『沈黙の春』ノート

1. 明日のための寓話

 『沈黙の春』は「アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった」という書き出しの「明日のための寓話」からはじまります。

 『沈黙の春』といえば必ずここから一節が引用されるとても印象的な部分です。カーソンがいうように「本当にこのとおりの町があるわけではない」あくまでフイクションなのですが、実に説得力ある書き出しだといえるでしょう。逆に、カーソンや『沈黙の春』を批判する人は、この部分があることをもって『沈黙の春』は科学性に欠けると指摘することもあるようですが、それだけインパクトが強いのでしょう。

 「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた」「春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜はあける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地――みな黙りこくっている」「でも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間がみずからまねいた禍いだったのだ」

 あれこれ説明はいらないでしょう。ここに描かれた「病める世界」の叙述は読者の心をとらえてはなさないでしょう。「これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるのか」――自然を破壊する人間の愚かしさ、地球と人類の未来への不安など、私たちが現在直面している地球環境の危機と重ねあわせるとき、この警告の重みはいっそう増すことでしょう。

 どうかこの部分はくりかえし読んでください。これからあとの叙述はやや専門的な知識も必要とされるでしょう。わかりにくく、読みすすむのがつらくなったら、この部分にもどってください。なぜこんなことになるのか、その思いのもとにまた読みすすんでください。「いったいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ」とのカーソンの指示にしたがってください。

2. 負担は耐えねばならぬ

 「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている」

 ここに書かれたように、地球の歴史、あるいは生命が誕生して以来の歴史からみると、まったく一瞬といえるような短いあいだに人類は地球を汚染し、自然や環境を破壊してしまったといってもよいかもしれません。カーソンの指摘は、そのまま今日の地球環境問題を論ずるときにもあてはまるようです。

 カーソンがいう「おそるべき力」「禍いのもと」は放射能であり、殺虫剤などの化学薬品です。放射能はいまから百年前に発見され、その利用範囲は次々ひろげられてきました。また、殺虫剤などは第二次世界大戦を前後して開発され、同じく利用範囲がひろげられてきました。ところが、これらはいずれもおおいに有用であるとともに、生命そのものを脅かす「禍いのもと」でもあったのです。このうち放射能については比較的早くからその危険性について論じられ、放射線防護の考え方や基準も作られてきました。しかし、カーソンが『沈黙の春』を書くまでは、化学薬品のもたらす影響はほとんど問題にされていなかったのです。カーソンはいいます、「核戦争が起れば、人類は破滅の憂目にあうだろう。だが、いますでに私たちのまわりは、信じられないくらいおそろしい物質で汚染している。化学薬品スプレーもまた、核兵器とならぶ現代の重大な問題と言わねばならない」と。そして、一九四五年前後から《殺虫剤》ならぬ《殺生剤》というべき塩基性の化学薬品が大量に開発され、やたらと使用されている。いったいなんおためにこんな危険な目を冒しているのか、「これから生まれてくる子どもたち、そのまた子どもたちは、何というだろうか。生命の支柱である自然の世界の安全を私たちが十分守らなかったことを、非難してやまないだろう」と。

3. 死の霊薬

 カーソンは、第二次世界大戦のおとし子としてさまざまな化学薬品が開発されてから、毎年毎年、新しい化学薬品が作り出され、「いまや、人間という人間は、母の胎内に宿ったときから年老いて死ぬまで、おそろしい化学薬品の呪縛のもとにある」といいます。それでは、いったいどのような化学薬品が使用されているのでしょうか。この「死の霊薬」の章は、このような「殺虫剤の《紳士録》」にあたるものです。カーソンはいろいろ数ある殺虫剤を、DDTに代表される《有機塩素形殺虫剤》とマラソン、パラチオンなどの《有機リン酸系殺虫剤》に分けて主要なものについてその特性などを説明しています。この章でとりあげられた殺虫剤や除草剤だけとってみても実に多数にのぼります。

 あとの章との関連からいっても、ぜひここで注意し理解をしておく必要があるのが、「食物連鎖」、あるいは「生物濃縮」ということです。DDTの解説ででてくる例をみると、DDTがまかれたムラサキゴヤシの粉を鶏にやると卵のなかに残留する、DDTの残留するまぐさを牛にあたえると、その乳からDDTが検出される、さらにそのミルクでバターをつくると残留性はさらに高まる、このような循環のなかでごく少量だったDDTが次々と蓄積していく、このような現象が自然のなかにはあるのです。とくに有機リン酸系農薬などは残留度が高いだけでなく生物体内で濃縮され蓄積するのです。しかも現実には、ひとつだけの化学薬品だけでなく、いろいろな化学薬品が相互に作用することもあるわけで、その結果、どのようなことになるのか、私たちは何も知らないということはすまされないのです。

4. 地表の水、地底の海

 この章から、水、土壌、鳥や生き物、植物、河川などがどのように農薬により汚染されていくかが具体的に示されています。

 まず、水の汚染です。水は、原子炉、研究所、病院などからの放射性廃棄物、核実験の放射性降下物、都市の下水、工場の化学薬品の廃棄物などにより汚染されていきますが、これに加えて殺虫剤や除草剤などの大量使用が汚染をひきおこすのです。重要なことに、地表の水だけでなく、地下水や井戸水まで汚染されていきます。また、汚水処理池では化学薬品が相互に影響しあい、別の化学物質を作り出していることもあるのです。

 このような水の汚染が何をひきおこすのでしょうか。カーソンはいいます、「水は生命の輪と切りはなしては考えられない。水は生命をあらしめているのだ。―― 一つの生命から一つの生命へと、物質はいつはてるともなく循環している。

水中の有用な無機物は食物連鎖の輪から輪へと渡り動いていく。水中に毒が入れば、その毒も同じではないのか。自然の連鎖の輪から輪へと移り動いていかないと、だれが断言できようか」と。

 カーソンは、このことをカリフォルニア州のクリア湖などの事例をあげて説明します。そして、「どこまでもたち切れることなく続いてゆく毒の連鎖――この連鎖はいったいどこで終るのか。その終りは?人間??」と警告しています。

5. 土壌の世界

 つづいて土壌の汚染がとりあげられています。カーソンがいうように「生物が土壌を形成したばかりでなく、信じられないくらいたくさんのいろんな生物が、すみついている。もしも、そうでなければ、土は不毛となり死にはててしまう。無数の生物がうごめいていればこそ、大地はいつも緑の衣でおおわれている」のです。土壌のなかにはバクテリア、菌類、藻類、原生昆虫、ミミズなどが生き、そのはたらきのなかで土壌も生きているのです。

 この土壌が農薬の散布をうけ、次第に汚染されていくとき、何がおきるのでしょうか。ある種の土壌生物が減り、捕食者と被食者の均衡がくずれ、ある種の土壌生物だけが大発生するかもしれません。さらに土壌中に蓄積された農薬は植物にも影響をあたえるでしょう。

 ある植物は成育が悪くなり、ある植物は農薬を吸収し、それが果実や野菜に残留していくことにもなるのです。「土なんていくら殺虫剤をぶちこんでも、どうでもない」といってはおれないのです。

6. みどりの地表

 「水、土、それをおおう植物のみどりのマント――こうしたものがなければ、地上から動物の姿は消えてしまうだろう」とカーソンはいいます。草木と土、草木同士、草木と動物のあいだ、それぞれ切っても切れないつながりをもちながら、生命の歴史はくりひろげられてきたのです。

 ところが、農薬が大量散布されることによって、様子が変わってきたのです。「除草剤が雨あられと森や畑に、湿原や放牧地に降りそそぐとすれば、野生動物の生息地には大きな変化が起こり、永久にすべては破壊されかねない」とカーソンが指摘するようなことがいたるところで始まったのです。「選択性スプレー」や生物学的防除という、自然そのものにそなわる力を利用することもできるはずなのに、いっせいスプレーを執拗にくりかえす、それがもたらすものは自然破壊でしかないのです。カーソンはいいます、「何でも化学薬品スプレーで解決しようとする人たちは、科学的に重要な事柄――つまり植物の群落をそのまま残しておくのがほかならず科学的にどれだけ大切であるか、を見落としている」のではないかと。

7. なんのための大破壊?

 「自然の征服」をめざしてすすんできた人間のあとをふりかえると、みるも無残な破壊の歴史でしかなかった、そして野生の生命という生命を殺してきたとするならば、あまりにも悲しいことではありませんか。しかし、農薬の空中散布をくりかえす、「毒の雨」をふりそそぐという人間の行為は、生命のみな殺しというべき行為といわねばならないでしょう。実際に、虫、鳥、シマリス、ネズミ、ウサギ、家畜などが農薬の散布の犠牲になっているのです。カーソンは、ミシガン州やイリノイ州での散布の実態をふまえながら、このような農薬使用の現実があることを鋭く告発しています。「筋肉の調整ができず、飛ぶことも立つこともできず、横倒れになりながらも、羽をしきりにばたつかせ、足指は、しっかりとにぎられていた」という野ヒバリ、「背中を丸め、指をかたくにぎったまま前足は胸のあたりをかきむしり――苦しみのあまり土をかみまわった」リス、動物たちをこんなにひどい目にあわせておきながら、はずかしく思う人間がいないのだろうか、と。

8. そして、鳥は鳴かず

 「静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように輪を描いてひろがってゆく毒の波」はどこまでひろがっていくのでしょうか。この章では『沈黙の春』の書名ともなった「春になっても鳥が鳴かない」というように、農薬の散布が鳥たちにまで影響を及ぼしていることが解明されます。コマドリやワシなどが例にあげられますが、農薬の散布によって昆虫やミミズが汚染され、それを食べる鳥が残留していた毒で死んだり、生殖能力を失ったり、打撃をうけてしまうのです。鳥は本来昆虫防除という大切な役目を果たしているはずなのです。ところが、昆虫防除のための「農薬スプレーは昆虫ばかりでなく、昆虫の第一の敵、鳥をいためつける、あとになって昆虫が再発生するようなことになれば、それを押さえるべき鳥たちは、もはやどこにもいない」という事態がひきおこされてしまうのです。そして、大事なことは「殺虫剤の害は、それにふれた世代の次の世代になってあらわれる」という事実なのです。

 同じような影響が鳥だけでなく、キツネなど野生生物にも及びます。「死の連鎖をひき起こした者はだれなのか」「たとえ不毛の世界となっても、虫のいない世界こそいちばんいいと、決める権利がだれにあるのか」とカーソンは問いかけています。

10. 空からの一斉爆撃

 これまでの章で指摘されたような被害や影響が次々ではじめていましたが、農薬の大量使用はさらに拡大されました。「死の大雨」といわれるような飛行機を使った空中散布が何の見さかいもなく各地でくりかえされました。とくに、この章ではマイマイガとファイアー・アントというアリの一種を駆除しようとする大量スプレーの事例が検討されます。例えば、ロングアイランドでの例は「畑も、酪農場も、養魚場も、塩沢も、DDTをかぶり、郊外のひろい範囲がスプレーをこうむった。飛行機がこないうちにと、必死の思いで庭の花におおいをかけていた主婦は、びしょぬれになり、遊んでいる子どもたち、駅で電車を待っている通勤者、みんなの上に殺虫剤が降りそそいだ。――鳥、魚、カニ、益虫も、みな殺しだった」とされるようなものでした。同じようなことがどこでも見られる状況で、各地で被害補償をもとめる裁判も行なわれたというのです。カーソン自身も、ロングアイランド住民の訴訟に関心をよせ、原告の訴えが結局却下されたことに憤りを感じていたのです。そのころ、「まえがき」で書かれたハキンズ夫人の手紙をうけとり、ついには『沈黙の春』執筆にむかうことになったのです。

11. ボルジア家の夢をこえて

 殺虫剤の大量使用により水が、土が、野生生物が、そして環境が汚染されるのと同じことが人間にもおきるとカーソンはいうのです。人間だけ例外ということはありえないのです。農薬をあびれば、農夫、散布夫、パイロットなどが急に病気になったり死ぬことがあるように、急性中毒にあうでしょう。さらに、農薬は慢性毒性をもっています。体内に蓄積されていくなかで肝臓や神経系統の障害が発生するかもしれません。有機塩素系農薬も有機リン酸系農薬もそれぞれ害をあたえますが、さらに相乗効果をもつこともあるのです。その他の化学薬品でも、ほかとの組み合わせ次第で、毒性が強まることもあります。知らず知らずのうちに「環境がひどく破壊され、人間はかつて滅んだ恐竜と同じ運命をたどるのではないか。そしてもっと困ることは、最初の徴候があらわれる二十年まえ、あるいはそれ以前にすでに私たちの運命が定められているかもしれない」のです。私たちは「これもみずからまいた種、負担は耐えねばならぬ」といっているわけにはいかないのです。野生生物、環境、そしてほかならぬ人間自身のために、化学薬品の使用をやめることを考えなければならないのです。

12. 人間の代価

 殺虫剤の大量使用により水が、土が、野生生物が、そして環境が汚染されるのと同じことが人間にもおきるとカーソンはいうのです。人間だけ例外ということはありえないのです。農薬をあびれば、農夫、散布夫、パイロットなどが急に病気になったり死ぬことがあるように、急性中毒にあうでしょう。さらに、農薬は慢性毒性をもっています。体内に蓄積されていくなかで肝臓や神経系統の障害が発生するかもしれません。有機塩素系農薬も有機リン酸系農薬もそれぞれ害をあたえますが、さらに相乗効果をもつこともあるのです。その他の化学薬品でも、ほかとの組み合わせ次第で、毒性が強まることもあります。知らず知らずのうちに「環境がひどく破壊され、人間はかつて滅んだ恐竜と同じ運命をたどるのではないか。そしてもっと困ることは、最初の徴候があらわれる二十年まえ、あるいはそれ以前にすでに私たちの運命が定められているかもしれない」のです。私たちは「これもみずからまいた種、負担は耐えねばならぬ」といっているわけにはいかないのです。野生生物、環境、そしてほかならぬ人間自身のために、化学薬品の使用をやめることを考えなければならないのです。

13. 狭き窓より

 人間のからだの一つ一つの細胞がはたらいてこそ、人間は生きているのです。ところが、放射線とともに殺虫剤や除草剤などの化学薬品は、この細胞に重要な変化をひき起こすのです。それは発ガン性であったり、催奇形性であったり、生殖力の減退効果であったりするのですが、いずれも人間の将来にとってきわめて重要なことばかりです。

 カーソンが『沈黙の春』を書くころ、放射線の作用についてはかなり多くの人が知っていました。一九二七年、テキサス大学のマラー博士の研究により、放射線が突然変異作用をもつことが発見され、実際に核兵器の使用または核実験による被害者が出たこともふくめ、放射線の影響については専門家ならずともみんな知るようになっていたのです。その後、エディンバラ大学のシャロット・アウアーバックとウィリアム・ロブソンの手によりイペリットガスが突然変異作用をもつことが明らかにされ、化学薬品の人体への影響の研究もすすみはじめていました。このようななかでカーソンが『沈黙の春』で行なった警告はきわめて重要な意義があったのです。カーソンの指摘は、遺伝学や細胞生理学の関係者につよいインパクトをあたえたにちがいありません。

14. 四人にひとり

 生物の歴史のなかでガンとの戦いは古くからありました。しかし、いまやガンの脅威は恐るべきものになりはじめました。化学薬品のもつ発ガン性が人間に襲いかかっているのです。『沈黙の春』では、ガンをひき起こす作用をもつものとして砒素系殺虫剤、ダニ駆除剤、DDT、カルバメイト系除草剤などがあげられますが、「化学薬品がまいた禍いの種はまだ熟していない」のです。しかし、放射線による影響がはっきりしてきたように、化学物質による影響も次第にはっきりしてくるものとみられます。発ガン性をもつものが蓄積し、濃縮され、相乗効果をあらわしてくる心配があるのです。発ガン性物質をあたりにばらまいたむくいが私たちにはねかえってくるのです。

 カーソンはいいます、「現代の社会から、化学的発癌物質をぜんぶとりのぞけるだろうなどと考えるのは、あまりにも非現実的と思われるかもしれない。だが、その大部分は、私たちの生活に不可欠なものとはかぎらない。それらをとりのぞけば、私たちの上にのしかかる発癌物質の圧力も大幅に減り、四人にひとりがいずれ癌になるという脅威も、少なくとも大幅に弱まるだろう」と。

15. 自然は逆襲する

 人間は自然を自由に変えられると考えているかもしれませんが、たやすくは改造できないのです。昆虫防除のために殺虫剤を大量使用したとしても、昆虫は昆虫で人間の攻撃をかわす方法をあみだしていくのです。人間が化学薬品にたよろうとしたとき、実は二つのことを見落としていたのです。その一つは「自然そのもののコントロールこそ、害虫防除に本当に効果があること」、二つ目には「ひとたび環境抵抗が弱まると、ある種の動物は、爆発的な増殖力を示すということ」です。つまり、自然のなかには、昆虫の世界だけみても、たがいに捕食者となり、被食者となりながら棲息しているのです。ところが、ある昆虫が殺虫剤でみな殺しにあうと、その被食者であった昆虫が爆発的に増えるということがあるのです。これは昆虫にかぎったことではありません。鳥や動物のなかでもあることです。このことを見落として、化学薬品の大量使用をするならば、自然のなかにあったバランスがくずれてしまうのです。この章であつかわれる多くの事実がこのことを証明しているのです。カーソンは、カナダの昆虫学者アルエットの言葉として次のようにのべています。

 「私たちは、考えを変えなければならない。人間がいちばん偉いのだ、という態度を捨て去るべきだ。自然環境そのもののなかに、生物の個体数を制限する道があり手段がある場合が多いことを知らなければならない。そしてそれは人間が手を下すよりもはるかにむだなくおこなわれている」

16. 迫り来る雪崩

 カーソンは、いまや自然のバランスがくずれ、自然の逆襲がはじまろうとしているのではないかと警告します。「昆虫が人間さまにさからうことなんてできるものか――人間がたかをくくってぐずぐずしているうちに、昆虫のほうはおどろくべき速度で、抵抗をくりひろげていった」、駆除したはずの害虫が耐性をもつようになり大量発生する、農業や林業だけでなく人間におそいかかる病害虫も同じようにおさえられなくなる、このような悪循環がはじまっているというのです。

 私たちは選択しなければなりません。もっと強力な殺虫剤をもっと大量に使用するのか、それとも化学薬品にたよることをやめ自然の力をいかすことを考えるのか、どちらの道をとるべきなのかと、いうまでもなくカーソンは「私たちはほかの防除方法を目指して研究にはげまなければならない。化学的防除でなく、生物的防除こそ、とるべき道であろう」と強調しています。

17. べつの道

 「私たちは、いまや分れ道にいる」のです。一方は「禍いと破滅」への道であり、「べつの道」が人間と地球を守る道なのです。いまが最後の、唯一のチャンスなのです。私たちは、私たち自身と、私たちのあとを受け継ぐ子どもたちのために、「べつの道」を選択しなければなりません。

 カーソンは、化学薬品を使った防除方法にかわる生物学的防除方法の可能性について、いろいろな事例をあげています。それらが本当に有効なものになりえたのか、カーソンが『沈黙の春』を書いてから三十年もの歳月が経過してきましたが、なお評価しきれない面が多く残されています。しかし、その可能性を限りなく追求することがいまもとめられているといわねばならないのでしょう。

 「地球環境を守れ」とさかんにいわれる現在、私たちはカーソンの次の言葉を忘れてはなりません。

 「私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない――この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》という認識が終始光り輝いている」という言葉を。