、論文の中でしかない」
 彼は言葉を続けた。
「農家から家畜を供出し、個人の土地を縮小したことによって、人々はすっかり貧乏になってしまった。家畜の集産化は、農村のみならず、都市の経済にとっても壊滅的な誤りだった。農村でも都市でも、私的財産の自由がなければ個人の自由もなく、進歩もなく、市民の精神的解放もありえない。だからこそ、いかなる進歩的な試みをも否定し、物質的な刺激を認めないような極端な経済中央集権化は停滞しているのだ。それは硬直した、融通の効かない仕組みであって、このまま続けていけば国を破滅に導くだろう・・・」
 そうすると、学会の総会の席からはトンネルの中で響く風のような「う、う、う」という声が聞こえてきた。二人の指導者同志の顔には、怒りの暗雲が垂れ込めていた。我慢できなくなって、指で机を叩き始める者もいた。会場内には、「お、お、お」という、この異端に対する不満、社会主義を批判する者に対する団結のうなり声が広がった。
「出すんだ、同志、そいつを外へ出せ!」
指導者同志の一人がダネ・ガイタニの言葉をさえぎって言った。
「我が国の現状をおとしめたばかりか、ブルジョア修正主義の思想をここに持ち出してくるとは!」
もう一人の指導者同志が立ち上がり、ダネ・ガイタニを指さして叫んだ。
「このエセ知識人は、月並みな知識でもって、我が国の政治経済の原則と諸法則に対して、公然と反対しているではありませんか!」
これにヂェラディン・アポロニアが加勢した。
 とそこで、総会は静まり返ったようになった。それでダネ・ガイタニはもう一度、他人からすると恥知らずとしか見えないような驚嘆すべき冷静さでしゃべり始めた。しかし彼は発表を続けることができなかった。聴衆が冷静さを失い、話を聴こうとはしなくなっていたからである。会場内では五、六人の委員と、人民服を着た五、六人の将校が急いで集まり、怒りを込めて、社会主義の現状を中傷したこの男の口を封じようとしていた。
「裁判にかけろ!」
「執行機関に引き渡せ!」
[ここで『執行機関』と訳した原語organet e diktaturësは『プロレタリアート独裁』にもとづき反革命分子を処断する一連の機構を指す。つまりこの場合『diktaturë独裁』は肯定的な意味で使われている。]
 二人の指導者同志はヂェラディン・アポロニア教授と顔を寄せて話し合っていたが、ダネ・ガイタニは毅然としてその場に立ったままだった。そうしてしばらくすると、ヂェラディン・アポロニアは、ペンでマイクをコツコツと叩いて言った。
「ダネ・ガイタニ君!発表の中止を求めます。貴重な時間を無駄にしないように願います!」
 ダネ・ガイタニは落ち着いて原稿をまとめてポケットにしまい込むと、怒りに燃える会場内の視線の中を進み、リタのそばの自分の席に戻った。数十人の視線が、まるでレンズで太陽の光を集めたようにその二人の席に集中した。それは焼けるような視線であった。リタはその火のような視線がまぶしくて、手で顔を覆った。
「ブラヴォー」
リタは皮肉を込めて言った。
「みんなが、あなたのことを指さしているじゃないの」
ダネは何も言わなかった。俺自身も息をしているこの世界、そこで生きるこの連中には、真実を感じさせることも知らせることも、人生を変える出来事に加わらせることも不可能なのだ。こいつらが生きている世界とは何だ?なぜ真実に対して憤り、虚偽に対してにやけているのだ?
 ダネはそんなことを考えながら、顔を上げて周りを見渡し、どこかに優しい、あるいはうしろめたさを秘めた視線がないものかと探してみた。しかし目に入るものは、憎々しげな目ばかりであった!・・・それでダネは、すすり泣くような声で深く溜め息をついた。偽りというものが、ここまで力を持っているとは!まさに悪魔のような力ではないか?
「ねえ、どこ見てるのよ?」
リタはダネを肘で小突いた。
「どこかで、俺を真実、いい目で見てくれてやしないかと思ってね!」
ダネが答えた。
「真実って何よ?」
リタは訊ねた。
 すると彼は悲しそうな顔をして
「さっき言った通りじゃないか!」
とひとりごちて嘆息した。
「あり得ないな!」
ダネはぼんやりとつぶやいた。
「あり得ないって何よ?」
リタが低い声で訊ねた。
「俺がしゃべった本当のことは、ここで椅子に座ってる連中にはわからないってことさ・・・」
ダネは答えた。
「わからないのが真実なのよ・・・」
「そうしていずれ、痛みに血を流してわかる時が来るんだ・・・」
と言ってダネ・ガイタニは歯がみした。
 そうして額を手で押さえて黙り込んだのだが、驚くべきことには、まるで畑を耕した後のように眠気がおそってきたのである。
 リタはダネの気を鎮めようとして、彼の膝に手を置いた。彼は身体をこわばらせた。
 と、急に彼の眼が輝き出した。ちょっとした即興詩を思いついたのだ。そこでリタの耳元で唄い始めた。


 リタは笑って彼の膝を手でさすった。このような不運のどん底にあってなおユーモアの心を忘れないこの人物に、彼女は感動していた。それは彼にとって不幸ではないのね。彼女はそう思った。
 しかしダネ・ガイタニの心は既に自分の歌にもリタにもなく、視線は総会席の方を向いていた。二人の指導者同志は心穏やかならざる様子でヂェラディン・アポロニアと言葉を交わしていた。この異端の発言を認めたものかどうか、考えあぐねているようであった。
 しかしどうやったら、内容に手を加えないままで発言を認めるなんてことができるのだろうか?
 指導者同志とヂェラディン・アポロニアは、もはや壇上ではいかなる研究発表も認めるつもりはなかった。ダネ・ガイタニのせいで、学会の雰囲気には別の化学変化が起こっていたのだ。
 だがそれはヂェラディン・アポロニアのせいでもあった。彼はハンカチで汗を拭いながら、国家に携わる同志二人の間で何やらぶつぶつ言っていた。
 すると、いきなり会場から発言の許可を求める者があった。アカデミー特別会員で、痩身で、後頭部が少々平べったいソティル・クツカであった。会場内を再び静寂が支配した。ソティル・クツカといえば学問の領域においても、また知識人の世界でも名の知れた人物であったからだ。
「発言の許可を!」
彼は高い声で言って、貧弱な腕を上げた。
「どういうつもりかしら?」
リタは兄の方を見てにやりとした。
「発表者は、ソティル・クツカ先生!」
ヂェラディン・アポロニアがマイクに向かって告げた。
 ぴっちりした丈の短いズボンでひょろひょろの身体を包んだソティル・クツカは壇上に立ち、顔を上げると、唇を震わせながら、マイクに向かった。
「私は、この二、三十年というもの経済学にたずさわってまいりましたが、社会主義に対するかくのごとき中傷に満ちた発言は、聞いたことがございません。のみならずダネ・ガイタニのこうした発言は、敵対的なものと申し上げてもよろしい。しかしながら驚くべきは−私のみならず我が同僚にとっても驚くべきでありますが−なぜヂェラディン・アポロニア教授が、かくのごとき疑わしき人物に発表を許したのであろうか、ということなのです」
「やめたまえ!どこで教授が発表の内容を知ることができたというのだ!」
指導者同志の一人が割って入った。彼はヂェラディン・アポロニアへの同情をあらわにしていた。
 ヂェラディン・アポロニア教授は顔面蒼白になり、肩を揺すり出した。壇上のソティル・クツカは、軽く耳をさすっていた[訳注:神経質、苛立ちを示すアルバニア人のしぐさ]。
「あの耳をゆうべ引っ張ってやったんだ」
ダネ・ガイタニがリタに言った。
「うるさい!」
リタがさえぎった。
 耳をさすりながらソティル・クツカは狡猾な笑みを浮かべた。
「親愛なるヂェラディン・アポロニアは昨晩、ご自分の書斎にてダネ・ガイタニの発表原稿を読んでおりました。なぜなら、お二人は竹馬の友であるからなのです」
 会場内に「お、お、お」という声が起こった。二人の指導者同志は顔を曇らせ、不機嫌になり、ヂェラディン・アポロニア教授に対して悪意に満ちた疑念を抱き始めたらしかった。彼らの悪意をヂェラディン・アポロニアは感じたので、立ち上がって抗弁しようとしたが、指導者同志らはそれを認めなかった。教授が分別を失っているように見えたからだ。とはいえ彼は何としても自衛しなければならなかった。
 ソティル・クツカは壇上を離れると、極めて満足げな表情で腰を下ろした。ついに彼は復讐を成し遂げたのだ。彼の原則的な発言によって、ヂェラディン・アポロニアの公的地位は揺らぎ出した。このような背信の輩をアカデミーの代表にできるものだろうか!とまあそんな風に指導部は思うことだろうな・・・
「恥知らず!」
妹は自分の兄を罵った。
「みんなそうじゃないか」
ダネ・ガイタニが言った。
「恥を知っている人間なんて、ここにいるのかね」
「黙って!」
リタが言った。
 ネタはというと、自分の席で神経質にブラジャーを引っ張り上げながら、首まで真っ赤になってソティル・クツカを罵声を浴びせた。
「スパイめ、たちの悪い!」
「へえ誰がスパイですって?」
アデリナが面倒くさげに言った。
「あんたの絶壁頭の旦那のことさ!よくも恥知らずにコケにしてくれたものだわね、指導者と一杯やれるほどの、この偉い先生を!」
「そりゃ結構ね!でもあんたの旦那は、他人のアイディアを盗ったんじゃないの」
アデリナはソティルをかばって言った。
 アニフェヤは、どうやってこの二人の間に入ったものか、わかりかねて黙っていた。もっとも彼女は、自分の夫であるズュラプ・カンダリがこの厄介な問題に巻き込まれずに済んでいる幸運を祝福していた。

 ソティル・クツカによる短い発言で休憩となった。二人の指導者同志に挟まれたヂェラディン・アポロニアは頭を上げて、赤絨毯の敷かれた通路を歩き、総会の委員や閣僚や名のある人物など選ばれた者たちがコーヒーを飲む、重厚な椅子の置かれた大きなサロンへと戻った。サロンでは低い声で会話が交わされていたが、その話し声の中にはタバコの燃え残りのような火がくすぶっていた。ダネ・ガイタニの発表こそがそのくすぶる火であり、人々のやりとりの中では、容易に冷めてくれそうにもなかった。
 ヂェラディン・アポロニア教授は、沈んだ表情で椅子に座っている二人の指導者同志の隣に腰を下ろした。二人のうちの一人、K同志はタバコを吸いながら、細い指の間に挟んだそのタバコの先で白くなる灰を見つめていた。もう一人の同志は額に赤いぶつぶつをこしらえていたが、ミネラルウォータの入ったガラスコップをしきりと口元に運んでいた。それからナイフで上等のリンゴを切ってテーブルの中央の皿に盛った。テーブルに並ぶこの種のリンゴもオレンジも、常に欠けることはなかった。暦の月や季節に関係なく、五月でも六月でも、七月でさえも手に入るのだ。
 ベイト・ヂャラ同志は、リンゴがことのほか好物だった。喉にも良いし、とりわけ皮膚に良いからだ。額のてっぺんから、段々にまぶたのところまで及びつつあるこの赤いぶつぶつの広がるのを予防し、抑制してくれるのである。
 ヂェラディン・アポロニア教授はそのリンゴを謙虚な目つきで見つめていたが、その中に手を伸ばしてどれかを取ろうとしたものかどうか躊躇っていた。このような批判的な雰囲気では、どうしたらよいものかはっきりしないからであった。聴衆と指導部を驚嘆させた自分の発言も何もかも、ダネ・ガイタニといういかれた奴の言論活動という、まったくの偶然のせいで、犬脂に突っ込まれてしまったのだ[訳注;犬の獣脂dhjamë qeniはアルバニア語で『役に立たないもの』の比喩]。
 ああ、そうか!あのふしだらな奴にとって、世の中の大部分は偶然なのだな!どこもかしこも、偶然また偶然というわけか!歩くたんびに偶然がまとわりついて、そうして空前絶後の悲劇を引き起こすというわけだ。
 デズデモーナのハンカチはどうだった?あれもまた偶然だった。あのハンカチがイアーゴーの手に落ちたことで、偉大な黒人の男の妻であるデズデモーナを死に至らしめたところの、まったき悲劇が生まれることになったのだ[訳注;シェイクスピアの悲劇『オセロ』でムーア人の将軍オセロOthelloは旗手イアーゴーIagoの謀略に乗せられて、自分の妻デズデモーナDesdemonaを誤解し殺してしまうが、真相を知り自殺する]。
 一体どれだけの政治的、道徳的屠場が、偶然の帰結として血にまみれてきたのだろうか?どれだけの高名な者たち、聡明なる知識人たちが、偶然のためにこの大地の上から掃き出され、命を奪い去られてきたのだろうか?偶然によって惹き起こされた戦争もあっただろう。そんな風でちょっと思いめぐらせてみただけでも、人は憂鬱に支配され、無神論から理神論へ、唯物論から観念論へと回帰することがあり得るのだ。
[訳注;アルバニア社会主義人民共和国は憲法第3条でマルクス・レーニン主義を支配的イデオロギーとし、第37条で無神論国家であることを明記していた]
 そんなことをヂェラディン・アポロニアは、指導者同志であるベイト・ヂャラが大きな赤いリンゴを切っている間に考えていた。ところでこれは驚くべき光景だった。というのも、この吝嗇漢の同志は、自分でリンゴに手を伸ばそうともしなければ、他人に頼むのに「ちょっと」と口にしたこともなかったからだ。とどのつまり、経験豊かな学者ヂェラディン・アポロニアはリンゴ一つについてさえ権力に奉仕せざるを得なかったわけで、それももっともなことだった。だからヂェラディン・アポロニアは、指導者同志らが自分に腹を立てていることを、このリンゴの件からも察することができた。彼は両者に挟まれて、浸食される学会の雰囲気をどう守ったものか考えあぐねていた。
「さよう!」 と、タバコの灰を見つめながらK同志が口にした。
 ヂェラディン・アポロニアはうなずいてみせた。この「さよう」の後には、自分にとって好ましからざる言葉が続くことを、彼は知っていた。
 K同志はタバコを一口吸いつけて、灰皿に突っ込んだ。
「さよう!君も、家畜の集産化にまつわるダネ・ガイタニのスキャンダルは知っておるだろう・・・」
 彼は少し黙ると、まずヂェラディン・アポロニアの顔を見つめた。そうして襟元から靴まで見渡した。その視線はヂェラディン・アポロニアの顔といわず胸元といわず、つま先までも突き通した。
「このようなスキャンダルを知りながら、君は、考えもなしに彼の発言を許したのだ。弁解の余地はあるまい、同志ヂェラディンよ、弁解の余地はあるまい!ベイト同志の考えは知らんが、これはゆゆしきことだよ・・・」
そう言ってK同志は、髪が薄く顎の曲がった同僚、ベイト・ヂャラの方を見た。
「軽率な行動だよ!」
リンゴを切りながらベイト・ヂャラが言った。
「そうだ!ソティル・クツカが間に入って原則的な発言をおこなったのは正解だった!」
K同志が言った。
 ソティル・クツカの名が聞こえた時、サロン中がヂェラディン・アポロニアの方を向いた。それは指導者同志らも歓迎するところだった。
 おしまいだ、と彼は思った。明白だった。そうしてソティル・クツカの手には運が転がり込んできたのだ。今日この日から、あいつが私に取って代わるのだ!そうしてあいつは、人造湖のように長年にわたり溜まりに溜まったものをお返ししようとし始めるだろう。
 間違いなく、この偶然は一方には悲劇を招き、他方にとっては幸運なのだ。痩せ細る者もいれば肥え太る者もいる。あのミイラ野郎、干からびた肉の塊のソティル・クツカは、健康を害したこともなく、ぶくぶくと太り出し、あのデブっちょの女房のアデリナとよろしくやっていくのだろう。そうして、私のことは二度と見向きもしなくなるのだろう。
 ヂェラディン・アポロニアは悲嘆と嫉妬にかられていた。
「私のせいなどとはK同志!思いもよらなかったことです。配慮は足りなかったでしょうが・・・」
ヂェラディン・アポロニアは唇を震わせながら訴えた。
 K同志はため息をつき、視線をサロンの奥から、手に手にカップを持った人々がたむろするカフェのカウンターへ向けた。
「君のほんのちょっとした不注意のせいで、総会の信頼を失わせるとは、よろしくないことだよ、ヂェラディン同志」
K同志はため息をついて言った。
 しかしヂェラディン・アポロニア教授の胸に広がる荒野には、サハラ砂漠でラクダを連れたベドウィンが照らすランプのごとく、一閃する光があった。彼らが私を犠牲にすることはあるまいと考えたのだ。指導部は私を許してくれるのではないか。教授の口元に、甘く柔らかい菓子を含んだような笑みが浮かんだ[訳注;原語llokumeはトルコ語でlokum、ギリシアやアルバニアにも見られる四角い飴。日本の菓子に比べると猛烈に甘い]。この私を指導部が、ソティル・クツカと取り替えるなど、あるはずがないではないか。
 カウンターのところで、K同志はソティル・クツカとズュラプ・カンダリに気付いた。この双子のような二人は、ぎこちない笑顔で指導者同志らの席へ視線を投げかけ、呼びつけられるのを待っていた。ヂェラディン・アポロニア教授は二人の方を見ていなかったが、K同志が二人に手招きする段になってようやく気付き、すっかり落ち込んだ。自分の書斎で鳥に喰らいついていた、あのこざかしい狐どもを、K同志が愛情を込めて招き寄せているかのように感じられた。
 ソティル・クツカとズュラプ・カンダリはフェルト帽を取ると、床まで届くかと思うほど頭をかがめて、まずはK同志に、続いてベイト・ヂャラ同志に握手を求めた。
「さあさあ、座りたまえ!一緒にコーヒーでもどうかと思ってね」
K同志が言った。
「ありがとうございます!」
瓜二つの学者二人が同時に返事をし、微笑んだ。
「原則的にして、的を射た発言だったね」
とK同志はソティル・クツカに言った。
「さしあたって最も重要な発言だよ」
ベイト同志が、やや曲がり気味の顎を上げて言葉をついだ。
 ソティル・クツカは痩せっぽちの腕を膝に置き、掌ににじむ汗をズボンで拭こうとするように、貧乏揺すりをし始めた。K同志に目通りかなったことに彼は幸運を感じていた。それもこれも、自分が学会でダネ・ガイタニとヂェラディン・アポロニアに反対の論陣を張ったからこそなのだ。
「K同志、私どもと、その、私どもとヂェラディン・アポロニア教授との間には古くからの交友関係がございます。交友関係を、その、深めてまいりまして、その、お互いに隠しごとなく真実を、その・・・」
ソティル・クツカは、汗ばんだ掌を膝でこすり、つっかえながら答えた。
『そのべたべたの手を何とかしろ、ズボンの膝が汗でてかてかじゃないか!真実なんて、お前が私に話したことなんかないだろう!私をなめてかかって、嘘ばかり言ってきたくせに!』
そう思ってヂェラディン・アポロニアは嘲笑の表情を浮かべた。
「それは当然のことだよ。階級闘争を前進させるにも、また同志間においても、真実をもって語るべきだ、党は我々にそう教えている。友情の根底にも、階級闘争が存在するのだよ。我々の意識の中にある、外来のものの残りかすに対する闘争、それが階級闘争の姿なのだ・・・」
K同志はそこまで語って、「コーヒーはどうかね」と二人に訊ねた。
「ありがとうございます、ですが先ほどいただいたばかりで・・・」
ソティル・クツカとズュラプ・カンダリは、笑みを浮かべつつ低い声で、嘘をついた。
「では、リンゴをやりたまえ。こういうしろものは、六月の今時分には、市場ではお目にかかれないよ」
とベイト・ヂャラ同志が言って、皿を寄せた。
 ヂェラディン・アポロニアは、この寒々とした厚顔無恥ぶりに身震いした。信じられん!二十分も同じテーブルにいて、コーヒーはどうかとか、リンゴはどうかとか、私にはひとことも訊ねてこなかったのに!それなのに、ソティル・クツカにズュラプ・カンダリ、あの未熟者の、成り損ないの学者二人[訳注;原語shtatanikは『七カ月で産まれた者』、dështakは『死産,早産』で、しばしば悪口雑言の類に用いられる]、よもや自分らがもてなしを受けるなどとは思いもしなかったくせに、『コーヒーはいかがですか、リンゴはいかがですか、ヘーゼルナッツ[はしばみの実]にピ−ナッツはいかがですか』だと。
 いや、彼らはこの、顕微鏡でようやく見える微細な物体のようにわずかな機会を利用したのだ。この誉れ高き人物を、その高邁な理念とは程遠い、体制と指導部に敵対する者に仕立て上げたというわけだ。
 K同志が二人の学者に気を配っているその一方、ベイト・ヂャラ同志は険しい面持ちで、カウンターの方を見つめていた。ダネ・ガイタニが、背の高い妙齢の女性と一緒にコーヒーを飲んでいるのが目に入ったからだ。彼は掌で、テーブルの上を叩いたり撫でたりしていた。学者二人の方は、席を立つわけにもいかなかった。その上ソティル・クツカはリンゴを切ろうとした手がすべって、あわやナイフで指を切りそうになった。指導者同志の前で指を切るようなことがあっては、何とも情けないことだろう。
「恥知らずめ!」
ベイト・ヂャラ同志がカウンターの方を向いたまま、鼻を鳴らして言った。
 K同志も学者二人も驚いて彼の方を見た。
「どうした?」
K同志が訊ねた。
 ベイト同志はカウンターの方へ顎をしゃくってみせた。四人がそちらへ視線を移してみると、ダネ・ガイタニが、コーヒーを飲んでいるではないか!しかもリタと。ソティル・クツカは顔色を失った。自分の妹が、指導者同志の目の前で、最も好まれざる人物と一緒にいるのだ。何をやっているのだこの分別のない妹は、俺を肺病やみにするつもりか!
「あれは、我々に対する挑発かね?」
K同志はダネ・ガイタニの姿を見ると、顔を曇らせた。
「ところで、あの女性は誰だ?」
とベイト・ヂャラ同志が言った。
 ソティル・クツカは全身をこわばらせた。顎がむずむずしてきたので、膝に置いていた掌をあげて、ぼりぼりやり始めた。ヂェラディン・アポロニアは、物理的に計測不可能な満足感がわき上がってくるのを感じていた。
「ふん、小ずるい狐のクツカの奴に、あのメドゥーサのようにとらえどころのない妹のことで、責任を取らせてやるさ。いつだってあの女は、面倒な奴に惚れ込んでは、自分がかぶっているメドゥーサの皮を剥がれない間にそいつを放り捨てて、他の奴に乗り換えるのだからな。あの狐野郎、なぜ口を開いて『あれは私の妹では?』と言わないのか。いやあの男にそんな度胸はないし、そんなものは持とうともしないのだ」
ヂェラディン・アポロニアはそう考えた。リンゴなどもう必要ない。ソティル・クツカの喉ぶえを引っつかんでやるがいい。
 事実、ソティル・クツカは、喉を鳴らし、真っ赤になって、七面鳥が誰かの呼び声に驚いた時のように、頬をひくひくさせ始めた。指導者同志たちの面前で恐縮の余り、リンゴひと切れを噛むにも喉を鳴らしていた。
 長い休憩時間だった。誰も言葉を発しなかった。ズュラプ・カンダリは内心いらいらしていた。自分がソティル・クツカだったらまだマシだろう。あいつは妹を野放しにしていたんだ。ふん、指導者同志たちに向かって何とか返事してみろよ!
「それにしても、あの女性は誰なんだ?」
K同志が言った。
 ヂェラディン・アポロニア教授は顔を上げ、話す姿勢を取った。が、そこへズュラプ・カンダリが入ってきた。
「あれはソティル先生の妹さんで、医者ですよ。私の聞いたところでは、ダネ・ガイタニが彼女にご執心のようですね。おおかた、落ち着いたところで、コーヒーに誘ったというところでしょうな。あの男、すんでのところで廊下で転びそうでしたが。いやはや、どういうつもりですかね?」
そう言って彼はため息をついた。
「そうなのかね?」
ベイト同志が言った。
『この男こそ友人だ』
 ソティル・クツカはズュラプ・カンダリの方を見ながら、心安らぐ思いだった。ふん!ついでにヂェラディン・アポロニアに対する不信も強まった。教授はロシアのルイセンコよろしく、内通をはかろうとしていたのだ[訳注;ルイセンコТрофим Денисович Лысенко(1898−1976)らの遺伝学派は当時のソヴィエト連邦の体制と密接に結びつき、批判的な学者たちを弾圧した]。そこに我が兄弟、古くからの兄弟、ズュラプ・カンダリが罠に落としてくれたのだから。ああ、あいつにキスでもくれてやりたいところだが、しかし指導者同志二人に挟まれて何ができようか。ソティル・クツカはそんな風につぶやいた。
 しかしヂェラディン・アポロニア教授は、ズュラプ・カンダリへの憎悪をたぎらせていた。こいつは、ヴァスィル・コラロフがいた時代の卑俗なマルクス主義経済学誌の論文をまる写しするだけの男じゃないか。この骨と皮だけの猟犬は、自分の分身であるソティル・クツカに手をさしのべないわけではなかった。しかし、犬を池から引き上げても、池のほとりにしがみつかせておくだけなのだ。
[訳注;コラロフВасил Коларов(1877−1950)はブルガリア人民共和国首相(1949−1950)]
 その時ダネ・ガイタニは、他の人々から離れてリタとコーヒーをすすっていた。背後でささやき声が聞こえていたが、それらはしごく当然なものだったから相手にしようとはしなかった。指導者たちのいるテーブルのあたりにも、何やらくだらない噂話が渦巻いているようだった。
 ダネはカップを空けると、何人もの視線とカフェの華やいだ空気に取り巻かれながらリタと外へ出た。振り向きもせず、長身を伸ばし、鼻の毛を出しながら、白い麦藁帽と背広を脇に抱えて廊下を歩いていった。
 議会入口ではカフェと同様、人々が二人ずつ、あるいは三人ずつ集まって、身ぶり手ぶりを交えてささやき合っていた。しかしダネに近寄ってくる者はいなかった。おまけに、視線を直接に向けてくる者さえもいなかった。わき見すき見の類はあったが、どれもこれも、怒りや皮肉や、悪意に満ちた嘲笑を含むものばかりであった。ダネは、全ての人間にぴったり完璧に合うような態度や道徳などが形成されるとは思っていなかったし、全ての人間がただ一つの頭脳でもって思考することなど、ありえないと思っていた。おそらく大多数は、恐れに駆られて舞台を演じているだけなのだ。皮肉屋を演じ、喜ぶ様を演じ、原則的であるかのように演じているだけなのだ。諸君、いずこへか行かん![訳注;原文ではラテン語Quo vadis! ]
 ただ一人、笑顔で彼を見つめる新聞記者の姿があった。組んでいた腕を広げ、満足気な様子だった。ダネ・ガイタニはひとりごちた。
「他にあんな奴が、いるはずもないだろうが」
 ダネに着いてきているのはリタだけだった。彼女は、壁に面して枝を茂らせているもみの木の下で、不安気に黙っていた。
「もし無理なら、俺と一緒にいなくてもいいぞ!」
ダネ・ガイタニが彼女に言った。
「馬鹿ね!」
リタは声をあげて笑った。
「明日になって状況が変われば、君の兄貴のソティルは自慢風を吹かすことだろう
『私は、権威による専制に反対して闘いました。私は・・・』
ふん!そんな下らない自慢話を聞いて、みんなはあいつを先駆者だと誉めそやすだろう。そうしてあいつは、思想を鉄の鎖から解放したとか何とか論文に書くんだろうよ」
青々と茂ったもみの木の下でダネ・ガイタニは言った。
「もういいわよ!状況は変わらないし、変わる理由だってないわ」
リタが言った。
「本当にすまない」
とダネは、リタの方を見ずに言った。
「何が?」
リタが訊ねた。
「君のことさ!」
 二人が話していると、慌てた風で駆け寄ってくる一人の女性がいた。学会の書記局からで、ダネ・ガイタニに話があるらしかった。
「ご遠慮くださいな」
リタがゆっくりとした口調で言った。
 ダネはそれを暗い表情で眺めていたが
「俺は発表では最後まで話していないんだ。お求めの件については、もう書いておいたよ。査問委員会に出す書類だ、持っていきたまえ」
と言って、その女性にそれを手渡した。
 書記局の女性は美しい瞳に驚きの表情を浮かべ、そしてダネの鼻の毛を見て笑った。
 リタは唇を噛んで、ダネに黙るように言った。先程からずっと、見慣れない二人がそばにいたからだった。その雰囲気からして、ダネ・ガイタニにはスィグリミの捜査員だということがわかった[訳注;Sigurimiの正式名称は国家保安部Arma e Sigurimit të Shtetit。労働党時代の内務省管轄の秘密警察。現在は国家情報局に改組]。今日この時から、こういう分野の連中の手のうちに落ちたのだということも、彼にはわかっていた。だからリタが自分のそばにいることを望まなかったのだ。ダネは、みずからの終わりを感じていた。
 そんなことを考えながら彼は、頼る他人もいない母親にだけは、申し訳ないと思っていた。父は咽頭癌で既に死んでいた。たぶんタバコを吸い過ぎたのだ。父が死んでから、母はダネが結婚してくれることを願っていた。母も孫の面倒を見たいと思っていたからだ。しかしダネは、笑って母に言ったものだ。
『孤児院から子どもを引き取って、育てればいいじゃないか』
 それで本当にどこか孤児院に行って、孤独な母が一緒に過ごせるような可愛い子を探そうと考えたこともある。しかし、自分につきまとうあの二人に気付いてしまった今となっては、生きている内にみずからの思想を子に残したいという気持ちが強まってくるのだった。何とか子供を作りたいものだ、ダネはそんなことを考えた。母が私のところに来れるようなことは、差し当たりあるまい。一人ぼっちで、どうしていいのか途方に暮れることだろう。子供がいれば母も喜ぶだろうし、それに俺自身、息子でもいれば、監獄から出るときには迎えに来てくれるだろうな。
 彼がもみの木の下にいる間、学会出席者はぶらつきながら、時に穏やかに、時に激しく語り合いながら、こちらの方を見ていた。ダネ・ガイタニとヂェラディン・アポロニアのことでやりとりしているのに違いなかった。ダネについて、生まれはどこか、育ちはどこか、ヂェラディン・アポロニア教授やソティル・クツカとはどのようなつながりがあるのか、リタとはどこで知り合ったのか、他の人たちとはどういう関係か、いろいろと詮索し始めたのであった。そうして好奇心にかられては、散歩の体をよそおいながら、もみの木の方へやってきてはこの、あとさきも考えないような真似を敢えてやらかした、この考えなしの鼻毛男を一目見てやろうとした。彼を待ち受けているのは、身柄の拘束、逮捕、投獄・・・ダネ・ガイタニは人々の視線と、ささやきと、会話と、非難の声を感じていた。彼は無言のまま、ため息を繰り返した。
「退屈?」
彼の長いため息を聞きとがめて、リタが訊ねた。
 彼女は、思想における反乱を起こそうとしたこの人物、この誇り高く不屈の男に対して、ちょっとだけ悪いような気がした。
「もうどうでもよくなった?」
もう一度、リタは訊ねた。
「あ、いや!ちょっと考えごとをしていたのさ」
「何を?」
リタは興味をひかれて訊いてみた。
「あんたには笑われそうだが・・・」
ダネ・ガイタニは言った。
「そんな・・・」
「孤児院から子供をもらってきて、母と一緒に暮らしてもらおうかと考えたんだ。もうじきに母も俺とは会えなくなるんだからね。俺の腕は、こう・・・」
そう言って彼は、手錠をかける真似をしてみせた。
「馬鹿!」
リタは即座に口を挟んだが、本当のところ、ダネ・ガイタニや自分のことを考えると寒気がするのだった。
 その後の学会には、彼は参加しなかった。くたびれて、ホテルに戻って部屋で横になっていたのだ。リタには、一緒に来ないよう頼んでおいた。
「俺には、あいつらがついてるんだからね」
彼は顎をしゃくって、見知らぬ二人の追跡者の方を指し示した。

 ダネ・ガイタニが目覚めたのは、もう陽も沈もうかという頃だった。もし昼食をとっていたら、目が覚めるのは真夜中になっていたかも知れない。眠かったが、空腹は感じていた。ちょうど、美味しそうなものが並んだテーブルが出てくる夢を見始めていたからだ。食べても腹は膨れず、噛んでも飲み込めない。そんな飢えの拷問に目を覚ましてみると、自分が「ペザ」ホテルの一室に独りぼっちでいることに気付くのだった。
 もっとも、今なら、別に独りぼっちの部屋ですきっ腹を抱えている必要もなかった。支度をして、学会閉幕後の懇親のための晩餐会に出かけてもよかったのだ。そこではフォークやグラスをかち合わせる音が響き、選ばれた人々が挨拶の言葉を述べ、指導者同志らが微笑むその間にも、立ち上がり、互いに乾杯をしているだろう。テーブルについている学界の重鎮ヂェラディン・アポロニアが、国の名高い権威筋の人々に囲まれて、何百という発言、討論、演説で何千という人々を狂喜させたその唇に華麗な手つきでワイングラスを寄せながら、至福の表情を浮かべている様を見ることもできるだろう。ウィーンで扁桃腺の手術を受けているヂェラディン・アポロニア教授の娘について、婦人たちがささやき交わす声も聞こえるだろう。彼女は今頃、シュトラウスのワルツを奏で、青きドナウが眠る奇跡の都にて心安らぎ、また心楽しませているのだから。
「そうだわ、何か素敵なものをお買いになったのかしら?」
「そりゃ、ウィーンですもの!」
「決まってるじゃないの!」
 ことばによる反乱、うるわしい社会の調和を乱すような発言、公の場にふさわしい雰囲気を引き裂くような意見、ジャーナリズムの日々の流れから逸脱するような思想が表明されたのは十五分か、二十分か、いやもっと短い一瞬のことだが、人生においてこのような一瞬は、取るに足らない時間なのだ。しかし、十分だか二十分だかの意見表明によって、人生の四十年だか七十年だかの時間が打ち消されてしまうこともあり得るのだ。ダネ・ガイタニは五十歳だった。自分の十分ほどの発言の重みが、五十年の人生の上にのしかかってきた・・・今、晩餐会の場にいる連中にとっては彼の50年も、そして彼自身も、大した値打ちのあるものではなかった。
 そんなことを考えながら、彼は服を着ると、ホテルの階段を下りていったが、帽子を持っていくのを忘れてはいなかった。 階段を下りたところにある小さなホールで、彼は自分をつけてきた二人組に気がついた。彼らはバネのきかなくなった古いソファに腰掛けていた。ダネに気がつくと二人は身動きしたが、横目で彼の方を見ているだけだった。
 あいつらは『ほらあの鼻毛男!』とかささやいているんだろうな、しかし高い教育を受けているだろうから、そんなあだ名を公共の場で言うことなどあるまい、とダネは考えた。ふん、そういうあだ名を使うにふさわしい場を、わきまえているのだな。ダネ・ガイタニはフロントに鍵を渡しながら、そう思った。
 「スターリン」大通りの「ドニカ」というレストランで夕飯にしようと考えた。それにしても、この名前は!ドニカをレストランの看板の名におとしめておいて、スターリンの方はといえば、ティラナで一番大きな通りに持ってきたのか!その名を聞くとダネは身震いした。
[訳注;『スターリン』大通りBulevardi “Stalin”はスカンデルベウ広場から北に伸びる大通り。その後『殉国者』大通りBulevardi “Dëshimorët e Kombit”となり、現在は『ゾグT世』大通りBulevardi “Zogu I”。『ドニカDonika』はホテル『ティラナ』の裏に実在するレストラン。ドニカは民族英雄スカンデルベウの妻の名でもある]
 レストラン「ドニカ」では、テーブルが空くまで待たされた。むかつくようなチョフテ[訳注;チョフテqofteは挽肉を丸めて焼いたもの。バルカン半島の各地に同種の料理が見られる]の焼ける煙、麺類を茹でる匂いに、新鮮とはいえない卵やわずかな肉の匂いが入り混じり、乾いた空気と共にただよってきた。その匂いに彼は、毛だらけの鼻を指でつまんだ。二、三人の若い連中が、笑いを手で抑えながらひそひそ喋っていた。
「へえ何だい、あの鼻の毛は!」
 ダネの近くで、背広はなし、空色の半袖シャツを着た三十歳ぐらいの青年が食事をしていた。せわしげにスプーンを上げ下げしていたが、ダネ・ガイタニの視線に気付くと、皿に視線を落とした。ダネのことを知っているようにも見えたし、話をしてみたいと思っているようにも見えたが、躊躇しているようだった。
 ちょうどそこへ、給仕が注文を取りにやって来た。料理を選ぶ余地は無かった。チョフテしかございません、と給仕は言った。
 ダネ・ガイタニは首を振った。
「ビールは?」
「言うだけ無駄というものです」
給仕が答えた。
「ラキは?」
「匂いだって嗅げやしませんよ」
給仕が答えた。
「ウゾは?」
「我慢強くていらっしゃる。グラスでお出しできる分が少しございますので、只今お持ちします」 給仕は笑みを浮かべて立ち去った。
[訳注;ラキrakiとウゾούζοは、それぞれアルバニアとギリシアの強い蒸留酒]
 すると、近くに座っていたその青年が立ち上がり、ダネ・ガイタニのところへやって来たが、彼が立ち上がるや否や、ちょうど例の二人組がやって来てそのテーブルについた。どうやら、どこかの席が空くのを待っていたらしい。
「失礼、私は経済学者なんです。ロランドと申します。今朝の学会でお話を聴かせていただきました。ここ、よろしいでしょうか?」 と青年は訊ねた。
 ダネ・ガイタニは、近くのテーブルからこちらを見つめている二人組の方に目をやった。
『この若造、何のつもりだ』
とダネは思ったが、うなずいて、座るように促した。
「晩餐会には行かなかったのかい?」
ダネ・ガイタニは訊ねた。
「招待なんかされなかったんです」
青年が答えた。
「でもそんなの、どうだっていいことです!あなたに一言申し上げたくて、ここへ来たんです。あなたの発表には、驚嘆させられましたよ。奇跡のようです、真実の思想です、市民としての責任あるご発言です。総会の連中の言うことなんて、放っておけばいいんです!あなたにね、心の中で拍手している人は、あの会場に大勢いたんですよ。隠れて拍手していたんです、心の中でね」
「声が大きいよ」
ダネ・ガイタニは言った。
 貧相な『ドニカ』で偶然に出会った、その見知らぬ青年のことばは、胸の中にぽっかりと広がる果てしない空虚にきらめく、ひと束の光であった。ダネは、お世辞を言われるのが嫌いだった。そういう連中に限って自分のことを認めようともせず、普段の仕事をやりとげても、輝かしい賞賛のことばひとつ投げかけてはくれなかったからだ。だが今の彼には、いつくしみのことばが必要だった。それは、ぱっくり開いた傷口を癒す薬のようなものであった。
 給仕が、注文したチョフテと、ウゾの入ったグラス二つを持って来た。ダネ・ガイタニは、今知り合ったばかりのその青年にウゾのグラスをすすめたが、その青年はもう食事を済ませたからと、受け取ろうとしなかった。
「このレストランこそ、ヂェラディン・アポロニア教授がもっともらしくおっしゃていた、経済の基本法則を反映する鏡ですね・・・」 ダネ・ガイタニの皿に乗った不味そうなチョフテを見ながら、青年は苦笑して言った。
 ダネ・ガイタニは青年の足を踏んづけて、声を張り上げないようにゆっくりと語りかけた。
「俺は、あとをつけられている!君がいたテーブルにいるあの二人は、俺を尾行しているんだよ」
 青年がそちらを見ようとしたので
「よせ!」
とダネ・ガイタニは制した。
 青年はどうにかその場に留まろうとしていた。立ち去ることは恥ずべきことに思えたし、ダネ・ガイタニに臆病者と思われるのも嫌だったのだ。額の半分ほどに汗の玉が浮かんで、髪の毛がすずめの羽根のようにはりついていた。明らかに、この監視され続けるテーブルを立って逃げ去りたい様子だった。ダネ・ガイタニはその気配を感じ、口元に嘲笑を浮かべた。そうしてこの愛すべき青年の細い腕を大きな手でつかみ、こう言った。
「君には感謝しているよ!だが今は、俺が君への感謝を口にするのさえ、危険なことなんだ・・・君のことは憶えておこう」
「え、ええ!」
青年はそう言って握手をすると、その場を離れた。
 すると二人組の一人が立ち上がり、誰かを急いで呼びとめようとする風を装いながら、青年のあとに着いていった。もう一人の方は、赤のボールペンを片手に、メニューを読んでいるようなふりをしていた。
 ダネ・ガイタニはその様子をずっと、何かに憑かれたように見ながら、グラスに残った少しのウゾを飲みほした。それから麦藁帽を取り、その場で給仕に支払いを済ませると、店を出た。
 大通りの灯は輝きを増し、ダイティ山の方からは涼しい風が吹いていた。姿をあらわしたティラナは、涼しい風をもたらす宝物庫である青きダイティのおかげで、蒸し暑さとは無縁な心地よい夜を享受していた。七月と八月の熱気にみまわれても、ティラナ中がダイティの只中に立ち、また樹齢数百年の松やブナの小枝の間に隠れているようなものだ。繊細なる夢想家のごとくダネ・ガイタニはそんなことを考えていた。
 大通りの街灯の下でダネは、リタ・クツカが大きなカバンを肩から下げ、一人で歩いている姿を見つけた。彼女はハイヒールのかかとを鳴らしながら、彼のすぐ近くまで来ていたが、そこでいきなり道路を渡り大通りの反対側へ行ってしまった。
 ダネ・ガイタニは、ヂェラディン・アポロニア教授の書斎でのことを思い出していた。あの時、彼女は白のブラウスで、下唇の真ん中に薄く縦じわがあって、身体つきはイルカのようにしなやかで、現代的な気品があって、恐れを知らぬ風で、そこには少しだけニヒリストな雰囲気を含んでいた。自分が自由で自立した考えを持つ女性に見えるように印象づけようと、周りに抵抗を挑んでいたことを思い出した。
 ダネは、病人のような生ぬるい笑いを浮かべてうしろをふりかえり、独りつぶやいた。ああ、俺たちは何て馬鹿なんだ!ああ、いかれてるよまったく!そうだな、リタは明日起きたら、こう言うだろう。
『私は、自由な思想のために闘ったんだわ』
 そして、自分の夫が逮捕され投獄されていくのを見送った女たちもまた、みずからの職場追放や強制収容を逃れようとして、法廷でこう言うだろう。
『私たちは、夫を愛していたのよ!』
 ダネ・ガイタニは、例の捜査員二人組が自分をつけていることに気付いていた。二人は、当然のことだが、他の市民にまぎれて散歩をしている風で歩いていた。
『ふん、こいつら、俺を混乱させようというのか』
ダネはつぶやいた。
[訳注;アルバニアや他のバルカン半島の地域では、今も夕刻になると、大勢の市民が散歩する光景を見ることができる。なお、スィグリミの私服捜査員や一般市民の協力者による内偵活動は実際に随所でおこなわれていた]
 大通りを離れて、何とはなしに、『11月17日』映画館の前に出る小さな道に足を運んだ。
『ああ、「11月17日」といえば、ティラナの解放記念日だったな。親父も解放戦争に参加していた。親父が銃を手にしていた道の上で、息子はよろしくやっているわけだ』
ダネはそんなことを考えた。
[訳注;反ファシスト民族解放軍は約二十日間にわたるドイツ軍との市街戦の末、1944年11月17日にティラナ解放を宣言した]
 背後から盗み見る視線があった。またしてもあの二人がついてきていた。それで、二人に追われるような形で、ダネは大通りへ戻ってきた・・・大通りは、ついさっきよりさらに広くなったような気がした。灯も建物もまばらになり、その輪郭はおぼろげなものになっていた。
 ダネ・ガイタニはただ何となく、駅のある方へ歩いていった。最終列車が到着していた。たぶん、顔見知りが居合わせても、今日彼の身に起こったことについては聞いていないだろう。一緒にそのあたりをぶらついて、ことばの流れを作ることもできるだろう、まだそれは尽きてしまったわけではないのだ。そう、そうだ!そんな会話の流れも、もうじき尽き果てる・・・川は干上がり、俺の存在も、ゴビやサハラやカラ・クム[訳注;カラ・クムKara Kumはトルクメニスタン共和国に広がる砂漠地帯]のような砂漠と化してしまうだろう・・・そんなことを考えるダネは、熱に浮かされたようになっていた。
 それで彼は駅に背を向けて、もと来た道を戻り出した。足に火花が走り、膝は裂けるようだった。彼の年齢からしても、そう無茶なマラソンをしたわけではない。彼は五十歳だが、そんな年齢の割には独身だった。しかし今日は長い夜だった!孤独な夜・・・
 こんな夜は、柳の木が生えている川のほとりに行きたがったものだ。田舎では蛙が鳴き、人知れずふくろうが舞い飛んでいた。かつて幼少期と青年期には、そこで服を脱ぎ捨て、一番深いところへ飛び込んだものだった。川では、ヂェラディン・アポロニアも水浴びしていたな。まだ学問のことなんて考えてもいなかった、昔のことだ。
 彼はコーヒーが飲みたかったし、それに友達にも会いたかった・・・自分の未来はコーヒーも友人もないものになるだろうという予感がしたからだ。涙が出そうだった。おお、神よ!と彼はつぶやきホテルへ戻ることにした。
 ホテルに戻ると、フロント係が部屋の鍵と一緒に一通の小さな封筒を手渡した。部屋に戻って封筒を開けてみると、短い走り書きのメモが出てきた。明日の午前八時、農業省の幹部局まで出頭するように、とあった。
 その呼び出しを見たダネ・ガイタニは、自分の仕事が途方もない速さで終わりに近づいていることを予感した。しかし彼は、予期していたことゆえ驚かなかった。今日でなければ、明日そうなるというだけのことだ。
 ダネは早々に眠りに落ちた。そして次の日、まっすぐ農業省の幹部局へ出向いた。 予想した通り、ほんの少し前に学会の場で会って挨拶を交わした部局長のセラム・デルヴィシは、握手も求めず、席をすすめようともしなかった。椅子に座ったまま険しい目つきで、ぶ厚い書類を穴があくほど見つめていたが、引き出しから、小さなメモの束にボールペンで書き込んだものを取り出した。そして咳払いをすると、電報でも読むように乾いた口調で話し始めた。
「君はその敵対的行為のゆえに、職を解任された。決定は、県の執行委員会から通達されるだろう。君のような敵を、我々の社会主義農業の幹部の中に入れておくわけにはいかない。
 君は意図的に、職場の牛乳の生産量を落とす活動をおこない、それによって農家の不満をあおった。これは単に、学会で示された見解の誤りだけによる問題ではない。見解については、誰でもそれを表明する権利がある。しかし君の見解は、完全に敵対的な行為に結びつくものだ。このような複雑な問題を引き起こした君は、社会主義体制に対する典型的な敵となってしまった・・・」
ダネ・ガイタニは、事前に用意したメモの紙を読み上げる部局長の青白い顔から、視線をそらさなかった。その朗読を聴きながら彼は、ノメンクラトゥラ[訳注;nomenkraturëは『特権階級』を意味するロシア語номенкратураから]の上の方の誰かが、このメモを一字一句違わぬよう伝えろと、この部局長に通知したのだなと感じた。
 何という人倫の退廃ぶりだ!彼は思い、そして訊いてみた。
「帰ってもよいかね?」
部局長は目を上げたが、ダネの方は見なかった。
「君にはティラナにもう三、四日滞在してもらいたい。まだ説明を求めることもあるので・・・」
その時ダネ・ガイタニは、母のいる田舎へ自分が戻ることはもうできないのだと悟った。

ダネは、幹部局の局長に命じられた通り、さらに三、四日ティラナにいた。想像もつかないような、尋常ならざる力で連れ去られるのではないかという不安にかられ、おかしくなりそうだった。
以前、彼は孤児院から三、四歳ぐらいの男の子を引き取ることを決意したことがあった。それで児童養護施設[訳注;原語shtëpia e fëmijës『子供の家』]へ出かけて所長に会い、特にかわいらしく頭も良さそうな男の子を選んだ上、養子縁組の手続きに着手するため、役所に何度も通った。[訳注;これについては、ヂェラディンアポロニア宅での会話の中に伏線が張られていた]
 最初のうち役所では彼のことを、どうかしているのだと思っていた。未婚の男性がなさぬ仲の子を養子に迎えようとするなど、前例がなかったからだ。婚外子を引き受けるのは決まって、不幸にして子供ができない人々ばかりだった。それがこの男は、結婚しようとしたことも、子供を作ろうとしたこともなかったというのだから・・・
 市民生活課の職員も、この鼻毛男は、しゃれにならないはずの問題をちゃかして言っているのだと考えた。
「なぜ、お子さんが必要なのです?」
彼女はダネに訊ねた。
「俺には、長きにわたって自分に欠けていると思い続けてきたものを手に入れる必要があるのだ」
「まあ驚いた!でしたらあなたは、子供を持つためにも結婚すべきですわ、そうなされば、奥さんも子供も手に入りましょうに・・・」
「結婚するのはたやすいことじゃないよ。俺はね、あんたも見ておわかりの通り、この毛だらけの鼻のおかげで、女たちが逃げてっちまうのさ・・・」
ダネは冗談っぽく返事をすると、長々と相談したあげく、孤児院で決めてきたという子の名前まであげてみせたものだ。
 その時の認証書をポケットに入れてダネ・ガイタニは児童養護施設に行った。そこでジョンという三歳の男児を抱き上げてやった。
 ジョンはすぐさまダネの広い胸板にしがみついたので、その柔らかい髪がダネのざらざらした顔に触れた。
「ダネ・ガイタニだよ、お前のお父さんだ。今日からお前はジョン・ガイタニだ。おばあちゃんもいるぞ。本当にあった話やおとぎ話をたくさん知ってるんだ。おばあちゃんは、ベヒイェといってね・・・」
そうジョンに語りかけながらダネ・ガイタニは、人混みの間を抜けて歩き出した。
 歩き出したダネはふり返り、ジョンの小さな背中越しにうしろを見た。うしろには例の二人組が来ていた。ダネ・ガイタニは、ブラシのようなごわごわの頬をジョンの柔らかい髪にすり寄せた。
「パパ!」
「何だい息子や!」
「お水」
ジョンが言った。
「おお、お父さんも水が飲みたいな、一緒にホテルで何か飲もう」
ダネ・ガイタニが答えた。
「ホテルってなあに?」
ジョンが訊ねた。
「大きな、おうちだよ」
とダネ・ガイタニは説明した。
「これくらい、大きい?」
とジョンは訊ねて、ダネ・ガイタニの胸元で手を広げて大きさを示すようにしてみせた。
 ダネ・ガイタニはまたうしろを向いた。一瞬、心臓が高鳴った。
 尾行の二人組は姿を消していた。どうやら、奴らから逃げおおせたらしい。ジョンを胸に抱いたまま、彼はそう思った。
「お水!」
とその子が言った。
「ああ、もうすぐそこだよ」
ダネ・ガイタニはそう言ってなだめながら、自作の歌を唄い出した。


 ジョンはずっとダネ・ガイタニの胸にしがみついたまま、歌を繰り返してくれとせがんだので、父親は一節一節をゆっくり唄ったり、のみならず新しい歌を考えて唄ってやったりもした。「ペザ」ホテルの前まで来たところで、絶え間ない深刻さを含んだ中国式の笑顔[訳注;原語gaz kinezは『うわべだけの笑顔』の意味で用いられる]に彼の足が止まった。「ガズィ」のそばに立っている二人組の姿があった。あの二人組だった。ダネ・ガイタニはちょっとの間、ジョンを抱えていた胸から下ろそうとした。
「おお神よ!」彼は声をあげた。
「つまり俺が逃げないように農業省まで同伴していたのか!何たるメカニズム、何たる完璧ぶり!」
「どうしたの、パパ?」
「いいんだ、息子よ、別にいいんだ!」
ダネ・ガイタニは柔らかくあたたかいジョンの髪に頬ずりした。
→次へ