東日流外三郡誌

 

津軽の片田舎からでてきた古文書「東日流外三郡誌」に対して、歴史学者と思われる多くの人達がよってたかって、本の出版やインターネットなどで、執拗に「偽書」のキャンペーンを行ってきた。その結果、「偽書と思えない」との裁判判決にもかかわらず、「東日流外三郡誌」は独りの現代人和田喜八郎氏が作り上げた「偽書」とのレッテルが定着している。しかし、偽書と攻撃している学者の多くが実際の和田資料を目にしていないで、また偽書と言っている一般の人達のほとんどが、実際に刊行されている「東日流外三郡誌」を読まずに、偽書キャンペーンの著作のみで、判断しているようである。この大掛かりな「偽書」キャンペーンはなにを意味するのか、本当に歴史学者が正しい判断で偽書と決めつけているのか? なぞに包まれた「東日流外三郡誌」を読み、自分で判断をしようとするものである。

昭和58年から60年にかけて刊行された「東日流外三郡誌」は、1篇が500頁以上で、6篇にもなる膨大なものである。それは昭和22年に和田喜八郎氏が家で発見したもので、その一部は昭和48年頃から発表されて来た。図書館からそのなかの一冊「東日流外三郡誌古代篇(上)」を借り、また、インターネットの検索で「真書」、「偽書」の記事を拾い、それらを読む事から始めた。ここでは、その時その時に感じて書きとめた事を書き連ねて行きたいと思っている。

 

1. 西村俊一(学芸大学教授):日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する考察ー、日本国際教育学会第10回大会報告(www.furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html)を読んで

「真書・偽書論争」に関係したことのない、和田資料を実際に目にした良心的な、歴史学者の意見として貴重なものである。「東日流外三郡誌」の発見の経緯から内容の詳細、史料価値、「真書・偽書争論」の問題点、「偽書」キャンペーンの醜さと影響などを詳細に述べており、真書・偽書論争の真相を知ることができる。私怨を込めた醜い私闘とも思える「真書・偽書論争」に対する一歴史学者の怒りが感じられる。この小論によって、「東日流外三郡誌」が真書である気になってきた。

その中で、穏和な一宗教者が、「偽書」論者の代表とも言うべき安本美典について、「あの人は学者さんでしょう? それがどうしてあんな行動に走るのでしょうね。この世の中は、本当に恐いですね」と言った言葉が印象的である。また、和田家資料の公開を目的に寄贈先の公共施設に打診した時に、「偽書」キャンペーンを恐れて、実見することなしに断られたとの、「偽書」キャンペーンの影響を述べている。

 

2. 原田実:「東日流外三郡誌」裁判・判決とその問題点(www.mars.dti.ne.jp/~techno/hihan/saiban.htm)を読んで

青森裁判判決に反論している項から抜粋

「また、和田家文章は一見膨大なようだが、『東日流外三郡誌』だけを例にとれば、文庫本にして二十冊もない程度であり、流行作家のペースを考えれば、驚くほどの量ではない。『東日流外三郡誌』のような膨大な文章が一人に書けるはぅがないなどといえば、和田家既刊行分全体をはるかに凌ぐ量の著書があり、しかも作品の高い水準を維持し続けている栗本薫氏や赤川次郎氏らに失礼だろう。半村良氏は月産最高137枚を記録したことがあるというが、これは八幡書店版『東日流外三郡誌』のほぼ一巻分に相当する。

『東日流外三郡誌』は内容の重複や前後の矛盾、誤字、当て字などを気にせずに書きとばした文体であり、酒を飲んで酔った勢いで書きなぐったのではないかとする論者さえあるほどだ『幻想の荒覇吐秘史』参照。」

 

これを読んで、「事実に基づいて物事を判断する習慣」と言ってい歴史学者原田氏が「事実を自分の説に都合の良いように判断」していることに腹立たしく感じた。以下は原田氏に対する私の反論である。

栗本薫氏や赤川次郎氏を例にして、文庫本にして二十冊もない程度の東日流外三郡誌は驚くほどの量でないと述べておりますが、違う見方をすれば、国内でも数人しかいない特別な才能を持った、書くことを仕事としているプロの作家である栗本薫氏や赤川次郎氏では可能であるが、とすべきではないでしょうか。生活するために他の仕事を持ちながら、その合間にこれだけの膨大な文章を書くためには、両作家以上の才能を持った人でなければ不可能ではないでしょうか。さらに現在の作家がワープロやペンで書くのに対し、墨をすって筆で書かなければならないハンディーを考えたら、東日流外三郡誌の分量を一人の個人が書き上げるのは不可能に近いと裁判官が判断するのはもっともと思います。また、「酒を飲んで酔った勢いで書きなぐったのではないかとする論者さえある」と他の人の意見を記して、先生のご意見を述べることを避けておりますが、先生はどうお考えなのでしょうか。東日流外三郡誌(古代篇(上)のみを見て)を眺めてみますと、普段使わないあるいは見たこともないような古い漢字や難しい単語、もっともらしい古代の人名、地名、年号などが頻繁に使われ、さらに和歌や漢文までも含んでおります。先生のような歴史学者であっても、資料を調べることもしないで、酒を飲んで酔った勢いで書きなぐって書けるものでしょうか。この事は、歴史学者の先生が充分わかっているために、ご自分の意見を述べずに、他の人の意見を引用しているのではないでしょうか。東日流外三郡誌の内容は、まちがいなく、高い歴史の知識と多くの資料を駆使して書かなければならない内容を含んでおり、和田喜八郎氏の学歴(高等小学校卒業と聞いている)と生活状況から考えて、和田氏による偽書ではないとする裁判所の判決は素直な判断と思います。

東日流外三郡誌の内容が正しいのか根拠のないでたらめであるかの判断は別として、まちがいなく、高い日本史の知識と多くの集めた資料がなければ書けないことは、東日流外三郡誌を見てだれでも感じる素直な判断と思います。もし、偽書とした場合、1.なぜ、どんな理由で書いたか? 書くことにどんなメリットがあるのか? 2.どうやって作ったのか? どんな資料を駆使して、どうやって材料(和紙や筆など)を手に入れて作ったのか? 3。何時、どこで? 生活するための仕事を持ちながら、この膨大な文書を何時書いたのか? をはっきりさせずに、和田氏を偽書作家の犯罪者とすることは不可能であります。理科系の者は「事実を素直に判断」しますが、歴史学者は「事実を自分の説に都合良く判断」する傾向がある、と言うのは言い過ぎですか。真書、偽書の論争を見ていると、そう感じざるを得ません。

 

3. 原田実:『東日流外三郡誌』事件・偽作の「現場」を訪ねる(www8.ocn.ne.jp/~douji/wadake.htm )に反論する

「『東日流外三郡誌』事件・偽作の「現場」を訪ねる」 からの抜粋

「天井裏の一角には中二階があった。その部屋もよく見たが、物を隠せるような場所はなく、ただ二十本ばかりのペットボトルが残されていた。同行の斎藤隆一氏や『東奥日報』記者とともに中身を調べると、強い腐敗臭の液体が入っていた。放置された人尿の匂いだ。

その部屋は生前の和田喜八郎氏がよく籠もっていた所で、文献偽作の作業場と目される。古物商の間で伝わる話だが、古書の贋作者は新しい和紙に古色を着けるのに、腐敗した人尿を用いることがあるという。

そして、『東日流外三郡誌』など和田喜八郎氏によって“発見”されたという古文献には、しばしば不自然な染みがあり、何らかの液体が塗られたような跡を示していた。そのペットボトルを見つけた時、私たちはまさに事件の「現場」に足を踏み入れていたのだ。

『東日流外三郡誌』問題で失われた最大のもの、それは「信頼」だろう。大学教授やマスコミ、公的機関などがずさんな偽書に騙された。私たちはこの事実を教訓とし、権威ではなく事実に基づいて物事を判断する習慣をつけるべきではないだろうか。」

(『東奥日報』2003年2月28日付夕刊・寄稿に一部加筆、関連記事は同年2月25日付)

 

以下は原田氏に対する私の反論です。

以上の文章を読み、大きな疑問が湧いてきました。先生はペットボトルが偽書作成の重要な証拠であると主張しておりますが、ペットボトルが普及されてきたのはごく最近のことだと思います。インターネットで調べますと、日本でペットボトルの製造が許可されたのが1983年で、一般の小型のペットボトルが普及されはじめたのが平成8年頃だそうです。昭和50年(1975年)に刊行されはじめた東日流外三郡誌の偽書を作成した時期をどのようにお考えかわかりませんが、どうみても偽書作成時にペットボトルを手に入れることは不可能であります。先生は『事実に基づいて物事を判断する習慣』が大切と述べられておりますが、ペットボトルのラベルに書かれた製造年月日をきちんと確認したのでしょうか。もしかしたら和田喜八郎氏がお亡くなりなった後の製造年月日が記されていたかもしれません。また、和田喜八郎氏個人での偽書作りに、なぜ20本ものペットボトルが必要なのでしょうか。疑問は沢山残ります。「事実をきちんと確認しないでの判断」が間違いをもたらすことは、長年理工系の教育・研究に携わって来た者として身にしみておりますので、あえて述べさせてもらいました。

 

東北歴史探訪へ

トップページへ